■地域住民による朝鮮人・中国人虐殺
三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は、1994年に建立した追悼碑の碑文のおわりに、
「わたしたしたちは、ふたたび故郷にかえることのできなかった無念の心をわずかでも
なぐさめ、二人の虐殺の歴史的原因と責任をあきらかにするための一歩として、この碑
を建立しました
と記した。
それから、これまで、わたしたちは、この碑を根拠地として、「二人の虐殺の歴史的原因と責任」をあきらかにする運動をすすめてきた。
木本虐殺(熊野虐殺)は、木本町(現、熊野市)地域にすむ日本人が朝鮮人を襲撃し殺害した「事件」である。木本虐殺の2年4か月まえの1923年9月に、関東地域にすむ日本人が朝鮮人と中国人を襲撃し、6000人をこえる人びとを殺害していた。その1年2月まえの1922年7月には、信越電力株式会社の中津川(信濃川の支流)の水力発電所工事現場で、工事を担当していた大倉組(現、大成建設)の現場監督らが、600人あまりの朝鮮人労働者のうち数10人を殺害し、遺体を川に投げ入れていた。
1923年9月には、戒厳令公布下で、日本軍・警察によって多くの朝鮮人・中国人が殺害されたが、自警団などの地域の日本人によって虐殺された人たちも少なくなかった。
木本虐殺のときにも、在郷軍人会・消防組・自警団・青年団を中心とする地域住民が竹槍、とび口、銃剣、日本刀、猟銃などをもって朝鮮人を襲撃した。
1904年の「日ロ戦争」開始後まもなく、日本人は、朝鮮の土地を大規模に買占めはじめた。日本が朝鮮を植民地とした1905年ころから、朝鮮人が低賃金で日本の建設工事で働きはじめた。1906年に開始された抗日義兵闘争(第一次朝鮮独立戦争)のとき日本軍の捕虜とされた朝鮮人のなかに、日本に連行され働かされた人もいたようである(佐藤正人「조선인의 일본「移住」의 역사와 조선독립운동」『近代韓人의 海外移住와 韓民族共同體』高麗学術文化財団、1997年11月、191頁)。
植民地朝鮮から日本に「移住」してきた朝鮮民衆を日本民衆が襲撃し虐殺した歴史は、日本民衆が日本軍兵士としてアジア太平洋の各地で民衆を襲撃し虐殺した歴史と重なっている。
■「素朴な愛町心の発露」とのたたかい
木本虐殺を、熊野市・熊野市教育委員会は、「木本町民としてはまことに素朴な愛町心の発露であった」としている(『熊野市史』中巻、熊野市1983年刊)。
李基允氏と相度氏を虐殺したことを、「愛町心の発露」としている『熊野市史』の書き換えを、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は創立直後の1989年6月5日から熊野市・熊野市教育委員会に求めている。
しかし、いまなお、熊野市・熊野市教育委員会は、応じていない。熊野市長も熊野市教育長も、この重大問題にかんして、話し合いを拒否し続けている。
朝鮮人を虐殺したことを「愛町心の発露」として肯定する思想は、「国のために」として他地域他国を侵略し、略奪、破壊、異民族を殺すことを「愛国心の発露」として肯定する思想と同じである。
熊野市・熊野市教育委員会が『熊野市史』を書きかえようとしないのは、形成期いらいの他地域他国侵略犯罪の歴史的責任をとってこなかった国民国家日本の社会的・政治的・文化的構造を反映している。
持久的に民衆運動の輪を広げ、この構造を打ち砕かなければ、国民国家日本の侵略犯罪の歴史を終わらせることはできない。
佐藤正人
三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は、1994年に建立した追悼碑の碑文のおわりに、
「わたしたしたちは、ふたたび故郷にかえることのできなかった無念の心をわずかでも
なぐさめ、二人の虐殺の歴史的原因と責任をあきらかにするための一歩として、この碑
を建立しました
と記した。
それから、これまで、わたしたちは、この碑を根拠地として、「二人の虐殺の歴史的原因と責任」をあきらかにする運動をすすめてきた。
木本虐殺(熊野虐殺)は、木本町(現、熊野市)地域にすむ日本人が朝鮮人を襲撃し殺害した「事件」である。木本虐殺の2年4か月まえの1923年9月に、関東地域にすむ日本人が朝鮮人と中国人を襲撃し、6000人をこえる人びとを殺害していた。その1年2月まえの1922年7月には、信越電力株式会社の中津川(信濃川の支流)の水力発電所工事現場で、工事を担当していた大倉組(現、大成建設)の現場監督らが、600人あまりの朝鮮人労働者のうち数10人を殺害し、遺体を川に投げ入れていた。
1923年9月には、戒厳令公布下で、日本軍・警察によって多くの朝鮮人・中国人が殺害されたが、自警団などの地域の日本人によって虐殺された人たちも少なくなかった。
木本虐殺のときにも、在郷軍人会・消防組・自警団・青年団を中心とする地域住民が竹槍、とび口、銃剣、日本刀、猟銃などをもって朝鮮人を襲撃した。
1904年の「日ロ戦争」開始後まもなく、日本人は、朝鮮の土地を大規模に買占めはじめた。日本が朝鮮を植民地とした1905年ころから、朝鮮人が低賃金で日本の建設工事で働きはじめた。1906年に開始された抗日義兵闘争(第一次朝鮮独立戦争)のとき日本軍の捕虜とされた朝鮮人のなかに、日本に連行され働かされた人もいたようである(佐藤正人「조선인의 일본「移住」의 역사와 조선독립운동」『近代韓人의 海外移住와 韓民族共同體』高麗学術文化財団、1997年11月、191頁)。
植民地朝鮮から日本に「移住」してきた朝鮮民衆を日本民衆が襲撃し虐殺した歴史は、日本民衆が日本軍兵士としてアジア太平洋の各地で民衆を襲撃し虐殺した歴史と重なっている。
■「素朴な愛町心の発露」とのたたかい
木本虐殺を、熊野市・熊野市教育委員会は、「木本町民としてはまことに素朴な愛町心の発露であった」としている(『熊野市史』中巻、熊野市1983年刊)。
李基允氏と相度氏を虐殺したことを、「愛町心の発露」としている『熊野市史』の書き換えを、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は創立直後の1989年6月5日から熊野市・熊野市教育委員会に求めている。
しかし、いまなお、熊野市・熊野市教育委員会は、応じていない。熊野市長も熊野市教育長も、この重大問題にかんして、話し合いを拒否し続けている。
朝鮮人を虐殺したことを「愛町心の発露」として肯定する思想は、「国のために」として他地域他国を侵略し、略奪、破壊、異民族を殺すことを「愛国心の発露」として肯定する思想と同じである。
熊野市・熊野市教育委員会が『熊野市史』を書きかえようとしないのは、形成期いらいの他地域他国侵略犯罪の歴史的責任をとってこなかった国民国家日本の社会的・政治的・文化的構造を反映している。
持久的に民衆運動の輪を広げ、この構造を打ち砕かなければ、国民国家日本の侵略犯罪の歴史を終わらせることはできない。
佐藤正人