三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

二人の影と私と-三重県木本での朝鮮人虐殺-その4(2002・4)

2006年12月31日 | 木本事件
 木本トンネルは全長五〇九メートル、木本と泊を結んでいます。トンネルの内面は、いまでも整えられていないところが残っていて、そこは掘られた当時のままのでこぼことした岩壁にセメントを吹きつけただけになっていて、一見、鍾乳洞を思わせます。トンネルを木本側から抜けると目の前には泊の小さな海水浴場が広がっています。友達と海に向かってせまいトンネルの道を自転車を走らせていたことを思い出します。
 飯場があった西郷川の岸辺を川に沿って上流に少し上がると、私が通った高校があります。西郷川では、相度さんの二男敬洪さんがトンボをとったり、魚釣りをしていたということです。高校への通学途中にある極楽寺では、当時、殺された二人の死体が放置されていたそうです。そして、二人の名前を日本名で、そして「鮮人」と刻んだ、差別的「墓石」が、残っています。
 紀伊半島の片田舎、このようなところにも日本という国家による朝鮮半島の植民地支配が刻まれています。一九二三年の関東大震災時の朝鮮人虐殺、あるいはアジア太平洋戦争での日本軍の無数の残虐な行為、それらは木本事件とひとつのものとしてつながっているのです。
 相度さんと李基允さん、二人の影を追っていくとき-二人は写真を残さなかった、残せなかった、私には二人の顔がわからない-、私が無意識的に私という存在を落ち着かせていた、熊野という「私の世界」に、国家の侵略の歴史、地域社会の暴力が潜在していたのです。日本による植民地支配・侵略の歴史、それは彼岸の出来事ではなく、相度さんと李基允さんの人生そして二人の死であり、何人もの朝鮮人労働者の手によって掘られたでこぼことしたトンネルの岩壁、その暗がりであったのです。
 私と「私の世界」、それを外から見るとそれは「私」のありよう。追悼碑のないところで築かれた私と「私の世界」の意識化されない親和的関係。熊野という地域の歴史が、二人の影が、現実のこの社会に身を置く「私」という現実存在の自覚、再構築を迫っているのだと思います。
久保雅和
(立命評論 №106 2002/4発行)
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熊野市に対する抗議と要請

2006年12月27日 | 木本事件
■12月24日に、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は、ことしの追悼集会参加者一同と連名で、河上敢二熊野市長と鈴木昶三熊野市教育長に、次のような抗議と要請の文書を公開を前提としておこないました。
 この公開での抗議と要請にたいしては、来年2月28日までに文書で回答することを要求し、さらにその文書回答を前提として4月下旬の「双方の都合のつく日」に熊野市長・熊野市教育長と面談することを要求しています。

 ……………………………………………………………………………………
 
 公開抗議要請 
         
 2006年12月2日、わたしたちは熊野市の木本トンネルの追悼碑前において、13回目の追悼集会を開催しました。
 その前年に貴殿らに対して送付した「公開抗議要請文」にたいしては、1年が経過した今日においても、文書での回答どころか口頭での回答すら受け取っていません。
 わたしたちの会が社会教育課長に2度ほど電話で問い合わせたときには、すくなくとも紀州鉱山で死亡した朝鮮人労働者については「現在調査中なので待ってほしい」という返事であったため、回答を待っていたのですが、その回答すら送られてきていません。
 『熊野市史』の「木本トンネル騒動」における記述の訂正については、熊野市が削除すると公式に約束した一文「誠に素朴な愛町心の発露」というくだりは、訂正の文書さえ挿入されていない図書館がいまだに数多くあります。  
 熊野市の公共施設で所蔵されている『熊野市史』ですらその訂正がなされていないものがあります。
 たとえば熊野市の「鉱山資料館」に展示されている『熊野市史』においても、削除の表示がまったくなされないままに従来通りの記述が残されています。

 また紀州鉱山で死亡した朝鮮人労働者の調査は、行政当局で保管されている文書が重要な手掛かりになります。その調査を依頼してやはり1年が経過したにもかかわらず、何の回答もいただいていません。
 市民団体の問い合わせにまともに対応できない熊野市当局の無能力と無責任が露呈していると言わざるをえません。
 わたしたちは昨年提出した「抗議要請文」と紀州鉱山で死亡した朝鮮人労働者の調査についての要請文を再度添付いたします。
 熊野市の誠意ある対応を強く要望します。
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写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』と12回目の海南島「現地調査」

