『万寧抗戦歳月』第1章「西截村“九・七”大惨案」には、つぎのように書かれています。
“日本海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊龍滾守備隊長松本三郎は、日本軍にたいする住民
の抵抗を抑えようとして、1939年農歴9月7日午前2時に、25人の部隊に出動命令をだした。
日本軍一曹中田、二曹田野、三曹石田、通訳官本田らは軍用車に分乗して、龍滾を出発し
た。
農歴9月7日午前3時ころは月明かりがなく暗かった。日本軍が西截村を襲ったとき、村
人の多くは熟睡していた。
二曹田野が、蘇氏の家に侵入したとき、1人の老人(男性)が眠っていた。田野はその老人
を刺殺し、寝台の下に隠れようとした男の子を3度刺して殺し、揺り篭のなかの嬰児(女の
子)を殺し、さらに老人(女性)を殺した。…………殺戮をくりかえす日本兵の顔も軍服も返
り血に染まった。
西截村は内海に近い平原にあり身を隠す山地がなかった。日本兵は村人を殺すとき、銃
は使わず、日本刀を使った。
村人は、実った稲田に逃げたが、明るくなると、稲田に残っている足跡をたどって日本兵
が追いかけてきた。稲田のなかで多くの村人が殺された。日本軍のなかに1人の台湾人がい
た。かれは、稲田に孫を抱いて隠れていた女性をみつけたが、手をくだすことができず、逃
がした。
西截村東部の東截村の村人は、異変に気づいて、すぐに村から逃げ出し、海岸にたどりつ
き、小船にのって対岸に行った。
西截村を襲ったのは、松本三郎を指揮官とする龍滾守備隊の日本兵と和楽守備隊の日本兵
だった。遠くに逃げ出した村人にたいして、日本兵は機関銃を使いはじめた”。
わたしたちは西截村に行き、9・7虐殺にかんする調査をつづけていた鍾明新さんを尋ねましたが、7年ほどまえに亡くなられていました。9・7虐殺の幸存者からくわしく聞き取りし、その証言を記録していかなければなりません。
月塘村では朱振華さんが、犠牲者1人ひとりの名をすべて確かめていましたが、西截村では、すべての犠牲者の名は文書では記録されていないようです。
佐藤正人
“日本海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊龍滾守備隊長松本三郎は、日本軍にたいする住民
の抵抗を抑えようとして、1939年農歴9月7日午前2時に、25人の部隊に出動命令をだした。
日本軍一曹中田、二曹田野、三曹石田、通訳官本田らは軍用車に分乗して、龍滾を出発し
た。
農歴9月7日午前3時ころは月明かりがなく暗かった。日本軍が西截村を襲ったとき、村
人の多くは熟睡していた。
二曹田野が、蘇氏の家に侵入したとき、1人の老人(男性)が眠っていた。田野はその老人
を刺殺し、寝台の下に隠れようとした男の子を3度刺して殺し、揺り篭のなかの嬰児(女の
子)を殺し、さらに老人(女性)を殺した。…………殺戮をくりかえす日本兵の顔も軍服も返
り血に染まった。
西截村は内海に近い平原にあり身を隠す山地がなかった。日本兵は村人を殺すとき、銃
は使わず、日本刀を使った。
村人は、実った稲田に逃げたが、明るくなると、稲田に残っている足跡をたどって日本兵
が追いかけてきた。稲田のなかで多くの村人が殺された。日本軍のなかに1人の台湾人がい
た。かれは、稲田に孫を抱いて隠れていた女性をみつけたが、手をくだすことができず、逃
がした。
西截村東部の東截村の村人は、異変に気づいて、すぐに村から逃げ出し、海岸にたどりつ
き、小船にのって対岸に行った。
西截村を襲ったのは、松本三郎を指揮官とする龍滾守備隊の日本兵と和楽守備隊の日本兵
だった。遠くに逃げ出した村人にたいして、日本兵は機関銃を使いはじめた”。
わたしたちは西截村に行き、9・7虐殺にかんする調査をつづけていた鍾明新さんを尋ねましたが、7年ほどまえに亡くなられていました。9・7虐殺の幸存者からくわしく聞き取りし、その証言を記録していかなければなりません。
月塘村では朱振華さんが、犠牲者1人ひとりの名をすべて確かめていましたが、西截村では、すべての犠牲者の名は文書では記録されていないようです。
佐藤正人