三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

海南島における非軍人日本人の侵略犯罪 3

2012年02月29日 | 海南島史研究

■『うそ・まこと七十余年』
 円地文子は、1984年に『うそ・まこと七十余年』と題した自伝を出したが、そこには、1940年から「新体制運動」に積極的に参加していたときのこと、1941年1月~2月に「海軍省派遣の文芸慰問の旅行」をしたときのこと、「日本文学報国会」の女流文学者委員会の委員だったときのこと、1943年10月に「日本文学報国会」の「視察団」の一員として朝鮮に行ったときにおこなったことについては、具体的には何も書いていない。
 「日本文学報国会」は、1942年5月につくられた「文学者」の翼賛組織である。
その定款第3条には、
    「本会は全日本文学者ノ総力ヲ結集シテ、皇国ノ伝統ト理想トヲ顕現スル日本文学ヲ確立シ、皇道文化ノ宣揚
   ニ翼賛スルヲ以テ目的トス」
と書かれており、第4条には、「本会は前条ノ目的ヲ達成スル為左ノ事業ヲ行フ」として、「皇国文学者トシテノ世界観ノ確立」、「文学ニ依ル国民精神ノ昂揚」、「文学ヲ通ジテ為ス国策宣伝」などが列挙されていた。

 アジア太平洋戦争開始1年9か月後、1943年8月に東京で開かれた「大東亜文学者決戦会議」で円地文子は次のような発言をしていた。
     「今日大東亜のこの決戦下に於いて日本の将兵が大君のため、御国のために生死を超越した見事な働きを
    戦線でなして居りますのも、過去三千年の輝かしい伝統を通して、平和の時には我々のうちに眠っているよう
    に見えます純潔な大和民族の血潮がこういう非常時の秋に蘇り、逞しく流れていると思われるのでございます」。
 その1年後、円地は、『文学報国』(1944年7月20日)に、次のような文書を発表していた。
    「サイパン落つの悲報いたる。……しかしこうした日のあることは開戦の大詔を拝した時から覚悟していたこと
   である」、
    「逝った人々は生きつぐものに己が生命、己が誠を譲って神となりました。その英霊をまさしく負うている限り、
   私達はどのような苦難の日にも、よき日本人として生死を越えうるであろう」。

 アジア太平洋戦争での日本の敗北は、1944年7月に、アメリカ合州国軍がサイパン島に上陸したときに決定的となった。日本「本土」へのアメリカ合州国軍の大量空爆・上陸の時期がせまってきたので、ヒロヒト・日本政府・日本軍は、戦争目的を、「国体護持」(天皇制維持)に変更した。この時点で、円地文子は、さらに、日本人を戦争継続に煽動した。
 アメリカ合州国軍のサイパン島上陸後、ヒロヒト・日本政府・日本軍は、アメリカ合州国軍の「本土」上陸をすこしでも遅らせるために、サイパン島から「本土」にいたる島じま、とくに硫黄島とウルマネシアに大量の軍隊をおくりこんだ。
 硫黄島に送りこまれた日本軍兵士・軍属(そのなかには、おおくの朝鮮人がいた)2万数千人のほとんどが死んだ。ウルマネシアでは、10万人の住民が日本軍やアメリカ合州国軍に殺され、9万人の日本軍兵士・軍属・軍夫(朝鮮人)が死んだ。
 九州の知覧から「特攻機」に乗って、ウルマネシア海域のアメリカ合州国軍に向かった青年たちがいた。「よき日本人として生死を越えうるであろう」などと空言を公表していた円地文子は、その青年たちの死にも、道義的責任があるだろう。
        註:『日本学芸新聞』、「大東亜文学者決戦会議」、『文学報国』での円地の発言は、櫻本富雄『日本文学報
       国会 大東亜戦争下の文学者たち』(青木書店、1995年)からの重引である。
                                                           佐藤正人

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海南島における非軍人日本人の侵略犯罪 2

2012年02月28日 | 海南島史研究

■「海軍省派遣の文芸慰問の旅行」

    「この討伐に尊い汗を――否、血を流した国民が、或いはその子孫が今から何年かの後、この道路が見事に

とりひろげられ、沿道に日本人の施設した文化が美しく華咲くのを見たなら、どのような感慨にうたれるであろう」、
    「私は何度も海南島の討伐道路を自動車で走りながら、軽井沢の高原を思い、伊豆の海岸を思い起した」、
    「こうした従順な、しかし極めて民度の低い民をいかに取扱ったものかについてもこの地で沢山の課題を授
   けられたように思う、しかし、私は今特に黎人の幼稚な生活について大して書く興味をもたない」。

 これは、円地文子(1905年~1986年)という日本人が、『婦人公論』1941年4月号に発表した「海南島の記」のなかの文章である。
 1941年1月から2月にかけて、円地文子は、長谷川時雨、尾崎一雄、熱田優子、宮尾重男、小山勝清、岸上美葵ら10人の団体(団長、古田中博日本海軍大佐)に入って、「海軍省派遣の文芸慰問の旅行」をした。
 1月19日に海口に着いた円地文子らは、海南島侵略日本海軍特務部に1週間宿泊し、周辺の日本軍部隊を「慰問」したあと、軍用車で三亜に行き、さらに軍用車で、「分遣隊」を「慰問」するために保亭に行った。その時のことを円地は、次のように書いている。
    「奥地の山岳地帯に蟠踞している匪賊の討伐に従事する将士の労苦は想像の外と思わねばならぬ」、
    「海軍の設営隊の手で敷設された討伐道路がある。………沿道の一木、一草、一塊の土にも石にも私達の
   同胞の流した血と汗が凝っているのを感じないではいられない」。
 
