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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「紀州鉱山の韓国人徴用工  苦難偲び追悼集会」

2025年01月01日 | 紀州鉱山
『民団新聞』(第3073号)、2024年12月25日

【三重】太平洋戦争中に熊野市紀和町の紀州鉱山に徴用され、亡くなった韓国人労働者を偲ぶ追悼集会が8日、追悼碑前で営まれた。民団三重本部(洪光子団長)が主催し、団員のほか駐名古屋韓国総領事館の金星秀総領事ら25人が参加した。
 洪団長は「これからも追悼集会に関心をもってもらい多くの参加を呼びかけていく」と挨拶した。金総領事も「今後も持続的な支援と改善のために努力する」と述べた。
 同鉱山には1940年から45年にかけて少なくとも1000人が韓半島から連れて来られ、追悼碑には名前が判明している35人が刻まれている。

【写真】紀州鉱山徴用工追悼集会に参加して団員一行
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「 紀州鉱山の朝鮮人追悼碑、日本自治体が私有地課税」

2022年01月30日 | 紀州鉱山
https://www.wowkorea.jp/news/korea/2011/0517/10083923.htm


「wowKorea」 2011/05/17 09:04配信 最終更新: 2011/05/17 09:59
■紀州鉱山の朝鮮人追悼碑、日本自治体が私有地課税
【ソウル17日聯合ニュース】日本の植民地時代に強制動員されて死亡した朝鮮人を追悼するために建立した記念碑の土地に、日本の地方自治体が「公共性がない」として税金を課し、現地市民団体が強く反発している。
 日本の市民団体「紀州鉱山の真実を明らかにする会」によると、同団体は昨年3月に、三重県熊野市の紀州鉱山に強制動員され、現地で死亡した朝鮮人35人を追悼する碑を建立した。
 同碑には「朝鮮の故郷から遠く引き離され、紀州鉱山で働かされて、亡くなった人たち。父母とともに来て亡くなった幼い子たち。わたしたちは、なぜ、みなさんがここで命を失わなければならなかったのかを明らかにし、その歴史的責任を追及していきます」と書かれている。
 市民団体は当初、鉱山を運営した石原産業と熊野市に土地提供や資金などの支援を要請したが、断られた。そのため、在日韓国人有志に資金を借り、2009年7月に土地を直接購入した。
 熊野市は「公共性のない私有地」として、その土地に不動産取得税2万6300円と固定資産税1万6200円を課税した。市民団体側は、「土地は朝鮮人強制動員事実を伝え、歴史的責任所在を明らかにする公共的場所」と主張。朝鮮人を追悼する場に対する税金を、1円でも納入することは、日本の行政機関の侵略犯罪に加担することだとして強く反発している。
 これと関連し、同団体は3月18日に三重県と熊野市に課税賦課処分の取り消しなどを求める行政訴訟を津地裁に起こした。
 紀州鉱山は1934~1978年に運営され、1940~1945年に江原道を中心に朝鮮人1000人余りが強制労働を強いられた。熊野市当局は当時、鉱山に強制動員されて死亡した英国人捕虜16人の墓地は史跡と指定して管理しているが、朝鮮人死亡者と関連しては何の措置も行っていないという。
 民族問題研究所の朴漢竜(パク・ハンヨン)研究室長は、「日本の市民が朝鮮人強制動員現場を保存したのは誤った過去を繰り返さないという重大な成果。自治体が公共性を否定するなら、真の韓日友好と連帯を妨げる行為だ」と話した。
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紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する13回目の 追悼集会に参加して

2021年10月31日 | 紀州鉱山
■紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する  13回目の 追悼集会に参加して■
                                      嶋田 実

 2020年11月22日(日)に開催された「紀州 鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する13回目 の追悼集会」に数年ぶりに参加しました。
 例年ですと土曜日に熊野市で追悼集会を行い、 翌日に紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼す る会の追悼集会を行うパターンでしたが、今 回は新型コロナウィルスの感染防止対策から、 熊野の集会を終え、そのまま紀和町に移動し、 集会を行いました。
 久しぶりに訪れた追悼の場は、だいぶ様変わ りしており、これまで熊野、紀和町の 山々をみていると変わらないことのほ うが多いように思っていましたが、今回 はいろいろな場所で時間が進んでいる ことを感じました。
 追悼の場の道を挟ん だ正面には、道の駅ができており、そこを訪 れていた若い30歳代くらい男性が、追悼集 会で私たちが集まっているのをみて、「何か あるんですか?」と尋ねてきたことが印象的 でした。きっと、向かいの道の駅に来た人が ふらりとこの追悼碑を見に来ることもきっと あるんだろうな、と思いました。 
 今年もこの追悼集会に多くの人にご参加い ただき、多くのコメントをいただきました。 追悼の場を基点として、広がりを感じること ができる追悼集会でした。



■李基允氏と裵相度氏を追悼する27回目の追悼集会■                
                                金靜美
                                                            
 1926年1月3日から、94年と11か月。2020年 11月22日はよく晴れた日だった。 
 ふたりの名前を刻んだ碑石の前で、参加者 はいつもと同じく、花を手向け、献杯し、ひ とりづつ、ことばをつむいだ。 
 碑の前で、あらためて思った。李基允氏 や裵相度氏たちは、家族や同胞とともに、 異郷に来て、 日々の生活は、どんなふうだったろうか? 
 1926年1月3日、日本人住民の襲撃に逃げ まどいながら、どれほどの憤怒にまみれた だろうか? 
 仲間の無残な死に、どのように耐えたのだろ うか? 
 かれらの憤りは、消えさることはない、と 思う。
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円通院から本龍寺へ  紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の遺骨

