三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

2019関西地域民族教育関係者研修会

2020年11月07日 | 紀州鉱山
2019関西地域民族教育関係者研修会
                          金靜美 

 2019年11月30日-12月1日の日程で、大阪韓国教育院・在日本大韓民国民団大阪府地方本部主催、駐大阪大韓民国総領事館後援の「関西地域 民族教育関係者 研修会」が熊野地域でおこなわれました。
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会から、金靜美、宇恵悟、佐藤正人が同行しました。
 研修に参加した人たちは、日本の公立学校に設置された民族学級で教えている教師たち、日本での民族教育に携わる韓国から派遣されてきている教師たち、韓国教育院院長、駐大阪韓国総領事館領事、あわせて36人で、わたしたち3人をいれて39人でした。

■本龍寺で(11月30日)
 本龍寺がある和気の区長久保理也さんと地元で長く本龍寺を管理してきた西正道さんが待ってくれていました。おふたりの話を聞いたあと、本堂に入り、以前無縁仏が置かれていた場所などを見ました。その後、本堂から納骨堂にうつされた白い布でつつまれた無縁仏の箱を見せていただきました。

 西正道さんの話
   「小学3年か4年のころ、朝鮮のかたがたくさんいた。紀州鉱山でたくさん働いていた。
   5年と6年のときには、朝鮮の子が何人もいた。学校は上川国民学校。複式。(名前を憶えている子
  はいるか?)一級下の3年の子で、日本名を使っていた。安川君。絵がじょうず。その子はげんき
  にしとんのかな。どこへ行ったんかな。そのころは戦争に負けたあと。食料難の時代。女の人が子ども
  を連れて、食べ物をわけてほしいと、よく来ていた」。

 久保理也さんの話
   「本龍寺の住職は以前は、高橋和尚。楊枝川にあった円通院の住職で、本龍寺を兼務していた。 
   (本龍寺にある遺骨は?)紀州鉱山の遺骨は、円通院から運んできた。日本人の遺骨も、紀州鉱山で
  働いていた人。家族があとでとりに来るからといって、置いていった」。

 本龍寺の納骨堂に置かれていた朝鮮人の遺骨は、いまはありません。
 曹洞宗の人権擁護推進本部から工藤英勝氏が来て、持ち去ったそうです。
 本龍寺の納骨堂にはいまも、数十体の遺骨が白い布に包まれて置かれています。白い布には、日本人の名前が書かれたのもありますが、名前が記されていない遺骨箱もあります。

■浄泉寺で(11月30日)
 本龍寺から新宮の浄泉寺に行き、山口範之住職から、浄泉寺と「大逆事件」の関係、朝鮮人の遺骨のお話などを聞き、浄泉寺に残されている朝鮮人の遺骨を見せていただきました。
 浄泉寺の12代目住職の高木顕明(1864-1914年)は、「大逆事件」で1911年1月18日に死刑判決を受け、無期懲役に減刑された後、1914年に僧籍を剥奪されました。
 山口範之住職の話では、浄泉寺には、日本の敗戦後、新宮・熊野地域で死亡した朝鮮人の遺骨が複数、遺されていて、家族が引き取りに来た以外の4体の遺骨は、現在、南谷墓地に移管されたそうです。その後、本堂の奥に、ほかにも朝鮮人の遺骨があることがわかり、大切に保管されてきました。

 その後、新宮の速玉大社に行きました。
 速玉大社は、秀吉の朝鮮侵略(壬辰・丁酉の乱)のさい、朝鮮に出兵した九鬼水軍を率いた九鬼嘉隆の先祖が「別当」(大社を統括する)という役職にあったそうです。壬辰・丁酉の乱のさい、新宮では、熊野から切り出された木材で朝鮮に出兵した九鬼水軍の船が建造されたそうです。

 夜、宿舎で、学習会が開かれました。
 駐大阪大韓民国総領事館教育担当領事梁鎬錫氏が、「民族学級・民族学校の課題と展望」という題で話しました。 
 つづいて、佐藤正人が「ふたつの会の成立と日本の侵略責任」、金靜美が「追悼碑の歴史的意味」、宇恵悟が「紀州鉱山がある場所に生まれ育って」という主題で話しました。
 最後に韓国教育院の金次守院長が、かつて朝鮮人が住み働き亡くなった場所をいまの世代の韓国人が訪ね、民族教育に生かす意義を話しました。

■極楽寺で(12月1日)
 足立知典住職の話
   「自分の寺に、(李基允氏と裵相度氏の)お墓があることを知らなかった。
    建て替えのときの整理で、会の手紙などを見つけた。それで、「木本事件」でお二人が亡くなられ
   たということを知った。
    地元の年配の人を訪ねて、自分なりに調べたりもした。いまでも当時のことを話せないという雰囲気が
   ある。
    このことばが引っ掛かり、考えた。ふたりのことを考えると、もやもやした思いになり、このもやもや
   は何なのか、いのちとは何なのか、何をしたら正しいのか、どうしたらいいだろうか、いろいろ考えた。
    高齢の人に聞いたら、大昔のことだから、触らんほうがいいよ、終わったことやでそのままにしとけ、
   といわれた。納得がいかなかった。ほっとくわけにはいかない、と思った。
    次の代につないでいく、それが使命。
     (李基允氏と裵相度氏の墓をつくったことについて)ふたりのことを考えるとこうせざるを得なかった。
    次の代でしてくれるかどうかわからない。自分の代で、しておきたいと思った。日本式の戒名を付ける
   のもどうかと思い、本名を刻んだ」。

 その後、木本隧道を歩いて鬼が城に出て、紀和町に向かいました。

■慈雲寺で(12月1日) 
 慈雲寺では、本堂奥に置かれている、『紀州鉱業所物故者霊名』を見せていただきました。 
 ここには、紀州鉱山でなくなった423人(1978年6月16日まで)の名簿があり、そのなかに朝鮮人の名前もあります。「創氏改名」されている名前もあるので、わたしたちは、朝鮮人であることを確認するために、複数の他の資料と照合しました。この名簿のなかには、朝鮮人と断定できませんが、ほかにも「創氏改名」された朝鮮人がいるかもしれません。
 以前は、朝鮮人の遺骨もあったそうですが、1980年10月、在日本大韓民国民団三重県地方本部が慈雲寺の遺骨を「望郷の丘」に「移送奉還」したそうです。

■追悼碑の前で(12月1日)
 民族学級の教師のひとりが、生徒が折ったという鶴をもってきて、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の前の白木蓮にかけました。
雨にぬれても傷まないようにと、ビニールに入れてきていました。 
この折鶴は、2020年10月17日、ほとんど1年後、白木蓮の大きな葉の陰で幹にくっつくようにして元気でした。
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本龍寺に置かれていた朝鮮人の遺骨はいまどこに?

