三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「3人の息子を北に捧げた親を恨み」…26年ドキュメンタリー撮影した在日朝鮮人

2021年09月08日 | 個人史・地域史・世界史
https://japanese.joins.com/JArticle/282653?servcode=700&sectcode=730
https://japanese.joins.com/JArticle/282654?servcode=700&sectcode=730
「中央日報日本語版」 2021.09.06 15:13
■「3人の息子を北に捧げた親を恨み」…26年ドキュメンタリー撮影した在日朝鮮人

【写真】在日朝鮮人のヤン・ヨンヒ監督。今年のDMZ国際ドキュメンタリー映画祭の開幕作に選定されたドキュメンタリー映画『スープとイデオロギー』では、80歳を過ぎて初めて済州島4・3事件の経験を告白した母がその後認知症が急激に悪化し、180度変わった母娘の日常生活を母の人生の回顧と共に淡々と描いた。

 「ニンニクは、いくつ入れますか」「決まってなくて、器いっぱいに入れて…」在日朝鮮人の義母が日本人の婿に鶏の水炊きの味を伝授する。熱心に手伝っていた婿が、一口スープを口にし、つたない韓国語で感嘆する。「おいしいです!」
 9日、京畿道坡州(キョンギド・パジュ)で開幕する第13回DMZ国際ドキュメンタリー映画祭の開幕作に選定された在日朝鮮人のヤン・ヨンヒ監督(57)のドキュメンタリー映画『スープとイデオロギー』のワンシーンだ。『ディア・ピョンヤン』(2005年)、『愛しきソナ』(2009)など、南北問題を描いてきたドキュメンタリー3部作の最後の作品だ。3編とも4兄妹の3人の兄を平壌(ピョンヤン)に送ったヤン監督自身の家族史を扱った。今回の映画『スープとイデオロギー』でヤン監督は、2009年に父が他界した後、日本で2人きりになった母が80歳になって初めて告白した故郷の済州島(チェジュド)4・3事件のつらい記憶を記録した。

◆「思想が違っても一緒にご飯食べよう、戦ったり殺したりせずに」
 先月30日、ソウル上岩洞(サンアムドン)中央日報で会ったヤン監督は「開幕作に選ばれたのは初めて」とし「今まで参加したどの映画祭よりも平壌に近い映画祭に、会えない家族を描いた作品を持っていくということが嬉しくも複雑だ。車に乗ったらすぐに平壌なのに、兄さんたち、甥・姪たちも見に来ることができればいいのに残念だ」と所感を述べた。
 タイトルのスープは「ご飯を意味する」と説明した。「考え・思想が違っても一緒にご飯を食べようということだ。今も世界では宗教が違うと言って戦ったり殺したりする。自分の家族だけでもイデオロギーが違う私と父が、笑ってご飯を食べるまでに15年ほどかかった」
 ヤン監督は北朝鮮に忠誠を尽くす朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)系の両親を理解することができず、反抗して自由主義者として育った。3人の兄は、ヤン監督が6歳のとき、北送事業で一度も見たことのない「母国」に送られた。「金日成(キム・イルソン)の誕生日を記念する贈り物のように行った。そんな権力や組織のために個人の人生が軽く扱われることに、私は拒否感が非常に強かった」

◆「金日成への贈り物として北に送られた兄さんたち、両親を恨んだ」
 20代の時から父と一緒に食事もしなかったヤン監督は、ニューヨークに行ってきたのをきっかけに、1995年から自分の家族をカメラに収め始めた。
 「ニューヨークではマイノリティも堂々としていた。衝撃だった。日本では本名(朝鮮名)で暮らしながら、毎日迷っていた。就職を断られ、不動産契約するときもあまりにも厳しくて、日本名に変えるべきかと。そうして悩んでいるとき、自分を変える必要はまったくない、変わらなければならないのは社会だ。そんな風に意識が切り替わったら、重く考えていた自分のバックグラウンドが興味深く感じられた」。
 そうして10年間『ディア・ピョンヤン』を撮り、ヤン監督は父に歩み寄った。実家の家族まで北に送った母が、月に一度だけでも政治の話をしないで3人家族で平和に集まってご飯を食べようと頼んで、父娘は休戦を宣言した。
 映画の中の鶏の水炊きのスープは、ヤン監督が大阪を離れ、東京で一人暮らししていたとき、母が毎月必ず送ってくれたものだ。「韓国は『スープ』の国でしょう。お母さんは昔からスープを食べなければいけないと言って、済州島流に魚がたくさん入ったスープもよく作ってくれた」。

◆80歳の老母が初めて告白した済州島4・3事件の経験
 ヤン監督の母カン・ジョンヒさんは1930年に大阪で済州島出身の在日朝鮮人の両親の間に生まれた。カンさんは15歳の時、米軍の空襲を避け、両親の故郷に避難した。3年後、4・3事件に遭った。カンさんは母方のいとこたちが死に、叔父が警察に殺される光景を見た。初恋だった婚約者もその時に失った。カンさんは、幼い2人の弟を連れて30キロメートル歩き、命がけで大阪密航船に乗った。
 ヤン監督が自伝的長編映画『かぞくのくに』(2012年)を準備していた頃だ。体がひどく衰えた母は、18歳の時に済州で体験した4・3事件について話し始めた。「長い間、私のカメラを受け入れてきた母でも、4・3事件の話をする時は『怖い。(カメラを)どけて』と言った。私が「韓国は変わった。4・3事件について調査もたくさんして体験談も出てきているから、話しても大丈夫だ」と言ったら、具体的に話してくれた。北朝鮮のお兄さんたち、ひ孫たちも、こんな話は知っておくべきだと思って、記録を始めた」。
 ヤン監督は、「4・3事件の体験に触れ、済州出身の両親がなぜ北朝鮮を祖国として選択したのか、K-POP歌手も嫌いながら『韓国人は残酷だ、悪い』と言っていたのか、ようやく分かった」と語った。

【写真】ヤン・ヨンヒ監督は「ドキュメンタリーを撮る時は、できるだけ戒めの心とその人(被写体)への敬意を持ち、カメラを受け入れてくれることに対する感謝の気持ちを感じながら大胆かつ非常に繊細に近づかなければならない」とし「演出がもう一度その話をしてみて、もう一度歩いてみて、と言えば信頼関係が崩れる。注文された人は不快なはずだ。私は26年間、家族を撮りながら一度もそう言わなかった」と持論を述べた。

◆「母の心にようやく気付いたら、認知症に直面」
 「以前は、人前で北朝鮮の息子、孫のことをたくさん自慢する母が素直でないと思った。祖国・首領様のおかげでよく暮らすというけれど、私は内心、『嘘だ。お母さんが小包を送ってお金を送るからお兄さん達がよく暮らしているのに。祖国・首領様は何もしてくれないのに、どうしてそんな風に北朝鮮のプロパガンダのようなことを言うのか』と思っていた」。
 母の告白後、ヤン監督は初めて大阪に難民になって帰ってきた母の立場を思い描いてみた。「非常に複雑だったはずだ。帰ってきた大阪は差別が非常に酷かった。母はプライドが高い人だから熱心に、自分は大丈夫、堂々としている、そんな風に努力したのだと思う。子供の頃から私に『服を清潔にきちんと着れば、日本の人達が威張ってこない』と言って洗濯・アイロンをどれほど懸命にしていたか…」。ヤン監督の目頭が赤くなった。
 「希望をかけることができる宗教のように北朝鮮を求めたのだ。他人の前では北朝鮮の良いところだけ言ったが、家では泣いていた。上の兄が躁うつ病だと知って泣き、(北に送られた後、好きだった音楽の勉強を奪われたヤン監督の兄は躁うつ病に苦しみ、2009年に平壌で死亡した)、家族を思って泣いて。私は、そんな母が居心地が悪かったが、日本人の夫はむしろ『お母さんの人生だから、そうするしかない人生があるんだ』と尊重した。私がようやく気付き始めたとき、母の認知症がひどくなった」。
 母は認知症のため、この世を去った家族がそばにいるような幻想の中で暮らしながら、自分の映画を作るというヤン監督に喜び、早く作るように言った。昨年、脳梗塞で入院してからは、ほとんど目を開けられなくなった。

