三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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5月の独立運動家は「日本人」…朝鮮を愛した2人

2023年05月01日 | 個人史・地域史・世界史
「The Hankyoreh」 2023-05-01 09:39
■5月の独立運動家は「日本人」…朝鮮を愛した2人
 朝鮮とともに日帝に対抗した 
 金子文子 と布施辰治

【写真】「5月の独立運動家」金子文子=国家報勲処提供//ハンギョレ新聞社

 国家報勲処は毎月、独立運動家を選定してその精神をたたえているが、5月の主人公は「日本人」だ。いずれも日本による強制占領期の植民地朝鮮の側に立ち、日本に立ち向かってきた人たちだ。
 朝鮮を愛した日本国籍のアナーキスト、昭和天皇暗殺を謀議し逮捕された死刑囚の金子文子氏が「5月の独立運動家」に選ばれたと、国家報勲処が30日明らかにした。「日本のシンドラー」と呼ばれた人権弁護士の布施辰治氏も同じく名を連ねた。
 1903年、横浜で生まれた金子は、数奇な家族史によって朝鮮に住んでいた叔父の養女として育った。1919年、朝鮮で3・1運動の熱気を身をもって体験した金子は、日本の実家に戻り、1922年、在日朝鮮独立運動家の朴烈(パク・ヨル)と同志かつ恋人として関係を持った。金子はアナーキストと共産主義者で構成された在日朝鮮人団体「黒濤会」に所属し、労働者の後援と親日派への報復活動、無政府主義運動を展開した。
 金子は1923年、朴烈ともに大正天皇と皇太子(昭和天皇)の暗殺を謀議した容疑で逮捕され、苦難に直面した。金子は当時、法廷尋問で「私は、天皇が私たちと少しも違うところのない同じ人間であり、決して神ではないということを立証するため、爆弾を投げ、天皇も私たちと同じように死ぬということを示そうとしたのだ」と述べた。獄中で朴烈と婚約した金子は、1926年2月に東京で開かれた初公判で白い韓服のチョゴリと黒いチマ(スカート)を着て出頭し、自身の名前を「朴文子(パク・ムンジャ)」だと明らかにした。同年3月26日の最終公判で死刑を言い渡されると、「マンセー(万歳)」と叫んだ。

【写真】東亜日報1927年1月21日付に金子文子と朴烈の法廷写真記事が掲載された=国家報勲処提供//ハンギョレ新聞社

 獄につながれ調査を受けていた頃、二人が仲良く抱き合っている正体不明の写真が流布したエピソードが有名だ。当時、裁判所が証拠確保を目的に二人の歓心を買うため写真を撮った事実が明らかになり、日本の政界では司法権の紊乱として内閣総辞職を要求するなど、後に騒動を引き起こした。これをめぐる話が、2016年の韓国映画『金子文子と朴烈』で扱われ話題にもなった。
 金子はその後、無期懲役に減刑されたが、獄中生活中の1926年7月、23才の年齢で死亡した。当時、日帝は金子の死を自殺と発表したが、今なお疑惑として残っている。金子の遺骨は朴烈の故郷である慶尚北道聞慶(ムンギョン)に埋葬され、獄死してから92年後の2018年、独立有功者に認定され、建国勲章愛国章を叙勲された。

【写真】映画『金子文子と朴烈』の一場面。左側が映画中の金子文子(チェ・ヒソ扮)//ハンギョレ新聞社
【写真】「5月の独立運動家」布施辰治=国家報勲処提供//ハンギョレ新聞社

 金子の弁護人だった布施辰治も5月の独立運動家に選ばれた。布施は後に「日本のシンドラー」と呼ばれた人権弁護士で、生涯かけて弱者のために闘ってきた。1879年、大阪で生まれた彼は、1919年の2・8独立宣言に参加した在日朝鮮人留学生を弁護し、朝鮮との連帯活動に乗りだした。布施は数多くの朝鮮人独立運動家の弁護人を自認し、天皇暗殺謀議の容疑をかけられた金子と朴烈のために法廷で闘った。金子の遺体を引き取り韓国に運んだのも布施だった。
 独立運動家を弁護する過程で、布施は1932年に法廷冒とくで弁護士資格を剥奪され、1933年には新聞紙法と郵便法違反で禁固3カ月の実刑を宣告された。日帝崩壊後にふたたび弁護士として活動した彼は、新しい平和憲法の普及と在日朝鮮人の権利を保護する闘争にまい進し、1953年に死去した。韓国政府は2004年、布施に建国勲章愛族章を追叙した。

イ・ジヘ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2023-04-30 19:25
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「ウクライナ戦争に反対して父と生き別れの危機…「絵を描いただけで…」」

2023年04月21日 | 個人史・地域史・世界史
「中央日報日本語版」 2023.04.06 11:56
■ウクライナ戦争に反対して父と生き別れの危機…「絵を描いただけで…」
 
【写真】父モスカリョフさんと娘マシャさん [ロシア人権団体OVDソーシャルメディア キャプチャー」

 ウクライナ戦争に反対する絵を描いて国際社会に反響を呼んだロシアの少女が、父と永遠に別れて児童施設に送られる危機を迎えた。
 5日(現地時間)のAP通信などによると、ロシア裁判所はマリヤ・モスカリョワさん(12、略称マシャ)に対する父セルゲイ・モスカリョフさん(54)の養育権を制限する案を議論している。
 モスカリョフさんは裁判所でロシア軍の名誉を毀損したという容疑が有罪とされ、受刑施設に2年間収監される予定だ。
 マシャさんはモスカリョフさんの養育権が制限されれば、福祉当局の処分に基づき児童施設に強制的に送られ、家族なしに暮らす可能性が高い。マシャさんはこれまで父と2人で生活してきた。マシャさんの母は別に暮らしてから7年以上も連絡がないという。
 マシャさんは昨年4月、美術の授業でウクライナで戦うロシア軍を支持する絵を描く課題を受けた。マシャさんは他の生徒たちと違い、ウクライナの家族を絵を描いた。絵にはロシア軍のミサイルがウクライナの家族に飛び込む状況とともに「戦争反対」「ウクライナに栄光を」という言葉が書かれていた。
 これを見た教師は直ちに校長に伝え、校長は警察を呼んだ。ロシア警察はマシャさんに絵を描いた経緯を尋問した後、モスカリョフさんに対する捜査に入った。自宅は昨年12月に家宅捜索された。
 結局、モスカリョフさんは今年3月に自宅軟禁となり、マシャさんは臨時保護施設に移された。モスカリョフさんは軍名誉毀損判決の直前にベラルーシに逃走したが、逮捕された。逃走中に強行された欠席裁判で懲役2年を言い渡された。
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「日本やベトナム市民との出会い、その力は政府の態度を変えるはず」