 「海南島の記」の末部に、円地文子は、
    「私は現在、海南島の開拓に心身を砕いて従事していられる人々のすべてにも本当の意味の美しい文学を
   捧げられたらどんなにか大きい歓びであろうと思わずにはいられない」
と書いている。
 「本当の意味の美しい文学」の「文化的水準」について円地文子は、侵略軍兵士を「慰問」するために海南島に侵入する半年前、1940年8月に、『日本学芸新聞』の「新体制と文学」というアンケートのなかで、
     「ナチスの宣伝映画『最後の一兵まで』に見る文化的水準の高さを新体制と文学という課題の参考に供し
    たいと思います」
と語っていた。

 「海軍省の計畫による海軍の文芸慰問団」の団長として円地文子らと海南島に侵入した海軍大佐古田中博は、1941年4月に、
    「この島の敵匪討伐を一手に引受けて居る陸戦隊の苦心、労苦といふものには全く涙ぐましいものが多く、

感謝に堪えない」、
    「陸戦隊は山の中の第一線に入つて見ても、、実によく道を造つて自動車が通つて居ります」、
と語っていた(古田中博「海南島見たまゝ」、『海之日本』202号、海軍協会、1941年5月)。古田中はまた、
    「海南島の土人達は無学低級の農民で、而もなまけものと来て居るから折角廣い土地を持ちながら食料
   の自給が出来ない程である」、
    「海南島こそは神様が、その開拓を大和民族にのみ残されて居たものと堅く信ずると共に、之れを開発する
   ことは天意に報ゆるものと叫ばざるを得ない」
などとも語っていた(古田中博「海南島見聞記」、『海を越えて』1941年6月号、日本拓殖協会)。
                                                                                           佐藤正人

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海南島における非軍人日本人の侵略犯罪 1

2012年02月27日 | 海南島史研究

 日本人は、軍人としてだけでなく、従軍記者、官僚、企業の要員、警察官、技師、日本語教師、看守、医師、「研究者」、日本軍慰問団員、農業移民、商人、船員、旅館経営者、アヘン栽培人・販売人、僧侶……として海南島で行動していた。
 「移民」として海南島に侵入した日本人は、中国東北部に侵入した日本人と同じく、農民の既耕地を奪いそこに住んでいた人びとをそこで働かせた。日本語教師として海南島に侵入した日本人は、子どもたちに、日本語を学ばせるとともに、「ヒノマル」・「キミガヨ」をおしつけた。
     後藤元宏(三菱合資会社元社員)『南支那海之一大寶庫 海南島』(武道社、1932年10月)。
     菅勇(東亜殖産取締役)『南海の宝庫 海南島』(清水温古堂、1938年9月)。
     千葉燿胤(三井物産株式会社査業課)『海南島の研究』(貿易奨励会、1939年2月)。
     火野葦平(日本軍報道員。陸軍軍曹)『海南島記』(改造社、1939年5月)。
     黒崎義介(従軍画家)『軍艦旗の行くところ 中支・南支・海南島』(フタバ書院、1941年9月)。
     東亜地理調査会編『実用 海南島案内』(日光堂商会〈台北〉、1941年11月)。
     馬場秀次(海南島聯合会主事)『海南島とその開発』(武蔵書房、1941年12月)。
     馬場秀次(海南島農林業聯合会主事)『海南島事情』(拓務省拓南局、1942年3月)。
     長沼依山『海南島の開発者 勝間田善作』(三省堂、1943年)。

■海南島侵略日本企業
 海南島で、日本企業は、日本占領下の海南島に入り込み、資源を略奪し、住民を虐待し、香港、朝鮮、台湾、中国大陸各地から連行した人たちを酷使し、暴行死・事故死・病死・餓死させた。
 日本企業の経済侵略は、日本軍の軍事侵略とむすびついていた。日本企業は、鉱山資源・森林資源・漁業資源を略奪しただけでなく、侵略の基礎構造である飛行場、港湾、道路、橋梁、鉄道、発電ダムなどを整備・新設し、軍需物資を調達した。
 日本企業(熱帯産農産物の事業会社など)は、日本軍の軍事力に支えられて土地を略奪し、コメ、綿花、ゴム、サトウキビ、香料、茶、タバコなどの栽培事業をおこなった。
海南島侵略日本企業のほとんどは、いまも日本国内外で事業を継続しているが、海南島でおこなった侵略犯罪を具体的に、みずから明らかにし、犠牲者に謝罪し、賠償すべきである。