◆26年間で家族ドキュメンタリー3部作…訪朝禁じられ
 「予定していたわけではないが、26年がかかり、3部作になってしまった」。1995年に初めてカメラを持ち、イデオロギーが異なる親を理解するまでかかった年月だ。「なぜ日本名を使わないのか」「なぜコリアンが日本にいるのか」など、在日朝鮮人として生きながら、何度も受けた差別的な質問に対する長い答えでもあった。
 在日朝鮮人と北朝鮮問題を、理念を超えて家族の現実として描いた『ディア・ピョンヤン』がサンダンス映画祭審査員特別賞を受賞し、釜山(プサン)国際映画祭などで注目されたことから、ヤン監督は訪朝を禁じられた。「『ディア・ピョンヤン』の後、朝鮮総連からは謝罪文を書いて、もう映画を撮らないと言えば、兄に会えるようにすることもできると言われたが、私がどれほどの覚悟で作品を出しているか分からないんだな、と思った」。ヤン監督は謝罪文ではなく、平壌の姪ソナにフォーカスを当てた『愛しきソナ』を作った。「国の間には複雑な問題が多いが、私は政治家ではないから。そんな政治によって不便になった家族や個人の人生を通して歴史・政治・社会が見えるような作品を作る」と今まで決意してきた。
 「ドキュメンタリーを撮る中で、北朝鮮の家族が『なぜこんなことをするのか。私たちが罰を受けたらどうするのか」と包丁を持って私を追いかけてくる夢を何度も見た」というヤン監督だ。「北朝鮮にいる家族の安全も心配だが、北朝鮮を賛美する作品を作りたくない。家族を守ることができるように平均台の上を歩くように、一言、一言慎重にドキュメンタリーを作ってきた」とし「後で北朝鮮の家族が見た時に、『お前はこんな作品のために私たちを利用したのか』とは言われないようにしようという責任感がある」と述べた。
 ヤン監督は、ドキュメンタリーを撮りながら自ら守ってきた倫理についてこう語った。「たまにドキュメンタリーを撮って、社会に対して素晴らしい仕事をしているかのように自分の口で言う監督がいるが、恥ずかしく思う。ドキュメンタリーに登場する人々が生涯をかけて到達したその重みのある説得力のある言葉は、私たちがシナリオを書いたのではなく、その人の経験から出たものなのに、私たちは自分の作品として発表する。厚かましい。ドキュメンタリーを撮る人はその自覚があるべきだ。その自覚がなければ、ドキュメンタリーのために人の生活が存在しているように錯覚して、ここで泣くべきだ、もう1回その話をしてみて、もう1回歩いてみて、と言って一瞬にして信頼関係が崩れる」
 ヤン監督は次期作にはフィクション映画を構想中だ。「ドイツのナチス、ユダヤ人についての素晴らしい作品が今も多く出ているでしょう。アウシュビッツでどんな虐殺があったのかは、世界の人々が常識として知っているからその次から始めることができる。在日朝鮮人、北送問題、済州島4・3事件問題も映画でもっと多くの人に知らせたいと思っている」。
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「入植地めぐりイスラエル軍と衝突、パレスチナ人140人超負傷」

2021年07月25日 | 個人史・地域史・世界史
https://www.afpbb.com/articles/-/3358233?cx_part=latest
「AFP」 2021年7月24日 16:42 発信地:ベイタ/パレスチナ自治区
■入植地めぐりイスラエル軍と衝突、パレスチナ人140人超負傷

【写真】パレスチナ自治区ヨルダン川西岸のベイタで、イスラエル軍に向けて石を投げるパレスチナ人ら(2021年7月23日撮影)。(c)JAAFAR ASHTIYEH / AFP 
【写真】パレスチナ自治区ヨルダン川西岸のベイタで、負傷したパレスチナ人を手当てする医療従事者ら(2021年7月23日撮影)。(c)JAAFAR ASHTIYEH / AFP 
【写真】パレスチナ自治区ヨルダン川西岸のベイタで、負傷者を運ぶパレスチナ人ら(2021年7月23日撮影)。(c)JAAFAR ASHTIYEH / AFP 
【写真】パレスチナ自治区ヨルダン川西岸のベイタで、イスラエル軍に向けて催涙ガスが入った容器を投げ返すパレスチナ人ら(2021年7月23日撮影)。(c)JAAFAR ASHTIYEH / AFP 
【写真】パレスチナ自治区ヨルダン川西岸のベイタで、イスラエル軍からパレスチナ人に向けて投げられた催涙ガスが入った容器(2021年7月23日撮影)。(c)JAAFAR ASHTIYEH / AFP 
【写真】パレスチナ自治区ヨルダン川西岸のベイタで、負傷したパレスチナ人を搬送する医療従事者ら(2021年7月23日撮影)。(c)JAAFAR ASHTIYEH / AFP 
【写真】パレスチナ自治区ヨルダン川西岸のベイタで、イスラエル軍と対峙(たいじ)するパレスチナ人ら(2021年7月23日撮影)。(c)JAAFAR ASHTIYEH / AFP 

【7月24日 AFP】パレスチナ自治区ヨルダン川西岸(West Bank)のベイタ(Beita)で23日、イスラエルによる違法な入植地建設に抗議するパレスチナ人デモ隊とイスラエル軍が衝突し、パレスチナ人140人以上が負傷した。医療関係者らが明らかにした。
 イスラエル軍の発表によると、同軍の兵士2人も軽傷を負った。
 現地のAFP記者によると、イスラエルが占領するヨルダン川西岸の北部のベイタ近くに建設された入植地エビアタル(Eviatar)に抗議するため、数百人のパレスチナ人が集結。
 イスラエル軍は「数百人のパレスチナ人がイスラエル国防軍(IDF)に向かって投石したため、暴動を解散させる手段で対応した」と発表するとともに、軽傷を負った2人は病院に搬送されたと明らかにした。
 パレスチナの赤新月社(Red Crescent)によると、両者の衝突でパレスチナ人146人が負傷。うち9人は実弾、34人はゴム弾、87人は催涙ガスによる負傷だった。
 ユダヤ人入植者らは、国際法およびイスラエル国内法違反の疑いがあるにもかかわらず、今年5月にエビアタルの建設を開始し、パレスチナ人らはこれに激しく反発。イスラエルのナフタリ・ベネット(Naftali Bennett)首相の決定を受け、入植者らは今月2日に撤収し、建設物は現在、軍の監視下に置かれている。
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「「朝鮮人戦犯」と国家の罪」

