三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

月塘村追悼碑建立の歴史的意味

2013年12月12日 | 月塘村追悼碑
■虐殺63年後
 日本軍と日本企業がアジア太平洋の各地でおこなった侵略犯罪の一つひとつは、具体的にはほとんど明らかにされていません。
 海南島でも、日本軍は、多くの村落を襲撃し、住民虐殺、放火、略奪、性的暴行などの犯罪をくり返しました。
 しかし、海南島の村むらで、日本軍が殺害した村人の数や名前は、住民によって明らかにされ、墓標などに記録されている場合もありますが、多くはまだ闇のなかです。
みどり児や幼児をふくむ人びとを殺傷した日本兵の名や所属部隊名は、隠されたままです。
 日本敗戦の3か月半前、1945年農暦3月21日(5月2日)に、海南島万寧市万城鎮月塘(ユエタン)村を、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊万寧守備隊の日本兵が襲い、住民を虐殺しました。
 その63年後、2008年農暦3月21日(4月26日)に、月塘村の人びとは、犠牲者すべての名を刻んだ追悼碑を建立しました。

■追悼碑建立基金
 海南島近現代史研究会は、2007年8月5日の創立集会のとき、月塘村の犠牲者追悼碑建立のための募金運動を始めることを決めました。
 その後、追悼碑建立までの間に、海南島近現代史研究会に在日朝鮮人と日本人から寄せられた基金は、72万円5千円でした。

■民衆運動のひとつの拠点
 月塘村の追悼碑建立には、朝鮮民衆と日本民衆が、協力させてもらうことができました。
 この追悼碑を拠点にして、海南島近現代史研究会は、月塘村のみなさんとともに、日本政府に真相糾明にかんする公開質問をし、月塘村虐殺の事実を明らかにさせ、謝罪させ、賠償させ、責任者を処罰させる運動をすすめていきたいと思います。

■「致日本国政府要求書」
 追悼碑が除幕された日、2008年農暦3月21日(4月26日)に、月塘村の全村民は、日本政府につぎのことを要求する文書(「致日本国政府要求書」)を作成しました(『海南島近現代史研究』創刊号〈2008年8月〉98頁をみてください)。
 そこで、月塘村の村人は、つぎのことを要求しています。
   1、月塘村村民虐殺を行った日本軍人の名を公布せよ。
   2、われわれ月塘村村民に、国際社会に公開で謝罪せよ。
   3、受傷して生き残った幸存者と犠牲者家族に賠償せよ。
   4、月塘村に犠牲者を追悼する記念館を建設し、追悼式をおこなえ。
   5、焼失した家屋、強奪した財産を弁償せよ。

 2008年4月28日に、月塘村の全村民は、海南島近現代史研究会に、「致日本国政府要求書」を日本政府に渡すことを委託しました。

 この委託を受けて、海南島近現代史研究会は、おおくのみなさんとともに、月塘村のみなさんの要求を実現していく民衆運動をつづけていきたいと思います。
                                         海南島近現代史研究会





