三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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『海南島三省連絡会議決議事項抄録』 5

2008年09月08日 | 海南島でのアヘン生産
 日本政府・日本軍は、海南島でも、アヘンを生産・販売し、侵略の資金をつくろうとしました。
 日本陸軍がコタバルに上陸し、日本海軍がパールハーバーを攻撃した日、1941年12月8日づけで、海南島三省連絡会議は、「海南島阿片専売制要綱」をだしました(『海南島三省連絡会議決議事項抄録』81頁~89頁)。
 そこには、つぎのように書かれていました。

 「本島阿片専売ノ目的ハ禁煙主義ニ基ク漸減方策ヲ採用シ以テ島民保健ノ向上ニ資セントス」、
 「阿片専売ノ完璧ヲ期センガ為禁烟局内ニ取締係ヲ設ケ密輸、密造、密売買等ノ取締ニ関シ警察側ニ協力ス」、
 「阿片烟膏製造ノ代行機関トシテ資本金拾万円ノ合益公司ヲ指定シ禁烟局ニ於テ定メタル規格ノ阿片烟膏ヲ製造セシム」、
 「阿片烟膏製造ニ就テハ台湾専売局ノ指導下ニ在リテ斯業ニ経験ヲ有スル株式会社南興公司ヲシテ実質的ニ参加セシメントス」、
 「台湾ニ於ケル阿片制度施行当時ニ於ケル阿片隠者ノ数ハ総人口ノ6.1%ヲ示し、今之ヲ海南島ニ適用シ吸食者ノ数ヲ推算スレバ、本島ノ帰順セル良民ハ1,750,000人(1941年8月現在)ニシテ其ノ中阿片を吸食セザル蕃人200,000人ヲ控除スレバ1,550,000人其ノ6.1%ハ9,455人トナリ、台湾ニ於ケル吸食量ハ年約302,560匁(30,256両)ナルヲ以テ、大体1ヵ年需要量ヲ30,000両、月2,500程度ニ推測セントス」(原文は「元号」使用)。
 
 海南島でのアヘン生産にかんしては、このブログの「白蓮鎮で 1~5」(2007年6月24日~6月28日)、「海南島でのアヘン生産 1~5」(2007年6月29日~7月2日)、「烈楼で」(2008年5月11日)を見てください。
                                   佐藤正人
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海南島でのアヘン生産 5

2007年07月03日 | 海南島でのアヘン生産
 山田行夫さんは、“ビデオカメラで証言を記録し、名前をだして公表してもかまわない”と言いました。わたしたちは、これまで、1945年以前にアジア太平洋で侵略犯罪をおこなった日本人から、当時具体的にどのようなことをやったのかを聞こうと試みてきましたが、ほとんどの旧日本兵は、証言を拒否したり、核心をそらす「証言」をしたりしました。
 「朝鮮村虐殺」に加担したと思われる人の名と住所を、「戦友会」から探し出し、面会を求めたことがありましたが、なんど訪ねても家人から不在だと言われました。
 山田さんのような人には、なかなか出会えません。

 1945年はじめ、日本陸海軍「中枢」は、USA軍が海南島に上陸することがありうると判断し、2月に、日本陸軍独立混成第23旅団所属兵士を、雷州半島経由で海南島に上陸させました。このとき日本陸軍は、兵士を補充するため、海南島にいた日本籍民間人を「現地召集」しました。
 山田さんは、つぎのように話しました。
   「1945年3月29日に、とつぜん召集令状が来て、4月9日に那大から海口に行き、陸軍に入
  った。
   配属されたのは台湾第3連隊第3中隊(南支派遣軍純兵団福島部隊上村隊)だった。
   4月17日午後11時にジャンクで、海口から対岸の雷州半島の海安に向かった。ジャン
クは何百隻もいたように思う。海安上陸直前にアメリカ軍の戦闘機に機銃掃射され、ジャ
  ンクから飛び降りて浅瀬を泳いだり歩いたりしてようやく上陸できた。  
   血を流した死体がいくつも海に浮かんでいた。
   海安から5キロほど歩いて竹山という村に行った。そこで兵舎に入ったが、住民の家だっ
  た。住民は逃げていなかった。大きな家だった。大隊本部のある徐聞は、そこから北10キ
  ロほどだった。
   上村隊の“初年兵”は50人ほどで、小銃班、擲弾筒班、軽機関銃班の3班にわけられ、わ
  たしは軽機関銃班に入れられた。訓練や“討伐”の日がつづいた。
   1か月ほどたったとき、ぼろぼろの服をきた40歳くらいの男の人が連れてこられ、兵舎の
  そばの樹に縛りつけられた。わたしは、海南島語がすこしわかるので、話をした。
   その人は、“近くに住んでいたが日本軍が来たので逃げたが、家においてきた薬をとりに
  もどって捕まった”と言った。
   2日ほどしてから、その人を連れて“初年兵”が、“古参兵”と1時間ほど“行軍”して、
  近くの山の中腹に行った。
   そこで、その人は目隠しをされ口を覆われ、太い樹に縛りつけられた。
   “古参兵”に命令されて、“初年兵”全員が、その人を銃剣で突き刺した。わたしは、3
  番目か4番目だった。
   約50人の“初年兵”全員に刺されて、その人の身体は裂け、頭が血のかたまりの上にのっ
  ていた。すぐに、ガソリンがかけられ、樹といっしょに焼かれた」。

