三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

被害者の恨(ハン)はいつ晴れるか 初めて集会に参加して

2018年10月23日 | 紀州鉱山
 昨年11月18、19日の両日、「李基允氏と裵相度氏の24回目の追悼集会」と「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する追悼集会」に初めて参加した。
 所謂「木本事件」と三重県への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での過酷な強制労働については書物を通して知識としては知っていたが、実際に現場に足を運ぶのは初めてであった。
 虐殺現場を回り、差別戒名が記された墓石を見て、鉱山の周辺を回りながら犠牲となった朝鮮人の方々に一人の朝鮮青年として深い哀悼の意を表した。
 現場に来てみると、当時に思いを馳せ、追体験の努力を傾けるしかないのであるが、異国の地で「鮮人」と蔑まれ、デマによって虐殺され、過酷な労働の果てに無念の死を迎えるしかなかった被害者の悔しさを思うとやりきれない気持ちになると同時に、その事実を隠蔽しようとする様々な動きに対する怒りがさらに強まった。
 学生時代に「木本事件」を知った時、関東大震災での朝鮮人大虐殺から3年もたたないうちに地元である三重でこのような事件が起きていたという事に衝撃を覚えたが、今回集会に参加し、三重県の在日朝鮮人の歴史を少しでも調べてきた者として現場に足を運ぶのが遅くなったことを恥じるともに、この事件が「素朴な愛町心の発露」と記されている事実から、最近の関東大震災の虐殺否定論(「テロ計画からの正当防衛」)の跋扈を含め、様々な妄言が堂々と放たれる現在の社会状況に対する恐怖を覚えた。
 筆者自身が持つ力は微弱ではあるが、この事実をしっかりと記憶し、伝え、絶対に風化させてはならないという事を胸に刻んだ。
 筆者自身は強制連行被害者の子孫ではないが、同じ植民地支配の結果として「在日」する朝鮮人の一人として被害同胞の恨(ハン)が晴れるよう、微力を尽くしていきたい。
 最後に、様々な困難、特に歴史修正主義が蔓延する最近の社会状況の中で、あくまで責任追及の立場を堅持し、被害者の追悼と真相究明の活動を繰り広げられている主催者の方々に心から敬意を表したい。
                                       申正春
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紀州鉱山にて

2018年10月22日 | 紀州鉱山
 毎年この時期に紀州鉱山で亡くなられた35名の方々の慰霊祭が行われる。今年で11回目だという。
 強制連行で連れてこられた朝鮮人の、判明した犠牲者38名が石となって弔われている。紀伊半島の山あいの町、三重県熊野市紀和町。今でこそ車で行けるが、それでも大阪から山道をぬっての三時間半、揺れる道程。近くには熊野川が流れ、瀞峡としてジェットボートが走る、名が知られた奥地である。この日のために各地から約五十名の方々が集まり、黙とうをし、語り、偲んだ。
 過酷な労働に耐えきれず逃げきれず殺されたり、劣悪な環境のもと、事故で、病気で亡くなられた方々。朝鮮半島の江原道や慶尚北道から何処かも知らされず連れてこられた紀和の町。こんな山奥に来なかったら死ななくてもいい命が消されてしまった。
 70年余りが過ぎていても、清算を求める主催者の日本人からの「日本人の責任」という言葉に心が震え、私自身ほとんど関わる事のなかった在日中国人の、連帯とはどういうものを示してくれる言葉に感動を覚える。
 それでも歳月が歴史の重みを流し、加害の事実を消してしまおうとしている。
考えて見れば被害者の歴史でもある原爆犠牲者慰霊祭は毎年盛大に行われているが、一方で加害の歴史、侵略の歴史は置き去りにされている。不条理だと思う。私もまた置き去りに加担するわけにはいかない。父母の墓参りを欠かさないようにできるだけ毎年こようと思う。在日のひとつの8・15でもある。
                                    郭政義

 注記 筆者の許可を得て、民族教育をすすめる連絡会通信『아이』第29号(2018年1月25日)から転載しました。
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紀州鉱山追悼式を民団の継続事業として

2018年10月20日 | 紀州鉱山
 アンニョンハセヨ
 民団三重県本部団長 殷慶基と申します。
 今回第11回目となる紀州鉱山で亡くなられた方々の追悼式を迎えるにあたり、金静美氏・地元の日本の方々又、関係各位の皆様に心より感謝を申し上げます。
 昨年、第24回目の李基允氏・裵相度氏の追悼式又、第10回目の紀州鉱山の追悼式に民団三重県本部として初めて11名参加させていただきました。そして、皆様と一日懇親会をさせていただき心が一つになった思いです。
 過去において韓国と日本の間に起きた不幸な歴史、実存した悲しい出来事を振り返り二度とこの様な事が起きないように民団としては地域の住民・市民として微力ながら韓国と日本との架け橋となるように努力・協力を行っていきたいと思っております。
 現在、民団三重県本部は旧青山トンネル追悼慰霊祭を今年で14年目を迎えました。
今後は紀州鉱山追悼式を民団の継続事業として微力ながら協力させていただきたいと思っております。
 結びにあたり関係各位の皆様に心より敬意を表します。
                                         殷慶基
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2017年の追悼集会(2) 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集会

2018年10月19日 | 紀州鉱山
2017年11月19日、熊野市紀和町板屋の追悼の場で、追悼集会を開催しました。集会主催者の挨拶と参加者の発言を紹介します。(竹本昇記)