2023年04月20日 | 個人史・地域史・世界史
「The Hankyoreh」 2023-04-19 04:22
■[寄稿]日本やベトナム市民との出会い、その力は政府の態度を変えるはず
 キム・ヒョナ|作家・ロードスコラ代表教師
 キム・ヒョナの偶然のつながり

 歴史館を見て回ったら被害女性たちとの対面。日本の訪問客たちは正座して静かに生存者の声を聞いた。韓国人よりも熱心に被害生存者の話を聞いたり記録したりする彼らを見ながら、この日本人たちはどんな気持ちでこの場にいるのだろうかと、妙な感情がわいたりもした。 
 「ナワウリ」という団体で働いていた時だった。日本の市民団体としばしば交流があった。「ナヌムの家」を訪ねたり水曜デモに参加したりする日程を共にすることもあった。日本軍「慰安婦」被害女性たちが集い暮らす「ナヌムの家」は京畿道広州市退村(クァンジュシ・テチョン)にあり、庭の片隅に日本軍「慰安婦」歴史館もある。私たちが訪ねていた1998~2000年ごろはまだパク・トゥリさん、キム・スナクさんをはじめ多くの方が生きていた。
 日本軍「慰安婦」歴史館は日本軍「慰安婦」問題の全体的な流れが分かる空間で、年表や記録写真をはじめ慰安所の設置場所を記した地図などを展示することで、当時日本がどれほど組織的かつ体系的に慰安所を運営していたかを示していた。歴史館を見て回ったら被害女性たちとの対面。日本の訪問客たちは正座して静かに生存者の声を聞いた。韓国人よりも熱心に被害生存者の話を聞いたり記録したりする彼らを見ながら、この日本人たちはどんな気持ちでこの場にいるのだろうかと、妙な感情がわいたりもした。
 その答えはやがて向こうの方からやって来た。日本の市民団体「ピースボート」との縁で、ナワウリはベトナム戦争中に韓国軍によって民間人が被害にあった村をフィールドワークすることになった。ピースボートは1982年の日本による歴史教科書歪曲問題を契機として、日本で学んだ歴史は事実ではないかもしれないとの疑問を持った一群の日本の若者たちが自ら現地に行って歴史問題を確認することを目指して立ち上げた団体だ。ピースボートがベトナムに行った時はベトナム戦争中に韓国軍によって被害を受けた村を訪問し、村民の話を聞いて支援する事業をしていることを知り、私は自ら現地に行って確認しようと考えて1999年にベトナムへと向かった。信じられない話、でもあり、私たちに関連する話を日本人にされるのも何だか気まずかった。こうして私はベトナム戦争後に初めて訪ねてきた韓国人、となって彼らと出会ってしまった。
 韓国軍によって夫を失い母親を失い子を失い、体と心に深い深い傷を持つ人々がニャチャンやクイニョンやホイアンやダナンなどに住んでいた。南部から中部までゴザイ、ハミ、プオクビン、フォンニィ、フォンニャット…。各村ごとに青龍、白虎、猛虎、韓国軍に関する話が憎悪碑、慰霊碑と共にあふれていた。
 私たちは少し当惑して表情を見つめ合った。ベトナム人にとっては、「あの日」韓国軍によって村の住民たちが何の罪もないのに殺された、その後いきなり現れた韓国の若者たちであったし、私たちにとっては信じられない話だったからだ。私たち、韓国人とベトナム人、は執ようかつ激烈に記憶のパズルを合わせた。誰が死んだのか、なぜ殺したのか、南ベトナム民族解放戦線とは何か、なぜ生き残れたのか、長い長い話をしていると、村の人たちが1人また1人と集まってきた。観光地でも都会でもない静かな田舎の村に韓国人がやって来たというのはビッグニュースでもあったため、大人も子どもも話をしている場にやってきた。話は主に村長や信望のある年寄りの家で行われた。
 子どもたちは前の席から順にきちんと座り、大人たちの話を聞いたりサトウキビを噛んだりしながら、ひそひそ言葉を交わし合った。ふとした瞬間に私たちと目が合うと恥ずかしくて仕方がないといった具合だった。青年たちは関心のないふりをして後ろの方で腕を組んでこの場を見守っており、女性たちは台所と居間の境界あたりで赤ちゃんを抱いたりあやしたりしながら好奇心に満ちた目つきで傾聴していた。いつも温かいお茶が私たちの前に置かれ、時にはレモンジュースやココナッツが出された。死んだ人たちの名を呼んでみると、彼らと共に暮らした日々のしみついた記憶がついて回った。無残な遺体を収拾した話の後には生き残った者の苦しみ、死より深い悲哀が追いかけてきた。燃えてしまった家は建て直し、荒廃した田畑は耕し直せばよいが、癒えない傷、というものがあることを私たちは共有することになった。
 私は微妙な気持ちでその場に座って質問し、答え、記録し、写真を撮った。あの時の日本人の心情はこのようなものだったのだろうな、おぼろげに察することもできた。日本軍「慰安婦」問題を解決していくのには、日本の市民団体の協力と連帯が大きな力になった。日本「政府」の公式の立場とは関係なしに、多くの日本の団体や個人が日本軍「慰安婦」問題に共に苦悩し、研究し、実践した。実のところ、日本においてこの問題で活動することの重さは、韓国で活動することとは大きく異なる。彼らは日本国内の右翼と闘わなければならず、政府とも摩擦を起こさなければならない。この問題に取り組むある団体は事務所も頻繁に移し、電話番号も外部に知らせないという。絶え間ないテロによる脅迫と脅威から団体を守るためだ。そのような中でも一群の日本人が真剣にこの問題に取り組んでいる。今も。2000年に「日本軍性奴隷戦犯女性国際法廷」が東京で開催されたのも、国と国との境界を越えて正義と平和を実現することを目指す日本人たちの協力があったからだ。
 ロードスコラの学生たちとベトナムを旅した時のことだ。ダナン大学の学生たちと1日を過ごす日、午前中にハミ村を訪ねた。1968年に韓国軍による民間人虐殺が起きた場所だ。生存者のパム・ティ・ホアさんの話をみなで聞いた。ロードスコラの学生たちもダナン大学の学生たちも言葉がなかった。なぜかみな違うところを見つめていた。ぎこちなく気まずい時間が過ぎ、いずれにせよ彼らは共に時間を過ごさなければならなかった。ダナン大学の学生たちが乗ってきたバイクの後部座席に1人ずつペアを組んで乗り、好きなところに行って好きなことをしてくればよい、というのがその日のミッションだった。よそよそしく裾をつかんで後ろに乗った学生たちは、夕暮れに再び集まった時には賑やかに言葉を交わし、古い友人のように打ち解けているように見えた。抱き合ったり連絡先を共有したり、再開を約束したりプレゼントを交換したり。ある者はダナン大学の友人の家に行って昼食を一緒に作って食べ、ある者は旅行者の決して知らない地元の美味しい店に行って現地の食べ物を食べ、ある者は大学を見物し、ある者は海辺で思いっきり遊んできたという。この短い出会いは、過去を乗り越えて未来を生きていく青年たちにとって、互いを理解する糸口となるだろう。
 そういえば、ナヌムの家にも長期滞在でボランティアをしている日本の若者たちがいた。通訳や翻訳作業をしたり水曜デモに参加したり、歴史館の掃除やハルモニたちの食事準備などを韓国人たちと共にしたり。6カ月から1年以上にわたってボランティア活動をしながら、彼女たちはアジアで女性として生きることの苦悩や葛藤を分かち合ったりもしていた。
 平和と共存には出会いが必要だ。過去の記憶を解釈し、未来の時間を設計するためには、討論したり騒いだり傾聴したりして、話をあふれさせなければならない。日本であろうがベトナムであろうが北朝鮮であろうが、各界各層よ、粘り強く互いの話をもって出会うことをやめることなかれ。その力こそが政府の態度を改めさせたり変えたりすることだろう。