2021年10月31日 | 紀州鉱山
■円通院から本龍寺へ  紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の遺骨■
                                    金靜美

  本龍寺がある和気の区長、久保理也さんと、地元で長く本龍寺を管理してきている西正道さんに、2019年11月30日、お会いした。久保理也さんから、「本龍寺の住職は以前は、高橋和尚。楊枝川にあった円通院の住職で、本龍寺を兼務していた。(本龍寺にある遺骨は?)紀州鉱山の遺骨は、円通院から運んできた。日本人の遺骨も、紀州鉱山で働いていた人。家族があとでとりに来るからといって、置いていった」と聞いた。
 1990年代はじめ、紀州鉱山の調査をはじめてすぐのころ、本龍寺に置かれている朝鮮人の遺骨は、円通院からうつされてきた、とさいしょに聞いた。当時の記録は見当たらないが、たぶん、このときも、西正道さんと久保理也さんからお話を聞いた、と思う。
 当時、円通院のことを知り、「過去帳」を探して、亡くなっていた高橋住職の家族を探した。娘さんの連絡先を探し当て、電話で話したが、「過去帳」はないということだった。それから二十数年。円通院のことは気にかかっていたが、訪ねることができずにいた。
 2021年7月26日、杉浦新吉さんの娘さんの家を訪ねたあと、宇恵悟さんの案内で、円通院に行った。宇恵悟さんは、中学時代、筑後の社宅から楊枝の中学校への行き帰りに円通院の前を通ったという。高橋住職にも、ご家族のお葬式で会ったことがあるという。
 円通院は、木々が覆った川沿いの道路わき、低い山並みの裾に位置している、
そこは、何回も車で通ったことがあるところだった。周りに人家が一軒もない。紀州鉱山の調査をはじめたころ、車で道路を走りながらとつぜん現れた墓群におどろき、車を止めた。
 この墓は、紀州鉱山に関係がないか、朝鮮人の墓はもしかしてないか、と思い、墓の文字を読んだ。
 円通院は、いまは建物はないが、宇恵悟さんによれば、本堂があったという。
この本堂に置かれていた朝鮮人の遺骨が、高橋住職によって本龍寺に移されたのだ。
その後、本龍寺に置かれていた朝鮮人の遺骨は、2017年11月に曹洞宗人権擁護推進本部の工藤英勝さんが持ち去った。工藤英勝さんは、いま朝鮮人の遺骨はどこにあるかという問いに、「答えられない」(2019年11月25日、電話で)といった。



■本龍寺に置かれていた朝鮮人の遺骨はいまどこに?■  
                                      金靜美

  「関西地域 民族教育関係者 研修会」で熊野に行くので、その準備のために、2019年11月16日、現在本龍寺の兼任住職をしているという新宮の宗応寺の住職と電話で話をしました。
 宗応寺の住職の話では、本龍寺の朝鮮人の遺骨は、曹洞宗の「宗務庁の人権擁護推進本部から来て持って行った」、「いまどこにあるかわからない」、「人権擁護推進本部から本龍寺に感謝状が届き、いま額に入れて本堂にかけてある」ということでした。
 工藤という人は、2008年7月、熊野地域に残されている朝鮮人の遺骨の調査をするということで、紀州鉱山の真実を明らかにする会に協力を依頼してきた曹洞宗人権擁護推進本部の工藤英勝さんのことだと思います。紀州鉱山の真実を明らかにする会では、2008年7月15日・16日の二日間、会員が同行し曹洞宗人権擁護推進本部の「調査」に協力しました。

 ◆2019年11月25日、曹洞宗人権擁護推進本部の工藤英勝さんと電話で話す
 11月25日、曹洞宗人権擁護推進本部の工藤英勝さんと電話で話しました。
 以下は電話でのやり取りの要約です。
※キム:無縁塚から遺骨を持ちだしたのは事実か?(とまず確認し、その経緯を尋ねました)。
※工藤英勝氏:答えられない。
※キム:なぜ答えられないのか? 遺骨は現在どこに置かれているのか?
※工藤英勝氏:答えられない。
※キム:あなたの人権擁護推進本部での役職は何か?
※工藤英勝氏:答えられない。(重ねて聞くと)本部員です。
 いま日韓関係が????なので、返還できないで、そのまま置いてある。
      ※「?」は電話で正確に聞き取れませんでした。
※キム:これまで、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人のことを調査してきて、それを工藤さんは知っている、だから人権擁護推進本部の熊野の調査のときに、紀州鉱山の真実を明らかにする会に協力依頼してきた、本龍寺の遺骨の人たちを追悼する碑も作った紀州鉱山の真実を明らかにする会に一言連絡することは考えなかったのか?
※工藤英勝氏:お寺とお寺との関係で持って行ったので(このような表現でした)、そういうことは考えませんでした。
※キム:日本の寺が宗派の寺で保管してある朝鮮人の遺骨について調査を始めたのは日本政府の依頼であり、日本政府は、韓国政府の要請で、それにようやくとりかかった。韓国政府が日本政府にそれを要請したのは、韓国やわたしたちの会もふくめた民衆の要求に応じからだ。人権擁護推進本部が、それを無視して、紀州鉱山の真実を明らかにする会にひとことの連絡もなしにどこかに運んで、その所在も隠している。亡くなった人にも人権がある。その人たちの人権無視ではないか。
※工藤英勝氏:意見があるなら、宗務庁に意見を送ってください。
※キム:わたしは意見を言っているのではない、要請している。
※工藤英勝氏:(しばらく無言)。地元の人から要請があれば、(遺骨の保管場所について)教えることができるように検討する……。
 
