海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』下(1995年8月)に、
“1943年12月23日未明、日本海軍舞鶴第一特別陸戦隊の部隊が、儋州市和慶鎮地域の抗
日闘争を抑えようとして、和慶鎮和合村を襲撃した。このとき、353人が殺された”
と書かれています。
わたしたちは、2003年春と2006年春に、和合村を訪ねました。
2003年には、わたしたちが訪ねた前前日(3月31日)に、日本軍に襲撃されて生き残った人が亡くなったとのことでした。そのとき和合村に住む韋雪梅さん(1921年生)は、
「わたしはこの村で生まれ、結婚して隣の村にいた。それで殺されなかった。あの日、こ
この村人は、ほとんどが殺された。あれからしばらく、村は無人だった。その後、15人ぐら
いが他の村から戻ってきた。今は40戸くらい。後から来た人が多い」
と話しました。
殺された村人の遺体は、1944年になってから埋められ、墓がつくられたといいます。その近くのゴム林に住む韋邦群さん(1960年生)は、「1970年に用水路をつくったので、以前の墓を50メートルほど移した。以前の墓の骨を集めてここに埋めた。村人が清明節などには供養している」と話しました。
その和慶鎮で、山田行夫さんは、アヘン用のケシ栽培をしたといいます。
1942年に「厚生公司」の研究員となり、1943年に「厚生公司」から海南島の海南海軍特務部に派遣されることになった山田さんは、1943年7月に神戸を発って、台湾の高尾、香港を経由し、1か月ほどかかって海南島北部の黄沙港に入り、黄沙から海口に行き、洛基を経由し、9月15日に那大に到着し、そこで9か月間、ケシ栽培をしたそうです。
「海南島に着いてから、どんどん治安が悪くなった。那大では共産軍に襲撃されたことが
あった。1944年6月6日に、那大から和慶に移った。和慶では、日本軍の望楼(要塞兵舎)
に寝泊りしていた。この年、12月28日に、その望楼が襲撃された」
と、山田さんは話しました。
佐藤正人
“1943年12月23日未明、日本海軍舞鶴第一特別陸戦隊の部隊が、儋州市和慶鎮地域の抗
日闘争を抑えようとして、和慶鎮和合村を襲撃した。このとき、353人が殺された”
と書かれています。
わたしたちは、2003年春と2006年春に、和合村を訪ねました。
2003年には、わたしたちが訪ねた前前日(3月31日)に、日本軍に襲撃されて生き残った人が亡くなったとのことでした。そのとき和合村に住む韋雪梅さん(1921年生)は、
「わたしはこの村で生まれ、結婚して隣の村にいた。それで殺されなかった。あの日、こ
この村人は、ほとんどが殺された。あれからしばらく、村は無人だった。その後、15人ぐら
いが他の村から戻ってきた。今は40戸くらい。後から来た人が多い」
と話しました。
殺された村人の遺体は、1944年になってから埋められ、墓がつくられたといいます。その近くのゴム林に住む韋邦群さん(1960年生)は、「1970年に用水路をつくったので、以前の墓を50メートルほど移した。以前の墓の骨を集めてここに埋めた。村人が清明節などには供養している」と話しました。
その和慶鎮で、山田行夫さんは、アヘン用のケシ栽培をしたといいます。
1942年に「厚生公司」の研究員となり、1943年に「厚生公司」から海南島の海南海軍特務部に派遣されることになった山田さんは、1943年7月に神戸を発って、台湾の高尾、香港を経由し、1か月ほどかかって海南島北部の黄沙港に入り、黄沙から海口に行き、洛基を経由し、9月15日に那大に到着し、そこで9か月間、ケシ栽培をしたそうです。
「海南島に着いてから、どんどん治安が悪くなった。那大では共産軍に襲撃されたことが
あった。1944年6月6日に、那大から和慶に移った。和慶では、日本軍の望楼(要塞兵舎)
に寝泊りしていた。この年、12月28日に、その望楼が襲撃された」
と、山田さんは話しました。
佐藤正人