キム・ヒョナ|作家・ロードスコラ代表教師 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1088414.html
韓国語原文入力:2023-04-18 18:15
訳D.K




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「頭・胸を撃たれた」…イスラエル、15歳パレスチナ少年射殺

2023年04月13日 | 個人史・地域史・世界史
「中央日報日本語版」 2023.04.11 15:32
■「頭・胸を撃たれた」…イスラエル、15歳パレスチナ少年射殺

【写真】15歳のパレスチナ人の少年がヨルダン川西岸捜索作戦の過程でイスラエル軍の攻撃を受け、10日(現地時間)に死亡した。

 「中東の火薬庫」イスラエルとパレスチナの対立が続く中、イスラエル軍がヨルダン川西岸捜索作戦中に15歳のパレスチナ人の少年を射殺し、波紋が広がっている
 イスラエル保健省は10日(現地時間)、西岸地区北部エリコの難民キャンプで15歳のパレスチナの少年がイスラエル軍の銃弾を頭、胸、腹などに受けて死亡したと明らかにした。別のパレスチナ市民2人も占領軍の銃弾で負傷した。
 イスラエル軍はこの日、「特殊部隊を動員してテロ犯逮捕作戦を進める過程で暴動が起きた」とし「容疑者が爆発物と火炎瓶を投げ、銃撃を加えて反撃した」と伝えた。
 イスラエル軍はこの日、西岸北部ナブルスで対テロ作戦をする過程で将校1人と兵士1人が負傷したと明らかにした。
 昨年末、イスラエルにネタニヤフ首相が主導する超強硬右派政権が発足した中、イスラエルとパレスチナの緊張が高まる雰囲気だ。ネタニヤフ政権に入って以降、イスラエル軍の西岸捜索作戦はさらに強化された。
 この過程で武装勢力だけでなくパレスチナ民間人の犠牲者も発生したと、AP通信は伝えた。AP通信によると、今年に入って少なくとも92人のパレスチナ人がイスラエル軍の銃撃で死亡している。
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「在日コリアン排除に投影された日本の民主主義の虚像」

2023年02月19日 | 個人史・地域史・世界史
「The Hankyoreh」 2023-02-18 17:11
■[レビュー]在日コリアン排除に投影された日本の民主主義の虚像
 在日コリアンの権利闘争に献身してきた日本の知識人のインタビュー 
 韓国人被爆者の孫振斗氏、金敬得弁護士、枝川朝鮮学校など 
「在日の人権問題は、すなわち日本社会の問題」 

【写真】2001年6月5日、在日本大韓民国民団所属の在日コリアン約2千人が東京の日比谷公園で在日外国人永住者に地方参政権を認めることを求める集会を開いている=東京(日本)/聯合ニュース
【写真】『「共生」を求めて: 在日とともに歩んだ半世紀』田中宏著、中村一成編、キル・ユンヒョン訳、考えの力刊、2万2000ウォン//ハンギョレ新聞社

 田中宏・一橋大学名誉教授(86)が大学卒業後に就職したアジア文化会館は、アジア出身の留学生を支援する組織だった。日本の千円札の肖像が聖徳太子から伊藤博文に変わった1963年11月のある日、東南アジアから来た華僑の留学生が田中さんに言った。「伊藤博文は朝鮮民族の恨みを買ってハルビンで暗殺された人物でしょう。在日朝鮮人も毎日この千円札を使うのに、残酷ではないか。日ごろから政府を批判する文化人・知識人も、誰一人として千円札を批判しない。一億人が何を考えているのか薄気味悪い」
 ベトナム戦争の真っただ中だった1973年には、ある南ベトナムからの留学生が日本共産党の機関紙「赤旗」に掲載された広告を田中さんに見せて嘆いた。「インドシナ三国で普及しているフランス語を学んで、インドシナ人民と友好を」と書かれた広告だった。東大に留学していたそのベトナム人学生は、普段も東大の学生たちが自分に植民地の言語であるフランス語で話しかけてくるといい、「東大生は植民地支配について何を学んでいるのでしょうか」と問いただしたことがあった。
 そのような経験を通じて確認した「日本人とは異なるアジア人たちとの感覚のすれ違い」が、現在の田中さんを作った。フリーライターの中村一成さんの質問に田中さんが答えた本『「共生」を求めて: 在日とともに歩んだ半世紀』(韓国版:キル・ユンヒョン訳)は、田中さんが関与した在日コリアンの権利闘争の歴史を振り返り、田中さん自身の人生と在日コリアン人権運動の流れを織り交ぜている。韓国人被爆者として日本政府に治療と補償を要求するために密航してきた1970年代の孫振斗(ソン・ジンドゥ)さんの裁判から、2010年代の高校無償化で総連系の朝鮮学校を排除した処分に対する取消訴訟まで、田中さんが一生を捧げて献身してきた在日コリアンの権利闘争の足跡が記録されている。