2020年11月07日 | 紀州鉱山
本龍寺に置かれていた朝鮮人の遺骨はいまどこに?   
                           金靜美
 
 「関西地域 民族教育関係者 研修会」で熊野に行くので、その準備のために、11月16日、現在本龍寺の兼任住職をしているという新宮の宗応寺の住職と電話で話をしました。
 宗応寺の住職の話では、本龍寺の朝鮮人の遺骨は、曹洞宗の「宗務庁の人権擁護推進本部から来て持って行った」、「いまどこにあるかわからない」、「人権擁護推進本部から本龍寺に感謝状が届き、いま額に入れて本堂にかけてある」ということでした。
 工藤という人は、2008年7月、熊野地域に残されている朝鮮人の遺骨の調査をするということで、紀州鉱山の真実を明らかにする会に協力を依頼してきた曹洞宗人権擁護推進本部の工藤英勝さんのことだと思います。紀州鉱山の真実を明らかにする会では、2008年7月15日・16日の二日間、会員が同行し曹洞宗人権擁護推進本部の「調査」に協力しました。

 
■2019年11月25日、曹洞宗人権擁護推進本部の工藤英勝さんと電話で話す
 11月25日、曹洞宗人権擁護推進本部の工藤英勝さんと電話で話しました。
以下は電話でのやり取りの要約です。

 キム:無縁塚から遺骨を持ちだしたのは事実か?(とまず確認し、その経緯を尋ねました)。
 工藤英勝氏:答えられない。
 キム:なぜ答えられないのか? 遺骨は現在どこに置かれているのか?
 工藤英勝氏:答えられない。
 キム:あなたの人権擁護推進本部での役職は何か?
 工藤英勝氏:答えられない。(重ねて聞くと)本部員です。
   いま日韓関係が????なので、返還できないで、そのまま置いてある。
              ※「?」は電話で正確に聞き取れませんでした。
 キム:これまで、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人のことを調査して
   きて、それを工藤さんは知っている、だから人権擁護推進本部の熊野の調査のときに、紀州鉱山の
   真実を明らかにする会に協力依頼してきた、本龍寺の遺骨の人たちを追悼する碑も作った紀州鉱山
   の真実を明らかにする会に一言連絡することは考えなかったのか?
 工藤英勝氏:お寺とお寺との関係で持って行ったので(このような表現でした)、そういうことは考え
      ませんでした。
 キム:日本の寺が宗派の寺で保管してある朝鮮人の遺骨について調査を始めたのは日本政府の依頼であり、日
   本政府は、韓国政府の要請で、それにようやくとりかかった。韓国政府が日本政府にそれを要請したのは、
   韓国やわたしたちの会もふくめた民衆の要求に応じからだ。人権擁護推進本部が、それを無視して、紀州
   鉱山の真実を明らかにする会にひとことの連絡もなしにどこかに運んで、その所在も隠している。亡くな
   った人にも人権がある。その人たちの人権無視ではないか。
 工藤英勝氏:意見があるなら、宗務庁に意見を送ってください。
 キム:わたしは意見を言っているのではない、要請している。
 工藤英勝氏:(しばらく無言)。地元の人から要請があれば、(遺骨の保管場所について)教えることができるよう
      に検討する……。

 その後、久保理也さんに人権擁護推進本部に遺骨の保管場所を聞いてください、とお願いしました。
 本龍寺に置かれていた朝鮮人の遺骨をはじめて見たのは、1997年11月16日、紀州鉱山の真実を明らかにする会の3回目の紀州鉱山「現地調査」のときでした。
このときは、本堂奥に、多くの位牌、遺骨といっしょに置かれていて、わたしたちは、朝鮮人の遺骨、5人を確認しました。
 在日本大韓民国民団三重県地方本部では、1980年10月に、三重県内に置かれていた朝鮮人の無縁仏』76柱を、韓国の国立墓地「望郷の丘」に移葬したということです(『民団三重50年史』民団三重50年史編纂委員会、在日本大韓民国民団三重県地方本部発行、1998年)。
 1980年10月に「望郷の丘」に移葬されたという76柱の名前の中に、1997年に紀州鉱山の真実を明らかにする会が本龍寺で確認した朝鮮人の遺骨もふくまれていたため、紀州鉱山の真実を明らかにする会では、その後、在日本大韓民国民団三重県地方本部に問い合わせましたが、当時、三重県内の遺骨調査と収集にかかわった人がいなくなり、その遺骨を収集した場所の記録や名簿の原資料も探せないということでした。
 以前慈雲寺の住職から、在日本大韓民国民団三重県地方本部がかなりまえに寺に置かれていた朝鮮人の遺骨を持って行ったと聞きましたが、このときのことと思います。
 
■2005年5月30日の『中日新聞』の記事
 2005年5月30日の『中日新聞』に、本龍寺の朝鮮人遺骨に言及しつつ、大韓民国民団三重県本部が「(韓国への)遺骨移送への組織づくりを進めている」という記事が出ました(「朝鮮人の遺骨 母国へ」)。
 1980年10月に在日本大韓民国民団三重県地方本部が「望郷の丘」に移送したという朝鮮人の遺骨が本龍寺に残っている真相も不明で、さらに、2005年段階で、また、在日本大韓民国民団三重県地方本部が本龍寺に残されている朝鮮人の遺骨を「望郷の丘」に移送する準備を進めているということを『中日新聞』の記事で知った紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2005年6月21日、「大韓民国民団三重県本部のみなさんといっしょに、本龍寺の遺骨の真相糾明をふくめ、紀州鉱山における朝鮮人の強制連行・強制労働の真相糾明をすすめたいと思います」という手紙を送りました。
 同年6月24日、在日本大韓民国民団三重県地方本部団長殷鍾秀、三重県日韓親善協会会長加藤純一の名前で、「真相糾明と遺骨の本国への安葬は別のものと考えており、ただただ異国の地でひっそりと眠っているご遺骨を、一日も早く母国の地に埋葬し、母国の地で安らかに眠っていただきたいとの一心」という返事が届きました。その後、在日本大韓民国民団三重県地方本部の事務局長韓九さん(当時)、在日本大韓民国民団三重県地方本部の関係者と会いましたが、本龍寺の遺骨の真相糾明について。共同調査を進めることはできませんでした。
 そして、本龍寺に置かれていた朝鮮人の遺骨は、2017年11月に曹洞宗人権擁護推進本部が持ち去りました。
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12回目紀州鉱山、26回目李基允さん裵相度相度さんの追悼集会に参加して

