三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「朝鮮報国隊」の軌跡 3

2011年08月31日 | 「朝鮮報国隊」
■「朝鮮報国隊」の軌跡 2
 韓錫さん(1922年12月生)は、1944年2月17日に「陵水朝鮮報国隊」で、金東赫さん(1920年4月生)は、1944年2月に「陵水朝鮮報国隊隊員病舎」で、金晋鐵さん(1922年5月生)は、1944年6月28日に「陵水朝鮮報国隊」で、崔鍾復さん(1906年2月生)は、1944年7月7日に「陵水朝鮮報国隊隊員病舎」で、李興成さん(1911年9月生)は、1945年10月8日に「陵水朝鮮報国隊作業所」で死亡したと、それぞれの除籍簿に書かれている。
 金慶俊さん(1914年10月生)は、1943年11月1日に「石碌朝鮮報国隊隊員病舎」で、朴仕洪さん(1920年3月生は、1943年11月3日に「石碌朝鮮報国隊」で、李之龍さん(李英文さん)は、1943年11月9日に「石碌朝鮮報国隊」で、孫光玉さん(1916年5月生)は、1943年11月30日に「石碌朝鮮報国隊」で、李連綵さん(1918年1月生)は、1944年2月14日に「石碌朝鮮報国隊」で、薛鎮燮さん(1918年10月生)は、1944年2月15日に「石碌朝鮮報国隊」で、李良玉さん(1919年1月生)は、1944年3月19日に「石碌朝鮮報国隊」で、金二龍さん(1916年11月生)は、1944年9月3日に「石碌朝鮮報国隊隊員病舎」で、閔益鎬さん(1917年7月生)は、1944年9月3日に「石碌朝鮮報国隊」で死亡したと、それぞれの除籍簿に書かれている。
 金二龍さんと閔益鎬さんは、石碌で同じ日に亡くなっている。「第1次朝鮮報国隊」に入れられた人たちが海南島に到着したのは1943年4月であった。
 金慶俊さんも朴仕洪さんも李之龍さんも孫光玉さんも、海南島に連行されてから、わずか7か月前後で命を失わされた。
 司空出さん(1916年2月生)は、1944年11月21日に「三亜朝鮮報国隊」で、崔成翊さん(1899年7月日生)は、1945年1月28日に「三亜朝鮮報国隊」で、呉治さん(1900年11月生)は、1945年2月3日分に「海南島三亜朝鮮報国隊隊員病舎」で、徐鳳順さん(1912年1月生)は、1945年2月23日に「三亜朝鮮報国隊」で、愈萬童さん(1914年2月生)は1945年4月5日分に「三亜朝鮮報国隊隊員病舎」で死亡したと、それぞれの除籍簿に書かれている。

 「朝鮮村」に埋められている人の名は、まだ、ひとりも明らかになっていない。
                                             キム チョンミ

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海南島の死「事実知りたい」

2011年08月30日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、きょう(8月30日)の『朝日新聞』朝刊の大阪市内版に掲載された記事です。

■海南島の死「事実知りたい」
 強制労働被害者の妻証言
 日本の植民地時代、朝鮮半島の刑務所の収容者が中国・海南島で強制労働させられたとする問題で、夫が海南島で死亡した韓国人の李康姫(イガンヒ)さん(88)が28日、大阪市内で当時の状況を証言し「夫の最後を知りたい」と語った。
 研究者らでつくる「海南島近現代史研究会」が、同市北区で開いた総会に招いた。
 李さんの夫の韓錫(ハンギソク)さんは1943年ごろ、ソウルの刑務所から海南島へ渡ったとみられ、44年にひとかけらの遺骨が戻った。生後間もなかった長男光洙(クアンス)さん(69)は父親と対面していない。李さんは「息子の写真さえ送れなかったのが悔しい。なぜこんなことになったのか」と声を詰まらせた。
 同研究会は、海南島での聞きとりや元刑務官の手記などから、約2千人が日本軍の飛行場建設や鉱山採掘に当たったと推定。副代表を努める在日朝鮮人2世の金靜美(キムチョンミ)さん=和歌山県海南市=は「数百人から千人近い朝鮮人の遺骨が海南島に眠ると考えられるが、名前もわからない。日韓両政府に資料開示を求め続け、真相を遺族に報告したい」と語った。  (多知川節子)
 【写真】夫への思いを語る李康姫さん(右)と長男の韓光洙(クアンス)さん(左)=大阪市北区
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「朝鮮報国隊」の軌跡 2

