三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

20年間(1998年~2017年)、32回の海南島訪問 12

2018年01月31日 | 海南島近現代史研究会
 日本のマスメディアが、国民国家日本の歴史的国家犯罪を問うことなく、朝鮮民主主義人民共和国への日本人強制連行にかんして連日膨大な情報を流しているさなかの2002年10月、わたしたちは海南島に行き、8日に、はじめて文昌県重光鎮昌文村を訪ねました。
 海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』上(1995年8月)に収録されている李昌炳・林日明口述「誘騙焼殺 四村遭毀――日軍在重興郷白石嶺暴行親歴記」と李重発口述「“百人墓”前憶往事――日軍焼殺昌文村実述」に、つぎのような内容の記述があります。
   “1941年4月12日(農暦3月16日)夕刻、20戸あまり100人足らずの文昌市重興鎮(旧、文昌
   県重興郷)排田村に、日本軍部隊が来た。日本軍は、村はずれの尖嶺園に村人を集め、
   暗くなってから焼き殺した。逃げようとした人は射殺された。子どもをふくむ88人が殺さ
   れた。
    翌4月13日(農暦3月17日)、日本軍は、隣りの白石嶺村に侵入し、村人40人を殺した。
    その翌日4月14日(農暦3月18日)、朝日がのぼってまもなく、軍用車にのって40人ほど
   の日本兵が、白石嶺村の隣りの昌文村を包囲した。日本兵は、村人を銃でおどして「祠堂」
   におしこめ、まわりを焚き木で囲み、積んできた石油をまいて、火をつけた。このとき、
   人口130人あまりの村の107人が殺された。病気で寝ていた老人や赤ん坊までが焼き殺さ
   れた。
    さらにこの日、日本軍は、昌文村の隣りの賜第村で村人16人を殺した。
    隣り合った4つの村で、3日の間に、日本軍は241人を殺した。
    その20日ほど前、村の近くの軍用道路で、日本軍の車両が攻撃されて、日本兵が死ん
   でいた”。

 昌文村に着いてすぐに、「“百人墓”前憶往事――日軍焼殺昌文村実述」を口述した李重発さん(1936年生)に、村の入り口の樹齢120年以上の大きな榕樹の下で、話を聞かせてもらうことができました。
 李重発さんは、日本軍が村を襲ってきたとき、日本兵の姿をみるとすぐに逃げて助かったが、病気で寝ていた老人や赤ん坊までが焼き殺された祠堂の跡に近づくのがいまでもつらい、と話しました。
 1941年4月12日から14日までの間に、昌文村、排田村、白石嶺村、賜第村の4村を襲撃し、おおくの村人を殺戮したのは、日本海軍佐世保第8特別陸戦隊に所属する部隊でした。
 昌文村の祠堂の横の坂道を登ったところに犠牲者の墓地があり、墓碑が建てられていました。日本軍がいなくなってから、生き残った村人が遺骨を拾って、ここに埋めたといいます。
 墓碑の大きさは、横1メートル、縦2メートルほどで、南南西を向いていました。正面の上部に横書きで「血海深仇 没世難忘」、真ん中に「惨遭日寇殺戮難胞之佳城」、左に「公元一九九八歳次戊寅年四月十九日重修」、裏面には、上部に「殺戮難胞名字列下」と書かれ、その下に犠牲者の名が5段に刻まれていました。戸主と思われる名前があって、その下に、戸主との関係がわかるように名前が刻まれていました。1段目に21人、2段目には20人、3段目には20人、4段目には24人、5段目には20人の名が刻まれていました(ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年前は昨日のこと』<紀州鉱山の真実を明らかにする会企画・制作、2004年7月〉の最終部に、この碑が映し出されています)。

 日本軍は、昌文村を襲う前日(農歴3月17日)、隣の白石嶺村を襲い、村人40人を殺しました。わたしたちは、昌文村で李重発さんに話を聞かせてもらったあと、白石嶺村を訪ね、祖父母を殺された林さんに案内されて虐殺現場に行きました。
 白石嶺村の犠牲者の墓地には堂が建てられていました。墓の前には、1957年5月20日に追悼碑が建てられていました。

 2003年3月25日に、わたしたちは、昌文村と白石嶺村を再訪し、排田村をはじめて訪問しました。
 排田村の自宅で、李昌光さん(1937年生)は、
   “日本兵が襲ってくる前、村の近くで日本兵が3人殺された。日本軍が来たとき、父と母と
   わたしは逃げることができたが、9歳と6歳の兄は殺されてしまった。日本兵は子どもも殺
   した”
と話しました。話を聞かせていただいたあと、李昌光さんに虐殺現場につれていってもらいました。村の中心部から細い坂道を30分あまり歩いたところがその場でした。虐殺の22年後の1963年農歴3月16日に追悼碑が建てられていました。
 碑の中央に「顕祖 孝妣 八十八位之坟」、向かってその右に「惨遭日寇焚烙難民」、左に「血海深仇永世不忘」と刻まれていました。
 碑の裏面上部に「倭乱遇難枯骨之墓」、右に「公元一九四一年三月十六日殉難」、左に「公元一九六三年三月十六日」、中央に、犠牲者88人の名がすべて刻まれていました。碑の高さは約1メートル、幅約45センチ、厚さ約7センチで、南西を向いていました。

 2014年11月3日にわたしたちは、はじめて、重兴镇賜第村を訪問しました。賜第村に着いたのは、朝9時半でした。
 村の入り口に住む李佩瓊さん(1938年生)は、つぎのように話しました。
   “日本兵がきたとき、母は、わたしと兄と姉の3人を連れて山に逃げた。父は南洋に働きに
   行っていた。
    子どものときだったが、家が焼かれて人が殺されたのを覚えている。人数は、後から聞
   いた。
    日本軍は、村人40人くらいを3か所の家に閉じ込めて焼き殺した。ほかの人は逃げた。
    日本軍がいなくなって、村に戻ってきた。兄の文楊は7歳上で、2~3年前に亡くなった。姉
   の美霞は2歳上だ。
    逃げたのは遠くの山。近くだとあぶない。捕まって殺される。母は夜、山から下りて、田や
   畑から食べるものを持ってきた。ナベとか食器とかは持って逃げた”。

 そのあと、賜第村の隣の昌文村と排田村を久しぶりに訪ねました。
 昌文村に着いたのは10時半でした。11年ぶりに会う李重発さんはお元気でした(はじめて会ったのは2002年10月、2度目に会ったのは2003年3月でした)。
 自宅で李重発さんは、つぎのように話しました。
   “1941年3月18日(普通歴4月14日)に日本軍が村にきた。日本人は残酷だ。生まれたばか
   りの赤ん坊も刺し殺した。
    日本軍は祠堂に村人たちを集めた。人数が多かったので、日本軍が見ていないとき、母
   が妹を抱いて逃げた。
    妹は生まれて40日。わたしもいっしょに逃げた。108人が3月18日に殺された。当時の村
   の人口はわからないが、生き残ったのは20人くらいだった。いくつかの家では、家族全員
   が殺された。
    わたしの家族は、6人が祠堂で殺された。父(李運杞)。上の妹(李愛琴)。父の兄の妻、
   ふたり。いとこの兄の妻、ふたり。
    山に逃げていたので、祠堂で焼き殺された父や妹の遺体を見ていない。
    いとこの弟が日本兵に捕まって連れていかれたが、後ろの方を歩いているとき、その日
   本兵は、ほかの兵士が見ていないとき、分かれ道で逃がしてくれた。その日本兵は台湾人
   だったかもしれない。
    日本兵は、歩けなくて寝ている年寄りにガソリンをかけて焼き殺した。名前は、李運浩。
    あの年は豊作だった。夜、みんな山から下りてきて、収穫した。逃げていた期間はわか
   らない。田植えをしなくても、2、3か月たったらまた生えてきて助かった。山に隠れてい
   たことも親戚のところに身を寄せたこともあった。ときどき、移動した。親戚のところに
   は、こっそりと、短い期間だけ。見つかると殺される。 
    日本軍は何回もこの村に来た。大虐殺のとき山に逃げた村人に、日本軍は何回も“安全
   です。山から下りてきてください”と言ってきた。さいしょは恐くて下りなかったが、何
   回も言ってくるので、少しずつ村に戻った。山から下りてきたあと、良民証をもらった。
   それからしばらくして、日本は降参した。
    妹は子どもがいない夫婦に育ててもらった。その養父が日本軍に殺されたので、また妹
   を引き取った。2年間くらい育ててもらった。
    骨を集めて埋めたのは1946年になってからだ。犬などが遺体を食べて、骨が祠堂のなか
   や付近に散らばっていた。集めて一か所に埋めた。
    3月18日には、毎年村で祭祀をおこなう。
    日本軍が降参した次の年に追悼碑を建てた。
    碑は小さかった。遺族が金を出して作った。村人がみんなで殺された人の名を調べ、殺
   された村人すべての名を刻んだ碑を作った。
    その碑が壊れたので、一族10人あまりを殺された陳という人が費用をぜんぶ出して、あ
   たらしく作り直した。
    20年以上前のことだ。壊れた碑はどうしたか知らない。
    陳はマレーシアの華僑だった。陳の息子は、シンガポールに住んでいる。
    さいしょの碑は、李姓が上段だったが、新しく作ったのは、陳という人が費用を全部出し
   たので、陳姓が上段になった。村には李姓が多いので、文句をいう人もいたが、作ったもの
   はしかたない。場所は同じだ。
    あの日に生き残った人で、いまもの元気なのは、李文尧、李昌滋、李文忠とわたしの4人
   だ。李昌滋と李文忠は海口に住んでいる。
    この村は、南北にわかれていて、わたしは北で、ほかの3人は南の村の人だ”。

