三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「<紀州鉱山>徴用犠牲者を追悼…市民集会に民団三重から初参加」

2017年12月05日 | 紀州鉱山
http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=12&newsid=24023
『民団新聞』 2017.11.29
■<紀州鉱山>徴用犠牲者を追悼…市民集会に民団三重から初参加

【写真】墓標のかわりとなる35個の石に献花し献杯

【三重】第2次大戦中、紀州鉱山に徴用され、亡くなった同胞を追悼する第10回目の市民集会が19日、熊野市内の碑前で営まれた。主催は1992年に発足した「紀州鉱山の真実を明らかにする会」。
 今回初めて民団三重本部(殷慶基団長)から殷団長をはじめとする代表11人が参列した。
 同会による13年間にわたった調査によれば、現場で過酷な労働を強いられた同胞は少なくとも1000人以上。このうち家族も含めて35人の死亡を確認したという。10年3月には現場近くに追悼碑を建立した。
 碑の前には死亡者の名を記した35個の小さな石が置かれている。参列者はその一つひとつに献花して献杯した。
 民団関係者は18日、1926年に木本町(現熊野市)で住民の襲撃を受けて死亡した李基允さん(当時25)と裵相度さん(同29)を追悼する集会にも参列した。


http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=3&newsid=11825
『民団新聞』 2009.9.30
■強制労働の記憶、碑に 紀州鉱山
 同胞・市民が来春建立 三重県熊野市
【三重】県南部の熊野市紀和町の紀州鉱山(石原産業経営、78年閉山)に強制動員され、亡くなった同胞を追悼する碑の建立計画が現地で進んでいる。中心となっているのは、10年ほど前から事実の掘り起こし作業を進めてきた市民団体「紀州鉱山の真実を明らかにする会」。賛同団体には地元の民団三重本部(申載永団長)も加わっている。
 1940年から日本の敗戦までに紀州鉱山で苛酷な労働を強いられた同胞は1000人を超す。紀和町の慈雲寺本堂に置かれている『紀州鉱業所物故者霊名』によれば、犠牲になった同胞は名前が明らかになっているだけでも32人に上る。
 同会は6日、県教育文化会館で第2回集会を開き、来春の碑建立計画を発表した。報告によれば「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会」を発足させたのは昨年8月のこと。今年7月には碑を建立するための土地200坪を入手し、来年3月28日に除幕を予定している
 建立する会の関係者は「当時、強制労働で亡くなった英国人捕虜16人の追悼式は毎年行われており、町史にも記載されている。だが、同じ強制労働で亡くなった朝鮮人にはなにもされていない」と訴えた。
 民団の窓口となっている伊賀支部の申載三支団長も、「亡くなった人のためにも、紀州で何があったのかを市史に記載していかなければならない」と語った。
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「朝鮮人労働者の冥福祈る 旧紀州鉱山 追悼集会に50人」

2017年11月25日 | 紀州鉱山
『毎日新聞』2017年11月20日朝刊 熊野版   汐崎信之 
■朝鮮人労働者の冥福祈る 旧紀州鉱山 追悼集会に50人
 第二次世界大戦までに旧入鹿村(現熊野市紀和町板屋)の旧紀州鉱山で働き、亡くなった朝鮮人労働者と家族計35人を追悼する集会が19日、同町板屋の朝鮮人追悼碑前であった。10回目の式には約50人が参列し、一人一人の名が記された石に赤いカーネーションなどを献花し、冥福を祈った。
 2007年にできた「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会」主催。追悼式は08年に始まり、碑は10年に建てた。同会の調査で同鉱山で1300人以上の朝鮮人が働き、経営していた会社の労組名簿や地元の寺の記録から亡くなった35人の名が判明した。
 式では、同会代表者の金靜美(キムチョンミ)事務局長はじめ、栃木や大阪などの在日の朝鮮人と中国人、支援者らがろうそくに点火した。
 会設立時からのメンバーで伊賀市下郡の竹本昇さん(67)は、「参列者が増え、運動の広がりを感じる。侵略、植民地支配の事実確認を進めたい」と話した。
 
【写真】朝鮮人追悼碑に献花する参列者=熊野市紀和町板屋で   

                    

『中日新聞』2017年11月21日朝刊 くろしお版   木造康博
■戦中の歴史 記憶する  紀和 朝鮮人労働者を追悼
 熊野市紀和町の旧紀州鉱山で戦時中に労働を強いられたとされる朝鮮人労働者を追悼する集会が十九日、同町板屋の追悼碑前であった。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会(和歌山市海南市)が催し、メンバーや在日の朝鮮人ら五十人が参加。死亡者の名が記された自然石にカーネーションなどを献花したり、日本酒を注いだりして冥福を祈った。
 同会によると、鉱山で働いていた朝鮮半島出身の労働者は約千三百人で、家族を含め亡くなった三十五人の名が分かっているという。事務局の佐藤正人さん(七五)は「名前の分らない人が数多くいる。日本の侵略の歴史を明らかにしていきたい」と話した。

【写真】献花したり日本酒を注いだりする参加者=熊野市紀和町板屋で
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10回の集いにいたる道 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する