 その後、久保理也さんに人権擁護推進本部に遺骨の保管場所を聞いてください、とお願いしました。
 本龍寺に置かれていた朝鮮人の遺骨をはじめて見たのは、1997年11月16日、紀州鉱山の真実を明らかにする会の3回目の紀州鉱山「現地調査」のときでした。
このときは、本堂奥に、多くの位牌、遺骨といっしょに置かれていて、わたしたちは、朝鮮人の遺骨、5人を確認しました。
 在日本大韓民国民団三重県地方本部では、1980年10月に、三重県内に置かれていた朝鮮人の無縁仏』76柱を、韓国の国立墓地「望郷の丘」に移葬したということです(『民団三重50年史』民団三重50年史編纂委員会、在日本大韓民国民団三重県地方本部発行、1998年)。
 1980年10月に「望郷の丘」に移葬されたという76柱の名前の中に、1997年に紀州鉱山の真実を明らかにする会が本龍寺で確認した朝鮮人の遺骨もふくまれていたため、紀州鉱山の真実を明らかにする会では、その後、在日本大韓民国民団三重県地方本部に問い合わせましたが、当時、三重県内の遺骨調査と収集にかかわった人がいなくなり、その遺骨を収集した場所の記録や名簿の原資料も探せないということでした。
 以前慈雲寺の住職から、在日本大韓民国民団三重県地方本部がかなりまえに寺に置かれていた朝鮮人の遺骨を持って行ったと聞きましたが、このときのことと思います。


■2005年5月30日の『中日新聞』の記事「朝鮮人の遺骨 母国へ」を読んで■
                                    金靜美

 2005年5月30日の『中日新聞』に、本龍寺の朝鮮人遺骨に言及しつつ、大韓民国民団三重県本部が「(韓国への)遺骨移送への組織づくりを進めている」という記事が出ました(「朝鮮人の遺骨 母国へ」)。
 1980年10月に在日本大韓民国民団三重県地方本部が「望郷の丘」に移送したという朝鮮人の遺骨が本龍寺に残っている真相も不明で、さらに、2005年段階で、また、在日本大韓民国民団三重県地方本部が本龍寺に残されている朝鮮人の遺骨を「望郷の丘」に移送する準備を進めているということを『中日新聞』の記事で知った紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2005年6月21日、「大韓民国民団三重県本部のみなさんといっしょに、本龍寺の遺骨の真相糾明をふくめ、紀州鉱山における朝鮮人の強制連行・強制労働の真相糾明をすすめたいと思います」という手紙を送りました。
 同年6月24日、在日本大韓民国民団三重県地方本部団長殷鍾秀、三重県日韓親善協会会長加藤純一の名前で、「真相糾明と遺骨の本国への安葬は別のものと考えており、ただただ異国の地でひっそりと眠っているご遺骨を、一日も早く母国の地に埋葬し、母国の地で安らかに眠っていただきたいとの一心」という返事が届きました。その後、在日本大韓民国民団三重県地方本部の事務局長韓九さん(当時)、在日本大韓民国民団三重県地方本部の関係者と会いましたが、本龍寺の遺骨の真相糾明について。共同調査を進めることはできませんでした。
 そして、本龍寺に置かれていた朝鮮人の遺骨は、2017年11月に曹洞宗人権擁護推進本部が持ち去りました。
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追悼場2021

2021年10月28日 | 紀州鉱山
■追悼場2021■
                                 宇恵悟

 追悼碑に関わるようになって、10年も経っているのですが、2つの追悼の場が納得のいく形で整備(草刈り)が出来、満足して集会に参加する人を迎えられたことはなく、今年こそ十分な準備をしようと、前の集会が終わって、すぐに整備に通い始めたのですが、集会まで一か月となってまだ区切りがつきません。
 10年と言えば、築10年の板屋の木造の建立宣言台が朽ちて、上部が見事に崩落(?)しました。元のように上手くは出来ませんでしたが、残ったセメントブロックの土台とか、支柱などのおかげで簡単に復旧出来、先人の努力に改めて敬意を表しました。宣言台に限らず多くの場面で追悼場を造り上げた人々の思いを感じています。
 20年以上もかけて、遠隔地から追悼碑建立に足を運び、地元住民の聞き取りや犠牲者の故郷の韓国にまで出向いて、聞き取り調査をし、多くの同志を募り、地元の無理解や市議会等との度重なる交渉に業を煮やしながら、費用も自ら調達し、それぞれのメンバーの居住地と熊野を数限りなく往復し、2つの追悼碑を建立し、建立以来、毎年の追悼集会を開催して来た人達の思いに寄り添い、2つの碑の永劫の存続を念じながら、連綿と続く在日の人への差別、最近では日本に暮らすアジア人への入管等の人権侵害、くすぶり続ける、韓国の慰安婦・戦時徴用工問題等、追悼碑をそれらの問題に関わる拠り所とし、碑に関わる犠牲者は勿論、追悼碑に思いを寄せる人達の心情や情熱を受けとめ、多くの関係者の母国語であるハングルにも、祖国にも、関心を持って、地元も含め多くの人が、2つの追悼碑に心を寄せてくれるよう願いながら、2つの追悼碑の整備の区切りがつく日まで頑張りたいと思います。
                                                          
                                     (2021年10月8日)                
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2019関西地域民族教育関係者研修会

2020年11月07日 | 紀州鉱山
2019関西地域民族教育関係者研修会
                          金靜美 

 2019年11月30日-12月1日の日程で、大阪韓国教育院・在日本大韓民国民団大阪府地方本部主催、駐大阪大韓民国総領事館後援の「関西地域 民族教育関係者 研修会」が熊野地域でおこなわれました。
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会から、金靜美、宇恵悟、佐藤正人が同行しました。
 研修に参加した人たちは、日本の公立学校に設置された民族学級で教えている教師たち、日本での民族教育に携わる韓国から派遣されてきている教師たち、韓国教育院院長、駐大阪韓国総領事館領事、あわせて36人で、わたしたち3人をいれて39人でした。