2020年11月06日 | 紀州鉱山
■12回目紀州鉱山、26回目李基允さん裵相度相度さんの追悼集会に参加して■
                                    安西玲子 
■「ちかごー」のことなど
 「熊野は、今でこそ道がよくなったけど、昔は弟と山越えて走ったもんや」と、故金蓬洙氏がよく話してくれた。
 紀州鉱山? どこにあるの? 朝鮮半島からそんなところまで連れてこられ、食べ物や、生活用品なんてない中、どうやって働いてもらっていたの?
 強制連行の調査をしていた金蓬洙・金唱律兄弟とは、旧日本軍による被害女性の証言を聞く会で初めて会った。私の住む近くの飯場で、お父さんが仕事をしていらして住んでいたことがあり、懐かしいと言われて遊びに来てくれるようになり「ちかごー」と聞くようになり、ちかごーを見せて貰い驚きました。岐阜県のこんな山の中や、交通の不便な所に。それも一つや二つではない。これ程の蛮行があったことを慰霊碑や看板等建てて皆に知らせないのか?
 有名になってきた杉原千畝資料館の近くに巨大なダムがある街ではダム工事を見ていた人々が、こちらから見てると人間が蟻のように見えたと。落ちたりした人も一人や二人ではないとか。
 麻の袋みたいなのを着て虚な目をして歩かせられていた中国人捕虜の若い男の子を見たお婆さんが家に入りお握りを作り、渡していた。見つかったらお婆さんが大変な目に遭うのになどと証言してくれる人たちもいた等と話を聞いた。
 その後、岐阜で、戦後50年展をしたとき、岐阜市教育委員会が後援をおりた事で、私が「何故この展示がいけないのか、次回は教育委員会主催で平和展をして欲しい」などと投書していた矢先、岐阜県地下壕研究会を立ち上げるとなり、金兄弟からの誘いで入れて貰った。1997年。松江での八回目強制労働全国交流集会で金靜美さんにお目にかかったのもそのとき。何も知らない私が朴慶植先生などとお近づきになれたのもありがたいことだった。

■強制連行の恐ろしさ
 金兄弟がカトリック教会から頼まれてやっている強制連行慰霊はじめ大阪の夜間中学の修学旅行、外登法で案内を手伝わせて貰いいろんな方たちと知り合えた事は幸せだった。 
 しかし、強制連行の恐ろしさを知れば知るほど何故、ドイツのような教育ができないのか、と憤りばかりだ。 
 娘が六年生の時、交流集会で、「強制連行がなかった県は何県ですか?」と聞いたら、「いい質問ですね。でも、残念なことにどの県にもあったのですよ」との返事に驚き、中学の夏の研究で先の侵略戦争辺りの歴史をまとめ、お札をコピーし、何故、伊藤博文や、福沢諭吉をお札にするのか、と書いていた。
 同じころ旧日本軍による性的被害女性とも交流させてもらっていた。集会の後の片付け最中、幼かった娘がいなくなり、キョロキョロ探していたのをハルモニが見て、「ああ、私がいなくなったとき、お母さんは、私をどんなに探したことか」と号泣された時から交流が始まり、名古屋や岐阜での集会後は、子どもや畑のある我が家がいいのか泊まって下さるようになった。
 夜、畳は嫌と台所の片隅で寝る彼女を見ながら、何故、この人は年老いて辛い体験を「聞いてくれてありがとう」と加害国の人たちに頭を下げ、お土産を持ち、時には集会で「何故、今頃になって証言するんだあ、金目当てかあ」と浴びせられなければいけないのか、と寝顔を見ながら涙をこらえるのが精一杯の時もあった。
 一番辛かったのは、平和展にきた三菱挺身対の被害女性達が、私の娘に、「その人は身体を売った人。汚いからこちらへいらっしゃい、話してはいけない」と言われた時。私は、「同じ戦争の被害者と思って下さい」と頭を下げたが、挺身対の会報にも、同一視される危険性とあり、こちらの支援をやめさせて頂いた事もあった。
 韓国での水曜日デモ時の事。カンボジアに置き去りにされた被害女性が車椅子にのり故郷を探しにいらしていた。私は、思わず駆け寄り、「ごめんなさい」と言った途端、誰かが、「イルボン何とか」と叫んだら「わああ」と号泣された。私も泣きじゃくった。そしたら私の背中を撫で続けてくれた。叩かれたり罵られたりした方が気楽だったか。
 故郷は、見つかったのだろうか。
 翌日の帰国便の機内の新聞では、でかでかと二人の様子が出ていた。金蓬洙さんが、とても喜んで訳してくれた。
 韓国からの被害女性は、必ず金蓬洙さんが、通訳してくれた。通訳の最中、あまりの酷い体験に、言葉が詰まりハルモニに、「しっかりしなさい」と叱られた事も。皆が泣き笑いした。そのハルモニが、だんだん元気がなくなり「ヨボセヨ~?」と元気で電話をくれていた回数が減り訃報を聞き、見えない敵に向かい怒鳴りたい位であった。こんな日本の現状のまま天国へ行かせてしまった。

■金蓬洙・金唱律兄弟が亡くなってから
 ハルモニ達にお返しもお礼も何も言えないけど、朝鮮半島の方々と仲良くして私にできることをと金蓬洙さんと頑張ってきたが、弟の唱律さんを追うようにして1923年生まれのオモニをおいて他界してしまった。
 事あるごとに思いだし、二人が入院していた病院を通る度に胸が締め付けられるようだ。「田舎の野菜は美味しいなあ」「コーヒー入れたるわ、インスタントやけど。「由井さん(カトリック神父で指紋押捺や、強制連行跡地によく来てくれたひと)の所で飲むコーヒーは旨いなあ。ああいう人達がいたから俺らこうして活動してこれた」、「地下壕案内が入った、空いてる?」こんな声が聞こえてくるようだ。

