日本のマスメディアが、国民国家日本の歴史的国家犯罪を問うことなく、朝鮮民主主義人民共和国への日本人強制連行にかんして連日膨大な情報を流しているさなかの2002年10月、わたしたちは海南島に行き、8日に、はじめて文昌県重光鎮昌文村を訪ねました。
海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』上(1995年8月)に収録されている李昌炳・林日明口述「誘騙焼殺 四村遭毀――日軍在重興郷白石嶺暴行親歴記」と李重発口述「“百人墓”前憶往事――日軍焼殺昌文村実述」に、つぎのような内容の記述があります。
“1941年4月12日(農暦3月16日)夕刻、20戸あまり100人足らずの文昌市重興鎮(旧、文昌
県重興郷)排田村に、日本軍部隊が来た。日本軍は、村はずれの尖嶺園に村人を集め、
暗くなってから焼き殺した。逃げようとした人は射殺された。子どもをふくむ88人が殺さ
れた。
翌4月13日(農暦3月17日)、日本軍は、隣りの白石嶺村に侵入し、村人40人を殺した。
その翌日4月14日(農暦3月18日)、朝日がのぼってまもなく、軍用車にのって40人ほど
の日本兵が、白石嶺村の隣りの昌文村を包囲した。日本兵は、村人を銃でおどして「祠堂」
におしこめ、まわりを焚き木で囲み、積んできた石油をまいて、火をつけた。このとき、
人口130人あまりの村の107人が殺された。病気で寝ていた老人や赤ん坊までが焼き殺さ
れた。
さらにこの日、日本軍は、昌文村の隣りの賜第村で村人16人を殺した。
隣り合った4つの村で、3日の間に、日本軍は241人を殺した。
その20日ほど前、村の近くの軍用道路で、日本軍の車両が攻撃されて、日本兵が死ん
でいた”。
昌文村に着いてすぐに、「“百人墓”前憶往事――日軍焼殺昌文村実述」を口述した李重発さん(1936年生)に、村の入り口の樹齢120年以上の大きな榕樹の下で、話を聞かせてもらうことができました。
李重発さんは、日本軍が村を襲ってきたとき、日本兵の姿をみるとすぐに逃げて助かったが、病気で寝ていた老人や赤ん坊までが焼き殺された祠堂の跡に近づくのがいまでもつらい、と話しました。
1941年4月12日から14日までの間に、昌文村、排田村、白石嶺村、賜第村の4村を襲撃し、おおくの村人を殺戮したのは、日本海軍佐世保第8特別陸戦隊に所属する部隊でした。
昌文村の祠堂の横の坂道を登ったところに犠牲者の墓地があり、墓碑が建てられていました。日本軍がいなくなってから、生き残った村人が遺骨を拾って、ここに埋めたといいます。
墓碑の大きさは、横1メートル、縦2メートルほどで、南南西を向いていました。正面の上部に横書きで「血海深仇 没世難忘」、真ん中に「惨遭日寇殺戮難胞之佳城」、左に「公元一九九八歳次戊寅年四月十九日重修」、裏面には、上部に「殺戮難胞名字列下」と書かれ、その下に犠牲者の名が5段に刻まれていました。戸主と思われる名前があって、その下に、戸主との関係がわかるように名前が刻まれていました。1段目に21人、2段目には20人、3段目には20人、4段目には24人、5段目には20人の名が刻まれていました(ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年前は昨日のこと』<紀州鉱山の真実を明らかにする会企画・制作、2004年7月〉の最終部に、この碑が映し出されています)。
日本軍は、昌文村を襲う前日(農歴3月17日)、隣の白石嶺村を襲い、村人40人を殺しました。わたしたちは、昌文村で李重発さんに話を聞かせてもらったあと、白石嶺村を訪ね、祖父母を殺された林さんに案内されて虐殺現場に行きました。
白石嶺村の犠牲者の墓地には堂が建てられていました。墓の前には、1957年5月20日に追悼碑が建てられていました。
2003年3月25日に、わたしたちは、昌文村と白石嶺村を再訪し、排田村をはじめて訪問しました。
排田村の自宅で、李昌光さん(1937年生)は、
“日本兵が襲ってくる前、村の近くで日本兵が3人殺された。日本軍が来たとき、父と母と
わたしは逃げることができたが、9歳と6歳の兄は殺されてしまった。日本兵は子どもも殺
した”
と話しました。話を聞かせていただいたあと、李昌光さんに虐殺現場につれていってもらいました。村の中心部から細い坂道を30分あまり歩いたところがその場でした。虐殺の22年後の1963年農歴3月16日に追悼碑が建てられていました。
碑の中央に「顕祖 孝妣 八十八位之坟」、向かってその右に「惨遭日寇焚烙難民」、左に「血海深仇永世不忘」と刻まれていました。