2021年06月22日 | 個人史・地域史・世界史
http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/39913.html
「The Hankyoreh」 2021-05-07 03:08
■[寄稿]「朝鮮人戦犯」と国家の罪
          カン・ウイル・ペトロ|カトリック司教
 歴史上、国家は誰も触れることのできない偶像として君臨し、最も恐るべき暴力と殺傷をふるってきた。国家から偶像の仮面をはぎ取り、全能の絶対権力を剥奪できるのは、理性と倫理で武装した「目覚めた市民」だけだ。国家は国民に仕える僕とならねばならない。国民が国家という偶像に仕える僕となってはならない。
 3月28日に日本で96歳の在日同胞が脳出血で他界した。名は李鶴来(イ・ハンネ)。1925年に全羅南道宝城(ポソン)で生まれた彼は、1942年春のある日、突然村の村長に呼び出された。「総督府で南方捕虜監視員の募集があったんだが、お前が行け」という通告だった。2年勤務で給料も出るという。17歳の少年は、軍に徴兵されるよりはましだと思った。軍属としてタイとビルマを結ぶ国境地帯の鉄道建設現場に派遣され、連合軍の捕虜を監視することになった。1941年12月に太平洋戦争を引き起こした日本は、東南アジア戦線のあちこちで勝利を収め、連合軍の捕虜は数十万に達した。捕虜を監視するため、3000人以上の朝鮮人青年が動員された。李さんが配属されたのはタイで、映画『戦場にかける橋』で有名になった地域だ。日本軍は捕虜たちに食糧と医薬品もまともに支給せず、過酷な労働を強いた。切り立った断崖を挟んで線路を建設する難工事は、多くの捕虜たちの命を奪った。
 李さんは、日本軍の工兵隊が要求する労役の人員を毎日選び出すため、捕虜側の代表とよく衝突した。捕虜の保護を規定した「ジュネーブ条約」などは聞いたこともなく、服従しない者は容赦なく殴る、というのが彼の受けた日本軍の教育のすべてだった。日本軍の道具として動員された朝鮮人捕虜監視員のうち148人は、連合軍による戦犯裁判で捕虜虐待の有罪判決を受け、23人には死刑が執行された。李さんもシンガポールで開かれたオーストラリア軍の軍事裁判で、たった2回の公判で死刑宣告を受けた。死刑囚監房に一緒にいた仲間たちが次々と刑場に呼ばれて出て行く恐怖の収監生活が8カ月続き、ある日懲役20年に減刑された。収監生活中、作業時間が終わると、彼は本を読んで学習を始めた。自分に着せられた無念の運命の理由を求めて、植民地の民だった自分が「加害者」へと化けた経緯を振り返った。日本という国家が行った不義と不条理に、言葉では言い表せないうっ憤を感じた。「私がその戦争に参加していなければ、このような逆境に陥ることはなかったのに…。戦争こそすべての害悪の根源だ」と彼は手記に書いた。李さんは自分を戦争に加担させた天皇制ファシズムを憎み、晩年はひたすら平和のための活動を求めた。
 日本は1952年のサンフランシスコ平和条約締結後、朝鮮人たちの日本国籍を剥奪し、福祉と援護の対象からも除外した。孤立無援となった人たちの中には、生活苦で自ら命を絶つ者もあった。1955年、70人あまりの朝鮮人BC級戦犯は「同進会」という自治会を結成し、日本政府に援護と補償を要求した。しかし1965年に韓日協定が締結されたことで、日本政府は「日韓間のすべての問題は解決済み」として、彼らを相手にしなかった。彼らは日本人でもないのに「戦犯」という途方もない不名誉を着せられ、祖国は彼らを「対日協力者」と見なして見向きもしなかった。彼らはみな「我々の犠牲と死は一体誰のための、何のためのものだったのか」と叫びながら、一人また一人とこの世を去っていった。
 1990年代初めから、李さんと仲間たちは日本政府の謝罪と補償を求める法廷闘争を開始した。良心的な日本人(内海愛子さんら)も彼らを支援し、連帯した。しかし日本の最高裁は1999年12月、「補償の必要性は認めるが、国の立法政策に属す問題」と規定し、原告敗訴の判決を下した。2008年5月、日本の国会の民主党議員たちが被害者1人当たり300万円の補償金を支給する法案を作成したが、国会議員の多くの無関心により廃案となってしまった。日本帝国は朝鮮の植民地化後、朝鮮の幼い10代の少年たちに、天皇のために命を捧げるのが皇国臣民の道理だと洗脳し、戦場に徴発した。この少年たちは東南アジアの密林の中で日本軍の手下となり、最悪の鉄道工事に動員された連合軍の捕虜たちを働かせて、「戦犯」というおぞましい容疑で法定最高刑を言い渡された。日本という国家は、何も知らない純真な他国の少年たちを連れて行き、戦争の元凶の罪を着せた。死刑になったり、長期刑を経て一生を罪人として隠れて暮らしたりした彼らは、日本という国家が犯した罪と不条理の犠牲者であり、被害者だ。
 李鶴来さんと仲間たちの悲劇的な話に接し、すぐに思い起こされたのは米国の始めたベトナム戦争に参戦した韓国軍人たちだ。私は2年前にベトナムのクァンナム省フォンニィ・フォンニャット村を訪れたことがある。ベトナム戦争当時、民間人が韓国軍によって集団殺害された場所だ。稲が青く育った野に74人の犠牲者の慰霊碑が立っていた。この村にはもともと南ベトナムの軍人の家族も多く住んでおり、韓国軍は味方だと思っていたという。ところがある日、韓国軍が村の横の道路に沿って行進する途中、村に向かって進入しはじめ、住民に無差別に射撃を加える事故が起きた。当時8歳の少女だったグエン・ティ・タンさんは、数人の生存者の一人だ。彼女も腹を撃たれたものの九死に一生を得た。母親と家族5人をすべて失ったグエン・ティ・タンさんは、2020年4月に大韓民国政府を相手取って損害賠償請求訴訟を起こした。裁判所は4月13日、国防部と国家情報院に対し、ベトナム戦争当時の韓国軍による民間人虐殺の関連資料の提出を求めた。
 ベトナムに派兵された軍人たちも、最初は生きている人に向かってなかなか引き金が引けない純朴な若者たちだった。しかし参戦軍人たちは告白する。戦闘が起こり、そばにいた仲間が血を流して敵の銃弾に倒れた瞬間、そこは地獄と化し、倫理や理性と決別することになると。目の前に登場する相手が軍人なのか民間人なのかを区別する余裕はないという。戦争が終わって家に帰ってきた兵士たちはひどく病んだ。自ら命を絶った人たちもいる。まだ深刻なトラウマを抱え、家族にも話せず、夜中に一人悪夢にさいなまれる人々がいる。国家が犯した罪の被害者だ。
 個人が罪を犯した時は審判が可能だ。国家権力を行使する個人も審判を受けさせることができる。しかし「国家」は最高の権威と権力の座を保有しているため、これを審判する者はいない。歴史上、国家は誰も触れることのできない偶像として君臨し、最も恐るべき暴力と殺傷をふるってきた。国家から偶像の仮面をはぎ取り、全能の絶対権力を剥奪できるのは、理性と倫理で武装した「目覚めた市民」だけだ。国家は国民に仕える僕とならねばならない。国民が国家という偶像に仕える僕となってはならない。
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/994108.html
韓国語原文入力:2021-05-06 15:26


http://japan.hani.co.kr/arti/politics/39553.html
「The Hankyoreh」 2021-03-30 07:22
■「戦犯となった朝鮮人青年」、苦難に満ちた65年間の戦いの末、無念の死
 「最後のBC級戦犯」李鶴来会長死去

【写真】「韓国人BC級戦犯」被害者である故李鶴来同進会会長の2013年11月の姿。後ろの写真の一番後ろの列の右側から二番目が「戦犯」として収監されていた時代の李会長=パク・ジョンシク記者//ハンギョレ新聞社

 17歳、泰緬鉄道建設捕虜の監視員に 
 連合軍裁判で死刑言い渡され 
 戦後、日本国籍の剥奪と共に恩給の対象から外れ 
 1955年に70人余りが同進会結成、“補償”を要求 
 1965年「韓日協定」の口実で窓口が閉じる 
 1991年から法廷闘争始めたが、1999年に最終敗訴 
 昨年まで国会に立法を要求