■追悼集会の報告をした
 12月8日、地下壕見学のあとの忘年会ではなくて望年会にて追悼集会の報告をした。地下壕研究会でもフィールドワークで行った事があったため様子はわかってもらえるがあれだけのものに、落書きや破壊されるということがないのはすごい!
 皆さんのご尽力に感謝と喜んでいた。地下壕メンバーも年をとり、なかなか思うように動けないのと、来年還暦を迎える私がメンバーの最年少。
 この先を案じることもあるが侵略戦争の被害をとにかく伝え続け、なかった事にはさせない。
                              2019年12月記
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紀州鉱山の坑口があった惣房と上川で暮らして

2020年11月05日 | 紀州鉱山
■紀州鉱山の坑口があった惣房と上川で暮らして■
                           宇恵 悟
 
■惣房での小学生時代
 石原産業の薬師炭坑があった三重県南牟婁郡紀和町小船で生まれ、小学校入学まで過ごしたが、薬師炭鉱の閉山に伴い、父は同じ石原産業の紀和町楊枝川にある銅山の紀州鉱業所・惣坊鉱区で働くことになり、家族5人で紀和町楊枝川の筑後と云う社宅に引っ越しました。
 1955年の小学校1年の途中でした。
 「山の斜面にへばりついたような格好で、一段に4軒の長屋が3棟ずつ位あり、全戸数が6~70軒くらいであったのだろうか、住民はみんな顔見知りでした。地区には集会所と浴場があり、あとは蛇神さんという小さな祠があり、年一回くらい何か祭事をやってましたが、あまりその名前の通り子供達には馴染みがなかったようです。
 他の土地のような、祭という様なものではありませんでした。その集落の下の川の、少し川下の向かい側には独身寮もあり、若い独身鉱員が多くいました。筑後の社宅の真向いには管理所という建物がありましたが、何をしてたのかは、聞いた事がある筈ですが、覚えていません。
 小船から一緒に転勤して来た人は、惣坊にはいなかったと思います。
 閉山時の小船で、団交を恐る恐るのぞき見しましたが、同級生の父親の表情は険しく、抗議をしていたような気がしています。
 通った三和小学校は山の中腹か少し上にあり、米込と云う社宅の近くで、ほとんど鉱山の関係者の子供ばかりで200名位の生徒がいたのかと思います。 
 築後からの通学は30分前後の山登りでした。父親は鉱山の支柱と云う仕事で、7:30~15:30位まで会社に行き、帰ってはいつも3~4キロ離れた熊野川で小船時代と同じくアユ釣りをしていました。
 戦時中火薬庫の爆発で難聴となった母は、私の小学校時代、土方をしていましたが、後年石原産業の三浦診療所で看護婦をしました。
 私達子供は、社宅の共同便所の横の通路?で、よくソフトボールをして遊び、休日には山で遊んだり、夏は社宅の下の鉱毒川で泳いだり、ちょっと遠征して川上の三浦と云う集落の奥まで行ってムツと云う小魚を釣ったりもしました。近所の友達の親は和歌山だったり、奈良だったり、福島の会津からの人もいました。他の地区の同級生の親も方々から来ていたようです。長谷には職員住宅があり、東京から来たという人が多かった印象があります。中学入学時くらいで故郷に帰った人も多かったようで、子供の中学校入学の為に職員住宅の人達は東京に戻ったような気がしています。
 三和小学校の教師の中にはごますりもいて、少数の反体制的な人もいたと云うことが担任の愚痴等からわかり、子供心にごますりはいやだと思ったものでした。当時としては珍しい年頃の美男美女のカップルが、運動会に来て、その女性の小学生の妹の応援に、そのお父さんも一緒に来て、仲の良い、幸せそうな家族にも見えました。
 惣坊から板屋への、ほとんど暗闇で会話も出来ない「がたがた、がたがた」と云う騒音のトロッコ電車の40分、築後の社宅の一番てっぺんで、3棟が並び、すぐ山が迫る長屋での穏やかな日々、長谷(はせと呼び、店町とも言った、今のスーパーのような配給所があった)の鉱山所有の会館で通年、無料の映画上映や、5月のメーデーの催し(労働歌を良く聞いたが、鉱山を離れると全然耳にしなかったのは不思議だった)、小遣いをたくさん獲られ、それ以来賭け事を遠ざけさせてくれた楊枝という処の薬師さんの祭り、そろばんとか習字が唯一の習い事だったが、どれも身に着かず、よく一人さぼっていた。そのようなことが思い出であり、小学校からの9年間はほとんど狭隘の自然の山、川、学校、住宅周りで過ごした。
 今思えば映画は私の人間形成にかなり影響を与えたと思う。悪を退治し主人公を慕う女性を置き去りに、馬に乗って去って行く渡り鳥、ヨットで太平洋を横断したタフガイは雨や嵐の中のシーンが多かったし、モテモテの金持ちの坊ちゃんでスキーヤー等、彼らは皆甘い声で歌も唄った。映画は私をスキーやヨット等の貴族趣味にした?し、カラオケ好きにもさせた。政治家や開発業者は悪いやつばかりだと、映画によって植え付けられ、今でもそんな人が進める高速道路や橋の建設には抵抗がある。
 中学に入ってから一度だけ子供達で近くの町(新宮)にバスで行ったことがあったが、どういう事情だったか思い出せない。小学低学年の頃は、夏休みに家族で何度か勝浦に海水浴や木本の花火に出かけた思い出がある。

■上川での中学生時代
 中学校は5キロ以上離れた楊枝の、熊野川を見下ろす上川中学校に自転車で通った。
 上川小学校からの生徒と併せて全校で150人くらいになったのだろうか。
 三和小学校で三浦の社宅や大河内にいた同級生は、惣坊からトロッコ電車で紀和町板屋の入鹿中学校に通った。又長谷の職員住宅に住んでいた幹部職員の子達は家族で東京に引っ越して行った人が多かった。その職員たちをえらいさんとよく言ったが、そんなえらいさんの子であった同級生が東京への修学旅行中に面会に来てくれた。懐かしく思って来てくれたのに、冷たくしてしまった。もう一度会ってお詫びしたいし、板屋の追悼碑も紹介したいと思う。
 最終学年は、母親が紀和町楊枝の町営診療所で働く事となり、一家で楊枝に移り、高校受験の準備と、熊野川での釣りとで、故郷を離れる前の日々を過ごしました。

■55年余を経て
 紀和町の楊枝川の鉱山を離れ、55年余を経た今、紀和町から程近い紀宝町に住んで、月一のカラオケを中学の2人の同級生と担任の先生とで楽しんでいるが、三和小学校から上川中学校に進んだ同級生のメンバーはいない。そのカラオケメンバーの先生は、初めての赴任で上川中学校に赴任し、学校の向かいの熊野川町の日足でバスを降り、渡し船で渡って上川中学校に着いたと、「細川たかしの矢切の渡し」をプロオケで歌いながらなつかしむ。

