三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

世界史における1910年

2010年11月22日 | 会議
 きょう(11月22日)、ソウルで開かれた「第7回民族宗教協議会国際学術大会」で報告しました。
 国際学術大会の名称は、「庚戌國恥100周年国際学術シンポジウム」で、主題は「庚戌國恥と東北アジア平和の再建」で、わたしに与えられた小主題は「庚戌國恥と日本」です。
 ほかの報告者は、朴成寿さん(小主題、「庚戌國恥と韓国」)、申廈さん(小主題、「庚戌國恥と世界」)、宋成有さん(中国人。小主題、「庚戌國恥と中国」)です。

 わたしは、「世界史における1910年」という題で報告しましたが、はじめに、
     日本は、1896年から国民国家を形成しはじめた。
     国民国家日本の歴史は、他地域・他国侵略の歴史であり、「国恥」の歴史であ
    った。
     日本が大韓帝国を併合した1910年(庚戌年)は、加害国家日本の「国恥年」
    だが、被害国家韓国の「国恥年」ではない。
と述べ、そのことを前提として、国民国家日本の「韓国併合」は、アイヌモシリ植民地化を起点とするそれまでの国民国家日本の侵略犯罪の帰結であり、アジア太平洋戦争を経過して現在にいたる新たな国家犯罪の起点であることを、いくらか具体的に分析し、最後に、国民国家日本の「国恥の歴史」を克服する道として、つぎのように話しました。
 
 国民国家日本の歴史は、他地域・他国侵略の歴史であり、「国恥の歴史」でした。
 帝国主義諸国は、相互に植民地支配権をあらそって戦争することもありましたが、おおくの場合は相互に他の帝国主義国の植民地支配を承認し支持してきました。
 帝国主義諸国の歴史は、「国恥の歴史」でした。
 侵略諸国家・侵略諸民族による他地域・他国侵略の時代は、被侵略諸国家・被侵略諸民族の抵抗の時代でした。
この時代は、終わっていません。
 21世紀になっても、日本の他地域・他国侵略の歴史は終わっていません。アイヌモシリやウルマネシアに対する日本の植民地支配はいまも続けられています。
 国民国家日本の領土拡大と、天皇制の維持・強化は相互に関係しあっています。天皇制を維持していることは、侵略の構造を維持していることです。天皇制温存は、日本民衆がいまだ植民地支配を否定していない証拠です。
 歴史認識深化の過程は、絶えざる歴史意識変革の過程です。
 国民国家日本は、帝国主義諸国の同意・承認がなければ、台湾を植民地化することはできませんでした。
 国民国家日本は、1905年7月29日の「桂・タフト覚書」、8月12日の「第2次日英同盟」を前提としなければ、11月17日に韓国政府の5大臣に「保護条約」に調印させ、大韓帝国を日本の「保護国」(植民地)とすることはできませんでした。
 大韓帝国植民地化という国民国家日本の侵略犯罪は、1910年を世界史のなかで把握することによって、その歴史的本質を明らかにすることができるのだと思います。
 本日、1910年の100年後に、わたしは、日本民衆のひとりとして、国民国家日本の侵略の構造を破壊するアジア民衆の共同の運動である第7回民族宗教協議会国際学術大会に参加させていただいたことを感謝します。
                                       佐藤正人
コメント

日本の高校歴史教科書における東アジア古代史叙述 7(最終回)

2008年06月25日 | 会議
■付記
 教科書引用文中の地名・国名・人名のうしろの( )内は、原文にルビとして付けられている読み方である。たとえば高句麗という文字の上に“コグリョ”という朝鮮語読みのルビが付けられている場合には、高句麗(コグリョ)とした。
 ただし、日本読みのルビがつけられている場合は無視した。たとえば高句麗という文字に“こうくり”というルビが付けられている場合には、高句麗(こうくり)とせず、たんに高句麗とした。
 国家と民族と言語の問題を生徒とともに考えようとする歴史教科書において、地名や国名の読み方をどのように表記するかは、重大な問題である。

■検討した教科書
 新版『世界史』A(著者、木畑洋一ほか6人)、実教出版。
 『世界史』A(著者、加藤晴康ほか8人)、東京書籍。
 高等学校『世界史』B改定版(著者、鶴間和幸ほか12人)、清水書院。
 新詳『世界史』B(著者、川北稔ほか8人)、帝国書院。
 新『世界史』B改定版(著者、弓削達ほか10人)、山川出版社。
 『新日本史』B改定版(著者、久留島典子ほか3人)、山川出版社。
 『高校日本史』B改定版(著者、石井進ほか12人)、山川出版社。
 『日本史』B改定版(著者、脇田修ほか14人)、実教出版社。
 『高校日本史』B新訂版(著者、宮原武夫ほか15人)、実教出版。
 『日本史』B改定版(著者、青木美智男ほか12人)、三省堂。
 『日本史』B改定版(著者、加藤友康ほか10人)、清水書院。

■参考文献
 唐澤富太郎『教科書の歴史』創文社、1963年。
 家永三郎『教科書検定 教育をゆがめる教育行政』日本評論社、1965年。
 家永三郎『教育裁判と抵抗の思想』三省堂、1969年。
 五十嵐顕・伊ヶ崎暁生編著『戦後教育の歴史』青木書店、1970年。
 鬼頭清明『日本古代国家の形成と東アジア』校倉書房、1976年。
 大田尭編著『戦後日本教育史』岩波書店、1978年。
 学校制度を考える会編『教科書はもういらない 』三一書房、1982年。
 出版労連教科書対策委員会編『 「日本史」「世界史」検定資料集  復活する日本軍国主義と歴史教科書』日本出版労働組合連合会、1982年。
 遠山茂樹編『教科書検定の思想と歴史教育 : 歴史家は証言する』あゆみ出版、1983年。
 安川寿之輔『十五年戦争と教育』新日本出版社、1986年。
 中村紀久二『教科書の社会史』岩波書店、1992年。
 嵯峨敞全『皇国史観と国定教科書』かもがわ出版、1993年。
 俵義文,・石山久男『高校教科書検定と今日の教科書問題の焦点』 学習の友社、1995年。
 徳武敏夫『教科書の戦後史』新日本出版社、1995年。
 金静美『故郷の世界史 解放のインターナショナリズムへ』現代企画室、1996年。
 網野善彦『日本社会の歴史』上、岩波書店、1997年。
 李成市『古代東アジアの民族と国家』岩波書店、1998年。
 王智新ほか編『批判植民地教育史認識』社会評論社、2000年。
 佐野通夫『近代日本の教育と朝鮮』社会評論社、2000年。
 石出法太『まちがいだらけの検定合格歴史教科書』青木書店、2001年。
 永原慶二『歴史教科書をどうつくるか』岩波書店、2001年。
 和仁廉夫『歴史教科書とナショナリズム 歪曲の系譜』社会評論社、2001年。
 和仁廉夫『歴史教科書とアジア 歪曲への反駁』社会評論社 、2001年。
 小森陽一・坂本義和・安丸良夫編『歴史教科書何が問題か』岩波書店、2001年。
 久保井規夫『消され、ゆがめられた歴史教科書  現場教師からの告発と検証 』明石書店、2004年。
 中村哲編著『東アジアの歴史教科書はどう書かれているか』日本評論社、2004年。
コメント