 「悲しいお知らせをしなければなりません」。「最後の朝鮮人BC級戦犯」の李鶴来(イ・ハンネ)同進会会長の死を知らせる訃報は、短い文章で始まった。在日コリアンが集団で居住する大阪の猪飼野(現在の東成区・生野区にまたがった地域)で「猪飼野セッパラム文庫」を主宰する藤井幸之助氏は28日、フェイスブックを通じて李会長が同日午後死亡したと明らかにした。享年96。
 「李鶴来さんが3月24日(水)に自宅内で転倒し、頭を打ち、足を骨折、病院に緊急搬送されました。集中治療室に入られ、コロナのため家族の面会も不可能な状態でしたが、手当ての甲斐もなく、本日3月28日(日)14時10分にお亡くなりになりました。ハンネさんは最後の最後まで、先に逝った仲間を思い、立法化に向けてがんばってこられました。それに対し、安倍晋三政権は力づくで立法化を阻んできた経緯があります」
 藤井氏の説明どおり、朝鮮人BC級戦犯の李鶴来さんの一生は、不当な日本の国家権力との戦いの連続だった。1925年、全羅南道宝城(ポソン)で3人兄弟の長男として生まれた彼は、1942年春、面長から突然呼び出された。「『南方捕虜監視員』を募集しているが、お前が行け!」勤務期間は2年、1カ月の月給は50ウォンだと言われた。17歳の少年は、2年だけ苦労すれば徴用と遠からず施行される徴兵を免れると考え、志願した。1942年8月19日、釜山(プサン)から東南アジアに向かう船に乗った。それから3年後、日本が敗れて連合国捕虜を虐待した罪でオーストラリアの軍事法廷で「死刑宣告」を受ける苦難の人生の始まりだった。
 1941年12月、太平洋戦争を起こした日本は、東南アジア戦線で破竹の勢いで次々と勝利を収めた。日本政府はこの過程で発生した数十万人にのぼる連合軍捕虜を監視するため、朝鮮人青年たち(3012人)を動員した。李鶴来さんが配属されたタイで、日本軍は十分な食糧や医薬品、衣服も支給せず、捕虜たちに過酷な労働を強要した。映画『戦場にかける橋』(1957)で有名になった泰緬鉄道(タイとミャンマーを結ぶ鉄道)を建設する作業だった。
 切り立った絶壁に鉄路を作る難工事が続いたため、多くの捕虜が命を落とした。この過程で捕虜監視員の李鶴来さんは、日本軍工兵隊が要求する労役人数を合わせようとして、オーストラリア軍医官のアーネスト・ダンロップ中佐としばしば衝突した。戦争が終わった後、「戦犯」という恐ろしい烙印を押されたのも、そのためだ。日本が起こした戦争の最末端でこのように“道具”として使われた朝鮮人捕虜監視員129人は、連合軍の戦犯裁判で捕虜虐待の疑いで有罪判決を受けた。このうち14人は、死刑判決を受け、刑場の露と消えた。
 彼は辛うじて減刑されたため死を免れたが、直ちに社会の冷酷な視線と向き合わなければならなかった。祖国は彼らを「親日附逆派」だとして罵倒し、日本は「戦犯」だとして蔑視した。1952年4月、サンフランシスコ平和条約の発効で日本国籍が剥奪されると、日本政府は彼らを援護法や恩給法などの適用対象から除外した。この過程でホ・ヨン(1955年)、ヤン・ウォルソン(1956年)の2人が生活苦の末、自ら命を絶った。
 追い込まれた朝鮮人BC級戦犯70人余りは、1955年4月に自治会である「同進会」を結成し、日本政府を相手に援護と補償を要求し始めた。しかし、1965年6月に韓日協定が締結されると、日本政府は「韓日間の問題はすべて解決済み」として、対話の窓口を閉じてしまった。李会長は「戦犯の時は日本人で、補償する時は朝鮮人と言うのか」と悔しがった。
 李会長と同僚らは法廷闘争に乗り出さざるを得なかった。1991年11月12日、東京地方裁判所に提起した訴訟はおよそ5年間にわたって続いた。1996年9月9日の判決で、裁判所は補償の必要性は認めながらも、「国の立法政策に属する問題」だとして、原告らの訴えを退けた。この基調は、高等裁判所の判決(1998年7月13日)と最高裁判所の判決(1999年12月20日)でも維持された。挫折が続くたびに李会長は「同じ困難にあった仲間は皆亡くなった。一番若かった自分だけが生き残った」として、気を引き締めた。
 かすかに問題解決の兆しが見えたのは、当時野党だった日本の民主党が2008年5月に被害者1人当たり300万円の補償金を支給する法案を作成した後だった。タクシー業で財を成した李会長にとって、重要なのは金銭的な補償ではなかった。予想通り、法案は大多数の議員の無関心のため廃棄となり、与党となった民主党は彼らの苦しみにそれ以上耳を傾けなかった。

【写真】故李鶴来同進会会長が2013年11月、ソウル歴史博物館に展示された1951年に撮影されたアウトラム刑務所に拘禁された戦犯たちの写真の前で、自分の顔を指差している=パク・ジョンシク記者//ハンギョレ新聞社

 韓日国交正常化50周年を迎えた2015年4月、日本の国会で会った記者に対し、90歳の李会長は「今年こそは必ずこの問題が解決されることを願っている」と涙声で語った。2017年には『戦犯となった朝鮮人青年』(民族問題研究所発行、原題『韓国人元BC級戦犯の訴え―何のために、誰のために』)の回顧録で、「日本政府は自らの不条理を是正し、立法を促す司法府の見解を真摯に受け止め、立法措置を速やかに講じること」を求めた。彼は昨年2月、東京都西東京市で開かれた講演会に出席し、再び立法を求めたが、コロナ禍などで定期国会に関連法案は提出されなかった。
 そうして韓日関係が最悪の状態にまで悪化し、歳月だけが空しく流れ、彼はついに無念の死を遂げた。
キル・ユンヒョン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
http://www.hani.co.kr/arti/society/obituary/988706.html
韓国語原文入力:2021-03-29 19:43


http://japan.hani.co.kr/arti/international/39540.html
「The Hankyoreh」 2021-03-29 06:22
■「朝鮮人BC級戦犯被害者」李鶴来さん死去
 最後の日本居住の戦犯被害生存者 
 捕虜監視員として働き戦犯とされる 
 日本人ではないという理由で戦後補償から除外

【写真】2018年に東京千代田区の衆議院会館で開かれたBC級戦犯被害解決の会で発言する李鶴来さん=資料写真//ハンギョレ新聞社

 太平洋戦争の終了後にBC級戦犯とされ苦しんだ韓国人被害者の一人、李鶴来(イ・ハンネ)同進会会長が28日に死去した。享年96歳。
 毎日新聞は28日、李さんが外傷性くも膜下出血で死去したと報じた。同紙によると、李さんは今月24日に自宅で転倒して頭を打ち入院していた。葬儀は家族葬として行われるという。
 李さんは日本の敗戦後、連合軍が開いた裁判で戦犯とされた朝鮮半島出身者のうち、日本に居住する最後の生存者だった。李さんは17歳だった1942年に、大金を稼がせてやるという「捕虜監視員」募集公告に騙され、日本軍の軍属になった。その後、タイの日本軍の鉄道工事現場と日本軍の連合軍兵士捕虜収容所で末端の管理者として働き、日本の敗戦とともにBC級戦犯とされた。捕虜監視員たちは軍属として二等兵よりも地位が低かったものの、連合軍捕虜たちと直接接触したため、恨みを買うことが多かった。このため朝鮮人捕虜監視員は、戦後の戦犯裁判で捕虜虐待、略奪などを犯したり、上級者の命令によって拷問や殺人を犯したなどの容疑が適用された人々であるBC級戦犯となるケースが多かった。連合軍が開いた戦犯裁判で有罪判決を受けた朝鮮半島出身の軍属は148人だが、このうち23人が死刑となっている。李さんも死刑判決を受けたが、その後減刑され、東京の巣鴨刑務所で11年服役し、出所した。処罰を受けた時は日本国籍だったが、1952年のサンフランシスコ講和条約の発効で日本国籍を喪失したことを理由に、日本人とは違い、日本政府による戦後補償からは除外されるという不条理を経験した。
 李さんは1995年4月に仲間とともに名誉回復と補償を求めて「同進会」という団体を結成し、名誉回復運動を始め、90歳を超えても運動を止めなかった。李さんは、日本政府を相手取って補償を求める訴訟を起こしたが、日本の裁判所は1965年の韓日請求権協定で解決済みとして、原告敗訴の判決を下した。その後、90歳を超してからも日本の国会における名誉回復法の制定を求めて問題解決に努めてきたが、国会の会期ごとに立法は挫折した。そして2018年、東京の衆議院会館で開かれた集会で、「1956年に巣鴨刑務所から釈放されたが、兄弟も誰もいない異国である日本に捨てられたかたちだった。仲間の中には精神病にかかり、自分が日本にいることも分からず、花火を艦砲射撃だと思っている人もいた」と議員たちに訴えた。李さんは昨年も衆院会館で開かれた記者会見に出席し、亡くなった仲間たちの名誉回復のための立法を訴えたが、ついに立法の実現を見ることなく亡くなった。

チョ・ギウォン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
http://www.hani.co.kr/arti/international/japan/988560.html
韓国語原文入力:2021-03-28 21:36
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「「関東大震災朝鮮人虐殺」などの研究で功労…在日同胞の歴史学者、姜徳相氏を偲ぶ」

2021年06月14日 | 個人史・地域史・世界史
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/40264.html
「The Hankyoreh」 2021-06-14 07:43
■「関東大震災朝鮮人虐殺」などの研究で功労…在日同胞の歴史学者、姜徳相氏を偲ぶ
 [故人の足跡]在日同胞の歴史学者、故姜徳相先生の霊前に 
 
 2歳で日本に渡りアイデンティティの混乱を経験 
 早稲田大学時代、「朝鮮史研究」を決意 
 「関東大震災朝鮮人ジェノサイド」究明 
 1989年に在日同胞初の国立大学教授に 
 晩年闘病中の『呂運亨評伝』生涯最高の力作 
 「0.5同士で争えば0.25になる」統一を力説