  鉱山業: 日本窒素、石原産業、三菱鉱業。
  金融機関: 台湾銀行、横浜正金銀行、瓊崖銀行。
  農業: 台湾拓殖、三井農林、海南拓殖、日本油脂、明治製糖、塩水港製糖、大日本製糖、日東農林、三共、
     日糖興業、武田薬品、資生堂、塩野義製薬、伊藤産業、南洋護謨、海南産業、海南物産、東台湾珈琲、
     南海興業、スマトラ拓殖、南洋興発、南国産業、梅村商店、南洋起業、深山農園、南国煙草、厚生公
     司(アヘン栽培)。
  林業: 島田合資、王子製紙、台拓海南産業、大共木材、三井農林、南洋興発、海南拓殖、南国産業。
  土木工事: 西松組、清水組、田村組、萩原組、永岡組、東京基礎工業、海南土建、日本鋪道。
  畜産業: 海南畜産(台拓系)、水垣産業、松崎海南工廠。
  水産業: 林兼、海南島水産、拓南産業、西大洋漁業、南日本漁業、東亜水産、大日産業、勝間田商行、日本
       真珠。
  工業: 海南原鉄、日本製鉄、浅野セメント、福大公司、台拓煉瓦、海南セメント、日本硝子工業、海南煉瓦製
     造所、旗山商会、トヨタ自動車、下津燐寸、東亜製薬廠、海南製紙、南国煙草(三井系)、南興公司、三友
     殖産、木村珈琲、海南テグス、東亜塩業、日産化学、島田合資会社製煉所、大日産業。
  運輸業: 大阪商船、南日本汽船、台拓海南産業(自動車部)、開南航運、開南帆船、図南洋行、海南運輸、
     東亜海運、大洋帆船、日東汽船、三井倉庫、石原産業。
  商業: 三井物産、大丸、明治屋、三越、大建産業、海南交易、八興公司、岩井産業、竹腰産業、大建産業、
    萬和公司、建泰公司、日本海南公司、梅村商店、加藤商会、湯浅実業、竹内興業、緒方商店、大南公
    司、安部幸産業、帝国産業、石油聯合、海口地区物資配給有限会社、南興公司(アヘン専売)。
  発電事業: 日窒電業、石原産業、日本製鉄。
  電気通信業: 国際電気通信。
  ホテル業: 日本共立興業、富士屋。
  医院: 同仁会。 
  報道宣伝事業: 海南新聞社、海南迅報社、同盟通信社、開南出版、共栄会、海南文化協会、台湾共栄会。
  研究所: 九州帝国大学熱帯農林研究所、東京帝国大学農学部附属熱帯林業研究所、台北帝国大学南方
       資源科学研究所実験所。

 【証拠文書】

  『海南島産業開発ノ現況ト将来』(海南海軍特務部、1942年6月)。

  「海南島進出会社資金源泉ニ関スル調査」(軍務局、1945年10月10日)。
  「海軍南方交易部会会員名簿」(1945年10月31日現在)。
  「第二十三軍管区善後処理要報資料」(1946年)。
  「海南島金融関係引継書」(海南海軍特務部)。
  「海南島民間関係資産被接収ニ関スル資料」(海南海軍特務部)。
                                                         佐藤正人

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第9回海南島近現代史定例研究集会の報告

2012年02月26日 | 海南島近現代史研究会

 きょう(2月26日)、大阪で海南島近現代史研究会の9回目の定例研究会を開催しました。

 はじめに、「海南島の日本軍占領地域における“日本語教育”」という主題で、海南島で日本語教師をしていた細見(ほそみのぼる)さんに話をしてもらいました。

細見さんは1942年に海南師範学校の第1期生の応募試験を受け、4月に海南島に渡り、海口で6カ月の教育を受けた後、陵水小学校に赴任して、そこで1年半にわたって地元の黎族の130名の子供たちに日本語などを教えました。自分は治安維持会の通報で「襲撃を受け」そうなときは早く帰るなどして難をのがれたが、教師のなかには司令部に連絡に行くときに「攻撃を受けて」死亡した者もいたという話をしました。海南師範学校の関係者で1954年に結成された黒潮会の会員は、1975年から毎年1回、20回にわたって海南島を訪問してきており、細見さんもそのうち5回参加して教え子と面会し交流を続けているそうです。

 細見さんの話に続いて、竹本昇さんが、細見さんのほかに海南島近現代史研究会が聞きとりをした3人の元日本語教師の証言内容を報告しました。それは、海南師範学校1期生だった阿津川俊宏さんが、「日本軍に日本の国旗を揚げるように指示されたが、子供たちから“なぜか”と問われて、自分の判断で掲揚をやめた」と語ったこと、海南師範学校3期生だったYさんが、「敗戦後日本にもどって小学校の教師を勤める中で同和教育にかかわり、差別問題を学ぶことを通して、自分が海南島で日本語を教えたことは差別教育であったことに気付いた」と語ったということなどでした。

 続いて、キムチョンミさんが海南師範学校の設立の経緯と「日本語教育」の意味について報告を行いました。日本海軍海南警備府特務部が島民を「東亜共栄圏確立」のために動員し日本語を「東亜共通語」としようとして海南師範学校を設立し漢語と日本語の教科書を編纂したこと、三亜郊外の「六郷村」では日本人移民の世話をする“使用人”を育てるために日本語学校が開設されていたこと、などが話されました。

 3人の報告の後、細見さんを囲んで討論がおこなわれました。海南師範学校をつくって日本語教育を行ったのは何のためであったのか、という質問に対して、細見さんはアジアの南方政策でもそうだったが、「東亜共栄圏」を築くための政策の一環であったのではないか、と述べました。

 休憩をはさんで、後半は会員の研究報告で、まず、佐藤正人さんが「海南島における非軍人日本人の侵略犯罪」と題して、官僚、警察官、技師、移民、商人、企業家、教師などとして海南島に侵入していた日本人について報告するなかで、アジア・太平洋における日本の非軍人による侵略犯罪にかかわる諸事実を詳細に全体的に明らかにしていく作業を具体的にすすめていく歴史的方法を話しました。また、日本敗戦後にアメリカ合州国軍などによっておこなわれた戦犯裁判において、海南島における膨大な数の住民虐殺についてほとんど裁判がおこなわれなかったことが指摘されました。

 続いて斉藤日出治が「日本人研究者の植民地意識」と題して、海南島占領下で行なわれた日本人「研究者」による数多くの「学術調査研究」(動植物、鉱物資源、土壌、気候、河川、住民生活などの)が日本による海南島の「開発政策」と密接にかかわり、島の鉱物資源、熱帯産農産物、畜産物、労働力を収奪するための政策と連動していたこと、またこの海南島における日本人「研究者」の学術調査研究が台湾の植民地統治の延長上におこなわれたものであること、を報告しました。

この斉藤報告を補足するかたちで、留学生の趙従勝さんが報告し、日本軍が東京帝国大学をはじめとする日本の研究機関、海南島の進出企業、台湾総督府の調査機関にそれぞれ委嘱するかたちで海南島の農業調査を進め、熱帯軍需資源の確保に努めた経緯について説明がありました。

