三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島の朝鮮人兵士 24

2011年10月19日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 「軍人軍属名簿」データ番号00770519930000534には、日本海軍佐世保鎮守府と舞鶴鎮守府に関係する朝鮮人の死者の個別書類2581枚が収録されています。
 その中には、佐世保地方復員残務処理部が1949年3月1日付けで「調製」した「軍人軍属死没者調査表」などが含まれています。
 1人の死者に2枚の書類が収録されている場合もあり、データ番号00770519930000534の2581枚の書類には日本軍の軍人軍属とされて死亡した約2300人の朝鮮人の名が記録されています。
 この記録には、Aさん(1912年生。本籍:咸鏡北道鏡城郡)、Bさん(1912年生。本籍:慶尚南道釜山府)、Cさん(1908年生。本籍:慶尚南道釜山府)、Dさん(1923年生。本籍:全羅南道木浦府)、Eさん(1919年生。本籍:全羅南道済州島)についての佐世保地方復員残務処理部の書類がそれぞれ2枚ずつ含まれています。
 そこには、Aさん(「身分」:「工員」)は、1943年3月1日に佐世保鎮守府施設部に「採用」され、海南施設部におくられ1945年1月21日に海南島で「敵機の爆撃を受けた際戦死」したと書かれています。
 Bさん(「身分」:「賄長」)は、1942年8月1日に佐世保鎮守府運輸部に「採用」され、1944年9月8日に「基隆北方海面」で、「楡林運より佐運に転勤の途次昭慶丸に便乗中、敵潜水艦の雷撃を受け沈没の際消息不明」と書かれています。
 Cさん(「身分」:「工員」)は、「海南運輸部へ派遣せられ海南島佛印間物資輸送の為戒克乗組、海南島感恩県八所港を出港の侭行方不明 逃亡?」、「1945年3月25日頃海南島三亜→海口間加来沖で土民の襲撃を受け戦死(生田正吉証言)」(原文「元号」使用)と書かれています。
 Dさん(「身分」:「操舵手(傭人)」)とEさん(「身分」:「機関員(傭人)」)は、1944年3月26日に、若松丸に乗船中、「海南島方面」で、「敵機と交戦戦死」と書かれています。
                                         佐藤正人
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海南島の朝鮮人兵士 23

2011年10月18日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 佐世保市内の佐世保港が見渡せる高台に「海軍墓地」があります。そこに、1973年9月5日に日本海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の碑(「海南島忠魂碑」)が建てられ、10年後の1983年9月にその碑の左横に「佐世保鎮守府第八特別陸戦隊戦没者慰霊名碑」が建てられました。そこには、海南島で死んだ佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の軍人と軍属286人の名が出身地別に書かれています。この中に55人の台湾人の名がありますが、朝鮮人の名はありません。佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に入れられた朝鮮人の死者の人数は明らかになっていません。
 日本海軍呉鎮守府があった呉市の「海軍墓地」には、呉特別陸戦隊に所属していた海南警備府第15警備隊、第16警備隊の碑はありません。日本海軍横須賀鎮守府があった横須賀市の「海軍墓地」には、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の碑はなく、日本海軍舞鶴鎮守府があった舞鶴市の「海軍墓地」には、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の碑はありません。海南島で死んだ日本兵の名は、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属していた日本兵以外の名は、公表されていません。海南島各地で残虐な侵略犯罪をくりかえしたあと、日本に「帰還」した日本人の名も、ほとんど公表されていません。
 1946年5月に日本陸軍少将富田直亮の名で出された第23軍司令部の「状況報告」(日本防衛研究所図書館所蔵)の別表第一「華南地区第二十三軍隷属(指揮)下部隊(海軍部隊及居留民ヲ含ム)人員一覧表」には、当時、海南島にいた朝鮮人は、1966人であったとされています。
 1944年11月から日本の敗戦時まで海南警備府司令長官であった伍賀啓次郎が、1946年4月10日付けで日本政府に提出した「帰還報告書」(日本防衛研究所図書館所蔵)には、“日本敗戦時に海南島にいた朝鮮人の総数は1620人であり、そのうち軍人は175人、軍属は110人、「其ノ他」は1335人であった”、と書かれています。そこでは、第15警備隊:軍人36人・軍属2人、第16警備隊:軍人21人・軍属4人、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊:軍人52人・軍属5人、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊:軍人22人・軍属1人、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊:軍人44人、軍需部・運輸部:軍属31人、施設部:軍属5人、特務部:軍属9人、気象部:軍属1人、「朝鮮報國隊」:軍属52人・「其ノ他」606人、居留民:「其ノ他」729人とされています。
 「軍人軍属名簿」データ番号00770519930000511には、海南警備府第15警備隊に入れられた32人、第16警備隊に入れられた15人、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊に入れられた36人、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊に入れられた41人、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に入れられた16人、総数130人の朝鮮人青年の記録が含まれています。
                                        佐藤正人
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海南島の朝鮮人兵士 22