                                   佐藤正人
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海南島でのアヘン生産 4

2007年07月02日 | 海南島でのアヘン生産
 山田さんは、つぎのように話しました。
   「わたしは“厚生公司”から海南海軍特務部に派遣されるかたちで、海南島に行った。当
  時の海南海軍特務部の総監は池田という人で鹿児島県出身だった。その関係で“厚生公司”
  にも鹿児島県人が多かったように思う。
   日本軍は軍事資金をアヘンによってつくった。“厚生公司”の理事長は、たかばたけよし
  ひこだった。陸軍中佐だったと思う。海南島でアヘン生産のすべてを統括していたのは中村
  三郎だった。日本が敗けたあと中村は広東で銃殺された。
   海南島では、土地に適したケシをつくるための品種改良が、わたしの主な仕事だった。
   “厚生公司”の農場は、列楼、老城、白蓮、金江、豊盈、瑞渓、土艶、那大、洛基、南
  豊、和慶にあった。わたしははじめ洛基に行き、それから那大に行き、和慶に行った。和
  慶が襲撃されてから、また那大に戻った。
   和慶には、空家がたくさんあった。日本軍がきたので村人が逃げて、無人になったのだ。
  和慶のケシ農場では、苦力が働いていた。台湾人がどこかから連れてきたいた。苦力は、空
  家で暮らした。
   那大にいたとき、舞鶴第一特別陸戦隊の部隊といっしょに、周辺の村に入って、アヘンが
  密植されていないか調査したり、委嘱栽培の実態調査をしたりした。
   “厚生公司”には金がたくさんあった。わたしは、その金をかなり自由に使うことができ
  た。月給は軍票でもらったが、わたしは、あまり使う必要はなかった。
   軍票は、貨幣というより、交換券のようなものだ。特務部が軍票の裏付け物資を三井物産
  に管理させていた。布、薬、雑貨などは、軍票がなければ手に入らないような仕組みがつく
  られていた。軍票でなんでも買えたわけではない」。
                                  佐藤正人
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海南島でのアヘン生産 3

2007年07月01日 | 海南島でのアヘン生産
 鶴第一特別陸戦隊和慶分遣隊の要塞兵舎が襲撃される前日まで、山田さんはそこに泊まっていたが、当日は会議のため那大に行っていたので、死なないですんだ、このとき、陸戦隊員3人が殺され、高さ10メートルほどの望楼の上に設置されていた機関銃を襲撃部隊が持ち去ったそうです。
   「殺された兵士は、3人とも台湾人だった。奪われたのは水冷式重機関銃で、タマが大き
  く命中率が高い機関銃だった。
   襲撃された12月は、ケシの種まき時期だった。和慶は、土地が肥えていて、ケシ栽培に適
  していた。那大の土地は、あまりよくなかったが、那大には、土地に適した在来の那大種と
  いうケシがあり、アヘンの採取量が多かった」
と山田さんは話しました。
 山田さんが海南島で「行動」した地域は、ほとんど儋県内(舞鶴第一特別陸戦隊の「管内」)でした。
 そこで山田さんは、アヘン用ケシの品種改良、野生の麻薬原料植物の調査・収集などをやり、舞鶴第一特別陸戦隊の「宣撫班」とともに「ケシ密作の摘発」もやったといいます。
 山田さんは、1943年6月から1945年3月まで1年9か月間海南島にいましたが、海南島は、「何十年にも相当する激動の人生経験をした場所」だと言いました。
 1946年3月に広東から「復員」するとき、「厳重な検査をされて、文書や写真など、一切持ち帰ることができなかったので、海口の写真などをはじめ往時の資料は何もない」とのことでした。山田さんは、広東の捕虜収容所にいるとき、手製の小さなノートに、細かな文字で、海南島でのことを思い出しながら記録しており、それを密かに持ち帰っていました。
 そのノートを見ながら、山田さんは、日時などを含め、くわしく証言してくれました。
                                   佐藤正人
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海南島でのアヘン生産 2