2011年08月29日 | 「朝鮮報国隊」
■「朝鮮報国隊」の軌跡 1
 「朝鮮報国隊」は、1943年3月から1年ほどのあいだに、すくなくとも8回組織され、2000人以上の獄中者が、刑期を短縮するなどの条件を示され、朝鮮各地の監獄から、ソウルの刑務所に集められ、そこから、家族に連絡することも許されずに海南島に連行された。
 海南島では、三亜、陵水県三才鎭后石村、陵水県英州鎭大坡村、楽東県黄流鎮白極坡などで飛行場建設をさせられたり、田独鉱山や石碌鉱山で働かされたり、八所で港湾建設をさせられたり、三亜で道路建設をさせられたり、東方市感恩で橋梁建設をさせられた。
 そのときに、多くの人たちが、事故や病気で死亡した。死亡した人のうち、海南島で死亡したことが、故郷の家族に伝えられることもあった。
 採鉱や飛行場建設が中断されてから、そのうちの数百名(あるいは1000人、あるいはそれ以上)が、日本海軍が軍事施設を移転させようとしていた南丁村地域に連行され、道路工事、軍用洞窟開削、などをさせられたのち、1945年夏に虐殺された。
 「朝鮮報国隊」とともに、台湾の刑務所から「台湾報国隊」として、獄中者が強制連行されていた。
 「朝鮮報国隊」に入れられた人やその家族の「申請」を受け、韓国の日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会が「被害認定」した人22人のうち、生きて故郷に戻ることができた人は、高福男さんと呂且鳳さん2人だけである。
 20人のかたがたが死亡した場所は、日本海軍が軍用飛行場を建設していた陵水の「朝鮮報国隊隊員病舎」や「朝鮮報国隊作業所」、日本窒素が鉄鉱石を採掘・略奪していた石碌の「朝鮮報国隊隊員病舎」、日本海軍が軍用飛行場を建設したり道路建設をしていた三亜の「朝鮮報国隊隊員病舎」などであった。
                                       キム チョンミ
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「朝鮮報国隊」の軌跡 1