2011年10月17日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 日本政府・日本軍・日本企業によって日本占領下の海南島におくられた朝鮮人の人数ははっきりしていません。海南島で命を失わされた朝鮮人の名もほとんど明らかになっていません。
 1944年7月の『海南警備府戦時日誌』(海南警備府機密第27号ノ7)には、7月1日現在の総人数は、「士官」148、「特准」290、「下士官」2799、「兵」4535、「高等文官」117、「高等文官待遇」26、「判任文官」430、「判待」1366、「雇員」1935、「傭人」24046、計37092 と書かれています。このうちの何人が、朝鮮人、台湾人、海南島人であったかは、わかりません。
 「朝鮮報国隊」の隊員として朝鮮の監獄から海南島におくられた朝鮮人は2000人(あるいはそれ以上)と思われますが、兵士、軍属、日本企業の雇い人として海南島におくられた朝鮮人の人数は、概数すらはっきりしていません。
 1941年4月1日に鎮海海兵団に入団し日本海軍2等水兵となった第1期特別志願兵の朝鮮人青年のうち数百人が海南島におくられましたが、かれらが乗せられた船がバシー海峡で沈没し、多くの人が水死しました。
 「軍人軍属名簿」データ番号00770519930000511の中の海南島におくられた第1期特別志願兵110人の記録には、バシー海峡での死者の記録は含まれていません。また、この110人の110枚の個別記録のうち、バシー海峡での「遭難」が明記されているのは、25枚だけです。110人全員は、バシー海峡で「遭難」し、かろうじて生き残った朝鮮青年たちでした。
 昨年4月26日と6月25日に自宅で話を聞かせていただいた第1期特別志願兵だった鄭明出さんは、自分が鎭海を出発してから釜山に戻るまでの軌跡(鎮海→釜山→門司→鹿児島→基隆→高雄→東港→バシー海峡→北サンフェルナンド島→マニラ→西沙群島→カムラン湾→西貢→カムラン→貴仁→塩浦沖→塩浦→峴港→三亜→北黎→海南島発→香港着→香港発→広東着→広東発→釜山着)と当該年月日を示す手書きの「遭難明白地図」と題する地図詳細な地図をつくっていました。この「遭難明白地図」には、鎮海を出発した日が1944年8月11日、台湾の高雄に到着した日が8月29日、バシー海峡で乗っていた船が沈没した日が9月9日、海南島の三亜に到着した日が1945年7月27日、海南島を出発した日が1946年4月15日、釜山に到着した日が1946年5月1日と書かれています。
 しかし、「軍人軍属名簿」データ番号00770519930000511の中の鄭明出さんの記録には、つぎのような内容が書かれてあるだけです。

  職業 農業  
  1944年4月1日 鎮海海兵団入団 海軍2等水兵ヲ命ズ
     6月30日 横須賀第4特別陸戦隊 海軍1等水兵ヲ命ズ
  1945年5月1日 海軍上等水兵ヲ命ズ
     7月13日 佛印ツーラン憲兵隊ニ逮捕セラレ7月21日〔以下判読できない〕
           海南島海軍刑務所ニ送置
     8月3日 戦時逃亡罪ニヨリ懲役7月(2年間執行猶予)ニ処セラル
     9月1日 海軍水兵長ヲ命ズ
     9月3日 出監
     11月20日 兵籍ヲ呉鎮守府ニ変更シタルモノト看做ス
  1946年5月1日 帰還(釜山上陸推定)

 鄭明出さんが「佛印」のツーラン(現、ダナン)で逮捕されたときのことについては、このブログの2010年7月9日の「朝鮮軍人自営隊 4」をみてください。
                                        佐藤正人
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海南島の朝鮮人兵士 21