【写真】韓国人被爆者の孫振斗氏。1971年、福岡高等裁判所=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 孫さんは1970年12月、3回目の密入国で逮捕され、懲役8カ月を宣告されたが、結核の治療のために福岡のある病院に入院することになる。治療が終わり刑務所で刑期を終えた後、韓国に送還されるところだった。孫さんから「被爆者健康手帳」制度があるという説明を聞いた田中さんは、関連する法律のどこにも国籍を日本に制限する条項がない事実を確認し、「まずは被爆者健康手帳を申請しよう」と孫さんを説得する。1971年10月に申請したが、福岡県と厚生労働省は手帳を交付しないという決定を下した。田中さんは孫さんとともに決定の取消を求める行政訴訟を提起し、最終的に勝利した。この裁判以降、韓国人被爆者の日本への「訪問治療」が可能になり、日本の領土を離れた日本人も同様に支援を受けることが可能になった。田中さんは裁判に勝った「決定的な要因は、『国籍条項』がなかったこと」だと説明する。田中さんは、自身が関与した在日コリアン権利闘争は「やはり国籍の問題に収れんしてくる」と言い、自身のこれまでの活動についてこう述べている。「国籍というものを手掛かりにして、植民地支配の清算問題というか、最近の言い回しをすればポスト植民地問題の一番の根幹を問うてきたという感じです」。
 孫さんの事件に先立つ1970年には、日立製作所の入社試験の履歴書に実名ではなく日本名である通名を使って合格した、在日2世の朴鐘碩(パク・チョンソク)さんの入社決定が取り消されることがあった。朴さんはその年の12月に民事訴訟を起こし、原告勝訴の一審判決で日立が控訴をあきらめ、これもまた目的を達成した裁判となった。日本国内で朴さんを支援する団体が結成され、韓国でも日立不買運動が広がるなどの状況が後押しした。「この裁判で勝っても負けても、自分は全然生まれ変わることができたから、むしろ日立に感謝したいぐらいだ」と朴さんは語り、裁判が終わった後には「民族差別と闘う連絡協議会」(民闘連)が結成され、1970~80年代の在日コリアン差別撤廃闘争を牽引した。

【写真】在日コリアンの弁護士第1号である金敬得弁護士が2004年11月24日、ソウル明洞のロイヤルホテルで開かれた「定住外国人の地方参政権」に関するシンポジウムで「在日同胞における国籍と地方参政権」という題で発表している//ハンギョレ新聞社

 1976年には司法試験に合格した在日コリアン2世の金敬得(キム・ギョンドク)さんが司法研修所への入所のためには日本国籍である必要があるとする最高裁の要綱に反発して記者会見を行い、請願書を提出するなどの闘争を行った結果、最終的に勝利した。金さん以前に司法試験に合格した在日コリアン12人は全員日本に帰化したが、金さんは「帰化した私が、いかなる形で朝鮮人差別の解消に関わっていけるでしょうか」として主張を曲げなかった。弁護士になった金さんは1994年、東京都保健所に勤務していた在日コリアンの鄭香均(チョン・ヒャンギュン)さんの裁判を担当した。管理職昇進試験に外国人は受験できないという決定に対抗した裁判だった。約10年も続いた結果、2005年に最終敗訴という結論が出たが、裁判に臨んだ鄭さんが話した内容は、敗訴にもかかわらず大きな響きを与えた。
 「差別に負けたくない。屈服したくない。最初にぶつかったものが闘わないと、ほかの人の門を閉ざすことになる。それで決意した」。

【写真】在日コリアンの指紋押捺の強制に抗議する市民の署名運動=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 指紋押捺拒否と枝川朝鮮学校裁判では勝利したが、外国人参政権要求と高校無償化排除の撤回などは、実を結ぶことはなかった。そうした勝利と敗北が交錯する過程を経て、田中さんは悟った。在日コリアンの問題がすなわち日本の核心の問題だという事実を。「戦後の重要な問題というものは、在日コリアンの処遇をめぐる争点から見ると、本当に丸見えです。日本の戦後の平和と民主主義というもの中身が空っぽである様子があからさまに示されていると言えます」。在日コリアンの権利をめぐる争点は「明らかに在日コリアンの人権問題だが、他方では日本社会が抱えている問題でもある」ということが田中さんの判断だ。

【写真】2017年9月13日、東京地方裁判所の前で朝鮮学校高校無償化除外措置の適法性を問う判決で敗訴の判決が出ると、弁護団が「不当判決」「朝高生の声、届かず」と書いた紙を掲げている=チョ・ギウォン記者//ハンギョレ新聞社

 一方で、「日本の外国人政策の改善は、きっと韓国にも良い影響を与えることになる。韓国の民主化に寄与するだろう」という金敬得弁護士の発言は、在日コリアンの権利闘争のもう一つの意味を呼び起こす。日本と韓国の両国の民主主義は連動され、相互に影響を与えあうという事実だ。本のタイトルが『「共生」を求めて』である理由はそこにもある。

チェ・ジェボン先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/1080092.html
韓国語原文入力:2023-02-17 09:21
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2023年1月1日に

2023年01月01日 | 個人史・地域史・世界史
 1492年1月に、ウンマ(イスラム共同体)のグラナダ王国がスペインに占領された(「レコンキスタ(再征服)」)。その7か月後、1492年8月にコロンブスが大西洋横断を開始した。
 1521年8月に、スペイン人コルテスが5万人あまりの侵略軍でメキシコのテノチティトランを占領し、民衆を大虐殺し、黄金を奪い、アステカ文明を破壊した。コルテスは、コンキスタドール(侵略者)の旗を掲げていた。
 1572年にスペイン人は、インカ帝国を占領した。それまでの半世紀間に、スペイン人は民衆を大虐殺し、黄金を奪い、インカ文明を破壊していた。
 1754年~1763年の「フレンチ・インディアン戦争」(「7年戦争」、「征服戦争」)と1763年の「ポンティアックの烽起」の後、アメリカ先住民の大地でイギリス植民者の13個の植民地が「アメリカ独立宣言」を出し、その後アメリカ合州国がつくられた。
 18世紀中期からアリューシャン・アラスカ地域に侵入したロシア人は、アレウト人を虐殺し、その大地と海を奪った。 
 1830年6月14日、フランス政府・軍は、アルジェリア侵略を開始した。 フランスの植民地とされたアルジェリアが独立したのは、1962年7月だった。
 1884年~85年のベルリン会議(アフリカ分割会議)は、ベルギー国王レオポルド2世がコンゴを私領植民地とすることを「承認」した。 その後、1908年10月までの間に、レオポルド2世の私軍は、民衆を強制労働させ、2000万人を超える人びとを殺した。
 1886年にアフリカ東南部を植民地にしたドイツの支配に抗して、1905年7月に民衆は烽起した。 ドイツ軍の武力と飢餓のために数十万人の民衆が命を失った。
 1905年~14年に、日本占領下の朝鮮で、反日義兵が中心になって独立戦争(抗日義兵戦争)。1907年8月~10年に 日本軍警は、朝鮮各地で1万7千人を越す民衆を虐殺した(朝鮮駐箚軍司令部『朝鮮暴徒討伐誌』1913年)。 
 1930年10月~31年5月に、日本占領下の台湾で、日本軍と警察が、烽起した霧社の民衆を殺戮した。 
 1931年の「9・18事変」から1945年8月までに、日本政府・日本軍・日本企業は中国・モンゴル各地で数百万人の民衆を殺害した。
 1933年1月~45年5月に、ナチス・ドイツは、数千万人の民衆を殺害した。
 1939年2月10日に海南島に奇襲上陸した日本陸海軍は、1945年8月までに多くの民衆を殺害した。その人たちの名前も人数も、いまなおほとんど明らかになっていない。
 1948年5月14日に、シオニストはパレスチナを占領し、民衆を殺害し、「イスラエル」という名の侵略国をつくり、アメリカ合衆国などの軍事力によって現在まで維持し続けている。

