三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

燕嶺坡、戴桃村、鳳嶺村、長仙村、橋園で

2008年04月30日 | 海南島
 前夜、龍滾(写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』20頁を見てください)に宿泊したわたしたちは、4月28日朝9時に、燕嶺坡の“三・一”被難公塚で、曹靖さんに会いました。“三・一”被難公塚を訪れるのは、わたしは4度目ですが、こんど同行した二人の海南島近現代史研究会会員ははじめてでした。曹靖さんに、“三・一”被難公塚のなりたちについて、くわしく話しを聞かせてもらいました。
 日本敗戦後、1950年5月まで、海南島は国民党が支配していました。“三・一”被難公塚は、その時期、1947年につくられました。そのとき、数百人の犠牲者が埋められているところに、コンクリートの平らな大きな厚い覆いが二つつくられ、その前に「民国三十六年季春月 楽会県互助郷坡村長仙三古南橋雅昌佳文鳳嶺吉嶺官園等村抗戦死難民衆公墓」と刻まれた墓碑(写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』14頁を見てください)が建てられました。
 公墓のコンクリートの覆いにひびがはいってきたので、1984年に重修され、墓碑の前方に、“三・一”被難公塚紀念亭がつくられました。このとき、墓域全域が、大きく「整備」され、2001年1月に、さらに「改修」されたようです。
 墓域の右側入り口に、瓊海人民政府が2003年5月20日に立てた「瓊海市文物保護単位 燕嶺坡“三・一”殉難民衆公墓」と書かれた石版がありました。
 曹靖さんは、「怖かったので、1947年まではここに来たことがなかった。コンクリートの覆いが被せられる以前にこの虐殺現場がどのような状態だったのかは知らない。ここにいまも数百人の遺骨が埋められている」と言いました。
 墓碑に向かって左側に、1947年に建てられた墓誌が移されていました。その文字はほとんど読めなくなっていましたが、「六百餘人」が殺されたと書かれていました。この「六百餘人」という文字は、曹靖さんに指さされて判読できました。
 そのとき、長仙村委員長の馮冰雄さんから、「長仙村の近くに1944年に52人が日本軍に殺された村がある。そこにこれから案内したい」という電話がありました。馮冰雄さんは、昨年5月にはじめて長仙村を訪れたとき、坡村の欧宗柳さんの家につれていってくれた人です(「日本軍の住民虐殺の場で、生き残った人びとの証言を聞いて………」、『パトローネ』70号〈2007年8月〉を見てください)。馮冰雄さんにはことし4月6日の“三・一”被難公塚での追悼集会のときに再会し、28日に長仙村に行くと伝えていました。
 馮冰雄さんが案内してくれたのは、長仙村や鳳嶺村から1キロほどの所にある戴桃村でした。
この村を、1944年農暦11月8日早朝、日本軍が包囲し、村人を1軒の家におしこめ、52人を殺したそうです。このとき生き残った人が1人だけ健在ですが、いまは遠くの村に住んでいるとのことでした。この村を再訪する前に、あらかじめ連絡すれば、その人に会えるようにすると、戴桃村委員長の陳業著さんが約束してくれました。
 虐殺現場には当時の建物の土台石が残っていました。
 村人に案内されて、犠牲者の墓地に行きました。1983年につくられた墓地には「瓊海県戴桃村林姓兄弟戦死殉難公墓」と刻まれた墓石が、そのそばに犠牲者の名を刻んだ碑が、建てられていました。犠牲者の名を刻んだ碑は、「殉難者姓名」というすこし大きな文字は読めましたが、名前はまったく判読できないほど摩滅していました。この碑の原稿を書いた人は死んでしまったので、いまでは犠牲者全員の名を確かめることはできなくなっているとのことでした。
 戴桃村は、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊中原守備隊本部と橋園守備隊本部を結ぶ軍用道路の中間地点にあり、村の入り口近くの高台に、日本軍の望楼があったそうです。1944年年農暦11月8日に村を襲ったのは、橋園守備隊の日本兵たちでした。日本軍が周辺の村人たちにつくらせた軍用道路は、いまの道よりは狭いが、軍用トラックが通れるほどの道だったそうです。