日本の高校歴史教科書における東アジア古代史叙述 6

2008年06月24日 | 会議
六、東アジア共通のインターナショナルな歴史教科書叙述をめざして
 1960年に、上原專禄編『日本国民の世界史』(岩波書店)が出版された。本書の原本は、1956年から日本の高校社会科の世界史教科書として使用されていたものであるが、1956年の学習指導要領の改定にともない、1959年度以後は継続使用できなくなった。
 筆者(上原專禄ほか6人)は、その原本を全面的に改稿し、その新稿を1957年の検定に提出したが、不合格になった。筆者はさらに誤記・誤植を訂正して1958年7月にふたたび検定に提出したが、これも同年11月に不合格とされた。
 筆者は、書物全体の構造と内容の根本にふれる検定をこれ以上は容認できないとして、本書を教科書として出版する試みをやめ、独自に本書を出版した。
 本書は、検定を拒否し、筆者の歴史思想・歴史観の表現を、日本国家権力をふくむ他者に妨害されることなく、独自に出版されたものである。
 だが、『日本国民の世界史』と名づけられた本書の叙述は、根深い日本ナショナリズムに貫かれている。
 本書の筆者は、ヨーロッパ中心史観を克服できておらず、民衆を歴史の主体とする歴史意識も希薄である。世界史的な東アジア史の民衆運動にかんする叙述はきわめて少ない。 
 日本植民地支配下の朝鮮における最大規模の民衆運動である三・一独立運動にかんする記述がない(同じ1919年の中国での五・四運動についての記述はある)。イスラエルのパレスチナ侵略にかんしても、「国連の決定に基いて、1948年5月、パレスチナにはユダヤ人のイスラエル共和国が建設された」という、シオニストによるパレスチナ占領支配を肯定する虚偽が書かれている。
 また、本書には、敗戦後の日本について、「日本では降伏後、1946年11月、あらたに“日本国憲法”が公布され、戦争を放棄することが明示された」と書かれているが、日本国民が天皇ヒロヒトの侵略責任(植民地支配責任・戦争責任・戦後責任・現在責任)を追究せず、天皇制を維持し続けてきていることが書かれていない。
 この『日本国民の世界史』が示しているように、検定とは別の次元で、日本の歴史教科書に内在している日本ナショナリズムは、いまも、克服されていない。

 歴史教育は、生徒に史実を教える教育ではない。
 史実は教えることはできない。
 教えることができるのは、史実をいかに認識するかという歴史認識の方法である。
 史実認識の方法と内容は、認識者の歴史思想・歴史観によって規定される。
 きのう起こったこと、すなわち、きのうの史実をいかに認識するかということも、認識者の社会意識・社会思想に規定される。
 70年まえの史実認識においても同じである。
 日本政府の首相や一部の国会議員などが、日本軍隊性奴隷制にかんして日本政府や日本軍に直接責任はないと強弁しているが、かれらの歴史認識は、かれらの利害、かれらの思想に規定されている。
 歴史教育の場においては、このような無恥であやまった歴史認識をもつ者を育てない教育をおこなわなければならない。
 1910年、「韓国併合」に反対する思想・歴史意識をもつ日本人はほとんどいなかった。
 国民国家日本の教育は、他地域・他国侵略を肯定し支持し加担する日本人をつくりだす教育であった。そのような教育の中心は歴史教育であった。
 
 歴史教育の場で、教師は、生徒に史実を教えるのではなく、史実を認識する方法を生徒とともに考えなければならない。歴史教科書は、そのための道具である。歴史教科書の叙述を史実であると誤解してはならない。
 歴史教育の場において、教師は、歴史の真実に到達するための方法を生徒とともに語りあわなければならない。日本の歴史教科書に示されている日本ナショナリズムを克服することは簡単ではない。
 日本では、在日朝鮮人の子どもたちの多くも、日本の学校で、日本の歴史教科書を使わされている。日本の歴史教科書を変革していくことは、在日朝鮮人の課題でもある。
 この課題は、東アジアにおける共通のインターナショナルな歴史教科書叙述をめざす民衆運動のなかで達成されるだろう。
コメント

日本の高校歴史教科書における東アジア古代史叙述 5

2008年06月23日 | 会議
五、日本の歴史教科書が東アジア古代全史を叙述しようとしないのはなぜか

 日本の歴史教科書の東アジア古代史叙述は、中国古代史を中心におこなわれており、東アジア全体の統一的な歴史を生徒が把握しにくくなっている。
 また、王朝史が中心となっており、歴史の主体である民衆の歴史が書かれていない。
 このような叙述は、日本の教科書にたいする検定制度によるためでなく、歴史教科書の執筆者が、権力者の動向によって歴史がつくられるという非民衆的な歴史思想、政治思想を克服していないからである。日本の歴史教科書執筆者のほとんどが、歴史を総体とし把握する思想と方法を確立できていないからである。
 この問題は、かれらが自己の内部のナショナリズムを点検し克服しようとしていない問題とむすびついている。
 東アジアの古代史は、東アジア地域における諸民族の複雑な関係の歴史である。漢や唐の王朝史と、高句麗、新羅、百済や渤海や大和国家の関係のみで叙述できる歴史ではない。
 たとえば、『高校日本史』B新訂版(宮原武夫ほか著、実教出版)には、
    「907年、唐がほろぶと東アジアは大変動期に入り、渤海
   もほろび、朝鮮半島では高麗がおこり新羅がほろんだ」(54頁)
と書かれているが、渤海の崩壊(926年)も新羅の崩壊(935年)も、唐帝国の崩壊のみに基づくものではない。渤海地域、新羅地域の複雑な社会関係に触れることのない歴史教科書の叙述は、生徒の歴史意識形成にとって有害である。