■主催者からの挨拶(佐藤正人)
 追悼碑ができたのは2009年です。追悼碑建立宣言の最後に、
  わたしたちは、この追悼碑を一つの起点として、紀州鉱山から故郷に戻ることができなかった皆さん、海南島で死んだ朝鮮人、そして、アジア太平洋の各地で日本政府・日本軍・日本企業によって命を奪われた人々を追悼し、その歴史的責任を追及していきます
と書きました。最近、わたしたちはこの宣言で自分たちに課した課題の緊急性と重さを実感しています。
 日本の各地に、強制労働させられ命を失わされた朝鮮人、中国人の追悼碑がありますが、それを撤去させようとする自治体が出てきました。
 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑が建てられてから4年後の2013年に、「関東大震災で虐殺された中国人労働者を追悼する集い」が発足しました。虐殺90年後です。
 過去の侵略犯罪の国家責任をとろうとしないだけでなく、その国家犯罪そのものを認めようとしない日本政府を支持する日本人が多くなっている時代に、この90年後の出発は大きな歴史的な意味をもっていると思います。
 日本政府・日本軍が、1868年の維新クーデタ以後、アイヌモシリやウルマネシアや台湾や朝鮮や中国や日本で、どれだけの人を殺したかが、まだはっきりしていません。日本政府は、その名前を明らかにしようとしていません。日本の国家犯罪、日本の侵略の歴史を明らかにするということは、日本政府・日本軍・日本企業が殺した人たちの名前を明らかにさせ、責任者を処罰させ、謝罪させ、賠償させるということが絶対必要だと思います。
 アジア民衆の力をかりて、日本政府の侵略犯罪の歴史的事実を詳細に明らかにし、告発し、日本政府に、真に謝罪させ、賠償させ、侵略犯罪をくりかえさせないようするのは、日本民衆の責任だと思います。
 今、日本政府が日本の国家犯罪の事実を認めようとせず、日本の侵略の時代(1868年クーデタ以後の150年)を美化し天皇制を維持できるのは、それを支持する日本人が多いからです。 
 このような時代を変えていくには、わたしたちの力があまりにも足りません。
 日本国家の侵略犯罪の歴史を断ち切るのは日本人のもっとも重要な課題です。
 日本人であるわたしは、ここに集まってくださった中国人や朝鮮人に助けられています。これからもよろしくお願いします。

  写真 2017年11月19日 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する第10回集会のとき

■追悼碑の土地に不当課税したことを取消させる裁判の報告(竹本昇)
 追悼碑を建立することは熊野市の責任だとして、熊野市に追悼碑の建立を求めましたが、熊野市が拒否しました。そこで、私たちは皆さんの協力を得て、2009年に、この土地を購入して、追悼碑を建立しました。
 その土地に、三重県は不動産取得税を、熊野市は固定資産税を課税してきました。
 行政が朝鮮人を強制連行し亡くならせた責任をとらなければならないのに、逆に、追悼碑を建立した土地に税を課してきたことに対して、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、課税処分の撤回を求めて、2011年に裁判を起こしました。
 第1審津地裁、第2審名古屋高裁、最高裁まで闘いましたが、裁判所は歴史責任には触れることなく、不当判決を出しました。
 そこで、もう一度裁判を起こしました。2回目の裁判も、結果は、1回目の裁判と同じ不当判決でした。今度は、わたしたちは、司法の侵略責任を問う上告理由書を最高裁に叩きつけました。
 裁判は結果として形では負けましたが、私たちは、中国人・朝鮮人強制連行、強制労働の事実を日本社会に知らせ、日本人の責任を追及していく運動を続けていくという意味で、決して負けてはいない、これからも頑張りたいと思います。

このあと、トランペットによるアリランが奏でられるなかで、全員、献花と献杯の後、チェサがおこなわれました。そして、参加者の思いが述べられました。

■参加者の発言
Yさん 四日市から来ました。紀州鉱山で亡くなられた歴史の事実を、あまり地元の人が知らない。民族教育を受けていない人たちに、この事実を伝えていくことを考えています。来年もまた、参加したい。ここに多くの青年を参加させたいと考えています。

Kさん 四日市から来ました。今から16年ぐらい前から、仕事の関係でこの前の道を年3回通っていました。4年ぐらい前ですか、同胞たち と一緒にここを訪れました。昨年は残念ながら来れなかったのですが、きょうは青年たちとやってまいりました。民団の人たちも参加さ れ、また、日本の方々も以前より多く参加されて、とても嬉しく思います。
  わたしたちも、これからも、より多くの同胞の人たち、青年の人たちとともに連帯を盛り上げていきたい、歴史を伝えていきたいと 思っております。

Kさん 松阪市から来ました。2日間、知らなかったでは済まないことが、かなり沢山あることを皆さんの話を聞いて解って、自分自身で考えて学んでいかなくてはいけないと、感じました。

Tさん 松阪からやって来ました。継承していきたいと思っております。

Sさん 大阪から来ました。追悼碑の最後の文の中で、普通は、追悼碑は「追悼します」で終わっているのですけど、ここは、「追悼す る」ではなく、「責任を追及していく」というのが、カッチョいいと思っています。

Iさん 和歌山から来ました。初めて参加することができました。故郷に帰れない魂を皆で。私は、年一回しか来られないかも解りませんけれども、今日は参加できて本当に良かったと思います。なんか、できることがあったら、これからも、ともに頑張りたいと思います。

Sさん 四日市から来ました。こういう事実を今の日本の世論全体が覆い隠そうとする。今の政権もそうです。これはもう、全然、戦前から何も変わっていない。そういう変わってないところを、私たちは、継続して、粘り強く、知らせていく、こういう運動に死ぬまで関  わっていきたいと思うし、また、一人でも多くの皆さんに理解を得て、仲間を増やして、正面から取り上げていく運動に、力のある限  り、頑張っていきたいと考えています。

Sさん 四日市から参りました。2日間、初めて参加させていただきました。書物だとか資料で見るのより、現地に立ってみると、思うことが全く違ってくる。石に刻まれている故郷の本籍地と名前を見ると、彼らが、異国の地で帰れることなく亡くなってしまったハン、口惜 しさ、恨みを残して逝かれたことを思う。僕は、まだ30歳の若輩ものですので想像するしかないですが、その想像を続けて、研究・勉強 を深めて、彼らの想いを忘れずに、記録していく者として、この歴史を覆い隠そうとする者に対して、抗う者として尽くしていくつもり です。

Kさん 東京の八王子から来ました。今年も、この集会に参加できて、とても嬉しいです。どんどん、参加者も増え、非常に力強く感じております。

Hさん 大阪から今回初めてきました。アリランの調べが心を打ちました。

Uさん 東京の八王子から来ました。力強い会になったのに、紀州鉱山資料館には、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人についての歴史とか出来事とか遺跡などが、何にも展示されていない。来年は是非、展示してほしいです。来年も来ます。