 楊枝川は新宮からだと日足から川を渡って徒歩で1時間位である。私が鉱山にいた頃は、国会や知事選挙も近隣では珍しく、野党が強かったが、今では近隣の市町村と同じく与党が優勢となっている。多分に子供の頃の映画の影響か、世の中は道理と正義が支配すると思って来たが、最近になって漸く間違いらしいと思うようになった。
 人々は金に支配されていると考えると納得がいくし、傀儡国家だと言われるのも、金に支配され、国家を裏切っていると思える人が各方面にいるからで、納得がいく。
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被害者の恨(ハン)はいつ晴れるか 初めて集会に参加して

2018年10月23日 | 紀州鉱山
 昨年11月18、19日の両日、「李基允氏と裵相度氏の24回目の追悼集会」と「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する追悼集会」に初めて参加した。
 所謂「木本事件」と三重県への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での過酷な強制労働については書物を通して知識としては知っていたが、実際に現場に足を運ぶのは初めてであった。
 虐殺現場を回り、差別戒名が記された墓石を見て、鉱山の周辺を回りながら犠牲となった朝鮮人の方々に一人の朝鮮青年として深い哀悼の意を表した。
 現場に来てみると、当時に思いを馳せ、追体験の努力を傾けるしかないのであるが、異国の地で「鮮人」と蔑まれ、デマによって虐殺され、過酷な労働の果てに無念の死を迎えるしかなかった被害者の悔しさを思うとやりきれない気持ちになると同時に、その事実を隠蔽しようとする様々な動きに対する怒りがさらに強まった。
 学生時代に「木本事件」を知った時、関東大震災での朝鮮人大虐殺から3年もたたないうちに地元である三重でこのような事件が起きていたという事に衝撃を覚えたが、今回集会に参加し、三重県の在日朝鮮人の歴史を少しでも調べてきた者として現場に足を運ぶのが遅くなったことを恥じるともに、この事件が「素朴な愛町心の発露」と記されている事実から、最近の関東大震災の虐殺否定論(「テロ計画からの正当防衛」)の跋扈を含め、様々な妄言が堂々と放たれる現在の社会状況に対する恐怖を覚えた。
 筆者自身が持つ力は微弱ではあるが、この事実をしっかりと記憶し、伝え、絶対に風化させてはならないという事を胸に刻んだ。
 筆者自身は強制連行被害者の子孫ではないが、同じ植民地支配の結果として「在日」する朝鮮人の一人として被害同胞の恨(ハン)が晴れるよう、微力を尽くしていきたい。
 最後に、様々な困難、特に歴史修正主義が蔓延する最近の社会状況の中で、あくまで責任追及の立場を堅持し、被害者の追悼と真相究明の活動を繰り広げられている主催者の方々に心から敬意を表したい。
                                       申正春
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紀州鉱山にて

2018年10月22日 | 紀州鉱山
 毎年この時期に紀州鉱山で亡くなられた35名の方々の慰霊祭が行われる。今年で11回目だという。
 強制連行で連れてこられた朝鮮人の、判明した犠牲者38名が石となって弔われている。紀伊半島の山あいの町、三重県熊野市紀和町。今でこそ車で行けるが、それでも大阪から山道をぬっての三時間半、揺れる道程。近くには熊野川が流れ、瀞峡としてジェットボートが走る、名が知られた奥地である。この日のために各地から約五十名の方々が集まり、黙とうをし、語り、偲んだ。
 過酷な労働に耐えきれず逃げきれず殺されたり、劣悪な環境のもと、事故で、病気で亡くなられた方々。朝鮮半島の江原道や慶尚北道から何処かも知らされず連れてこられた紀和の町。こんな山奥に来なかったら死ななくてもいい命が消されてしまった。
 70年余りが過ぎていても、清算を求める主催者の日本人からの「日本人の責任」という言葉に心が震え、私自身ほとんど関わる事のなかった在日中国人の、連帯とはどういうものを示してくれる言葉に感動を覚える。
 それでも歳月が歴史の重みを流し、加害の事実を消してしまおうとしている。
考えて見れば被害者の歴史でもある原爆犠牲者慰霊祭は毎年盛大に行われているが、一方で加害の歴史、侵略の歴史は置き去りにされている。不条理だと思う。私もまた置き去りに加担するわけにはいかない。父母の墓参りを欠かさないようにできるだけ毎年こようと思う。在日のひとつの8・15でもある。
                                    郭政義

 注記 筆者の許可を得て、民族教育をすすめる連絡会通信『아이』第29号(2018年1月25日)から転載しました。
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紀州鉱山追悼式を民団の継続事業として

2018年10月20日 | 紀州鉱山
 アンニョンハセヨ
 民団三重県本部団長 殷慶基と申します。
 今回第11回目となる紀州鉱山で亡くなられた方々の追悼式を迎えるにあたり、金静美氏・地元の日本の方々又、関係各位の皆様に心より感謝を申し上げます。
 昨年、第24回目の李基允氏・裵相度氏の追悼式又、第10回目の紀州鉱山の追悼式に民団三重県本部として初めて11名参加させていただきました。そして、皆様と一日懇親会をさせていただき心が一つになった思いです。
 過去において韓国と日本の間に起きた不幸な歴史、実存した悲しい出来事を振り返り二度とこの様な事が起きないように民団としては地域の住民・市民として微力ながら韓国と日本との架け橋となるように努力・協力を行っていきたいと思っております。
 現在、民団三重県本部は旧青山トンネル追悼慰霊祭を今年で14年目を迎えました。
今後は紀州鉱山追悼式を民団の継続事業として微力ながら協力させていただきたいと思っております。
 結びにあたり関係各位の皆様に心より敬意を表します。
                                         殷慶基
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2017年の追悼集会(2) 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集会

2018年10月19日 | 紀州鉱山
2017年11月19日、熊野市紀和町板屋の追悼の場で、追悼集会を開催しました。集会主催者の挨拶と参加者の発言を紹介します。(竹本昇記)