 戴桃村から中原・橋園間の道路を橋園方向に700メートルほど行って右折し、さらに500メートルほど行くと、鳳嶺村に着きました。
 欧宗朝さん(1934年生)は、鳳嶺村の自宅で
     「1945年3月1日のあの日の前、すでにわたしたち一家は日本軍をおそれて親戚の家
     に行っていた。3月1日のあとも、日本軍は、たびたび村に捜索にやってきた。ある
     とき、父と母が山(来赤嶺)から戻る途中に、日本軍に見つかって、銃で撃たれた。
     父(欧継開)はその場で死んだ。母(欧何氏)は1か月後に死んだ」
と話しました。

 欧宗朝さんから話しを聞いているところに、欧先梅さん(1939年生)が来て、つぎのように話しました。
     「日本軍が村に来て人を殺したとき、わたしは5歳だった。わたしの家族は、母、父、
     伯母、弟、わたしの5人だった。あの日父は中原の治安維持会に“験証”に行ってお
     り、母と伯母と小さな弟が家にいた。朝8時ころだった。わたしは牛飼いに行ってい
     て7、8人の日本兵が村に入って来るのを見た。
      日本兵は、人を見つけると追いたて、そのとき村にいた人をみんな1軒の家におし
     こめた。1歳だった弟(欧先光)は、伯母(欧宗英)に抱かれておしこめられた。わ
     たしも追いたてられたが、そのとき路で日本兵がわたしより小さい子どもの背中に
     銃剣を突きつけているのを見た。日本兵は、わたしたちのような幼い子どもも年寄
     りもみんな1軒の家におしこめた。途中の路上に何人かの村人が刺し殺されて倒れて
     いた。
      その家の入り口が閉ざされ、窓も閉められた。10人あまりが入れられていた。あ
     の家は、新しくとても大きかった。日本兵はわら束に火をつけ、それで家を焼いた。
     家の中が熱くなった。わたしは小さかったのでベッドの下にもぐりこんだ。
      窓から逃げようとした年寄りの1人は、外にいた日本兵に撃たれて死んだ。その血
     がわたしの身体にしたたり落ちた。その血はとても熱かった。
      欧宗鑫もわたしといっしょに閉じ込められていたが、逃げ出すことができた。し
     かし、日本兵に見つかって13か所刺された。刺された欧宗鑫はわら束のなかにほう
     りこまれて火をつけられた。火をつけたあとすぐに日本兵はいなくなった。戻って
     きた村人が欧宗鑫を見つけて助けることができた。欧宗鑫は数年前に死んだ。
      その家の持ち主は南洋に行っていた。その娘は、結婚して橋園にいた。この日、
     橋園から来た日本軍は、橋園の村人を連れて来ていた。鳳嶺村で奪ったものを橋園
     まで運ばせるためだ。その村人のなかに、その娘がいた。
      あの日午後2時ころ、その娘は自分の実家の家が燃やされ、中に人がいるのを知っ
     て、むしろや木の板を投げ入れて火をしずめた。家のなかにいたわたしは、それを
     踏みつけて逃げ出すことができた。
      あの時、5人が家のなかで焼き殺され、8人ほどが逃げ出して助かった。
      年寄り1人が窓のところで銃で殺された。家のなかにあった水甕のなかで死んだ人
     もいた。入り口までに出し、日本兵に刺し殺された人もいた。焼かれたあと家の庭
     で死んだ人もいた。
      伯母は、家に火をつけられ、年寄りの1人が窓から逃げだそうとして銃で撃たれて
     死んだとき、額に弾があたったが、逃げだすことができた。
      わたしの母(厳興美)は26歳だった。村人10人(女9人、男1人)がといっしょに
     “験証”に中原に行った。その後、燕嶺坡に連れていかれ、日本兵が、“服を全部
     脱げ。きょうお前たちを殺す”と言った。日本兵が他の人を殺しているとき、母は
     逃げ出した。日本兵が銃で撃ったが母にあたらなかった。母は、運良くにげだすこ
     とができた。

 欧先梅さんに案内されて、欧宗朝さんの家から、日本軍に焼かれた家の跡に向かいました。途中、欧先梅さんは、「ここで3人殺されていた。向こう側で2人、その先で2人殺されていた。その様子は、忘れることができない」と話しました。わたしたちは、その現場を撮影しましたが、そこは、ビンロウの樹や椰子の樹が立っている赤土の路上でした。
 日本軍に焼かれた家はレンガで造られていたので、その1部が残っていました。