 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会が結成されたのは、1989年6月4日だった。 紀州鉱山の真実を明らかにする会が結成されたのは、1997年2月9日だった。 海南島近現代史研究会が結成されたのは、2007年8月5日だった。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会が海南島に行き、国民国家日本の侵略犯罪の調査を始めたのは1998年6月で、海南島近現代史研究会がはじめて海南島で調査をはじめたのは2007年9月~11月だった。
 わたしたちが、1998年からこれまで海南島で、名前を知ることができた日本政府・日本軍・日本企業に殺害された村民は、1500人ほどだ。
 その犠牲者の名を、わたしたちが知ったのは、日本軍が住民虐殺をおこなった村に建てられている追悼碑と記録文書と村人の証言によってだ。日本軍に襲撃され住民を殺された海南島の村落のうち、追悼碑が建立されている村落は多くはなく、追悼碑に犠牲者の名が記されている追悼碑は、これまでわたしたちが知ることができたのは、10か所たらずだ。
 それは、1941年4月12日~14日に日本海軍海南警備府第15 警備隊の日本兵が襲撃した文昌市重興鎮排田村・白石嶺村・昌文村・賜第村の犠牲者を追悼する碑、1941年5月13日に日本海軍佐世保第8特別陸戦隊所属部隊が襲撃して殺害した瓊海市(旧、楽会県)九曲江郷北方の波鰲村、上嶺園村、上辺嶺村の村民129人すべての名を刻んだ追悼碑、1941年6月28日に日本海軍佐世保第8特別陸戦隊に所属する烟塘守備隊の日本兵が烟塘鎮大溝村(旧、大石溝村)を襲って殺害した村民38人すべての名を刻んだ追悼碑(大溝懐寃紀念碑)、1945年4月12日に佐世保第8特別陸戦隊の日本兵が襲撃した楽会県互助郷(現、瓊海市九曲江郷)の坡村、長仙村、三古村、南橋村、雅昌村、佳文村、鳳嶺村、吉嶺村、官園村の犠牲者を追悼する碑、1945年5月2日に佐世保鎮守府第8特別陸戦隊万寧守備隊の日本兵が襲撃した万寧市万城鎮月塘村の犠牲者を追悼する碑、1945年7 月30 日に海南警備府第15 警備隊舗前守備隊の日本兵などが襲撃した文昌市羅豆郷秀田村の犠牲者を追悼する碑などだ。
 1939年2月から、日本軍は、海南島の各地の村々をくりかえし襲撃し、民衆を殺傷し、米などを略奪した。中国本土でおこなった犯罪(住民虐殺、略奪、労働強制、婦女暴行・軍隊性奴隷化……)のすべてを、日本軍は、海南島でもおこなった。
 抗日軍と民衆は、持久的に重装備の日本軍と戦いぬいた。1944年から、山岳部を中心に解放区を拡大していった(海南省政協文史資料委員会編『日軍侵瓊暴行実録』上下・続、海南出版社、1995年、1996年、参照)。日本軍が海南島全域を占領・支配したことはなかった。 

 2022年2月24日にロシア政府・軍がウクライナ侵略戦争を開始し、ウクライナ各地で、子どもを含む数多くの民衆を殺している。
 2022年~23年にウクライナでロシア政府・軍がおこなっている侵略犯罪は、ヨーロッパ人が15世紀末以後おこなってきた侵略犯罪、日本人が19世紀後半以後おこなってきた侵略犯罪、シオニストが1945年以後パレスチナでおこなってきた侵略犯罪と同じ質の犯罪だ。

 新型冠状病毒肺炎の流行に妨げられ、わたしたちは、2019年春に計画していた「現地調査」を中断してからこれまで4年間、海南島を訪問していない。
 これまで証言を聞かせていただいた海南島の人たちに応えて、国民国家日本の侵略犯罪の実態を明らかにし、日本ナショナリズムに対抗する民衆運動を少しでも深化させていくことを、2023年1月1日に記しておきたい。

            三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会
            http://www5a.biglobe.ne.jp/~kinomoto/
            紀州鉱山の真実を明らかにする会  
            http://www.kisyukouzansinjitu.org/
            海南島近現代史研究会
            http://hainanshi.org/
                         佐藤正人
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「徴集通知書が来た…韓国に難民申請したロシア青年「身の毛もよだつ時間」」

2022年11月14日 | 個人史・地域史・世界史
https://japanese.joins.com/JArticle/297681?servcode=400&sectcode=400
「中央日報日本語版」 2022.11.14 07:41
■徴集通知書が来た…韓国に難民申請したロシア青年「身の毛もよだつ時間」

【写真】イワノフさん(仮名)は出入国当局とのインタビュー後、難民審査不回付決定通知書を受け取った。[写真 韓国難民人権センター]

 「国際法から外れる間違った戦争ではないですか。受け入れることができない戦争です」。
 今年9月中旬、飛行機便を通じて韓国に入国した30代ロシア人のイワノフさん(仮名)はウクライナを侵攻したロシア政府に対して反感を持っていた。イワノフさんは中央日報との書面インタビューで今回の春の戦争勃発以降、友人と一緒に戦争反対のプラカードを持って街頭に繰り出して体験したことを「身の毛もよだつ時間」と表現した。
 韓国法務部によると、ロシア-ウクライナ戦争が始まってから今年3月から9月までの7カ月間に韓国に入国して難民申請を出したロシア人は537人。昨年までの時点で韓国に難民地位の認定を申請したロシア人が100人未満だったことに比べるとかなりの急増傾向にある。(※法務部統計で難民申請者のうちロシア人の数は少ないため「その他」に分類される。昨年5番目に多かったパキスタン人難民申請者は131人だった)。
 イワノフさんの故郷はロシア・ブリヤートだ。シベリア・バイカル湖の東にあるブリヤートは人口(約98万人)の30%ほどがモンゴル系のブリヤート人だ。モンゴルとは南で国境を接しており、高麗人(特に中央アジアに住む韓国人同胞)が多く居住する中央アジアと近接している。このためイワノフさんは韓国伝統文化を守っている高麗人の友人と幼少時から付き合ってきた。

