前夜、龍滾(写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』20頁を見てください)に宿泊したわたしたちは、4月28日朝9時に、燕嶺坡の“三・一”被難公塚で、曹靖さんに会いました。“三・一”被難公塚を訪れるのは、わたしは4度目ですが、こんど同行した二人の海南島近現代史研究会会員ははじめてでした。曹靖さんに、“三・一”被難公塚のなりたちについて、くわしく話しを聞かせてもらいました。
日本敗戦後、1950年5月まで、海南島は国民党が支配していました。“三・一”被難公塚は、その時期、1947年につくられました。そのとき、数百人の犠牲者が埋められているところに、コンクリートの平らな大きな厚い覆いが二つつくられ、その前に「民国三十六年季春月 楽会県互助郷坡村長仙三古南橋雅昌佳文鳳嶺吉嶺官園等村抗戦死難民衆公墓」と刻まれた墓碑(写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』14頁を見てください)が建てられました。
公墓のコンクリートの覆いにひびがはいってきたので、1984年に重修され、墓碑の前方に、“三・一”被難公塚紀念亭がつくられました。このとき、墓域全域が、大きく「整備」され、2001年1月に、さらに「改修」されたようです。
墓域の右側入り口に、瓊海人民政府が2003年5月20日に立てた「瓊海市文物保護単位 燕嶺坡“三・一”殉難民衆公墓」と書かれた石版がありました。
曹靖さんは、「怖かったので、1947年まではここに来たことがなかった。コンクリートの覆いが被せられる以前にこの虐殺現場がどのような状態だったのかは知らない。ここにいまも数百人の遺骨が埋められている」と言いました。
墓碑に向かって左側に、1947年に建てられた墓誌が移されていました。その文字はほとんど読めなくなっていましたが、「六百餘人」が殺されたと書かれていました。この「六百餘人」という文字は、曹靖さんに指さされて判読できました。
そのとき、長仙村委員長の馮冰雄さんから、「長仙村の近くに1944年に52人が日本軍に殺された村がある。そこにこれから案内したい」という電話がありました。馮冰雄さんは、昨年5月にはじめて長仙村を訪れたとき、坡村の欧宗柳さんの家につれていってくれた人です(「日本軍の住民虐殺の場で、生き残った人びとの証言を聞いて………」、『パトローネ』70号〈2007年8月〉を見てください)。馮冰雄さんにはことし4月6日の“三・一”被難公塚での追悼集会のときに再会し、28日に長仙村に行くと伝えていました。
馮冰雄さんが案内してくれたのは、長仙村や鳳嶺村から1キロほどの所にある戴桃村でした。
この村を、1944年農暦11月8日早朝、日本軍が包囲し、村人を1軒の家におしこめ、52人を殺したそうです。このとき生き残った人が1人だけ健在ですが、いまは遠くの村に住んでいるとのことでした。この村を再訪する前に、あらかじめ連絡すれば、その人に会えるようにすると、戴桃村委員長の陳業著さんが約束してくれました。
虐殺現場には当時の建物の土台石が残っていました。
村人に案内されて、犠牲者の墓地に行きました。1983年につくられた墓地には「瓊海県戴桃村林姓兄弟戦死殉難公墓」と刻まれた墓石が、そのそばに犠牲者の名を刻んだ碑が、建てられていました。犠牲者の名を刻んだ碑は、「殉難者姓名」というすこし大きな文字は読めましたが、名前はまったく判読できないほど摩滅していました。この碑の原稿を書いた人は死んでしまったので、いまでは犠牲者全員の名を確かめることはできなくなっているとのことでした。
戴桃村は、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊中原守備隊本部と橋園守備隊本部を結ぶ軍用道路の中間地点にあり、村の入り口近くの高台に、日本軍の望楼があったそうです。1944年年農暦11月8日に村を襲ったのは、橋園守備隊の日本兵たちでした。日本軍が周辺の村人たちにつくらせた軍用道路は、いまの道よりは狭いが、軍用トラックが通れるほどの道だったそうです。