2011年10月16日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 これまで、第1期特別志願兵だった朴泰愚さん、鄭明出さん、崔永洙さんは、金永振さん、李西根さん、金成文さんは、すべて、海南島に向かっているとき、台湾とフィリピンの間のバーシ海峡で、魚雷攻撃をうけて船が沈没し、多くの人が死んだと、証言しています。このブログに2010年10月6日から12月25日まで20回連載した「海南島の朝鮮人兵士」を参照してください。
 対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会に保管されている「軍人軍属名簿」データ番号00770519930000511の3948枚の記録の中の1941年4月1日に鎮海海兵団に入団し日本海軍2等水兵となった第1期特別志願兵の110枚の記録には、つぎのように書かれています。

A(1926年生)
 1944年8月12日 門司発(豊岡丸便乗)
     9月5日 高雄発
     9月9日 バシー海峡ニ於テ便乗船沈没
     9月10日 北サンフエルナンド陸軍兵站基地ニ収容
     9月23日 基地発即日第二十一特根仮入隊
    11月11日 マニラ発(杉山丸便乗)
    11月15日 カムラン湾沖ニテ遭難 杉山丸沈没
    11月15日 第十七号掃海艇ニ救助
    11月17日 西貢着 第十一特根仮入隊
B(1925年生) 
 1944年8月12日 門司着 豊岡丸便乗 門司発
    8月29日 高雄着
    9月5日 高雄発
    9月9日 遭難 海防船ニ救助サル
    9月10日 サンフエルナンド着
    9月10日 陸軍兵站部ニ仮入隊
    9月24日 退隊 同地発(陸行)
    9月24日 マニラ着 三十一特根仮入隊
    11月11日 退隊 杉山丸便乗
    11月15日 遭難 杉山丸沈没 第17号、第18号掃海艇ニ救助サル
    11月17日 西貢着
    11月17日 十一特根仮入隊
    12月2日 退隊 勝浦丸便乗
    12月3日 西貢
    12月7日 楡林着 退船入隊
C(1925年生)
 1944年8月12日 門司着 豊岡丸便乗 門司発
    8月29日 高雄着
    9月5日 高雄発
    9月9日 遭難 第一、第二、第三海防船ニ救助サル
    9月10日 サンフエルナンド着
    9月10日 陸軍兵站部ニ仮入隊
    9月24日 退隊 同地発(陸行)
    9月24日 マニラ着 三十一特根仮入隊
    11月11日 退隊 杉山丸便乗
    11月15日 遭難 第17号、第18号掃海艇ニ救助サル
    11月17日 西貢着
    11月17日 十一特根仮入隊
    12月2日 退隊 勝浦丸便乗
    12月3日 西貢
    12月7日 楡林着 退船入隊
D(1925年生) 
 1944年8月15日 門司発 豊岡丸便乗
    9月5日 高雄発
    9月9日 バシー海峡ニ於テ便乗船豊岡丸沈没第一海防船ニ救助サル
    9月10日 サンフエルナンド陸軍兵舎ニ収容
    9月23日 退舎 三十一特根仮入隊
    11月11日 退隊 マニラ発(杉山丸便乗)
    11月15日 西沙島沖ニ於テ便乗船杉山丸沈没第十七海防艦ニ救助サル
    11月16日 西貢仮病舎ニ収容サル
    11月26日 病院船高砂丸に転院
    12月27日 別府海軍病院ニ転院
E(1927年生)
 1944年8月12日 門司発(豊岡丸便乗)
    9月4日 高雄発
    9月9日 バシー海峡ニ於遭難沈没第一海防艦ニ救助
    9月10日 サンフエルナンド陸軍兵舎ニ収容
    9月13日 バギオ第七四兵站病院に入院
    11月3日 退院
    11月3日 特設病院船牟婁丸ニ入院
    11月5日 マニラ百三病院ニ転院
    12月8日 第二氷川丸ニ転院
    12月27日 佐世保病院にニ転院
                                          佐藤正人
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海南島の朝鮮人兵士 20