【写真】2020年に出版した『呂運亨評伝』(4巻)で「独立記念館学術賞」を受賞した故姜徳相教授=独立記念館提供//ハンギョレ新聞社

 在日同胞で歴史学の重鎮、姜徳相(カン・ドクサン)先生が12日午前9時30分、東京で死去した。享年90。先生は、1923年の関東大震災での朝鮮人虐殺問題をはじめ、韓国と日本の近現代史の分野で多くの業績を残した。
 私が先生の名前を意識するようになったのは、1970年代初めにソウルの鍾路1街(チョンノイルガ)一帯の日本書籍専門書店で先生の翻訳した朴殷植(パク・ウンシク)の著書『韓国独立運動の血史』の日本語版を偶然見たのがきっかけだった。韓国では、その当時も上海臨時政府の精神的指導者と言える朴殷植の代表的な著述すら、ハングル版が完全な形では出ていなかった。
 それから30年あまりが過ぎた2009年の晩秋、「庚戌国恥(日帝による韓国併合)百年」を前に、日本と韓国の重鎮学者を深層インタビューする企画の一つとして先生に初めてお会いした。場所は東京都麻布にある「在日韓人歴史資料館」。先生は、在日同胞の歴史と暮らしを見せるために2005年に開設された同資料館の初代館長を務めた。その後、東京に行くことがあれば、新宿駅からほど近い先生のご自宅を訪ねたり、飲み屋で会って生きた証言を聞いたりする幸運に浴した。気さくで腰の低い人柄で、軸がしっかりしている方だった。

【写真】2012年、ソウル麻浦のハンギョレ新聞社を訪れた故姜徳相教授(右)は、キム・ヒョスン元大記者と本社入口の株主名簿の刻まれた銅板の前で記念写真を撮った=筆者提供//ハンギョレ新聞社

 1932年に慶尚南道咸陽(ハミャン)で生まれた先生は、2歳の時に母親の背に負われて朝鮮海峡を渡り、その後は日本で育った。朝鮮人蔑視の風潮が蔓延していた世の中であったため、幼い頃から自己否定とアイデンティティの混乱を経験した。名前が3つあったと語る時は表情が暗かった。本名ではなく日本の名前があった。小学校3年生の時、担任が創氏改名しなければならないといって無理やり名前を変えてしまった。もう一つは、早稲田大学史学科在学時。著名な労働運動家で歴史家だった山辺健太郎の影響を受け、朝鮮史研究に身を投じるという決心とともに、朝鮮人であることを学友に打ち明け、「本名宣言」した。しかし、その時も日本式の漢字音で名前を明かすほど、社会は圧制的な雰囲気だったという。
 大学に入った1950年は冷戦激化と朝鮮戦争勃発の影響で、日本社会では反戦運動が激しかった。先生は集会で「大物たち」の隣に立っていたところを逮捕され、退学処分を受けたが、1年後に何とか復学した。その後、運動からは手を引き、勉強に専念したことが学問的成果として実を結ぶ。関東大震災での朝鮮人虐殺事件に、日本の国家権力が背後で組織的に関与していたことを1964年に究明したことは、代表的な業績の一つだ。これは、米国が占領初期に押収した日本陸軍と海軍の文書を1960年代初めにマイクロフィルム化して再び日本に送った「返還文書」を綿密に検討して明らかにしたものだ。彼の朝鮮人虐殺に対する関心は、韓末の義兵戦争、1920年の「庚申大虐殺(間島惨変、日本では「間島出兵」といわれる)」に関する研究へと広がった。関東大震災の虐殺は偶然起きたのではなく、「ジェノサイド」の延長線上にあるということだ。
 長期にわたり非常勤講師として転々としていた先生が一橋大学の教授に任用されたのは1989年。日本人だったらとっくの昔に大学に定着し、引退を考える年齢でようやく教授になったのだ。在日同胞としては初の国立大学教授だった。先生に最後にお会いしたのは2017年3月、先生のご自宅を訪ねた時だ。その1年前は生死をさまようほど病状が重く、原稿を仕上なければならないという心理的負担のため、うつ病にもかかったという。そんな中でも「光復後、外国勢力の関与がなかったら民族の指導者になっていたはず」の呂運亨(ヨ・ウンヒョン)の評伝を生前に4巻まで出したのだから、一生の仕事を完遂したわけだ。
 先生の晩年は、日本社会の右傾化がいっそう激しくなった時期と一致している。日本の公共放送NHKは、韓国の「国恥百年」に当たる2010年に様々な歴史ドキュメンタリーを制作した。制作陣は事前に先生をはじめ、長年の学問的「同志」であった宮田節子氏にも長時間インタビューを行った。しかし実際に放送されたドキュメンタリーには、2人は1秒も登場しなかった。先生はこの話をした際、借りていった資料をすぐに返すようにと担当プロデューサーに迫ったと言った。いつも落ち着いていた先生があんなに怒った姿は初めて見た。制作陣は右翼からの批判を考慮して「自己検閲」を行ったようだった。先生が、久しぶりに「懐かしい」言葉を聞いたと言って、空しく笑っていたことも覚えている。自宅前に自転車を乱暴に置いていく人がいたので注意したところ、「チョーセンジンが…」という言葉が返ってきたという。
 先生は「朝鮮の分断は戦後日本の国策だった」という話もよくしていた。南北が分かれていないと、日本の弱点や最も痛いところを突いてくるため、和解を妨害するのだという。だから、0.5と0.5が争えば、1ではなく0.25になると繰り返し強調していた。今の朝鮮半島の状況を見ると、先生はあの世でも安らかに眠れないのではないかという気がして怖い。

【写真】2000年4月に出版された評伝『時務の研究者 姜徳相』の表紙=姜徳相聞き書き刊行委員会提供//ハンギョレ新聞社

キム・ヒョスン/元ハンギョレ編集人兼大記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/obituary/999187.html
韓国語原文入力:2021-06-13 18:58


https://www.donga.com/jp/home/article/all/20210614/2719939/1/%E3%80%8C%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%80%8D%E7%A9%B6%E6%98%8E%E3%80%81%E5%9C%A8%E6%97%A5%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%83%BB%E5%A7%9C%E5%BE%B3%E7%9B%B8%E3%81%95%E3%82%93%E6%AD%BB%E5%8E%BB
「東亞日報」 June. 14, 2021 08:09,   
■「関東大震災朝鮮人虐殺」究明、在日歴史学者・姜徳相さん死去
 1923年の関東大震災時の官憲による朝鮮人虐殺の真相を究明した在日韓国人の民族主義歴史学者、姜徳相(カン・ドクソン)さんが12日、悪性リンパ腫で死去した。89歳だった。
 姜さんは60年代から収集した日本の機密文書、官僚の手記、官憲および民間人の証言をもとに、関東大震災における朝鮮人虐殺は「国家権力を主犯に民衆を従犯にした民族的大犯罪」と主張した。
 姜さんは64年、資料集『関東大震災と朝鮮人』のほか関連論文を30編以上発表した。これらの研究が90年代に日本の教科書に関東大震災時の朝鮮人虐殺の内容が含まれる契機になったと評価されている。
 姜さんはまた、呂運亨(ヨ・ウンヒョン)と3・1運動に関する研究など韓国の近現代史を研究してきた。膨大な独立運動の史料で名前が多く登場する人物として、李東輝(イ・ドンフィ)、洪範図(ホン・ボムド)、安昌浩(アン・チャンホ)、呂運亨を挙げ、2002年に『呂運亨評伝』も出版した。
 姜さんは1932年に慶尚南道咸陽(キョンサンナムド・ハムヤン)で生まれ、2年後に来日。早稲田大学史学科学士・修士学位を取得し、明治大学で東洋史博士課程を修了した。89年に一橋大学社会学部教授に就任した時、「在日韓国人初の国立大教授」として話題を集めた。2005年に民団の在日韓人歴史資料館の初代館長を務め、14年に「慰安婦企画展」を開いた。
 姜さんは12年、東亜(トンア)日報とのインタビューで、「幼い頃には日本が話す歴史が全て正しいと思っていたが、戦後に日本を占領した米軍政が歴史教科書で誤った部分を訂正するのを見て『私が習った歴史は事実でないかもしれない』と思った」とし、歴史研究の重要性を強調した。
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「『狼をさがして』の監督 「右翼による上映中止の脅迫、本当に哀しい」」