Gさん 松阪から来ました。朝鮮人の第10回追悼式に、皆さん、本当にご苦労さまです。来年もまた、ぜひ、来てほしいんですワ。

Tさん 津から来ました。ここに最初に足を踏み入れたとき、なんと空しいという気がすごく溢れたのですが、今、こうして、献花されているのを見たら、少し、慰めになりました。

Hさん 鈴鹿から来ました。このように本当に深い悲しみの歴史を感じながら10回、また木本は24回、たゆまぬ努力をされた皆さま方、これからも、このような集会がありましたときには、ぜひ、参加をさせていただきたいと思います。

Hさん 千葉から来ました。

Sさん 隣の御浜から来ました。これまでになく、たくさんの人を初めてみました。来年も元気で皆さんの顔を見られることを希望しま す。

Yさん 桑名からきました。昨日から今日と、日本の方、在日の方、朝鮮の方、寒い中。今まで、24年間、本当に、ここ三重県にいる在日として、民団の者として、今まで、していただいた方に、本当に、感謝申し上げます。この24年、こうして守っていただいて、本当にあ りがとうございました。

Rさん 神戸から参りました。在日中国人です。私は、関東大震災のとき、虐殺された中国人労働者を追悼する会を主催しております。李基允さん・裵相度さんのあまりにも無残に虐殺された二人の名誉と尊厳を回復するために闘ってくれた皆さん、そして、また、ここで、 紀州鉱山で亡くなった35人の朝鮮人の同胞・兄弟のことを決して忘れない、その責任を明らかにしていく、そういう形で取り組まれてい る皆さんに敬意を表します。関東大震災のとき、皆さん、ご存知のとおり、6000人と言われる朝鮮人が虐殺されました。そのとき、名簿 にでているだけでも750名以上の中国人が虐殺されました。その虐殺の仕方が、軍、警察だけではなくて、一般の民衆が加わって、大島町 では、意図的に中国人を「これから余震が来る。安全な所に連れていくから、お前らついて来い」と言って、広場に連れて行って、「こ れから余震がくるから、皆、地面に頭を伏せろ」と言って、皆に伏せさせて、その上から、日本人の警察と一般の民衆が一緒になって、 中国人をとび口、ハンマーで殺した。そこで考えることは、やっぱり、それは過去のことだったのかと。郷土史を見たら、李基允・裵相 度さんを襲った町民たちは、「愛町心である。町を愛する気持ちで朝鮮人を殺した」、今の行政・教育員会がそういうように解釈してい ることに恐怖を感じます。実は、つい一週間前に、奈良の南京大虐殺に関わった日本兵を訪ねたのですが、その兵士が「あのガキどもが 反抗したから、ワシは殺したのだ」と言い切りました。今なお、日本意識の中に残っている、しかもそれが脈々と生きている、そして、 それが今、安倍政権のもとで、もたげようとしている。このことに、はやり、恐ろしさを感じます。 
  私たちは、これらの同胞・兄弟たちを追悼すると同時に、二度とこのようなことを許さないぞ、ということをこの社会に向けて発信していかなければならない。具体的に行政に対して、働きかけていくことが必要と思います。関東大震災のとき虐殺された中国人のことに 取り組んでいて、やっぱり、いろんな形で、妨害・邪魔があります。だけど、今、ここで引いてはいけない。あったことを、なかったこ とにしようとする社会に向かって、はっきりとものを突きつけて行く、この想いに朝鮮人・中国人という差はありません。我々は一緒に なって、国境を越えて、手を握り合って、不条理な不合理なことをキチットさせていく、過ちを質していくために政府や行政の責任を追 及していくことを皆さんと一緒にやっていきたいと思います。

Oさん 亀山から来ました。諸悪の根源は、戦い、すべての原因です。戦争をしないための知恵、どうしたらいいかということを真剣に考えて行かなければならないと思います。

Kさん 2008年3月8日に選鉱所の前で第1回目の追悼集会を行い、同じ年の8月津市で、民団・総連・紀州鉱山の真実を明らかにする会の3者で「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する会」を結成し、2010年3月28日に、ここで3者合同の除幕集会を持つことができました。そ の後、3者の毎年毎年の追悼集会を残念ながらもつことができなかったが、今回は、3者と、さらに中国人の方も参加されました。この会 の創立の趣旨に沿った実態をもった記念すべき集会になりました。

Yさん 亀山市から来ました。日本の国が、少し、危ないのではないかと思うので、ちょっと、皆さんも気を付けながら。昔に戻らないよう、また、こういう悲劇が起こることのない時代になるように、頑張っていただき、私も頑張ります。

Kさん 大阪から来ました。すぐ忘れてしまうので、一年に一回ぐらいは、ここに来て、過去のことを思い出す、あるいは、これからのことについて考えています。ここに来て良いのは、主催者の方々と集まった人の声を聴くことができて、あ~いいな、と。
  先ほどお話をしていただいた中国人の虐殺のことについて、世の中で自分の知らないことを、各地で自分の責任と自分の足場で取り組まれている、そういう人が、こういう場に集まるというのは、碑をつくられた主催者の一つの願いではないかな、と思います。原爆投下 については国家的な行事として慰霊していますが、8月15日も。それに負けずに劣らず、自分たちのできることは自分たちでやっていくこ とが大切と、いつもこの会に来て思い知らされます。

Oさん 松阪から来ました。木本の碑は高台にあるので目立ち難いが、建てた後、碑が無事に立っていることを見守っていきたいと思います。 

Aさん 四日市からきました。三重県に住んでいながら紀州鉱山で亡くなられたその事実を4~5年前まで知らなかった。1923年の関東大震災時の虐殺が、1926年の木本での虐殺が起こっていますが、その当時、全国でこういう事件が起こっていなかったのかという想いに立つ のです。李基允さん・裵相度さんの90年経ってもまだ晴れることのないハンが、いつになったら晴れるのかという想いで、一日も早く、 ハンの気持ちを癒やすことができるように頑張っていきたいな、と思います。