2011年08月28日 | 「朝鮮報国隊」
■「朝鮮報国隊」、「朝鮮村虐殺」にかんする事実は、日本で隠されつづけている
 海南島三亜市郊外の南丁村には、朝鮮の刑務所から連行されて働かされ、殺された朝鮮人が埋められている。この村の名は、一時期、「朝鮮村」であった。
 「朝鮮村」における朝鮮人虐殺の事実は、当然であるが南丁村やその周辺の住民、虐殺を実行した日本人(日本海軍海南警備府第16警備隊の将兵、朝鮮総督府の法務官僚や刑務官ら)は知っていた。しかし、日本では隠されつづけている。
 三亜に住む羊杰臣さんが1992年に、陳作平さんが1995年に、「朝鮮村」での虐殺にふれた文章を、海南島で発表した。
 1998年3月2日の『朝鮮日報』に、朴雅蘭記者の「中国ハイナン島で韓国人虐殺 1945年」掲載された。これが韓国で発表された「朝鮮村」虐殺にかんするはじめての文章である。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、「朝鮮村虐殺」のことを、1998年春にはじめて、羊杰臣さんと陳作平さんの記述で知り、6月に海南島に行った。この年8月8日~9日に石川県金沢市で開催された第9回朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える交流集会で、紀州鉱山の真実を明らかにする会が「日本の海南島侵略と強制連行・強制労働」と題する報告のなかで「朝鮮村」虐殺にかんして述べ、10月に同会が「海南島 1998年夏――田独万人坑・石碌万人坑・八所万人坑・朝鮮村――」を発表した。これが日本で発表された「朝鮮村虐殺」にかんするはじめての文章である。
 韓国KBS取材班が、同年7月に海南島で、8月に日本で取材し、「朝鮮村」虐殺にかんするドキュメンタリー『海南島に埋められた朝鮮の魂』を制作し、8月31日に放映した。このドキュメンタリー制作に紀州鉱山の真実を明らかにする会が協力した。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、南丁村に「駐屯」していた日本軍部隊にかんする文書を、防衛研究所図書館で見つけたが、「朝鮮村虐殺」に直接的に触れている文書は、発見していない。
 「朝鮮村」で虐殺がおこなわれていたとき「朝鮮村」で刑務官をしていた衣笠一氏は『海南島派遣の朝鮮報国隊始末記』を1990年代末に発表し、2001年に書いた「わが足跡 上」の「陵水時代」の章などで、「朝鮮報国隊」や「台湾報国隊」について記述しているが、「朝鮮村虐殺」については沈黙している。
 かれ以外の日本軍関係者、日本政府関係者、朝鮮総督府関係者は、まったく沈黙しつづけたままである。当時海南警備府第16警備隊司令官であった能美実(1948年10月に「横浜アメリカ合州国軍裁判所」で終身刑宣告)は、1945年の三亜におけるアメリカ合州国軍兵士殺害以外は海南島での犯罪を語ることなく、10年あまり前に死んだ。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は日本政府に「朝鮮報国隊」の名簿の公表を要求しているが、日本政府は、いまなお、探索・公表しようとしていない。
 隠されつづけている「朝鮮報国隊」、「朝鮮村虐殺」にかかわる諸事実を明らかにするためには、聞きとりと「朝鮮村発掘」をおこなうしかない。
 日本政府・日本軍・日本企業の国家犯罪・侵略犯罪にかかわる証拠文書は多くは焼却・廃棄されたか隠されたままである。したがって、その歴史的事実を解明するためには、犠牲者、加害者、目撃者からの聞きとりが重要である。
                                          キム チョンミ
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海南島近現代史研究会第5回総会・第8回定例研究会 進行表

2011年08月27日 | 海南島近現代史研究会
 明日(8月28日)の海南島近現代史研究会第5回総会・第8回定例研究会(主題:海南島における日本の侵略犯罪のいま)の進行時刻表はつぎのとおりです。
 おおくのみなさんの参加をお待ちしています。
 場所は、大阪産業大学梅田サテライト・レクチャーA室(大阪駅前第三ビル19階)です。
 午後1時に開会し、午後5時に閉会する予定です。開場は12時です。
 くわしくは、このブログの8月8日の「海南島近現代史研究会第5回総会・第8回研究会」をみてください。


開会のあいさつ                                     13:00~13:05
紹介 李康姫さん、韓光洙さんを迎えて       斉藤日出治        13:05~13:15

証言 夫は海南島につれていかれた        イ ガンヒ(李康姫)    13:15~13:45
                                  (朝鮮語→日本語→朝鮮語:金靜美)
証言 アボヂの跡を追い続けて            ハン グァンス(韓光洙) 13:45~13:50
                                  (朝鮮語→日本語→朝鮮語:安金花)
質問・討論                                        13:50 ~14 10
                                  (朝鮮語→日本語→朝鮮語:金靜美)
報告 「朝鮮報国隊」の軌跡              キム チョンミ(金靜美)14:10~14:30
質問・討論                                        14:30~14:40

(休憩)                                           14:40~14:50

紹介 杉浦ひとみ弁護士をむかえて          佐藤正人         14:50~15:00
報告 海南島戦時性暴力被害訴訟ののち      杉浦ひとみ        15:00~15:50