 欧先梅さんと別れたあと、突然降り出した激しい雨の中、鳳嶺村から、長仙村に行き、欧育援さんの自宅を訪ねました。欧育援さんには、4月6日に燕嶺坡で会ったとき、28日に話を聞かせてもらう約束をしてありました。
 欧育援さん(77歳)は、つぎのように話しました。
     「日本軍が村民を中原に“験証”に行かせたとき、わたしの母(欧余氏)と義理の姉(欧
     林氏)も行かされた。父も兄も南洋に行っていた。わたしも“験証”に中原に行かさ
     れた。しかし、子どもだったので、別のところに監禁された。大人たちはみんな中原
     の望楼で両手を紐で縛られ燕嶺坡に連れて行かれた。
      母と義理の姉は、燕嶺坡で日本軍に殺された。母は40歳くらいだった。
      あの日、わたしは、中原青年団の建物の中に監禁された。そこにはたくさんの子ど
     もや年寄りがいた。次の日の午後、わたしは家に戻った。家も中の物も、全部焼か
     れていた。わたしの家のある奄同園にあった9軒の家がみんな焼き払われていた。その
     後、再建できたのは、わたしの家と欧継亜の家の2軒だけだ。
      あの日、わたしの弟(欧育河)は、牛飼いに行っていた。祖母は外出していた。二
     人とも帰ってみたら家が焼かれてなくなっていた。残っていたのは、台所だけだっ
     た。
      祖母は、そこで暮らし、わたしと弟は、内村の伯母(母の姉)の家に行った。
     そこでかっきり5年間くらしてから、戻って祖母といっしょに小さな台所でくらした。
      母は、おだやかな性格の人だった。わたしたちをとても可愛がってくれた。農業
     をしていた。
      母が日本軍に殺されたことを知ったとき、わたしも弟も声をあげて哭き、死にた
     いと思った。
      村人を殺したもっとも悪劣が日本軍には、血をもって償わせたい。
日本軍が敗
     けたときにはうれしかったが、そのまま帰してしまったことが残念だ」。

 この日ずっと同行してくれた曹靖さんは、欧育援さんの二つ年上で、家がすぐ近くの幼友達でした。欧育援さんの話しを聞いたあと、曹靖さんに話しを聞きました。
 曹靖さんは、こう話しました。
     「日本軍が海南島に来た1939年に、母は病気だったが、まもなく死んだ。そのとき、う
     えの兄(曹家燦)は17歳くらい、したの兄(曹家軒)は8歳だった。姉(曹家臣)は結
     婚してよその村にいた。わたしは5歳だった。父は南洋に行っていた。
      1945年に日本軍が村に来て中原に“験証”に行かせようとしたとき、うえの兄は行か
     ないで山に逃げた。したの兄は中原に“験証”に行ったが、つぎの日に戻ってきた。
     わたしは小さかったので“験証”に行かなかった。
      あのとき、うえの兄は24歳、したの兄は15歳、わたしは12歳だった。
      当時、日本軍が村にくるたびに、兄たちは山に逃げ、夜に戻ってきた。村のわ
     かものは、みんなそうしていた。
      日本軍が多くの村人を殺してから10日あまりたったころ、うえの兄は、欧純正、
     欧純三、曹欧氏3人が、日本軍に刺し殺されるときの悲鳴を聞いたという。うえの兄
     は、山から村に戻らなくなった。その後、兄がどうなったか、わからない。殺されて
     死んだのかもしれない。
      それからは、わたしは、したの兄といっしょに暮らした。
      わたしは、日本兵をこころから憎んでいる。軍帽をかぶった長いひげをはやした日
     本兵が、とくにとても残忍だった。
      家族は殺されなかったが、わたしたち兄弟はあちこちに流浪した。食べるものも着
     るものもなく、山の草を食べた。
      日本が敗けたとき、わたしはしたの兄と家にいた。うれしくて大声をだして飛び跳
     ねた。
      父は南洋に行ったきり戻らなかった。
      敗けた日本兵は、一台、また一台と、車に乗って帰って行った。復讐したかったが
     できなかった。かれらが安全に無事に帰って行くのを見て、こころの底からの怒りを
     感じた」。