 李重発さんは、ノートに、1941年3月に日本軍に殺害された村人の人数を記録していました。そこには、
    16日、排田村、88人
    17日、白石村、40人
    18日、昌文村、108人
    21日、賜第村、20人
と記されていました。
                                         佐藤正人
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20年間(1998年~2017年)、32回の海南島訪問 11

2018年01月30日 | 海南島近現代史研究会
 2003年春、「大量破壊兵器がある」という虚偽を口実にしてUSA軍・英軍を主力とする侵略軍が大量の破壊兵器を使ってイラクに侵入し、日本軍がその侵略軍の補給を担当しであらたな戦争犯罪を実行し、おおくのイラク民衆が殺され傷つけられているさなか、わたしたちは、60年前の日本の侵略犯罪を「調査」するために海南島にいきました。
 海南島東北部の文昌市秀田村で、日本軍が住民虐殺をおこなったのは、1945年7月30日(農暦6月22日)でした。
 その秀田村を、わたしたちは、2003年3月27日に、はじめて訪ねました。海南日報社の陳超記者と許春媚記者が同行しました。
 村の入り口の大きな樹の下で、陳貽嶠さん(1925年生)、陳明宏さん(1928年生)、陳貽芳さん(1933年生)から話を聞かせていただくことができました。3人の方がたにとって、両親や妻、子、兄弟が殺されたのは、昨日のことのようでした。祖母、母、妻、そして4か月の子を焼き殺された陳貽嶠さんは、話をしている間、ずっと泣いていました。
 当時12歳だった陳貽芳さんは、
    「父母、兄、嫂、姉、弟、甥の7人が殺された。わたしと陳貽宏は稲藁を積み上げてい
    るところに隠れて見ていた。八か月のおいが日本兵にゆりかごから連れ去られて、火
    の燃えている中へ投げ入れられた。あのころは日本人をすごくうらんだ。家を破壊して
    だれもいなくしてしまった。わたしは、このようなことをやった日本兵を殺せなかったこ
    とがくやしかった」
と、話しました。陳貽嶠さんは、
    「この事件のことを日本人民に知らせなければならない。日本政府に、賠償をさせなけ
    ればならない。ただただ日本の軍国主義を恨む」
と語りました。
 話を聞かせてもらったあと、陳貽僑さんらに村内や犠牲者の墓地を案内してもらいました。日本軍に住民がおしこまれ焼き殺された家の跡が、当時のまま残されていました。村はずれの大きな墳墓のまえの碑に刻まれた「秀田村惨案記略」には、つぎのように書かれていました。
    「1945年6月22日明け方、舗前基地から出動してきた日本軍は、52戸、男女老少200人
    ほどのわたしたちの村を襲い、農作業にでていた者を除く村人全員を2軒の民家に閉じ
    込め、ガソリンをかけ、生きたまま焼き殺した。140人が殺された。老人47人、青壮年24
    人、児童53人、妊婦9人、よその村から来ていた者7人であった。日本軍敗北の前夜で
    あった。
     生きのこった者が骨灰を集め村の西の野に埋めてから40年あまりが過ぎた。
     海外の親族などが資金を、このたび墓園を重建した。 
                              1989年12月10日」。

 碑の裏面に、140人の犠牲者それぞれの家の名と、その家の犠牲者の数が刻まれていました。
 陳貽嶠さんは、秀田村虐殺の52年後、1997年農歴6月22日付けで「文昌市羅豆農場秀田村歴史惨案記実」を書いていました(『海南陳氏譜』第二巻 秀田村分冊、1999年)。その要旨は、つぎのとおりです。
    “秀田村の幸逃者は、わずか56人だった。1945年農歴6月22日早朝、日本軍の部隊は、
    16人づつの2隊に分かれて村に侵入した。
     この日午後4時過ぎ、日本軍がいなくなってから、村にもどった。村のなかの家はまだ
    燃えていた。人影はなかった。父母や子どもに呼びかけたが、答える声は返ってこなかっ
    た。村の西に行くと2軒の家に、焼き殺された遺体があった。どの遺体も、誰なのか見分
    けることができなかった。
     苦しみ嘆き、ものを食べることも眠ることもできなかった。3日後、140人の遺骨を集め、
    ふたつの穴に埋めた”。

 2004年12月、わたしたちは、秀田村虐殺をおこなった日本軍部隊が「駐屯」していたという舗前に行き、その部隊の痕跡を調査しましたが、舗前守備隊本部があった場所以外は、確認できませんでした。舗前守備隊は、日本海軍海南警備府第15警備隊(呉鎮守府特別陸戦隊)に所属する部隊でした。
 秀田村の住民虐殺にもかかわったと思われる兼石績第15警備隊文昌中隊長(大尉)、冨田堯人文昌中隊長、望月為吉文昌中隊小隊長は、海南島で住民を虐殺したとして、広東裁判で死刑判決をうけ、1947年7月26日に銃殺されました。最悪の侵略犯罪者ヒロヒトを「日本国の象徴」兼「日本国民統合の象徴」とする「日本国憲法」が施行されてから2か月あまり後のことでした(「被抑留者(戦犯容疑者)」〈『海南警残務処理報告綴(別冊)』第二復員局残務処理部資料課、防衛研究所戦史研究センター史料室蔵)。『本邦戦争犯罪人裁判関係雑件』日本外交史料館蔵)。『外地における本邦人の軍事裁判関係』(日本外交史料館蔵)。巣鴨遺書編纂会編『世紀の遺書』1953年12月。今井豊平『嗚呼天哉命哉』海南海軍警察隊戦友会、1978年。岩川隆『孤島の土となるとも―-BC級戦犯裁判』講談社、1995年6月)。
 「被抑留者(戦犯容疑者)北部地区」には、兼石績大尉の「被抑留ノ理由(中国側)」として「民国三十四年〈1945年〉七月文昌県羅豆村秀田村ニテ一百八十余人を惨殺ス(以上中国側理由)」と書かれています。兼石績大尉は処刑されましたが、海南警備府第15警備隊司令吉田喜一大佐は、いったんは逮捕され、数日後に釈放され日本に戻りました。

 2016年11月7日に、わたしたちは久しぶりに陳貽嶠さんに会いました。陳貽嶠さんは舗前に引っ越してました。陳貽嶠さんは、つぎのように話しました。
    “あの日わたしは祠堂にいたので逃げることができた。羅豆市まで逃げて、夕方もどっ
    た。午後4時か5時ころだったと思う。
     祖母、母、妻、息子の4人が殺された。
     襲ったのは、鋪前からきた16人の日本兵だった。
     どうして16人だとわかるかというと、鋪前を出発した32人の日本兵が、鋪前と秀田村
    の間を流れる河を渡るとき、16人づつ2組に別れたからだ。このことは、あとで渡し船の
    船頭から聞いた。
     あとの16人は、西沟村に行った。西沟村にも国民党の兵士がいたことがあったが、こ
    のとき日本軍は家を2~3軒焼いただけだったらしい。
     この村の周辺では、国民党の遊撃隊が活動していた。わたしは、ときどき見たことが
    ある。夜、2~3人がいっしょに行動していた。
     日本軍が村を襲ったのは、秀田村に国民党軍の陳文軒がいると考えたからではない
    か。陳文軒は秀田村の人で、母と妻と幼い子どもふたりいたが、家にいることはなかっ
    た。
     日本軍は、秀田村からニワトリ、アヒル、羊、コメなどを奪って、よその村の人たちに鋪
    前まで運ばせた。
     日本が敗けたあと、1950年代に、陳文軒は、共産党に殺された。錦山で人民大会が開
    かれ、銃殺された”。
                                        佐藤正人
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20年間(1998年~2017年)、32回の海南島訪問 10

2018年01月29日 | 海南島近現代史研究会
 月塘村をはじめて訪ねたのは、2007年1月17日でした。
 その前日、月塘村で生まれ育ち万寧市内に住む朱深潤さん(1933年生)が連絡しておいてくれた朱学平さん(1933年生)が、農作業にでかける時間を遅らせて家にいてくれたので、話を聞かせてもらうことができました。朱学平さんは、かたい表情をくずすことなく、こう語りました。
    “わたしは、一二歳だった。朝はやく、日本兵がとつぜん家に入ってきて、なにも言わ
    ないで、殺しはじめた。一〇人家族のうち、わたしだけが生き残った。
     母、兄二人、姉、叔母二人、いとこ二人、そして六歳だった妹の朱彩蓮が殺された。
     わたしは、柱のかげに倒れるようにして隠れて助かった。妹は腹を切られて腸がとび
    だしていたが、まだ生きていた。こわかった。血だらけの妹を抱いて逃げた。途中なん
    ども妹が息をしているかどうか確かめた。激しい雨が降った。村はずれに隠れた。妹は
    瀕死だったが、三日ほど生きていた。
     半月ほどたって家に戻ってみたら家は焼かれ、遺体も火にあっていた。骨になりきっ
    ておらず、くさっていた。まもなく、偽軍や漢奸が来て、遺体を近くに運んで埋めた。
     母呉洋尾は五〇歳だった。
     日本軍が負けていなくなってから、その場所を掘って遺骨を探した。なんども探した
    が見つからなかった。焼けた骨は土のなかで砕けてしまったのだと思う。
     父の朱開廉は、1940年11月28日に近くの東澳村に魚を買いに行き、日本軍に銃で撃
    たれて殺されていた”。