戴桃村から中原・橋園間の道路を橋園方向に700メートルほど行って右折し、さらに500メートルほど行くと、鳳嶺村に着きました。
欧宗朝さん(1934年生)は、鳳嶺村の自宅で
「1945年3月1日のあの日の前、すでにわたしたち一家は日本軍をおそれて親戚の家
に行っていた。3月1日のあとも、日本軍は、たびたび村に捜索にやってきた。ある
とき、父と母が山(来赤嶺)から戻る途中に、日本軍に見つかって、銃で撃たれた。
父(欧継開)はその場で死んだ。母(欧何氏)は1か月後に死んだ」
と話しました。
欧宗朝さんから話しを聞いているところに、欧先梅さん(1939年生)が来て、つぎのように話しました。
「日本軍が村に来て人を殺したとき、わたしは5歳だった。わたしの家族は、母、父、
伯母、弟、わたしの5人だった。あの日父は中原の治安維持会に“験証”に行ってお
り、母と伯母と小さな弟が家にいた。朝8時ころだった。わたしは牛飼いに行ってい
て7、8人の日本兵が村に入って来るのを見た。
日本兵は、人を見つけると追いたて、そのとき村にいた人をみんな1軒の家におし
こめた。1歳だった弟(欧先光)は、伯母(欧宗英)に抱かれておしこめられた。わ
たしも追いたてられたが、そのとき路で日本兵がわたしより小さい子どもの背中に
銃剣を突きつけているのを見た。日本兵は、わたしたちのような幼い子どもも年寄
りもみんな1軒の家におしこめた。途中の路上に何人かの村人が刺し殺されて倒れて
いた。
その家の入り口が閉ざされ、窓も閉められた。10人あまりが入れられていた。あ
の家は、新しくとても大きかった。日本兵はわら束に火をつけ、それで家を焼いた。
家の中が熱くなった。わたしは小さかったのでベッドの下にもぐりこんだ。
窓から逃げようとした年寄りの1人は、外にいた日本兵に撃たれて死んだ。その血
がわたしの身体にしたたり落ちた。その血はとても熱かった。
欧宗鑫もわたしといっしょに閉じ込められていたが、逃げ出すことができた。し
かし、日本兵に見つかって13か所刺された。刺された欧宗鑫はわら束のなかにほう
りこまれて火をつけられた。火をつけたあとすぐに日本兵はいなくなった。戻って
きた村人が欧宗鑫を見つけて助けることができた。欧宗鑫は数年前に死んだ。
その家の持ち主は南洋に行っていた。その娘は、結婚して橋園にいた。この日、
橋園から来た日本軍は、橋園の村人を連れて来ていた。鳳嶺村で奪ったものを橋園
まで運ばせるためだ。その村人のなかに、その娘がいた。
あの日午後2時ころ、その娘は自分の実家の家が燃やされ、中に人がいるのを知っ
て、むしろや木の板を投げ入れて火をしずめた。家のなかにいたわたしは、それを
踏みつけて逃げ出すことができた。
あの時、5人が家のなかで焼き殺され、8人ほどが逃げ出して助かった。
年寄り1人が窓のところで銃で殺された。家のなかにあった水甕のなかで死んだ人
もいた。入り口までに出し、日本兵に刺し殺された人もいた。焼かれたあと家の庭
で死んだ人もいた。
伯母は、家に火をつけられ、年寄りの1人が窓から逃げだそうとして銃で撃たれて
死んだとき、額に弾があたったが、逃げだすことができた。
わたしの母(厳興美)は26歳だった。村人10人(女9人、男1人)がといっしょに
“験証”に中原に行った。その後、燕嶺坡に連れていかれ、日本兵が、“服を全部
脱げ。きょうお前たちを殺す”と言った。日本兵が他の人を殺しているとき、母は
逃げ出した。日本兵が銃で撃ったが母にあたらなかった。母は、運良くにげだすこ
とができた。
欧先梅さんに案内されて、欧宗朝さんの家から、日本軍に焼かれた家の跡に向かいました。途中、欧先梅さんは、「ここで3人殺されていた。向こう側で2人、その先で2人殺されていた。その様子は、忘れることができない」と話しました。わたしたちは、その現場を撮影しましたが、そこは、ビンロウの樹や椰子の樹が立っている赤土の路上でした。
