■『うそ・まこと七十余年』
円地文子は、1984年に『うそ・まこと七十余年』と題した自伝を出したが、そこには、1940年から「新体制運動」に積極的に参加していたときのこと、1941年1月~2月に「海軍省派遣の文芸慰問の旅行」をしたときのこと、「日本文学報国会」の女流文学者委員会の委員だったときのこと、1943年10月に「日本文学報国会」の「視察団」の一員として朝鮮に行ったときにおこなったことについては、具体的には何も書いていない。
「日本文学報国会」は、1942年5月につくられた「文学者」の翼賛組織である。
その定款第3条には、
「本会は全日本文学者ノ総力ヲ結集シテ、皇国ノ伝統ト理想トヲ顕現スル日本文学ヲ確立シ、皇道文化ノ宣揚
ニ翼賛スルヲ以テ目的トス」
と書かれており、第4条には、「本会は前条ノ目的ヲ達成スル為左ノ事業ヲ行フ」として、「皇国文学者トシテノ世界観ノ確立」、「文学ニ依ル国民精神ノ昂揚」、「文学ヲ通ジテ為ス国策宣伝」などが列挙されていた。
アジア太平洋戦争開始1年9か月後、1943年8月に東京で開かれた「大東亜文学者決戦会議」で円地文子は次のような発言をしていた。
「今日大東亜のこの決戦下に於いて日本の将兵が大君のため、御国のために生死を超越した見事な働きを
戦線でなして居りますのも、過去三千年の輝かしい伝統を通して、平和の時には我々のうちに眠っているよう
に見えます純潔な大和民族の血潮がこういう非常時の秋に蘇り、逞しく流れていると思われるのでございます」。
その1年後、円地は、『文学報国』(1944年7月20日)に、次のような文書を発表していた。
「サイパン落つの悲報いたる。……しかしこうした日のあることは開戦の大詔を拝した時から覚悟していたこと
である」、
「逝った人々は生きつぐものに己が生命、己が誠を譲って神となりました。その英霊をまさしく負うている限り、
私達はどのような苦難の日にも、よき日本人として生死を越えうるであろう」。
アジア太平洋戦争での日本の敗北は、1944年7月に、アメリカ合州国軍がサイパン島に上陸したときに決定的となった。日本「本土」へのアメリカ合州国軍の大量空爆・上陸の時期がせまってきたので、ヒロヒト・日本政府・日本軍は、戦争目的を、「国体護持」(天皇制維持)に変更した。この時点で、円地文子は、さらに、日本人を戦争継続に煽動した。
アメリカ合州国軍のサイパン島上陸後、ヒロヒト・日本政府・日本軍は、アメリカ合州国軍の「本土」上陸をすこしでも遅らせるために、サイパン島から「本土」にいたる島じま、とくに硫黄島とウルマネシアに大量の軍隊をおくりこんだ。
硫黄島に送りこまれた日本軍兵士・軍属(そのなかには、おおくの朝鮮人がいた)2万数千人のほとんどが死んだ。ウルマネシアでは、10万人の住民が日本軍やアメリカ合州国軍に殺され、9万人の日本軍兵士・軍属・軍夫(朝鮮人)が死んだ。
九州の知覧から「特攻機」に乗って、ウルマネシア海域のアメリカ合州国軍に向かった青年たちがいた。「よき日本人として生死を越えうるであろう」などと空言を公表していた円地文子は、その青年たちの死にも、道義的責任があるだろう。
註:『日本学芸新聞』、「大東亜文学者決戦会議」、『文学報国』での円地の発言は、櫻本富雄『日本文学報
国会 大東亜戦争下の文学者たち』(青木書店、1995年)からの重引である。
佐藤正人