2017年11月09日 | 紀州鉱山
■紀州鉱山の真実を明らかにする会ができるまで
 1988年9月11日に、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の第1回準備会が開かれた。翌1989年1月28日と29日に、準備会は、はじめて熊野市を「現地調査」した。
 その後、わたしはほとんど毎月1回、車で熊野に通った。熊野に行くとき、当時は山を越え、あるいはふもとを回り、川の流れにそって蛇行する谷間の道を走った。
 途中現れる地名は、かつて和歌山地域ではたらいた朝鮮人の歴史を調べるために古い新聞記事を探していて、朝鮮人の労働現場を特定できた場所が多く、なじみ深かった。山間の険しい道。とつぜん現れる村むら。このような奥地まで朝鮮人は働きに来ていたのか! 朝鮮人の足跡、労働の跡が確かめられる場所を車で走らせた。そうして、紀州鉱山がある紀和町(当時は三重県南牟婁郡。2005年に熊野市に合併)も熊野市にいく途中ではじめて立ち寄った。

■紀州鉱山で働いていた人を韓国に訪ねる
 1996年夏、石原産業が1946年9月に当時の三重県内務部に提出した「報告書」を入手した。
 この「報告書」の主内容は、紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の名簿であった。
 その名簿に記されている住所をもとに、10月、佐藤正人さんが一人で、はじめて江原道麟蹄を訪ね、麟蹄郡庁の人たちの強い協力をえて、紀州鉱山に強制連行された金興龍さん(1914年生)、丁榮鈺さん(1917年生)、孫玉鉉さん(1922年生)、金石煥さん(1923年生)にお会いした。
 12月に、わたしたちは江原道旌善を訪ね、翌年から、江原道の麟蹄、旌善、平昌、江陵、堤川、慶尚北道の安東、軍威などを集中的に訪ね、紀州鉱山に強制連行され、解放後の12月に帰郷した人たちにお話を聞かせていただいた。また、強制連行された人の遺族、村民を強制連行する側だった、当時、警官や村長だった人にも話を聞かせていただいた。

■はじめての紀州鉱山「現地調査」
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、李基允さんと裵相度さんを追悼する2回目の集会の翌日、1995年11月19日に、はじめて紀州鉱山のあった地域(紀和町)の「現地調査」をおこなった。このときの資料として作った『熊野・紀州鉱山・新宮現地調査資料集』(Ⅰ)のはじめに、わたしたちは、
   「李基允氏と・相度氏の追悼碑を建ててから1年後のいま、わたしたちは、熊野・紀州
  鉱山・新宮に朝鮮人労働者のあとをたずね、日本の行政機関や、企業がかくしてきた歴史
  の事実を明らかにしていく作業を具体的にすすめていく第一歩として、「熊野・紀州鉱山・新
  宮現地調査」をおこなうことにしました。
   この調査をきっかけとして、こんご、紀伊半島(奈良県、和歌山県、三重県)における朝鮮
  人強制連行・強制労働の歴史や、石原産業の軌跡にも示されている日本の企業の他地域・
  他国侵略の事実を、おおくの人びととともに明らかにしていきたいと思います」
と書いた。
 1996年11月17日、李基允さんと裵相度さんを追悼する2回目の集会の翌日に第2回目の紀州鉱山「現地調査」をおこなった(『紀州鉱山「現地調査」資料』(Ⅱ)を作成)。
 1997年2月9日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会が結成され、それからは毎年、李基允さんと裵相度さんを追悼する集会の翌日に紀和町で当時のことを知っている人を訪ね話を聞いた。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1997年9月に発行された『在日朝鮮人史研究』27号(アジア問題研究所発行)に「紀州鉱山への朝鮮人強制連行――なぜ事実を解明するか、事実を解明してどうするのか――」を発表した。

■紀和町にたいする要望
 1998年4月1日付で、紀州鉱山の真実を明らかにする会としてはじめて、紀和町にたいし、つぎのことを要望した(中浦敏夫紀和町長、久保幸一紀和町教育長に郵送)。
  1、紀州鉱山への朝鮮人強制連行について調査し、『紀和町史』に明記すること。 
  2、紀州鉱山への朝鮮人強制連行に事実を示す展示がない鉱山資料館の展示内容を変更
   し、解説を書きかえること。
  3、紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんする資料を探索し開示すること。
  4、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑を建て、定期的に追悼式をおこない、追悼碑の維
   持・管理に責任をもつこと。追悼式に、紀州鉱山に強制連行された朝鮮人、遺族の参加を
   保障すること。
 この要望書には、文書回答はなかったが、1998年11月16日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、紀和町役場で、助役、教育長と話し合った。
 紀和町側の口頭での回答はつぎのようなものであった。
 1について。今後検討する。調査の費用を補うことは可能。千炳台さんの埋火葬許可証を調査すると約束。 2について。教育長が快諾。 3について。教育長は、『紀和町史』の書き換えの時点で作業をしたい。書き直しの必要性を認める。 4について。今後の検討課題。

■海南島・韓国・日本で
 1998年6月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、石原産業が鉄鉱石を略奪していた海南島の田独鉱山で最初の「現地調査」をおこなった。
 1998年8月31日に、韓国KBS制作『해남도에 묻힌 조선혼(海南島に埋められた朝鮮の魂)』が韓国で放映された(取材に紀州鉱山の真実を明らかにする会が協力した)。
 1998年8月18日から22日まで、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、韓国慶尚北道安東郡・軍威郡で聞きとりした(このとき、韓国安東MBCが同行取材した)。
 1998年8月29日から9月3日まで安東MBCが三重県、和歌山県、大阪で取材(紀州鉱山の真実を明らかにする会は同行して取材協力した)。1998年10月15日に、安東MBC制作『紀伊半島에 감추어진 진실(紀伊半島に隠された真実)』が韓国で放映された。