日本軍に焼かれた家はレンガで造られていたので、その1部が残っていました。
欧先梅さんと別れたあと、突然降り出した激しい雨の中、鳳嶺村から、長仙村に行き、欧育援さんの自宅を訪ねました。欧育援さんには、4月6日に燕嶺坡で会ったとき、28日に話を聞かせてもらう約束をしてありました。
欧育援さん(77歳)は、つぎのように話しました。
「日本軍が村民を中原に“験証”に行かせたとき、わたしの母(欧余氏)と義理の姉(欧
林氏)も行かされた。父も兄も南洋に行っていた。わたしも“験証”に中原に行かさ
れた。しかし、子どもだったので、別のところに監禁された。大人たちはみんな中原
の望楼で両手を紐で縛られ燕嶺坡に連れて行かれた。
母と義理の姉は、燕嶺坡で日本軍に殺された。母は40歳くらいだった。
あの日、わたしは、中原青年団の建物の中に監禁された。そこにはたくさんの子ど
もや年寄りがいた。次の日の午後、わたしは家に戻った。家も中の物も、全部焼か
れていた。わたしの家のある奄同園にあった9軒の家がみんな焼き払われていた。その
後、再建できたのは、わたしの家と欧継亜の家の2軒だけだ。
あの日、わたしの弟(欧育河)は、牛飼いに行っていた。祖母は外出していた。二
人とも帰ってみたら家が焼かれてなくなっていた。残っていたのは、台所だけだっ
た。
祖母は、そこで暮らし、わたしと弟は、内村の伯母(母の姉)の家に行った。
そこでかっきり5年間くらしてから、戻って祖母といっしょに小さな台所でくらした。
母は、おだやかな性格の人だった。わたしたちをとても可愛がってくれた。農業
をしていた。
母が日本軍に殺されたことを知ったとき、わたしも弟も声をあげて哭き、死にた
いと思った。
村人を殺したもっとも悪劣が日本軍には、血をもって償わせたい。
日本軍が敗
けたときにはうれしかったが、そのまま帰してしまったことが残念だ」。
この日ずっと同行してくれた曹靖さんは、欧育援さんの二つ年上で、家がすぐ近くの幼友達でした。欧育援さんの話しを聞いたあと、曹靖さんに話しを聞きました。
曹靖さんは、こう話しました。
「日本軍が海南島に来た1939年に、母は病気だったが、まもなく死んだ。そのとき、う
えの兄(曹家燦)は17歳くらい、したの兄(曹家軒)は8歳だった。姉(曹家臣)は結
婚してよその村にいた。わたしは5歳だった。父は南洋に行っていた。
1945年に日本軍が村に来て中原に“験証”に行かせようとしたとき、うえの兄は行か
ないで山に逃げた。したの兄は中原に“験証”に行ったが、つぎの日に戻ってきた。
わたしは小さかったので“験証”に行かなかった。
あのとき、うえの兄は24歳、したの兄は15歳、わたしは12歳だった。
当時、日本軍が村にくるたびに、兄たちは山に逃げ、夜に戻ってきた。村のわ
かものは、みんなそうしていた。
日本軍が多くの村人を殺してから10日あまりたったころ、うえの兄は、欧純正、
欧純三、曹欧氏3人が、日本軍に刺し殺されるときの悲鳴を聞いたという。うえの兄
は、山から村に戻らなくなった。その後、兄がどうなったか、わからない。殺されて
死んだのかもしれない。
それからは、わたしは、したの兄といっしょに暮らした。
わたしは、日本兵をこころから憎んでいる。軍帽をかぶった長いひげをはやした日
本兵が、とくにとても残忍だった。
家族は殺されなかったが、わたしたち兄弟はあちこちに流浪した。食べるものも着
るものもなく、山の草を食べた。
日本が敗けたとき、わたしはしたの兄と家にいた。うれしくて大声をだして飛び跳
ねた。
父は南洋に行ったきり戻らなかった。
敗けた日本兵は、一台、また一台と、車に乗って帰って行った。復讐したかったが
できなかった。かれらが安全に無事に帰って行くのを見て、こころの底からの怒りを
感じた」。
曹靖さんから話しを聞きおわったら夕方5時になっていました。