 
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月塘村全村民の「致日本国政府要求書」2

2008年08月07日 | 月塘村追悼碑
 中国海南省万寧市万城鎮月塘村全体村民の「要求日本国政府賠償請願書」の日本語訳文は、つぎのとおりです。


日本国政府に
 一九四五年五月二日(中国農暦乙酉年三月廿一日)、日本侵華軍“日本海軍佐世保鎮守府第八特別陸戦隊万寧守備隊”は、月塘村で、殺、焼、略奪をおこない、村民190人を殺し、33人を傷つけた(受傷者中いまも健在な者は15人である)。この日、日本軍は、さらに月塘村内の家屋30戸を焼き、耕牛などの財物を強奪した。
 日本軍は月塘三月廿一日惨案をひき起こして、われわれ月塘村の百以上の家庭から親しい家族を失わせるという苦痛をあたえ、われわれ月塘村村民に、ことばでは言い表すことのできない肉体的、精神的、物質的損失をもたらした。
 ここに、われわれはこころから憤慨し、日本政府に厳正につぎことを要求する。
  1、月塘村村民虐殺を行った日本軍人の名を公開せよ。
  2、われわれ月塘村村民に、国際社会に公開で謝罪せよ。
  3、受傷して生き残った幸存者と犠牲者家族に賠償せよ。
  4、月塘村に犠牲者を追悼する記念館を建設し、追悼式をおこなえ。
  5、焼失した家屋、強奪した財産を弁償せよ。
 日本軍がひき起こした月塘三月廿一日惨案に対するわれわれ月塘村村民の要求を、日本国政府が真剣に受け止め、具体的に回答することを希望する。
                 
                     中国海南省万寧市万城鎮
                           月塘村全体村民
         二〇〇八年四月二十六日(農歴三月廿一日)
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月塘村全村民の「致日本国政府要求書」 1

2008年08月04日 | 月塘村追悼碑
■虐殺63年後
 日本軍と日本企業がアジア太平洋の各地でおこなった侵略犯罪の一つひとつは、具体的にはほとんど明らかにされていません。
 海南島でも、日本軍は、多くの村落を襲撃し、住民虐殺、放火、略奪、性的暴行などの犯罪をくり返しました。
 しかし、海南島の村むらで、日本軍が殺害した村人の数や名前は、住民によって明らかにされ、墓標などに記録されている場合もありますが、多くはまだ闇のなかです。
 みどり児や幼児をふくむ人びとを殺傷した日本兵の名や所属部隊名は、隠されたままです。
 日本敗戦の3か月半前、1945年農暦3月21日(5月2日)に、海南島万寧市万城鎮月塘(ユエタン)村を、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊万寧守備隊の日本兵が襲い、住民を虐殺しました。
 その63年後、2008年農暦3月21日(4月26日)に、月塘村の人びとは、犠牲者すべての名を刻んだ追悼碑を建立しました。
■「致日本国政府要求書」
 追悼碑が除幕された日、2008年農暦3月21日(4月26日)に、は、日本政府につぎのことを要求する文書(「致日本国政府要求書」)を作成しました(『海南島近現代史研究』創刊号98頁をみてください)。
 そこで、月塘村の村人は、つぎのことを要求しています。
1、月塘村で村民を虐殺した日本軍人の名を公布せよ。
2、われわれ月塘村村民に、国際社会に公開で謝罪せよ。
3、受傷して生き残った幸存者と犠牲者家族に賠償せよ。
4、月塘村に犠牲者を追悼する記念館を建設し、追悼式をおこなえ。
5、焼失した家屋、強奪した財産を弁償せよ。

 4月28日に、月塘村の全村民は、海南島近現代史研究会に、「致日本国政府要求書」を日本政府に渡すことを委託しました。
 この委託を受けて、海南島近現代史研究会は、2008年8月3日の第2回総会で、日本政府に月塘村全村民の「致日本国政府要求書」を日本政府に渡し、要求にきちんと応えさせることを決定しました。
■民衆運動のひとつの拠点
 海南島近現代史研究会は、2007年8月5日の創立集会のとき、月塘村の犠牲者追悼碑建立のための募金運動を始めることを決めました。
 その後、追悼碑建立までの間に、海南島近現代史研究会に在日朝鮮人と日本人から寄せられた基金は、72万円5千円でした。
 月塘村の追悼碑建立に、朝鮮民衆と日本民衆が、協力させてもらうことができました。
 この追悼碑を拠点にして、月塘村のみなさんとともに、日本政府に真相糾明にかんする公開質問をし、月塘村虐殺の事実を明らかにさせ、謝罪させ、賠償させ、責任者を処罰させる運動をすすめていきたいと思います。
                       海南島近現代史研究会
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月塘村追悼碑建立のための基金を寄せてください