3 交流会 18日夜、宿所で交流会を持ちました。
■交流会での発言
 「関東大震災で虐殺された中国人労働者を追悼する集い」を主催している参加者は、
   「当時、中国政府からの抗議に日本政府は虐殺の事実を隠しきれず、20万円の賠償金を支払う約束をしているという交渉記録が存在している。この事実は隠しきれない。3年後に起こった木本事件は、日本全体がそういう状況であったことを示している。今、同じ状   況にある。決して過去の問題ではない。だからこそ、今、真相を究明し、二度と起こさせないよう、政府・自治体の責任を明らかに   していかなければならない」と話しました。

  民団三重県本部の皆さんからは、
   「国境を越えて、一緒に取り組んでいきたい。これからの若い世代に歴史的なこととして伝えていきたい」

 「道徳教育の復活など、前にも増して深刻になってきたと思う。戦争を体験した母親に『なぜ、戦争を止められなかったのか』と問うたとき、母は、『その時代は天皇は神様で、そういうものだったのよ』と言った。私は、殺す側にも殺される側にもなりたくない、私たちの人間的な世の中にしていきたいと思うので、毎年、この集会に来て、運動を広めていきたいと思う」と話しました。

  障害者施設に勤めている職員は、
   「こういう集会に参加しないと、こういう事件があったことも知らず、考えることのない自分でいるだろうと思う」と発言し、

  被差別部落出身の参加者から
   「在日朝鮮人が、部落だからといって卑下する必要はないと教えてくれた。追悼碑の建立について、朝鮮人から日本人への感謝を述べられるが、植民地支配で朝鮮から強奪したうえで生活を成り立たせいる日本人は感謝される立場ではない」
   などの意見が出されました。
                                                        (竹本昇記)


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「<紀州鉱山>徴用犠牲者を追悼…市民集会に民団三重から初参加」

2017年12月05日 | 紀州鉱山
http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=12&newsid=24023
『民団新聞』 2017.11.29
■<紀州鉱山>徴用犠牲者を追悼…市民集会に民団三重から初参加

【写真】墓標のかわりとなる35個の石に献花し献杯

【三重】第2次大戦中、紀州鉱山に徴用され、亡くなった同胞を追悼する第10回目の市民集会が19日、熊野市内の碑前で営まれた。主催は1992年に発足した「紀州鉱山の真実を明らかにする会」。
 今回初めて民団三重本部(殷慶基団長)から殷団長をはじめとする代表11人が参列した。
 同会による13年間にわたった調査によれば、現場で過酷な労働を強いられた同胞は少なくとも1000人以上。このうち家族も含めて35人の死亡を確認したという。10年3月には現場近くに追悼碑を建立した。
 碑の前には死亡者の名を記した35個の小さな石が置かれている。参列者はその一つひとつに献花して献杯した。
 民団関係者は18日、1926年に木本町(現熊野市)で住民の襲撃を受けて死亡した李基允さん(当時25)と裵相度さん(同29)を追悼する集会にも参列した。


http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=3&newsid=11825
『民団新聞』 2009.9.30
■強制労働の記憶、碑に 紀州鉱山
 同胞・市民が来春建立 三重県熊野市
【三重】県南部の熊野市紀和町の紀州鉱山(石原産業経営、78年閉山)に強制動員され、亡くなった同胞を追悼する碑の建立計画が現地で進んでいる。中心となっているのは、10年ほど前から事実の掘り起こし作業を進めてきた市民団体「紀州鉱山の真実を明らかにする会」。賛同団体には地元の民団三重本部(申載永団長)も加わっている。
 1940年から日本の敗戦までに紀州鉱山で苛酷な労働を強いられた同胞は1000人を超す。紀和町の慈雲寺本堂に置かれている『紀州鉱業所物故者霊名』によれば、犠牲になった同胞は名前が明らかになっているだけでも32人に上る。
 同会は6日、県教育文化会館で第2回集会を開き、来春の碑建立計画を発表した。報告によれば「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会」を発足させたのは昨年8月のこと。今年7月には碑を建立するための土地200坪を入手し、来年3月28日に除幕を予定している
 建立する会の関係者は「当時、強制労働で亡くなった英国人捕虜16人の追悼式は毎年行われており、町史にも記載されている。だが、同じ強制労働で亡くなった朝鮮人にはなにもされていない」と訴えた。
 民団の窓口となっている伊賀支部の申載三支団長も、「亡くなった人のためにも、紀州で何があったのかを市史に記載していかなければならない」と語った。
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「朝鮮人労働者の冥福祈る 旧紀州鉱山 追悼集会に50人」

2017年11月25日 | 紀州鉱山
『毎日新聞』2017年11月20日朝刊 熊野版   汐崎信之 
■朝鮮人労働者の冥福祈る 旧紀州鉱山 追悼集会に50人
 第二次世界大戦までに旧入鹿村(現熊野市紀和町板屋)の旧紀州鉱山で働き、亡くなった朝鮮人労働者と家族計35人を追悼する集会が19日、同町板屋の朝鮮人追悼碑前であった。10回目の式には約50人が参列し、一人一人の名が記された石に赤いカーネーションなどを献花し、冥福を祈った。
 2007年にできた「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会」主催。追悼式は08年に始まり、碑は10年に建てた。同会の調査で同鉱山で1300人以上の朝鮮人が働き、経営していた会社の労組名簿や地元の寺の記録から亡くなった35人の名が判明した。
 式では、同会代表者の金靜美(キムチョンミ)事務局長はじめ、栃木や大阪などの在日の朝鮮人と中国人、支援者らがろうそくに点火した。
 会設立時からのメンバーで伊賀市下郡の竹本昇さん(67)は、「参列者が増え、運動の広がりを感じる。侵略、植民地支配の事実確認を進めたい」と話した。
 
【写真】朝鮮人追悼碑に献花する参列者=熊野市紀和町板屋で   

                    