 曹靖さんから話しを聞きおわったら夕方5時になっていました。
 それから、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊橋園守備隊本部があった橋園に向かいました。
 長仙村から西に5キロほど行ったところが橋園でした。龍滾守備隊があった龍滾も、陽江守備隊があった陽江も、中原守備隊があった中原も、いまは鎮政府所在地であり数千人規模の街ですが、橋園は、陽江鎮内の小さな農村でした。
 たまたま出会った青年、厳煥さんに、橋園守備隊本部があった場所を教えてもらいました。その近くに、守備隊本部が使っていたという井戸が残っていました。厳煥さんに、当時の橋園の中心部(橋園老市)に案内してもらいました。そこは橋園守備隊本部があった場所から数百メートル離れたところで、いまは人家がありませんでした。治安維持会があったという場所にはいちめんに潅木が生えていました。厳煥さんには、当時のことを知っているという符国民さん(86歳)の家にの連れていってもらいました。
 符国民さんは、
     「わたしは、1943年ころ日本軍の望楼で水汲みや炊事をした。日本兵に木の棒ですね
     を叩かれたことがある。その傷跡がいまも残っている。
      橋園の望楼は4角形で3階建てだった。日本軍が村人につくらせたものだ。
      日本軍が陽江に行って、橋園の望楼には日本兵が10人ほどしか残っていないときが
     あった。そのとき、薪を背負って農夫の姿をした共産党の部隊が日本兵全員を殺し
     た。そのまえに共産党の部隊は、わたしが傷つかないように望楼の外に連れ出して
     いた」
と話しました。

 この日(4月28日)は、あわただしい一日でした。2002年10月、2007年5月、2007年10月の「調査」の後の、ことし4月27日とこの日の2日間の聞きとりで、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊中原守備隊、陽江守備隊、橋園守備隊所属兵士たちの犯罪の実体をいくらか知ることができました。聞きもらしたこともたくさんあります。とくに符国民さんから話しを聞かせてもらう時間が少なかったのがきがかりです。ことし、9月に、再訪したいと思います。
 曹靖さんは、2005年8月に出した『日本法西斯“三光”政策罪行録  回顧長仙聯村“三・一”血泪史』の改訂版を準備中で、ことし9月ころ出版したいと言っていました。

    佐藤正人
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陽江で

2008年04月27日 | 海南島
 1939年1月17日、天皇ヒロヒト、総理大臣、海軍大臣、陸軍大臣らは、海南島侵略を最終決定しました。同じ日に、大本営陸軍部と海軍部は、「二月上中旬ノ頃」海南島北部を共同で占領するという「北部海南島作戦陸海軍中央協定」を結びました。その24日後、1939年2月に日本陸軍と海軍が合同で海南島に侵入しましたが、その後海南島を軍事支配し、軍政をおこなったのは、日本海軍でした。
 日本海軍は、1939年11月に海南島根拠地隊を編成し、1940年にそれを海南警備府に改編しました。そのとき日本海軍は、海南島全域を5つに区分し、第15警備隊、第16警備隊、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の5部隊に軍事支配させました。第15警備隊と第16警備隊は、呉鎮守府に所属する陸戦隊で形成されていました。日本海軍が鎮守府を置いていたのは横須賀、呉、佐世保、舞鶴の4か所でした。すべての日本海軍鎮守府の陸戦隊が、海南島を5つに分割して侵略犯罪をつづけました。
 日本海軍は、第15警備隊の司令部を海口に、第16警備隊の司令部を三亜に、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の司令部を嘉積(現、瓊海)に、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の司令部を那大(現、儋州)に、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊の司令部は北黎におき、各司令部の管轄下に200個以上の守備隊をおきました。
 1945年農暦3月1日に海南島東部の楽会県互助郷(現、瓊海市中原鎮)の長仙村、坡村、三古村、南橋村、雅昌村、佳文村、鳳嶺村、吉嶺村、官園村を襲撃したのは、海南警備府佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属する中原守備隊、橋園守備隊、陽江守備隊の日本兵たちでした。