2008年02月14日 | 月塘村追悼碑
 日本軍と日本企業がアジア太平洋の各地でおこなった侵略犯罪の一つひとつは、具体的にはほとんど明らかにされていません。
 海南島でも、日本軍は、多くの村落を襲撃し、住民虐殺、放火、略奪、性的暴行などの犯罪をくり返しました。
 しかし、海南島の村むらで、日本軍が殺害した村人の数や名前は、住民によって明らかにされ、墓標などに記録されている場合もありますが、多くはまだ闇のなかです。
 みどり児や幼児を含む多くの村人を殺傷した日本兵の名や部隊名は、隠されたままです。
 日本敗戦わずか3か月半前、「沖縄戦」のさなか、1945年5月2日(農暦3月21日)に、海南島万寧市万城鎮月塘(ユェタン)村を、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊万寧守備隊の日本兵が襲い、多くの住民を銃剣や銃で殺しました。
 日本軍に襲撃され村民が虐殺された海南島の村むらには、村民が自分たちで追悼の碑を建立しているところもありますが、月塘村にはまだ追悼の碑がありません。
 月塘村の人びとは、いま、犠牲者全員の名を刻んだ追悼碑を建立しようとしています。

 わたしたちは、日本軍の残忍な犯罪事実と日本政府の侵略責任を明らかにするためにも、月塘村の追悼碑建立に協力させてもらいたいと思います。
 そして、月塘村のみなさんと共に、日本政府に真相糾明にかんする公開質問をし、月塘村虐殺の事実を明らかにさせ、謝罪させ、賠償させ、責任者を処罰させる運動をすすめていきたいと思います。

 海南島近現代史研究会は、昨年8月5日の創立集会のときに、月塘村の犠牲者追悼碑建立のための募金運動を始めることを決めました。
それから9月末までの約2か月の間に、在日朝鮮人と日本人から、51万円の基金が寄せられました。
 10月6日に、月塘村の村民は、「籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑領導小組」を結成しました。「籌建(チョウジェン)」とは、計画して建設をすすめるという意味の漢語です。
 この小組は、10月7日に、「籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑公告」を村内にはりだしました。そこには、
  一、籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑領導小組が成立したこと、
  二、建設費は、1、村民全員の捐献、2、海南島近現代史研究会の協力によること、
  三、建碑地は、月塘朱氏祖祠の西側であること、
  四、建碑地にある樹木や厠所は、協議して移転するか取り壊すこと、
  五、日寇殺害村民の実数と名前を確認すること、
という五項目が書かれていました。

 10月10日に、海南島近現代史研究会の会員が、月塘村の集会場で、籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑領導小組の組長である月塘村委員会書記の朱進平さんに、それまでに海南島近現代史研究会に寄せられていた基金をお渡ししました。
 追悼碑建立のためにはまだまだ少ない金額でしたが、月塘村の人びとは、海南島の民衆と朝鮮の民衆と日本の民衆が、未来に向かってともにすすむきっかけができたと言って、よろこんでくれました。
 つづいて、海南島近現代史研究会は、10月から12月まで、2回目の募金をおこない、16万円の寄金をいただき、籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑領導小組にお渡ししました。
 この追悼碑を建立するまでのさまざまな共同作業、そして建立後のさまざまな共同の運動のなかで、わたしたちは、日本の歴史的国家犯罪にかかわるひとつの事実を詳細に明らかにしていき、その歴史責任を追求していく東アジア民衆の連帯のきずなを強くしていきたいと思います。

 追悼碑の除幕は、2008年4月26日(農暦3月21日)を予定しています。
 追悼碑建立基金は、まだまだ十分ではありません。
 
 海南島近現代史研究会は、2008年1月から3月まで、3回目の募金をおこなっています。
 ご協力をお願いします。
 郵便振替口座番号は、「海南島近現代史研究会 00960-5-280485」です。

 募金第1期  2007年8月~9月   寄金   51万円
 募金第2期  2007年10月~12月  寄金   16万円
 募金第3期  2008年1月~3月   目標金額 50万円
                                      海南島近現代史研究会
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月塘村の追悼碑・紀州鉱山の追悼碑