■本龍寺で(11月30日)
 本龍寺がある和気の区長久保理也さんと地元で長く本龍寺を管理してきた西正道さんが待ってくれていました。おふたりの話を聞いたあと、本堂に入り、以前無縁仏が置かれていた場所などを見ました。その後、本堂から納骨堂にうつされた白い布でつつまれた無縁仏の箱を見せていただきました。

 西正道さんの話
   「小学3年か4年のころ、朝鮮のかたがたくさんいた。紀州鉱山でたくさん働いていた。
   5年と6年のときには、朝鮮の子が何人もいた。学校は上川国民学校。複式。(名前を憶えている子
  はいるか?)一級下の3年の子で、日本名を使っていた。安川君。絵がじょうず。その子はげんき
  にしとんのかな。どこへ行ったんかな。そのころは戦争に負けたあと。食料難の時代。女の人が子ども
  を連れて、食べ物をわけてほしいと、よく来ていた」。

 久保理也さんの話
   「本龍寺の住職は以前は、高橋和尚。楊枝川にあった円通院の住職で、本龍寺を兼務していた。 
   (本龍寺にある遺骨は?)紀州鉱山の遺骨は、円通院から運んできた。日本人の遺骨も、紀州鉱山で
  働いていた人。家族があとでとりに来るからといって、置いていった」。

 本龍寺の納骨堂に置かれていた朝鮮人の遺骨は、いまはありません。
 曹洞宗の人権擁護推進本部から工藤英勝氏が来て、持ち去ったそうです。
 本龍寺の納骨堂にはいまも、数十体の遺骨が白い布に包まれて置かれています。白い布には、日本人の名前が書かれたのもありますが、名前が記されていない遺骨箱もあります。

■浄泉寺で(11月30日)
 本龍寺から新宮の浄泉寺に行き、山口範之住職から、浄泉寺と「大逆事件」の関係、朝鮮人の遺骨のお話などを聞き、浄泉寺に残されている朝鮮人の遺骨を見せていただきました。
 浄泉寺の12代目住職の高木顕明(1864-1914年)は、「大逆事件」で1911年1月18日に死刑判決を受け、無期懲役に減刑された後、1914年に僧籍を剥奪されました。
 山口範之住職の話では、浄泉寺には、日本の敗戦後、新宮・熊野地域で死亡した朝鮮人の遺骨が複数、遺されていて、家族が引き取りに来た以外の4体の遺骨は、現在、南谷墓地に移管されたそうです。その後、本堂の奥に、ほかにも朝鮮人の遺骨があることがわかり、大切に保管されてきました。

 その後、新宮の速玉大社に行きました。
 速玉大社は、秀吉の朝鮮侵略(壬辰・丁酉の乱)のさい、朝鮮に出兵した九鬼水軍を率いた九鬼嘉隆の先祖が「別当」(大社を統括する)という役職にあったそうです。壬辰・丁酉の乱のさい、新宮では、熊野から切り出された木材で朝鮮に出兵した九鬼水軍の船が建造されたそうです。

 夜、宿舎で、学習会が開かれました。
 駐大阪大韓民国総領事館教育担当領事梁鎬錫氏が、「民族学級・民族学校の課題と展望」という題で話しました。 
 つづいて、佐藤正人が「ふたつの会の成立と日本の侵略責任」、金靜美が「追悼碑の歴史的意味」、宇恵悟が「紀州鉱山がある場所に生まれ育って」という主題で話しました。
 最後に韓国教育院の金次守院長が、かつて朝鮮人が住み働き亡くなった場所をいまの世代の韓国人が訪ね、民族教育に生かす意義を話しました。

■極楽寺で(12月1日)
 足立知典住職の話
   「自分の寺に、(李基允氏と裵相度氏の)お墓があることを知らなかった。
    建て替えのときの整理で、会の手紙などを見つけた。それで、「木本事件」でお二人が亡くなられ
   たということを知った。
    地元の年配の人を訪ねて、自分なりに調べたりもした。いまでも当時のことを話せないという雰囲気が
   ある。
    このことばが引っ掛かり、考えた。ふたりのことを考えると、もやもやした思いになり、このもやもや
   は何なのか、いのちとは何なのか、何をしたら正しいのか、どうしたらいいだろうか、いろいろ考えた。
    高齢の人に聞いたら、大昔のことだから、触らんほうがいいよ、終わったことやでそのままにしとけ、
   といわれた。納得がいかなかった。ほっとくわけにはいかない、と思った。
    次の代につないでいく、それが使命。
     (李基允氏と裵相度氏の墓をつくったことについて)ふたりのことを考えるとこうせざるを得なかった。
    次の代でしてくれるかどうかわからない。自分の代で、しておきたいと思った。日本式の戒名を付ける
   のもどうかと思い、本名を刻んだ」。

 その後、木本隧道を歩いて鬼が城に出て、紀和町に向かいました。

■慈雲寺で(12月1日) 
 慈雲寺では、本堂奥に置かれている、『紀州鉱業所物故者霊名』を見せていただきました。 
 ここには、紀州鉱山でなくなった423人(1978年6月16日まで)の名簿があり、そのなかに朝鮮人の名前もあります。「創氏改名」されている名前もあるので、わたしたちは、朝鮮人であることを確認するために、複数の他の資料と照合しました。この名簿のなかには、朝鮮人と断定できませんが、ほかにも「創氏改名」された朝鮮人がいるかもしれません。
 以前は、朝鮮人の遺骨もあったそうですが、1980年10月、在日本大韓民国民団三重県地方本部が慈雲寺の遺骨を「望郷の丘」に「移送奉還」したそうです。

■追悼碑の前で(12月1日)
 民族学級の教師のひとりが、生徒が折ったという鶴をもってきて、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の前の白木蓮にかけました。
雨にぬれても傷まないようにと、ビニールに入れてきていました。 
この折鶴は、2020年10月17日、ほとんど1年後、白木蓮の大きな葉の陰で幹にくっつくようにして元気でした。
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本龍寺に置かれていた朝鮮人の遺骨はいまどこに?