それから、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊橋園守備隊本部があった橋園に向かいました。
長仙村から西に5キロほど行ったところが橋園でした。龍滾守備隊があった龍滾も、陽江守備隊があった陽江も、中原守備隊があった中原も、いまは鎮政府所在地であり数千人規模の街ですが、橋園は、陽江鎮内の小さな農村でした。
たまたま出会った青年、厳煥さんに、橋園守備隊本部があった場所を教えてもらいました。その近くに、守備隊本部が使っていたという井戸が残っていました。厳煥さんに、当時の橋園の中心部(橋園老市)に案内してもらいました。そこは橋園守備隊本部があった場所から数百メートル離れたところで、いまは人家がありませんでした。治安維持会があったという場所にはいちめんに潅木が生えていました。厳煥さんには、当時のことを知っているという符国民さん(86歳)の家にの連れていってもらいました。
符国民さんは、
「わたしは、1943年ころ日本軍の望楼で水汲みや炊事をした。日本兵に木の棒ですね
を叩かれたことがある。その傷跡がいまも残っている。
橋園の望楼は4角形で3階建てだった。日本軍が村人につくらせたものだ。
日本軍が陽江に行って、橋園の望楼には日本兵が10人ほどしか残っていないときが
あった。そのとき、薪を背負って農夫の姿をした共産党の部隊が日本兵全員を殺し
た。そのまえに共産党の部隊は、わたしが傷つかないように望楼の外に連れ出して
いた」
と話しました。
この日(4月28日)は、あわただしい一日でした。2002年10月、2007年5月、2007年10月の「調査」の後の、ことし4月27日とこの日の2日間の聞きとりで、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊中原守備隊、陽江守備隊、橋園守備隊所属兵士たちの犯罪の実体をいくらか知ることができました。聞きもらしたこともたくさんあります。とくに符国民さんから話しを聞かせてもらう時間が少なかったのがきがかりです。ことし、9月に、再訪したいと思います。
曹靖さんは、2005年8月に出した『日本法西斯“三光”政策罪行録 回顧長仙聯村“三・一”血泪史』の改訂版を準備中で、ことし9月ころ出版したいと言っていました。
佐藤正人
日本敗戦後、1950年5月まで、海南島は国民党が支配していました。“三・一”被難公塚は、その時期、1947年につくられました。そのとき、数百人の犠牲者が埋められているところに、コンクリートの平らな大きな厚い覆いが二つつくられ、その前に「民国三十六年季春月 楽会県互助郷坡村長仙三古南橋雅昌佳文鳳嶺吉嶺官園等村抗戦死難民衆公墓」と刻まれた墓碑(写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』14頁を見てください)が建てられました。
公墓のコンクリートの覆いにひびがはいってきたので、1984年に重修され、墓碑の前方に、“三・一”被難公塚紀念亭がつくられました。このとき、墓域全域が、大きく「整備」され、2001年1月に、さらに「改修」されたようです。
墓域の右側入り口に、瓊海人民政府が2003年5月20日に立てた「瓊海市文物保護単位 燕嶺坡“三・一”殉難民衆公墓」と書かれた石版がありました。
曹靖さんは、「怖かったので、1947年まではここに来たことがなかった。コンクリートの覆いが被せられる以前にこの虐殺現場がどのような状態だったのかは知らない。ここにいまも数百人の遺骨が埋められている」と言いました。
墓碑に向かって左側に、1947年に建てられた墓誌が移されていました。その文字はほとんど読めなくなっていましたが、「六百餘人」が殺されたと書かれていました。この「六百餘人」という文字は、曹靖さんに指さされて判読できました。