2008年02月11日 | 月塘村追悼碑
 わたしが、はじめて海南島に行ったのは、10年前、1998年6月だった。
 そのとき、わたしは、紀州鉱山の真実を明らかにする会の一員として、主要には、海南島南部の田独鉱山に行き、そこで石原産業がおこなっていた企業犯罪を調査することを目的にしていた。
 三重県南部で紀州鉱山を経営していた石原産業は、1939年から朝鮮人を強制連行して働かせていたが、同じころ海南島でも海南人や朝鮮人を強制労働させていた。
 海南島に出発する準備をしているとき、わたしは、たまたま中国史学会・中国社会科学院近代史研究所編『抗日戦争』(四川大学出版社、1997年6月)を見た。そこには、海南島の「朝鮮村」に日本軍によって虐殺された朝鮮人がいまも埋められていると書かれてあった。
 海南島に着いた翌日、わたしは田独鉱山に行く前に、「朝鮮村」に行った。朝鮮人が埋められているという村の中央部の広い台地には、一面に豆などが植えられていた。その場所に案内してくれたひとは、どこを掘っても、骨が出てくる、と言った。
 日本にもどってからわたしは、紀州鉱山の真実を明らかにする会の仲間とともに、集中的に、「朝鮮村」に埋められている朝鮮人のことを調べた。
 この人たちは、日本支配下の朝鮮の刑務所から、「朝鮮報国隊」と名づけられて海南島に送られた人たちだった。朝鮮総督府の資料によれば、「朝鮮報国隊」は、約2000人が海南島に強制連行され、約1割の人たちしか、帰郷できなかった、と考えられる。「朝鮮報国隊」の人たちは、田独鉱山でも働かされていた。さらに、その後の調査で、「朝鮮報国隊」の人たちが、海南島各地の軍事施設などで、働かされたことがわかった。「朝鮮報国隊」として海南島に強制連行され、幸いに帰郷することができた数人に、韓国で話を聞かせていただくことができ、海南島に強制連行された経緯、海南島での労働の状況などが少しづつ、明らかになった。
 2004年に紀州鉱山の真実を明らかにする会は、ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』を制作したが、それは、「朝鮮報国隊」に焦点を合わせたものであった。
 2007年8月5日に、海南島近現代史研究会が結成され、海南島の近現代史研究は新しい段階にはいった。月塘村での追悼碑建立に具体的に協力することもできることになった。
 この年、10月末にはじめて月塘村を訪れたわたしを朝鮮人だと知った村人たちは、“同じ歴史を経験したあなたたち朝鮮人は仲間だ”と言って、抱擁するように歓待してくれた。 
 ことし、3月9日に、紀州鉱山で、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、朝鮮人犠牲者を追悼するはじめての集会を開く。この集会を契機にして、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、紀州鉱山に追悼碑を建立しようとしている。
 1894年の清日戦争直前の朝日戦争にはじまり1945年8月にいたる朝鮮での国家犯罪にたいし、国民国家日本は、いまだその歴史的責任をはたしていない。
 1939年2月から1945年8月までの海南島での国家犯罪にたいし、国民国家日本は、その歴史的責任をはたそうとするどころか、その犯罪事実を隠蔽しつづけてきた。
 月塘村の追悼碑と紀州鉱山の追悼碑。ふたつの追悼碑は、日本のアジア太平洋侵略の歴史を示すものでもある。 
                                                キムチョンミ
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海南島月塘(ユェタン)村の追悼碑建立基金第三期募金に協力してください

2008年01月01日 | 月塘村追悼碑
 日本軍と日本企業がアジア太平洋の各地でおこなった侵略犯罪の一つひとつは、具体的にはほとんど明らかにされていません。
 海南島でも、日本軍は、多くの村落を襲撃し、住民虐殺、放火、略奪、性的暴行などの犯罪をくり返しました。
 しかし、海南島の村むらで、日本軍が殺害した村人の数や名前は、住民によって明らかにされ、墓標などに記録されている場合もありますが、多くはまだ闇のなかです。
 みどり児や幼児をふくむ人びとを殺傷した日本兵の名や所属部隊名は、隠されたままです。