2020年11月07日 | 紀州鉱山
本龍寺に置かれていた朝鮮人の遺骨はいまどこに?   
                           金靜美
 
 「関西地域 民族教育関係者 研修会」で熊野に行くので、その準備のために、11月16日、現在本龍寺の兼任住職をしているという新宮の宗応寺の住職と電話で話をしました。
 宗応寺の住職の話では、本龍寺の朝鮮人の遺骨は、曹洞宗の「宗務庁の人権擁護推進本部から来て持って行った」、「いまどこにあるかわからない」、「人権擁護推進本部から本龍寺に感謝状が届き、いま額に入れて本堂にかけてある」ということでした。
 工藤という人は、2008年7月、熊野地域に残されている朝鮮人の遺骨の調査をするということで、紀州鉱山の真実を明らかにする会に協力を依頼してきた曹洞宗人権擁護推進本部の工藤英勝さんのことだと思います。紀州鉱山の真実を明らかにする会では、2008年7月15日・16日の二日間、会員が同行し曹洞宗人権擁護推進本部の「調査」に協力しました。

 
■2019年11月25日、曹洞宗人権擁護推進本部の工藤英勝さんと電話で話す
 11月25日、曹洞宗人権擁護推進本部の工藤英勝さんと電話で話しました。
以下は電話でのやり取りの要約です。

 キム:無縁塚から遺骨を持ちだしたのは事実か?(とまず確認し、その経緯を尋ねました)。
 工藤英勝氏:答えられない。
 キム:なぜ答えられないのか? 遺骨は現在どこに置かれているのか?
 工藤英勝氏:答えられない。
 キム:あなたの人権擁護推進本部での役職は何か?
 工藤英勝氏:答えられない。(重ねて聞くと)本部員です。
   いま日韓関係が????なので、返還できないで、そのまま置いてある。
              ※「?」は電話で正確に聞き取れませんでした。
 キム:これまで、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人のことを調査して
   きて、それを工藤さんは知っている、だから人権擁護推進本部の熊野の調査のときに、紀州鉱山の
   真実を明らかにする会に協力依頼してきた、本龍寺の遺骨の人たちを追悼する碑も作った紀州鉱山
   の真実を明らかにする会に一言連絡することは考えなかったのか?
 工藤英勝氏:お寺とお寺との関係で持って行ったので(このような表現でした)、そういうことは考え
      ませんでした。
 キム:日本の寺が宗派の寺で保管してある朝鮮人の遺骨について調査を始めたのは日本政府の依頼であり、日
   本政府は、韓国政府の要請で、それにようやくとりかかった。韓国政府が日本政府にそれを要請したのは、
   韓国やわたしたちの会もふくめた民衆の要求に応じからだ。人権擁護推進本部が、それを無視して、紀州
   鉱山の真実を明らかにする会にひとことの連絡もなしにどこかに運んで、その所在も隠している。亡くな
   った人にも人権がある。その人たちの人権無視ではないか。
 工藤英勝氏:意見があるなら、宗務庁に意見を送ってください。
 キム:わたしは意見を言っているのではない、要請している。
 工藤英勝氏:(しばらく無言)。地元の人から要請があれば、(遺骨の保管場所について)教えることができるよう
      に検討する……。

 その後、久保理也さんに人権擁護推進本部に遺骨の保管場所を聞いてください、とお願いしました。
 本龍寺に置かれていた朝鮮人の遺骨をはじめて見たのは、1997年11月16日、紀州鉱山の真実を明らかにする会の3回目の紀州鉱山「現地調査」のときでした。
このときは、本堂奥に、多くの位牌、遺骨といっしょに置かれていて、わたしたちは、朝鮮人の遺骨、5人を確認しました。
 在日本大韓民国民団三重県地方本部では、1980年10月に、三重県内に置かれていた朝鮮人の無縁仏』76柱を、韓国の国立墓地「望郷の丘」に移葬したということです(『民団三重50年史』民団三重50年史編纂委員会、在日本大韓民国民団三重県地方本部発行、1998年)。
 1980年10月に「望郷の丘」に移葬されたという76柱の名前の中に、1997年に紀州鉱山の真実を明らかにする会が本龍寺で確認した朝鮮人の遺骨もふくまれていたため、紀州鉱山の真実を明らかにする会では、その後、在日本大韓民国民団三重県地方本部に問い合わせましたが、当時、三重県内の遺骨調査と収集にかかわった人がいなくなり、その遺骨を収集した場所の記録や名簿の原資料も探せないということでした。
 以前慈雲寺の住職から、在日本大韓民国民団三重県地方本部がかなりまえに寺に置かれていた朝鮮人の遺骨を持って行ったと聞きましたが、このときのことと思います。
 