2006年12月21日 | 写真集
 写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(紀州鉱山の真実を明らかにする会制作)の作業が最終段階にはいりました。今月27日にできあがる予定です。
 これは、紀州鉱山の真実を明らかにする会がこれまで11回おこなってきた海南島「現地調査」の総括的報告書のひとつです。

 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、今月28日から来月25日まで、4週間、海南島各地で12回目の「現地調査」をします。
 
 写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(全カラー、A4版140頁)の概括目次はつぎのとおりです。

……………………………………………………………… 

序 日本の海南島侵略と抗日反日闘争
Ⅰ、日本軍の住民虐殺・民衆の抗日反日闘争
    日本軍の住民虐殺
    抗日反日闘争
       ■記念碑
       ■記録・証言
Ⅱ、日本の侵略犯罪
    海南島侵略開始
    海南島占領日本軍施設跡
       ■海南島占領日本軍司令部跡
       ■「要塞兵舎」跡
       ■望楼跡・軍無線駐剳地跡
       ■日本軍飛行場跡
       ■鉄橋・鉄道跡
       ■軍用洞窟跡
    経済・軍事・文化侵略
       ■金融支配
       ■鉱山資源・森林資源略奪
       ■土地収奪 日本人農業移民
       ■コメ略奪
       ■思想弾圧
    日本軍隊性奴隷
    「朝鮮村虐殺」
抗日闘争期海南島現代史
国民国家日本の海南島侵略史年表
【資料】
【地図】海南島地図、
    抗日軍根拠地位置と日本軍による住民虐殺現場位置
    海南島占領日本軍司令部・軍事施設位置図
詳細目次

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二人の影と私と-三重県木本での朝鮮人虐殺-その3(2002・4)

2006年12月16日 | 木本事件
《私の世界と二人の影》
 相度さんは一八九六年、朝鮮半島の東南の地、洛東江が海に注ぐ河口近くの村で生まれました。相度さんは幼いときから農業を営んでいたのですが、やがて農業では生計がたてられなくなってしまい、妻と共に日本に渡ることになります。その過程には日本による植民地支配があります。相度さんは大阪、京都、滋賀、三重などの工事現場で働き、一九二五年、妻と幼い三人の子どもたちとともに木本へとやって来ました。
 相度さんが働いた木本トンネルの工事には、多いときで二〇〇人の朝鮮人労働者が働いていました。相度さんよりも少し若い李基允さんもトンネル工事現場で働き、妻とともに木本で暮らしていました。
 木本は海と三方を山に囲まれた地形のため、船がつかえない時期には、交通に不便な峠道を使うしかなく、トンネルを作ることを木本の産業、生活にとって、重要なものでした。「大日本帝国」による朝鮮半島の植民地支配がおこなわれたとき、相度さんは農業を続けられなくなり、故郷をあとにし、日本の木本という一地域の開発のための安い一労働力として、トンネル工事に従事することとなったのです。
 一九二六年の正月、映画館に入ろうとした朝鮮人と日本人のあいだで喧嘩となり、朝鮮人が日本刀で切られ、重傷を負うという事件が起こったことに端を発し、翌日の一月三日夕刻頃、日本人の地域住民のあいだで、朝鮮人が襲撃に来るというデマが流れはじめ、木本町長は銃砲所持者に参集をもとめ、消防組、在郷軍人会が猟銃、日本刀、銃剣、とび口などで武装し、朝鮮人労働者とその家族が暮らしていた飯場を襲撃するという事態にいたりました。薄暗くなった木本の町には、火の見やぐらの警鐘がうち鳴らされ、「やれー」という気勢があがっていたといいます。
 武装した消防組、在郷軍人会など人々による襲撃にあい、家も家財道具も壊されてしまった朝鮮人の労働者とその家族は、木本トンネルに避難し、なおも追いかけ、発砲する日本人に対して工事用のダイナマイトで反撃しました。
 日本人に対し先頭にたって反撃した李基允さんは日本人に包囲され、とび口を突き立てられ、棍棒でなぐられて殺されてしまったのです。また、その後、現場にいなかったが、銃声、ダイナマイトの音に気づいた相度さんは、止めに入ろうとしたところを、日本人につかまり、殺されてしまいました。
 消防組、在郷軍人会の人々は、夜になってもトンネルの山側に逃れた朝鮮人への追撃をやめませんでした。その後数日、夜は、山あいの小さな集落でも電気が消され、住民が在郷軍人会による「追跡」に「協力」していました。
 事件後、木本町の朝鮮人は、警察の手によって木本町を追放されました。追放前、家を、家財道具を壊され、木本町役場に収容された相度さんと李基允さんの妻が持っていた財産は、二人合わせてわずかに三円だったと当時の新聞は伝えています。
久保雅和
(立命評論 №106 2002/4発行)
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二人の影と私と-三重県木本での朝鮮人虐殺-その2(2002・4)