そのとき、長仙村委員長の馮冰雄さんから、「長仙村の近くに1944年に52人が日本軍に殺された村がある。そこにこれから案内したい」という電話がありました。馮冰雄さんは、昨年5月にはじめて長仙村を訪れたとき、坡村の欧宗柳さんの家につれていってくれた人です(「日本軍の住民虐殺の場で、生き残った人びとの証言を聞いて………」、『パトローネ』70号〈2007年8月〉を見てください)。馮冰雄さんにはことし4月6日の“三・一”被難公塚での追悼集会のときに再会し、28日に長仙村に行くと伝えていました。
馮冰雄さんが案内してくれたのは、長仙村や鳳嶺村から1キロほどの所にある戴桃村でした。
この村を、1944年農暦11月8日早朝、日本軍が包囲し、村人を1軒の家におしこめ、52人を殺したそうです。このとき生き残った人が1人だけ健在ですが、いまは遠くの村に住んでいるとのことでした。この村を再訪する前に、あらかじめ連絡すれば、その人に会えるようにすると、戴桃村委員長の陳業著さんが約束してくれました。
虐殺現場には当時の建物の土台石が残っていました。
村人に案内されて、犠牲者の墓地に行きました。1983年につくられた墓地には「瓊海県戴桃村林姓兄弟戦死殉難公墓」と刻まれた墓石が、そのそばに犠牲者の名を刻んだ碑が、建てられていました。犠牲者の名を刻んだ碑は、「殉難者姓名」というすこし大きな文字は読めましたが、名前はまったく判読できないほど摩滅していました。この碑の原稿を書いた人は死んでしまったので、いまでは犠牲者全員の名を確かめることはできなくなっているとのことでした。
戴桃村は、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊中原守備隊本部と橋園守備隊本部を結ぶ軍用道路の中間地点にあり、村の入り口近くの高台に、日本軍の望楼があったそうです。1944年年農暦11月8日に村を襲ったのは、橋園守備隊の日本兵たちでした。日本軍が周辺の村人たちにつくらせた軍用道路は、いまの道よりは狭いが、軍用トラックが通れるほどの道だったそうです。
戴桃村から中原・橋園間の道路を橋園方向に700メートルほど行って右折し、さらに500メートルほど行くと、鳳嶺村に着きました。
欧宗朝さん(1934年生)は、鳳嶺村の自宅で
「1945年3月1日のあの日の前、すでにわたしたち一家は日本軍をおそれて親戚の家
に行っていた。3月1日のあとも、日本軍は、たびたび村に捜索にやってきた。ある
とき、父と母が山(来赤嶺)から戻る途中に、日本軍に見つかって、銃で撃たれた。
父(欧継開)はその場で死んだ。母(欧何氏)は1か月後に死んだ」
と話しました。
欧宗朝さんから話しを聞いているところに、欧先梅さん(1939年生)が来て、つぎのように話しました。
「日本軍が村に来て人を殺したとき、わたしは5歳だった。わたしの家族は、母、父、
伯母、弟、わたしの5人だった。あの日父は中原の治安維持会に“験証”に行ってお
り、母と伯母と小さな弟が家にいた。朝8時ころだった。わたしは牛飼いに行ってい
て7、8人の日本兵が村に入って来るのを見た。
日本兵は、人を見つけると追いたて、そのとき村にいた人をみんな1軒の家におし
こめた。1歳だった弟(欧先光)は、伯母(欧宗英)に抱かれておしこめられた。わ
たしも追いたてられたが、そのとき路で日本兵がわたしより小さい子どもの背中に
銃剣を突きつけているのを見た。日本兵は、わたしたちのような幼い子どもも年寄
りもみんな1軒の家におしこめた。途中の路上に何人かの村人が刺し殺されて倒れて
いた。
その家の入り口が閉ざされ、窓も閉められた。10人あまりが入れられていた。あ
の家は、新しくとても大きかった。日本兵はわら束に火をつけ、それで家を焼いた。
家の中が熱くなった。わたしは小さかったのでベッドの下にもぐりこんだ。
窓から逃げようとした年寄りの1人は、外にいた日本兵に撃たれて死んだ。その血
がわたしの身体にしたたり落ちた。その血はとても熱かった。
欧宗鑫もわたしといっしょに閉じ込められていたが、逃げ出すことができた。し
かし、日本兵に見つかって13か所刺された。刺された欧宗鑫はわら束のなかにほう