碑の裏面上部に「倭乱遇難枯骨之墓」、右に「公元一九四一年三月十六日殉難」、左に「公元一九六三年三月十六日」、中央に、犠牲者88人の名がすべて刻まれていました。碑の高さは約1メートル、幅約45センチ、厚さ約7センチで、南西を向いていました。
2014年11月3日にわたしたちは、はじめて、重兴镇賜第村を訪問しました。賜第村に着いたのは、朝9時半でした。
村の入り口に住む李佩瓊さん(1938年生)は、つぎのように話しました。
“日本兵がきたとき、母は、わたしと兄と姉の3人を連れて山に逃げた。父は南洋に働きに
行っていた。
子どものときだったが、家が焼かれて人が殺されたのを覚えている。人数は、後から聞
いた。
日本軍は、村人40人くらいを3か所の家に閉じ込めて焼き殺した。ほかの人は逃げた。
日本軍がいなくなって、村に戻ってきた。兄の文楊は7歳上で、2~3年前に亡くなった。姉
の美霞は2歳上だ。
逃げたのは遠くの山。近くだとあぶない。捕まって殺される。母は夜、山から下りて、田や
畑から食べるものを持ってきた。ナベとか食器とかは持って逃げた”。
そのあと、賜第村の隣の昌文村と排田村を久しぶりに訪ねました。
昌文村に着いたのは10時半でした。11年ぶりに会う李重発さんはお元気でした(はじめて会ったのは2002年10月、2度目に会ったのは2003年3月でした)。
自宅で李重発さんは、つぎのように話しました。
“1941年3月18日(普通歴4月14日)に日本軍が村にきた。日本人は残酷だ。生まれたばか
りの赤ん坊も刺し殺した。
日本軍は祠堂に村人たちを集めた。人数が多かったので、日本軍が見ていないとき、母
が妹を抱いて逃げた。
妹は生まれて40日。わたしもいっしょに逃げた。108人が3月18日に殺された。当時の村
の人口はわからないが、生き残ったのは20人くらいだった。いくつかの家では、家族全員
が殺された。
わたしの家族は、6人が祠堂で殺された。父(李運杞)。上の妹(李愛琴)。父の兄の妻、
ふたり。いとこの兄の妻、ふたり。
山に逃げていたので、祠堂で焼き殺された父や妹の遺体を見ていない。
いとこの弟が日本兵に捕まって連れていかれたが、後ろの方を歩いているとき、その日
本兵は、ほかの兵士が見ていないとき、分かれ道で逃がしてくれた。その日本兵は台湾人
だったかもしれない。
日本兵は、歩けなくて寝ている年寄りにガソリンをかけて焼き殺した。名前は、李運浩。
あの年は豊作だった。夜、みんな山から下りてきて、収穫した。逃げていた期間はわか
らない。田植えをしなくても、2、3か月たったらまた生えてきて助かった。山に隠れてい
たことも親戚のところに身を寄せたこともあった。ときどき、移動した。親戚のところに
は、こっそりと、短い期間だけ。見つかると殺される。
日本軍は何回もこの村に来た。大虐殺のとき山に逃げた村人に、日本軍は何回も“安全
です。山から下りてきてください”と言ってきた。さいしょは恐くて下りなかったが、何
回も言ってくるので、少しずつ村に戻った。山から下りてきたあと、良民証をもらった。
それからしばらくして、日本は降参した。
妹は子どもがいない夫婦に育ててもらった。その養父が日本軍に殺されたので、また妹
を引き取った。2年間くらい育ててもらった。
骨を集めて埋めたのは1946年になってからだ。犬などが遺体を食べて、骨が祠堂のなか
や付近に散らばっていた。集めて一か所に埋めた。
3月18日には、毎年村で祭祀をおこなう。
日本軍が降参した次の年に追悼碑を建てた。
碑は小さかった。遺族が金を出して作った。村人がみんなで殺された人の名を調べ、殺
された村人すべての名を刻んだ碑を作った。
その碑が壊れたので、一族10人あまりを殺された陳という人が費用をぜんぶ出して、あ
たらしく作り直した。
20年以上前のことだ。壊れた碑はどうしたか知らない。
陳はマレーシアの華僑だった。陳の息子は、シンガポールに住んでいる。
さいしょの碑は、李姓が上段だったが、新しく作ったのは、陳という人が費用を全部出し
たので、陳姓が上段になった。村には李姓が多いので、文句をいう人もいたが、作ったもの
はしかたない。場所は同じだ。
あの日に生き残った人で、いまもの元気なのは、李文尧、李昌滋、李文忠とわたしの4人
だ。李昌滋と李文忠は海口に住んでいる。
この村は、南北にわかれていて、わたしは北で、ほかの3人は南の村の人だ”。
李重発さんは、ノートに、1941年3月に日本軍に殺害された村人の人数を記録していました。そこには、