 最後に、現在の海南島の昌江黎族自治県で進められている原子力発電所建設、文昌の衛星発射センターの建設について説明があり、土地を収用して住民を追い出したことが報告されました。また2011年10-11月におこなわれた第20回の海南島訪問の報告と、3月に第21回目の海南島訪問をおこなうことの報告がなされました。

 日本による海南島の軍事占領に教師として直接かかわった人の体験を通して、その歴史的な意味をふりかえることができたという意味で、貴重な研究集会になったかと思います。 

また海南島における日本の戦争犯罪、侵略犯罪を、アジア・太平洋のひろがりのなかで、また軍事占領以前の日本の侵略史全体のなかで考えることの重要性を認識する意味でも、大切な研究集会であったと思います。

                                                                     斉藤日出治

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「紀州鉱山強制徴用慶尚北道朝鮮人の悲劇、慶北道は何をしたか」

2012年02月25日 | 紀州鉱山

 以下は、『경북문화신문(慶北文化新聞)』に2月22日に掲載された記事とその日本語訳文です。
   http://blog.daum.net/siin0122/8746782
                                         佐藤正人
 

■기슈광산 강제징용 경상북도 조선인의 비극, 경북도는 뭘 했나.
 
  일제 강점기 당시 일본 기슈광산으로 강제징용됐다가 억울한 죽음을 당한 한국인 사망자를 추모하기 위한 추도터에 대해 일본당국이 부당과세등 파렴치한 행위를 일삼고 있는 가운데 경북도의회 김창숙 도의원(민주통합당)이 17일 5분발언을 통해 정부와 경북도 차원의 적극적인 입장표명과 함께 강경 대응을 촉구하고 나섰다.
  김의원에 따르면 일본 미에현 구미노시에 소재한 총알 제조용 구리광산인 기슈광산은 1940년부터 1945년까지 강원도와 경기도, 경상북도 등지에서 조선인 1천 300여명이 강제로 끌려가 그 가운데 35명이 사망한 곳이다.
  강제노역자 1천 300명 중 현재까지 주소가 확인된 인원은 727명이며, 이 가운데 본적이 경상북도인 조선인은 63명이다. 하지만 신원확인이 안된 이들을 감안한다면 이보다 훨씬 많은 이들이 강제노역을 받았을 것으로 추정되고 있다.
  이러한 비극이 세상에 알려지면서 일본의 양심적 학자와 시민들이 강제 노역의 진상을 규명하고 희생자 추모사업을 추진하기 위해 ‘기슈광산의 진실을 밝히는 모임’을 결성하고 활동 중에 있다. 특히 이 단체는 기슈광산에서 가혹한 강제 노동 중 사망한 한국인을 정기적으로 추모하기 위해서 추모비 건립계획을 수립하고, 지난 2008년 6월 구마노시와 기슈광산을 운영한 이시하라 산업에 추모비 건립에 협조해 달라고 요청했다.
  하지만 구마노시는 이를 거부하자, ‘기슈광산의 진실을 밝히는 모임’은 모 재일동포로부터 돈을 임차해 2009년 7월 조선인 추모비를 건립했다.
  특히 미에현과 구마노시는 2011년 추모터 부지를 공공성이 없는 사유지로 규정하고, 해당부지에 대해 부동산 취득세 2만 6300엔(한화 약 35만원)과 고정자산세  1만 6200엔(한화 약 21만 7천원)을 각각 부과하는 어처구니 없는 일을 저질렀다.
  반면 구마노시는 당시 광산에 끌려왔다가 사망한 영국인 포로 노동자 16명에 대해서는 희생자 묘지와 추모비를 건립해 주고 매년 위로행사까지 벌이는 등 극히 파렴치한 차별적 행태를 벌이고 있다는 것이 김창숙의원의 주장이다.
  이러한 가운데 기슈광산의 진실을 밝히는 모임은 “해당부지는 조선인 강제 동원 사실을 알리고 역사적 책임소재를 밝히는 공공적 장소‘라고 주장하면서 미에현과 구미노시를 상대로 부동산 취득세와 과세처분 취소 소송을 제기했으나 지난 해 12월 패소했고, 현재 항소 중에 있다.
  김의원은 이와관련 “지난 해 10월 기슈광산의 진실을 밝히는 모임은 강원도의회와 경북도의회에 이러한 사실에 대한 관심과 도움을 요청하기 위해 방문했으나 이후 도 차원의 지속적인 관심과 적극적인 대응책은 마련되지 못하고 있다”고 비판했다.
  김의원은 특히 “ 일제 강제징용으로 억울하게 죽어간 조선인 강제노동자들의 진실규명과 일본 정부의 역사왜곡에 대해 정부는 물론 경북도 차원에서 지속적인 문제제기와 강경대응방안을 마련해 한다”고 지적하고 “ 이러한 노력들이 억울하게 고통을 당한 우리 선조들의 넋을 위로하고 왜곡된 역사의 진실을 규명하는 가장 기본적인 단초가 될뿐더러 지금도 일본 현지에서 강제동원의 역사적 책임을 묻기 위한 일본의 양심적 학자와 시민들의 악전분투에 큰힘이 될 것”이라고 주장했다.
  김의원은 또 “ 기슈 광산에 강제징용된 우리 선조가 1천 300여명에 이르고, 이중 적어도 경상북도의 선친들도 수백여명에 이르지만 실제로 이분들에 대한 기본적인 인적사항 조차 파악하지 못하고 있다”지적하고 “ 강제 징용으로 끌려가 선조들이 살았던 해당 지방자치 단체 차원에서 강제징용 현황 및 기초조사 작업만이라도 조속히 이루어지도록 하는 작업들은 후손들이 해야 할 소명이면서 책무임을 잊어서는 안된다”고 주장했다.
 