2021年05月20日 | 個人史・地域史・世界史
http://japan.hani.co.kr/arti/international/40036.html
「The Hankyoreh」 2021-05-20 07:10
■『狼をさがして』の監督 「右翼による上映中止の脅迫、本当に哀しい」
 ドキュメンタリー『狼をさがして』の キム・ミレ監督 
 「東アジア反日武装戦線の歴史を通じて問いかけたかった 
 右翼の上映中止要求に屈しない日本の市民社会に感謝」 
 
【写真】ドキュメンタリー映画『狼をさがして』を演出したキム・ミレ監督(右)と映画製作に参加した独立研究活動家シム・アジョン氏=キム・ミョンジン記者//ハンギョレ新聞社

 日本の右翼勢力が韓国のドキュメンタリー映画『狼をさがして』の上映中止を求め、日本の映画館2カ所を脅迫したことについて、キム・ミレ監督が「本当に哀しいことだ」と述べた。
 キム監督は日本国内の配給会社を通じて18日に公開した声明で「『狼をさがして』の上映を批判する一部の人たちが、映画と全く関係のない事実無根のひどい言葉を投げつける姿を映像で見た」とし、「本当に哀しいことだ」と述べたと、朝日新聞が19日付で報じた。キム監督は「現在の日本社会で『東アジア反日武装戦線』について問いを発し考えることが、いかに困難なことなのか」について心境を語った。右翼団体は映画館の前で上映を中止を求めてデモを行い、「映画の上映料が東アジア反日武装戦線の活動資金になっている」というデマを流した。
 キム監督は「私がこの映画をつくったのは、『東アジア反日武装戦線』を貫く歴史を通じて、何よりもまず韓国社会に生きる私たち自身に『加害』について問いかけたかったから」だと強調した。彼女は「『狼をさがして』は『加害』とは何か、『加害者』とはだれなのか、その真実を追った映画」だと付け加えた。同映画は昨年8月、『東アジア反日武装戦線』というタイトルで韓国でも公開され、1970年代半ばに東京三菱重工業本社など、日本の戦犯企業を相手に爆破事件を起こした日本人らの約40年にわたる歴史を描いている。
韓国のドキュメンタリー映画『狼をさがして』の日本版ポスター//ハンギョレ新聞社

 キム監督は日本社会に感謝の気持ちも伝えた。彼女は「そうした事態がこれ以上広がらないよう尽力している、日本各地の劇場と配給会社のスタッフの皆さんや、観客の皆さんに、深い感謝の念と熱い連帯のこころを伝える」と明らかにした。右翼から攻撃を受けた2館のうち1館は公開を中止し、残りの映画館は右翼団体の脅しに「屈しない」として上映を続けている。今年3月から現在まで、同映画を上映しているか、上映を控えている上映館は、日本全域で約30館にのぼる。

キム・ソヨン記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr)
https://www.hani.co.kr/arti/international/japan/995808.html
韓国語原文入力:2021-05-2002:30
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「日本の右翼、韓国映画『狼をさがして』上映の映画館を脅迫」

2021年05月19日 | 個人史・地域史・世界史
http://japan.hani.co.kr/arti/international/40013.html
「The Hankyoreh」 2021-05-18 08:41
■日本の右翼、韓国映画『狼をさがして』上映の映画館を脅迫
 昨年韓国で『東アジア反日武装戦線』と題して公開 
 右翼、二つの映画館を選び、街宣活動…1館は上映開始前に中止 
 横浜シネマリン館長「暴力的な抗議に屈しない」

【写真】韓国のドキュメンタリー映画『狼をさがして』日本版ポスター//ハンギョレ新聞社

 日本の右翼が韓国のドキュメンタリー映画『狼をさがして』(韓国語原題:『東アジア反日武装戦線』)の上映を中止するよう二つの映画館を脅し、議論になっている。一つの映画館は上映を中止し、もう一つの映画館は「屈しない」と上映を継続している。
 17日の朝日新聞などの報道によると、日本の右翼団体はキム・ミレ監督の『狼をさがして』を「反日映画」だとして、二つの映画館に目を付け露骨に映画の上映を妨害した。この映画は昨年、『東アジア反日武装戦線』と題して韓国で公開され、1970年代中盤に東京の三菱重工業本社などの日帝戦犯企業を対象に爆破事件を起こした日本人たちの約40年間の話を扱っている。今年3月の東京を皮切りに、現在約30ほどの映画館で上映されている。
 右翼の攻撃対象になった神奈川県のA映画館は、今月8日に上映開始を予定していたが、最終的に中止した。映画館は資料を発表し、「警察から今月8~9日に右翼団体が街宣活動をするという連絡があった」とし、「騒音などで近隣住民や隣接店舗に迷惑をかけることは心苦しく、上映中止を決めた」と明らかにした。
 先月24日に上映を開始し、右翼の集中的な攻撃を受けている映画館の横浜シネマリンは、当初の予定どおり今月21日まで映画を上映するという方針だ。同映画館の館長は最近、声明を発表し「(横浜シネマリンは)映画の多様性を重視した作品選定」をしているとし、「(右翼の主張は)映画の内容を歪曲するもので、このような暴力的、且つ的外れな抗議行動に決して屈することなく、上映を続けます」と明らかにした。
 右翼団体はこの映画の上映が始まった先月24日と29日、今月9日に横浜シネマリンの前に街宣車で集まりシュプレヒコールを叫び街宣活動を行った。ツイッターに投稿された映像をみると、彼らは「上映を中止せよ」と叫び、「映画の上映料が東アジア反日武装戦線の活動資金になっている」というデマまで広めた。7日には男性2人が映画館の中に入ってきて上映の中止と館長との面会を要求したと、映画館は説明した。館長は声明で「(このような行為は)言論の自由を妨げるだけでなく、来場者、劇場スタッフに身の危険を感じさせる行為」だとし、「到底許されるものではありません」と強調した。
 この映画がシネマリンで上映が始まった際、観客とのトークイベントに参加した映画監督の井上淳一氏は朝日新聞のインタビューで「抗議や圧力に屈することは、全ての映画、映画館に関わる。議論が起こるような映画はやめておこう、となってしまうのが一番怖い」と述べた。

キム・ソヨン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/international/japan/995518.html
韓国語原文入力:2021-05-18 02:11
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「日本、韓国「反日」現象の誤報・誇張が依然として多い」

2021年05月09日 | 個人史・地域史・世界史
https://japanese.joins.com/JArticle/278460?servcode=100&sectcode=140
「韓国経済新聞/中央日報日本語版」 2021.05.08 10:57
■【コラム】日本、韓国「反日」現象の誤報・誇張が依然として多い

【写真】日韓合同のグローバルオーディションプロジェクトで誕生したアイドルグループNiziU。 [中央フォト]

先日、韓国ドラマにはまっている日本の友人から電話がかかってきた。 ドラマを見ながら感じた疑問をいくつか尋ねてきたが、「寿司や酒が出てくるのは大丈夫なの」という質問もあった。 その瞬間、どういう意味か分からず反応できなかったところ、友人が尋ね直した。 「日本の製品が出てくるのはいけないのでは」。 韓国の視聴者が嫌がるのではという質問だった
韓国の友人に尋ねたところ「寿司はすでに韓国に定着しているので別に…」と言いながら首を傾げた。 日本でカレーライスを見てインドと思わないのと似ているのだろうか。 2019年夏に日本製品不買運動が広がった当時、ドラマに酒が出てくれば反感を抱く視聴者がいたかもしれない。
昨年7月に日本に帰国し、今年3月初めに韓国にまた来ると、日本製品不買運動がある程度落ち着いているのを感じた。 帰国中も韓国に関する報道をよく見ていたが、やはり韓国に入ってくると雰囲気を実感することができた。 一時は客がいなくなった日本料理店にも並んで待つ人がいて、日本のビールもまた売れている。 不買運動の後、新型コロナウイルス感染症が流行して日韓間の往来が難しくなり、日本では韓国の現在の雰囲気が正確に伝えられていない。