16日、排田村、88人
17日、白石村、40人
18日、昌文村、108人
21日、賜第村、20人
と記されていました。
佐藤正人
海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』上(1995年8月)に収録されている李昌炳・林日明口述「誘騙焼殺 四村遭毀――日軍在重興郷白石嶺暴行親歴記」と李重発口述「“百人墓”前憶往事――日軍焼殺昌文村実述」に、つぎのような内容の記述があります。
“1941年4月12日(農暦3月16日)夕刻、20戸あまり100人足らずの文昌市重興鎮(旧、文昌
県重興郷)排田村に、日本軍部隊が来た。日本軍は、村はずれの尖嶺園に村人を集め、
暗くなってから焼き殺した。逃げようとした人は射殺された。子どもをふくむ88人が殺さ
れた。
翌4月13日(農暦3月17日)、日本軍は、隣りの白石嶺村に侵入し、村人40人を殺した。
その翌日4月14日(農暦3月18日)、朝日がのぼってまもなく、軍用車にのって40人ほど
の日本兵が、白石嶺村の隣りの昌文村を包囲した。日本兵は、村人を銃でおどして「祠堂」
におしこめ、まわりを焚き木で囲み、積んできた石油をまいて、火をつけた。このとき、
人口130人あまりの村の107人が殺された。病気で寝ていた老人や赤ん坊までが焼き殺さ
れた。
さらにこの日、日本軍は、昌文村の隣りの賜第村で村人16人を殺した。
隣り合った4つの村で、3日の間に、日本軍は241人を殺した。
その20日ほど前、村の近くの軍用道路で、日本軍の車両が攻撃されて、日本兵が死ん
でいた”。
昌文村に着いてすぐに、「“百人墓”前憶往事――日軍焼殺昌文村実述」を口述した李重発さん(1936年生)に、村の入り口の樹齢120年以上の大きな榕樹の下で、話を聞かせてもらうことができました。
李重発さんは、日本軍が村を襲ってきたとき、日本兵の姿をみるとすぐに逃げて助かったが、病気で寝ていた老人や赤ん坊までが焼き殺された祠堂の跡に近づくのがいまでもつらい、と話しました。
1941年4月12日から14日までの間に、昌文村、排田村、白石嶺村、賜第村の4村を襲撃し、おおくの村人を殺戮したのは、日本海軍佐世保第8特別陸戦隊に所属する部隊でした。
昌文村の祠堂の横の坂道を登ったところに犠牲者の墓地があり、墓碑が建てられていました。日本軍がいなくなってから、生き残った村人が遺骨を拾って、ここに埋めたといいます。
墓碑の大きさは、横1メートル、縦2メートルほどで、南南西を向いていました。正面の上部に横書きで「血海深仇 没世難忘」、真ん中に「惨遭日寇殺戮難胞之佳城」、左に「公元一九九八歳次戊寅年四月十九日重修」、裏面には、上部に「殺戮難胞名字列下」と書かれ、その下に犠牲者の名が5段に刻まれていました。戸主と思われる名前があって、その下に、戸主との関係がわかるように名前が刻まれていました。1段目に21人、2段目には20人、3段目には20人、4段目には24人、5段目には20人の名が刻まれていました(ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年前は昨日のこと』<紀州鉱山の真実を明らかにする会企画・制作、2004年7月〉の最終部に、この碑が映し出されています)。
日本軍は、昌文村を襲う前日(農歴3月17日)、隣の白石嶺村を襲い、村人40人を殺しました。わたしたちは、昌文村で李重発さんに話を聞かせてもらったあと、白石嶺村を訪ね、祖父母を殺された林さんに案内されて虐殺現場に行きました。
白石嶺村の犠牲者の墓地には堂が建てられていました。墓の前には、1957年5月20日に追悼碑が建てられていました。
2003年3月25日に、わたしたちは、昌文村と白石嶺村を再訪し、排田村をはじめて訪問しました。
排田村の自宅で、李昌光さん(1937年生)は、
“日本兵が襲ってくる前、村の近くで日本兵が3人殺された。日本軍が来たとき、父と母と
わたしは逃げることができたが、9歳と6歳の兄は殺されてしまった。日本兵は子どもも殺
した”
と話しました。話を聞かせていただいたあと、李昌光さんに虐殺現場につれていってもらいました。村の中心部から細い坂道を30分あまり歩いたところがその場でした。虐殺の22年後の1963年農歴3月16日に追悼碑が建てられていました。
碑の中央に「顕祖 孝妣 八十八位之坟」、向かってその右に「惨遭日寇焚烙難民」、左に「血海深仇永世不忘」と刻まれていました。