■はじめての追悼集会
 それから10年間、紀和町は、1998年11月の口頭での約束を何ひとつはたさなかった。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2008年3月9日、紀州鉱山の旧選鉱場前の広場で、はじめて、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集いをもった。このあと、前日の3月8日に完成させたドキュメンタリー『紀州鉱山に強制連行された人たち 故郷で 麟蹄・平昌・安東・軍威』(制作:紀州鉱山の真実を明らかにする会)を上映した。
 8月31日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、三重県庁所在地の津市で、在日本大韓民国民団三重県地方本部、在日本朝鮮人総聯合会三重県本部とともに、「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会」の発会式をもった。
 その後、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、紀和町を合併した熊野市に、石原産業が紀和町に寄贈し、荒地となって放置されていた場所を、追悼碑建立のための用地として提供を求めたが、熊野市は拒否した。
 その後、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、紀和町を合併した熊野市に、石原産業が紀和町に寄贈し、荒地となって放置されていた場所を、追悼碑建立のための用地として提供を求めたが、熊野市は拒否した。
 つぎに、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、石原産業が紀和町に貸与していた土地の一角に追悼碑建立のための用地提供を要請した。石原産業は熊野市が了承するなら構わないということだったが、熊野市は拒否した。
 2009年5月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、かつて石原産業の鉱山事務所があった場所の筋向かいの土地を購入し、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立し、2010年3月28日に除幕集会をおこなった。
 2008年3月9日、2010年3月28日、2010年12月5日、2011年11月27日、2012年12月2日、2013年11月10日、2014年11月23日、2015年11月8日、2016年11月27日。
 そして、今年2017年11月19日に、10回目の追悼の集いをもつ。
 2015年11月8日、8回目の追悼の集いでは、三重に住む兪柄煥さんの全面的な協力で「조선인추도비」「朝鮮人追悼碑」と、ハングルと漢字で彫り込んだ碑の除幕式をおこなった(このブログの2016年11月2日の「新しい碑」、2016年11月3日 「朝鮮人追悼碑をささえる12個の石」をみてください)。

■紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する場への課税問題
 2009年5月、紀和町に追悼碑建立用地を購入後、11月に紀州県税事務所に減免措置を要請したが拒否され、2010年12月と2011年2月に会員ふたりの銀行口座から不動産取得税と固定資産税相当額が差し押さえられた。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2010年度の不当課税にたいし、2011年3月18日、三重県と熊野市を被告として、津地裁に提訴した。2010年度の不動産取得税と固定資産税、2012年度の固定資産税の不当課税にたいする提訴はそれぞれ最高裁で敗訴し、課税相当額は会員の口座から差し押さえられた(裁判の目的、経緯については、このブログの2014年12月17日「熊野市を被告とする訴訟の経過」、2015年10月9日および2016年11月4日の「熊野市を被告とする第2訴訟の経過」などを読んでください)。

■強制連行された人たちの故郷からの支援と交流
 紀州鉱山に強制連行されたのは江原道の人たちがいちばん多かった。わたしたちは江原道の各地と、強制連行された人数が江原道、京畿道についで多かった慶尚北道の各地を訪ねたが、多くのかたがたとの出会いと協力があって、文書資料では得られない紀州鉱山への強制連行の真実に近づくことができた。
 1997年8月、江原道平昌郡蓬坪面で朴東洛さんが佐藤正人さんに声をかけた。朴東洛さんは当時江原道議会の議員で、佐藤正人さんがなぜ平昌に来たかを知ると、江原道から日本に強制連行された人たちのことに強く関心を持ち、朝鮮人と日本人とによって結成された民衆組織である紀州鉱山の真実を明らかにする会の運動に共感し、その後、わたしたちが平昌を訪ねるたびに郡内から紀州鉱山に強制連行された方々のところに案内してくださった。‟追悼碑ができたらみんなと紀州鉱山に行く”と話されていたが、1999年1月に交通事故で亡くなられた。
 丁乙權江原道議会副議長(当時)は、2011年2月28日、江原道議会臨時会で、‟日帝強制徴用による紀州鉱山韓国人志望者と韓国人追悼の場への不当課税反対”と発言した。
 その後、江原道議会は三重県にたいし、不当課税に反対する「嘆願書」と署名録を採択した。丁乙權さんは、1998年10月30日に佐藤正人さんが会った丁榮鈺さんの孫である。
 丁乙權さんのアボヂ、丁炳碩さんには、2010年1月31日に、麟蹄郡麒麟面の自宅でアボヂが強制連行されていたころの話を聞かせていただいた。丁炳碩さんは、その年の12月の3回目の追悼集会に韓国からきてくださったが、その半年後の2011年6月8日に病死された。
 2012年2月17日、慶尚北道議会で、金昌淑議員が紀州鉱山への慶尚北道からの強制連行、紀州鉱山の真実を明らかにする会の活動などについて発言した。2月22日に慶尚北道議会は本会議で、紀州鉱山への強制連行と死者にかんする真相究明を要求する決議案を採択した。4月2日~4日に、慶尚北道議員団が、熊野市議会、三重県議会を訪問した(このブログの2012年4月5日の「道議会紀州鉱山真実糾明訪問」などをみてください)。慶尚北道議員団は、2015年11月に追悼集会に参加した(このブログの2015年11月6日の「慶尚北道道議会議員団の行動予定 11月6日~9日」、2016年10月30日、31日の「壬辰倭乱・朝鮮植民地化・強制連行の痕跡をたどる 2015年11月、韓国慶尚北道の道議員団とともに」1,2をみてください)。