 月塘村で追悼碑が除幕された翌日、4月27日に、わたしたちは、陽江守備隊本部のあった陽江に行きました。陽江は、いま、中原鎮の西に隣接する陽江鎮の鎮政府所在地になっています。中原守備隊本部と陽江守備隊本部をむすぶ軍用道路は、2車線の舗装道路になっていました。
 月塘村から陽江まで行くには、万寧市中心部、和楽、龍滾、中原を通りますが、そのいずれにも海南警備府佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属する守備隊本部がありました。防衛研究所図書館にある『海南警備府戦時日誌』に含まれている「陸上部隊兵力配備要図」には、海南警備府佐世保鎮守府第8特別陸戦隊司令部とその所属守備隊の位置が、47か所書かれています。そのうち、わたしたちが、これまで「現地調査」したのは、司令部のあった嘉積のほか、会文、黄竹、烟塘、大路、潭門、新市、楽会、中原、龍滾、烏場、万寧の11か所でした。
 万寧から瓊海への幹線道路を40キロほど北に行くと、中原に着きます。そこから、東南に向かうと500人碑の立つ博鰲鎮北岸郷に、西に向かうと陽江に着きます。
 中原で瓊海への幹線道路を左折して、1キロほど西に行くと、“三・一”被難公塚のある燕嶺坡に着きます。そこからさらに10キロあまり西に行くと陽江に着きます。
 陽江中心部の町並みには新しい建物が多く、300メートルほどの広い道の両側に商店がならんでいました。
 その道の南側の一角に日本軍の守備隊本部があり、望楼もあったそうです。

 陽江市内からオートバイに乗って、ビンロウの林などをぬけて近くの覃村に行き、陳居福さん(1936年11月生)に会いました。
 実が熟しかけているレイシ樹林そばの自宅で、陳居福さんは、つぎのように話しました。
     「子どものとき、日本軍はしょっちゅう村にやってきた。村人に椰子の樹に登らせ椰子
     の実をとらせた。うまくのぼらないと尻に銃剣を向けて脅した。樹からすべりおちると
     銃剣で尻を刺されるのでこわかった。日本兵は、軍帽をかぶり、親指と4本の指が分かれ
     た布靴(地下足袋のことか)をはいていた。
      日本軍は、村人に道路をつくらせた。陽江から南の江南村を通って大火村までの長
     い道路だ。大火村には望楼があった。
      三亜につれていかされ飛行場をつくらされた村人もいた。わたしの父親も三亜に行
      かされそうになったが、他の人に金を渡して代わりに行ってもらった。父も母も
      道路工事や望楼つくりをやらされた。母親が病気になったときには、小さかった
      が、わたしが代わりに働いた。日本軍は金をくれなかった。自分で水や飯をもって
      いって、朝早くから夕方遅くまで働いた。
       陽江には“日本軍部”があり、望楼があった。“日本軍部”の建物の屋根は鉄板
      だった。望楼は円形で、3階建てだった。望楼は鉄条網で囲まれ、その外側に壕が掘
      られていた。深さは3メートルほど幅は2メートルほどで、望楼入り口につり橋がか
      けられていた。レンガで造られ、セメントで覆われていた。頂上と各階の窓に機
      関銃があった。
       中酒村にも、東興村にも、紅色村にも日本軍は望楼をつくった。日本軍は、祠
      堂や民家や学校や公廟などを壊して望楼の建築材料にした。
       日本軍の手先になった保甲長が村に来て、豚や牛などを奪って日本軍に渡した。
       陽江鎮の村は,交代で日本軍の糧食を提供しなければならなかった。
       当時、陽江には、治安維持会と日本語学校があった」。