りこまれて火をつけられた。火をつけたあとすぐに日本兵はいなくなった。戻って
きた村人が欧宗鑫を見つけて助けることができた。欧宗鑫は数年前に死んだ。
その家の持ち主は南洋に行っていた。その娘は、結婚して橋園にいた。この日、
橋園から来た日本軍は、橋園の村人を連れて来ていた。鳳嶺村で奪ったものを橋園
まで運ばせるためだ。その村人のなかに、その娘がいた。
あの日午後2時ころ、その娘は自分の実家の家が燃やされ、中に人がいるのを知っ
て、むしろや木の板を投げ入れて火をしずめた。家のなかにいたわたしは、それを
踏みつけて逃げ出すことができた。
あの時、5人が家のなかで焼き殺され、8人ほどが逃げ出して助かった。
年寄り1人が窓のところで銃で殺された。家のなかにあった水甕のなかで死んだ人
もいた。入り口までに出し、日本兵に刺し殺された人もいた。焼かれたあと家の庭
で死んだ人もいた。
伯母は、家に火をつけられ、年寄りの1人が窓から逃げだそうとして銃で撃たれて
死んだとき、額に弾があたったが、逃げだすことができた。
わたしの母(厳興美)は26歳だった。村人10人(女9人、男1人)がといっしょに
“験証”に中原に行った。その後、燕嶺坡に連れていかれ、日本兵が、“服を全部
脱げ。きょうお前たちを殺す”と言った。日本兵が他の人を殺しているとき、母は
逃げ出した。日本兵が銃で撃ったが母にあたらなかった。母は、運良くにげだすこ
とができた。
欧先梅さんに案内されて、欧宗朝さんの家から、日本軍に焼かれた家の跡に向かいました。途中、欧先梅さんは、「ここで3人殺されていた。向こう側で2人、その先で2人殺されていた。その様子は、忘れることができない」と話しました。わたしたちは、その現場を撮影しましたが、そこは、ビンロウの樹や椰子の樹が立っている赤土の路上でした。
日本軍に焼かれた家はレンガで造られていたので、その1部が残っていました。
欧先梅さんと別れたあと、突然降り出した激しい雨の中、鳳嶺村から、長仙村に行き、欧育援さんの自宅を訪ねました。欧育援さんには、4月6日に燕嶺坡で会ったとき、28日に話を聞かせてもらう約束をしてありました。
欧育援さん(77歳)は、つぎのように話しました。
「日本軍が村民を中原に“験証”に行かせたとき、わたしの母(欧余氏)と義理の姉(欧
林氏)も行かされた。父も兄も南洋に行っていた。わたしも“験証”に中原に行かさ
れた。しかし、子どもだったので、別のところに監禁された。大人たちはみんな中原
の望楼で両手を紐で縛られ燕嶺坡に連れて行かれた。
母と義理の姉は、燕嶺坡で日本軍に殺された。母は40歳くらいだった。
あの日、わたしは、中原青年団の建物の中に監禁された。そこにはたくさんの子ど
もや年寄りがいた。次の日の午後、わたしは家に戻った。家も中の物も、全部焼か
れていた。わたしの家のある奄同園にあった9軒の家がみんな焼き払われていた。その
後、再建できたのは、わたしの家と欧継亜の家の2軒だけだ。
あの日、わたしの弟(欧育河)は、牛飼いに行っていた。祖母は外出していた。二
人とも帰ってみたら家が焼かれてなくなっていた。残っていたのは、台所だけだっ
た。
祖母は、そこで暮らし、わたしと弟は、内村の伯母(母の姉)の家に行った。
そこでかっきり5年間くらしてから、戻って祖母といっしょに小さな台所でくらした。
母は、おだやかな性格の人だった。わたしたちをとても可愛がってくれた。農業
をしていた。
母が日本軍に殺されたことを知ったとき、わたしも弟も声をあげて哭き、死にた
いと思った。
村人を殺したもっとも悪劣が日本軍には、血をもって償わせたい。
日本軍が敗
けたときにはうれしかったが、そのまま帰してしまったことが残念だ」。
この日ずっと同行してくれた曹靖さんは、欧育援さんの二つ年上で、家がすぐ近くの幼友達でした。欧育援さんの話しを聞いたあと、曹靖さんに話しを聞きました。
曹靖さんは、こう話しました。
「日本軍が海南島に来た1939年に、母は病気だったが、まもなく死んだ。そのとき、う
