三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

西截村で 5

2007年06月20日 | 西截村
 『万寧抗戦歳月』第1章「西截村“九・七”大惨案」には、つぎのように書かれています。
   “日本海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊龍滾守備隊長松本三郎は、日本軍にたいする住民
  の抵抗を抑えようとして、1939年農歴9月7日午前2時に、25人の部隊に出動命令をだした。
   日本軍一曹中田、二曹田野、三曹石田、通訳官本田らは軍用車に分乗して、龍滾を出発し
  た。
   農歴9月7日午前3時ころは月明かりがなく暗かった。日本軍が西截村を襲ったとき、村
  人の多くは熟睡していた。
   二曹田野が、蘇氏の家に侵入したとき、1人の老人(男性)が眠っていた。田野はその老人
  を刺殺し、寝台の下に隠れようとした男の子を3度刺して殺し、揺り篭のなかの嬰児(女の
  子)を殺し、さらに老人(女性)を殺した。…………殺戮をくりかえす日本兵の顔も軍服も返
  り血に染まった。
   西截村は内海に近い平原にあり身を隠す山地がなかった。日本兵は村人を殺すとき、銃
  は使わず、日本刀を使った。
   村人は、実った稲田に逃げたが、明るくなると、稲田に残っている足跡をたどって日本兵
  が追いかけてきた。稲田のなかで多くの村人が殺された。日本軍のなかに1人の台湾人がい
  た。かれは、稲田に孫を抱いて隠れていた女性をみつけたが、手をくだすことができず、逃
  がした。
   西截村東部の東截村の村人は、異変に気づいて、すぐに村から逃げ出し、海岸にたどりつ
  き、小船にのって対岸に行った。
   西截村を襲ったのは、松本三郎を指揮官とする龍滾守備隊の日本兵と和楽守備隊の日本兵
  だった。遠くに逃げ出した村人にたいして、日本兵は機関銃を使いはじめた”。

 わたしたちは西截村に行き、9・7虐殺にかんする調査をつづけていた鍾明新さんを尋ねましたが、7年ほどまえに亡くなられていました。9・7虐殺の幸存者からくわしく聞き取りし、その証言を記録していかなければなりません。
 月塘村では朱振華さんが、犠牲者1人ひとりの名をすべて確かめていましたが、西截村では、すべての犠牲者の名は文書では記録されていないようです。
                                 佐藤正人
コメント

西截村で 4

2007年06月19日 | 西截村
 『万寧抗戦歳月』(全5章)の第1章は「西截村“九・七”大惨案」、第5章は「罕見的万寧大飢荒」です。
 日本占領末期の万寧における大飢饉にかんしては、ほかに、『万寧文史第5輯 鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』に、卓冠亜「路多凍死骨 万寧一九四四年大飢餓惨况」と蔡徳佳・文雲程・何文漢「万寧大飢荒紀実」が掲載されています。
 「路多凍死骨 万寧一九四四年大飢餓惨况」には、
   “1944年に発生した大飢饉によって、この年の冬から翌年春までの半年たらずの間に、
  万寧全県で41820人が餓死した。これは当時の万寧県総人口の1/4以上であった”
と書かれています。
 「罕見的万寧大飢荒」には、万寧県で日本侵略者によって18530人が殺され、1944年の大飢饉によって41820人が餓死した、と書かれています。
 万寧大飢饉の調査・研究は、海南島においてもあまりなされておらず、犠牲者を41820人とした調査が、いつどのようになされたのかは、はっきりしていません。

 西截村で蔡東太さんが、「両親が殺されたので、生活していくのが難しかった。わたしは、まだ7歳だったが地主の家で働いた。飢饉のとき、2番目の兄と弟が死んだ。日本兵を見つけたら殺したい」と静かな口調で言いましたが、万寧大飢饉の根本原因は、台風や旱魃や虫害などではなく、日本の海南島侵略でした。
 万寧地域でも日本軍は、1939年いらい、軍用道路や軍用施設建設に農民を強制的に働かせて農作業の時間を少なくし、多くの村を襲撃・破壊して蔡東太さんの両親のように働く人の命を奪い、農地を荒廃させ、「現地調達」と称して日本兵の食料とするためにコメや豚や牛や鶏を奪って農民の備蓄を不可能にしました。
 日本軍が、アジア太平洋戦争をふくむ他地域・他国侵略の過程でおこなった「現地調達」の実態は、まだほとんど明らかにされていません。
 ことし1月に、月塘村南方10キロほどの豊丁村で、文学山、文開吉さん、陳世華さんは、つぎのように話しました(このブログの2月3日の書きこみを見てください)。
   “1944年春にはほとんど雨がふらず、害虫が大発生した。秋には、大きな台風が3度も来
  た。1945年春には、食べるものがなくなった。日本軍が、コメや豚や鶏などを盗っていった
  ので、村では1944年春ころから餓死する人がふえてきた。豊丁村だけでなく、この付近の村
  ではどこでもそうだった。餓死するまえに腹がふくらみ、そのときなにか食べさせると、吐
  いて死ぬ。1944年秋から1945年にかけて、ねずみが増え、ノミやシラミが増え、皮膚病や疱
  瘡やコレラで苦しむ人が多くなった。
   日本軍は、自分たちの食べるコメや牛を日本から運んできてはいなかった。海南島では、
  1年に3回コメがとれるのだから、日本軍が来て海南島のコメや牛や豚や鶏や魚を食べなかっ
  たら、あんなにたくさんの人が餓死することはなかっただろう”。
                                 佐藤正人
コメント

