何子徳さん(1938年生)は、こう話しました。
「日本兵が来たとき、わたしは3歳になっていなかった。母はわたしを抱いてテーブル横
の寝台の下に隠れた。二人の兄も寝台の下に隠れた。だが、母は見つかって日本刀で切られ
て即死した。母が全身でかばってくれたが、わたしは同じ日本兵に3か所刺された。いまも
このように傷跡が残っているが、胸を2か所、右腕を1か所だ。
小さな子どもを抱きしめている母親を殺し、その子どもまで殺そうとする日本人は人間で
はない。あなたたち、日本人はどう思うか!
あのときいっしょに寝台の下に隠れた兄も二人とも殺された。うえの兄は何子錦、したの
兄は何子成。日本軍が村を襲って来たとき、父は家にいなかったので助かった。日本軍がた
くさんの村人を殺していなくなってから父が戻ってきた。殺されたとき母は40歳くらいだっ
た。
あのとき姉の何子蘭はよその家にいっていたが、そこで殺された。16歳くらいだった」。
村長(北岸村委員会委員長)によると、1941年の五・三十惨案の幸存者は、いまは、北岸村では10人たらずになってしまったそうです。2005年2月18日に、北岸村委員会は海南省民政庁に「五百人碑」の修復を申請(「関于修復“五百人碑”的申請」)したが、まだ回答がきていないといいます。
今回は、大洋村を訪ねることができませんでした。ことし10月に北岸村を再訪するとともに大洋村に行き、五・三十惨案について「調査」したいと考えています。
佐藤正人
「日本兵が来たとき、わたしは3歳になっていなかった。母はわたしを抱いてテーブル横
の寝台の下に隠れた。二人の兄も寝台の下に隠れた。だが、母は見つかって日本刀で切られ
て即死した。母が全身でかばってくれたが、わたしは同じ日本兵に3か所刺された。いまも
このように傷跡が残っているが、胸を2か所、右腕を1か所だ。
小さな子どもを抱きしめている母親を殺し、その子どもまで殺そうとする日本人は人間で
はない。あなたたち、日本人はどう思うか!
あのときいっしょに寝台の下に隠れた兄も二人とも殺された。うえの兄は何子錦、したの
兄は何子成。日本軍が村を襲って来たとき、父は家にいなかったので助かった。日本軍がた
くさんの村人を殺していなくなってから父が戻ってきた。殺されたとき母は40歳くらいだっ
た。
あのとき姉の何子蘭はよその家にいっていたが、そこで殺された。16歳くらいだった」。
村長(北岸村委員会委員長)によると、1941年の五・三十惨案の幸存者は、いまは、北岸村では10人たらずになってしまったそうです。2005年2月18日に、北岸村委員会は海南省民政庁に「五百人碑」の修復を申請(「関于修復“五百人碑”的申請」)したが、まだ回答がきていないといいます。
今回は、大洋村を訪ねることができませんでした。ことし10月に北岸村を再訪するとともに大洋村に行き、五・三十惨案について「調査」したいと考えています。
佐藤正人