きょう(2010年10月1日)朝8時に、約束どおりに、ふたたび河相祚さんの家を訪ねました。あさって雨が降りそうなので、稲刈りを急がなければならないにもかかわらず、河相祚さんは、当時のことを詳しく話してくれました。
きょう午後、全羅北道茂朱郡アンソン面で、申載燮さんに話を聞かせてもらいました。
申載燮さん(1925年8月15日生)は、19歳のとき特別志願兵として鎮海の日本海軍警備府の海兵団に入り、2期生になった。2期生は200人あまりだった。半年間、「訓練」を受けた。「訓練」は苦しかった。死んだ人はいなかったが、何人かが逃亡した。ボートを漕ぐ「訓練」がいちばん辛かった。「座学」で手旗信号のことなどを教えられた。冬のある日、2期生のうち40―50人が鎮海から海南島につれていかれた。海南島では、砲台に配属された。砲台の脇に宿所があった。宿所は地下に作られていた。食堂や便所は地上にあった”と話しました。
佐藤正人
きょう午後、全羅北道茂朱郡アンソン面で、申載燮さんに話を聞かせてもらいました。
申載燮さん(1925年8月15日生)は、19歳のとき特別志願兵として鎮海の日本海軍警備府の海兵団に入り、2期生になった。2期生は200人あまりだった。半年間、「訓練」を受けた。「訓練」は苦しかった。死んだ人はいなかったが、何人かが逃亡した。ボートを漕ぐ「訓練」がいちばん辛かった。「座学」で手旗信号のことなどを教えられた。冬のある日、2期生のうち40―50人が鎮海から海南島につれていかれた。海南島では、砲台に配属された。砲台の脇に宿所があった。宿所は地下に作られていた。食堂や便所は地上にあった”と話しました。
佐藤正人