 朱学平さんは、むかしの家に案内するといって立ち上がりました。月塘村の集会場の前を通り過ぎると、まもなく大きな池が見えてきました。むかしは、月塘村の中心は、月のかたちをしているその池のそばにあったといいます。
 日本軍が襲撃した朱学平さんの家の跡には、土台石が残っているだけでした。その一隅を指さしながら、ここが家の門だった、と朱学平さんが言いました。その向かいの家では七人家族全員が殺されたといいます。そこも、土台石が残っているだけでした。

 蔡徳佳・林国齋「日本占領万寧始末――制造“四大屠殺惨案”紀実」(万寧県政協文史弁公室編『万寧文史第5輯 鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』1995年7月)には、1939年10月14日の龍滾狗匙石洞虐殺、1939年10月19日の和楽西戴村虐殺、1940年11月28日の東澳豊丁村虐殺、1945年5月2日(農歴3月21日)の万城月塘村虐殺が、万寧における日本軍の四大虐殺だと書かれています。わたしたちが、蔡徳佳さんに月塘村を訪ねたいというと、蔡徳佳さんは、“日本人が月塘村に行くとどのようなことが起こるかわからない”と言って、朱深潤さんを紹介してくれました。
 2007年1月17日の4か月後、5月に、わたしたちは、再び月塘村を訪ねました。月塘村での日本軍の犯罪を映像で残さなければと考え、6月から、わたしたちは、ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』の制作をはじめました。10月はじめから11月上旬にかけて、連日、月塘村を訪ねました。

 わたしたちたが、朱学平さんから、瀕死の妹の朱彩蓮さんを抱えて「坡」まで逃げたことを聞いたのは、朱学平さんにはじめて会った、2007年1月17日でした。その後、5月に再会し、10月に月塘村に毎日のように行って、なんども朱学平さんに会いました。約束しているわけではないのに、月塘村で、なんどとなく、会いました。
 わたしたちには、1月には、月塘村虐殺にかんするドキュメンタリーを制作するという発想はありませんでした。
 5月に、月塘村で朱進春さんや朱振華さんなどと話し合っているとき、いっしょにドキュメンタリーを制作しようということになりました。
 数日後、わたしたちは、その準備作業として、月塘村の風景の撮影を始めました。月塘のそばの太陽河ぞいの三叉路にカメラを固定し、遠景を撮影していると、遠くから鍬をかついだ人が歩いてきました。その人が近づいてくるのを撮影しつづけました。その人は、朱学平さんでした。畑から帰る途中だとことでした。
 その後も、このような偶然の出会いが何度となく、ありました。
 何度会っても、朱学平さんは、笑うことがありませんでした。その朱学平さんを見ているとき、しばしば、わたしは、1926年1月に、4歳のとき、三重県木本町(現、熊野市)で父裵相度さんを虐殺された裵敬洪さんのことを思い出しました。
 裵相度さんは、「父が殺されてから、わたしは心の底から笑ったことは一度もない」と言っていました(三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会編刊『紀伊半島・海南島の朝鮮人――木本トンネル・紀州鉱山・「朝鮮村」――』〈2002年11月〉を見てください)。

 わたしは、朱学平さんの妹、朱彩蓮さんを、映像で表現したいと考えました。
 もちろん、朱学平さんの記憶のなかの朱彩蓮さんを撮影することはできません。しかし、朱彩蓮さんを記憶している朱学平さんを撮影することはできます。
 2007年10月末、わたしは、思い切って、朱学平さんに、あの日、朱彩蓮さんを抱いて逃げた「坡」まで行きたいと言いました。
 朱学平さんは、「坡はすっかり変わってしまった」と言いました。
 11月6日に、わたしは、朱学平さんと「坡」に向かいました。その道は、以前にも歩いたことのある道でした。
 しかし、朱学平さんといっしょに歩いていると、違った道のように感じました。
 以前に行った地点を通り越して、道がなくなったところをさらに100メートルほど行ったところで朱学平さんは立ち止まりました。すぐそばを太陽河が流れていました。
 そこで、朱学平さんは、つぎのように話しました。
    “あのとき、わたしは、妹を抱いて、前を走っていく人について、逃げた。
     妹が痛いというと、いったん下におろし、また抱えて走るようにして逃げた。
     雨が降りそうになったので急いだ。
     ここまで逃げてきて隠れた。
     あの日、午後3時ころだったと思うが、大雨が降った。夜には止んだ。
     ここにはすぐには食べるものがなかったが、まもなくさつまいもを探して掘って煮
    て食べた。鍋は、‘坡’に住んでいた人に借りた。水は太陽河から汲んできた。
     3日後、妹は、静かに目を閉じて死んだ。なにも食べようとしないで、水だけ飲んで
    死んでしまった。
     妹は、ただ、痛い、痛いと言って、水だけを欲しがった。妹のからだは、年寄りに助
    けてもらって近くに埋めた。いまでは、どこなのかはっきりしない。
     叔父(朱洪昆)が日本兵に10か所あまり刺された。からだに虫がわいて、何日もしな
    いうちに死んだ“。

 こう話したあと、朱学平さんは、樹と草の茂みに入って行きました。
 そして、とつぜん泣き出しました。
 そのあと、朱学平さんは、仕事があると言って、一人で戻りました。
 近くを岩場の多い太陽河が、光って流れていました。その水辺に映る揺らめく太陽を撮影しました。
 太陽河の左岸に沿って下流の月塘村に向かいました。銀白色のススキが風に大きく揺れていました。
 すぐに道が川辺をはずれ、ビンロウジュの畑にでました。遠くに牛がいました。
 夕方、帽子を返しに、朱学平さんの家に行きました。朱学平さんは不在でした。連れ合いさんが、「午後、坡から戻ってから、夫はずっと泣いていた」、と話しました。
 
 11月6日に、朱学平さんの姿と証言を撮影したわたしは、11月中旬に、『海南島月塘村虐殺』のシナリオを書き換えました。
 ドキュメンタリーシナリオという形式での記録・歴史叙述は、撮影してきた映像および撮影しようとする映像に規定されますが、同時に、撮影できない映像をも前提としなければ、書きあげることができません。
 『海南島月塘村虐殺』のシナリオを書いていく過程は、わたし自身が、月塘村虐殺を認識しているのかを確かめる過程でもありました。ドキュメンタリーのシナリオは、証言を文字で記録しているという意味では記録ですが、映像を前提とし数百個のクリップを編集しているという意味では歴史叙述です。わたしにとって、『海南島月塘村虐殺』のシナリオを書くということは、歴史を認識すると同時に歴史を叙述するということでした。
 ナレーションという形式の歴史叙述を書くためには、依拠する文献史料の史料批判を厳密におこなわなければならないのは当然です。
 ナレーションは、現在の証言映像に示されている過去の歴史的事実、現在の廃墟の映像に示されている過去の歴史的事実をことばによって「解説」するものでもあります。ナレーションは、文献史料と影像史料を結びつける役割を果たすものだと思います。

 『海南島月塘村虐殺』新版(2008年制作)のシナリオの構成はつぎのとおりです(シナリオ全文は、海南島近現代史研究会のウェブサイトをみてください。http://www.hainanshi.org/yuetan%20sinn%20sinario.htm)。 
   Ⅰ、月塘村
   Ⅱ、証言
   Ⅲ、「要求日本国政府賠償請願書」
   Ⅳ、戦犯を「象徴」とする日本国で
   Ⅴ、海南島における日本軍の住民虐殺
   Ⅵ、月塘村追悼碑
   Ⅶ、要求賠償
   Ⅷ、掲碑儀式
   Ⅸ、朱彩蓮さん
                                           佐藤正人
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20年間(1998年~2017年)、32回の海南島訪問 9

2018年01月28日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、1月15日にこのブログに掲載した「20年間(1998年~2017年)、32回の海南島訪問 8」に続くものです。