えの兄(曹家燦)は17歳くらい、したの兄(曹家軒)は8歳だった。姉(曹家臣)は結
婚してよその村にいた。わたしは5歳だった。父は南洋に行っていた。
1945年に日本軍が村に来て中原に“験証”に行かせようとしたとき、うえの兄は行か
ないで山に逃げた。したの兄は中原に“験証”に行ったが、つぎの日に戻ってきた。
わたしは小さかったので“験証”に行かなかった。
あのとき、うえの兄は24歳、したの兄は15歳、わたしは12歳だった。
当時、日本軍が村にくるたびに、兄たちは山に逃げ、夜に戻ってきた。村のわ
かものは、みんなそうしていた。
日本軍が多くの村人を殺してから10日あまりたったころ、うえの兄は、欧純正、
欧純三、曹欧氏3人が、日本軍に刺し殺されるときの悲鳴を聞いたという。うえの兄
は、山から村に戻らなくなった。その後、兄がどうなったか、わからない。殺されて
死んだのかもしれない。
それからは、わたしは、したの兄といっしょに暮らした。
わたしは、日本兵をこころから憎んでいる。軍帽をかぶった長いひげをはやした日
本兵が、とくにとても残忍だった。
家族は殺されなかったが、わたしたち兄弟はあちこちに流浪した。食べるものも着
るものもなく、山の草を食べた。
日本が敗けたとき、わたしはしたの兄と家にいた。うれしくて大声をだして飛び跳
ねた。
父は南洋に行ったきり戻らなかった。
敗けた日本兵は、一台、また一台と、車に乗って帰って行った。復讐したかったが
できなかった。かれらが安全に無事に帰って行くのを見て、こころの底からの怒りを
感じた」。
曹靖さんから話しを聞きおわったら夕方5時になっていました。
それから、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊橋園守備隊本部があった橋園に向かいました。
長仙村から西に5キロほど行ったところが橋園でした。龍滾守備隊があった龍滾も、陽江守備隊があった陽江も、中原守備隊があった中原も、いまは鎮政府所在地であり数千人規模の街ですが、橋園は、陽江鎮内の小さな農村でした。
たまたま出会った青年、厳煥さんに、橋園守備隊本部があった場所を教えてもらいました。その近くに、守備隊本部が使っていたという井戸が残っていました。厳煥さんに、当時の橋園の中心部(橋園老市)に案内してもらいました。そこは橋園守備隊本部があった場所から数百メートル離れたところで、いまは人家がありませんでした。治安維持会があったという場所にはいちめんに潅木が生えていました。厳煥さんには、当時のことを知っているという符国民さん(86歳)の家にの連れていってもらいました。
符国民さんは、
「わたしは、1943年ころ日本軍の望楼で水汲みや炊事をした。日本兵に木の棒ですね
を叩かれたことがある。その傷跡がいまも残っている。
橋園の望楼は4角形で3階建てだった。日本軍が村人につくらせたものだ。
日本軍が陽江に行って、橋園の望楼には日本兵が10人ほどしか残っていないときが
あった。そのとき、薪を背負って農夫の姿をした共産党の部隊が日本兵全員を殺し
た。そのまえに共産党の部隊は、わたしが傷つかないように望楼の外に連れ出して
いた」
と話しました。
この日(4月28日)は、あわただしい一日でした。2002年10月、2007年5月、2007年10月の「調査」の後の、ことし4月27日とこの日の2日間の聞きとりで、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊中原守備隊、陽江守備隊、橋園守備隊所属兵士たちの犯罪の実体をいくらか知ることができました。聞きもらしたこともたくさんあります。とくに符国民さんから話しを聞かせてもらう時間が少なかったのがきがかりです。ことし、9月に、再訪したいと思います。
曹靖さんは、2005年8月に出した『日本法西斯“三光”政策罪行録 回顧長仙聯村“三・一”血泪史』の改訂版を準備中で、ことし9月ころ出版したいと言っていました。
佐藤正人