 日本敗戦わずか3か月半前、「沖縄戦」のさなか、1945年5月2日(農暦3月21日)に、海南島万寧市万城鎮月塘(ユェタン)村を、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊万寧守備隊の日本兵が襲い、多くの住民を銃剣や銃で殺しました。
 日本軍に襲撃され村民が虐殺された海南島の村むらには、村民が自分たちで追悼の碑を建立しているところもありますが、月塘村にはまだ追悼の碑がありません。
 月塘村の人びとは、いま、犠牲者全員の名を刻んだ追悼碑を建立しようとしています。

 わたしたちは、日本軍の残忍な犯罪事実と日本政府の侵略責任を明らかにするためにも、月塘村の追悼碑建立に協力させてもらいたいと思います。
 そして、月塘村のみなさんとともに、日本政府に真相糾明にかんする公開質問をし、月塘村虐殺の事実を明らかにさせ、謝罪させ、賠償させ、責任者を処罰させる運動をすすめていきたいと思います。

 海南島近現代史研究会は、昨年8月5日の創立集会以後、みなさんに募金への協力をお願いし、9月末までに、在日朝鮮人と日本人から、51万円の寄金をいただきました。
 追悼碑建立のためには少ない金額でしたが、月塘村の人びとは、海南島の民衆と朝鮮の民衆と日本の民衆が、未来に向かってともにすすむきっかけができたと言って、よろこんでくれました。
 つづいて、海南島近現代史研究会は、10月から12月まで、2回目の募金をおこない、16万円の寄金をいただき、籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑領導小組にお渡ししました。

 追悼碑建立基金は、まだまだ十分ではありません。
 2008年1月から3月まで、3回目の募金をおこないます。ご協力をお願いします。

  募金第1期 2007年8月~9月   寄金    51万円
  募金第2期 2007年10月~12月  寄金     16万円
  募金第3期 2008年1月~3月   目標金額 50万円

 月塘村追悼碑の除幕は、2008年農暦3月21日(陽暦4月26日)を予定しています。
 昨年10月6日に建設予定地の風水鑑定をおこない、11月10日に整地をはじめました。

  2008年1月1日

  海南島近現代史研究会                  
     連絡先 大阪産業大学経済学部 斉藤日出治研究室
                         大阪府大東市中垣内3
     郵便振替:海南島近現代史研究会 00960-5-280485
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海南島月塘(ユエタン)村の追悼碑建立基金第二期募金に協力してください

2007年10月21日 | 月塘村追悼碑
 日本軍と日本企業がアジア太平洋の各地でおこなった侵略犯罪の一つひとつは、具体的にはほとんど明らかにされていません。
 海南島でも、日本軍は、多くの村落を襲撃し、住民虐殺、放火、略奪、性的暴行などの犯罪をくり返しました。
 しかし、海南島の村むらで、日本軍が殺害した村人の数や名前は、住民によって明らかにされ、墓標などに記録されている場合もありますが、多くはまだ闇のなかです。
 みどり児や幼児をふくむ人びとを殺傷した日本兵の名や所属部隊名は、隠されたままです。

 日本敗戦わずか3か月半前、「沖縄戦」のさなか、1945年5月2日(農暦3月21日)に、海南島万寧市万城鎮月塘(ユエタン)村を、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊万寧守備隊の日本兵が襲い、住民を虐殺しました。
 日本軍に襲撃され村民が虐殺された海南島の村むらには、村民が自分たちで追悼の碑を建立しているところもありますが、月塘村にはまだ追悼の碑がありません。
月塘村の人びとは、いま、176人の犠牲者の名と年齢を刻んだ追悼碑を建立しようとしています。