◆「NiziU、反日のため韓国デビュー白紙」報道
それだけではない。 韓国の「反日」が日本でよく報道される影響もある。 その報道が事実ならやむを得ないが、誤報も多く、実際より強調されている場合が多い。
最近、私に「韓国で福島原発処理水の放出に関してエンターテインメント側に影響を及ぼしてほしい」という依頼があった。 日本政府が福島原発処理水放出を決めたことで韓国で反日感情が激しくなり、エンタメ側にも影響があるだろうと考えているようだ。 例えば、日本の人気アニメ映画の上映が中止になったり、そのような話を期待するようだ。
私は私自身が感じるまま「エンタメ側への影響は特にないと思う。 処理水放出に反対するのは反日ではないのでは」という内容の返答をした。
日本国内でも処理水放出に反対する人は少なくない。 海が汚染すれば漁業関係者は生計が脅かされ、一般の人たちも健康を心配して水産物を安心して食べることができない。 国境を越える問題だ。 ところが韓国が反対するのを「反日」と見れば、日本対韓国の構図が形成される。 日本の人たちの中には、報道を通じて「また韓国で反日運動をする」と考えて嫌韓感情を抱く人もいる。 韓国と日本の市民が連帯できる問題なのに残念だ。
韓国の反日を報道する記事は日本で照会数が多い。 特にエンタメ関連の記事はそうだ。 例えば昨年12月、ガールズグループNiziUが反日感情のため韓国デビューが白紙になったという記事が話題になった。 メンバーが日本人だからだという。 日本の週刊誌のオンライン記事だった。 私に「本当か」と尋ねる人も多かった。 NiziUは日本ソニーミュージックと韓国JYPエンターテインメントの合同グローバルオーディションプロジェクトで誕生したグループで、メンバーは日本人だが、K-POP風のアイドルだ。 オーディションプログラムは日本で放送され、日本でデビューする前から人気があった。
ところが韓国では反日感情が作動したというより、NiziUを知らない人が多いためそうなったようだ。 韓国でデビューすることになっていたのか記事を探しても確認できなかった。 私が見る限り誤報だ。 反論記事を書いたりしたが、NiziUが韓国の反日感情のためにデビューできずかわいそうだと考える日本人も多いだろう。
いったい「反日」とは何だろうか。 最近、反日について考える機会があった。 日本では4月末から5月初めまで「ゴールデンウィーク」連休だ。 今年は新型コロナ感染が広がり、東京・京都・大阪・兵庫の4都府県に緊急事態宣言が発令され、家で過ごす人も多いようだ。 休館する映画館も多い中、ミニシアター(芸術映画館)の中には給付金も受けられず営業を続けているところもある。 こうした厳しい状況の中、ミニシアターで話題になった韓国映画がある。 キム・ミレ監督のドキュメンタリー映画『東アジア反日武装戦線』(日本タイトル『狼をさがして』)だ。 東アジア反日武装戦線は1970年代の三菱重工業爆破事件など連続企業爆破事件を起こした日本左翼グループだ。 日本帝国主義による植民地支配や労働搾取を批判する目的だったが、過激な行動のため多くの死傷者が発生し、日本ではダブー視する事件となっている。
私はキム監督と日本の配給会社が最初にミーティングをする時から通訳を務めた。 実際、1982年生まれの私はよく知らない事件だったが、日本の記者らのインタビューを通訳しながら大きな関心に驚いた。 もともとキム監督は「(日本では)関係者らを対象に上映会をしたい」と劇場公開まで期待していなかったが、多くのメディアが報道し、30館近い映画館で上映されることになった。

◆反日・嫌韓を利用する政治家・メディアを警戒
日本の記者らはまず「なぜ韓国の監督が日本の事件を素材に映画を制作したのか」と尋ねた。 ところがキム監督は基本的に韓国の観客を考えて作ったという。 「東アジア反日武装戦線を通じて韓国の加害についても考えることになった」と伝えた。 日本で日本人が日本の加害について批判する構図を見て、「それまで韓国は被害国とばかり考えていたが、加害国であるかもしれないという考えになった」ということだ。 例えば東南アジアに進出した韓国企業による労働搾取など、韓国人が考えるべき韓国の加害もあると考えたのが、キム監督がこの映画を作った理由の一つだ。
ある日本の記者はキム監督に対し、東アジア反日武装戦線の反日の意味を尋ねた。 キム監督は「日本帝国主義に反対すること」と答えた。 日本では最近、日本政府に批判的な話をすれば「反日」として売国奴扱いされる雰囲気があるが「それが本当に反日だろうか」と考えになった。 日本の記者と観客がこの映画に関心を持つのは、テロという手段は間違っているが、日本帝国主義による植民地支配や労働搾取に対する批判は日本人として考え直すべき問題という意識もあるからではないだろうか。 「日本人が制作すべき映画」という記者もいた。
 東アジア反日武装戦線のメンバーの数人は北海道出身であり、アイヌ民族に対する差別が日本帝国主義に対する問題意識を抱く出発点だった。被害と加害の関係は国家と国家の構図でない場合もある。アイヌ民族の立場で見ると、日本に侵略された過去は、日本の植民地支配を受けた韓国とも似ているのかもしれない。反日武装戦線の前に「東アジア」がついたのはそのような連帯を想起させる。キム監督はそのような加害と被害の複雑さを映画で表現した。
 「反日」や「嫌韓」は両国の政治家や照会数を増やしたいメディアによって利用されやすいという事実を忘れず国家を越えた広い視野で眺めれば、こじれるだけこじれた日韓関係を解く糸口でも見えるのではないうかと思う。
            成川彩/元朝日新聞記者
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「済州4・3虐殺において米国はどんな役割を果たしたか」

2021年04月24日 | 個人史・地域史・世界史
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/39793.html
「The Hankyoreh」 2021-04-23 10:32
■[書評]済州4・3虐殺において米国はどんな役割を果たしたか
 
【写真】『4・3、米国に問う』ホ・ホジュン著(ソンイン・3万4000ウォン)//ハンギョレ新聞社

 20世紀、世界史的な熱戦が終わり、冷戦が始まった時に起きた済州(チェジュ)4・3事件は、韓国現代史においても特に痛ましい傷跡として残っている。2003年10月、盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が初めて大規模な犠牲に対する公式謝罪を行い、2018年には文在寅(ムン・ジェイン)大統領が4・3犠牲者追悼式典に出席したが、依然として4・3の性格と犠牲をめぐる論争は終わっていない。
 『4・3、米国に問う』の著者、ホ・ホジュンは、日本の植民地から解放されてから米軍占領下で起きた済州島民虐殺事件の過程で、米国がどのような役割を果たしたのかを執拗に問い続け、その痕跡を辿っていく。4・3事件が起きた1948年は、第二次世界大戦終了後、共産主義と資本主義陣営の勢力拡大に向けた対立が熾烈に繰り広げられた時期だった。米軍は地政学的に特殊な位置にある済州島を「イデオロギーの戦場」と捉えていた。5月10日に朝鮮半島の南側だけで単独政府を樹立することに反対していた済州島民の闘争は、韓国に親米政府を立てようとした米軍にとっては目の上のたんこぶのようなものだった。米軍は4・3武装蜂起の背景には北朝鮮とソ連の指図を受けた共産主義者がいるとみた。
 4・3事件に米国と米軍がどのように介入したのかを明らかにする著書や論文は、これが初めてではない。しかし、済州地域担当記者としてハンギョレに32年間勤務し、4・3問題に取り組んできた専門家ホ・ホジュンは、これまでの議論からさらに一歩踏み込む。米国の介入を明らかにするため、当時のメディア報道を発掘し、4・3当時済州島に勤めた米軍顧問官たちにも会い、当時米国が陣営間の対決の場で済州をどんな存在と認識していたのかを直接聞いた。結局「米国は済州島民の虐殺を、少なくとも幇助したか、助長したといえる」というのが彼の結論だ。

チョン・ジョンフィ記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr)
http://www.hani.co.kr/arti/culture/book/992280.html
韓国語原文入力:2021-04-23 05:00
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「北方民族研究の姜仁旭教授、「多様な北方民族の歴史研究は中国の『歴史崛起』を防ぐ代案となる」」