■主催者からの挨拶(佐藤正人)
 追悼碑ができたのは2009年です。追悼碑建立宣言の最後に、
  わたしたちは、この追悼碑を一つの起点として、紀州鉱山から故郷に戻ることができなかった皆さん、海南島で死んだ朝鮮人、そして、アジア太平洋の各地で日本政府・日本軍・日本企業によって命を奪われた人々を追悼し、その歴史的責任を追及していきます
と書きました。最近、わたしたちはこの宣言で自分たちに課した課題の緊急性と重さを実感しています。
 日本の各地に、強制労働させられ命を失わされた朝鮮人、中国人の追悼碑がありますが、それを撤去させようとする自治体が出てきました。
 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑が建てられてから4年後の2013年に、「関東大震災で虐殺された中国人労働者を追悼する集い」が発足しました。虐殺90年後です。
 過去の侵略犯罪の国家責任をとろうとしないだけでなく、その国家犯罪そのものを認めようとしない日本政府を支持する日本人が多くなっている時代に、この90年後の出発は大きな歴史的な意味をもっていると思います。
 日本政府・日本軍が、1868年の維新クーデタ以後、アイヌモシリやウルマネシアや台湾や朝鮮や中国や日本で、どれだけの人を殺したかが、まだはっきりしていません。日本政府は、その名前を明らかにしようとしていません。日本の国家犯罪、日本の侵略の歴史を明らかにするということは、日本政府・日本軍・日本企業が殺した人たちの名前を明らかにさせ、責任者を処罰させ、謝罪させ、賠償させるということが絶対必要だと思います。
 アジア民衆の力をかりて、日本政府の侵略犯罪の歴史的事実を詳細に明らかにし、告発し、日本政府に、真に謝罪させ、賠償させ、侵略犯罪をくりかえさせないようするのは、日本民衆の責任だと思います。
 今、日本政府が日本の国家犯罪の事実を認めようとせず、日本の侵略の時代(1868年クーデタ以後の150年)を美化し天皇制を維持できるのは、それを支持する日本人が多いからです。 
 このような時代を変えていくには、わたしたちの力があまりにも足りません。
 日本国家の侵略犯罪の歴史を断ち切るのは日本人のもっとも重要な課題です。
 日本人であるわたしは、ここに集まってくださった中国人や朝鮮人に助けられています。これからもよろしくお願いします。

  写真 2017年11月19日 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する第10回集会のとき

■追悼碑の土地に不当課税したことを取消させる裁判の報告(竹本昇)
 追悼碑を建立することは熊野市の責任だとして、熊野市に追悼碑の建立を求めましたが、熊野市が拒否しました。そこで、私たちは皆さんの協力を得て、2009年に、この土地を購入して、追悼碑を建立しました。
 その土地に、三重県は不動産取得税を、熊野市は固定資産税を課税してきました。
 行政が朝鮮人を強制連行し亡くならせた責任をとらなければならないのに、逆に、追悼碑を建立した土地に税を課してきたことに対して、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、課税処分の撤回を求めて、2011年に裁判を起こしました。
 第1審津地裁、第2審名古屋高裁、最高裁まで闘いましたが、裁判所は歴史責任には触れることなく、不当判決を出しました。
 そこで、もう一度裁判を起こしました。2回目の裁判も、結果は、1回目の裁判と同じ不当判決でした。今度は、わたしたちは、司法の侵略責任を問う上告理由書を最高裁に叩きつけました。
 裁判は結果として形では負けましたが、私たちは、中国人・朝鮮人強制連行、強制労働の事実を日本社会に知らせ、日本人の責任を追及していく運動を続けていくという意味で、決して負けてはいない、これからも頑張りたいと思います。

このあと、トランペットによるアリランが奏でられるなかで、全員、献花と献杯の後、チェサがおこなわれました。そして、参加者の思いが述べられました。

■参加者の発言
Yさん 四日市から来ました。紀州鉱山で亡くなられた歴史の事実を、あまり地元の人が知らない。民族教育を受けていない人たちに、この事実を伝えていくことを考えています。来年もまた、参加したい。ここに多くの青年を参加させたいと考えています。

Kさん 四日市から来ました。今から16年ぐらい前から、仕事の関係でこの前の道を年3回通っていました。4年ぐらい前ですか、同胞たち と一緒にここを訪れました。昨年は残念ながら来れなかったのですが、きょうは青年たちとやってまいりました。民団の人たちも参加さ れ、また、日本の方々も以前より多く参加されて、とても嬉しく思います。
  わたしたちも、これからも、より多くの同胞の人たち、青年の人たちとともに連帯を盛り上げていきたい、歴史を伝えていきたいと 思っております。

Kさん 松阪市から来ました。2日間、知らなかったでは済まないことが、かなり沢山あることを皆さんの話を聞いて解って、自分自身で考えて学んでいかなくてはいけないと、感じました。

Tさん 松阪からやって来ました。継承していきたいと思っております。

Sさん 大阪から来ました。追悼碑の最後の文の中で、普通は、追悼碑は「追悼します」で終わっているのですけど、ここは、「追悼す る」ではなく、「責任を追及していく」というのが、カッチョいいと思っています。

Iさん 和歌山から来ました。初めて参加することができました。故郷に帰れない魂を皆で。私は、年一回しか来られないかも解りませんけれども、今日は参加できて本当に良かったと思います。なんか、できることがあったら、これからも、ともに頑張りたいと思います。

Sさん 四日市から来ました。こういう事実を今の日本の世論全体が覆い隠そうとする。今の政権もそうです。これはもう、全然、戦前から何も変わっていない。そういう変わってないところを、私たちは、継続して、粘り強く、知らせていく、こういう運動に死ぬまで関  わっていきたいと思うし、また、一人でも多くの皆さんに理解を得て、仲間を増やして、正面から取り上げていく運動に、力のある限  り、頑張っていきたいと考えています。

Sさん 四日市から参りました。2日間、初めて参加させていただきました。書物だとか資料で見るのより、現地に立ってみると、思うことが全く違ってくる。石に刻まれている故郷の本籍地と名前を見ると、彼らが、異国の地で帰れることなく亡くなってしまったハン、口惜 しさ、恨みを残して逝かれたことを思う。僕は、まだ30歳の若輩ものですので想像するしかないですが、その想像を続けて、研究・勉強 を深めて、彼らの想いを忘れずに、記録していく者として、この歴史を覆い隠そうとする者に対して、抗う者として尽くしていくつもり です。

Kさん 東京の八王子から来ました。今年も、この集会に参加できて、とても嬉しいです。どんどん、参加者も増え、非常に力強く感じております。

Hさん 大阪から今回初めてきました。アリランの調べが心を打ちました。

Uさん 東京の八王子から来ました。力強い会になったのに、紀州鉱山資料館には、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人についての歴史とか出来事とか遺跡などが、何にも展示されていない。来年は是非、展示してほしいです。来年も来ます。