 紀州鉱山で亡くなった人たちを追悼する集いの10年の軌跡、それ以前からの紀州鉱山への朝鮮人強制連行の歴史の調査の過程をふりかえると、わたしたちの活動は多くの人たちに支えられていたことをあらためて強く思う。
                                           金靜美
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熊野市にたいする抗議・要請 2016年11月27日 

2017年01月26日 | 紀州鉱山
 きのう(1月25日)、紀州鉱山の真実を明らかにする会と第9回追悼集会参加者一同は、河上敢二熊野市市長と倉本勝也熊野市教育長に、抗議と要請の文書を送りました。文書の日付けは、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する昨年の9回目の追悼集会の日である2016年11月27日です。抗議・要請文の全文はつぎのとおりです。
 
                    紀州鉱山の真実を明らかにする会

■抗議・要請■
 わたしたちは、2010年3月に追悼碑を建立し、毎年11月に碑の前に集まって追悼集会を開催して9回目を迎えました。これまでと同様、今回も千葉、東京、小樽、京都、奈良、兵庫など各地から参加して、紀州鉱山に拉致され過酷な労働を強いられた後、故郷に戻ることなくその生を断たれた朝鮮人を追悼する集会を開催しました。
 昨年の追悼集会の直前には、三重県に住む朝鮮人の協力により、亀山から運んだ巨石に「朝鮮人追悼碑」と刻んだ新しい石碑を建立しました。土地の中央に建てられた追悼碑、および犠牲者ひとりひとりの名前を刻んだ石碑に加えて、道路に向かったこの新しい大きな石碑が道行く人に紀州鉱山における朝鮮人強制連行の歴史を訴えています。この土地が日本の過去の植民地支配と侵略戦争の犠牲となった朝鮮人を追悼するという公的な場であり、そのような場として年々整備が進められていることをここからしっかりと確認することができます。
 昨年も、今年も、追悼集会には雨が降りましたが、参加者の中には「この雨は犠牲者の悔し涙だ」、と語る人もいました。
 石碑に刻まれた35名の方々は、わたしたちの会が知りえたかぎりの方々であり、紀州鉱山の強制連行によって亡くなった方々のすべてではありません。しかもその35名のなかでも本名が一部しかわからない方もおり、さらにそれらの方は多くが遺骨の所在すらいまもなお不明のままです。
 70年以上か経過した現在もなお、日本の政府と企業は、朝鮮人を連行し死に至らしめその方々の生命の尊厳を踏みにじった行為に対して、実態の調査も、責任者の処罰も、犠牲者に対する謝罪も、賠償も、行っていません。
 追悼集会では、熊野市の不当な課税行為に抗議する裁判の報告もおこなわれました。熊野市は追悼碑の土地を私有地と見なして固定資産税を課しました。熊野市のこの課税行為は、市民団体が紀州鉱山で命を断たれた朝鮮人を追悼し日本の歴史的責任を明らかにするためにおこなった追悼碑建立の公共的意義を否定するものにほかなりません。
 わたしたちは追悼集会のたびに、熊野市に対して、本会とともに、紀州鉱山における朝鮮人の強制連行・強制労働に対する実態を調査し記録し、朝鮮人を追悼する行事に取り組むよう求めてきました。しかし、熊野市は、一昨年も、追悼集会に際してわたしたちが発した抗議要請に対して、回答していません。そのような熊野市の態度は、行政の公的業務を放棄することを意味します。
 昨年の抗議要請文をこの抗議要請と合わせて同封しますので、昨年の質問事項を確認のうえ、責任のある回答を求めます。2月末日までにかならず文書で回答してください。
                                  (2017年1月25日発信)