 陳居福さんと別れてから、500メートルほど離れた、30軒ほどのレンガ造りの家がかたまっている覃村の集落に行きました。そこで、寵世杰さん(1914年生)とつれあいの凌秀芳さん(1915年生)から話しを聞かせてもらうことができました。
 寵世杰さんは、94歳ですが、力のこもった声で、こう話しました。
      「陽江に日本軍の建物と望楼があった。望楼は3階建てだった。大火村にも、南面
      村にも、橋園村にも望楼があった。
       村人は交代で日本軍に働かされた。わたしは、道路建設や望楼建設をやらされ
      た。三亜につれていかされ鉄鉱山で働かされた村人も多かった。わたしも三亜に
      行かされそうになったが、300元を払って他の人に代わってもらった。わたしの村
      から三亜鉄鉱山につれていかれた人のうち、8人が死んだ。病気で死んだ人もいた
      が、日本軍に殴られて死んだ人もいた。
       大良村の李朝原の子どもが三亜で病気になって戻らないので、李朝原が三亜に
      息子を迎えに行こうとしたら、日本軍に息子は死んでしまった言われたことがあ
      った。
       当時、陽江の治安維持会が、村人を三亜に行かせていた。日本軍は“本地人”
      を治安維持会員にして利用していたのだ。
       父も母も、日本軍の道路工事で働かされた。母は、働く力がなくなったら殴ら
      れたと言ったことがある。
       日本軍はたびたび来て椰子の実を奪っていった。日本軍が女性を強姦したとい
      うウワサをよく聞いた。
       日本軍が敗けたときには、とてもうれしかった。みんながとても喜んだ」。

 夫が話すそばにいて、ときどき意見を言っていた凌秀芳さんは、絶えず穏やかな表情で、こう話しました。
      「わたしは、近くの山堯村で育ったが、結婚してこの村にきた。日本軍が来たと
      きにはこの村にいた。
       わたしも日本軍に、道路をつくらされた。大火村で望楼をつくらされたことも
      ある。
       日本兵は村人をよく殴った。
       日本軍に山の樹をきらせられたことがあった。わたしの仕事が遅いといって日
      本兵はわたしを太い木の棒で殴った。ももに大きなあざができた。
       日本軍が敗けて、気持ちがいっぺんに軽くなった。日本軍が来るまえは、食べ
      るものも着るものもあった。日本軍が来てからは、食べるものもなくなり、着る
      もののなくなった。
       日本軍がいなくなって、日本軍のために働かなくてもよくなった。みんなが、
      農場で自分の仕事ができるようになり、ちゃんと食べることができるようになった」。

                                      佐藤正人


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2008年農暦3月21日

2008年04月26日 | 海南島
 1945年農暦3月21日(5月2日)朝、日本海軍佐世保第8特別陸戦隊万寧守備隊の日本兵は、月塘村を襲い、多くの村人を殺傷しました。
 その63年後のきょう、2008年農暦3月21日(4月26日)、月塘村で、月塘三・廿一惨案紀念碑掲碑儀式がおこなわれました。
 その儀式に、海南島近現代史研究会のメンバーが、海南島から3人、日本から3人参加しました。
 200人ちかい村人と月塘村の益豊小学校の生徒150人ほどが見まもるなかで、9時半に赤い布がとり去られ、白い大理石に刻まれた「三廿一紀念碑」という赤い文字が現れました。大きな爆竹が鳴らされました。
 万城鎮益豊小学校全体師生と万城鎮月塘村村民委員会と海南島近現代史研究会が献花しました。
 全員が黙祷したあと、紀念碑籌建主任の朱学基さんが碑文を読みあげました。追悼碑台座の正面には「月塘村“三・廿一”惨案碑志」が、右側側面には「月塘村(三・廿一)惨案遇難者名単」が、赤い文字で刻まれていました。「名単」に名が刻まれている人は190人でした。
 月塘村委員会主任朱進平さんと万寧鎮副鎮長のあいさつのあと、受害者和遇難者家属代表の朱瓊波さん(1948年生)が話し、万寧市委員会史誌辧公室主任が話ました。
 そのあと、海南島近現代史研究会の佐藤正人が漢語であいさつし、それを林彩虹さんが海南語で通訳してくれました。
 佐藤正人は、つぎのように話しました。
    「わたしが、はじめて月塘村に来たのは、昨年2007年1月17日でした。
     そのとき、朱学平さんから話しを聞かせてもらったあと、朱学基さんに会いました。
     朱学基さんは、そのとき、犠牲者を追悼する碑を建てる準備をしていると話しました。
     わたしたちは、昨年5月24日に、月塘村追悼碑建設についての話し合いに参加させても
    らい、そこで朱振華さんから、要求日本国政府賠償請願書を見せてもらいました。
     昨年8月5日に、日本大阪で、朝鮮人、日本人、海南人が、日本で海南島近現代史研究
    会を創立しました。この研究会は、主として、日本が海南島を占領していた時期の侵略
    犯罪行為を明らかにすることを目的にしています。
     1945年のきょう、日本軍はここでとても残忍な犯罪行為をおこないました。
     この追悼碑には、犠牲者すべての名が刻まれています。
     この追悼碑は、犠牲者を追悼する碑であるとともに、日本の侵略犯罪を証明する碑だと
    思います。
     日本政府は犠牲者に公開謝罪しなければなりません。
     日本政府は、おおくの村人を殺害した日本兵を探し出し、処罰しなければなりません。
     日本政府は賠償しなければなりません。
     追悼集会に参加させていただいて、たいへんありがたく思っています。
     きょうは、みなさんとの共同の民衆運動の新しい出発の日だとわたしは思います。
     みなさんとともに、みなさんと共に、歴史の真実を明らかにしていくことを願っています」。

