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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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『海南島記』

2010年10月26日 | 海南島史研究
 一九三九年二月一〇日未明、海南島北部の天尾海岸に奇襲上陸した日本軍は、その日の真昼に、首都海口に侵入した。
 この日本軍に、日本陸軍軍曹火野葦平(一九〇七年~一九六〇年)は、「軍報道員」として加わっていた。
 火野は、「今度の海南島攻略は、銃火を以ってする戦闘とともに、重大なる文化の闘いであるとの意気込みを持った」、「軍報道員として、此の度の光輝ある海南島攻略に参加致しました」と言っている(火野葦平『海南島記』改造社、一九三九年)。
 火野は、二月一〇日未明に日本軍と共に天尾海岸に上陸し、途中戦車に乗って、その日のうちに海口に侵入した。侵入直後の海口で、火野は、中野実(一九〇一年~一九七三年。日本の「文学者」。当時日本陸軍伍長)らとともに、日本軍の宣伝ポスターやチラシを街頭で張って回ったり、紙に赤鉛筆で「ヒノマル」を書いて「の主だったところに貼るように指示」したりして、「重大なる文化の闘い」をおこなった。
 火野葦平と中野実は、海南書局と出版社のカギを壊して建物を占拠し、「軍報道部」の「看板」をかけた。火野は、そのことを恥じることなく、
     「竈には火が残り、茶碗や箸が散乱し、鍋には暖い飯が残っているのは、我々
    が入る直前まで誰か居たことが歴然としていた」
と『海南島記』に書いている。その建物の中の壁には、白墨で、「打倒日本」、「打破日本帝国主義」、「中国努力打日本鬼子死了」……と書かれてあったという。
 日本のマスメディアや火野のような日本軍宣伝員が、全面的に肯定的に報道しているとき、海南島侵略に怒りを感じた日本民衆、あるいは疑問を感じた日本民衆は、どのくらいいのだろうか。
 火野は、二月一〇日夕方、市場に行き、日本軍票をつかって豚肉や野菜や豆腐を買った。
 そのときのことを、火野は、
     「私達は市場に入りこんで買い物をしたが、その物価の低廉なのに先ず驚き、
    私達がどうであろうかと思って出した軍票を、支那商人が平気な顔ですぐに取
    ったのに更に意外の感を抱いたのである」
と書いている。
 このとき、市場の人は、突然侵入してきた日本軍の兵士がつきだしてくる、見たことのない紙切れを、紙幣として受けとらざるを得なかったのではないか。
 その後も、火野は、軍票を使っている。あるレストランの店主は、火野や中野らが集団で飲み食いしたあと、軍票で支払おうとしたとき、「なんぼでもよい、どうでもいいようにしてえ下さい」と言ったという。
 軍の暴力なしには、金額が印刷された紙切れである軍票を紙幣として流通させることはできない。
 火野葦平がこのとき海南島にもちこんで使用した日本軍票は、日本軍が、一九三七年一一月から使い始めた「甲号軍用手票」であった。一九三七年七月七日の「盧溝橋事件」の後、日本軍は八月に上海に大規模に侵入した。つづいて、さらに一一月五日に杭州湾北岸の金山衛に大量の日本軍が奇襲上陸した。その二週間前の一〇月二二日に日本政府は、軍票発行を閣議決定していた。
 一九三七年一一月五日に金山衛に上陸し南京に向かった日本軍が使用した「甲号軍用手票」の裏面には、漢語で「此票一到即換正面所開日本通貨」と印刷されていた。だが、それは、偽りであった。一〇月二二日閣議で決定された「軍用手票発行要領」では、「軍票と日本通貨との引換えは当分の間行なわないものとする」とされていた(『図録 日本の貨幣 一〇』東洋経済新報社、一九七四年)。
 火野葦平は、一九三九年二月一〇日に海南島に侵入する一年三か月前、一九三七年一一月五日に日本陸軍一八師団一一四聯隊の兵士(伍長)として金山衛に上陸し、一二月一四日に南京に侵入していた。日本軍が南京で大規模な民衆虐殺を開始したのは、一二月一三日(あるいは一四日)であった。
 『海南島記』や「海南島記(十日間の報告書)」(『文芸春秋』一九三九年四月号)のなかで、火野は、海南島民衆を、「土民」、「土民達」、「五指山中に居る蕃族」と呼び、「南洋の土人に近い表情を湛えていた」と表現し、日本の侵略を阻止しようとして戦う抗日反日戦士たちを、「奥地に蟠居して居た共匪」と言っていた。
                                    佐藤正人
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