■2005年5月30日の『中日新聞』の記事
 2005年5月30日の『中日新聞』に、本龍寺の朝鮮人遺骨に言及しつつ、大韓民国民団三重県本部が「(韓国への)遺骨移送への組織づくりを進めている」という記事が出ました(「朝鮮人の遺骨 母国へ」)。
 1980年10月に在日本大韓民国民団三重県地方本部が「望郷の丘」に移送したという朝鮮人の遺骨が本龍寺に残っている真相も不明で、さらに、2005年段階で、また、在日本大韓民国民団三重県地方本部が本龍寺に残されている朝鮮人の遺骨を「望郷の丘」に移送する準備を進めているということを『中日新聞』の記事で知った紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2005年6月21日、「大韓民国民団三重県本部のみなさんといっしょに、本龍寺の遺骨の真相糾明をふくめ、紀州鉱山における朝鮮人の強制連行・強制労働の真相糾明をすすめたいと思います」という手紙を送りました。
 同年6月24日、在日本大韓民国民団三重県地方本部団長殷鍾秀、三重県日韓親善協会会長加藤純一の名前で、「真相糾明と遺骨の本国への安葬は別のものと考えており、ただただ異国の地でひっそりと眠っているご遺骨を、一日も早く母国の地に埋葬し、母国の地で安らかに眠っていただきたいとの一心」という返事が届きました。その後、在日本大韓民国民団三重県地方本部の事務局長韓九さん(当時)、在日本大韓民国民団三重県地方本部の関係者と会いましたが、本龍寺の遺骨の真相糾明について。共同調査を進めることはできませんでした。
 そして、本龍寺に置かれていた朝鮮人の遺骨は、2017年11月に曹洞宗人権擁護推進本部が持ち去りました。
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12回目紀州鉱山、26回目李基允さん裵相度相度さんの追悼集会に参加して

2020年11月06日 | 紀州鉱山
■12回目紀州鉱山、26回目李基允さん裵相度相度さんの追悼集会に参加して■
                                    安西玲子 
■「ちかごー」のことなど
 「熊野は、今でこそ道がよくなったけど、昔は弟と山越えて走ったもんや」と、故金蓬洙氏がよく話してくれた。
 紀州鉱山? どこにあるの? 朝鮮半島からそんなところまで連れてこられ、食べ物や、生活用品なんてない中、どうやって働いてもらっていたの?
 強制連行の調査をしていた金蓬洙・金唱律兄弟とは、旧日本軍による被害女性の証言を聞く会で初めて会った。私の住む近くの飯場で、お父さんが仕事をしていらして住んでいたことがあり、懐かしいと言われて遊びに来てくれるようになり「ちかごー」と聞くようになり、ちかごーを見せて貰い驚きました。岐阜県のこんな山の中や、交通の不便な所に。それも一つや二つではない。これ程の蛮行があったことを慰霊碑や看板等建てて皆に知らせないのか?
 有名になってきた杉原千畝資料館の近くに巨大なダムがある街ではダム工事を見ていた人々が、こちらから見てると人間が蟻のように見えたと。落ちたりした人も一人や二人ではないとか。
 麻の袋みたいなのを着て虚な目をして歩かせられていた中国人捕虜の若い男の子を見たお婆さんが家に入りお握りを作り、渡していた。見つかったらお婆さんが大変な目に遭うのになどと証言してくれる人たちもいた等と話を聞いた。
 その後、岐阜で、戦後50年展をしたとき、岐阜市教育委員会が後援をおりた事で、私が「何故この展示がいけないのか、次回は教育委員会主催で平和展をして欲しい」などと投書していた矢先、岐阜県地下壕研究会を立ち上げるとなり、金兄弟からの誘いで入れて貰った。1997年。松江での八回目強制労働全国交流集会で金靜美さんにお目にかかったのもそのとき。何も知らない私が朴慶植先生などとお近づきになれたのもありがたいことだった。

■強制連行の恐ろしさ
 金兄弟がカトリック教会から頼まれてやっている強制連行慰霊はじめ大阪の夜間中学の修学旅行、外登法で案内を手伝わせて貰いいろんな方たちと知り合えた事は幸せだった。 
 しかし、強制連行の恐ろしさを知れば知るほど何故、ドイツのような教育ができないのか、と憤りばかりだ。 
 娘が六年生の時、交流集会で、「強制連行がなかった県は何県ですか?」と聞いたら、「いい質問ですね。でも、残念なことにどの県にもあったのですよ」との返事に驚き、中学の夏の研究で先の侵略戦争辺りの歴史をまとめ、お札をコピーし、何故、伊藤博文や、福沢諭吉をお札にするのか、と書いていた。
 同じころ旧日本軍による性的被害女性とも交流させてもらっていた。集会の後の片付け最中、幼かった娘がいなくなり、キョロキョロ探していたのをハルモニが見て、「ああ、私がいなくなったとき、お母さんは、私をどんなに探したことか」と号泣された時から交流が始まり、名古屋や岐阜での集会後は、子どもや畑のある我が家がいいのか泊まって下さるようになった。
 夜、畳は嫌と台所の片隅で寝る彼女を見ながら、何故、この人は年老いて辛い体験を「聞いてくれてありがとう」と加害国の人たちに頭を下げ、お土産を持ち、時には集会で「何故、今頃になって証言するんだあ、金目当てかあ」と浴びせられなければいけないのか、と寝顔を見ながら涙をこらえるのが精一杯の時もあった。
 一番辛かったのは、平和展にきた三菱挺身対の被害女性達が、私の娘に、「その人は身体を売った人。汚いからこちらへいらっしゃい、話してはいけない」と言われた時。私は、「同じ戦争の被害者と思って下さい」と頭を下げたが、挺身対の会報にも、同一視される危険性とあり、こちらの支援をやめさせて頂いた事もあった。
 韓国での水曜日デモ時の事。カンボジアに置き去りにされた被害女性が車椅子にのり故郷を探しにいらしていた。私は、思わず駆け寄り、「ごめんなさい」と言った途端、誰かが、「イルボン何とか」と叫んだら「わああ」と号泣された。私も泣きじゃくった。そしたら私の背中を撫で続けてくれた。叩かれたり罵られたりした方が気楽だったか。
 故郷は、見つかったのだろうか。
 翌日の帰国便の機内の新聞では、でかでかと二人の様子が出ていた。金蓬洙さんが、とても喜んで訳してくれた。
 韓国からの被害女性は、必ず金蓬洙さんが、通訳してくれた。通訳の最中、あまりの酷い体験に、言葉が詰まりハルモニに、「しっかりしなさい」と叱られた事も。皆が泣き笑いした。そのハルモニが、だんだん元気がなくなり「ヨボセヨ~?」と元気で電話をくれていた回数が減り訃報を聞き、見えない敵に向かい怒鳴りたい位であった。こんな日本の現状のまま天国へ行かせてしまった。