 東アジア古代史を総体として叙述しようとするならば、王朝史を機軸とする歴史叙述を根本的に方法的に否定しなければならず、王朝史叙述に内包されているナショナリズムを克服しなければならない。
 王朝史を克服するということは、王朝の崩壊は、その政権下で抑圧されていたさまざまな民族の民衆の解放を意味するという歴史思想・政治思想を鍛えるということを意味する。  
 これは、歴史研究方法の問題でもある。
コメント

日本の高校歴史教科書における東アジア古代史叙述 4

2008年06月22日 | 会議
四、東アジア古代史記述の根本問題――国家・民族・領土――
 近現代史の時代は、国民国家の形成の時代であり、古代は、国家と民族の形成の時代である。原始時代には、国家も民族も形成されていなかった。
 科学的に歴史を叙述するためには、国家・民族・国家権力・領土にかんする基本理論を構築していなければならない。
 この基本理論を確立しようとせず、国家概念や民族規定をあいまいにしたまま、恣意的におこなわれる国家史や民族史についての歴史叙述は、無意味であるだけでなく、誤ったものとならざるを得ない。
 たとえば、日本のナショナリストが執筆した中学社会教科書『新しい歴史教科書』(2005年3月30日検定通過、扶桑社)では、「神話」を根拠にして太古に日本国家が形成されていたかのような叙述がなされている。
 
 近現代における国民国家と古代の国家とは、国家の概念が異なる。近現代における国民国家概念を古代の国家概念とを同一化し、近現代の国民国家の領土を古代国家の領土と重ね合わせて一国史を叙述することは、ナショナリズムを扇動することであり、歴史家がおこなってはならないことである。
 国家概念、民族規定を明確にしておかなければ、近現代史はもちろん、古代史を科学的に客観的に叙述することはできない。
 たとえば、高句麗史を叙述する場合には、その前提として、この時代の東アジア全地域における諸国家・諸民族の実態とともに、国家概念と民族規定を明確にしておかなければならない。
 国家も民族も歴史的に形成されてきたものであって、東アジアにおいても、古代から一貫して、現在の中国国家、モンゴル国家、朝鮮国家、日本国家が実在していたのではない。また、近現代のすべての国家は、多民族国家なのであって、近現代のすべての国家の歴史は、単一の民族の歴史とは同一ではない。

 国民国家における自国史教育は、ナショナリズムと無縁ではありえない。
 特に、国民国家形成を他地域・他国侵略によって開始し、継続的な他地域・他国侵略によって国家建設をすすめてきた侵略国家日本においては、自国史教育は、他地域・他国侵略の歴史事実を明らかにし、それを否定するものでない限り、日本ナショナリズムを扇動する教育となる。
 国民国家中国の一国史もまた、その前史である明・清時代の他地域・他国侵略の歴史を肯定するイデオロギーと無縁ではない。東北工程は、そのようなイデオロギーを前提としている。

 東アジア古代史は、東アジアにおける国家と民族の形成期の歴史であるが、その国家と民族は、国民国家形成期である近現代史における国家と民族とは、同質ではない。また、東アジア古代における諸国家の領土は、近現代における諸国家の領土とは同一ではない。
 東アジア古代における諸国家で生活する人びとの人種も多様であり、言語も多様であった。東アジア古代の諸国家も多民族国家であった。
コメント