西截村で 3

2007年06月18日 | 西截村
 蔡朝家さん(1920年生)は、
   「わたしの家は6人家族だったが、3人が日本軍に殺された。わたしは、日本軍が村に入っ
  てきたとき家の外にいて、すぐ気づいたので椰子の樹にのぼった。樹の上から、日本兵がた
  くさんの村人を殺すのを見た。椰子の樹には身体を隠すほど場所がなかったので、日本兵に
  見つかるのではないかと思って、とても怖かった。その怖さをいまでも忘れることができな
  い。あのとき見つからなかったので、いまも生きている。
   とくに強くこころに残っているのは、日本兵が蔡王海の頭を日本刀で切ったときのこと
  だ。あたりが血だらけになった。1人の日本兵が首を切ったあと、さらに、もう1人が腹を
  刺した」
と話しました。

 海南島の農村に住む50歳代以上の漢族のなかには、普通語を話したり聞きとったりできない人がすくなくありません。
 5月の13回目の海南島での「現地調査」のときに、わたしたちは、海南語だけを話す人から話を聞かせていただくことがしばしばでした。
 西截村のある和楽鎮の南隣りの后安鎮の后安村で生まれ育った林彩虹さん(「労働研修生」として日本で2年半、低賃金で働いた)が同行してくれたので、わたしたちは、海南語だけを話す人の証言をより正確に理解できたと思います。
 林彩虹さん自身も、海南語のほうが普通語より身近だと言っていました。
 西截村でも月塘村でも、聞きとりをしているとき、いつのまにか、林彩虹さんが、証言者との対話を深め、当時のことやその後のことを海南語で、聞きとりの場にいる人みんなと話し合うことがしばしばでした。
 聞きとりをしているとき、証言のリアリティは、証言者と聞きとりをする人との関係のありかたによって規定されるということを、いつも痛感します。
 蔡春究さんも蔡東太さんも蔡朝家さんも、海南語だけをつかって生きてきた人でした。
                                 佐藤正人
コメント

西截村で 2

2007年06月17日 | 西截村
 蔡春究さん(1919年生)は、
   「日本軍が村にきたとき、まだ暗かった。わたしは家にいて臼でもみをついていた。精
  米して市場で売るためだ。
   日本兵はとつぜん家に入ってきて、父と叔父ふたりを殺した。母も刀で胸を4か所刺され
  た。母はその日には死ななかったが、つぎの日に死んでしまった。
   わたしも首を切られそうになったが、必死でその日本兵をつきとばし、日本兵が落とした
  銃を拾おうとしているすきに逃げることができた」
と話しました。
 蔡春究さんの従弟の蔡東太さん(1932年生)は、
   「日本軍がきたとき、家の門のうしろに倒れるようにして隠れて助かった。父と母が殺さ
  れた。わたしをふくめて子ども5人が生き残った。母は気性の強い人だった。日本兵に抗議
  し、すぐに殺された。
   両親が殺されたので、生活していくのが難しかった。わたしは、まだ7歳だったが地主の
  家で働いた。飢饉のとき、2番目の兄と弟が死んだ。
   日本兵を見つけたら殺したい」
と話しました。                               佐藤正人 
コメント

西截村で 1

2007年06月16日 | 西截村
 5月25日に、月塘村から直線距離で北15キロほど、バスで1時間ほどの和楽鎮発興村(旧西截村)に行きました。
 蔡徳佳・林国齋「日本占領万寧始末――制造“四大屠殺惨案”紀実」(万寧県政協文史弁公室編『万寧文史第5輯 鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』1995年7月)には、
    “龍滾を拠点とする日本軍部隊の兵士100人あまりが、1939年10月19日(農歴9月7日)
   に、西截村を襲撃し、115人を殺害した”、
と書かれています。
 発行されたばかりの林承鈞・謝漢波『万寧抗戦歳月』(中共万寧市委党史研究室、2007年5月、内部発行)をもらいました。その第1章「西截村“九・七”大惨案」には、
    “農歴9月7日、日本軍は西截村を襲って大虐殺をおこなった。子どもをふくむ村民が、
   西截村で107人、東截村で21人が殺された。37人が刺されたがいのちはとりとめることが
   できた”、
と書かれています。                          佐藤正人
コメント