                                  
抗議・要請      2015年11月8日
  熊野市長   河上敢二 さま
  熊野市教育長 倉本勝也 さま

               紀州鉱山の真実を明らかにする会
               第8回追悼集会参加者一同

 わたしたちは、1997年2月の会の結成以来、朝鮮から紀州鉱山に連行され過酷な労働を強いられた1000人以上に及ぶ朝鮮人労働者の歴史について調査を進めてきました。そして2010年3月に紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立し、それ以降毎年追悼集会を開催して、本日、8回目の追悼集会を迎えました。
 今回の追悼集会には、紀州鉱山で働かされた朝鮮人の出身地のひとつである慶尚北道の道議会のみなさんが参加されました。紀州鉱山に連行され労働を強いられ犠牲となった朝鮮人の韓国の遺族のかたがた、そしてその出身地の地域や議会がこの追悼集会に強い関心のまなざしを向けています。
 当会が独自に調査を進めた結果、これまでのところ、少なくても朝鮮人労働者とその家族35名が紀州鉱山で亡くなったことが明らかになっています。しかし、この35名の方の遺骨の所在も、死亡の状況や原因についてもほとんどわかっていません。
 わたしたちは旧紀和町、そして熊野市がこれらの朝鮮人の追悼碑の建立に取り組むよう働きかけてきましたが、貴職らは誠実に応答しませんでした。 
 わたしたちはやむなく、会で独自に土地を確保し、追悼碑を建立して、2010年3月28日に除幕集会を開催しました。ところが、この土地に対して、熊野市長は固定資産税を求めてきました。
熊野市への朝鮮人強制連行、熊野市での朝鮮人強制労働という歴史について、熊野市が責任をもってその事実を究明し、犠牲者を追悼することは当然のことであるにもかかわらず、貴職はその責務をはたさないばかりか、市民団体が心ある多くの人びとの寄金によって入手した追悼碑の土地に課税をするという、無恥で理不尽なことをしました。
 わたしたちはその不当性を公の場で問うために2011年3月18日に三重県津地裁に訴訟を提起しました。この訴訟の提起は日本の社会だけでなく、韓国にも大きな反響を呼び起しました。紀州鉱山に強制連行された人たちの故郷の江原道および慶尚北道の道議会では、わたしたちの会による提訴を支持し、熊野市による固定資産税の課税の撤回を求める決議がなされています。また慶尚北道の道議会議員団が2012年4月に三重県と熊野市を訪れ、三重県の不動産取得税と熊野市の固定資産税の課税を撤回するよう求めました。慶尚北道の道議員団は今回8回目の追悼集会に参加するため、熊野への二度目の来訪をおこないました。
 以上の経緯を踏まえて、熊野市のこれまでの不当な対応に抗議するとともに、改めて以下のことを要請します。

 1 熊野市紀和鉱山資料館に、紀州鉱山への朝鮮人強制労働、紀州鉱山での朝鮮人強制労働に関する資料を展示すること。
 2 紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での朝鮮人強制労働についての調査を進めること。
   石原産業が1946年に三重県内務部に提出した朝鮮人労働者についての「報告」はきわめて不正確なもので、この「報告」に「逃亡」したと書かれている千炳台さんは紀和町で死亡していることが判明していますが、旧紀和町は、私たちが千炳台さんの埋火葬許認可書の開示を要望したにもかかわらず、この要望を拒否し続けてきました。
 3 熊野市は、紀州鉱山での朝鮮人犠牲者を、今後どのようなかたちで追悼するのか、その内容を具体的にあきらかにすること。
昨年の7回目の追悼集会ではこの同じ要請を貴職に対して行ったにもかかわらず、貴職は当会への回答を1年近く経過した今日までおこなっていません。
 市民の要望に答えるという行政の基本的な責務を放棄するこのような態度は許すことのできないものです。

 さらに加えて、倉本教育長に対して以下の質問を行います。
 昨年9月25日の熊野市教育委員会で、鉱山資料館に紀州鉱山の朝鮮人の強制労働に関する資料の展示についての教育委員の質問に対して、杉松前教育長は、「鉱山の資料館として、昔こういう方達がはたらいていたことで写真を飾ることは構わないと思います」と答えています。
 この答弁について以下に質問します。
 1 倉本教育長は、鉱山資料館にすでに英国人捕虜の鉱山労働に関する写真の展示があるのは御存じでしょうか。
 2 杉松前教育長は、これまで当会が紀州鉱山における朝鮮人の強制連行・強制労働についてくりかえし要請してきた経過を承知のうえで、このような答弁をしたのでしょうか。倉本教育長はこの答弁と同じ考えなのでしょうか。
 3 「鉱山資料館に写真を飾ることは構わない」と答弁するに当たって、教育委員会はこの件に関してどのような調査をおこない、どのようなことを確認したのでしょうか。
 4 倉本教育長は、鉱山資料館の道路を挟んだ斜め向かいに紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑が建てられていることをご存知でしょうか。また、熊野市がこの土地に対して、固定資産税を課していることをご存知でしょうか。

 上記の要望と質問に対する回答をかならず12月28日までに文書で求めます。
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「刻まれたのは“欠けた”名前 旧紀州鉱山に朝鮮人労働者の追悼碑建立」

2016年12月30日 | 紀州鉱山
http://www.kinyobi.co.jp/backnum/antenna/antenna_kiji.php?no=1046
『週刊金曜日』2010/4/2 金曜アンテナ 
■刻まれたのは“欠けた”名前
 旧紀州鉱山に朝鮮人労働者の追悼碑建立

 石原産業旧紀州鉱山(三重県熊野市)でアジア・太平洋戦争中、強制連行により労働を強いられ、異郷で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の除幕集会が三月二八日、同市であった。碑は、市民団体「紀州鉱山の真実を明らかにする会」と在日本朝鮮人総聯合会県本部、在日本大韓民国民団県地方本部が結成した会が建立。碑文は、アジア各地の日本軍・企業による侵略の責任追究を誓うとともに、犠牲者の冥福を祈る。集会には、韓国の関係者をはじめ在日朝鮮・韓国人、日本人ら約一〇〇人が参加した。
  「明らかにする会」の調査では、同鉱山で一九四〇年から四五年までのべ一三〇〇人超の朝鮮人が働いていた。しかし、紀和鉱山資料館の展示では全く触れていない。同鉱山で死亡した英国人捕虜一六人の名前や年齢は墓地に明記され、合併前の旧紀和町長も参列し慰霊祭が営まれたのと対照的だ。
 追悼碑の前には、三五個の石が並び、亡くなった朝鮮人三五人の名前がひとりずつ書かれている。同会のメンバーが九六年から訪韓を重ね、生存者・遺族らから聞き取るなどして調べた。だが、うち一一人は名前の一部が欠け、出身地が判明したのは六人にすぎない。
 同会の金静美さん(六〇歳)は「当時、日本式の名にさせられていたため、(資料を探しても)本当の名前が分からない。(欠けた)名の書かれ方は、紀州鉱山の真実が明らかになっていないことの証」とし、碑の建立を、真相解明に向けた新たな出発点とすることを呼びかけた。
 