日本の高校歴史教科書における東アジア古代史叙述 3

2008年06月21日 | 会議
三、日本の高校日本史教科書における朝鮮古代史叙述
     現在、日本の高等学校日本史教科書は、AとBの2種あり、
    Aの記述はほとんど近現代史に限られている。したがって、
    ここでは2007年3月22日に日本文部科学省が検定を通過さ
    せた日本の高等学校日本史教科書のうちBについてのみ論
    じる。Bにおいても三国時代以前の朝鮮(扶余、東扶余な
    ど)にかんする記述はまったくない。
■『新日本史』B改定版(著者、久留島典子ほか3人)、山川出版社。
 本書の年表には、「391年 倭軍、百済・新羅を破る」と書かれているが(397頁)、本文にはこのことに関する記述はない。
 同書には、古朝鮮にかんする記述はまったくなく、4世紀以後の朝鮮史にかんしては、つぎのように書かれている。
    「朝鮮半島の3国のうち、北にあった強国の高句麗は、313
   年に晋の朝鮮半島支配の拠点である楽浪郡と帯方郡を滅ぼ
   し、さらに旧楽浪郡の平壌を拠点として南下策をとり始めた。
   一方、朝鮮半島南部では、4世紀前半に馬韓から百済が、辰韓
   から新羅が建国し、百済は高句麗の南下を受けて、倭に近づい
   て同盟を結んだ」(29~30頁)、
    「倭は、4世紀には朝鮮半島南部の弁韓地域にあった伽耶諸
   国(加羅)と密接な関係を持ち、鉄資源を確保した。そこは生
   産技術を輸入する半島の拠点であり、倭人も集団的に移住し
   ていたらしい」(30頁)、
    「高句麗は、4世紀後半に南下を続け、広開土王の一代の功
   業を記した広開土王碑(広太王碑、中国吉林省集安市)には、
   高句麗が倭に通じた百済を討ち、倭に侵入を受けた新羅を救
   い、400年、404年に倭軍と交戦して勝利を得たことが記され
   ている。鉄や文物の供与を受けていた倭は、伽耶や百済の要
   請で派兵し、軍事援助をしたらしい」(30頁)、
    「朝鮮半島では、6世紀に入ると、百済・新羅とも勢力を強め
   たが、百済は強国高句麗の南下を受けて南遷し、512年、ヤマ
   ト政権は朝鮮半島南部の伽耶諸国のうち、西部の4つの国
   (「任那四県」と称した)を百済が支配することを承認した。さ
   らに新羅も強大化し、562年までに伽耶諸国は百済と新羅の
   支配下にはいって滅亡し、ヤマト政権も半島における拠点を
   失った。
    伽耶西部に対する支配の承認と引きかえに、百済から513年
   に五経博士が渡来し、さらに易博士・歴博士・医博士も渡来
   し、儒教やその他の学術が伝えられた。また、538年(一説に
   552年)に、百済聖明王から仏教も伝えられた」(33頁)。
 この教科書の筆者は、「らしい」というあいまいな表現をくりかえして、いいかげんな史実記述をしているだけでなく、民衆が歴史を動かすという歴史観と対立する歴史観によって書かれている。この教科書に従って授業がなされるならば、生徒は、いつわりの歴史を宣伝されるだけでなく、権力者が歴史を動かすというあやまった歴史観をおしつけられてしまう。
■『高校日本史』B改定版(著者、石井進ほか12人)、山川出版社。
 本書は、『新日本史』Bと同じ出版社からだされている教科書だが、『新日本史』Bの記述のように悪質ではない。
  『高校日本史』Bの年表には、『新日本史』Bにあるような「391年 倭軍、百済・新羅を破る」という史実と異なる記述はなく、4世紀の部分には、「このころヤマト政権、統一進む」と書かれている。
 朝鮮古代史にかんして、同書には、つぎのように書かれている。
    「中国東北地方から朝鮮半島北部に国家をつくった高句麗
   の王、広開土王の碑には、倭の兵が辛卯の年(391年)以降、
   朝鮮半島にわたり、高句麗軍とたたかったことが刻まれてい
   る」(20頁)。
    「4世紀の朝鮮半島 半島南部の加耶は加羅とも表記され、
   それ以前に弁韓よばれていた国ぐにを総称したものである。
   一方馬韓の国ぐにから百済が建国されたが、半島南西部は
   百済に属するの加耶に属するのかまだよくわかっていない」
   (21頁)。
    「ヤマト政権はあたらしい文化や鉄資源を求めてはやくから
   朝鮮半島南部と深いつながりを持っていたが、4世紀後半に北
   方の高句麗が南へ進出してきたため、百済などとともに高句麗
   とたたかうことになったのである」(20頁)。
    「6世紀をむかえると、朝鮮半島では高句麗がいちだんと
   勢力を強めて南下した。これにおされた百済・新羅は、国
   内の支配体制をかためるとともに、ヤマト政権とも結びつ
   きの強い加耶諸国へ進出するようになった」(26頁)。
    「6世紀前半の朝鮮半島 高句麗の南下と新羅の西進を受
   けて、百済は南に勢力を広げ、加耶西部を支配におさめた」
   (26頁)。
    「562年、新羅はついに加耶諸国を支配下におさめ、ヤマト
   政権は朝鮮半島への足がかりを失ったのである」(27頁)。
    「〔倭(日本)は〕国内では豪族の力がまだ強かった。国外
   では唐と結んだ新羅にほろぼされた百済をたすけるために軍を
   おくったが、663年の白村江の戦いで唐・新羅軍に大敗し、半
   島からしりぞくことになった」(31頁)。
    「907年、唐がほろぶと東アジアは大変動期に入り、渤海も
   ほろび、朝鮮半島では高麗がおこり新羅がほろんだ」(54頁)。
■『日本史』B改定版(著者、脇田修ほか14人)、実教出版社。
 本書では、年表の4世紀の部分に、「このころ大和政権の形成すすむ 4世紀末ごろ、倭軍朝鮮半島に侵出。百済とむすび、新羅・高句麗とたたかう」と書かれており、6世紀の部分に「562 新羅、加羅を滅ぼす」と書かれている。
 本文には、
    「6世紀には朝鮮との交流がいっそう密接になり、中国の
   宗教や学問も流入・受容された。百済から五経博士や易・
   歴・医の諸博士が渡来して、儒教その他の知識を伝えた」
   (52~53頁)
と書かれている。
■『高校日本史』B新訂版(著者、宮原武夫ほか15人)、実教出版。