2010年12月25日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 日本海軍の兵士として海南島に送りこまれた朝鮮青年は、すべて鎮海の海兵団に入団していました。
 鎮海の海兵団にかんする日本海軍文書は、ほとんど公開されていませんが、現在、防衛研究所図書館で一部が公開されている鎮海警備府司令部『鎮海警備府戦時日誌』のなかには、つぎのような記述があります。

■『鎮海警備府戦時日誌』(1944年6月)の「海兵団新兵教育」の項
 4月1日鎮海海兵団入団ノ第一期特別志願兵ハ本月末日修業ス
 皇国海軍軍人トシテ有為ノ人材ヲ養成スルヲ以テ第一義トシ……
 我ガ天壌無窮ノ国家観、八紘一宇ノ皇道精神ヲ注入シ以テ不抜ノ軍人精神ヲ心中ニ樹立セシメンコトヲ期シ……
■『鎮海警備府戦時日誌』(1944年8月)の「海兵団新兵教育」の項
 朝鮮総督府海軍兵志願者訓練所ハ7月末ヲ以テ廃止セラレ自今訓練所教育ヲ経ズシテ直ニ入団セシムルコトトナリ第二期訓練生ヨリ採用ノモノヲ第二期特別志願兵(1717名)一般志願者ヨリ採用ノモノヲ第三期特別志願兵(1750名)トシ何レモ8月1日入団教育を開始ス。

 「海軍特別志願兵令」(「勅令」第608号)が8月1日に施行され、朝鮮では、10月に最初(第一期)の「志願者」1000人が鎮海の「朝鮮総督府海軍志願兵訓練所」に入所し,6か月の「訓練」のあと、「海兵団」に入団しました。
 しかし、その後、日本政府・日本軍は、長期間「訓練」する余裕がなくなり、「朝鮮総督府海軍志願兵訓練所」を廃止し、「訓練」ぬきで、ただちに「志願者」を「海兵団」に入団させました。
                                    佐藤正人
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「海南島の同胞消息を知らせて」

2010年12月07日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 11月初めに『朝鮮新報』の「投書箱」に、金錫溶さんと李順永さんの消息を求めて投稿しました。
 文体は「である」調に変えられていますが、全文が、『朝鮮新報』14958号(2010年11月24日)に、表題をつけて掲載されました。
 このブログの10月16日、17日の「海南島同胞實情」1,2を参照してください。
                                  キム チョンミ

■「海南島の同胞消息を知らせて」
 『民衆新聞』(のちの『朝鮮新報』)16号(1946年4月15日)に「海南島同胞実情」という記事が掲載されていた。
 その記事には、日本占領下の海南島に連行され、日本敗戦後、帰国を待ち望んでいる朝鮮人の窮状を訴えるために、海南島から日本に密航してきた金錫溶さんと李順永さんが、在日本朝鮮人聯盟を訪問し、海南島にいる朝鮮人同胞の帰国の実現のために、連合軍と中国代表団に働きかけるよう依頼した、と書かれている。
 金錫溶さん(29歳)の故郷は平安北道寧辺郡鳳山面陽地洞)、李順永さん(30歳)の故郷は忠清南道牙山郡祈昌面五木里。
 わたしは、海南島近現代史研究会に所属し、海南島に強制連行された朝鮮人のことを調べている。金錫溶さんと李順永さんの消息、海南島からの同胞帰国にかんして在日本朝鮮人聯盟がどのような活動をしたのか、『民衆新聞』をひきついでいる『朝鮮新報』の読者のなかに、なにかご存知の方がいらしたら、教えていただきたい。 
                           海南島近現代史研究会 金靜美
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李西根さんの証言 3