『中日新聞』2017年11月21日朝刊 くろしお版   木造康博
■戦中の歴史 記憶する  紀和 朝鮮人労働者を追悼
 熊野市紀和町の旧紀州鉱山で戦時中に労働を強いられたとされる朝鮮人労働者を追悼する集会が十九日、同町板屋の追悼碑前であった。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会(和歌山市海南市)が催し、メンバーや在日の朝鮮人ら五十人が参加。死亡者の名が記された自然石にカーネーションなどを献花したり、日本酒を注いだりして冥福を祈った。
 同会によると、鉱山で働いていた朝鮮半島出身の労働者は約千三百人で、家族を含め亡くなった三十五人の名が分かっているという。事務局の佐藤正人さん(七五)は「名前の分らない人が数多くいる。日本の侵略の歴史を明らかにしていきたい」と話した。

【写真】献花したり日本酒を注いだりする参加者=熊野市紀和町板屋で
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10回の集いにいたる道 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する

2017年11月09日 | 紀州鉱山
■紀州鉱山の真実を明らかにする会ができるまで
 1988年9月11日に、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の第1回準備会が開かれた。翌1989年1月28日と29日に、準備会は、はじめて熊野市を「現地調査」した。
 その後、わたしはほとんど毎月1回、車で熊野に通った。熊野に行くとき、当時は山を越え、あるいはふもとを回り、川の流れにそって蛇行する谷間の道を走った。
 途中現れる地名は、かつて和歌山地域ではたらいた朝鮮人の歴史を調べるために古い新聞記事を探していて、朝鮮人の労働現場を特定できた場所が多く、なじみ深かった。山間の険しい道。とつぜん現れる村むら。このような奥地まで朝鮮人は働きに来ていたのか! 朝鮮人の足跡、労働の跡が確かめられる場所を車で走らせた。そうして、紀州鉱山がある紀和町(当時は三重県南牟婁郡。2005年に熊野市に合併)も熊野市にいく途中ではじめて立ち寄った。

■紀州鉱山で働いていた人を韓国に訪ねる
 1996年夏、石原産業が1946年9月に当時の三重県内務部に提出した「報告書」を入手した。
 この「報告書」の主内容は、紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の名簿であった。
 その名簿に記されている住所をもとに、10月、佐藤正人さんが一人で、はじめて江原道麟蹄を訪ね、麟蹄郡庁の人たちの強い協力をえて、紀州鉱山に強制連行された金興龍さん(1914年生)、丁榮鈺さん(1917年生)、孫玉鉉さん(1922年生)、金石煥さん(1923年生)にお会いした。
 12月に、わたしたちは江原道旌善を訪ね、翌年から、江原道の麟蹄、旌善、平昌、江陵、堤川、慶尚北道の安東、軍威などを集中的に訪ね、紀州鉱山に強制連行され、解放後の12月に帰郷した人たちにお話を聞かせていただいた。また、強制連行された人の遺族、村民を強制連行する側だった、当時、警官や村長だった人にも話を聞かせていただいた。

■はじめての紀州鉱山「現地調査」
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、李基允さんと裵相度さんを追悼する2回目の集会の翌日、1995年11月19日に、はじめて紀州鉱山のあった地域(紀和町)の「現地調査」をおこなった。このときの資料として作った『熊野・紀州鉱山・新宮現地調査資料集』(Ⅰ)のはじめに、わたしたちは、
   「李基允氏と・相度氏の追悼碑を建ててから1年後のいま、わたしたちは、熊野・紀州
  鉱山・新宮に朝鮮人労働者のあとをたずね、日本の行政機関や、企業がかくしてきた歴史
  の事実を明らかにしていく作業を具体的にすすめていく第一歩として、「熊野・紀州鉱山・新
  宮現地調査」をおこなうことにしました。
   この調査をきっかけとして、こんご、紀伊半島(奈良県、和歌山県、三重県)における朝鮮
  人強制連行・強制労働の歴史や、石原産業の軌跡にも示されている日本の企業の他地域・
  他国侵略の事実を、おおくの人びととともに明らかにしていきたいと思います」
と書いた。
 1996年11月17日、李基允さんと裵相度さんを追悼する2回目の集会の翌日に第2回目の紀州鉱山「現地調査」をおこなった(『紀州鉱山「現地調査」資料』(Ⅱ)を作成)。
 1997年2月9日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会が結成され、それからは毎年、李基允さんと裵相度さんを追悼する集会の翌日に紀和町で当時のことを知っている人を訪ね話を聞いた。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1997年9月に発行された『在日朝鮮人史研究』27号(アジア問題研究所発行)に「紀州鉱山への朝鮮人強制連行――なぜ事実を解明するか、事実を解明してどうするのか――」を発表した。

■紀和町にたいする要望
 1998年4月1日付で、紀州鉱山の真実を明らかにする会としてはじめて、紀和町にたいし、つぎのことを要望した(中浦敏夫紀和町長、久保幸一紀和町教育長に郵送)。
  1、紀州鉱山への朝鮮人強制連行について調査し、『紀和町史』に明記すること。 
  2、紀州鉱山への朝鮮人強制連行に事実を示す展示がない鉱山資料館の展示内容を変更
   し、解説を書きかえること。
  3、紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんする資料を探索し開示すること。
  4、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑を建て、定期的に追悼式をおこない、追悼碑の維
   持・管理に責任をもつこと。追悼式に、紀州鉱山に強制連行された朝鮮人、遺族の参加を
   保障すること。
 この要望書には、文書回答はなかったが、1998年11月16日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、紀和町役場で、助役、教育長と話し合った。
 紀和町側の口頭での回答はつぎのようなものであった。
 1について。今後検討する。調査の費用を補うことは可能。千炳台さんの埋火葬許可証を調査すると約束。 2について。教育長が快諾。 3について。教育長は、『紀和町史』の書き換えの時点で作業をしたい。書き直しの必要性を認める。 4について。今後の検討課題。