■紀州鉱山強制徴用慶尚北道朝鮮人の悲劇、慶北道は何をしたか

 日帝強制占領期に、日本紀州鉱山に強制徴用され悔しい死にいたった韓国人死亡者を追慕するための追悼の土地に対して日本当局が不当課税など破廉恥な行為をおこなっているなかで、慶北道議会キムチャンスク道議員(民主統合党)が、17日に5分発言を通じて、政府と慶北道次元での積極的な立場表明と強硬対応することを促求した。
 キム議員によれば日本三重県熊野市に所在した弾丸製造用銅鉱山の紀州鉱山は、1940年から1945年まで江原道と京畿道、慶尚北道などから朝鮮人1300人余りが強制的に連行されて行き、その中の35人が死亡したところだ。
 強制労働者1300人のなかで現在までに住所が確認された人員は727人で、そのうちで本籍が慶尚北道の朝鮮人は63人だ。だが、身元確認できない人を勘案するならばこれよりはるかに多くの人々が強制労働をさせられたと推定されている。
 このような悲劇が世の中に知らされながら日本の良心的学者と市民が強制労働の真相を糾明して犠牲者追悼事業を推進するために‘紀州鉱山の真実を明らかにする会’を結成して活動中である。 特にこの団体は紀州鉱山で苛酷な強制労働中死亡した韓国人を定期的に追慕するために追悼碑建設を計画して、去る2008年6月に熊野市と紀州鉱山を運営した石原産業に追悼碑建設に協力してくれと要請した。
 だが、熊野市はこれを拒否して、‘紀州鉱山’はある在日同胞からお金を借りして2009年7月に朝鮮人追悼碑を建設した。
 特に三重県と熊野市は、2011年に追悼碑の敷地を公共性がない私有地と規定して、該当敷地に対して不動産取得税2万6300円(韓貨約35万ウォン)と固定資産税1万6200円(韓貨約21万 7千ウォン)を各々賦課するいうとんでもない問題を起こした。
 反面熊野市は当時鉱山に連れられてきて死亡した英国人捕虜労働者16人に対しては犠牲者墓地と追悼碑を建設して毎年慰労行事まで行うなどきわめて破廉恥な差別的形態を行っているということがキムチャンスク議員の主張である。
 このような中で、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、“当該敷地は朝鮮人強制動員という事実を知らせて歴史的責任の所在を明らかにする公共的場所‘であると主張し、三重県と熊野市を相手に不動産取得税と課税処分取り消し訴訟を提起したが、昨年12月に敗訴し、現在控訴中である。
 キム議員はこれと関連して、“昨年10月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、江原道議会と慶北道議会にこのような事実に対する関心と助けを要請するために訪問したが、以後も慶尚道次元での持続的な関心と積極的な対応策は用意されずにいる”と批判した。
 キム議員は特に“日帝強制徴用で悔しく死んでいった朝鮮人強制労働者らの真実糾明と日本政府の歴史わい曲に対して政府はもちろん慶北道次元で持続的な問題提起と強硬対応方案を用意しなけれればならない”と指摘し、“このような努力が悔しく苦痛にあった私たちの先祖の魂を慰労してわい曲された歴史の真実を糾明する最も基本的な端緒になるだけでなく今でも日本現地で強制動員の歴史的責任を問うための日本の良心的学者と市民らの悪戦奮闘に大きな力になるだろう”と主張した。
 キム議員はまた、“紀州鉱山に強制徴用された私たちの先祖が1300人余りに達して、この中で少なくとも慶尚北道の祖先らも数百人余りに達するが、実際にこの方々に対する基本的な人的事項さえも把握できずにいる”と指摘し、“強制徴用されていった先祖が生きていた当該地方自治団体次元で強制徴用実態および基礎調査作業だけでも早くおこなうようにすることは子孫がしなければならない天の命令であり責務であることを忘れてはならない”と主張した。

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韓国慶尚北道に

2012年02月24日 | 紀州鉱山

 きょう(2月24日)、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、韓国慶尚北道議会議長に、つぎのような書面を送りました。

■경상북도의회 의장님 귀하
  일본 식민지하 조선으로 부터 일본 미에현(三重縣)에 있는 기슈(紀州)광산으로 강제연행된 조선인의 역사를 조사하고 있는 기슈광산의 진실을 밝히는 회입니다.
  기슈광산의 진실을 밝히는 회는 1997년2월 미에현(三重縣)에서 재일한국인과 일본인에 의해 형성되었습니다.
  이번에 경상북도 의회에서 기슈광산에서 돌아가신 조선인을 추도하는 비석을 건립한 부지에의 미에현(三重縣)과 구마노시(熊野市)의 과세에 대한 항의의 서명활동, 또한 기슈광산 현지방문이 동찬을 얻은 것에 감사합니다. 그리고 그것을 실현하기 위해  노력해 주신 의원 여러분께 깊이 감사합니다.
  몇 가지 자료를 종합하면 조선으로 부터 기슈광산으로는 1300여명이 강제 연행된 것으로 생각됩니다. 기슈광산을 경영하고 있었던 이시하라산업(石原産業)은 1946년에 기슈광산으로 강제 연행한 조선인 729인분의 명부를 작성하고 있는데 그것에 의하면 경상북도에서는 강원도 545명, 경기도 97명의 다음으로 많고 63명이 강제 연행되고 있습니다.
  기슈광산지역에서 돌아가신 분들 가운데 조선인임이 밝혀진 분은 현 단계에서는 35분이며 그 중 본적이 확인된 분은 8분이며 그 중 경상북도 출신은 千炳台씨(안동군 출신), 李白洛씨(군위군 출신)의 두분입니다.
  기슈광산의 진실을 밝히는 회는 경상북도 의회 의원 여러분께서 기슈광산에서 돌아가신 조선인의 추도비를 방문하여 그 부지에 미에현(三重縣)과 구마노시(熊野市)가 과세하고 있는 것의 부당성과 불법성을 검증해 주시기를 요청합니다.  
  경상북도 의회 의원 여러분께서 35분의 「추도의 장소」를 방문한다는 것은 가족과 고향에서 떼어 놓아져 고된 강제노동 끝에 타향에서 돌아가신 수 많은 조선인 한사람 한사람의 역사를 다시금 지금 사는 우리에게 상기시킴과 동시에 그들을 역사에 자리잡게 하는 뜻을 가지게 된다고 믿습니다.