 本書の年表には、「4世紀末ごろ、倭軍朝鮮半島に侵出。百済とむすび、新羅・高句麗とたたかう」と書かれている。
 本文には、つぎのように書かれている。
    「奴国王・邪馬台国王・倭の五王、高句麗・百済・新羅の
   国王は、いずれも冊封体制のなかで、その地位を中国皇帝か
   ら公認されていた」(22頁)、
    「中国の朝鮮半島に対する支配力が衰えると、中国東北部
   に本拠地をもつ高句麗が、中国が設置した楽浪郡、帯方郡を
   滅ぼして朝鮮半島北部に勢力をのばし、南下政策をすすめ
   た。南部には馬韓・辰韓・弁韓の3つの小国による連合が
   形成っされていたが、4世紀には馬韓から百済が、辰韓から
   は新羅がうまれた。朝鮮のすぐれた生産技術や鉄資源を求め
   た大和政権は、弁韓の地域に成立した加羅諸国(伽耶、任那)
   に4世紀後半、百済とむすんで出兵した。さあらに新羅を圧
   迫し、北方の高句麗とたたかった。これに対して高句麗は、
   新羅を救援し、百済を攻めて、倭の軍隊とたたかった。この
   間の事情は高句麗の好太王の碑文に記されている。
    5世紀にはいり、百済・新羅の国力が充実してくると、朝
   鮮半島における大和政権の勢力はしだいに弱まった」(23頁)。
 本書には、「歴史のまど 三韓の調」と題して、つぎのような根拠の不確かな、わけのわからないことが書かれている。
    「645年(大化元)年6月12日、中大兄皇子と中臣鎌足
   (のちの藤原鎌足)らは、飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を殺し、
   大化の改新がはじまった。なぜこの日が暗殺に選ばれたの
   だろうか。それは、この日に三韓の使者が調を献上するこ
   とになっていたからであった。三韓とは高句麗・百済・新
   羅の3国のことで、調とは服属を表す献上品を意味する。
   つまり、朝鮮3国が大和政権に服属していることを確認する
   重要な儀式の日にあたったため、天皇(大王)をはじめ群
   臣は必ず出席しなければならなかったのである。
    しかし、実際には、3国とも倭国に統合されておらず、
   使者を送る義務はなかった」(30頁)。
 ここで、筆者は、「服属」と「統合」を同義語として使い、「朝鮮3国が大和政権に服属していることを確認する重要な儀式の日にあたったため」などという虚偽を書いている。このような記述は、ほかの教科書にはない。
■『日本史』B改定版(著者、青木美智男ほか12人)、三省堂。
 本書には、つぎのように書かれている。
    「313年、中国東北地方から朝鮮半島北部へ勢力を広
   げていた高句麗が中国の直轄地である楽浪郡を滅ぼした。
   馬韓・辰韓・弁韓という三つの小国連合体が分立してい
   た半島南部では、4世紀なかごろ、馬韓と辰韓はそれぞれ
   百済・新羅に統一され、南端の弁韓はいぜん伽耶(加羅)
   とよばれる小国家連合体がつづいていた。4世紀後半には
   高句麗が南下して百済や伽耶との間で対立を深めた。中
   国の直接支配からはなれて戦乱をくりかえす朝鮮半島の
   動きは、伽耶や百済を足がかりにして、鉄などの資源や
   農業・土木・建築、各手工業の技術を手に入れようとす
   るヤマト王権(倭)にとって大きなできごとであった」
   (19頁)。
    「朝鮮半島では、5世紀後半から6世紀にかけて、新羅
   や高句麗が領土拡大につとめ、百済や伽耶に侵入しはじ
   めた。
    527年、ヤマト王権はつながりの深かった伽耶へ援軍
   を派遣しようとしたが、新羅とむすんだとされる筑紫の
   国造磐井によってこれをはばまれた(磐井の乱)。さら
   に、外交を担当していた大連の大伴金村が百済に伽耶の
   領土への拡大をみとめたこともあって、新羅と百済の伽
   耶への侵入は強まり、562年、伽耶は新羅に滅ぼされた」
   (24頁)。
    「朝鮮半島では、高句麗や新羅が唐の律令を摂取して、
   国力の充実につとめたが。唐が高句麗に遠征すると、新
   羅は唐に急接近し、百済は倭とのつながりを深めようと
   した」(28頁)。
    「7世紀前半、朝鮮半島では新羅が勢力を増し、660
   年、百済を滅亡させた。孝徳天皇にかわった斉明天皇
   のころ、朝廷は復興をはかる百済の遺臣の要請にこた
   えて大軍を派遣したが、663年、朝鮮半島南部の白村江
   で新羅・唐の連合軍に大敗した(白村江の戦い)。さ
   らに新羅は高句麗も滅ぼし、676年に朝鮮半島を統一し
   た」(29頁~30頁)。
■『日本史』B改定版(著者、加藤友康ほか10人)、清水書院。
 本書には、つぎのように書かれている。
    「朝鮮半島北部には、中国東北部からおこった高句麗が
   侵入し、313年、楽浪郡を滅ぼし、強力な統治機構を形成
   した。南部においてもそれまで韓族が馬韓・辰韓・弁韓
   (弁辰)などの部族的小国を形成していたが、馬韓地方
   では百済、辰韓地方では新羅が国家形成へと向かいはじ
   めた」(26頁)。
    「4世紀後半から5世紀にかけて、朝鮮半島では、高句
   麗・百済・新羅の3国が対立抗争をくり返した。とくに
   高句麗の勢力は強大でたびたび南下し、百済と新羅は滅
   亡の危機を迎えている。そこで新羅は高句麗の支配下に
   はいり、百済は倭国と同盟関係を結んで、これに対抗し
   た。……4世紀末に倭国は百済の求めに応じて、海を渡
   って高句麗と戦っている。倭国と百済の交流は、ヤマト
   政権に先進的な文化や知識をもたらした。これによりヤ
   マト政権は外交権や先進技術を独占することになり、倭
   国内におけるより優位な立場を得ることになった」(27
   頁)。
    「朝鮮半島では、中国王朝の影響力の低下もあって、
   高句麗・百済・新羅の抗争がいっそうはげしくなった。
   高句麗の軍事的圧迫に苦しむ百済と新羅は、倭国と友好
   関係にあった伽耶諸国に進出し、560年代にこれら諸国
   を併合した」(31頁)。
コメント