全体討論 日本政府・日本企業に侵略犯罪の責任をどうとらせていくか   15:50~16:30

報告 2011年春の海南島「現地調査」報告      竹本昇           16:30~16:50
海南民間抗戦研究会準備会との共同研究・共同調査について

閉会のあいさつ                                      16:50~17:00
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海南島戦時性暴力被害訴訟史(年表) 2

2011年08月26日 | 海南島史研究
2007年5月15日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」、東京高等裁判所で第1回裁判(審理開始)
2007年8月5日 海南島近現代史研究会創立
2007年9月25日 東京高等裁判所で第2回裁判
2007年10月18日 東京高等裁判所で第3回裁判
2008年1月15日 東京高等裁判所で第4回裁判(原告黄有良さん証言)
2008年2月10日 この日発行された海南島近現代史研究会『会報』創刊号に、佐藤正人「海南島戦時性暴力被害訴訟」掲載
2008年5月15日 東京高等裁判所で、第5回裁判
2008年9月 東京高等裁判所で、第6回裁判
2008年12月25日 東京高等裁判所で、第7回裁判(原告陳金玉さん証言。結審)
           陳金玉さんは証言のため海南島を発つ前、「今回日本に行って潔白を証明できるかわからないが、生きている限り、絶対にあきらめない」と新華社の記者に語ったという
           法廷で、証言のおわりに、陳金玉さんは、被告席に座っている3人の日本国の代理人に向かって、日本政府に歴史を直視し事実を認め謝罪し賠償することを求めた
2009年2月10日 この日発行された海南島近現代史研究会『会報』第2号に、杉浦ひとみ弁護士の「10年かかって、私たちは彼女たちに何をしてきたのか」掲載
2009年3月26日 東京高等裁判所で、不当判決(「控訴人の請求を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする」)
           法廷で判決を聞いた陳金玉さんは、判決直後の裁判所門前の集会で、「判決は不服である。死ぬまで闘う」と発言
原告・弁護団上告
           海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団・中国人戦争被害賠償請求事件弁護団、抗議声明
2010年3月2日 最高裁判所第3小法廷(那須弘平裁判長)、上告を棄却し上告受理申立を不受理とする決定
         海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団・中国人戦争被害賠償請求事件弁護団、抗議声明
2010年11月4日~8日 弁護団、裁判結果を報告しに海南島の原告の自宅を訪問(8人の原告のうち、譚亜洞さん、譚玉蓮さん、黄玉鳳さんの3人が亡くなっており、黄有良さん、陳亜偏さん、玉民さん、林亜金さん、陳金玉さんと2010年9月7日に逝去された譚亜洞さんの息子さんに報告)
2011年2月10日 この日発行された『海南島近現代史研究』第2号・第3号に、杉浦ひとみ弁護士の「最高裁判決をまえにして」と「戦いはまだ終わっていない」掲載
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「海南島戦時性暴力被害訴訟」 2

2011年08月25日 | 海南島史研究
■加害将兵の所属部隊と氏名
 日本政府は、アジア太平洋各地で侵略犯罪を直接実行した犯罪集団の部隊名・指揮官名・将兵名をほとんど明らかにしていません。海南島における侵略犯罪の場合も同じです。
 8人の原告を襲ったのは、日本海軍海南警備府第15警備隊の南林地域、保亭地域、加茂地域、祖関地域、田仔地域駐屯部隊の将兵の将兵でした。
 藤橋分遣隊などの構成員にかんして、これまでわたしたちが公開されている旧日本軍文書(『海南警備府戦時日誌』、『海南警備府戦闘詳報』など)のなかで発見できたのは、つぎのような、わずかなことだけです。