                            山本柚・ライター
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「紀州鉱山で死亡の朝鮮人 支援者ら20人 追悼の集会」

2016年11月28日 | 紀州鉱山
 以下は、きのうの紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集会のことを報道する、今日(11月28日)の『毎日新聞』三重版の記事です。

■紀州鉱山で死亡の朝鮮人 支援者ら20人 追悼の集会
【熊野】旧入鹿村周辺(現熊野市紀和町)にあった紀州鉱山で第二次世界大戦が終わるまでに亡くなった朝鮮人35人を追悼する集会が27日、紀和町板屋の追悼碑前であった。雨が降る中、在日朝鮮・韓国人や日本の支援者ら約20人が冥福を祈った。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会(金靜美事務局長)が主催した。紀州鉱山は銅を産出し、1978年に閉山した。会によると、戦争中1300人以上の朝鮮人がいた。うち35人が死亡している。
 この日は神戸市や北海道などから参加者があった。金管楽器で「アリラン」が演奏された後、追悼碑にカーネーションを献花、日本酒で献杯した。  【汐崎信之】

【写真】追悼碑に献花する在日朝鮮人・韓国人ら 熊野市紀和町板屋で
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紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する9回目の集会

2016年11月27日 | 紀州鉱山
 今日(11月27日)は朝から雨が降り続いていました。
 午後1時から、熊野市紀和町の紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の前の広場で、9回の追悼する集会(기슈광산에서 돌아가신 조선인을 추도하는 모임)が開かれました。

 はじめに、八王子からきたUさんによってユーフォニウムによる「ありらん」が演奏されたあと、会員の竹本昇さんが、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の敷地にたいする熊野市の課税に抗議する裁判について報告しました(対熊野市第2訴訟の経過については、このブログの2016年3月7日の「裁判官の侵略責任(戦争責任、植民地支配責任、戦後責任)」、2016年11月4日の「熊野市を被告とする第2訴訟の経過」などをみてください)。
 この報告の最後に、竹本昇は、「わたしたちは、敗訴しましたが、司法の侵略責任を質した有意義な訴訟でした」とのべました。
 つぎに会員の佐藤正人が、「紀州鉱山と海南島」という主題で報告しました。佐藤は、
   「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、
   追悼碑を建立した翌年の1995年から紀州鉱山に強制連行された朝鮮人について調査
   を開始しました。
    1992年に紀州鉱山の真実を明らかにする会が創立されました。
    紀州鉱山の真実を明らかにする会は、13年間、紀州鉱山にかかわる歴史的事実の
   調査をつづけ、2010年3月に紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する追悼碑を建立
   しました。
    それから6年8か月が経ったいま、わたしたちは日本政府・日本企業の他地域他国
   侵略の歴史に対決していく民衆運動をさらに深め広げていかなかなければならない
   と考えています。
    石原産業は、海南島でもマレイシアでも、フィリピンでも多くの民衆のいのちを犠牲
   にして鉱物資源を略奪していました。海南島では日本窒素や三菱鉱業も大規模の企
   業犯罪をおこなっていました。日本窒素も石原産業も日本国内で毒物を放出し多くの
   人の命と健康を奪ってきました。
    石原産業と日本窒素の海南島、朝鮮……における侵略犯罪を日本政府・日本企業
   の侵略犯罪のなかで把握し、アイヌモシリ侵略以後の日本の他地域他国侵略の歴史
   と対決する民衆運動を、これからさらに紀州鉱山の真実を明らかにする会は深め強め
   ていきたいと考えています」、
と話しました。
   
 そのあと、雨の中、追悼碑のまえの紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の名を記した35個の石の一人ひとり(ひとつひとつ)に花をおくり、献杯しました。