◆部分動員令を避けて選んだ韓国行き
 大学を卒業後、最近なんとか職を見つけて会社に通い始めたイワノフさんの希望は今年2月24日のロシア-ウクライナ戦争勃発によって一瞬で打ち砕かれた。戦争が長期化しながらロシア各地で反対デモが起こり、ブリヤートでも若年層を中心に「なぜ意味のない戦争で命を落とさなくてはならないのか」という声が出てきたという。英メディアBBCなどによると、9月基準でロシア軍戦死者6000人余りのうちブリヤートなど少数民族出身者は600人余りだったが、モスクワ出身者は15人だけだったという。「もうすぐ徴集令が下されるのでは」という話が夏ごろから出回り始めた。
 イワノフさんは「このままでは強制的に戦場に連れて行かされて死ぬのではないかと思い、出国を選んだ」と話した。イワノフさんは「ブリヤート人の中から戦争死亡者が数多く出た」とし「一部メディアまで閉鎖するなどロシア国内の緊張が高まりながら政府の政策に同意しない人々が一人二人とロシアから離れ始めた」と話した。
 イワノフさんも9月初めに脱出を試みた。まず飛行機で国境を接するモンゴルに移動した後、ウランバートルから韓国行きの飛行機に乗った。「韓国に住む高麗人の友人の影響が大きかった」と話した。入国場は簡単には開かれなかった。難民申請を出したが、法務部仁川(インチョン)空港出入国外国人庁は正式な審査機会さえ与えなかった。「経済的な理由で難民認定を受けようとするなど、難民認定申請に明確な理由がない場合」に該当すると判断したためだ。

◆難民認定審査を控えていたが…
 その間にロシアの家には政府から徴集通知書が届いたという。9月21日、プーチン大統領が全体予備軍2500万人のうち30万人を徴集すると下した部分動員令の結果だった。ロシアに戻れば強制徴集されてしまう境遇だ。イワノフさんは9月29日に韓国難民人権センターのサポートを受けて「難民申請不回付決定を取り消してほしい」という訴訟を起こした。先月12日に出入国当局が決定を覆してイワノフさんを難民審査に回付することを決定して一息ついた。仁川国際空港の外に出てきたイワノフさんは韓国にいる高麗人の友人の家に身を寄せて難民認定審査を準備しているという。
 しかしイワノフさんが難民として認定されるかどうかは未知数だ。最近ロシア人の難民申請が急増しているがまだ難民地位が認められた事例はない。法務部関係者は「今年難民申請者の大部分に対する審査がまだ進行中」と話した。難民人権センターが法務部に情報公開を請求して受けた資料によると、昨年難民申請者が1次審査決定を受けるまでかかった時間は平均23.9カ月だ。新型コロナウイルス感染症(新型肺炎)等により前年に比べて審査期間が長くなったというのが法務部の説明だ。
 イワノフさんは最近、難民人権センターに「私は戦争が怖くて逃げたのではない」と繰り返し話したという。1年にわたって軍服務をした事実を強調しながらだ。イワノフさんは「異国の地で死にたくないし、支持しない政府の利益のための戦争を望んでもいない」と話した。イワノフさんは「ロシアは腐敗だらけで非民主的状況がひどい」とし「国際社会の関心が私たちに残された唯一の希望」と話した。
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「木本事件」と紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんする写真パネルと解説パネル その後

2022年11月03日 | 個人史・地域史・世界史
■「木本事件」と紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんする写真パネルと解説パネル その後■

                         2022年11月     金靜美

 昨年(2021年)10月29日に、このブログで、わたしたちの会のパネルの現状、制作過程などについて報告しました。https://blog.goo.ne.jp/kisyuhankukhainan/e/25b9890d478508d4f781b651f8fea6ea
 その報告でわたしは、パネルをあずかっている竹本昇さんが、会をやめたにもかかわらず、昨年4月30日の会からの返却要請にたいし、同日、返さないといってきたと書きました。
 現在、パネルは、どこにあるかはっきりしません。
 わたしは、パネルの原案作成者として、また、追加したパネルの制作過程のほとんどに参加したひとりとして、さらに、パネルを所有する会、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の代表・紀州鉱山の真実を明らかにする会の事務局長・海南島近現代史研究会の副会長として、あずかったものを、あずけた会の一員からの返却要請にたいし、返さないといった竹本昇さんは、この時点から、会の所有物を盗奪した、と断定します。

 わたしたちの会の所有物を盗奪した竹本昇さんは、その後このパネルを、わたしたちの会の名前を詐称し、かれらがでっちあげた「改組三会」に「渡した」ようです。その間の経緯はよくわかりませんが、2021年9月8日、竹本昇さんは、次のメールを送ってきました。
   「改組三会は、……写真パネルと解説パネルの返還を求められる筋合いはありません」。

 竹本昇さんは、わたしたちの会のパネルの盗奪者であり、「改組三会」に協力している人たちは、わたしたちの会のパネルの盗奪の共犯者とみなさざるをえません。
 さらに、同年10月20日には、金靜美あてに、「展示パネルに関する改組3会の見解」(以下、「見解」とします)という文書を、連絡先を竹本昇さんの住所として、「改組三会」名で送信してきました。
 この文書は、斎藤日出治さんと竹本昇さんが常用するやりかた、かんたんな事実確認すらせず、事実誤認、推測と思い込みを根拠に考えを組み立てるという盗奪者がじぶんを正当化するためにつくりあげた、虚偽に満ちたものですが、いくつかだけ指摘します。

 ①「竹本さん(ママ)は準備の都合上、そのパネルを毎年預かり、その都度持参しました」(「見解」)。
※竹本昇さんがパネルを展示会場から持ち帰ったのは、2015年からであり、2019年のくまの追悼集会のさい、熊野市文化交流センターでのパネル展示後、竹本昇さんが持ち帰ったままです。その後、パネル展示はおこなっていません。
 昨年10月29日に、このブログで報告しましたが、パネルは、1999年7月6日~8月29日まで、大阪人権博物館(リバティ大阪 現在は閉館)で開かれた、企画展「“木本事件”ー熊野から朝鮮人虐殺を問うー」のために、大阪人権博物館が作成した写真パネルと解説パネルが主なものです。
 企画展の終了後は、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会が、パネルのすべてを大阪人権博物館から譲り受け、金靜美が保管してきました。
 同年1999年11月の追悼集会のさい、極楽寺の本堂を借りてはじめて熊野でパネル展示をおこない、以降、2014年まで、パネル展示のたびに、金靜美が持ち運び持ち帰っていました。
 斎藤日出治さんと竹本昇さんは、じぶんたちのパネル盗奪を正当化するためのひとつとして、「毎年預かり、その都度持参」という虚偽をつくりました。