■海南島・韓国・日本で
 1998年6月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、石原産業が鉄鉱石を略奪していた海南島の田独鉱山で最初の「現地調査」をおこなった。
 1998年8月31日に、韓国KBS制作『해남도에 묻힌 조선혼(海南島に埋められた朝鮮の魂)』が韓国で放映された(取材に紀州鉱山の真実を明らかにする会が協力した)。
 1998年8月18日から22日まで、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、韓国慶尚北道安東郡・軍威郡で聞きとりした(このとき、韓国安東MBCが同行取材した)。
 1998年8月29日から9月3日まで安東MBCが三重県、和歌山県、大阪で取材(紀州鉱山の真実を明らかにする会は同行して取材協力した)。1998年10月15日に、安東MBC制作『紀伊半島에 감추어진 진실(紀伊半島に隠された真実)』が韓国で放映された。

■はじめての追悼集会
 それから10年間、紀和町は、1998年11月の口頭での約束を何ひとつはたさなかった。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2008年3月9日、紀州鉱山の旧選鉱場前の広場で、はじめて、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集いをもった。このあと、前日の3月8日に完成させたドキュメンタリー『紀州鉱山に強制連行された人たち 故郷で 麟蹄・平昌・安東・軍威』(制作:紀州鉱山の真実を明らかにする会)を上映した。
 8月31日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、三重県庁所在地の津市で、在日本大韓民国民団三重県地方本部、在日本朝鮮人総聯合会三重県本部とともに、「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会」の発会式をもった。
 その後、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、紀和町を合併した熊野市に、石原産業が紀和町に寄贈し、荒地となって放置されていた場所を、追悼碑建立のための用地として提供を求めたが、熊野市は拒否した。
 その後、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、紀和町を合併した熊野市に、石原産業が紀和町に寄贈し、荒地となって放置されていた場所を、追悼碑建立のための用地として提供を求めたが、熊野市は拒否した。
 つぎに、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、石原産業が紀和町に貸与していた土地の一角に追悼碑建立のための用地提供を要請した。石原産業は熊野市が了承するなら構わないということだったが、熊野市は拒否した。
 2009年5月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、かつて石原産業の鉱山事務所があった場所の筋向かいの土地を購入し、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立し、2010年3月28日に除幕集会をおこなった。
 2008年3月9日、2010年3月28日、2010年12月5日、2011年11月27日、2012年12月2日、2013年11月10日、2014年11月23日、2015年11月8日、2016年11月27日。
 そして、今年2017年11月19日に、10回目の追悼の集いをもつ。
 2015年11月8日、8回目の追悼の集いでは、三重に住む兪柄煥さんの全面的な協力で「조선인추도비」「朝鮮人追悼碑」と、ハングルと漢字で彫り込んだ碑の除幕式をおこなった(このブログの2016年11月2日の「新しい碑」、2016年11月3日 「朝鮮人追悼碑をささえる12個の石」をみてください)。

■紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する場への課税問題
 2009年5月、紀和町に追悼碑建立用地を購入後、11月に紀州県税事務所に減免措置を要請したが拒否され、2010年12月と2011年2月に会員ふたりの銀行口座から不動産取得税と固定資産税相当額が差し押さえられた。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2010年度の不当課税にたいし、2011年3月18日、三重県と熊野市を被告として、津地裁に提訴した。2010年度の不動産取得税と固定資産税、2012年度の固定資産税の不当課税にたいする提訴はそれぞれ最高裁で敗訴し、課税相当額は会員の口座から差し押さえられた(裁判の目的、経緯については、このブログの2014年12月17日「熊野市を被告とする訴訟の経過」、2015年10月9日および2016年11月4日の「熊野市を被告とする第2訴訟の経過」などを読んでください)。

■強制連行された人たちの故郷からの支援と交流
 紀州鉱山に強制連行されたのは江原道の人たちがいちばん多かった。わたしたちは江原道の各地と、強制連行された人数が江原道、京畿道についで多かった慶尚北道の各地を訪ねたが、多くのかたがたとの出会いと協力があって、文書資料では得られない紀州鉱山への強制連行の真実に近づくことができた。
 1997年8月、江原道平昌郡蓬坪面で朴東洛さんが佐藤正人さんに声をかけた。朴東洛さんは当時江原道議会の議員で、佐藤正人さんがなぜ平昌に来たかを知ると、江原道から日本に強制連行された人たちのことに強く関心を持ち、朝鮮人と日本人とによって結成された民衆組織である紀州鉱山の真実を明らかにする会の運動に共感し、その後、わたしたちが平昌を訪ねるたびに郡内から紀州鉱山に強制連行された方々のところに案内してくださった。‟追悼碑ができたらみんなと紀州鉱山に行く”と話されていたが、1999年1月に交通事故で亡くなられた。
 丁乙權江原道議会副議長(当時)は、2011年2月28日、江原道議会臨時会で、‟日帝強制徴用による紀州鉱山韓国人志望者と韓国人追悼の場への不当課税反対”と発言した。
 その後、江原道議会は三重県にたいし、不当課税に反対する「嘆願書」と署名録を採択した。丁乙權さんは、1998年10月30日に佐藤正人さんが会った丁榮鈺さんの孫である。
 丁乙權さんのアボヂ、丁炳碩さんには、2010年1月31日に、麟蹄郡麒麟面の自宅でアボヂが強制連行されていたころの話を聞かせていただいた。丁炳碩さんは、その年の12月の3回目の追悼集会に韓国からきてくださったが、その半年後の2011年6月8日に病死された。
 2012年2月17日、慶尚北道議会で、金昌淑議員が紀州鉱山への慶尚北道からの強制連行、紀州鉱山の真実を明らかにする会の活動などについて発言した。2月22日に慶尚北道議会は本会議で、紀州鉱山への強制連行と死者にかんする真相究明を要求する決議案を採択した。4月2日~4日に、慶尚北道議員団が、熊野市議会、三重県議会を訪問した(このブログの2012年4月5日の「道議会紀州鉱山真実糾明訪問」などをみてください)。慶尚北道議員団は、2015年11月に追悼集会に参加した(このブログの2015年11月6日の「慶尚北道道議会議員団の行動予定 11月6日~9日」、2016年10月30日、31日の「壬辰倭乱・朝鮮植民地化・強制連行の痕跡をたどる 2015年11月、韓国慶尚北道の道議員団とともに」1,2をみてください)。