 わたしたちがはじめて海南島を訪ねたのは、1998年6月23日でした。この日朝、海口に着いてすぐに、海口で一番大きい書店だと聞いた解放路の新華書店に行き、日本ではどうしても入手できなかった海南省政治協商会議文史資料委員会編『海南文史資料』第11輯(『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵琼暴行実録』上・下(1995年、海南出版社刊)を購入しました。
 そのあと、昼過ぎに、海南省政治協商会議文史資料委員会を訪ね、『鉄蹄下的腥風血雨』を主編した符和積さんに会いました。
 突然訪ねてきたわたしたちを符和積さんは快く迎えてくれ、抗日戦争勝利50周年を記念して、海南島各地の政治協商会議文史資料委員会が、日本占領下に受けた「暴行」の聞き取り調査をおこない、それを省の政治協商会議文史資料委員会がまとめたのが『鉄蹄下的腥風血雨』であると話し、中華書店では入手できなかった『鉄蹄下的腥風血雨』続(1996年刊)を寄贈してくれました。
 わたしたちのつたない漢語に筆談を加えてなんとか意志を伝えることができました。その後20年の間に何度となく符和積さんを訪ね、親交を深めてきました(2015年11月26日に符和積さんの自宅を訪問したときのことは、このブログの2015年11月26日の「海口市永興鎮儒東村、純雅村で」をみてください)。
 1998年6月24日には、三亜に行き、政治協商会議三亜市委員会を訪ねました。そこで政治協商会議三亜市委員会編『三亜文史』5(『日軍侵崖暴行実録』紀念中国人民抗日戦争勝利五十周年、1995年8月)の副主編者である蔡文恵さんに会い、「朝鮮村」に案内してもらいました。
 黎語を知る蔡氏の通訳によって、朝鮮人を木につるして日本人が虐殺したのを目撃した周亜細さん(83歳)から話を聞かせていただくこともできました。周亜細さん自身も日本兵によって左足に傷を負わされ、歩き方が自由ではありませんでした。
 朝鮮人が埋められているという場所は、村の小学校に隣接している広場でした。そこは、畑になっていました。その小学校のあった所に日本軍の兵舎と日本軍用の井戸があり、その傍の大樹に朝鮮人がしばしばつるされたといいます。
 蔡文恵さんにもらった『三亜文史』5(『日軍侵崖暴行実録』)には、日本軍と石原産業が田独鉱山の鉄鉱石を略奪した6年間に、病死、餓死、殴殺、生き埋め、銃殺された労働者は1万人以上であった、と書かれていました。
 「朝鮮村」を訪ねた翌日、崖県の旧日本軍司令部跡と「慰安所」跡を蔡文恵氏に案内していただき、さらにその翌日、石原産業が経営していた田独鉱山と紅沙の「慰安所」跡を蔡文恵氏と三亜地域での日本軍の残虐行為について長年調査してきた羊杰臣さんに田独鉱山、および紅沙の「慰安所」跡に案内していただきました。田独鉱山跡には、露天掘りの跡に水がたまっており、近くの万人坑に、海南鉄礦田独礦区の労働者よって「日冠時期受迫害死亡工友紀念碑」が1958年4月に建てられていました。
 田独鉱山に行った翌日、三亜から海南島西部の石碌と八所に向かいました。
 日本占領当時、石碌鉱山の鉄鉱石を日本に運び出すために、日本軍・西松組・日本窒素は、山中の鉱山から海岸まで約50キロの鉄道と積出港(八所港)を急造しました。この工事でも多くの人命が奪われました。八所港の「万人坑」には、1964年に「日軍侵瓊八所死難労工紀念碑」が建てられていました。碑の裏面に、
    「八所港投入労工二萬三千餘人,公元一九四二年,工程結束時僅存労工一千九百六
   十餘人……是抗日戦争時期日本侵略者屠殺埋葬三萬餘労工的地点……。 
                        海南省人民政府 一九九四年一一月二日公布」
と書かれてありました(犠牲者の白骨が埋められている土地の上に建てられていたこの碑は、2012年7月に破壊されました。このブログの2015年3月30日の「八所と海頭で」、2015年4月22日の「东方市八所中国死难劳工“万人坑”纪念园和纪念碑被毁」、2015年4月23日の「东方劳工纪念碑被拆 谁之殇? 谁之耻? 谁之责?」、2015年6月17日の「日军侵琼“劳工纪念碑”被推倒盖酒店」、2015年6月18日の「东方 日军侵琼八所死难劳工纪念碑塔」、2015年6月19日の「日军侵琼死难劳工纪念碑被拆遭质疑」をみてください。その後、この碑のあった場所のすぐ近くに、犠牲者の白骨の上に、高層マンションが建てられています)。

 石碌鉱山のある石碌では、政治協商会議海南省昌江黎族自治県文史資料組の趙志賢さんに、石碌鉱山・追悼碑・万人坑跡・慰安所跡・日本軍望楼跡・日本軍石碌派遣隊本部跡などを案内していただきました。数万人が生命を奪われた石碌鉱山には、1965年に「石碌鉄鉱死難鉱工紀念碑」が建てられていました。

 わたしたちは、はじめて海南島を訪ねた日から、各地の政治協商会議の人たちにじっくり話を聞かせていただいただけでなく、「現地調査」に大きな便宜を図っていただきました。
 証言を聞かせていただいた村人も含め、わたしたちは、あらかじめ連絡をとることなく、突然海南島の人びとを訪問しました。
 そして、海南島に来た理由・目的を話し、多くの場合、初対面の時から数分後に古くからの知己であるかのように接してもらうことができました。
 わたしたちには、あらかじめ連絡し、承諾を得て、日時を約束してからら訪問することはほとんど不可能なことでした。漢語の力の足りないわたしたちにはたとえ電話番号を知ることできても面会の約束をきちんとすることができませんでした。
 はじめて訪ねる村には、行くまで、証言を聞かせてもらえる人がいるかどうかもわかりませんでした。
 まれに、証言を聞かせていただく人にあらかじめ約束をしてから訪問できたこともありました。

                                          佐藤正人
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「釜山日本総領事館前への徴用労働者像設置 動き本格化」

2018年01月27日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2018/01/24/0200000000AJP20180124005700882.HTML
「聯合ニュース」 2018/01/24 22:09
■釜山日本総領事館前への徴用労働者像設置 動き本格化
【釜山聯合ニュース】釜山の日本総領事館前に、日本による植民地時代に強制徴用された労働者を象徴する像を立てようとする動きが本格化してきた。韓国労働組合の二大中央組織の一つ、全国民主労働組合総連盟(民主労総)の釜山地域本部などのメンバーらによる団体「積弊清算・社会大改革釜山本部」は24日、像を5月1日のメーデーに合わせて設置することを宣言した。

【写真】メーデーに合わせた徴用労働者像の設置を宣言する団体のメンバー=24日、釜山(聯合ニュース)

 「宣言大会」には民主労総などの労働団体のほか、市民団体のメンバーら計約150人が集まった。主催者は朝鮮半島全域から徴用された多くの労働者が釜山港から海外などに送られたと主張するとともに「歴史の痛みを抱いた釜山に必ず像を立てなければならない」と気勢を上げた。
 「積弊清算・社会大改革釜山本部」は総領事館周辺などで「1人デモ」や集会、像設置のための募金活動などを実施してきた。同団体は8000万ウォン(約820万円)の募金を集めることを目標にしているが、既に5600万ウォンが集まったという。
 ただ像の設置がスムーズに進むかは不透明だ。総領事館前に旧日本軍の慰安婦被害者を象徴する少女像が設置された時も当局による撤去や像を壊そうとする動きなどがあった。今回も、一部の団体は徴用労働者像の設置自体には賛成しているものの少女像の横という場所には難色を示している。
 徴用労働者像は2016年8月、植民地時代に約3000人が強制徴用された京都市の旧丹波マンガン鉱山付近に建てられ、昨年はソウル市の竜山駅と仁川市の富平公園にも設置された。


http://japan.hani.co.kr/arti/politics/29605.html
「The Hankyoreh」 2018-01-25 23:57
■釜山強制徴用労働者像、建設を本格推進
 メーデーの5月1日、釜山平和の少女像の隣に建設予定

【写真】24日、釜山東区草梁洞の日本総領事館近隣にある鄭撥将軍の銅像前で強制徴用労働者像建設宣言大会が開かれた。写真は釜山強制徴用労働者像の模型=キム・ヨンドン記者//ハンギョレ新聞社

 釜山日本総領事館前で、日帝強制占領期間に強制徴用された労働者の霊魂を賛える「強制徴用労働者像」の建設が本格推進される。
 「積弊清算・社会大改革釜山運動本部」は5月1日の世界メーデーにあわせて日本総領事館前にある「平和の少女像」の隣に強制徴用労働者像を建てると25日明らかにした。釜山運動本部は24日夕方、日本総領事館近隣の鄭撥将軍の銅像前で市民200人余りが集まった中で「強制徴用労働者像設立宣言大会」を開き、「親日分断冷戦積弊清算」などの字句が書かれた帯を持ち、「私たちの辛苦の歴史を正しく記憶しよう。日本は過去の出来事をはっきり認めよ」と叫んだ。
 釜山運動本部はこの日の宣言大会を皮切りに、現在進行している日本総領事館前リレー1人示威とともに、来月からは団体リレー行動に乗り出す方針だ。団体リレー行動は、募金伝達式、文化公演、糾弾集会など多様な方式で進行される。強制徴用労働者像の募金運動は8000万ウォンを目標に進行中で、これまでに5600万ウォンが集まった。
 釜山強制徴用労働者像は、日本に連れて行かれ坑道での作業を終えて出てきた朝鮮人労働者の姿を形象化している。釜山運動本部は、平和の少女像の隣に強制徴用労働者像を建てる計画だ。
 釜山運動本部側は「少女像の隣に強制徴用労働者像を建てることに反対する意見があるならば、説得していく。適切な時期に釜山市と東区に労働者像の設置を公式に知らせる」と話した。強制徴用労働者像は、朝鮮人3000人余りが強制労働させられた日本の京都にある丹波マンガン鉱山の前に2016年8月に建てられた。その後、ソウルと仁川(インチョン)、富平(プピョン)、済州島(チェジュド)に労働者像が建てられた。慶尚南道でも5月1日に労働者像が建てられる予定だ。