日本の高校歴史教科書における東アジア古代史叙述 2

2008年06月20日 | 会議
二、日本の高校世界史教科書における朝鮮古代史叙述
■新版『世界史』A(著者、木畑洋一ほか6人)、実教出版。
 本書には、古朝鮮、百済・新羅・渤海にかんする記述はまったくなく、高句麗にかんしても、「〔隋は〕大運河建設や高句麗遠征に人民を大量に動員」と書かれているだけで、高句麗にかんする直接的な記述はない。
■『世界史』A(著者、加藤晴康ほか8人)、東京書籍。
 本書にはじめて現われる朝鮮にかんする叙述は、つぎのようなものである。
     「4世紀になると朝鮮半島では高句麗(コグリョ)に加えて南
    部に百済(ペクチェ)と新羅(シルラ)が成立し、日本列島でも
    大和政権の成立をみた。これらの国々は、南北の中国王朝
    から冊封を受けつつ、それぞれ勢力の拡大をはかった」
    (12頁)。
 このほかの朝鮮古代・中世史にかんする叙述は、つぎのようなものだけである。
     「朝鮮半島では、7世紀後半に唐と結んだ新羅が百済・高
    句麗を滅ぼし、唐の勢力をしりぞけて朝鮮半島の統一をなし
    とげ、また、唐の冊封を受けた。日本は、7世紀から遣隋使、
    遣唐使を派遣して、隋、唐の律令体制などをとりいれようと
    つとめ、新羅や渤海とも交流した」(13頁)。
     「中国の東北部では、モンゴル系の契丹族が渤海を滅ぼし
    て遼をたて、モンゴル高原や中国の北辺をも支配下にくみい
    れた。
     朝鮮半島では高麗(コリョ)が新羅(シルラ)を滅ぼして全土
    を統一し、宋や遼の冊封を受け、金属活字や高麗青磁などの
    すぐれた文化をつくりだした」(14頁)。
     「7世紀ごろから9世紀なかごろまで、中国、朝鮮、日本に
    およぶ東方海域での貿易は新羅(シルラ)商人が独占してい
    た。ややおくれて渤海による活動が始まり、8世紀以降、日本
    海をわたって日本に来航する渤海の使節は、やがて貿易を主
    目的とするようになった。また、渤海の商船は中国にまでお
    よんでいた」(44頁)。
■高等学校『世界史』B改定版(著者、鶴間和幸ほか12人)、清水書院。
 本書の高句麗、百済、新羅、高麗にかんする叙述はつぎのとおりである。
     「楽浪郡と帯方郡は中国王朝の朝鮮半島支配の拠点であ
    り、倭の女王卑弥呼の使者も帯方郡を経由して都洛陽入
    り、魏から冊封うけている、しかし、五胡十六国時代の
    華北の混乱のなか、朝鮮半島の諸民族がしだいに台頭し
    てきた。4世紀初めに、楽浪郡は高句麗(コグリョ)に、
    帯方郡も朝鮮半島南部の韓族などに滅ぼされた。こうし
    て4世紀もの長きにわたった中国王朝の朝鮮半島支配は
    終わった。
     この時期、百済(ペクチェ)、新羅(シルラ)が建国され、鴨
    緑江(アムノックカン)中流の国内城(中国吉林(チーリン)省集
    安(チーアン))に拠点を置いた北方の高句麗とならんで朝鮮
    半島は三国時代に入った」(36~37頁)、
     「唐と連合した新羅は百済(ペクチェ)・高句麗(コグリョ)
    を滅ぼし、朝鮮半島における三国対立の形勢は終わった」
    (39頁)、
     「朝鮮では、9世紀後半には新羅(シルラ)が分裂状態とな
    り、やがて王建(ワンゴン)が高麗(コリョ)を建国して統一を
    達成した。高麗は、唐・宋にならって、官僚制や科挙を採用
    して中央集権化に努め、11世紀に全盛期を迎えた」(80頁)。
 本書には、「朝鮮三国 6世紀中ごろ」と題された地図が掲載されているが、そこでは、鴨緑江北方地域が高句麗の領域内とされている(37頁)。また、本書に掲載されている「唐代の東アジア」と題された地図では、渤海が唐の領域内に入れられている(38頁)。
■新詳『世界史』B(著者、川北稔ほか8人)、帝国書院。
 本書には、「東アジア周縁地域の国家形成」という項があり、つぎのように書かれている。
     「朝鮮半島では、前4~前3世紀には在地の政治集団が成
    長する一方、半島東北部から遼東(リャオトン)半島にかけ
    て戦国七雄の燕が勢力をのばし、秦漢交替期に燕出身の衛
    満が衛氏朝鮮を建てた。漢の武帝はこれを滅ぼして楽浪な
    ど4郡をおいたが、北方の貊族が高句麗(コグリョ)を建て、
    半島南部では韓族が馬韓・辰韓・弁韓などの諸国を形成し
    たため、漢の勢力はしだいに後退した」(45頁)。
 また、本書の「東アジア諸国家の形成」の項には、つぎのように書かれている。
     「3世紀以降、東方の朝鮮半島・日本列島でも諸勢力の活
    動が活発化し、国家形成が進展するとともに中国大陸との通
    交が積極的に行われた。倭とよばれ小国に分かれていた日
    本列島では、大和王権がしだいに強大化した。5世紀には
    たびたび倭国の王(倭の五王)が南朝に朝貢し、また朝鮮
    半島南部にも介入した。
     朝鮮半島では、4世紀以来高句麗(コグリョ)・百済(ペクチ
    ェ)・新羅(シルラ)の三国が並立していたが、唐と結んだ新
    羅が百済・高句麗を滅ぼし、ついで唐も排除して676年に最
    初の統一国家となった。
     その北方では、7世紀末に大祚栄が高句麗の遺民をひきい
    て渤海を建て、日本海を通じて日本ともさかんに通交した」
    (58頁)。
 本書に掲載されている「唐の領域」と題された地図では、渤海が唐の領域内に入れられている(55頁)。
■新『世界史』B改定版(著者、弓削達ほか10人)、山川出版社。
 本書おける朝鮮古代史にかんする叙述はつぎのとおりである。
     「(前漢の武帝は)東北方面では衛氏朝鮮をほろぼして
    東北部の南部から朝鮮半島にかけて楽浪など4郡をおい
    た」(75頁)。
     「(隋の)煬帝は……高句麗を三たび攻めた。しかし高
    句麗遠征に失敗し、動乱がおこって群雄の一人李淵によっ
    ほろぼされた」(85頁)。
     「紀元前後に中国の東北部に高句麗がおこり、4世紀初
    めに南下して楽浪郡および帯方郡をほろぼして、朝鮮半島
    の北部を支配した。南部は三韓(馬韓・辰韓・弁韓)にわ
    かれていたが、4世紀なかばには半島の西南部では百済が
    馬韓諸国を統一し、東南部では新羅が辰韓諸国を統一した。
    このころ日本と密接な関係をもっていた弁韓(加羅、または
    伽耶ないし任那)は、やがてその北西部の百済に併合され、
    残る地域も6世紀なかばに新羅に征服され、ここに朝鮮半
    島は高句麗・新羅・百済がならぶ三国時代にはいった。
     やがて新羅が強大となり、唐の支援をうけて百済と高句
    麗をほろぼし、ついで唐の勢力もしりぞけて676年、朝鮮半
    島をはじめて統一した」(88頁~89頁)。
     「高句麗の民は中国の東北部に拠って渤海国をたて、ここ
    でも唐の官制・文化を熱心にとりいれた」(89頁)。
     「(日本では)4世紀には大和政権による統一がすすみ、
    加羅に進出して百済と結び、高句麗に対抗した」(89頁)。
     「モンゴル系の契丹族は、東北部ほかモンゴルの諸族を
    連合させ……926年渤海をほろぼしたのち、遼と称した」
    (151頁)。
 本書に掲載されている「秦・前漢時代のアジア」と題された地図では、楽浪地域が前漢(武帝時代)の領域に入れられているが、その北方の高句麗は、前漢の領域には入れられていない(74頁)。また、本書には、8世紀ころの唐代の東アジア交通路地図が掲載されているが、そこでは、渤海は唐の領域内に入れられていない。
 本書には、「日本と密接な関係をもっていた弁韓(加羅、または伽耶ないし任那)」、「4世紀には大和政権による統一がすすみ、加羅に進出して……」という、あいまいな表現で大和政権が加羅地域を支配していたかのようする記述がある。こうして、本書は、なんら歴史学的・考古学的証拠がない「任那日本府」を実在したかのように主張している。
コメント

日本の高校歴史教科書における東アジア古代史叙述 1

2008年06月19日 | 会議
      ことし5月23日にソウルで開かれた第15次国際歴史教科
     書学術会議(国際歴史教科書研究所・清華大学中韓歴史
     文化研究所共催)で報告した日本語原稿を連載します。
      当日は、この要旨を朝鮮語で報告しました。
                                  キム チョンミ