碑の裏面上部に「倭乱遇難枯骨之墓」、右に「公元一九四一年三月十六日殉難」、左に「公元一九六三年三月十六日」、中央に、犠牲者88人の名がすべて刻まれていました。碑の高さは約1メートル、幅約45センチ、厚さ約7センチで、南西を向いていました。
2014年11月3日にわたしたちは、はじめて、重兴镇賜第村を訪問しました。賜第村に着いたのは、朝9時半でした。
村の入り口に住む李佩瓊さん(1938年生)は、つぎのように話しました。
“日本兵がきたとき、母は、わたしと兄と姉の3人を連れて山に逃げた。父は南洋に働きに
行っていた。
子どものときだったが、家が焼かれて人が殺されたのを覚えている。人数は、後から聞
いた。
日本軍は、村人40人くらいを3か所の家に閉じ込めて焼き殺した。ほかの人は逃げた。
日本軍がいなくなって、村に戻ってきた。兄の文楊は7歳上で、2~3年前に亡くなった。姉
の美霞は2歳上だ。
逃げたのは遠くの山。近くだとあぶない。捕まって殺される。母は夜、山から下りて、田や
畑から食べるものを持ってきた。ナベとか食器とかは持って逃げた”。
そのあと、賜第村の隣の昌文村と排田村を久しぶりに訪ねました。
昌文村に着いたのは10時半でした。11年ぶりに会う李重発さんはお元気でした(はじめて会ったのは2002年10月、2度目に会ったのは2003年3月でした)。
自宅で李重発さんは、つぎのように話しました。
“1941年3月18日(普通歴4月14日)に日本軍が村にきた。日本人は残酷だ。生まれたばか
りの赤ん坊も刺し殺した。
日本軍は祠堂に村人たちを集めた。人数が多かったので、日本軍が見ていないとき、母
が妹を抱いて逃げた。
妹は生まれて40日。わたしもいっしょに逃げた。108人が3月18日に殺された。当時の村
の人口はわからないが、生き残ったのは20人くらいだった。いくつかの家では、家族全員
が殺された。
わたしの家族は、6人が祠堂で殺された。父(李運杞)。上の妹(李愛琴)。父の兄の妻、
ふたり。いとこの兄の妻、ふたり。
山に逃げていたので、祠堂で焼き殺された父や妹の遺体を見ていない。
いとこの弟が日本兵に捕まって連れていかれたが、後ろの方を歩いているとき、その日
本兵は、ほかの兵士が見ていないとき、分かれ道で逃がしてくれた。その日本兵は台湾人
だったかもしれない。
日本兵は、歩けなくて寝ている年寄りにガソリンをかけて焼き殺した。名前は、李運浩。
あの年は豊作だった。夜、みんな山から下りてきて、収穫した。逃げていた期間はわか
らない。田植えをしなくても、2、3か月たったらまた生えてきて助かった。山に隠れてい
たことも親戚のところに身を寄せたこともあった。ときどき、移動した。親戚のところに
は、こっそりと、短い期間だけ。見つかると殺される。
日本軍は何回もこの村に来た。大虐殺のとき山に逃げた村人に、日本軍は何回も“安全
です。山から下りてきてください”と言ってきた。さいしょは恐くて下りなかったが、何
回も言ってくるので、少しずつ村に戻った。山から下りてきたあと、良民証をもらった。
それからしばらくして、日本は降参した。
妹は子どもがいない夫婦に育ててもらった。その養父が日本軍に殺されたので、また妹
を引き取った。2年間くらい育ててもらった。
骨を集めて埋めたのは1946年になってからだ。犬などが遺体を食べて、骨が祠堂のなか
や付近に散らばっていた。集めて一か所に埋めた。
3月18日には、毎年村で祭祀をおこなう。
日本軍が降参した次の年に追悼碑を建てた。
碑は小さかった。遺族が金を出して作った。村人がみんなで殺された人の名を調べ、殺
された村人すべての名を刻んだ碑を作った。
その碑が壊れたので、一族10人あまりを殺された陳という人が費用をぜんぶ出して、あ
たらしく作り直した。
20年以上前のことだ。壊れた碑はどうしたか知らない。
陳はマレーシアの華僑だった。陳の息子は、シンガポールに住んでいる。
さいしょの碑は、李姓が上段だったが、新しく作ったのは、陳という人が費用を全部出し
たので、陳姓が上段になった。村には李姓が多いので、文句をいう人もいたが、作ったもの
はしかたない。場所は同じだ。
あの日に生き残った人で、いまもの元気なのは、李文尧、李昌滋、李文忠とわたしの4人
だ。李昌滋と李文忠は海口に住んでいる。
この村は、南北にわかれていて、わたしは北で、ほかの3人は南の村の人だ”。
李重発さんは、ノートに、1941年3月に日本軍に殺害された村人の人数を記録していました。そこには、
16日、排田村、88人
17日、白石村、40人
18日、昌文村、108人
21日、賜第村、20人
と記されていました。
佐藤正人