キム・ヨンドン記者
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/829364.html
韓国語原文入力:2018-01-25 15:26


https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180124/k10011301421000.html
「NHK NEWSWEB」 1月24日 23時28分
■“徴用工像” 実物大の模型を公開 韓国労組
 太平洋戦争中に日本の炭鉱や工場などで過酷な労働を強いられたとする韓国の徴用工の問題をめぐって労働団体が、南部のプサン(釜山)で集会を開き、ことし5月に日本総領事館の前に設置すると主張している、この問題を象徴する像の実物大の模型を公開しました。
 韓国の主な労働団体の1つ、「民主労総」は、南部のプサンにある日本総領事館の前に置かれた慰安婦問題を象徴する少女像の隣に、ことし5月1日のメーデーに合わせて、徴用工を象徴する像を設置すると主張しています。
 「民主労総」は24日夜、日本総領事館の近くの公園で集会を開き、少女像を設置した学生などでつくる市民団体のメンバーを含むおよそ150人が集まりました。集会では、右手につるはしを持って立つ上半身が裸の男性の姿を表した高さがおよそ2メートルある実物大の模型が公開されました。
 そして決議文が読み上げられ、「われわれの祖父母は、血の涙を流しながら労働を強いられ、慰安婦として連れて行かれた。日本政府には、侵略の歴史を謝罪してほしい」と強調しました。
 公道を管理する地元の自治体は、この像の設置を許可しない見通しですが、少女像と同じように、団体が設置を強行する可能性もあります。
 韓国では、別の団体が、独立運動が始まった日にあたる3月1日に、ソウルの日本大使館の前に置かれた少女像の隣に徴用工の問題を象徴する像を設置する計画を明らかにしています。
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「米国内の「慰安婦」記念碑・少女像はどのようにして立てられたか」

2018年01月26日 | 日本軍隊性奴隷
http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/29571.html
「The Hankyoreh」 登録:2018-01-23 00:10
■[寄稿]米国内の「慰安婦」記念碑・少女像はどのようにして立てられたか
 韓国で1980年代後半に始まった「慰安婦」運動は、特に米国で大きな呼応を得た。1990年代と2000年代には韓国人慰安婦ハルモニ(おばあさん)が被ったおぞましい性的奴隷の経験を米国の多くの大学や団体の聴衆に証言し、アメリカ人の心を打った。証言を聴いたアメリカ人は、日本対韓国の歴史問題ではなく、軍の暴悪な性暴行で女性の人権が侵害されたという認識から慰安婦運動を支持した。そして2010年代からは慰安婦被害者たちが高齢化して証言が減った結果、記念碑と少女像を立てる運動に変わった。
 2010年のニュージャージーを皮切りに米国の各地に13個の慰安婦記念碑と少女像が建設された。このうち12個は、韓国人の運動家が韓国人集中居住地域の公共場所に立てられた。このようにしてアメリカ人に悲劇を想起させることができた。また、慰安婦記念碑や少女像を立てるには、市議会の許可を受けなければならないが、そのためには地域住民と政治家が参加する公聴会を経なければならない。この過程が慰安婦イシューを知らせる良い機会になった。
 昨年9月、サンフランシスコに慰安婦記念碑を立てた。日系アメリカ人が最も集中して暮らすこの大都市に、韓国、中国、フィリピンの慰安婦被害者が手を携えているデザインの記念碑が建設されたことは、とても特別な意味を持つ。日系の反発が激しく、市議会通過はほとんど不可能だと思われたが、建設に成功したのは奇跡に近いことだ。
 この事業は、韓国人のみならず中国人、日本人、ユダヤ人の団体が連帯した記念碑建設委員会が成功させた。特に中国系が大きな貢献をした。この運動に参加したユダヤ人の代表ジュディス・モキンスン氏が、私たちの在外韓国人社会研究所が主催した2017年学術大会で発表した論文によれば、中国系の建設委員代表であるリリアン・シン氏とジュリー・タン氏はサンフランシスコで長く判事として在職していた。判事の政治中立原則のために、彼女たちは判事職を辞退までしてこの運動に加わった。彼女たちは特に、中国人慰安婦と南京虐殺犠牲者を記念するいために参加を決意した。ユダヤ人団体も第2次大戦当時400万人のユダヤ人虐殺という胸の痛い歴史があって積極的に参加した。日系アメリカ人3~4世もやはり第2次大戦当時、彼らの先祖である日系1~2世が米国西部のキャンプに強制収容された歴史を記憶するために参加した。
 サンフランシスコ市議会に数千の少数民族および女性団体が記念碑設立支持請願書を出した。一部の日系団体は、記念碑が立てられれば日系の子供たちが人種嫌悪を受けると主張した。だが、別の進歩的日本人団体は2013年にカリフォルニアのグレンデールに韓国慰安婦少女像が立った時もそのような心配があったが、これまで日本人嫌悪事件は起きていないと反論した。
 米国西部で日本の右翼の立場を代弁してきたコーイチ・メラ(目良浩一)博士が公聴会に参加して、強制動員されたというイ・ヨンスさんの証言に反論し、慰安所に「売春婦として売られた」と主張した。すると、公聴会に参加していた多くの聴衆は、おばあさんを冒とくする発言だとしてコーイチ博士を猛非難したし、記念碑建設に反対していた一部の議員までも支持側に回ったという。
 サンフランシスコの記念碑の碑文は公募を通じて採択された。「私たちが最も恐れなければならないことは、第2次大戦の辛い歴史に対する記憶を忘れてしまうこと」だ。そうだ。アジアの「慰安婦」女性たちに起きたおぞましい歴史を忘れないために、私たちは記念碑を立て続けなければならない。遠い米国の地でも続いているのに、まして韓国でなぜ日本政府が記念碑を立てるなと主張するのか?日本の政治家たちが途方もない政府予算を投じて記念碑建設運動を妨害するのか理解しがたい。だが、その理由は分かっている。彼らは、女性を性的奴隷として強制動員した事実を知っているので、記念碑を見れば良心の呵責に耐えられないのだ。

ミン・ビョンガプ・ニューヨーク市立大学校大学院およびクイーンズカレッジ客員教授・在外韓国人社会研究所所長
http://www.hani.co.kr/arti/opinion/because/828883.html
韓国語原文入力:2018-01-22 19:10
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「91岁山西老人离世 中国大陆“慰安妇”受害者仅剩14人」

2018年01月25日 | 日本軍隊性奴隷
http://www.chinanews.com/sh/2018/01-23/8431248.shtml
「中国新闻网」 2018-01-23 16:10:22
■91岁山西老人离世 中国大陆“慰安妇”受害者仅剩14人

【资料图】《二十二》导演郭柯一行人探望山西李爱莲老人(中)。 受访者供图

  中新社太原1月23日电 (记者 胡健)又一位“慰安妇”受害者23日去世。经其家人确认,91岁老人李爱莲于当日6时许在山西长治家中与世长辞。至此,中国大陆在世“慰安妇”仅剩14人。
  还在为“慰安妇”题材电影《大寒》奔波宣传的“中国慰安妇民间调查第一人”张双兵23日上午在社交平台表示:“本想忙完这两天就回去看她,给她备点年货,但没想到老人却匆匆离去。”
  一周前,《大寒》刚上映不久,张双兵曾专程到山西长治看望李爱莲老人。“今天早上,她(李爱莲)的家人给我打电话,告诉了我这个消息,心情十分悲痛。”
  李爱莲是中国公开“慰安妇”身份的受害者之一。抗战时期,李爱莲在17岁和20岁时,两次被日本兵抓进据点逼为“慰安妇”,长达数月。
  中国“慰安妇”问题研究中心主任、上海师范大学教授苏智良23日介绍说,中国目前登记在册的“慰安妇”幸存者仅剩14人,主要分布在山西、海南、广西、湖南和浙江等地。
  据苏智良介绍,山西幸存的老人为郝月连、刘改连、曹黑毛、骈焕英、刘海鱼和何如梅;海南的幸存者分别是王志凤、李美金、卓天妹、陈莲村;广西老人韦绍兰;湖南汤根珍、刘慈珍;以及浙江一位不愿公开姓名的许大娘。
  1937年,日军大规模设置“慰安所”,到1945年日本投降,亚洲至少有40万女性受害。年逾花甲的张双兵在社交平台写道:“我们对日本政府的官司还没有完,还要继续进行。”(完)


http://www.recordchina.co.jp/b561569-s0-c30.html
「Record china」 2018年1月24日(水) 11時50分
■元慰安婦が死去、中国本土の生存者14人に

【写真】中国・南京にあるアジア最大の慰安所旧跡「利済巷慰安所旧址」の陳列館。

 2018年1月23日、中国新聞網は、中国山西省の91歳の元慰安婦が死去し、中国本土の生存者は14人になったと伝えている。
 記事によると、元慰安婦の李愛蓮(リー・アイリエン)さんが23日朝、山西省長治市の自宅で亡くなった。李さんは17歳と20歳の時に2回、旧日本軍の拠点に入れられ、数カ月間、慰安婦にされたという。
 中国慰安婦問題研究センターの主任で、上海師範大学教授の蘇智良(スー・ジーリアン)氏によると、中国で登録されている元慰安婦の生存者は14人となり、山西省が6人、海南省が4人、広西チワン族自治区が1人、湖南省が2人、浙江省が1人だという。
 記事は、「日本軍は1937年から大量の慰安所を設置し始め、45年の日本降伏までにアジアで少なくとも40万人の女性が被害を受けた」と伝えている。(翻訳・編集/柳川)


http://news.dwnews.com/china/news/2018-01-23/60036985.html
「多维新闻」 2018-01-23 04:36:26
■“慰安妇”又一幸存者逝世 大陆在世者仅剩14人