     2012년2월24일        기슈광산의 진실을 밝히는 회


■慶尚北道議会議長さま
  日本植民地下の朝鮮で、日本の三重県にある紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の歴史を調査している紀州鉱山の真実を明らかにする会です。
  紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1997年2月、三重県で、在日韓国人と日本人によってつくられました。
  こんかい、慶尚北道議会で、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立した土地への三重県と熊野市の課税にたいする抗議の署名活動、そして、紀州鉱山への現地訪問が賛同をえましたことに、感謝します。そして、そのために努力してくださった議員の方がたに、深く感謝します。
  いくつかの資料を総合すれば、朝鮮から紀州鉱山へは、1300人余りが強制連行されたと思われます。紀州鉱山を経営していた石原産業は1946年に、紀州鉱山に強制連行した朝鮮人729人分の名簿を作成していますが、それによれば、慶尚北道からは、江原道545人、京畿道97人についで多く、63人が強制連行されています。
  現在、紀州鉱山地域で亡くなった方がたのうち、朝鮮人であることが明らかになった方は35人で、うち本籍が確認できる方は8人、うち慶尚北道出身は、千炳台氏(安東郡出身)、李白洛氏(軍威郡出身)のおふたりです。
  紀州鉱山の真実を明らかにする会は、慶尚北道議会議員のみなさんが、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑をおとずれ、その土地に三重県と熊野市課税していることの不当性・不法性を検証されることを要請します。
  慶尚北道議会議員の方がたが35人の「追悼の場」を訪問されることは、家族と故郷から引き離され、辛い強制労働のはてに異郷で亡くなった、数知れない朝鮮人ひとりひとりの歴史を、あらためて、いま生きる人たちに思い起こさせ、歴史に位置づける意味を持つことになると信じます。

   2012年2月24日        紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「慶尚北道、日帝紀州鉱山真相究明促求」

2012年02月23日 | 紀州鉱山

 以下は、韓国慶尚北道が発行しているインターネット新聞『프라이드뉴스』に、きょう(2月23日)掲載された記事と、その日本語訳文です。
  http://news.gyeongbuk.go.kr/main/php/index.php?pageCode=articleView&idx=8951
                                                                                                           佐藤正人

■경북도, 일제 기슈광산 진상규명 촉구
      김창숙 도의원 발언 관련 지원위에 피해조사 건의
 
  경상북도가 일제강점기 당시 한국인 1천여명을 강제노역에 시달리게 한 일본 기슈광산에 대한 진상규명을 공식 촉구하고 나섰다.
  경북도는 지난 17일 진행된 김창숙 도의원의 ‘기슈광산 강제동원 희생자 진실규명 및 강경대응 촉구’에 관한 5분 발언과 관련, 지난 22일 대일항쟁기강제동원피해조사및국외강제동원희생자등지원위원회에 기슈광산 피해 조사를 건의했다고 밝혔다.
  기슈광산은 일본 미에현 구마노시에 있다. 1940년부터 1945년까지 강원, 경기, 경북지역을 중심으로 한국인 1천여명이 이곳에서 강제노역에 시달리다 35명이 사망했다.
  그 이후 국민적 관심을 받지 못하다가 1990년 일본의 양심 있는 학자들과 시민들로 구성된 ‘기슈광산의 진실을 밝히는 모임’에서 강원도와 경북 지역 피해자를 직접 조사하고 2010년 3월 추모비를 건립하면서 한국인의 슬픈 역사가 알려지게 됐다.
  김장수 경북도 자치행정과장은 “일제강제동원의 진실규명과 역사적 진실을 밝히기 위해 적극 관심을 갖고 행정적 지원을 아끼지 않을 것”이라며 “대일항쟁 희생자와 피해자들에게 위로금이 조속히 지급될 수 있도록 최선을 다할 계획”이라고 말했다.
  앞서 김창숙 의원은 지난 17일 “기슈광산에 강제징용된 우리 선조에 대한 기본적인 인적사항 조차 파악하지 못하고 있다”며 “우리 스스로 깊이 자성하며 강제징용으로 끌려간 선조들이 살았던 해당 지방자치단체 차원에서 강제징용 현황 및 기초조사 작업만이라도 조속히 이뤄져야 한다”고 주장했다.
  경북의 ‘대일항쟁기국외강제동원희생자등지원사업’은 2008년부터 지난 2월까지 대일항쟁기국외강제동원희생자 위로금 등 지급 신청을 접수 받아 84회에 걸쳐 8천634건을 지원위원회에 송부했다.
  이 가운데 사망자 1천13건, 행방불명자 238건, 부상자 441건, 생존자 2천704건, 미수금 피해 1천566건 등 총 5천962건(신청대비 69.1%)에 대해 250억 2천만원 정도의 보상결정이 이뤄졌다. 