Gさん 松阪から来ました。朝鮮人の第10回追悼式に、皆さん、本当にご苦労さまです。来年もまた、ぜひ、来てほしいんですワ。

Tさん 津から来ました。ここに最初に足を踏み入れたとき、なんと空しいという気がすごく溢れたのですが、今、こうして、献花されているのを見たら、少し、慰めになりました。

Hさん 鈴鹿から来ました。このように本当に深い悲しみの歴史を感じながら10回、また木本は24回、たゆまぬ努力をされた皆さま方、これからも、このような集会がありましたときには、ぜひ、参加をさせていただきたいと思います。

Hさん 千葉から来ました。

Sさん 隣の御浜から来ました。これまでになく、たくさんの人を初めてみました。来年も元気で皆さんの顔を見られることを希望しま す。

Yさん 桑名からきました。昨日から今日と、日本の方、在日の方、朝鮮の方、寒い中。今まで、24年間、本当に、ここ三重県にいる在日として、民団の者として、今まで、していただいた方に、本当に、感謝申し上げます。この24年、こうして守っていただいて、本当にあ りがとうございました。

Rさん 神戸から参りました。在日中国人です。私は、関東大震災のとき、虐殺された中国人労働者を追悼する会を主催しております。李基允さん・裵相度さんのあまりにも無残に虐殺された二人の名誉と尊厳を回復するために闘ってくれた皆さん、そして、また、ここで、 紀州鉱山で亡くなった35人の朝鮮人の同胞・兄弟のことを決して忘れない、その責任を明らかにしていく、そういう形で取り組まれてい る皆さんに敬意を表します。関東大震災のとき、皆さん、ご存知のとおり、6000人と言われる朝鮮人が虐殺されました。そのとき、名簿 にでているだけでも750名以上の中国人が虐殺されました。その虐殺の仕方が、軍、警察だけではなくて、一般の民衆が加わって、大島町 では、意図的に中国人を「これから余震が来る。安全な所に連れていくから、お前らついて来い」と言って、広場に連れて行って、「こ れから余震がくるから、皆、地面に頭を伏せろ」と言って、皆に伏せさせて、その上から、日本人の警察と一般の民衆が一緒になって、 中国人をとび口、ハンマーで殺した。そこで考えることは、やっぱり、それは過去のことだったのかと。郷土史を見たら、李基允・裵相 度さんを襲った町民たちは、「愛町心である。町を愛する気持ちで朝鮮人を殺した」、今の行政・教育員会がそういうように解釈してい ることに恐怖を感じます。実は、つい一週間前に、奈良の南京大虐殺に関わった日本兵を訪ねたのですが、その兵士が「あのガキどもが 反抗したから、ワシは殺したのだ」と言い切りました。今なお、日本意識の中に残っている、しかもそれが脈々と生きている、そして、 それが今、安倍政権のもとで、もたげようとしている。このことに、はやり、恐ろしさを感じます。 
  私たちは、これらの同胞・兄弟たちを追悼すると同時に、二度とこのようなことを許さないぞ、ということをこの社会に向けて発信していかなければならない。具体的に行政に対して、働きかけていくことが必要と思います。関東大震災のとき虐殺された中国人のことに 取り組んでいて、やっぱり、いろんな形で、妨害・邪魔があります。だけど、今、ここで引いてはいけない。あったことを、なかったこ とにしようとする社会に向かって、はっきりとものを突きつけて行く、この想いに朝鮮人・中国人という差はありません。我々は一緒に なって、国境を越えて、手を握り合って、不条理な不合理なことをキチットさせていく、過ちを質していくために政府や行政の責任を追 及していくことを皆さんと一緒にやっていきたいと思います。

Oさん 亀山から来ました。諸悪の根源は、戦い、すべての原因です。戦争をしないための知恵、どうしたらいいかということを真剣に考えて行かなければならないと思います。

Kさん 2008年3月8日に選鉱所の前で第1回目の追悼集会を行い、同じ年の8月津市で、民団・総連・紀州鉱山の真実を明らかにする会の3者で「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する会」を結成し、2010年3月28日に、ここで3者合同の除幕集会を持つことができました。そ の後、3者の毎年毎年の追悼集会を残念ながらもつことができなかったが、今回は、3者と、さらに中国人の方も参加されました。この会 の創立の趣旨に沿った実態をもった記念すべき集会になりました。

Yさん 亀山市から来ました。日本の国が、少し、危ないのではないかと思うので、ちょっと、皆さんも気を付けながら。昔に戻らないよう、また、こういう悲劇が起こることのない時代になるように、頑張っていただき、私も頑張ります。

Kさん 大阪から来ました。すぐ忘れてしまうので、一年に一回ぐらいは、ここに来て、過去のことを思い出す、あるいは、これからのことについて考えています。ここに来て良いのは、主催者の方々と集まった人の声を聴くことができて、あ~いいな、と。
  先ほどお話をしていただいた中国人の虐殺のことについて、世の中で自分の知らないことを、各地で自分の責任と自分の足場で取り組まれている、そういう人が、こういう場に集まるというのは、碑をつくられた主催者の一つの願いではないかな、と思います。原爆投下 については国家的な行事として慰霊していますが、8月15日も。それに負けずに劣らず、自分たちのできることは自分たちでやっていくこ とが大切と、いつもこの会に来て思い知らされます。

Oさん 松阪から来ました。木本の碑は高台にあるので目立ち難いが、建てた後、碑が無事に立っていることを見守っていきたいと思います。 

Aさん 四日市からきました。三重県に住んでいながら紀州鉱山で亡くなられたその事実を4~5年前まで知らなかった。1923年の関東大震災時の虐殺が、1926年の木本での虐殺が起こっていますが、その当時、全国でこういう事件が起こっていなかったのかという想いに立つ のです。李基允さん・裵相度さんの90年経ってもまだ晴れることのないハンが、いつになったら晴れるのかという想いで、一日も早く、 ハンの気持ちを癒やすことができるように頑張っていきたいな、と思います。



3 交流会 18日夜、宿所で交流会を持ちました。
■交流会での発言
 「関東大震災で虐殺された中国人労働者を追悼する集い」を主催している参加者は、
   「当時、中国政府からの抗議に日本政府は虐殺の事実を隠しきれず、20万円の賠償金を支払う約束をしているという交渉記録が存在している。この事実は隠しきれない。3年後に起こった木本事件は、日本全体がそういう状況であったことを示している。今、同じ状   況にある。決して過去の問題ではない。だからこそ、今、真相を究明し、二度と起こさせないよう、政府・自治体の責任を明らかに   していかなければならない」と話しました。