 1944年4月の藤橋分遣隊指揮官は、兵曹長横山壽。1944年5月の藤橋分遣隊指揮官は、少尉寺角八十一。当時の藤橋分遣隊部隊員数74人、准士官以上2人、下士官兵37人、巡査補35人。藤橋分遣隊警察隊員数8人、巡査6人、巡査補2人。
 1944年4月の保亭派遣隊指揮官は、少尉寺角八十一、同年5月の保亭派遣隊指揮官は兵曹長横山壽。
 1944年4月の加茂分遣隊指揮官は、二曹田中勝次郎、同年5月の加茂分遣隊指揮官は一曹野尻竹次郎。
 1944年4月、5月の什令分遣隊指揮官は、上曹東川七之助。

 1944年4月・5月の藤橋分遣隊指揮官と、保亭分遣隊指揮官は、入れかわっていますが、兵曹長横山壽や少尉寺角八十一が指揮官であった時期に、黄有良さんは、1944年4月、5月にも、藤橋の「慰安所」に監禁されていました。

■二審開始
 2007年5月15日に、東京高等裁判所で「海南島戦時性暴力被害訴訟」の審理が開始され、9月25日に第2回裁判、10月18日に第3回裁判が開かれました。
 2008年1月15日午後2時から、東京高裁818法廷で、高裁4回目の裁判が開かれました。この日、黄有良さんが海南島から来て証言しました。

■証言する黄有良さん
 黄有良さんの証言を傍聴しようとして、この日東京高裁前には、100人以上の人が集まりました。50枚ほどの聴券が抽選で配られました。
 黄有良さんは黎族で、漢語を話しません。法廷では、黄有良さんの話す黎語を、海南島から同行してくれた胡月玲さんが漢語に通訳し、それを徳永淳子さんが日本語に通訳しました。
 胡月玲さんは、「一位“慰安婦”的血和泪」を書いた人です。
 黄有良さんは、低い声で、静かに、日本軍が何をやったのかを語りました。

■ハイナンNET
 2005年3月16日に林亜金さんと張応勇さんが東京地裁で証言する1か月ほど前、ハイナンNET(海南島戦時性暴力被害者への謝罪と賠償を求めるネットワーク)が組織されました。
 黄有良さんが高裁で証言した2008年1月15日の夕刻、ハイナンNETは報告集会を開きました。
 傍聴できなかった人もふくめ70人あまりが参加したこの集会に来てくれた黄有良さんは、
    「日本政府はきちんと謝罪し、わたしたちの‘潔白’を証明すべきだ。
     こんなに多くの人がわたしたちを支援しているのを知ってうれしい」、
と穏やかな表情で語りました。
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「海南島戦時性暴力被害訴訟」 1

2011年08月24日 | 海南島史研究
 8月28日の海南島近現代史研究会第5回総会・第8回定例研究会で海南島戦時性暴力被害訴訟弁護団の杉浦ひとみ弁護士が、「海南島戦時性暴力被害訴訟ののち」と題する報告をします。
 参考のため、海南島近現代史研究会『会報』創刊号(2008年2月10日発行)に掲載した佐藤正人「海南島戦時性暴力被害訴訟」を2回にわけて連載します。
                                        佐藤正人

■訴訟開始
 住んでいる村に突然侵入してきた日本軍によって、少女の時に日本軍隊性奴隷とされた黄玉鳳さん、陳金玉さん、玉民さん、陳亜扁さんは、黄有良さん、林亜金さん、譚玉蓮さん、譚亜洞さんの8人は、2001年7月16日に、日本国を被告として、「名誉及び尊厳の回復のための謝罪」と「名誉及び尊厳の回復がなされてこなかったことに対する損害賠償」を求めて、訴状を東京地裁にだしました。
 この年11月に、黄有良さんが、東京地裁で開かれた第1回裁判(口頭弁論)で「意見」を述べました。
 その後、原告が出席しないまま裁判が続けられましたが、2005年3月の第9回裁判の場で、原告の林亜金さんと海南島史研究者である張応勇さんが、2006年3月の第14回裁判の場で、原告の陳亜扁さんが証言しました。