②「旧3会のキムチョンミさんが竹本さんにパネルを自分に返すように、と要求してきました。キムチョンミさんは、パネルは自分が中心になって作成したものだから自分に所有権があると言いたいようです」(「見解」)。
※わたしは、金靜美に所有権があるので金靜美個人に返却せよとはいっていません。 
 わたしたちの会のものであるから、2015年以前まで、保管していた会の責任者である、金靜美に返却せよといっているだけです。
 会をやめたものが、会の所有物を会に返却するのは、あたりまえのことです。

③「このパネルは、旧3会に属していたものですし、その作成にたずさわった者に著作権が当然あります。わたしたちはそのことを否定するわけではありません。しかし、そのパネルは、熊野における朝鮮人の追悼の運動のために使おうとするすべてのひとびとに開かれ、使用することができるものだと、わたしたちは考えます。そのことは、所有権・著作権以上に大切なことです」(「見解」)。
※②と③で指摘した「改組三会」の言い分は矛盾していることに斎藤日出治さんと竹本昇さんは気づいていなのか?! あるいはじぶんたちを正当化するために矛盾に気づかないふりをしているのか?!
 そもそも「改組三会は、……写真パネルと解説パネルの返還を求められる筋合いはありません」との強弁に、この盗奪者(たち)の卑劣さがよく表れています。
  盗奪者(たち)は、盗奪したものを、「熊野における朝鮮人の追悼の運動のために使おうとするすべてのひとびとに開かれ、使用することができるものだと、わたしたちは考えます」といっています。
 盗奪者(たち)が盗奪したパネルは、日本人の侵略責任を明らかにする、写真や文字をパネルにしたものです。
 日本人の盗奪者(たち)は、所有権・著作権がじぶんたちにないことを認めながら、つまり、盗奪を認めながら、「朝鮮人の追悼の運動のために……開かれ、使用することができるものだ」と主張しています。
 このような日本人が、日本人に殺された朝鮮人を追悼するなどということばを発すること自体、拒否すると同時に、かれらに根本的な自省を要求します。

④「パネルの使用は……旧3会だけでなく、改組3会にも使用する権利があることを認める。このことを認めたうえで、具体的にパネルをだれが管理するかは、双方の合意のうえで決定する」(「見解」)。
※盗奪者(たち)は、盗奪したものを返却せず、使用条件をつけてきました。
 侵略者たちは、侵略したさきざきで、おおくのものを略奪、盗奪、強奪しました。侵略国家の博物館、美術館……には、それらが展示されています。そして、強奪された側からの返還要請にはさまざまな理由を付けて、返還に応じないばあいがほとんどです。
 斎藤日出治さんと竹本昇さんら、わたしたちの会のパネルの盗奪者(たち)の盗奪を正当化する発想は侵略者のそれと同じです。

  盗奪者竹本昇さんとその協力者に、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会・紀州鉱山の真実を明らかにする会・海南島近現代史研究会の写真パネルと解説パネルを、ただちに返却するように求めます。
 みなさんの協力をよろしくお願いします。
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「ヤン・ヨンヒ監督「記憶を失っていく母…日本人婿に打ち明けた済州4・3」」

2022年10月23日 | 個人史・地域史・世界史
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/44898.html
「The Hankyoreh」 2022-10-22 10:43
■ヤン・ヨンヒ監督「記憶を失っていく母…日本人婿に打ち明けた済州4・3」
 [インタビュー]ドキュメンタリー『スープとイデオロギー』ヤン・ヨンヒ監督
ドキュメンタリー映画『スープとイデオロギー』のワンシーン=アットナインフィルム提供//ハンギョレ新聞社

 日本で生まれ育ち北朝鮮に渡った兄たちと残った家族の話を撮ったドキュメンタリー『ディア・ピョンヤン』(2006)と『愛しきソナ』(2011)のヤン・ヨンヒ監督が、10年ぶりとなる新作『スープとイデオロギー』(20日韓国公開)で帰ってきた。スープはヤン監督の「新郎」に母が作ってあげた鶏のスープを指しており、イデオロギーは母が胸の中に埋めていた済州(チェジュ)4・3事件に触れている。亡くなった家族(父)の空白を埋めた新しい家族と、消されていた母の時間を、家族3部作の完結編に込めた。12日、ソウル銅雀区(ドンジャクグ)の映画館アートナインでヤン監督をインタビューした。
 「母は『韓国(南)は残忍だ』という言葉を若い頃からよく口にしていました。その時は母が偏狭なだけだとばかり思っていました。ところが、母の話が少しずつ長くなり、つながっていき、なぜそう言わざるを得なかったのか、なぜ北朝鮮を希望と考えるようになったのかを理解するようになりました」。

【写真】ドキュメンタリー映画 『スープとイデオロギー』を演出したヤン・ヨンヒ監督=アットナインフィルム提供//ハンギョレ新聞社

 ヤン監督は2009年に父が亡くなった後、東京と大阪を行き来しながら、入退院を繰り返す母の世話をしていた。初めから母の証言をカメラに撮ろうとしていたのではない。「当初は、ぽつりぽつりと出てくる話が短すぎるので長編映画にする考えはありませんでした。家族の記録用か短編作品程度に使えると思っていたんです。自分の治療費まで節約して(息子がいる)北朝鮮に送金を続ける母とは、お金の問題で喧嘩した時間のほうがずっと長かった」。
 遅々として進まなかった撮影が転換点を迎えたのは、「日本人婿」(生前父が絶対に許さなかった)が結婚を許してもらうために母に挨拶を来たときだ。母は長時間煮こんだ鶏のスープを婿にごちそうした。それ以降、家に出入りして済州4・3事件に関心を持ち質問を始めた婿に、15歳の時に幼い2人の弟の手を引いて密航船に乗ることになった故郷の済州について長い話を語り始めた。
 「母には済州島に婚約者がいたという事実、彼のために命がけでガソリンまで運んだ記憶、残忍な形で亡くなった婚約者と家族と隣人の話、すべて初めて知りました」。実はヤン監督は、1990年代後半の米国留学時代、歴史学者だった恩師の夫から、解放後に済州で起きた虐殺事件について聞いたことがあると語った。「その時は、間違って理解されているようだ、おそらく1980年の光州(クァンジュ)と混同されているようだと答えたのですが、20年近くたってから、実際にそのような事件があり、母が生存者だということを知ることになりました」。