 紀州鉱山で亡くなった人たちを追悼する集いの10年の軌跡、それ以前からの紀州鉱山への朝鮮人強制連行の歴史の調査の過程をふりかえると、わたしたちの活動は多くの人たちに支えられていたことをあらためて強く思う。
                                           金靜美
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熊野市にたいする抗議・要請 2016年11月27日 

2017年01月26日 | 紀州鉱山
 きのう(1月25日)、紀州鉱山の真実を明らかにする会と第9回追悼集会参加者一同は、河上敢二熊野市市長と倉本勝也熊野市教育長に、抗議と要請の文書を送りました。文書の日付けは、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する昨年の9回目の追悼集会の日である2016年11月27日です。抗議・要請文の全文はつぎのとおりです。
 
                    紀州鉱山の真実を明らかにする会

■抗議・要請■
 わたしたちは、2010年3月に追悼碑を建立し、毎年11月に碑の前に集まって追悼集会を開催して9回目を迎えました。これまでと同様、今回も千葉、東京、小樽、京都、奈良、兵庫など各地から参加して、紀州鉱山に拉致され過酷な労働を強いられた後、故郷に戻ることなくその生を断たれた朝鮮人を追悼する集会を開催しました。
 昨年の追悼集会の直前には、三重県に住む朝鮮人の協力により、亀山から運んだ巨石に「朝鮮人追悼碑」と刻んだ新しい石碑を建立しました。土地の中央に建てられた追悼碑、および犠牲者ひとりひとりの名前を刻んだ石碑に加えて、道路に向かったこの新しい大きな石碑が道行く人に紀州鉱山における朝鮮人強制連行の歴史を訴えています。この土地が日本の過去の植民地支配と侵略戦争の犠牲となった朝鮮人を追悼するという公的な場であり、そのような場として年々整備が進められていることをここからしっかりと確認することができます。
 昨年も、今年も、追悼集会には雨が降りましたが、参加者の中には「この雨は犠牲者の悔し涙だ」、と語る人もいました。
 石碑に刻まれた35名の方々は、わたしたちの会が知りえたかぎりの方々であり、紀州鉱山の強制連行によって亡くなった方々のすべてではありません。しかもその35名のなかでも本名が一部しかわからない方もおり、さらにそれらの方は多くが遺骨の所在すらいまもなお不明のままです。
 70年以上か経過した現在もなお、日本の政府と企業は、朝鮮人を連行し死に至らしめその方々の生命の尊厳を踏みにじった行為に対して、実態の調査も、責任者の処罰も、犠牲者に対する謝罪も、賠償も、行っていません。
 追悼集会では、熊野市の不当な課税行為に抗議する裁判の報告もおこなわれました。熊野市は追悼碑の土地を私有地と見なして固定資産税を課しました。熊野市のこの課税行為は、市民団体が紀州鉱山で命を断たれた朝鮮人を追悼し日本の歴史的責任を明らかにするためにおこなった追悼碑建立の公共的意義を否定するものにほかなりません。
 わたしたちは追悼集会のたびに、熊野市に対して、本会とともに、紀州鉱山における朝鮮人の強制連行・強制労働に対する実態を調査し記録し、朝鮮人を追悼する行事に取り組むよう求めてきました。しかし、熊野市は、一昨年も、追悼集会に際してわたしたちが発した抗議要請に対して、回答していません。そのような熊野市の態度は、行政の公的業務を放棄することを意味します。
 昨年の抗議要請文をこの抗議要請と合わせて同封しますので、昨年の質問事項を確認のうえ、責任のある回答を求めます。2月末日までにかならず文書で回答してください。
                                  (2017年1月25日発信)


                                  
抗議・要請      2015年11月8日
  熊野市長   河上敢二 さま
  熊野市教育長 倉本勝也 さま

               紀州鉱山の真実を明らかにする会
               第8回追悼集会参加者一同

 わたしたちは、1997年2月の会の結成以来、朝鮮から紀州鉱山に連行され過酷な労働を強いられた1000人以上に及ぶ朝鮮人労働者の歴史について調査を進めてきました。そして2010年3月に紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立し、それ以降毎年追悼集会を開催して、本日、8回目の追悼集会を迎えました。
 今回の追悼集会には、紀州鉱山で働かされた朝鮮人の出身地のひとつである慶尚北道の道議会のみなさんが参加されました。紀州鉱山に連行され労働を強いられ犠牲となった朝鮮人の韓国の遺族のかたがた、そしてその出身地の地域や議会がこの追悼集会に強い関心のまなざしを向けています。
 当会が独自に調査を進めた結果、これまでのところ、少なくても朝鮮人労働者とその家族35名が紀州鉱山で亡くなったことが明らかになっています。しかし、この35名の方の遺骨の所在も、死亡の状況や原因についてもほとんどわかっていません。
 わたしたちは旧紀和町、そして熊野市がこれらの朝鮮人の追悼碑の建立に取り組むよう働きかけてきましたが、貴職らは誠実に応答しませんでした。 
 わたしたちはやむなく、会で独自に土地を確保し、追悼碑を建立して、2010年3月28日に除幕集会を開催しました。ところが、この土地に対して、熊野市長は固定資産税を求めてきました。
熊野市への朝鮮人強制連行、熊野市での朝鮮人強制労働という歴史について、熊野市が責任をもってその事実を究明し、犠牲者を追悼することは当然のことであるにもかかわらず、貴職はその責務をはたさないばかりか、市民団体が心ある多くの人びとの寄金によって入手した追悼碑の土地に課税をするという、無恥で理不尽なことをしました。
 わたしたちはその不当性を公の場で問うために2011年3月18日に三重県津地裁に訴訟を提起しました。この訴訟の提起は日本の社会だけでなく、韓国にも大きな反響を呼び起しました。紀州鉱山に強制連行された人たちの故郷の江原道および慶尚北道の道議会では、わたしたちの会による提訴を支持し、熊野市による固定資産税の課税の撤回を求める決議がなされています。また慶尚北道の道議会議員団が2012年4月に三重県と熊野市を訪れ、三重県の不動産取得税と熊野市の固定資産税の課税を撤回するよう求めました。慶尚北道の道議員団は今回8回目の追悼集会に参加するため、熊野への二度目の来訪をおこないました。
 以上の経緯を踏まえて、熊野市のこれまでの不当な対応に抗議するとともに、改めて以下のことを要請します。