2021年03月12日 | 個人史・地域史・世界史
https://www.donga.com/jp/List/article/all/20210310/2490268/1/%E5%8C%97%E6%96%B9%E6%B0%91%E6%97%8F%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%81%AE%E5%A7%9C%E4%BB%81%E6%97%AD%E6%95%99%E6%8E%88%E3%80%81%E3%80%8C%E5%A4%9A%E6%A7%98%E3%81%AA%E5%8C%97%E6%96%B9%E6%B0%91%E6%97%8F%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%81%AF%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%80%8E%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%B4%9B%E8%B5%B7%E3%80%8F%E3%82%92%E9%98%B2%E3%81%90%E4%BB%A3%E6%A1%88%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%80%8D
「東亞日報」March. 10, 2021 08:07
■北方民族研究の姜仁旭教授、「多様な北方民族の歴史研究は中国の『歴史崛起』を防ぐ代案となる」
 中国黒竜江省の東北部にある面積12万平方キロメートルの三江平原では、豆満江、沿海州一帯で発掘された住居跡、土器のような遺跡が発見されている。豆満江流域で勃興した沃沮系統の文化が、三江平原まで北上した跡だ。農業をして生活した沃沮人は、北側で見つけた肥えた土地で300年間余り暮らしながら、巨大な城跡を築いた。ここでは、250あまりの城跡が見つかっており、このうち最大の城跡は風納土城の規模を上回る。
 慶熙(キョンヒ)大学史学科の姜仁旭(カン・インウク)教授が先月出版した著書「玉渚と挹婁」には、玉渚と挹婁について新たに発掘した考古学的結実が盛り込まれている。玉渚は紀元前4世紀〜西暦246年、挹婁は紀元前4世紀〜西暦559年頃に存在した北方民族だ。姜教授は10年間、ロシアや中国、韓国を行き来しながら、知られた事実が多くない北方民族の玉渚と挹婁について研究した。姜氏は最近、東亜(トンア)日報とのインタビューで、「さまざまな北方民族の歴史を研究することは、中国の歴史膨張主義を防ぐ代案になる」と語った。
 姜氏の研究で新たに知られた事実は大きく二つだ。これまで、三江平原で発見された城跡を沃沮人が建てたものだと考える研究者はほとんどいなかった。しかし、姜氏が研究したところによると、三江平原の様々な遺物は沃沮人の文化とまったく同じだった。雑穀農業に有利な地域に沿って移動した沃沮人の習性を考慮すれば、移動経路も説明可能だった。姜氏は、「この本の出版と同じ時期に三江平原を研究する中国学者たちも、この城跡の主人を沃沮人と認めた」と説明した。
 中国黒竜江の下流から松花江流域にかけての挹婁地域で、紀元前4世紀に製作されたと推定される鋼鉄化した鉄斧が発見されたという点も、姜氏が挙げる学問的成果だ。これは中国だけでなく、世界で最も早い時期に当たる。
 韓国内研究者がほとんどいない分野である北方民族を研究する姜氏は、「北方民族の歴史は韓国の歴史なのか」という質問を多く受けたという。氏は、「北方民族の歴史研究において、君のものと私のものを分けることは、韓国史歪曲の近道だ」とし、「歴史の多角的な流れをありのまま直視する態度が必要だ」と語った。
        チョン・チェウン記者 chan2@donga.com
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「民族統一への道を照らした「時代の不寝番」、在日評論家の鄭敬謨氏死去」

2021年02月17日 | 個人史・地域史・世界史
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/39158.html
「The Hankyoreh」  2021-02-17 11:12
■民族統一への道を照らした「時代の不寝番」、在日評論家の鄭敬謨氏死去
 「最後の亡命者」鄭敬謨氏が死去 
 横浜の自宅で老衰のため 
 1970年、朴正煕軍事政権から逃れ 
 1989年「文益煥・金日成主席会談」に同席 
 民主化以降も「自首書」求められると 
 「転向・裏切りできない」署名拒否し続け 
 昨年帰国を推進したが、コロナのため叶わず

【写真】今年1月初め、横浜市日吉の自宅で新年を迎えお酒を飲んでいる故鄭敬謨氏=家族提供//ハンギョレ新聞社

 「私が行けないわけじゃない、行かないのだ」。
 朝鮮半島分断史の悲劇を象徴する「最後の亡命者」が半世紀以上も帰国できないまま異国の地で永眠した。在日の統一運動家であり言論家の鄭敬謨(チョン・ギョンモ)氏が16日、横浜の自宅で死去した。享年97歳。
 故人の長男の鄭剛憲(チョン・ガンホン)さんはこの日、「父が昨年秋から肺炎で入退院を繰り返し、今日未明に日吉の家で死去した」と伝えた。1970年に日本に渡った鄭氏は、朴正煕独裁を批判する言論活動を広げ「政治的亡命」を選んだ。1989年に平壌(ピョンヤン)を訪問し、故文益煥(ムン・イクファン)牧師と共に金日成(キム・イルソン)主席の「4・2共同宣言」を引き出した鄭氏は、民主化以降も「国家保安法起訴中止」の壁にぶつかり、51年が過ぎても帰国できなかった。
 「順法誓約書よりもっとひどいのが自首書だ。スパイだったから自首しろってことじゃないか。私が何の過ちを犯したからといってスパイだと自認しろというのか。あの頃、文牧師がソウルに戻った時にどれほど苦役を受けたか改めて実感した。腹が立ったが、自ら怒りを抑えた。あの時言われた通りに判子を押していたらパスポートはくれただろうが、自分で自らの存在を否定し文牧師を辱め、民主化勢力全体を裏切ることはできなかった。それで終わりだった」
 2009年にハンギョレの「道を探して」で回顧録を直接執筆し、大きな反響を呼んだ故人は、2003年に韓国の情報機関が要求した「自首書」の署名を拒否したエピソードを公開し「日本の地に埋まる」という決意を見せた。
 特に「ろうそく革命」で発足した新政権が2018年の「4・27南北首脳会談」に続き、朝米首脳会談まで実現させたときは「死ぬ前に70年間の朝鮮戦争が終わる瞬間が見られるようだ」と感激していた。しかし、文在寅(ムン・ジェイン)政権の情報機関でも依然として法的手続きの解消を前提に掲げて足を引っ張ると「私が望んで金もなく出世もしなかったし、私が行かないことにしたのだから悔いはない」とし、“妥協”を拒否した。
 しかし、昨年初めにがん発病などで故人の老衰が進むと、家族や知人などを通じて法的手続きの受け入れ意思を伝えてきた。しかし今回は、新型コロナウイルスの大流行のために推進議論が先延ばしになった。ついに彼は「最後の亡命者」として残った。

【写真】1989年3月27日、平壌を訪問した鄭敬模氏が文益煥牧師と共に、北朝鮮の金日成主席と初の挨拶を交わしている=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 1924年、ソウルで敬虔なキリスト教の家の長男として生まれた故人は、慶応大学医学部に留学し、解放直前に帰国した。李承晩(イ・スンマン)政権初の国費奨学生として、米エモリー大学に留学中に朝鮮戦争が起こると、東京のマッカーサー司令部に召喚された。文益煥、パク・ヒョンギュ牧師などと共に通訳官として服務し、1951年の板門店休戦会談に陪席し「38度線」で朝鮮半島が分かたれる現場を目撃した。故人は「あの時痛感した悲哀と米国に対する怒りが、『朝鮮半島統一』という民族的課題を自ら背負い、『時代の不寝番』として生きるようにさせた」と吐露した。
 1972年、『ある韓国人のこころー朝鮮統一の夜明けに』(朝日新聞社)を皮切りに日本で著述活動をしてきた彼は、1980年代、海賊版として先に出た『断ち裂かれた山河』で韓国国内に名を知らしめた。ブルース・カミングスの『朝鮮戦争の起源』(第1巻)を日本語に翻訳している。1981年頃から日本語雑誌『シアレヒム(粒の力)』を独自発行し、言論活動を続けた鄭氏は、韓国で発行した『日本の本質を問う』『今度はアメリカが答える番だ』などの著書を通じて、私たちが知らなかったり間違っていた韓国現代史の真実を明らかにしてきた。
 2010年に「道を探して」の連載を集めた『時代の不寝番』(ハンギョレ出版社)に続き、2011年には日本語翻訳版『歴史の不寝番(ねずのばん) ー「亡命」韓国人の回想録』(藤原書店)が出版された。全10巻の(ファン・ソギョン)の大河小説『張吉山』日本語訳の出版と、生涯最後の宿題として執筆してきた『韓日古代史の秘密』は未完の遺作となった。
 遺族は慶応大学時代に下宿先の娘で縁があった同い年の日本人のである妻の中村千代子さんと息子の剛憲さん、雅英さん(立命館大学教授)。葬儀は家族葬として日本で行う予定だ。

キム・ギョンエ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
http://www.hani.co.kr/arti/society/obituary/983219.html
韓国語原文入力:2021-02-17 02:32
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