2006年12月09日 | 木本事件
《私の居場所》
 私は一九七七年、日本という国の三重県の南端近くにある御浜町に生まれました。私が生まれた町は熊野市のとなりにある小さな町です。熊野市から私の町を緩やかなカーブを描いて海岸線がのび、大きな海が広がっています。深い山々が海の近くまでせまり、町は山と海に囲まれています。私は、熊野市を含めたこの地域で高校までを過ごし、ここを友達と遊んだこと、畑仕事をしたことなどを雨や風、夏の日差しや夜の波の音とともに、このからだをもって記憶しています。
 「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会」は、一九二六年に木本町(現在の熊野市)で日本人の地域住民に殺された李基允さん、相度さんの追悼碑を一九九四年十月、二人が働いていた木本トンネルのそばに建てました。当時、この追悼碑のすぐ近くの高校に通っていた私は、追悼碑が建てられたと先生が話すのを聞くともなく聞き、ふと、「なんでこんなところに朝鮮の人がいたんだろ」と思い、「朝鮮人」「追悼碑」という言葉が宙に浮いたまま、次の瞬間それはもう消えていました。

 当時の私は「なんでこんなところに」と疑問を持ったのです。今、このことは私に重要なことを教えてくれるように思います。それは、そのとき先生が話したことが、あまりに断片的だったということだけではないと思います。当時私は「大日本帝国」の侵略・植民地支配の歴史を知識としては知ってはいました。それでも、私にとって私が暮らす地域は私が経験する「この私の世界」、私と、そしてそこで日常的に出会う人たち(それは私がいつの間にか同じ「日本人」としていた人たち)の世界であったのだと思うのです。
 私はこの生身の私を「私の世界」に置いて意識していると思います。その世界は私にとっての日常であり、私の安らぎであったり、なじみの商店街や山や海の風景、そこでの人間模様、価値観、道徳、いろんなものを含んでいる世界です、それはもう私の一部でもあるのでしょう。しかし、私の「この世界」は何だったか、何かを欠いてはいなかっただろうか。                
 久保雅和
(立命評論 №106 2002/4発行)
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“大逆事件”と“木本事件”

2006年12月05日 | 木本事件
 平等社会をめざし、天皇制を否定し、侵略と差別に反対する民衆の運動をおしつぶそうとして、天皇制日本国家権力者は、「韓国併合」(1910年8月29日「韓国併合ニ関スル条約」公布)の3か月まえ、「大逆事件」創作を開始しました。
 1911年1月24日に、幸徳秋水さん、内山愚童さん、大石誠之助さん、森近運平さん、宮下太吉さん、古河力作さん、奥宮健之さん、成石平四郎さん、新美卯一郎さん、松尾卯一太さん、新村忠雄さんの11人が、東京監獄で、つぎつぎと絞首され、1月25日に、管野すがさんが絞首されました。
 それから95年が過ぎました。

 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は、12月2日の、木本虐殺80年後の追悼集会当日と翌日の2日間、熊野市民会館で、“木本事件”と日本の海南島侵略にかんするパネルとともに、「大石誠之助さんら刑死後95年・木本虐殺後80年」、「“大逆事件”と“木本事件”」、「熊野地域の“大逆事件”犠牲者」を主題とする3枚の大型パネルを展示しました。
 また、追悼集会の前日(12月1日)に、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は、新宮の南谷墓地の高台にある、大石誠之助さんの墓、峯尾節堂さんの墓、高木顕明さんの墓と「高木顕明師顕彰碑」を訪ね、つづいて、春日町の一角にある紀州・熊野地域の「大逆事件」犠牲者(大石誠之助さん、成石平四郎さん、成石勘三郎さん、高木顕明さん、峯尾節堂さん、久保誓一さん)の「顕彰碑」を訪ねたあと、春日町隣りの馬町にある浄泉寺を訪ねました。浄泉寺は、高木顯明さんが住職をしていた真宗大谷派の寺です。
 そして、追悼集会の翌日(12月3日)に、熊野市隣の御浜町の林松寺にある久保誓一さんの墓を訪れ、本宮町請川の墓地にある成石平四郎さん、成石勘三郎さんの墓と、「蛙聖兄弟成石平四郎之碑」を訪ねました。この墓地の近くに、成石兄弟の実家があったそうです。