  民団三重県本部の皆さんからは、
   「国境を越えて、一緒に取り組んでいきたい。これからの若い世代に歴史的なこととして伝えていきたい」

 「道徳教育の復活など、前にも増して深刻になってきたと思う。戦争を体験した母親に『なぜ、戦争を止められなかったのか』と問うたとき、母は、『その時代は天皇は神様で、そういうものだったのよ』と言った。私は、殺す側にも殺される側にもなりたくない、私たちの人間的な世の中にしていきたいと思うので、毎年、この集会に来て、運動を広めていきたいと思う」と話しました。

  障害者施設に勤めている職員は、
   「こういう集会に参加しないと、こういう事件があったことも知らず、考えることのない自分でいるだろうと思う」と発言し、

  被差別部落出身の参加者から
   「在日朝鮮人が、部落だからといって卑下する必要はないと教えてくれた。追悼碑の建立について、朝鮮人から日本人への感謝を述べられるが、植民地支配で朝鮮から強奪したうえで生活を成り立たせいる日本人は感謝される立場ではない」
   などの意見が出されました。
                                                        (竹本昇記)


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「<紀州鉱山>徴用犠牲者を追悼…市民集会に民団三重から初参加」

2017年12月05日 | 紀州鉱山
http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=12&newsid=24023
『民団新聞』 2017.11.29
■<紀州鉱山>徴用犠牲者を追悼…市民集会に民団三重から初参加

【写真】墓標のかわりとなる35個の石に献花し献杯

【三重】第2次大戦中、紀州鉱山に徴用され、亡くなった同胞を追悼する第10回目の市民集会が19日、熊野市内の碑前で営まれた。主催は1992年に発足した「紀州鉱山の真実を明らかにする会」。
 今回初めて民団三重本部(殷慶基団長)から殷団長をはじめとする代表11人が参列した。
 同会による13年間にわたった調査によれば、現場で過酷な労働を強いられた同胞は少なくとも1000人以上。このうち家族も含めて35人の死亡を確認したという。10年3月には現場近くに追悼碑を建立した。
 碑の前には死亡者の名を記した35個の小さな石が置かれている。参列者はその一つひとつに献花して献杯した。
 民団関係者は18日、1926年に木本町(現熊野市)で住民の襲撃を受けて死亡した李基允さん(当時25)と裵相度さん(同29)を追悼する集会にも参列した。


http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=3&newsid=11825
『民団新聞』 2009.9.30
■強制労働の記憶、碑に 紀州鉱山
 同胞・市民が来春建立 三重県熊野市
【三重】県南部の熊野市紀和町の紀州鉱山(石原産業経営、78年閉山)に強制動員され、亡くなった同胞を追悼する碑の建立計画が現地で進んでいる。中心となっているのは、10年ほど前から事実の掘り起こし作業を進めてきた市民団体「紀州鉱山の真実を明らかにする会」。賛同団体には地元の民団三重本部(申載永団長)も加わっている。
 1940年から日本の敗戦までに紀州鉱山で苛酷な労働を強いられた同胞は1000人を超す。紀和町の慈雲寺本堂に置かれている『紀州鉱業所物故者霊名』によれば、犠牲になった同胞は名前が明らかになっているだけでも32人に上る。
 同会は6日、県教育文化会館で第2回集会を開き、来春の碑建立計画を発表した。報告によれば「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会」を発足させたのは昨年8月のこと。今年7月には碑を建立するための土地200坪を入手し、来年3月28日に除幕を予定している
 建立する会の関係者は「当時、強制労働で亡くなった英国人捕虜16人の追悼式は毎年行われており、町史にも記載されている。だが、同じ強制労働で亡くなった朝鮮人にはなにもされていない」と訴えた。
 民団の窓口となっている伊賀支部の申載三支団長も、「亡くなった人のためにも、紀州で何があったのかを市史に記載していかなければならない」と語った。
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「朝鮮人労働者の冥福祈る 旧紀州鉱山 追悼集会に50人」

2017年11月25日 | 紀州鉱山
『毎日新聞』2017年11月20日朝刊 熊野版   汐崎信之 
■朝鮮人労働者の冥福祈る 旧紀州鉱山 追悼集会に50人
 第二次世界大戦までに旧入鹿村(現熊野市紀和町板屋)の旧紀州鉱山で働き、亡くなった朝鮮人労働者と家族計35人を追悼する集会が19日、同町板屋の朝鮮人追悼碑前であった。10回目の式には約50人が参列し、一人一人の名が記された石に赤いカーネーションなどを献花し、冥福を祈った。
 2007年にできた「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会」主催。追悼式は08年に始まり、碑は10年に建てた。同会の調査で同鉱山で1300人以上の朝鮮人が働き、経営していた会社の労組名簿や地元の寺の記録から亡くなった35人の名が判明した。
 式では、同会代表者の金靜美(キムチョンミ)事務局長はじめ、栃木や大阪などの在日の朝鮮人と中国人、支援者らがろうそくに点火した。
 会設立時からのメンバーで伊賀市下郡の竹本昇さん(67)は、「参列者が増え、運動の広がりを感じる。侵略、植民地支配の事実確認を進めたい」と話した。
 
【写真】朝鮮人追悼碑に献花する参列者=熊野市紀和町板屋で   

                    

『中日新聞』2017年11月21日朝刊 くろしお版   木造康博
■戦中の歴史 記憶する  紀和 朝鮮人労働者を追悼
 熊野市紀和町の旧紀州鉱山で戦時中に労働を強いられたとされる朝鮮人労働者を追悼する集会が十九日、同町板屋の追悼碑前であった。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会(和歌山市海南市)が催し、メンバーや在日の朝鮮人ら五十人が参加。死亡者の名が記された自然石にカーネーションなどを献花したり、日本酒を注いだりして冥福を祈った。
 同会によると、鉱山で働いていた朝鮮半島出身の労働者は約千三百人で、家族を含め亡くなった三十五人の名が分かっているという。事務局の佐藤正人さん(七五)は「名前の分らない人が数多くいる。日本の侵略の歴史を明らかにしていきたい」と話した。

【写真】献花したり日本酒を注いだりする参加者=熊野市紀和町板屋で
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