■「朝鮮報国隊」の軌跡 2
韓錫さん(1922年12月生)は、1944年2月17日に「陵水朝鮮報国隊」で、金東赫さん(1920年4月生)は、1944年2月に「陵水朝鮮報国隊隊員病舎」で、金晋鐵さん(1922年5月生)は、1944年6月28日に「陵水朝鮮報国隊」で、崔鍾復さん(1906年2月生)は、1944年7月7日に「陵水朝鮮報国隊隊員病舎」で、李興成さん(1911年9月生)は、1945年10月8日に「陵水朝鮮報国隊作業所」で死亡したと、それぞれの除籍簿に書かれている。
金慶俊さん(1914年10月生)は、1943年11月1日に「石碌朝鮮報国隊隊員病舎」で、朴仕洪さん(1920年3月生は、1943年11月3日に「石碌朝鮮報国隊」で、李之龍さん(李英文さん)は、1943年11月9日に「石碌朝鮮報国隊」で、孫光玉さん(1916年5月生)は、1943年11月30日に「石碌朝鮮報国隊」で、李連綵さん(1918年1月生)は、1944年2月14日に「石碌朝鮮報国隊」で、薛鎮燮さん(1918年10月生)は、1944年2月15日に「石碌朝鮮報国隊」で、李良玉さん(1919年1月生)は、1944年3月19日に「石碌朝鮮報国隊」で、金二龍さん(1916年11月生)は、1944年9月3日に「石碌朝鮮報国隊隊員病舎」で、閔益鎬さん(1917年7月生)は、1944年9月3日に「石碌朝鮮報国隊」で死亡したと、それぞれの除籍簿に書かれている。
金二龍さんと閔益鎬さんは、石碌で同じ日に亡くなっている。「第1次朝鮮報国隊」に入れられた人たちが海南島に到着したのは1943年4月であった。
金慶俊さんも朴仕洪さんも李之龍さんも孫光玉さんも、海南島に連行されてから、わずか7か月前後で命を失わされた。
司空出さん(1916年2月生)は、1944年11月21日に「三亜朝鮮報国隊」で、崔成翊さん(1899年7月日生)は、1945年1月28日に「三亜朝鮮報国隊」で、呉治さん(1900年11月生)は、1945年2月3日分に「海南島三亜朝鮮報国隊隊員病舎」で、徐鳳順さん(1912年1月生)は、1945年2月23日に「三亜朝鮮報国隊」で、愈萬童さん(1914年2月生)は1945年4月5日分に「三亜朝鮮報国隊隊員病舎」で死亡したと、それぞれの除籍簿に書かれている。
「朝鮮村」に埋められている人の名は、まだ、ひとりも明らかになっていない。
キム チョンミ
韓錫さん(1922年12月生)は、1944年2月17日に「陵水朝鮮報国隊」で、金東赫さん(1920年4月生)は、1944年2月に「陵水朝鮮報国隊隊員病舎」で、金晋鐵さん(1922年5月生)は、1944年6月28日に「陵水朝鮮報国隊」で、崔鍾復さん(1906年2月生)は、1944年7月7日に「陵水朝鮮報国隊隊員病舎」で、李興成さん(1911年9月生)は、1945年10月8日に「陵水朝鮮報国隊作業所」で死亡したと、それぞれの除籍簿に書かれている。
金慶俊さん(1914年10月生)は、1943年11月1日に「石碌朝鮮報国隊隊員病舎」で、朴仕洪さん(1920年3月生は、1943年11月3日に「石碌朝鮮報国隊」で、李之龍さん(李英文さん)は、1943年11月9日に「石碌朝鮮報国隊」で、孫光玉さん(1916年5月生)は、1943年11月30日に「石碌朝鮮報国隊」で、李連綵さん(1918年1月生)は、1944年2月14日に「石碌朝鮮報国隊」で、薛鎮燮さん(1918年10月生)は、1944年2月15日に「石碌朝鮮報国隊」で、李良玉さん(1919年1月生)は、1944年3月19日に「石碌朝鮮報国隊」で、金二龍さん(1916年11月生)は、1944年9月3日に「石碌朝鮮報国隊隊員病舎」で、閔益鎬さん(1917年7月生)は、1944年9月3日に「石碌朝鮮報国隊」で死亡したと、それぞれの除籍簿に書かれている。
金二龍さんと閔益鎬さんは、石碌で同じ日に亡くなっている。「第1次朝鮮報国隊」に入れられた人たちが海南島に到着したのは1943年4月であった。
金慶俊さんも朴仕洪さんも李之龍さんも孫光玉さんも、海南島に連行されてから、わずか7か月前後で命を失わされた。
司空出さん(1916年2月生)は、1944年11月21日に「三亜朝鮮報国隊」で、崔成翊さん(1899年7月日生)は、1945年1月28日に「三亜朝鮮報国隊」で、呉治さん(1900年11月生)は、1945年2月3日分に「海南島三亜朝鮮報国隊隊員病舎」で、徐鳳順さん(1912年1月生)は、1945年2月23日に「三亜朝鮮報国隊」で、愈萬童さん(1914年2月生)は1945年4月5日分に「三亜朝鮮報国隊隊員病舎」で死亡したと、それぞれの除籍簿に書かれている。
「朝鮮村」に埋められている人の名は、まだ、ひとりも明らかになっていない。
キム チョンミ