2010年11月29日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 船は、三亜から広州に寄った。そこでも朝鮮人が乗った。1000人くらい乗った。広州からは慰安婦の女性たちも乗った。
 広州から乗った朝鮮人の総責任者は、崔徳新だった。「朝鮮士兵集訓総隊」と書いたのぼりを持って乗ってきた。広州から「朝鮮士兵集訓総隊」の人たちが乗船する前に、崔徳新とは何回も会議をした。
 船に乗っていた舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の隊員が44人いた。44人のほかに朝鮮航空の2人をいれて、46人全員の名簿をつくった。名簿の最初に「舞特会」と書き、各自の住所などを書いた。
 釜山に着くころ船の中でコレラが発生し、収まるまで上陸できなくなった。1か月ほど、船のなかで待っていた。上陸したのは、4月24日だった。
 韓国は分断されていた。38度線を越えたら、ロシア兵につかまった。背嚢を調べられた。葉巻を10本、全部とられた。「舞特会」の名簿が何かの組織の名簿だと思われ、逮捕され、海州の刑務所にいれられた。1か月ほどいれられた。名簿は没収されてしまった。
 平安南道安州の家についたのは6月だった。母は、毎日、駅に行ってわたしの帰るのを待っていたという。
 帰ってから10日もたたないときに、郡人民委員会の人が来て、明日出頭しろと言った。行ったらロシア軍の大尉がいた。女医だった。ウラジオで4年間日本語を学んだ人だった。その助手をやれと言われ、それから安州の村を病人がいないか調査して回った。そのとき、帰国するとき広州から乗った女性に再会した。わたしより2歳年上の人だった。
 2か月ほど、ロシア兵の行動や人民委員会のやりかたをみていると、自分はここでは生きておられないと思った。南に行くことにした。平壌駅にいくと、小学校のときの同級生に出会った。かれが鉄道警備の仕事をしていたので、汽車の切符を買ってもらうことができた。
 歩いて38度線を越えた。
 日本に行こうと考えて釜山に行った。そこで所持金を盗まれてしまった。
 ソウルに行き、親戚の商売の手助けをしたが、1948年に韓国軍ができたとき、海兵隊の幹部候補生になり、1950年1月14日に海軍少尉になった。
 韓国戦争が始まった6月25日には、済州島にいた。
 1950年に、4日前(11月23日)北の軍隊が砲撃した大延坪島の韓国軍の部隊長になった。
 1969年3月30日に退役し、その年の6月にベトナムのダナンに行って技術訓練所の所長になった。3年間いた。
 最初1人で南に来たが、あとから3人の弟が来た。両親とあとの兄弟は、故郷に残った。
 両親に会えないまま、64年がすぎた。
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李西根さんの証言 2