 「李基允氏と相度氏が、朝鮮の故郷で生活できずに、日本に働きにこなければならなかったのも、異郷で殺されたのも、天皇制のもとにすすめられた日本の植民地支配とそこからつくりだされた朝鮮人差別が原因でした」(追悼碑碑文より)。
 
 李基允さんと相度さんが、虐殺されてから80年が過ぎたことしの追悼集会の場で、差別と侵略の思想的・社会的根源である天皇制とのたたかいの歴史的道すじなどが語られました。

                                         佐藤正人
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李基允氏と相度氏の追悼集会のご案内

2006年12月01日 | 木本事件
李基允氏と相度氏の追悼集会のご案内

明日、開催です。ぜひ参加を!

【追悼集会】    日 時:2006年12月2日(土) 
        午後3時 開会  場 所:李基允氏と相度氏の追悼碑前
          (木本トンネル熊野市側入り口) 
           (JR熊野駅から尾鷲方面に徒歩8分)

             今年も追悼集会と合わせて、各種行事を
             企画しますので、ぜひ参加してください!
             開催場所は、熊野市民会館 1階ラウンジです。
          ●「写真パネル展」 12月2日(土)~3日(日)
           「木本事件」、「大逆事件」に関する写真パネルなどを
            展示します。
          ●意見交換会     12月3日(日) 
             午前10時~12時『「木本虐殺」80年後の
             いま!』と題した意見交換会を開催します。
             『熊野市史』を熊野市に全面改訂させる取り組み
             などをみなさんと話し合いたいと思います。
             みなさんの色々な考えをぜひお聞かせください!
          ●ドキュメンタリー上映会日時:12月2日(土) 
             午後1時~2時10分
             3日(日) 午後1時~2時10分上映ドキュ
            メンタリー「日本が占領した海南島で 
             ―60年まえは昨日のこと―」※
          ●紀州鉱山「現地調査」 12月3日(日)
              午前9時~午後1時  参加希望の方は、
             午前9時に熊野市民会館にお集まりください。 
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二人の影と私と-三重県木本での朝鮮人虐殺-その1(2002・4)

2006年12月01日 | 木本事件
 この文章は、一九二六年、三重県木本町(木本町は現熊野市)で起こった二人の朝鮮人労働者(李基允さん、相度さん)の虐殺事件に接して、その歴史的事実が私をとらえたことを、一人の生きる人間としての「私」の問題として書こうと思います。二人の朝鮮人が殺されたその地域に生まれ育った私-日本人を、殺された二人の朝鮮人と今なお残された二人の死の意味、あるいは木本トンネル、極楽寺の二人の墓石との関係の場に立たせ、そこにおいて生き抜こうとする歩みといったものです。
 私は、二〇〇〇年の夏、この虐殺事件と出会い、「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会」の活動に参加するようになりました。私がこの会にかかわり始めて以来、私の歩みはこの会の方々とともにあります。会の運動は、私に熊野という地域社会での二人の虐殺という事実をあなたはどのようにうけとめるのかという問いとして差し向けていると思います。会の運動は、その問いにたいする、会に参加する一人一人それぞれの歩みとしてあると思います。
 私の歩みとは何だろう。「私」は、単に私個人のものではなく、それは私が生まれ育った日本の熊野という地域社会の歴史的事実とも重なります。私が二人を殺したのではない、だけど、私は殺された二人の追悼碑を持ってはいませんでした。二人の追悼碑が会の力によって建てられたのは、やっと一九九四年のことであり、それまで二人が殺されたこの地域社会において追悼碑が建てられることはありませんでした。なぜ朝鮮半島に生まれた二人が海を越えた日本の地で殺されたのか、なぜ追悼碑が建てられることはなかったのか。二人の影を見出し、地域社会の現実から一歩を踏み出した私は、やはり、私の歩みを私個人のものとしながらも、多くの見知らぬ人々に語りかけなければいけないと思います。それは市民運動の一員としてではなく、生きる一人の人間として。
 久保雅和
(立命評論 №106 2002/4発行)
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