■金蓬洙・金唱律兄弟が亡くなってから
 ハルモニ達にお返しもお礼も何も言えないけど、朝鮮半島の方々と仲良くして私にできることをと金蓬洙さんと頑張ってきたが、弟の唱律さんを追うようにして1923年生まれのオモニをおいて他界してしまった。
 事あるごとに思いだし、二人が入院していた病院を通る度に胸が締め付けられるようだ。「田舎の野菜は美味しいなあ」「コーヒー入れたるわ、インスタントやけど。「由井さん(カトリック神父で指紋押捺や、強制連行跡地によく来てくれたひと)の所で飲むコーヒーは旨いなあ。ああいう人達がいたから俺らこうして活動してこれた」、「地下壕案内が入った、空いてる?」こんな声が聞こえてくるようだ。

■追悼集会の報告をした
 12月8日、地下壕見学のあとの忘年会ではなくて望年会にて追悼集会の報告をした。地下壕研究会でもフィールドワークで行った事があったため様子はわかってもらえるがあれだけのものに、落書きや破壊されるということがないのはすごい!
 皆さんのご尽力に感謝と喜んでいた。地下壕メンバーも年をとり、なかなか思うように動けないのと、来年還暦を迎える私がメンバーの最年少。
 この先を案じることもあるが侵略戦争の被害をとにかく伝え続け、なかった事にはさせない。
                              2019年12月記
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紀州鉱山の坑口があった惣房と上川で暮らして

2020年11月05日 | 紀州鉱山
■紀州鉱山の坑口があった惣房と上川で暮らして■
                           宇恵 悟
 
■惣房での小学生時代
 石原産業の薬師炭坑があった三重県南牟婁郡紀和町小船で生まれ、小学校入学まで過ごしたが、薬師炭鉱の閉山に伴い、父は同じ石原産業の紀和町楊枝川にある銅山の紀州鉱業所・惣坊鉱区で働くことになり、家族5人で紀和町楊枝川の筑後と云う社宅に引っ越しました。
 1955年の小学校1年の途中でした。
 「山の斜面にへばりついたような格好で、一段に4軒の長屋が3棟ずつ位あり、全戸数が6~70軒くらいであったのだろうか、住民はみんな顔見知りでした。地区には集会所と浴場があり、あとは蛇神さんという小さな祠があり、年一回くらい何か祭事をやってましたが、あまりその名前の通り子供達には馴染みがなかったようです。
 他の土地のような、祭という様なものではありませんでした。その集落の下の川の、少し川下の向かい側には独身寮もあり、若い独身鉱員が多くいました。筑後の社宅の真向いには管理所という建物がありましたが、何をしてたのかは、聞いた事がある筈ですが、覚えていません。
 小船から一緒に転勤して来た人は、惣坊にはいなかったと思います。
 閉山時の小船で、団交を恐る恐るのぞき見しましたが、同級生の父親の表情は険しく、抗議をしていたような気がしています。
 通った三和小学校は山の中腹か少し上にあり、米込と云う社宅の近くで、ほとんど鉱山の関係者の子供ばかりで200名位の生徒がいたのかと思います。 
 築後からの通学は30分前後の山登りでした。父親は鉱山の支柱と云う仕事で、7:30~15:30位まで会社に行き、帰ってはいつも3~4キロ離れた熊野川で小船時代と同じくアユ釣りをしていました。
 戦時中火薬庫の爆発で難聴となった母は、私の小学校時代、土方をしていましたが、後年石原産業の三浦診療所で看護婦をしました。
 私達子供は、社宅の共同便所の横の通路?で、よくソフトボールをして遊び、休日には山で遊んだり、夏は社宅の下の鉱毒川で泳いだり、ちょっと遠征して川上の三浦と云う集落の奥まで行ってムツと云う小魚を釣ったりもしました。近所の友達の親は和歌山だったり、奈良だったり、福島の会津からの人もいました。他の地区の同級生の親も方々から来ていたようです。長谷には職員住宅があり、東京から来たという人が多かった印象があります。中学入学時くらいで故郷に帰った人も多かったようで、子供の中学校入学の為に職員住宅の人達は東京に戻ったような気がしています。
 三和小学校の教師の中にはごますりもいて、少数の反体制的な人もいたと云うことが担任の愚痴等からわかり、子供心にごますりはいやだと思ったものでした。当時としては珍しい年頃の美男美女のカップルが、運動会に来て、その女性の小学生の妹の応援に、そのお父さんも一緒に来て、仲の良い、幸せそうな家族にも見えました。
 惣坊から板屋への、ほとんど暗闇で会話も出来ない「がたがた、がたがた」と云う騒音のトロッコ電車の40分、築後の社宅の一番てっぺんで、3棟が並び、すぐ山が迫る長屋での穏やかな日々、長谷(はせと呼び、店町とも言った、今のスーパーのような配給所があった)の鉱山所有の会館で通年、無料の映画上映や、5月のメーデーの催し(労働歌を良く聞いたが、鉱山を離れると全然耳にしなかったのは不思議だった)、小遣いをたくさん獲られ、それ以来賭け事を遠ざけさせてくれた楊枝という処の薬師さんの祭り、そろばんとか習字が唯一の習い事だったが、どれも身に着かず、よく一人さぼっていた。そのようなことが思い出であり、小学校からの9年間はほとんど狭隘の自然の山、川、学校、住宅周りで過ごした。
 今思えば映画は私の人間形成にかなり影響を与えたと思う。悪を退治し主人公を慕う女性を置き去りに、馬に乗って去って行く渡り鳥、ヨットで太平洋を横断したタフガイは雨や嵐の中のシーンが多かったし、モテモテの金持ちの坊ちゃんでスキーヤー等、彼らは皆甘い声で歌も唄った。映画は私をスキーやヨット等の貴族趣味にした?し、カラオケ好きにもさせた。政治家や開発業者は悪いやつばかりだと、映画によって植え付けられ、今でもそんな人が進める高速道路や橋の建設には抵抗がある。
 中学に入ってから一度だけ子供達で近くの町(新宮)にバスで行ったことがあったが、どういう事情だったか思い出せない。小学低学年の頃は、夏休みに家族で何度か勝浦に海水浴や木本の花火に出かけた思い出がある。