2007年06月30日 | 海南島でのアヘン生産
 海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』下(1995年8月)に、
   “1943年12月23日未明、日本海軍舞鶴第一特別陸戦隊の部隊が、儋州市和慶鎮地域の抗
   日闘争を抑えようとして、和慶鎮和合村を襲撃した。このとき、353人が殺された”
と書かれています。
 わたしたちは、2003年春と2006年春に、和合村を訪ねました。
 2003年には、わたしたちが訪ねた前前日(3月31日)に、日本軍に襲撃されて生き残った人が亡くなったとのことでした。そのとき和合村に住む韋雪梅さん(1921年生)は、
   「わたしはこの村で生まれ、結婚して隣の村にいた。それで殺されなかった。あの日、こ
  この村人は、ほとんどが殺された。あれからしばらく、村は無人だった。その後、15人ぐら
  いが他の村から戻ってきた。今は40戸くらい。後から来た人が多い」
と話しました。
 殺された村人の遺体は、1944年になってから埋められ、墓がつくられたといいます。その近くのゴム林に住む韋邦群さん(1960年生)は、「1970年に用水路をつくったので、以前の墓を50メートルほど移した。以前の墓の骨を集めてここに埋めた。村人が清明節などには供養している」と話しました。

 その和慶鎮で、山田行夫さんは、アヘン用のケシ栽培をしたといいます。
 1942年に「厚生公司」の研究員となり、1943年に「厚生公司」から海南島の海南海軍特務部に派遣されることになった山田さんは、1943年7月に神戸を発って、台湾の高尾、香港を経由し、1か月ほどかかって海南島北部の黄沙港に入り、黄沙から海口に行き、洛基を経由し、9月15日に那大に到着し、そこで9か月間、ケシ栽培をしたそうです。
   「海南島に着いてから、どんどん治安が悪くなった。那大では共産軍に襲撃されたことが
  あった。1944年6月6日に、那大から和慶に移った。和慶では、日本軍の望楼(要塞兵舎)
  に寝泊りしていた。この年、12月28日に、その望楼が襲撃された」
と、山田さんは話しました。
                                佐藤正人
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海南島でのアヘン生産 1

2007年06月29日 | 海南島でのアヘン生産
 「山田行夫のホームページ」 http://www.geocities.jp/pales1219/index.html に、山田さんはこう書いています。
   「私は軍隊に入る前は、海南島でアヘンの事業に携わっていた。……
    “厚生公司”という国策会社によって、中国南部の海南島で、ケシ栽培、アヘン製造の
  事業が始まり、日本のアヘン政策は「大東亜共栄圈」構想の一環として進められた。
   この厚生公司は、大東亜省や陸海軍、海南海軍特務部の支援と期待で、大きな権限を与え
  られて事業を展開した。
   私は1942年に旧制中学を出ると、東京虎ノ門に本部をおくこの厚生公司に研究生として入
  り、厚生省の機関でケシ栽培などの勉強をした。そして翌年に海南島に渡り、現地でアヘン
  事業に携わった。
   戦前にわが国がこのアヘンを国家事業として行った目的は、名目は「麻酔剤モルヒネの原
  料確保」つまり医療用ということと、「支那(中国)に多いアヘン中毒者の治療に必要」と
  いうことだったが、本音は、この事業が生み出す猛烈に膨大な利益を戦費に役立てること、
  であり、いまひとつは、中国人にアヘンを広めて………という、忌まわしい狙いが隠されていた
  かと思う。
   だから、その本拠の厚生公司は、中国側では「アヘン戦争」以来、許すことができない国
  家の仇敵機関と見なして当然だった。
   私は1945年に、既記のように陸軍に応召して海南島を離れたので、戦後、中国でアヘンに
  関連した日本人はみな戦争犯罪人として裁かれたが、私はそれを免れた。
   海南島に残っていた厚生公司の支配人中村三郎氏は、広東で裁かれて公開銃殺されたの
  だが、その中村氏が広東で銃殺されたちょうどその時、私は同じ広州で捕虜生活をしてお
  り、銃殺の現場に程近い広東大学に捕虜として収容されていたが、このことは復員してか
  ら知った」。

 わたしたちは、ことし4月末、山田さんの自宅で、話を聞かせてもらいました。
 山田さんは、1925年生まれですが、「歴史の証言」を残すのは、加害者であった自分の人生の締めくくりとしてどうしてもやらなければならないことだ、といって、長時間、くわしく話してくれました。
 山田さんは、ホームページに、
   「わが国はあの戦争では「加害者」であった。「被害者」側の(特に)中国の民衆とは、
  あの戦争の「風化」の度合いが違うはずだ。つまり、わが国では「おおむかし」のできごと
  と思っていても、中国などではまだ「きのう」のできごとと認識している人が多いに違いな
  い」
と書いています。
 わたしたちも、海南島でそのことを痛感し、2004年にドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』を制作しました。
                                 佐藤正人
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