「軍人軍属名簿」データ番号00770519930000534には、日本海軍佐世保鎮守府と舞鶴鎮守府に関係する朝鮮人の死者の個別書類2581枚が収録されています。
その中には、佐世保地方復員残務処理部が1949年3月1日付けで「調製」した「軍人軍属死没者調査表」などが含まれています。
1人の死者に2枚の書類が収録されている場合もあり、データ番号00770519930000534の2581枚の書類には日本軍の軍人軍属とされて死亡した約2300人の朝鮮人の名が記録されています。
この記録には、Aさん(1912年生。本籍:咸鏡北道鏡城郡)、Bさん(1912年生。本籍:慶尚南道釜山府)、Cさん(1908年生。本籍:慶尚南道釜山府)、Dさん(1923年生。本籍:全羅南道木浦府)、Eさん(1919年生。本籍:全羅南道済州島)についての佐世保地方復員残務処理部の書類がそれぞれ2枚ずつ含まれています。
そこには、Aさん(「身分」:「工員」)は、1943年3月1日に佐世保鎮守府施設部に「採用」され、海南施設部におくられ1945年1月21日に海南島で「敵機の爆撃を受けた際戦死」したと書かれています。
Bさん(「身分」:「賄長」)は、1942年8月1日に佐世保鎮守府運輸部に「採用」され、1944年9月8日に「基隆北方海面」で、「楡林運より佐運に転勤の途次昭慶丸に便乗中、敵潜水艦の雷撃を受け沈没の際消息不明」と書かれています。
Cさん(「身分」:「工員」)は、「海南運輸部へ派遣せられ海南島佛印間物資輸送の為戒克乗組、海南島感恩県八所港を出港の侭行方不明 逃亡?」、「1945年3月25日頃海南島三亜→海口間加来沖で土民の襲撃を受け戦死(生田正吉証言)」(原文「元号」使用)と書かれています。
Dさん(「身分」:「操舵手(傭人)」)とEさん(「身分」:「機関員(傭人)」)は、1944年3月26日に、若松丸に乗船中、「海南島方面」で、「敵機と交戦戦死」と書かれています。
佐藤正人
その中には、佐世保地方復員残務処理部が1949年3月1日付けで「調製」した「軍人軍属死没者調査表」などが含まれています。
1人の死者に2枚の書類が収録されている場合もあり、データ番号00770519930000534の2581枚の書類には日本軍の軍人軍属とされて死亡した約2300人の朝鮮人の名が記録されています。
この記録には、Aさん(1912年生。本籍:咸鏡北道鏡城郡)、Bさん(1912年生。本籍:慶尚南道釜山府)、Cさん(1908年生。本籍:慶尚南道釜山府)、Dさん(1923年生。本籍:全羅南道木浦府)、Eさん(1919年生。本籍:全羅南道済州島)についての佐世保地方復員残務処理部の書類がそれぞれ2枚ずつ含まれています。
そこには、Aさん(「身分」:「工員」)は、1943年3月1日に佐世保鎮守府施設部に「採用」され、海南施設部におくられ1945年1月21日に海南島で「敵機の爆撃を受けた際戦死」したと書かれています。
Bさん(「身分」:「賄長」)は、1942年8月1日に佐世保鎮守府運輸部に「採用」され、1944年9月8日に「基隆北方海面」で、「楡林運より佐運に転勤の途次昭慶丸に便乗中、敵潜水艦の雷撃を受け沈没の際消息不明」と書かれています。
Cさん(「身分」:「工員」)は、「海南運輸部へ派遣せられ海南島佛印間物資輸送の為戒克乗組、海南島感恩県八所港を出港の侭行方不明 逃亡?」、「1945年3月25日頃海南島三亜→海口間加来沖で土民の襲撃を受け戦死(生田正吉証言)」(原文「元号」使用)と書かれています。
Dさん(「身分」:「操舵手(傭人)」)とEさん(「身分」:「機関員(傭人)」)は、1944年3月26日に、若松丸に乗船中、「海南島方面」で、「敵機と交戦戦死」と書かれています。
佐藤正人