■一審判決
 2006年8月、5か月ぶりで再び来た原告の陳亜扁さんが見まもるなかで、東京地裁民事24部の裁判官(矢尾渉、梶智紀、亀村恵子)は、海南島における日本軍の性犯罪事実とその不法性を認定しながら日本政府を免罪し、「原告らの請求をいずれも棄却する」という不当判決をだしました。
 原告と海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団は直ちに控訴し、中国人戦争被害賠償請求事件弁護団は、海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団と共同抗議声明をだし、中華全国律師協会・中華全国婦女聨合会・中国人権発展基金会・中国法律援助基金会・中国抗日戦争史学会は共同抗議声明をだしました。

■『日軍侵陵暴行実録』
 2001年7月に黄有良さんらが日本の裁判に、日本人弁護士24人を代理人として訴状を出す6年半前、1995年2月に発行された『日軍侵陵暴行実録』(政協陵水黎族自治県委員会文史学習委員会編『陵水文史』第7輯)に掲載されている黄有良口述・胡月玲整理「一位“慰安婦”的血和泪」には、
  “黄有良さんの村(架馬村)から40メートルの地点に日本軍は軍営を作った。
   日本兵30人あまりが駐屯した。
   その軍営を拠点にして日本軍は、近くの黎族の村を襲撃し、多くの人を殺し、女性に暴行した……”
と書かれています。
 黄有良さんら8人の原告に危害を加えたのは、海南海軍第16警備隊加茂分遣隊、保亭派遣隊、藤橋派遣隊などに所属する日本兵たちでした。
 海南海軍第16警備隊に所属する日本兵は、1945年には「朝鮮村」でおおくの朝鮮人を虐殺していました(当時の第16警備隊司令は、海軍大佐能美実)。海南警備府第16警備隊が軍事支配ようとしていたのは、ほぼ現在の三亜市、保亭黎族苗族自治県、陵水黎族自治県に相当する地域でした。
 陳亜扁さんが最初に被害を受けた場所は、海南警備府第16警備隊所属祖関守備隊の兵舎(あるいはその周辺)だったと思われます。
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海南島戦時性暴力被害訴訟史(年表) 1