【李爱莲生前照片】图源:侵华日军南京大屠杀遇难同胞纪念馆

  北京时间1月23日,据侵华日军南京大屠杀遇难同胞纪念馆官方微博消息,日军“慰安妇”制度受害幸存者李爱莲在山西武乡县家中去世,终年90岁。至此,中国大陆在世“慰安妇”仅剩14人。
  据报道,日军强征“慰安妇”是二战期间最丑陋、规模最大的战争性暴力罪行。战争结束70多年来,日本右翼势力不仅未能正视和反省这一罪行,反而以各种手段掩盖和歪曲历史真相。
  据介绍,李爱莲是中国公开“慰安妇”身份的受害者之一。曾两次被侵华日军抓到据点,被迫成为日军性奴隶。
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「韓国軍のベトナム民間人虐殺50周年」

2018年01月24日 | 個人史・地域史・世界史
http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/29548.html
「The Hankyoreh」 登録:2018-01-19 23:00 修正:2018-01-21 13:13
■[寄稿] 韓国軍のベトナム民間人虐殺50周年

【写真】昨年12月28日ベトナム・ホイアン市の共同墓地内にある「コムアン虐殺」犠牲者集団墓地。韓国軍は1968年1月30日、ホイアン市コムアン区の砂丘に村民11人を立たせ銃を乱射して虐殺した=キム・ジンス記者//ハンギョレ新聞社

 他人の不幸のおかげで肥えた暮らしを享受することになり傲慢になれば、その不幸にほおかむりをしていたくなる。日本が「慰安婦」問題の解決にほおかむりしているように、私たちも日本に要求する真実と正義の鏡としてのベトナム民間人虐殺を凝視しようとしていないのはそのためだ。政府レベルの謝罪は、2001年金大中(キム・デジュン)大統領の「不幸な戦争に参加して、不本意にベトナム人に苦痛を与えたことについて申し訳なく考える」という発言に留まっている。

 週刊ハンギョレ21の最近号(1196号)は「1968クアンナム大虐殺」特集を載せた。表紙の写真を見ただけで背筋が寒くなる。半世紀前、韓国軍の銃と手榴弾で母親と幼い妹をはじめ、家族19人を一度に失った69歳のレタヌンイ氏だ。ハンギョレ21は、韓ベ平和財団との共同企画で、三回にわたり「1968クアンナム!クアンナム!」記事を連載する。今回の号には「1968クアンナム大虐殺地図」とともに、犠牲者の追悼を望む韓国人のための「クアンナム・巡礼の道1コース」を紹介している。

 1999年にハンギョレ21のベトナム通信員として活動し、「ごめんなさいベトナム」シリーズを連載したク・スジョン博士(現在、韓ベ平和財団常任理事)によれば、韓国軍が犯したベトナム民間人虐殺は80件余りに達し、クアンナム省だけで4千人余り、全体では5省で9千人余りが犠牲になったという。コ・ギョンテ・ハンギョレ記者は、「記録したい熱望で始めた」と序文で明らかにした本『1968年2月12日』(ベトナム フォンニィ・フォンニャット虐殺、そして世界)で「韓国軍海兵隊員が若い女性を裸にして乳房をえぐり取り殺したといううわさ」に関し記録した後、このように書いた。

 「1948年済州(チェジュ)4・3事件から20年が経過していた。1980年5月の光州(クァンジュ)抗争の12年前だった。1968年2月12日のベトナムは、済州と光州の中間に位置していた。その日の午後2時頃、フォンニィ・フォンニャット村では済州4・3事件の時間が再現された。5月の光州の時間が流れた。19歳の娘、ウンウンウイェンティタンは裸で畑に倒れてうめいていた。両方の胸はメッタ切りにされ血が流れていた。左腕も同じだった。20年前に済州に入ってきた討伐隊員のように、12年後に光州に投入された空輸部隊員のように、村に入ってきた韓国軍海兵隊員は暴悪だった。過去の討伐隊員と、未来の空輸部隊員と、その日の海兵隊員は顔付きも似ていたし同じ言語を使った…」

 韓国は、1964年から1973年まで最大で5万人の兵力をベトナムの戦場に派遣した。米国以外の派兵国家であるオーストラリア、ニュージーランド、スペイン、タイ、フィリピン、台湾の全兵力の3倍に達した韓国軍は、戦争期間を通じて兵力32万人余りがベトナムの地を踏んだ。朝鮮半島とベトナムは、中国の長い影響の下で漢字文化圏になったという点、その他にも似ている点が多い。19世紀の西勢東占で共に植民地になり、日帝の崩壊で期待した民族解放は、それぞれ38度線と17度線の分断につながった。強大国間の冷戦の担保になって、同族どうしが戦争をしたことまで似ていた。二つの戦争には共に米国が介入したが、朝鮮戦争が「勝者なき戦争」で分断状態が持続したのに対し、ベトナムは統一されたという差がある。この差はどこから始まったのだろうか?ホーチミンという傑出した指導者、ベトナムの歴史に綿々と流れる抗争精神と理念の違いを緩くした村の共同体意識を挙げることはできるが、ベトナムにある密林が朝鮮半島にはない代わりに、ベトナムにはない苛酷な冬が朝鮮半島にはあるという自然条件の差が最も重要だったのかも知れない。

 『百年の急進』で韓国に紹介された中国の温鐵軍氏は、世界を植民宗主国であるヨーロッパ、植民化された大陸のアメリカとオセアニアとアフリカの半分、そして原住民大陸であるアジアの3つに分ける。(「緑色評論」2018年1・2月号)アジアの同じ原住民の間柄であり、怨恨関係のないベトナムの地を韓国軍はなぜ軍靴で踏んだのだろうか?今は70歳を越えているが、半世紀前には紅顔の若者たちは、釜山港を出航した輸送船が東・南シナ海をすぎる時、真っ黒な夜の海を眺めて孤独と恐怖に震えただろう。彼らのうち5千人余りは生きては帰って来られず、1万人余りは負傷し、枯れ葉剤の後遺症で苦痛を訴える人は2万人を超える。「醜悪な戦争」だった。

 ケネディ大統領が国防長官に抜てきしたロバート・マクナマラは、ベトナム軍事介入を推進、拡大し、戦争を正当化することに全力を尽くした人物だ。彼は1995年に出した回顧録『ベトナム戦争の悲劇と教訓』でこのように書いた。「私たちは誤ったし、残酷に間違えた。私たちは次世代に、なぜこうした過ちを犯したかを説明する宿題を抱えている」。韓国ではまだこのような発言は見当たらない。民間人虐殺があったということさえ、公式的には認めていない。ベトナム戦争を「自由世界守護のための戦争」として残さなければならないためだ。朴槿恵(パク・クネ)をろうそく市民の力で監獄に送った今日も、ベトナム戦争に関する限り、朴正煕(パク・チョンヒ)精神は依然として強く生きている。

 実際、ベトナム参戦の最高の受恵者は朴正煕であった。1975年4月30日、ベトナムが統一された日の3週間前、韓国では人民革命党再建委事件で8人が処刑された。維新体制は強固で、緊急措置違反者は拷問を受け投獄された。ベトナム戦争が真っ最中だった68年1月21日、北朝鮮は朴正煕を除去する目的でキム・シンジョら特殊部隊員を送った。北ベトナムが68年1月のテト(旧正月)攻勢に合わせて戦線を拡張する目的であったかは定かでないが、「1・21事態」はむしろ朴正煕体制を一層強力にする契機になった。住民登録法施行、予備軍創設、高校と大学での教練実施で国民統制、学園兵営化が着々と実現された。

 「戦争は愛の敵です!」 2000年からクアンナム省など民間人虐殺地域を中心に医療支援活動を繰り広げた「ベトナム平和医療連帯」のソン・ピルギョン院長(歯科医)は『なぜホーチミンなのか』で、ベトナムの国民詩人タインタオの話を紹介している。「当時、ほとんどの男たちは高等学校を卒業する年齢の17~18歳になれば入隊したが、生存率は10%にもならず、異性に会うこともできないままに散華した」という。しかし、朴正煕にはすべての戦争(中日戦争、第2次大戦、朝鮮戦争)が彼の欲望実現のためのチャンスであった。ベトナム戦争も同じだった。第2次大戦で崩壊した日本が、朝鮮戦争特需で再建の機会を得たように、ベトナム戦争特需とその後の中東建設景気で、朴正煕は「豊かな暮らしをしてみよう!」というスローガンの中に財物を盛り込むことができた。韓国と北朝鮮の経済と生活の水準は、70年代を過ぎて逆転し、朴正煕は終身大統領になるつもりだった。

 他人の不幸のおかげで肥えた暮らしを享受することになり傲慢になれば、その不幸にほおかむりをしていたくなる。日本が「慰安婦」問題の解決にほおかむりしているように、私たちも日本に要求する真実と正義の鏡としてのベトナム民間人虐殺を凝視しようとしていないのはそのためだ。政府レベルの謝罪は、2001年金大中大統領の「不幸な戦争に参加して、不本意にベトナム人に苦痛を与えたことについて申し訳なく考える」という発言に留まっている。1985年、終戦40周年をむかえてドイツのワイツゼッカー大統領はこう言った。「もう新しい世代が政治的責任を負えるまでに成長しました。私たちの若者が、40年前に起きたことに責任があるわけではありません。しかし、それによって起きることに対しては彼らにも責任があります…私たちは記憶を大事に保管することが、なぜそれほど重要かを若者たちが理解できるように助けなければなりません」