 わたしたちは、日本軍の残忍な犯罪事実と日本政府の侵略責任を明らかにするためにも、月塘村の追悼碑の建立に参加させてもらいたいと思います。
 月塘村で1945年5月2日に虐殺された犠牲者を追悼する碑を建立することに参加させてもらう過程で、月塘村のみなさんとともに、日本政府に真相糾明にかんする公開質問をし、月塘村虐殺の事実を明らかにさせ、謝罪させ、賠償させ、責任者を処罰させる運動をすすめていきたいと思います。

 海南島近現代史研究会は、ことし8月5日の創立集会以後、みなさんに募金への協力をお願いし、9月末までに、在日朝鮮人と日本人から、総計51万円の寄金をいただきました。ありがとうございました。この51万円は、10月10日に、月塘村で直接、籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑領導小組にお渡ししました。
 追悼碑建立のためには少ない金額でしたが、月塘村の人びとは、海南島の民衆と朝鮮の民衆と日本の民衆が、未来に向かってともにすすむきっかけができたと言って、よろこんでくれました。

 追悼碑建立基金は、まだまだ十分ではありません。
 2007年10月から12月まで、2回目の募金をおこないます。ご協力をお願いします。

    募金第1期  2007年8月~9月    寄金   51万円
    募金第2期  2007年10月~12月   目標金額 70万円
    募金第3期  2008年1月~3月     目標金額 50万円

 月塘村追悼碑の除幕は、2008年農暦3月21日(陽暦4月26日)を予定しています。

 海南島近現代史研究会                  
   連絡先:大阪産業大学経済学部 斉藤日出治研究室
              大阪府大東市中垣内3-1 
   郵便振替:海南島近現代史研究会 00960-5-280485
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2007年10月10日 月塘村で

2007年10月16日 | 月塘村追悼碑
 2007年10月10日午前10時半から、月塘村集会場で、籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑領導小組が主催する会議がもたれました。
 出席したのは、村民や小組員15人と、海南島近現代史研究会の佐藤正人と通訳してくれる林彩虹さんの計15人でした。
 はじめに、組長である月塘村委員会書記朱進平さんが、次のような挨拶をしました。
    「追悼碑を建立することは、これまでずっとみんなの願いでし
    た。しかし、いくつかの原因で、これまで建立を実現すること
    ができませんでした。
     今年1月に佐藤さんたちがわたしたちの村に来たときに、み
    んながあらあためてこのことを話ししたとき、佐藤さんたち
    は、このことに強い関心をよせ、熱心に支持しようとしまし
    た。
     今回ついに、籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑領導小組が成
    立しました。
     わたしたちは、佐藤さんたちが月塘村に来て支持してくださ
    ることに感謝します」。

 わたしは、
    「月塘村追悼碑建立のための海南島近現代史研究会の協力
は、基金の額はとても小さいけれども、その意味は大きい
と思います。
     8月5日に海南島近現代史研究会が創立されてから、8月と
    9月の2か月間で、ある人は1000円、ある人は10万円の寄金
    をおこないましたが、金額よりも寄金をよせる民衆の数が
    重要だと思います。
     基金をよせたのは、日本に住む日本人と朝鮮人です。日
    本人と朝鮮人とでは、寄金をする意味が異なります。朝鮮
    は以前、日本に侵略されていました。だから、日本にいる
    朝鮮人は、同じような被害を理解する心情で、月塘村のみ
    なさんに協力したのだと思います。
     海南島の民衆、朝鮮民衆、日本民衆が共同で、日本の侵
    略犯罪を明らかにし、その犠牲者の追悼碑を建立すること
    の歴史的意味は大きいと思います。
     月塘村の追悼碑建立に協力させていただくことになり、
    ありがたく思っています‥‥」
という意味のことを話しました。それを林彩虹さんは、漢語にではなく海南語に通訳してくれました。村人のなかには漢語をよく聞きとることができない人もいます。
 その後、わたしは、海南島近現代史研究会の寄金を朱進平さんに手渡しました。