■「慶尚北道、日帝紀州鉱山真相究明促求」
  キムチャンスク道議員発言関連支援委に被害調査建議
 
  慶尚北道が日帝強制占領期に韓国人1千人余りが強制労働に苦しめられた日本紀州鉱山に対する真相究明を公式に促求した。
  慶尚北道は去る17日におこなわれたキムチャンスク道議員の‘紀州鉱山強制動員犠牲者真実糾明および強硬対応要求’に関する5分発言と関連して、去る22日に、対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会に紀州鉱山被害調査を建議したと発表した。
  紀州鉱山は日本三重県熊野市にある。 1940年から1945年まで、江原、京畿、慶北地域を中心に韓国人1千人余りがここで強制労働に苦しめられ、35人が死亡した。
  その後国民的関心を受けることがなかったが、1990年に日本の良心ある学者らと市民らで構成された‘紀州鉱山の真実を明らかにする会’で江原道と慶北地域被害者を直接調査し、2010年3月追悼碑を建設して韓国人の悲しい歴史が知らされることになった。
 キムジャンス慶尚北道自治行政課長は、“日帝強制動員の真実糾明と歴史的真実を明らかにするために積極的に関心を持って行政的支援を惜しまないこと”としながら“対日抗争犠牲者と被害者らに慰労金が早く支給されるように最善を尽くす計画”と話した。
  それに先立ってキムチャンスク議員は、去る17日、“紀州鉱山に強制徴用された私たちの先祖に対する基本的な人的事項さえも把握できずにいる”として、“私たち自ら深く自省して強制徴用されて行った先祖が生きていた当該地方自治体次元で強制徴用実態および基礎調査作業だけでも早くなさなければならない”と主張した。
 慶北の‘対日抗争期国外強制動員犠牲者等支援作業’は、2008年から去る2月まで対日抗争国外強制動員犠牲者慰労金などの支給申請を受付けて、84回にわたって8634件を支援委員会に送付した。
  このなかで死亡者1013件、行方不明者238件、負傷者441件、生存者2704件、未収金被害1566件など、総5962件(申請対応69.1%)に対して250億 2千万ウォンほどの補償決定がなされた。

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韓国慶尚北道議会で

2012年02月22日 | 紀州鉱山
 韓国慶尚北道議会で、キムチャンスク議員が、2月17日に、紀州鉱山の追悼碑について発言したという連絡がありました。発言の要旨は、「紀州鉱山韓国人死亡者追悼の土地への課税(熊野市)にたいする慶尚北道次元での立場の表明と強硬な対応、および紀州鉱山強制徴用実態および基礎調査促求」でした。キムチャンスク議員の発言を受けて、署名を集めること、議員団の現地訪問などが、慶尚北道議会で賛同されたとのことです。紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員2人が、昨年10月6日に慶尚北道議会の議員のみなさんに会い、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する場への課税問題などについて話し合いました。キムチャンスク議員は、そのとき出会った議員の1人です(このブログの2011年10月6日の「2011年秋、韓国で 1」および10月12日の「2011年秋、韓国で 5」をみてください)。         佐藤正人
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「広東裁判」・「香港裁判」 20

2012年02月21日 | 海南島史研究

 18世紀後半以後に限っても、イギリス、オランダ、フランス、日本、アメリカ合州国、ベルギー、ドイツ、イタリア、スペイン、ポルトガル、ロシア…は、アジア太平洋、アフリカ、アラブ……の各地で侵略犯罪をくりかえしていました。侵略はしばしば戦争という手段でおこなわれました。戦争犯罪は侵略犯罪の軍事的形態でした。
 戦犯裁判は、主として戦争犯罪にかかわる裁判であって、侵略犯罪のすべてにかかわる裁判ではありません。
 これまで、侵略犯罪総体にかかわる裁判はおこなわれたことはありません。
 1945年8月14日の敗戦後、国民国家日本は、台湾、朝鮮……を植民地支配できなくなりましたが、それまでの侵略犯罪にたいする責任を全面的にとろうとしませんでした。
 その後、現在にいたるまで、日本国家は、他地域・他国侵略の歴史的責任を積極的にとろうとせず、他地域・他国侵略犯罪の犯罪者、他地域・他国侵略戦争犯罪者を特定しようとしてきませんでした。
 中国では「漢奸」が、韓国では「親日派」が、日本の侵略に積極的に協力したとして糾弾されてきましたが、日本では他地域・他国侵略を主導した日本人が日本人によって組織的に持続的に糾弾されることはほとんどありませんでした。
 日本敗戦直後、1945年8月17日に大日本帝国の首相兼陸軍大臣となった東久邇稔彦は、8月28日に記者会見で、
    「国体護持ということは理屈や感情を超越した固いわれわれの信仰である。……この際私は軍官民、国民全体が徹底的に反省し、懺悔しなければならぬと思ふ、全国民総懺悔することがわが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩と信ずる」と厚顔な発言をしました。
 その後、「一億総懺悔」というコトバがマスメディアなどで宣伝されました。
                                                          佐藤正人

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「海南師範学校」 16

2012年02月20日 | 海南島史研究

 きょう(2月20日)午後、海南島近現代史研究会の会員4人が、滋賀県近江八幡市に住む阿津川俊宏さんを訪ねました。 
 阿津川さん(1926年5月生)は、海南師範学校3期生だった人です。海南師範学校については、このブログに2008年9月9日に掲載した「『海南島三省連絡会議決議事項抄録』 6」、2011年7月15日~8月21日、2012年2月5日に掲載した「「海南師範学校」(1~15)」をみてください。
 阿津川さんは、つぎのように話しました。