 1 熊野市紀和鉱山資料館に、紀州鉱山への朝鮮人強制労働、紀州鉱山での朝鮮人強制労働に関する資料を展示すること。
 2 紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での朝鮮人強制労働についての調査を進めること。
   石原産業が1946年に三重県内務部に提出した朝鮮人労働者についての「報告」はきわめて不正確なもので、この「報告」に「逃亡」したと書かれている千炳台さんは紀和町で死亡していることが判明していますが、旧紀和町は、私たちが千炳台さんの埋火葬許認可書の開示を要望したにもかかわらず、この要望を拒否し続けてきました。
 3 熊野市は、紀州鉱山での朝鮮人犠牲者を、今後どのようなかたちで追悼するのか、その内容を具体的にあきらかにすること。
昨年の7回目の追悼集会ではこの同じ要請を貴職に対して行ったにもかかわらず、貴職は当会への回答を1年近く経過した今日までおこなっていません。
 市民の要望に答えるという行政の基本的な責務を放棄するこのような態度は許すことのできないものです。

 さらに加えて、倉本教育長に対して以下の質問を行います。
 昨年9月25日の熊野市教育委員会で、鉱山資料館に紀州鉱山の朝鮮人の強制労働に関する資料の展示についての教育委員の質問に対して、杉松前教育長は、「鉱山の資料館として、昔こういう方達がはたらいていたことで写真を飾ることは構わないと思います」と答えています。
 この答弁について以下に質問します。
 1 倉本教育長は、鉱山資料館にすでに英国人捕虜の鉱山労働に関する写真の展示があるのは御存じでしょうか。
 2 杉松前教育長は、これまで当会が紀州鉱山における朝鮮人の強制連行・強制労働についてくりかえし要請してきた経過を承知のうえで、このような答弁をしたのでしょうか。倉本教育長はこの答弁と同じ考えなのでしょうか。
 3 「鉱山資料館に写真を飾ることは構わない」と答弁するに当たって、教育委員会はこの件に関してどのような調査をおこない、どのようなことを確認したのでしょうか。
 4 倉本教育長は、鉱山資料館の道路を挟んだ斜め向かいに紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑が建てられていることをご存知でしょうか。また、熊野市がこの土地に対して、固定資産税を課していることをご存知でしょうか。

 上記の要望と質問に対する回答をかならず12月28日までに文書で求めます。
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「刻まれたのは“欠けた”名前 旧紀州鉱山に朝鮮人労働者の追悼碑建立」

2016年12月30日 | 紀州鉱山
http://www.kinyobi.co.jp/backnum/antenna/antenna_kiji.php?no=1046
『週刊金曜日』2010/4/2 金曜アンテナ 
■刻まれたのは“欠けた”名前
 旧紀州鉱山に朝鮮人労働者の追悼碑建立

 石原産業旧紀州鉱山(三重県熊野市)でアジア・太平洋戦争中、強制連行により労働を強いられ、異郷で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の除幕集会が三月二八日、同市であった。碑は、市民団体「紀州鉱山の真実を明らかにする会」と在日本朝鮮人総聯合会県本部、在日本大韓民国民団県地方本部が結成した会が建立。碑文は、アジア各地の日本軍・企業による侵略の責任追究を誓うとともに、犠牲者の冥福を祈る。集会には、韓国の関係者をはじめ在日朝鮮・韓国人、日本人ら約一〇〇人が参加した。
  「明らかにする会」の調査では、同鉱山で一九四〇年から四五年までのべ一三〇〇人超の朝鮮人が働いていた。しかし、紀和鉱山資料館の展示では全く触れていない。同鉱山で死亡した英国人捕虜一六人の名前や年齢は墓地に明記され、合併前の旧紀和町長も参列し慰霊祭が営まれたのと対照的だ。
 追悼碑の前には、三五個の石が並び、亡くなった朝鮮人三五人の名前がひとりずつ書かれている。同会のメンバーが九六年から訪韓を重ね、生存者・遺族らから聞き取るなどして調べた。だが、うち一一人は名前の一部が欠け、出身地が判明したのは六人にすぎない。
 同会の金静美さん(六〇歳)は「当時、日本式の名にさせられていたため、(資料を探しても)本当の名前が分からない。(欠けた)名の書かれ方は、紀州鉱山の真実が明らかになっていないことの証」とし、碑の建立を、真相解明に向けた新たな出発点とすることを呼びかけた。
 
                            山本柚・ライター
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「紀州鉱山で死亡の朝鮮人 支援者ら20人 追悼の集会」

2016年11月28日 | 紀州鉱山
 以下は、きのうの紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集会のことを報道する、今日(11月28日)の『毎日新聞』三重版の記事です。

■紀州鉱山で死亡の朝鮮人 支援者ら20人 追悼の集会
【熊野】旧入鹿村周辺(現熊野市紀和町)にあった紀州鉱山で第二次世界大戦が終わるまでに亡くなった朝鮮人35人を追悼する集会が27日、紀和町板屋の追悼碑前であった。雨が降る中、在日朝鮮・韓国人や日本の支援者ら約20人が冥福を祈った。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会(金靜美事務局長)が主催した。紀州鉱山は銅を産出し、1978年に閉山した。会によると、戦争中1300人以上の朝鮮人がいた。うち35人が死亡している。
 この日は神戸市や北海道などから参加者があった。金管楽器で「アリラン」が演奏された後、追悼碑にカーネーションを献花、日本酒で献杯した。  【汐崎信之】

【写真】追悼碑に献花する在日朝鮮人・韓国人ら 熊野市紀和町板屋で
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