   一、日本の教科書における日本ナショナリズムの要因
        1、教科書検定制度
        2、歴史教科書執筆者の歴史観・歴史思想
   二、日本の高校世界史教科書における朝鮮古代史叙述
   三、日本の高校日本史教科書における朝鮮古代史叙述  
   四、東アジア古代史記述の根本問題  国家・民族・領土
   五、なぜ、日本の歴史教科書で東アジア古代全史が叙述され
    ないのか
   六、東アジア共通のインターナショナルな歴史教科書叙述を
    めざして


一、日本の歴史教科書における日本ナショナリズムの要因
1、教科書検定制度
 日本政府は1871年に文部省を設定し、1872年に「学制」を確定した。この「学制」においては、教科書は、自由発行・自由採択制だった。
 1880年から文部省は「教科書取調べ」を開始して自由採択制を廃止し、1883年から認可制にした。
 1886年に日本政府は、「教科用図書検定条例」を公布し、文部大臣による教科書検定を開始し、さらに、1887年に、「教科用図書検定条例」を廃止し、「教科用図書検定規則」を制定した。
 1889年2月11日に日本政府は「大日本帝国憲法」を発布し、天皇制を強化した。 翌1890年10月30日に日本政府は、天皇の名で、「教育ニ関スル勅語」をだした。
 その後、1945年まで、半世紀以上にわたって、日本では、「教育勅語」にもとづく「尊王愛国」を機軸とした学校教育が行われ、子どもたちに天皇主義・侵略思想が植えつけられた。
 日ロ戦争開始2か月後、1904年4月から、日本政府は、「国語読本」・「書き方手本」・「修身」・「日本歴史」・「地理」の教科書を国定化し、翌1905年に「算術」・「図画」の教科書を国定化し、1910年に「理科」の教科書をも国定化し、小学校教科書をすべて国定化した。
 1945年8月のアジア太平洋戦争敗北後も1946年7月末まで、それまでと同じ国定教科書が使われたが、その多くの部分に、生徒たちは、教師の支持に従って、墨を塗ったり、紙を張ったりした。切りとった場合もあった。
 1946年4月から、一部地域で暫定教科書が使われはじめた。
1947年9月に文部省は、国定教科書のほかに検定教科書を使用することにし、1948年4月に「教科用図書検定規則」を、7月に教科書の発行に関する臨時措置法をつくった。
 1949年4月から検定教科書が使われはじめた。
日本政府は、教科書検定制度によって、自然科学の分野においてもそうであったが、とくに歴史教科書における歴史事実の記述内容にかかわって管理・介入をおこなってきた。

 20世紀末、1999年8月13日に、日本は、侵略の旗「ヒノマル」を国旗とし、天皇賛歌「キミガヨ」を国歌とし、その12日後の8月25日に、他地域・他国軍事侵略のための「周辺事態法」を施行した。このころから、日本政府は、教科書検定制度を利用して、歴史教科書の「記述の誤記」を指摘すると称して、児童や生徒にいつわりの史実を教え、日本ナショナリズムを注入しようとする策動を、いちだんと強化しはじめた。
 21世紀はじめ、2001年12月、アジア太平洋戦争後はじめて日本軍が侵略戦争に参戦した。おなじころ、日本政府は、教科書検定制度を利用して偽りの歴史の宣伝策動を強化しはじめた。日本文部科学省が、歴史事実を極度に歪曲した中学校社会科歴史的分野用教科書『新しい歴史教科書』(扶桑社)をはじめて検定通過させたのは2001年であった(2001年採択率、推計0.097%)。
 日本文部科学省は、2008年4月から使用される高校の日本史教科書を検定する際、アジア太平洋戦争末期の沖縄での集団自決について、それまで認めていた「日本軍の強制」とする記述にかんして「沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現である」と検定意見をつけた。これに従って教科書会社は、歴史的事実を歪曲し、日本軍による強制がなかったかのように文章を変えた。
 たとえば、清水書院の日本史Bは、「非戦闘員の犠牲者も多かった。なかには日本軍に集団自決を強制された人もいた」という原文を、「非戦闘員の犠牲者も多かった。なかには集団自決に追い込まれた人々もいた」と変更して、検定を通過した。
 沖縄戦のさいに日本軍が住民に集団自決を強制したという記述を教科書から一斉に削除させてことに対して、2007年6月22日に沖縄県議会は検定意見を撤回して記述をもとにもどすことを要求する意見書を全会一致で可決した。この意見書には、「集団自決は日本軍による関与なしには起こり得なかったのは紛れもない事実」と書かれている。

2、歴史教科書執筆者の歴史観・歴史思想
 日本の歴史教科書が、日本ナショナリズムを強化するものとなっているのは、日本政府が教科書検定制度をおこなっているからだけではない。
 検定制度とともに重大な要因は、歴史教科書執筆者のイデオロギー・歴史観・歴史思想が、日本ナショナリズムを克服できていないことである。
 もちろん、多数の歴史教科書が、単一のイデオロギーや歴史観や歴史思想にもとづいて書かれているのではない。それぞれの教科書における日本ナショナリズムの強度は一様ではない。
 以下で、2007年3月22日に日本文部科学省の検定を通過した日本の高等学校歴史教科書における東アジア古代史記述を検討し、それぞれの教科書における日本ナショナリズムの濃淡を具体的に分析する。
 これらの歴史教科書は、すべて、現在(2008年5月)、日本の高等学校で使用されているものである。
コメント

事務局会議報告

2007年02月12日 | 会議
 きょう、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会の合同事務局会議を開きました。
 主要議題は、つぎのとおりでした。

■三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会
Ⅰ、2007年追悼集会にむけて
Ⅱ、『熊野市史』問題決着の展望
Ⅲ、『会報』45号(2007年3月10日発行)。
Ⅳ、新冊子準備
Ⅴ、ホームページ 朝鮮語ページ、漢語ページ新設
Ⅵ、財政