2011年08月23日 | 海南島史研究
1995年8月 張応勇「日軍“戦地服務隊”中的黎族婦女」、政協海南省保亭黎族苗族自治県委員会文史資料工作委員会編9(紀念抗日戦争勝利50周年)
2011年11月 小野寺利孝弁護士ら、初めて海南島を訪問(日本軍に性暴力をうけた被害者から話をきく)
2001年6月 小野寺利孝弁護士、中野比登志弁護士、坂口禎彦弁護士、杉浦ひとみ弁護士が海南島訪問(原告となる8 人の方たちに会い、2日間、話をきかせてもらう)
2001年7月16日 林亜金さん、黄有良さん、陳亜扁さん、陳金玉さん、譚亜洞さん、玉民さん、譚玉蓮さん、黄玉鳳さんら8人、日本国に謝罪と賠償を求める訴訟をおこす(東京地方裁判所に提訴)
2001年11月28日 東京地方裁判所で第1回裁判(原告黄有良さん証言)
2002年3月13日 第2回裁判(弁護団、第2次準備書面をだす)
2002年5月21日~27日 弁護団、海南島訪問(原告の法廷での証言に代わるビデオ収録を目的)
2002年6月19日 第3回裁判(弁護団、第3次準備書面で、“国が戦後の回復措置を執るべき義務の根拠、戦後の回復措置を採らないままの放置が原告らにどのような被害を与えたか”を明確に示す)
2004年2月19日 原告の意思を受けて訴因を変更(戦後だけでなく、戦時中の日本軍の加害行為そのものの責任も追及するため)
2005年2月16日 ハイナンNET(海南島戦時性暴力被害者への謝罪と賠償を求めるネットワーク)創立
2005年3月15日 原告林亜金さんと証人張応勇さん、第9回裁判で証言
           証言の前々日、弁護団と支援者が集まった席で、マスメディアに写真取材を認めていいかどうかなどが議論になったとき、林亜金さんは、「ウェイダー」と言った(「ウェイダー」は、「恐れることはなにもない」という意味の黎語)
2005年4月 担当裁判官3人のうち裁判長ら2人の裁判官が突然交代
2005年6月15日 第10回裁判(裁判官交代後、初めての口頭弁論。新しい裁判官が、弁論中に居眠りをする)
2005年7月20日 第11回裁判
           裁判官の意識を変える必要があるため、原告陳亜扁さんと、日本の海南島侵略の調査をしているキムチョンミさんを証人申請
2005年9月28日 第12回裁判
           ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』(証拠用要約版、紀州鉱山の真実を明らかにする会制作)を、「海南島戦時性暴力事件、甲第33号証」として法廷で上映
2005年11月9日 第13回裁判
           裁判官は、原告陳亜扁さんの証人申請を受理したが、キム チョンミさんの証人申請を却下
2005年12月28日朝5時 張応勇さん永眠
2006年3月8日 第14回裁判(原告陳亜扁さん証言)
2006年3月22日 第15回裁判(結審)
2006年8月30日 東京地方裁判所(裁判長矢尾渉、裁判官梶智紀・亀村恵子)不当判決(「主文 1原告らの請求をいずれも棄却する、 2訴訟費用は原告らの負担とする」)
           原告・弁護団直ちに控訴
           中国人戦争被害賠償請求事件弁護団・海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団共同抗議声明。
           中華全国律師協会・中華全国婦女聨合会・中国人権発展基金会・中国法律援助基金会・中国抗日戦争史学会共同抗議声明
2006年12月 この月発行された『軍縮問題資料』(軍縮市民の会・軍縮研究室発行)に、坂口禎彦弁護士の「中国人慰安婦訴訟・海南島事件」掲載
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これまでの海南島「現地調査」

2011年08月22日 | 海南島史研究
1998年6月 第1回(紀州鉱山の真実を明らかにする会)
2000年3~4月 第2回(紀州鉱山の真実を明らかにする会)
2001年1月 第3回(紀州鉱山の真実を明らかにする会)
2002年3月~4月 第4回(紀州鉱山の真実を明らかにする会)
2002年10月 第5回(紀州鉱山の真実を明らかにする会。韓国挺身隊研究所とともに)
2003年3~4月 第6回(紀州鉱山の真実を明らかにする会。
2003年7~8月 第7回(紀州鉱山の真実を明らかにする会。韓国KBS取材スタッフとともに)
2004年12月~2005年1月 第8回(紀州鉱山の真実を明らかにする会)
                 12月「朝鮮村」で、1月海口で『日本占領下的海南島』上映
2005年9月 第9回(紀州鉱山の真実を明らかにする会)
2006年3月~4月 第10回(紀州鉱山の真実を明らかにする会)
2006年4月~5月 第11回(紀州鉱山の真実を明らかにする会)
            5月2日「朝鮮村試掘」→ 中断
2006年12月~2007年1月 第12回(紀州鉱山の真実を明らかにする会)
2007年5月~6月 第13回(紀州鉱山の真実を明らかにする会)
2007年9月~11月 第14回(紀州鉱山の真実を明らかにする会)
            第1回(海南島近現代史研究会)
2008年3月~5月 第15回(紀州鉱山の真実を明らかにする会)
           第2回(海南島近現代史研究会)
2008年10月~11月 第16回(紀州鉱山の真実を明らかにする会)
             第3回(海南島近現代史研究会)
2009年6月 第17回(紀州鉱山の真実を明らかにする会)
        第4回(海南島近現代史研究会)
2010年6月 第18回(紀州鉱山の真実を明らかにする会)
        第5回(海南島近現代史研究会)
2011年2月~3月 第19回(紀州鉱山の真実を明らかにする会)
           第6回(海南島近現代史研究会)
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