 “八日市中学校を卒業する1944年のはじめに、海南師範学校の入学試験を京都で受けた。
 海軍に入れば兵隊にいかなくてもよい。滋賀県では兵隊に徴集されると敦賀の部隊に入れられて北の寒いところに行かされる。このあたりの者はみんな満州に行かされる。南の海南島にいけば寒くないし兵隊にいかなくてもいいと考えて試験を受けた。
 八日市中学校からは、わたしと塚本の2人が合格した。塚本は早く死んだ。
 1944年3月に九州の八幡製鉄のなかにあった海軍連絡所に集まって、門司沖から出る輸送船団に乗って沿岸ぞいに海南島に向かった。
 途中台湾に寄って、三亜に着いた。三亜港は日本海軍の軍港だった。
 三亜から海口に行って、師範学校に入学した。海南海軍特務部政務局第3課海軍理事生としてだった。4月はじめだった。生徒は100人だった。
 そこで、海南語などを勉強した。銃の使い方も習った。
 6か月の特訓のあと、海口から海軍のトラックで陵水に行って、陵水小学校の教師になった。東京から来た押尾忍といっしょだった。
 陵水は、海南海軍第16警備隊陵水派遣隊の警備地区だった。
 校舎はレンガづくりで、2階が教員の宿舎になっていた。
 日本人教師は、わたしと押尾の2人。中国人教師が5人いた。みんな海南島の人だった。
 名まえは、ようじゅたく、こうかいめい、おうしょうへい、たんとくちん、ちょうこくきん。
 こうかいめい、おうしょうへいは女性だった。みんな年は若かった。若いといってもわしらよりは上だったが。
 こうかいめいには、戦後海南島に行ったときに会った。最近亡くなった。押尾も死んだ。
 校長は台湾からきていた日本人だった。名まえは覚えていない。台湾に長いこと住んでいて先生をしていたようだ。
 自分は子どもたちに日本語を教えることに使命感のようなものはなかった。
 近くに台湾拓殖の農場があった。農作物を日本軍におさめていた。その農場から生徒が2人かよっていた。 
 1945年3月になると戦況が悪くなって、郊外の山麓に日本軍が食料貯蔵用の横穴をつくりはじめた。
 掘ったのは、みんな地元の人たちだ。日本軍の分遣隊が警備をしていた。
 わたしも、そこに行って警備をしたことがある。銃をもっていたが、撃ったことはなかった。
 陵水に慰安所があった。女性は台湾人だった。日本人がいたかどうかはわからない。朝鮮人がいたかもしれない。
 慰安所にいた女性は5人くらいだった。
 台湾人の女性は見たことがある。
 毎日アルミニウムのバッカンに入れて食料(コメや肉など)を軍隊の建物から、2~3人の女性が慰安所に運んでいた。
 わたしたちの食料も軍の建物から運んできた。
 運んだのは、給仕だった。給仕は、男もいたし女もいた。
 水も給仕が井戸から運んだ。洗濯も給仕にしてもらった。
 給仕は残飯でくらしていた。お金をもらわないで……。
 学校の先生は、兵士より扱いがよかった。わたしは、給料を軍票でもらった。
 日本の両親には手紙を書いたことはあったが、仕送りをしたことはなかった。
 1945年4月に徴兵され、陵水から海口に行き、海口から雷州半島に行った。
 雷州半島から広州に行く途中で日本の敗戦を知った。
 1946年4月に海南島の海口に戻され、海口から日本に戻った。そのときの船は大きかった。
 着いたのは浦賀だった。日本兵ばかりで一般人はいなかった。
 政府から浦賀で家にもどる旅費をもらったように思う。
 陵水小学校にいるとき、あいつら(日本軍)、日本の国旗を揚げよといった。
 子どもたちが、なんで上げんならんと言った。子どもたちは、どうして日本の国旗を揚げるのかと聞いた。
 日本軍は、東方遥拝もやるように言ってきた。
 子どもたちが東方に誰がいるのかと聞いたので、返答に困った。
 わしは、東からお日様がでるから拝むのだと言った。
 天皇がおるからだと言っても子どもたちが解るわけがない。
 子どもに東方遥拝の意味が解るわけがない。子どもたちは、反抗しないヨ。子どもは正直だ。
 だから、自分の判断で東方遥拝をやめた。いっしょにいた教師はなにも言わなかった。
 校長がくる前だ。校長は東方遥拝をやめたことを知らない。
 自分は、東方遥拝をやっていた。
 軍隊はなにも言わなかった。あのときは軍隊はそこまでの元気がなかった。
 負けいくさ、だったから。
 負けいくさだったことは、だいたいわかっていた。戦争に勝つとはあまり思っていなかった。
 子どもたちが、日本がどこどこで負けた……と教えてくれた。子どもたちは、戦況をよく知っていた。
 子どもたちは、なついてくれた。
 わたしも、日本が勝つとはあまり思っていなかった”。


 阿津川さんが陵水にいたころ、陵水の近くの后石村で日本海軍が飛行場(現、中国空軍の陵水飛行場の近く)を建設をしており、、「朝鮮報国隊」や「台湾報国隊」の人たちが働かされていました(このブログの2009年10月14日~17日の「パランオッ・藍色衣服・青い服」2~5、2009年10月14日2010年11月1日の「「台湾報国隊」について1」などをみてください)。
 そのことについて阿津川さんに訊ねましたが、なにも知らないとのことでした。
 阿津川さんは、糖尿病が悪化し、目がよく見えなくなり、足も不自由になっていました。
 耳も聞こえにくくなっていましたが、大きな声で話すとわかってくれました。
 ベッドのそばで、1時間半もの間、話を聞かせてもらいましたが、熱心に話してくれました。
 最後に、いま聞いたことを阿津川さんの名を出して公表してもいいか、とたずねました。
 阿津川さんは、即座に、いい、と言いました。
                                                        佐藤正人

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