■紀州鉱山の真実を明らかにする会
Ⅰ、紀州鉱山で命を失った朝鮮人を追悼する集会。 2007年秋に。
  追悼碑建立の道程。   民衆運動としての追悼碑建立。
Ⅱ、「朝鮮村試掘」報告書(日本語版、朝鮮語版、漢語版)。
  ①、「試掘」にいたる過程(1998年~2006年)。
  ②、2006年5月の「試掘」目的。
  ③、「試掘」報告。
  ④、「朝鮮村発掘」の意味。
  ⑤、「朝鮮村虐殺」の歴史学的報告。
     継続的な海南島住民虐殺は、国民国家日本の侵略犯罪の一環。
  資料:朝鮮人が埋められている場所の平面図・写真。
     :「試掘」現場の時系列的平面図・写真。
Ⅲ、「朝鮮村試掘」:今後の展望・方針。
Ⅳ、民衆レベルでの、日本が海南島でおこなった犯罪の総合的確認と責任追求。
    2009年2月10日(日本の海南島侵略開始後70年)までに具体的に何を!
  海南島で   共同調査、共同研究、共同出版。
  中国、韓国で   共同調査・共同研究。
  日本で
    共同調査・共同研究、ハイナンネットと「海南島戦時性暴力被害裁判」支援。
    月塘村追悼碑建立基金(2008年5月2日建立)、后石村追悼碑建立基金。
   日本政府にたいして
     1、旧日本軍の海南島での住民虐殺、資源略奪、人権侵害にかんして。  
        海南島侵略日本軍の名簿公開要求→責任者処罰。
     2、「朝鮮報国隊」にかんして。
      ①、厚生労働省に「朝鮮報国隊」の名簿全面開示要求。
      ②、法務省・厚生労働省に、「朝鮮報国隊」の「隊員」の所在確認要求。
      ③、個人の委任を受けて、個人記録提出を日本政府に要求する。
      ④、旧内務省の責任追及。
         2004年9月につづき、公文書公開法にもとづき、政府に2回目の要求書。
Ⅴ、調査・聞きとり・資料収集
  日本で
   1、旧軍人・行刑関係者などからの聞きとり。
   2、内閣文書、外交文書、旧日本軍文書、行刑文書などの詳細再点検。
   3、アジア歴史資料センターの海南島関係資料すべての分析。 
   4、当時の新聞・雑誌の再点検。
   5、未見資料の入手・閲覧。
  韓国で
   1、「朝鮮報国隊」名簿探索。韓国の各刑務所の記録閲覧。
       韓国政府記録保存所の名簿にある人の消息を各地域の役所に問い合わせる。
   2、さらなる聞き取り・「現地調査」。 『海南島被徴用者名簿』。
  海南島、台湾、中国、USAで  
     各档案館の資料閲覧・複写。広東裁判関係文書など、探索。
Ⅵ、12回目の海南島「現地調査」の報告・総括  2006年12月28日~2007年1月25日
Ⅶ、海南島近現代史研究会
Ⅷ、今後の海南島行き
   ●13回目の海南島行き(2007年3月25日から)。
      月塘村・美良村・妙山村・「朝鮮村」再訪。五指山地域で聞きとりなど。
   ●14回目の海南島行き(2007年秋)。    
Ⅸ、出版
 1、写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』。
    A全カラープリント版(A4、110頁+4頁)。2006年12月28日完成。
     2007年1月19日、海南大学図書館と漢語版の共同編集・共同発行確認。
    B白黒版(表紙はカラー、A4、132頁+4頁)。2007年2月10日発行。1500円。
    C全カラープリント版(A4、132頁+4頁)。2007年秋までに漢語版発行。
 2、『海南島現代史 抗日戦争期(1939年~1945年)』
      A5判、約500頁(資料目録、年表、地図、写真をふくむ)。
 3、冊子『“朝鮮報国隊”』( 「朝鮮村試掘」総括→「朝鮮村発掘」の具体化作業の一環)。
      内容:「朝鮮村」での証言。「朝鮮報国隊」の軌跡。『“朝鮮報国隊”』全シナリオ。
    「朝鮮村試掘」にいたる過程報告(『「朝鮮村試掘」報告書』の主要部分再録)。
   地図、写真、資料目録、年表。 B6、200頁。
 4、えほん『にほんがせんりょうした海南島で』。B5判、30頁ほど。2007年夏発行。
       実験的に、ウェブ絵本、ウェブブックレットを作れないか! 
 5、『パトローネ』への連載→『海南島で日本は何をしたのか Ⅱ』発行。2007年中に。
 6、海南島文庫(ブックレット)連続発行。
      A5版、50~80頁、写真・カット多数、500円~700円。
   1日本は海南島で何をしたか、2海南島における抗日反日闘争、3秀田村虐殺、
   4「朝鮮村」、5林亜金さん、6朴来順さん、7田独鉱山・紀州鉱山、8興南・水俣・石碌、
   9回新村の歴史、10后石村で、11六郷村、12高福男さんと柳済敬さん、
   13日本軍用洞窟・飛行場・鉄道、14月塘村虐殺、15特攻艇「震洋」海南島基地、
   16「朝鮮報国隊」・「台湾報国隊」・「図南報国隊」。
 7、証言集。
Ⅹ、ドキュメンタリー    海南島人、中国人、朝鮮人、日本人……の共同作業。
 1、『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』 2007年夏までに英語版制作。
 2、『“朝鮮報国隊”』2007年夏までに完成。
 3、『抗日闘争期海南島民衆史 日本が占領した海南島でⅡ』2007年末までに完成。
ⅩⅠ、パネル展・企画展・上映会・シンポジウム・証言集会……
 1、上映会のときに、小規模パネル展、中規模パネル展、大規模パネル展を同時開催。
 2、世界各地での継続的上映運動・集会・パネル展。
  ▼海南島(秀田村……)、中国(上海、広州、北京……)、台湾で企画展、上映会。
  ▼韓国各地で、企画展、上映会。 
  ▼アイヌモシリ、ウルマネシア、日本各地で。
    ●大阪、東京などで:シンポジウム。
      「朝鮮報国隊」に入れられ海南島で働かされた高福男さんを囲む証言集会。
 3、大阪人権博物館での企画展『日本は海南島で何をしたか』再延期問題
       2004年延期問題と2006年延期問題とは、質が違う。
       企画展実現のための方針確認。
コメント

事務局会議

2006年10月05日 | 会議
10月1日、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建
立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会の合同事務局会議で、ことし(幸徳秋
水、管野スガら刑死後95年・「木本虐殺」80年後)の熊野での追悼集会・パネル
展示(12月2日・3日)のことや、「朝鮮村発掘」実現のためのこれからの方針、
海南島おける日本の侵略犯罪を総体的に認識し責任追求をすすめていく具体的方法な
どについて話し合いました。
コメント   トラックバック (1)