■上川での中学生時代
 中学校は5キロ以上離れた楊枝の、熊野川を見下ろす上川中学校に自転車で通った。
 上川小学校からの生徒と併せて全校で150人くらいになったのだろうか。
 三和小学校で三浦の社宅や大河内にいた同級生は、惣坊からトロッコ電車で紀和町板屋の入鹿中学校に通った。又長谷の職員住宅に住んでいた幹部職員の子達は家族で東京に引っ越して行った人が多かった。その職員たちをえらいさんとよく言ったが、そんなえらいさんの子であった同級生が東京への修学旅行中に面会に来てくれた。懐かしく思って来てくれたのに、冷たくしてしまった。もう一度会ってお詫びしたいし、板屋の追悼碑も紹介したいと思う。
 最終学年は、母親が紀和町楊枝の町営診療所で働く事となり、一家で楊枝に移り、高校受験の準備と、熊野川での釣りとで、故郷を離れる前の日々を過ごしました。

■55年余を経て
 紀和町の楊枝川の鉱山を離れ、55年余を経た今、紀和町から程近い紀宝町に住んで、月一のカラオケを中学の2人の同級生と担任の先生とで楽しんでいるが、三和小学校から上川中学校に進んだ同級生のメンバーはいない。そのカラオケメンバーの先生は、初めての赴任で上川中学校に赴任し、学校の向かいの熊野川町の日足でバスを降り、渡し船で渡って上川中学校に着いたと、「細川たかしの矢切の渡し」をプロオケで歌いながらなつかしむ。

 楊枝川は新宮からだと日足から川を渡って徒歩で1時間位である。私が鉱山にいた頃は、国会や知事選挙も近隣では珍しく、野党が強かったが、今では近隣の市町村と同じく与党が優勢となっている。多分に子供の頃の映画の影響か、世の中は道理と正義が支配すると思って来たが、最近になって漸く間違いらしいと思うようになった。
 人々は金に支配されていると考えると納得がいくし、傀儡国家だと言われるのも、金に支配され、国家を裏切っていると思える人が各方面にいるからで、納得がいく。
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被害者の恨(ハン)はいつ晴れるか 初めて集会に参加して

2018年10月23日 | 紀州鉱山
 昨年11月18、19日の両日、「李基允氏と裵相度氏の24回目の追悼集会」と「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する追悼集会」に初めて参加した。
 所謂「木本事件」と三重県への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での過酷な強制労働については書物を通して知識としては知っていたが、実際に現場に足を運ぶのは初めてであった。
 虐殺現場を回り、差別戒名が記された墓石を見て、鉱山の周辺を回りながら犠牲となった朝鮮人の方々に一人の朝鮮青年として深い哀悼の意を表した。
 現場に来てみると、当時に思いを馳せ、追体験の努力を傾けるしかないのであるが、異国の地で「鮮人」と蔑まれ、デマによって虐殺され、過酷な労働の果てに無念の死を迎えるしかなかった被害者の悔しさを思うとやりきれない気持ちになると同時に、その事実を隠蔽しようとする様々な動きに対する怒りがさらに強まった。
 学生時代に「木本事件」を知った時、関東大震災での朝鮮人大虐殺から3年もたたないうちに地元である三重でこのような事件が起きていたという事に衝撃を覚えたが、今回集会に参加し、三重県の在日朝鮮人の歴史を少しでも調べてきた者として現場に足を運ぶのが遅くなったことを恥じるともに、この事件が「素朴な愛町心の発露」と記されている事実から、最近の関東大震災の虐殺否定論(「テロ計画からの正当防衛」)の跋扈を含め、様々な妄言が堂々と放たれる現在の社会状況に対する恐怖を覚えた。
 筆者自身が持つ力は微弱ではあるが、この事実をしっかりと記憶し、伝え、絶対に風化させてはならないという事を胸に刻んだ。
 筆者自身は強制連行被害者の子孫ではないが、同じ植民地支配の結果として「在日」する朝鮮人の一人として被害同胞の恨(ハン)が晴れるよう、微力を尽くしていきたい。
 最後に、様々な困難、特に歴史修正主義が蔓延する最近の社会状況の中で、あくまで責任追及の立場を堅持し、被害者の追悼と真相究明の活動を繰り広げられている主催者の方々に心から敬意を表したい。
                                       申正春
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