 それから、参加者一人ひとりが、思いを語りました。
 Aさん:わたしは京都の丹波で生まれた中国人です。母は朝鮮の釜山に生まれ、日本に
    来て盧溝橋事変の前に都会の排外的な空気を避けて丹波に住むようになりました。
     母は反物の行商をやっており、幼かったですがわたしも母に連れられて一緒に行
    ってました。中国人ということでよくいじめられました。「軍人遺族の家」というのが
    あって、その家の前を通ると“自分の息子が大陸で中国人兵士に殺された”といって犬
    をけしかけて“シナ人来るな”と脅されたこともありました。母子で田んぼのあぜ道
    を逃げて、売り物の反物が田んぼのなかに落ちて母と一緒に田んぼの中に入って拾っ
    たこともありました。母は谷川でそれを洗い木に干しました。母は空に向かって朝鮮
    語で“アイゴー、アイゴー”といって日本人をののしり涙を流していました。
     ここに来て、故郷の丹波のことを思い出しました。マンガン鉱の採掘の為に多くの
    朝鮮人が連れられて来て被差別部落の人も住まないような山の裾にみすぼらしい
    杉皮葺きの小屋を建てて住んでいました。多くの朝鮮人がじん肺などで死んだと聞
    きました。
     わたしは2005年まで、南京攻略戦に参加した日本兵を探しに三重県になんど
    も来ました。三重の33連隊は南京大虐殺で城内と揚子江岸で虐殺に大きくかか
    わった部隊です。兵士達が昔のままの思想で如何に多くの中国人を虐殺したか、
    女性を次々と強姦したかを誇らしげ語っていたのに、私の体が怒りに震えるのを
    止めることはできませんでした。    
     中国人も朝鮮人も日本人も、加害民族と被害民族ではその立場は異なります
    が、過去の歴史を如何に受けつぐかということは大切だと思います。
     1923年9月の関東大地震のときに東京神奈川で1千人近い中国人が虐殺され
    ました。
     わたしは4年前からその中国人労働者の遺族とともに、日本政府に謝罪と賠償
    を求める運動をすすめています。また、花岡事件の被害者や大阪港に強制連行さ
    れた被害者と共に、日本政府の戦争犯罪を追求する国賠訴訟に係わっています。
    これらは半世紀前或いは1世紀前のことですが、過去の過ちは正しく清算されない
    限り、人類の進歩はありません。
     いまの日本は歴史をゆがめ、他民族を排外する傾向が強くなっていると感じて
    います。あの時代と同じ空気ですね。覆われてきた歴史のベールをはいで、いま
    こそ、歴史の真実を我々自身にとりもどさなければならないと思います。
     紀州鉱山の真実を明らかにする会の集会には、はじめて参加しましたが、ずっと
    まえから参加したいと思ってました。中朝日の連帯の上に、共に未来をきりひらい
    ていく運動をすすめていきましょう。
 Bさん:八王子から来ました。一人の日本人として歴史を背負って生きていこうと思ってます。
 Cさん:いま、韓中日の民衆の連帯の深まりを感じています。
 Dさん:日本の学校での在日朝鮮人の教育にかかわわっています。自分の名前を名のれる
    社会をつくっていきたいと思っています。
 Eさん:紀州鉱山の真実を明らかにする会の日本人は加害の歴史的責任をとろうとして運動
    しているように感じています。在日2世としていっしょに運動をすすめていきたいと思
    います。
 Fさん:千葉から子ども3人と母といっしょに来ました。子どもたちが自分でどのように歴史
    を知っていくかは、まだ幼いのでわかりません。しかし、ここに来ると歴史を知ること
    の大切さはわかっていくと思います。
 Gさん:去年も今年も雨が降りました。犠牲者のくやし涙だと思います。そのくやしさをうけ
    とめて、今日から来年までの1年間を生きていこうと思います。

                                佐藤正人
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紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する8回目の集会

2016年11月07日 | 紀州鉱山
■紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する8回目の集会

 11月8日、今年も、各地から多くの人が紀州鉱山があった熊野市紀和町の追悼の場に集まり、追悼集会を開きました。
 司会者の開会の挨拶につづいて、韓国慶尚北道議会の議員団を代表して崔泰林議員が、
   「今日、私たちは愛する家族を離れ、遠い異国において強制労役に従事し紀州鉱山で
  亡くなった35人を追悼するためにこの席に一緒に集まることになりました。
    不幸な歴史の真実を明らかにし、私たちはこの35人の魂が安らかに眠れるよう最善
  の努力を尽くしたいと思います」
と述べました。
 つづいて、「朝鮮人追悼碑」と朝鮮語と日本語で刻んだ新しい石碑の除幕式を行いました(この碑については、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会『会報』61号・紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』16号号合併後25頁の金靜美「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する「場」のこと」、およびこのブログの11月2日の金靜美「新しい碑」、11月3日の宇恵悟「朝鮮人追悼碑をささえる12個の石」を見てください)。
 次に、四日市から参加した在日朝鮮人青年によるサムルノリが演奏され、チン(鐘)、プク(太鼓)、チャング(鼓)、ケンガリ(小さい鉦)の音が鳴り響きました。
 そして、兪柄煥さんが、新しい石碑の設置について、
   「昨年、はじめて追悼集会に参加したとき、日本人の参加者が多かった。日本人の
  会員のひとりが言った“紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼することは、日本人がな
  すべき当然のことだ”という言葉に感銘した。
    それで、石を寄贈することにした。この碑の基礎の石の配列は朝鮮半島をかたど
  っている。亡くなっている人は、南も北もありません。安らかに眠ってほしい。これ
  をきっかけに、みんなで仲良くし、そして、みんなでこの石を守っていくのだという
  想いを込めています」
と話しました。
 次に、事務局の竹本昇が、熊野市が植民地支配に対する反省と謝罪を込めて追悼碑を建立するべきあるのに、逆に、この土地に固定資産税課税を課税してきたことに対する不当性を訴えて起こした2回目の裁判の報告を行いました。
 つづいて、参加者のみなさんが、
   「1年に1回しか来られませんが来てみると、自分は植民地化された国にルーツを持
  つ人間だと改めて感じます。そのことを活かしてしていきたいなと思ってやって来ま
  した」、
   「大阪で民族学級の講師をしています。最近、あまり学校の中で植民地の歴史につ
  いて語ることができないことが多いです。教える場所は少なくなっているけれども自
  分自身は、もっともっと、知るべきだと思っています」、
などの想いを語りました。
 最後に地元の会員である宇恵悟さんが、
   「自分はここから車で40分ほどの紀宝町に住んでいる。昔の朝鮮人差別にきちんと
  謝罪しなかったことがいまのこのような状況を招いている。
    自分は非力だが,少しでもやれることをやっていきたい」、
と閉会の挨拶をしました。
 今年の追悼集会は、途中、雨が降ることがありましたが、予定通り行うことができました。参加されたみなさんは、来年の再会を約束して集会を終えました。