2010年11月28日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 すぐに海南島に行く船がなくて、1か月ほど、タンソンニャットにいた。
 タンソンニャットからサイゴンに行き、ちいさな中国のジャンクに乗って海南島に向かった。50人くらい乗っていた。4、5日かかって、海南島の三亜に着いた。
 三亜から汽車で、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊司令部のある那大に行った。那大に到着したのは、1944年12月だった。正月を那大で過ごしたのを覚えている。
 当時、海南島には、3個陸戦隊、2個警備隊があった。舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊、横須賀鎮守府第4陸戦隊、佐世保鎮守府第8陸戦隊、海南15警備隊、海南16警備隊。それを、3陸2警といった。3個陸戦隊、2個警備隊という意味だ。
 3個陸戦隊、2個警備隊を統括する司令部の司令官の名は、伍賀だった。海南島は、海軍の陸戦隊が占領していた。
 舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊は、舞特と言った。舞特には、朝鮮人が44人いた(歩兵が38人、主計兵が4人)。そのうち那大の本部にいたのは15人で、あとは分遣隊に行った。
 わたしは那大では、機動部隊にいた。武器は、機関銃、迫撃砲、擲弾筒、空冷銃があった。迫撃砲は4人でかついで走った。
 武器の使い方は、海南島で学んだ。
 銃をじっさいに使ったことがある。五指山のふもとに討伐に行ったときだ。交戦して、そのとき使った。
 討伐には、1個中隊で行った。そのうち、朝鮮人は2、3人だった。
 日本軍はすぐには撃たない。敵が撃ってきたら、撃つ。
 討伐に行ったのは2回だけ。交戦したのは2回だけ。戦死した者も負傷した者もいなかった。
 中国側はわからない。竹で作った掘ったて小屋みたいな家がいくつかあったが、兵隊小屋のようだった。2、30人いたようだ。黒い服を着ていて、小銃を持っていた。
 雨がはげしく降って、撤退した。
 討伐に行くと、3、4日かかる。五指山のふもとまで軍用車で行って、歩いて山に入る。道路状況がよくなくて、車では入れず、歩く。夜は、露営だ。
 わたしは、那大と澄邁を行ったり来たりした。澄邁には約2個中隊が駐屯していた。わたしは、澄邁には、1か月近くいた。
 1945年7月に東山分遣隊に行った。
 東山分遣隊の兵士は30人で、韓国人はわたしひとりだった。
 東山分遣隊で、わたしは、歩哨をやった。抗日軍の襲撃はなかった。近くにちいさな村があり、その村の名前が東山。村の近くに古城があった。
 村を巡察することもある。巡察に廻るときは、下士官2名。武装している。
 村民は、日本人か朝鮮人かわからない。朝鮮軍人はわからない。台湾人もいたが、兵士ではなく巡警だった。5人くらいいた。
 山の頂上に分遣隊の望楼があり、すぐ近くに宿所があった。望楼は3階建てで、石でつくってあったように思う。一番上には銃座があった。
 水は、井戸があってポンプでくみ上げていたように思う。主計兵が食事を作り、水をくみ上げた。
 東山にいるとき、日本が敗けた。東山の軍事施設を中国軍に引き渡して、そこにいた人たちがそのまま、加来に行った。加来には2か月いた。加来には飛行場があった。
 澄邁で武装解除されたと思う。キチットした軍服を着た中国軍の将校が来て、200人くらいを並ばせ、1人ひとりに銃や弾薬を提出させた。
 日本が敗けたあと、日本軍は、海口、瓊山、三亜の3か所の収容された。舞鶴第1特別陸戦隊と15警備隊は瓊山と海口の収容所にいれられた。台湾人の巡警は収容されなかった。
 わたしは瓊山に行った。瓊山では、中国軍が瓊山師範学校を接収して、収容所にしていた。
 収容所は、朝鮮人、日本人はいっしょだったが、朝鮮人の区域と日本人の区域は別で、鉄条網で仕切られていた。日本人が入れないようにだ。日本人は外出できなかったが、朝鮮人は自由だった。
 外出したかったら、外出願いを出した。わたしは朝鮮人の責任者だった。わたしが外出願いを中国軍の大尉に出し、サインをもらった。
 日本軍の司令官らも瓊山に収容されていた。そこに行き、伍賀中将に会った。1946年の1月か2月はじめだった。伍賀に会いに行ったとき、ベトナム沖で沈没した勝浦丸に乗っていた暗号解読の日本人女性の1人に再会した。この女性は、船が沈没しかかっているときにおびえて船から海に飛び込めずにいたので、わたしが飛び込ませた人だった。わたしが救助された第18海防艦とは別の船に救助されたらしい。
 わたしは、伍賀に、日本軍は3月に戻るのに、なぜわれわれはすぐに韓国に帰国できないのか、早く帰国できるようにしろ、と言った。伍賀は、復員計画にしたがって帰ることになっている、朝鮮人も1か月後には戻るから待て、と答えた。
 不安だし、信じることもできず、わたしは、すぐに帰国できないなら半年分の食料を渡せ、と言った。食料は、よこした。日本軍は、食料を持っていたから。
 韓国に戻るとき、瓊山に終結した人たちもいったん海口に行き、海口に終結した人たちといっしょになった。
 4月はじめに船に乗った。船は、リバティ号だった。
乗る前に中国軍の検査を受けた。毛布1枚、上着1枚、ズボン1枚、シャツ2枚、パンツ2枚、タバコなどを持って船に乗った。
 日本の軍人は1か月前に帰っていた。
 船は海口を出てから南下して、楡林に行った。楡林で、海南島の南にいた韓国人が楡林に集まっていた。その人たちが楡林で船に乗った。
 この船でいっしょに戻ったのは、軍人、一般人、徴用された人たちだった。舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の軍人は44人だった。
 鎮海から海南島に向った海軍志願兵は第1期だけで698人で、第2期、第3期を合わせると1000人以上だったが、途中船が沈没し、海南島に着いてからも死んだ人がいて、帰る船に乗っていたのは、全部で150人ほどだった。
 海南島から乗った女性は28人か30人で、慰安婦ではない女性たちだった。仲居、日本人と結婚した朝鮮人の女性など、ほとんどが日本から海南島に行った女性だった。復員計画にしたがって、日本に住んでいた人でも、朝鮮人は、朝鮮に戻った。
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李西根さんの証言 1

2010年11月27日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 きょう(11月27日)、ソウルで李西根さんに再会し、話を聞かせてもらいました。
 以下は、前回(10月5日)の証言と今回の証言を重ね合わせた記録の要約です。
 このブログの、10月5日の「金永振さんと李西根さん」と10月21日・22日の「海南島の朝鮮人兵士」11・12を参照してください。
                                佐藤正人