 このとき、手渡すことができたのは、9月までに海南島近現代史研究会あてに月塘村追悼碑建立基金として寄せられた総額51万円でした。
 少ない金額でしたが、月塘村の人びとは、海南島の民衆と朝鮮の民衆と日本の民衆が、未来に向かってともにすすむきっかけができたと言って、よろこんでくれました。

 会議のあと、朱学基さんに案内されて、日本軍襲撃時の月塘村の中心部に行きました。そこには、当時の家が廃墟になって残っていました。
                                     佐藤正人
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籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑公告

2007年10月15日 | 月塘村追悼碑
 10月7日、月塘村に「籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑公告」がはりだされました。
 それは、10月6日付けで籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑領導小組によって作成されたもので、「籌建(チョウジェン)」とは、計画して建設をすすめるという意味の漢語です。
 そこには、
   一、籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑領導小組が成立したこと、
   二、建設費は、1、村民全員の捐献、2、海南島近現代史研究
    会の協力によること、
   三、建碑地は、月塘朱氏祖祠の西側であること、
   四、建碑地にいまある樹木や建物などは、商議して移転するか
    取り壊すこと、
   五、日寇殺害村民の実数と名前を確認すること、
の五項目が書かれています。
 籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑領導小組の組長は、月塘村委員会書記の朱進平さん、副組長は朱振華さんと朱学基さんで、成員は朱進春さん、朱建華さん、朱全治さんら「幸存者」をふくむ15人です。

 10月6日午後2時半から、朱振華さんと朱学基さんらが立ち会って、風水師による追悼碑建立予定地の観測がおこなわれました。その場所は、追悼碑を建てるのにたいへんよいとのことでした。
 そこは、月塘に面した広場で、日本軍が襲ってきたとき朱学平さんの家があった場所のすぐ近くです。62年まえは、深い林だったそうです。

 その前日、10月5日に、わたしたちは、朱学孔さん(1934年生)に、虐殺現場で話を聞かせてもらいました。朱学孔さんは、ときどき声をつまらせながら、つぎのように話しました。
    「あのとき、日本軍が家の門から侵入し、すぐに小さな部屋で
   殺人をはじめた。9人が殺された。母、父の2番目の弟(朱開賢)、
   朱開賢さんの妻、朱学訓の父(朱開椿)、華蓮、東魯、朱学遊の
   母(呉氏)、学遊の兄(名前はまだなかった)、鴻勝が、庭で銃
   で撃たれて殺された。家のなかも、庭も、血だらけだった。
    日本兵が来たとき、母はわたしを寝台の下に隠し、自分は戸
   板で体を隠した。当時の戸板は、竹でできていたので、日本兵
   が家を焼いたとき、母は見つかってしまった。
    日本兵は母を刀で何度も刺した。母は、気を失ったが、醒め
   て水がほしくなって、わたしを抱いて水のところに行った。這
   って水のところに行って、一口飲んだら、すぐに母は死んだ。
    一人の大人が二人の子どもの遺体をかごにいれて運び、大人
   の遺体は二人の大人がかごで運んで、いっしょに埋めた。
    日本が敗けたあと、遺骨を探して、埋葬しなおした。
    あの日、父と弟は、やまに芋を見張りに行っていたので助かっ
   た。そうでなければ、家にいて殺されただろう」。
                                  佐藤正人
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海南島月塘村追悼碑建立基金募金 第1期

2007年09月23日 | 月塘村追悼碑
■海南島月塘村追悼碑建立基金募金
 8月5日から9月30日までの第1期募金への協力ありがとうございました。
 目標金額の60万円(200口)に近づきました。
 9月30日までにみなさんから寄せられた基金は、10月始めに月塘村にとどけます。

   海南島近現代史研究会                  
   連絡先  大東市中垣内3-1 大阪産業大学経済学部 斉藤日出治研究室
   郵便振替:海南島近現代史研究会 00960-5-280485
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