                               竹本昇 記
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紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼しつづけるために

2016年11月05日 | 紀州鉱山
 今年、11月27日に第9回紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集会が開かれます。
 2009年7月に紀和町の土地を購入し、7年数カ月過ぎました。追悼の場には、まずひとかかえほどある石をひとつずつ川から拾ってきて、お名前を書き込み、置きました。
 また近くの方から、追悼碑にするための石を寄贈していただきました。それに碑文版をはめ込んでいただいたのも、近くの方です。
 入り口には、木で作った手書きの案内板を立てました。また来るたびに木を植えていきました。地面の下がじゃりなので、生育はあまりよくない土地のようです。
 昨年、3人の在日朝鮮人の方のご尽力で、入り口に、もう1つ大きな碑も建ちました。そして地元の会員により、お名前を書き込んだ石たちの置き場が整備されました。
 またお名前を書き込んだ石の1つが割れ、新しい石を見つけてきて、交換しました。木枠の宣言文版をステンレスで建て直す計画もあります。
 紀和町板屋の追悼の場では、毎年秋に追悼集会が開かれ、ひとびとが各地から集まります。また個別に、訪ねてくれる人もいます。
 幹線道路に面しているので、車で通る人も目にしているでしょう。この場が、慰霊ではなく、追悼の場であるということは意味が大きいと思います。


 朝鮮の故郷から引き離され、紀州鉱山で働かされ、
 亡くなった人たち。
 家族とともに紀州鉱山に来て亡くなった
 幼い子たち。
 わたしたちは、
 生きて故郷に帰ることができなかった
 みなさんを想い、
 なぜ、みなさんが、
 ここで命を失わなければならなかったのかを
 明らかにし、
 その歴史的責任を追求していきます。


 自分の日常生活の中に、日本の侵略の歴史があり、被害者が存在するということをこの追悼の場は証明しています。
 この追悼の場は、現在、便宜上会員5人の共同名義で所有しています。この土地を購入するときに、ある朝鮮人のご厚意により、無利子で多額の借金をしました。その後、カンパを集めましたが、まだ完済していません。
 
 この追悼の場を、おおくの方々と一緒に支えつづけていきたいと考えています。
 希望するひとびとに少しずつお金を出していただいて、土地を少しだけ維持する、各地のひとびとが、少しずつこの追悼の場を支えつづける仕組みです。まだ詳細は検討中なので、いいアイデアがあれば、お寄せいただきたいと思います。プランが立ちましたら、お知らせいたしますので、ご協力をよろしくお願いいたします。
                                日置真理子
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熊野市を被告とする第2訴訟の経過

2016年11月04日 | 紀州鉱山
 対熊野市第2訴訟(2012年度固定資産税賦課処分取消及び減免不承認処分取消請求事件)については、2015年10月7日に発行した紀州鉱山の真実を明らかにす会の『会報』16号で、2015年8月26日の最高裁が、名古屋高裁民事第3部の裁判官(揖斐潔、眞鍋美穂子、片山博)を忌避する紀州鉱山の真実を明らかにする会の特別抗告を棄却したところまでを報告しました。その後の経過は次のとおりです。

 2015年11月13日名古屋高裁で、控訴審が開かれました。当日、午後1時に、控訴人らは、名古屋高裁民事3部に、紀州鉱山の朝鮮人追悼碑の敷地の公共性がより強固になったことをのべつつ本訴訟の本質を明示する「準備書面」を出しました。その1時間後、11月13日午後2時から、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑の敷地への熊野市の課税に抗議する訴訟の控訴審が開かれました。
 この最初の裁判で、名古屋高裁民事3部の揖斐潔裁判長裁判官、眞鍋美穂子裁判官、片山博仁裁判官は、ほとんど実質審理をせず、短時間の形式的な手続きのあと、一方的に強権的に弁論を終結させようとしました。
 控訴人らは、2015年4月21日に出した証拠申立書にもとづき、「紀州鉱山に連行され紀州鉱山で亡くなった犠牲者の遺児を証人として採用することが、実質審理の前提だ」と主張しましたが、揖斐裁判長は「証拠申立ては、却下する」と言いました。
 直ちに、控訴人らは、裁判官を忌避しました。しかし、揖斐裁判長は一方的に「これで弁論を終結します」と言いました。それにたいし、即座に、控訴人らは「裁判官を忌避する」と再度言いましたが、揖斐裁判長は「判決日は、12月25日午後1時10分から」といい、他の二人の裁判官とともに法廷を逃げるように出て行きました。
 控訴人らは、「裁判官忌避申立書」を、12月22日に名古屋高裁民事部にだしました。
 私たちは、実質的な審理をしないで形式的に判決文をだそうとしている裁判官に抗議し、裁判官が判決日としていた12月25日には、「出廷」しませんでした。しかし、この日、無恥の3人の裁判官(揖斐潔裁判長ら)は、控訴棄却という判決をだしました。
 2016年1月9日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、最高裁に上告し、3月7日に、上告理由書をだしました。
 2016年5月11日に、最高裁は、上告を棄却しました。
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、敗訴しました。しかし、司法の侵略責任を質した有意義な訴訟でした。                                             
                                    竹本昇
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