【写真】ホン・セファ・ジャンバルジャン銀行長、「素朴な自由人」代表//ハンギョレ新聞社

 苦痛の深さに応じて他者の苦痛に共感できるのか、昨年9月、1300回水曜集会でキム・ボクトン、キル・ウォンオクの二人のハルモニ(おばあさん)は「…韓国の軍人により私たちのような被害にあったベトナムの女性たちに、韓国国民として心より謝罪します」というメッセージを伝えた。韓ベ平和財団(kovietpeace.org)は、大統領府の前で韓国政府の謝罪を求める1人デモとともに「万万万キャンペーン」を行っている。“万”日の戦争(ベトナム戦争)、“万”人の犠牲、“万”人の連帯…。4月にはベトナム戦争民間人虐殺に関する「市民平和法廷」も開く計画だ。ぜひ多くの市民が“万”人の隊列に参加されんことを…。

ホン・セファ・ジャンバルジャン銀行長、“素朴な自由人”代表
http://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/828406.html
韓国語原文入力:2018-01-18 23:11
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「太平洋戦争期の朝鮮人学徒兵 4385人が「強制動員」=韓国政府調査」

2018年01月23日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2018/01/22/0200000000AJP20180122002200882.HTML
「聯合ニュース」 2018/01/22 15:36
■太平洋戦争期の朝鮮人学徒兵 4385人が「強制動員」=韓国政府調査
【ソウル聯合ニュース】韓国行政安全部は22日、日本による植民地支配を受けていた時代の太平洋戦争中に学徒動員された朝鮮半島出身の若者の被害実態をまとめた報告書を発刊したと発表した。報告書は動員の対象者に指定された6203人のうち、4385人が軍人に選ばれ、実質的には強制動員だったと指摘した。拒否した若者は軍需工場などに送られたという。

【資料写真】学徒兵の入隊を伝える1944年1月の朝鮮総督府機関紙=(聯合ニュース)

 報告書は行政安全部の過去史(歴史)関連業務支援団と高麗大が昨年10~12月に共同で行った調査の結果をまとめたもの。学徒出陣が行われた背景、動員の規模、部隊配属の実態、生存者の回顧録、旧日本軍の部隊名簿など動員の被害実態を幅広く扱った。
 行政安全部は「これまで学徒兵として動員された朝鮮人は4385人と推定されていたが、具体的な資料がなかった」とし、「今回の報告書は被害実態を総合的に究明するのに重要な資料になるだろう」と説明した。
 報告書によると学徒兵は専門学校以上を卒業した者を対象とする動員制度で、1943年末に欺瞞(ぎまん)的な募集と選考により実施された。
 行政安全部は若者を戦場に送り込み犠牲にした日本が与えた被害を正確に明らかにする必要があるとし、「今後、真実の糾明に積極的に取り組む」と伝えた。報告書は国家記録院のホームページ(www.archives.go.kr)で閲覧することができる。
                   yugiri@yna.co.kr


http://japanese.donga.com/List/3/all/27/418564/1
「dongA.com(東亜日報)」 Posted August. 14, 2012 07:09,Updated January. 01, 1970 09:00
■日本帝国、学徒兵拒否の朝鮮人学生らを強制労働させた
 「日の丸の下では銃を手にしない」という信念を守った若い朝鮮人学生数百人が、日本帝国(日帝)による強制労働に苦しんだことが、調査の結果分かった。
 首相所属「対日抗争期の強制動員の被害調査と国外強制動員犠牲者などへの支援委員会」は13日、5月から、1943年から1945年にかけて、当時の新聞報道をはじめ様々な資料を分析した結果、日帝の学徒兵支援要求を拒否し、強制労働場に連行された学生は、少なくとも125人に上ると明らかにした。
 同委員会によると、彼らは1943年11月、朝鮮総督府が学徒兵支援要求に従わない朝鮮人学生に対し、産業体徴用命令を下した後に逮捕され、国内外の事業所に連れて行かれた。「応徴学徒」、「徴用学徒」と呼ばれていた彼らは1944年、日本帝国議会の資料では125人と記されている。ただ、第1次徴用人員は150〜200人であり、2度以上の徴用があったという被害者らの陳述を受け、400人以上が徴用されただろうと、委員会では試算している。
 同委員会の関係者は、「徴用学徒らは、当時最高レベルの教育を受けたエリートたちであり、民族意識が強い上、日本の敗亡が近づいていたことにも気付いていた」とし、「良心に沿って行動した彼らは、一種の『思想犯』として隔離収用されたまま、セメント工場や鉄道工場、採石場などで強制労働に苦しみ、軍事教育や思想教育まで受けた」と語った。
                   hparks@donga.com


http://www.yomiuri.co.jp/adv/chuo/education/20140501.html
「Chuo Online」 松野 良一/中央大学総合政策学部教授
■学徒出陣70周年-元朝鮮人学徒兵を訪ねて
★もう一つの学徒出陣
 戦況が悪化したことに伴い、東條英機内閣は1943年10月1日、勅令755号「在学徴集延期臨時特例」を公布し、法文系を主とする大学生の徴兵猶予を停止した。いわゆる「学徒出陣」である。
 しかし、世間的にはあまり知られていない、もう一つの学徒出陣がある。それは、当時日本の統治下にあった朝鮮、台湾からの学生の学徒出陣である。1943年10月20日、陸軍省令第48号「陸軍特別志願兵臨時採用規則」が公布され、朝鮮人・台湾人学生を対象に、「特別志願兵」が募集された。表向きは志願兵であったが、志願しない学生に対して当時の文部省は、休学・退学措置を各大学に命じた。その文書である文部省通牒(43年12月3日付)と中央大学の回答書(44年1月14日付)が、中央大学に保管されている。「志願」ではあったが、実質的には、半ば強制だったことがわかる。

【写真1】中央大学長に対し、陸軍特別志願制度に応じない朝鮮・台湾学徒の休学・退学を命じた文部省専門教育局長からの通牒(一部)

 このうち朝鮮人学徒たちは、徴兵検査を受け、44年1月20日に入営。日本人学生より約50日遅れての出陣であった。その数は、4300人以上と言われている。
 私の研究室では2007年から、戦争を体験した中央大学の先輩たちを学部生自らが探し出し、証言を記録するプロジェクトを進めている。これまでの成果は、『戦争を生きた先輩たち』(中大出版部、全2巻および中央評論283号特集)として刊行されている。これまで、50名ほどにインタビューしてきたが、1つの重大な事実を見逃すわけにはいかなかった。それは、戦前に中央大学は台湾、朝鮮からの学生を全国で最も多く受け入れていた大学であったという事実である。
 中央大学百年史によれば、朝鮮・台湾の学生の比率は、1942年には、全在学生の14%強。特に朝鮮については、1940年6月に「朝鮮同窓会」が結成され、会誌が創刊されている。それには1086名の朝鮮出身学生の姓名・出身地が記されており、当時の学生数約9000名に占める比率は非常に高かったことがわかる。
 我々は、この元朝鮮人学徒についても証言をまとめるプロジェクトを立ち上げた。リーダーは、澤田紫門(総合政策学部2年)が務めることになった。日本戦没学生記念会および一橋大学大学院生の秋岡あやさんたちの協力を得て、まずは3名の中央大学卒業生と連絡を取ることができた。韓国での調査は、2013年10月30日から4日間かけて行った。

■元輜重兵(しちょうへい)の証言
【写真2】「一・二〇同志会」会長を務める郭さん(左)と澤田紫門(総合政策学部2年)
 元朝鮮人学徒で作る「一・二〇同志会」の会長を務めているのが、ソウル市在住の郭秉乙(カクビョンウル)さん(92歳)。日本統治下の朝鮮の全州市で生まれ、同市の普通学校、高等学校に通った。家業が精米業だったために、父親からは家業を継げと言われた。しかし、当時給料が高くエリートであった銀行員に憧れ、中央大学商科に入学。新聞配達をしながらの苦学生であったが、無事に卒業して朝鮮殖産銀行に入行し全州市で働き始めた。
 しかし、戦況の悪化とともに、招集の手が郭さんのところまで伸びてくる。
 「陸軍省令48号による特別志願兵は、約7000名が該当すると見込まれていたが、実際は3000名ほどしか集まらなかった。このため、私たち卒業生についても応召を命じられた。毎日警察官が銀行に来て、志願するように迫った。それで、支店長(日本人)に事情を話して、身を隠すことにした」

【写真3】トラック部隊に配属された郭さん(左から2人目)

 特別志願兵の受付締め切りは43年12月20日。郭さんは期限切れの翌21日に全州市に戻り弟の結婚式に出た。その後、勤務していた銀行の全州支店に寄って挨拶して裏門から出ようとしたところを警察官に捕まった。警察署に駆けつけた父親の説得で、郭さんは特別志願兵になることを承諾し釈放されたという。そして1944年1月20日、姫路の陸軍中部54部隊に入隊し物資や兵士を輸送する輜重隊(しちょうたい)の配属となった。
 「日本人の上官が良い人だった。大阪商科大(現大阪市立大学)を卒業したハチヤツネオ少尉。韓国から父親、妻、長男、妹が面会に来たことがあった。上官は私に10日間の外泊許可をくれた。さらに『宿代も馬鹿にならないだろう』と私の家族を、自分の家に泊まらせてくれた。差別をしない上官だった」
 東京大空襲の後、姫路から長野へ避難することになり、長野商業学校を兵舎に使った。そして、山奥の炭焼き小屋から木炭を市街地に運ぶ任務を行っていたが、そのまま終戦。故郷の全州市に戻った郭さんは、銀行に復職。定年まで勤め上げた後、鉄鋼会社の副社長、中央大学の同窓会役員などを経て、「一・二〇同志会」会長に就任。朝鮮人学徒兵の記憶を風化させてはならないと活動している。