【写真】ドキュメンタリー映画『スープとイデオロギー』のワンシーン=アットナインフィルム提供//ハンギョレ新聞社

 映画には、2018年に母を連れて4・3事件70周年の犠牲者追悼式に参加するために済州を訪れたエピソードも入れた。母の初めての帰郷だった。「母は韓国に行くことを怖がっていました。もう民主化されて、4・3事件も政府が認めて、平和公園もできたのだと言っても信じませんでした」。若い頃は、北朝鮮を強く信じる母は何も知らないのだと思っていたが、韓国では銃刀で脅され追い出されるように日本に渡り、日本では数十年間差別されたことで、「心の故郷、祖国が本当に欲しかった人なんだな。つらいことがあった人ほど信じるものがなければ生きていけないけれど、母には北朝鮮が信じるものだったんだな」ということを理解した。
 とうとう帰ってきた済州で、母は言葉を失った。徐々に進行していたアルツハイマー病が急速に悪化したためだ。その姿が「『すべてを伝えたから、もうあなたたちに託した。私は忘れる』という誓いのように感じられた」とヤン監督は語った。母のカン・ジョンヒさんは1月に亡くなった。

【写真】ドキュメンタリー映画『スープとイデオロギー』のワンシーン=アットナインフィルム提供//ハンギョレ新聞社

 今回の韓国訪問に同行した夫の荒井カオルさんに出演の感想を質問したところ、「ドキュメンタリー監督と結婚する時から覚悟していた」と笑って答えた。彼は「4・3事件は日本の植民地支配の責任とも結びつく歴史だ。日本人が、外国の歴史ではなく自分の祖母や祖父につながる過去だということを映画を通じて知ってくれれば」と語った。
 映画の公開に合わせ、スクリーンで見せることができなかった撮影後の話を書いたヤン監督のエッセイ集『カメラを消して書きます』(マウムサンチェク刊、韓国で出版)も出版された。

キム・ウンヒョン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/1063651.html
韓国語原文入力:2022-10-21 08:30
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「日本の教授「日本が東学軍に犯したことを伝えるため調査に通って17年」」

2022年10月19日 | 個人史・地域史・世界史
http://japan.hani.co.kr/arti/international/44858.htm
「The Hankyoreh」 2022-10-19 08:21
■日本の教授「日本が東学軍に犯したことを伝えるため調査に通って17年」
 奈良女子大学の中塚明名誉教授 
 「東学農民軍の歴史を訪ねる旅」 
 日本の13人の市民と共に3年ぶりに訪韓 
 パク・メンス円光大学総長と2006年に開始

【写真】17日、ソウル仁寺洞のある食堂で取材に応じた中塚明教授=カン・ソンマン先任記者//ハンギョレ新聞社

 「私が広島にある海軍兵学校(士官学校)予科に入学したのが1945年4月でした。まさに米軍が沖縄に上陸した時期でした。それでもあの時、日本中から4200人の高校生が志願して海軍兵学校に入学しました。日本人はみんな愚かだったというわけです」。
 近代韓日関係研究と日帝の韓国侵略史研究の権威である奈良女子大学の中塚明名誉教授の回顧だ。今年で93歳の高齢にもかかわらず、同氏は「第17回韓日市民が共にする東学農民軍の歴史を訪ねる旅」のために17日、日本の13人の市民と共に韓国を訪れた。
 同氏と円光大学のパク・メンス総長の主導で2006年に始まったこのフィールドワークには、これまでに日本の229人の市民が参加してきた。過去2年間はコロナパンデミックによりオンライン開催となったため、現場を訪ねるのは3年ぶりだ。18日から21日までの4日間の今回の旅で訪れるのは、日清戦争の激戦地である月峯山(ウォルボンサン)、羅州(ナジュ)の東学軍鎮圧部隊駐屯地(錦城館)、井邑(チョンウプ)の無名東学農民軍慰霊塔、全ボン準(チョン・ボンジュン)旧宅、大ドゥン山(テドゥンサン)と牛禁峙(ウグムチ)の古戦場など。19日には、韓日の市民と羅州市が来年に同市に共同で建てることが決まっている東学農民軍慰霊碑の建立候補地も見学する。
 パク総長は「羅州は日本の東学鎮圧軍が駐留したため、東学軍の被害者が最も多かった。暗い歴史の震源地である羅州で韓日の和解と東アジアの平和に貢献しようとの観点から、韓日の市民が共同で慰霊碑を建てることを決めた。東学フィールドワークに参加した日本の方々を中心として1千万ウォン(約104万円)を集め、韓国市民と羅州市がそれぞれ1千万ウォンと3千万ウォン(約313万円)を分担する計画」だと述べた。
 17日に日本からの訪問団と共に取材に応じた中塚教授に、今回の旅に期待することは何かと尋ねると、同氏は「日本人が日清戦争で何をし、東学はなぜ起きたのか、日本人によく考えてもらうこと」だと答えた。そして「羅州は日本軍の東学農民虐殺の根拠地だった。今回のフィールドワークも、韓国についてよく知らない日本人に向けた教育という意味が強い」と強調した。同氏は2年前に羅州韓日学術大会で発表した文章で「東学農民革命の抗日蜂起は東アジアにおいて、帝国主義覇権体制が成立する前夜における、その覇権に対する先駆的な異議申し立てだった」と評価した。しかし日本は依然として、歴史教育において東学のことを西洋に反旗を翻したという程度にしか教えていないというのが中塚教授の指摘だ。同氏はこれまでの東学の旅で得た知見などを加え、今年8月に著書『日本と韓国・朝鮮の歴史』(高文研)の増補改訂版を20年ぶりに出版している。

【写真】中塚教授が8月に出版した『日本と韓国・朝鮮の歴史』増補改訂版//ハンギョレ新聞社

 同氏は、これまでの東学の旅の中で、全羅北道井邑で無名東学農民軍慰霊塔を見た時がもっとも忘れられないと語る。「塔に梟首(罪人の首を切って高いところにぶら下げておく刑)された農民軍兵士の顔が刻んでありました」。来年のフィールドワークはどこを訪ねたいかとの問いには、「東学農民軍は(日本軍に追われて)羅州から長興(チャンフン)、海南(へナム)、珍島(チンド)に渡った。長興と珍島には行ったが、まだ海南はフィールドワークをしていない。いつか訪ねたい」と答えた。
 一方、2018年の最高裁判決以降に悪化した韓日関係の解決策を尋ねてみた。「朝鮮半島の植民地支配が合法だったという日本政府の認識が変わらない限り、この問題は解決できません。日本は違法な植民地支配を認め、謝罪すべきです」
 近いうちに東アジアで戦争の悲劇が繰り返される可能性もあると考えるかと問うと、「よく分からない」としつつ次のように語った。「日本政府は、日本軍が過去にアジアでどんなことをしたのか、今でもよく整理できていません。中国もかつての中国ではありません」
 インタビューの最後に「1945年の日本人は愚かだったとおっしゃったが、今はどうか、賢くなったか」と尋ねると、同氏はこのように答えた。「ある程度はね」。

カン・ソンマン先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/international/japan/1063233.html
韓国語原文入力:2022-10-18 18:40
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