 平安南道安州で生まれ育った。
 1943年秋に、安州で海軍特別志願兵の試験を受けた。当時わたしの父が経済犯でつかまっており、わたしが志願しなければ父が商売できなくなるような状況だった。わたしは、男ばかり7人兄弟の長男だ。強制されるよにして志願した。平壌で身体検査と面接審問を受けた。
 “アッツ島はどこにあるか。コレヒドールはどこにあるか。日本海軍をどう思うか”などを聞かれた。
 合格したあと、どうしても行きたくないし、友だちが“どうして日本の海軍に入るのか。逃げたらいいのではないか”と言ったので、ハルビンに逃げようとした。わたしは新聞を読んでおり、アッツ島で日本軍が全滅したことを知っていた。ミッドウェーで日本海軍が大敗したことも知っていた。
 逃げようとする直前、家に警察が来て、鎮海に行くまでは家を出るなと言った。
 10月1日に海軍特別志願兵第一期生として鎮海の特別志願兵訓練所に入って、1944年3月に卒業し、鎭海海兵団に入った。鎭海海兵団は6月30日に卒業した(鎭海海兵団第一期生)。海兵団に入った韓国人は996人だった。
 7月10日に休暇があり、海南島に行く人たちだけ、700人が休暇をもらった。鎭海海兵団団長、海軍大佐さとうくにおの命令だった。2人が事故で海南島に行けず、海南島にいったのは698人だった。
 ほかの300人近くは、舞鶴とか佐世保とかに行った。
海兵隊を組織するとき、配置を決める。海兵隊の訓練が終わったとき、海南島に行くと知った。鎭海にいるときに、海南警備府舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊に配属されていた。
 海南島に行くとき、9月9日に、台湾とフィリピンの間の海で、船が魚雷で攻撃されて沈没した。助かったの300人くらいだった。フィリピンの北サンフェルナンドに上陸した。
 そこから汽車でマニラに行った。マニラで、はじめはカトリック寺院に収容された。 海軍第31特別根拠地隊に配属され、砲術科倉庫の警備兵となった。マニラからバタンガスまで何度か輸送警備した。コレヒドールがあぶなくなったのでフィリピンに残らされそうになったが、海南島の海軍から、海南島に行く予定の兵士を早く海南島に送るようにと要請があったので、海南島に行くことになった。
 11月9日に勝浦丸に乗って海南島に向かった。乗ったのは全部で300人ほどだった。勝浦丸の船倉には仕切りがつくられ、寝場所がつくられてあった。日本の下士官もいたが、ほとんどは朝鮮人兵士だった。そのなかに舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の朝鮮人兵士が52人か53人いた。勝浦丸がどこから来たのかはわからなかったが、海南島に行くという女性が4人乗っていた。暗号士だと言っていた。
 11月11日夜があけてまもなく、太陽がまだ昇っていないころ、ベトナム沖で勝浦丸が魚雷をうけて沈没した。わたしは、船が沈没する前に残っている者がいないか確かめていたので他の人たちより遅く海に飛び込んだ。何かにつかまって4~5時間漂流していたら第18海防艦に救助された。てサイゴンに上陸した。漂流しているとき、海に軍票がたくさん浮かんでいた。勝浦丸は軍票を運んでいたらしい。わたしは100円軍票と10円軍票を何枚かひろった。海防艦に乗ってからそれを煙突に貼り付けて乾かした。
 海防艦でサイゴに着き、サイゴンからタンソンニャットに行った。タンソンニャットにはフランス軍の基地があった。当時フランスは日本と友好関係にあった。フランス軍基地の向かい側に遭難した日本軍人たちの収容所があって、そこにはいった。
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金成文さん

2010年11月25日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 きょう(11月25日)、全羅南道谷城郡梧谷面の自宅で金成文さんに話を聞かせてもらいました。
 金成文さん(1928年4月生)は、“鎮海で日本海軍の特別志願兵として6か月訓練をうけて海南島に行った。海南島に行く途中、船が沈没した。そのときけがをして3か月フィリピンで入院した。海南島では、ナダイ(那大)にいた。蒋介石の軍隊と戦った”と話しました。
                           佐藤正人
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