★元農耕勤務隊員の証言
 次に訪問したのは、同じくソウル市在住の黄敬□(馬+春)(ファンギョンチュン)さん(89)。日本の福岡県鞍手(くらて)郡で生まれ、小学校3年生まで過ごした。父親は炭鉱会社の労務係で、朝鮮半島に年に2、3回赴いては炭坑作業員を集めて日本に連れてくる仕事をしていた。そうした仕事の過程で、民族差別を強く感じた父親は、黄さんを韓国に帰国させ、現地の普通学校に通わせることにした。
 「母親や家族と別れて韓国に行くのが辛かった。ハングルが全く分からなかったので、日本では小学校3年生だったのに、1年生のクラスに入れられた。でも、ハングルがわかるようになると成績はいつも1番で6年生まで級長をやった」
 そして、1943年4月に中央大学法学部に入学。高等文官試験を目指して勉強に励んでいた。ところが、同年10月に学徒兵として志願を強要された。警察官とは会わないように逃げ隠れしていたが、結果的に1945年3月に召集令状が来た。
 「壮行会の時に、みんなが霧島昇の『誰か故郷を想わざる』を歌ってくれた。この歌は、士気が下がるからと歌うことを禁じられていたが、もう戦争に行くんだということで、警察官も誰も止めなかった」

【写真4】学生のインタビューに答える黄さん(左)と秋山美月(法学部2年)

 1945年4月に、茨城県真壁(まかべ)町谷貝(やがい)村の第二農耕勤務隊に配属された。
 黄さんは農耕勤務隊員として田植え、木の伐採などの作業を行っていた。また日本語が堪能であったため、日本兵と朝鮮兵の意思疎通を図る通訳業務もこなしていた。しかし、日常的に行っていたのは、空襲から身を守るために、タコツボと呼ばれる1人用の塹壕を掘ることだった。
 「45年5月に東京方面で空襲があった時は、夜空が赤く染まっていた。翌日には地面に灰が積もり、その中には米軍のビラなども燃えずに残っていた」
 そして、8月15日に終戦を迎えるのだが、朝鮮人学徒たちには知らされなかった。
 「15日には、今日は何もしないでいいと言われ、日本兵だけが民家にラジオを聞きに行った。戻ってきても、何も話してくれなかった。その日の夕方から、地域で盆踊りがあったので、参加して踊った。しかし、不思議なことに灯火管制がなかった。17日になって兵舎のトイレで用を足していると、近所から大きなラジオの音声が聞こえてきた。すると『東久邇宮稔彦王が内閣総理大臣に任命された』と言っている。慌てて戻り上官に聞くと、『日本は負けた』と教えてくれた」
 その後、朝鮮人学徒たちは谷貝村から汽車で下関に向かった。途中、広島を通過し、原子爆弾の威力をまざまざと見せつけられたという。下関からは漁船をチャーターして命からがら釜山に渡り、帰還を果した。
 その後、進駐してきた米軍と知り合いになったことで、通訳、英語教員、米国通信社記者として活躍した。

★中央大学の特別卒業証書を受け取って
【写真5】金さん(右から2番目)から話を聞く学部生たち
 3番目に訪問したのは、光州市在住の金鍾旭(キムジョンウク)さん(92)。彼は朝鮮の普通学校、日本の帝国商業学校を経て、中央大学商科に入学。在学中に特別志願兵として徴集され入営した。1944年1月20日、名古屋の陸軍13部隊に配属され、輜重兵(しちょうへい)となった。
 「私は、兵士として働く中、上官に殴られ腰を負傷した。さらに、『お前のような奴は、前線に行かねばならない』と言われ、上海の浦東へ転属させられた。日本が負けて、1945年11月に光州になんとか帰還した。その後は中・高等学校で教師や校長を務めた。年を取ってから、上官による暴力で負傷した腰が痛んで苦しい」
 金さんの家には、中央大学が1998年に贈った「特別卒業証書」が大事に飾ってある。そこには、こう記してある。
 「あなたは第2次世界大戦中 学業半ばにしてやむなく本学を離れざるを得なくなりましたが在学中の学業精励を賞し また善隣友好と平和への願いを込めて ここに特別卒業証書を贈呈します 一九九八年十二月二十九日 中央大学学長 外間寛」

【写真6】中央大学が贈った特別卒業証書

 この特別卒業証書は、朝鮮人学徒119名に対して贈られたものだ。当時の外間寛学長は沖縄出身者であり、自らの戦争体験を踏まえ、「遅すぎた卒業式」であると式辞で述べている。
 金さんは、こう語る。
 「私は日本の中央大学商科に行って、会計士や高等文官試験を目指して勉強していた。なぜ、私の将来を壊し卒業もさせなかったのか。私は帰国後に高校の教師と校長をやって定年になった。その後に名誉を回復するというのは、遅すぎるよ」。
 その表情には、怒りとともに虚しさがにじんでいた。しかし、最後に、こう付け加えた。
 「大学の後輩たちが、こうして訪ねて来てくれたことは、初めてだ。これは、私にとっては喜びである。心から感謝したい」
 金さんは、学生たちの手を取って、笑った。

★学生たちは何を学んだのか
 郭さんを取材した澤田は「日本兵は、朝鮮人学徒兵に対して極めて差別的であったと思っていたが、中には親切な日本人の上官もいたことに驚いた。戦時下においても、人間性を失わない人たちがいたことを知った」と語っている。
 また、黄さんを取材した秋山は「黄さんは、中央大学は私の唯一の学歴。これからもずっと中央大学は私の誇りだ。名誉ある白門健児だからね、と笑顔で話された。この言葉は、私の心に深く響いた」とまとめている。
 そして最後に、金さんを取材した野崎智也(総合政策学部3年)は「私の第2外国語は韓国語。今回取り組んだのは、貴重な戦争証言を記録しつないでいく作業。その2つが初めて融合し、自分の中に軸ができたような気がした。こういう有意義なことを、自分の仕事にしていきたいと思った」と締めくくっている。

              (年齢、学年は、取材時におけるものです)
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「フィリピン女性団体、「慰安婦記念碑、日本の要請すべて断れ」」

2018年01月22日 | 日本軍隊性奴隷
http://japanese.joins.com/article/458/237458.html?servcode=A00§code=A10&cloc=jp|main|top_news
「中央日報日本語版」 2018年01月12日11時33分
■フィリピン女性団体、「慰安婦記念碑、日本の要請すべて断れ」
 フィリピン女性団体が11日、第2次大戦フィリピン慰安婦女性の「記念碑」を撤去してほしいという日本の要請をすべて断るようにフィリピンのドゥテルテ大統領に求めたとAP通信が11日に報じた。
 報道によると女性団体ガブリエルラは同日、ドゥテルテ大統領に日本の要請を断るように求める主張と共に「日本皇軍によって性奴隷として連れられてきたフィリピンの女性たちに対する日本の公式謝罪と補償を要求しなければならない」と強調した。
 先立って野田総務相は9日、フィリピンの首都マニラを訪問してドゥテルテ大統領を表敬訪問した席で昨年12月、慰安婦を象徴する女性像が設置されたことについて「非常に残念だ」と述べ、政府間で対応を協議するよう求めた。
 12日付のオンライン媒体ラプラーなどフィリピン現地メディアによるとフィリピン大統領官邸のロケ報道官は、11日に「ドゥテルテ大統領が議論されている慰安婦の銅像に対して何の措置もしないだろう」と説明した。続けて、フィリピンと日本両国の強いきずなについて言及し「実際にこの銅像を外交問題とは考えていない」とし、「日本との関係がより一層強化されるだろう」と話した。


http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2018/01/19/2018011900893.html
「朝鮮日報日本語版」 2018/01/19 09:35
■日本の慰安婦像撤去要求、フィリピンが拒絶「表現の自由」
 フィリピン政府が、首都マニラに建てられた従軍慰安婦追悼像を撤去してほしいという日本の要求を、「憲法上の表現の自由」を理由に拒否した。日本はフィリピンにとって最大の援助国、かつ米国に次ぐ貿易相手国だ。
 フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領は16日、現地メディアのインタビューで「被害者追悼像の設置は、私には妨げられない憲法上の権利。最近フィリピンを訪れた日本の野田聖子総務相に、『まだ生存している元慰安婦の女性や家族が、銅像を通して表現したいことを表現する自由を妨げることはできない』と伝えた」と語った。
 フィリピンの国家歴史委員会と元慰安婦の団体は昨年12月、マニラ湾の散策路に高さ3メートルの慰安婦像を初めて建てた。1942年から45年まで日本に占領されていたとき、フィリピン人女性およそ1000人が慰安婦として強制動員され、現在およそ70人が 生存しているという。
                                 鄭始幸(チョン・シヘン)記者
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