 つづいて、海南大学の金山さん(海南島近現代史研究会会員。朝鮮族)が、この碑が民衆のちからで建立され犠牲者全員の名が刻まれている意味が大きいと話したあと、漢語に翻訳したキム チョンミさんのあいさつを朗読しました。キム チョンミさんは、前夜つぎのような文章を海南島にいる海南島近現代史研究会のメンバーに送信していました。
     「2008年農暦3月21日、この日に月塘村の人たちといっしょに、追悼碑除幕式の場にい
    ないことを、とても残念に思います。
     わたしは、日本に生まれ育ちましたが、朝鮮人です。
     朝鮮は、1910年に日本の植民地にされました。その前後を通じて、日本は、朝鮮の土
    地や資源を奪い、朝鮮人を過酷な労働に従事させました。朝鮮が1945年に解放されるま
    で、多くの朝鮮人が、日本の植民地政策によって犠牲になり、また抗日闘争の過程で、
    命を落としました。
     朝鮮人の中には、海南島に強制連行され、過酷な労働で亡くなった人たちがおおぜい
    います。幸いに生き残り朝鮮の故郷に戻ることができた人から、食べ物がなくて苦しか
    ったとき、海南島の人たちから芋や水をもらい助けられたと、聞きました。
     月塘村で日本軍に殺害された人たちは、わたしには、同じく日本軍に殺された朝鮮人の
    同胞の姿と重なります。
     その月塘村での追悼碑建立にわずかでも協力できたことを、感謝します。
     この追悼碑が、わたしたちが、日本の侵略犯罪の犠牲になった人たちをいつまでも忘れ
    ず、日本人にみずからの侵略犯罪を忘れさせないものとなることを、願っています。
         2008年4月25日   和歌山県海南市から」。

 キム チョンミさんは、きょうの除幕式に参加しようとして、4月23日に大阪を発ち、海南島の三亜国際空港に午後8時15分に着きましたが、これまでは三亜空港で簡単に取得できたビザをとることができず、三亜市内で待っている海南島近現代史研究会のなかまに電話することも許されないまま、1時間あまりのちに強制的に退去させられていました。

 金山さんがキム チョンミさんのあいさつを漢語で読みあげ、それを林彩虹さんが海南語に通訳しました。
 そして、10時20分に除幕式がおわりました。

 きょう昼過ぎ、月塘村に雨が降り始めました。63年まえのこの日にも、雨が降ったそうです。
 午後、わたしたちは、籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑領導小組の人たちと、追悼碑建立後の運動について話し合いました。

 1994年に月塘村全村民は、日本政府にたいして、
    1、われわれ月塘村村民に対し、国際社会に公開で謝罪せよ。
    2、受傷して生き残った幸存者と犠牲者家族に賠償せよ。
    3、月塘村に死者を追悼する記念館を建設し、追悼式をおこなえ。
    4、焼失した家屋、強奪した財産を弁償せよ。
と要求していました。

 日本政府に、この要求に、どうしたら具体的にこたえさせることができるかが、話し合いの中心課題でした。
                                      佐藤正人
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2008年農暦3月1日

2008年04月06日 | 海南島
 日本海軍佐世保第8特別陸戦隊に所属する日本軍部隊(万寧守備隊)が月塘村を襲い、多くの村人を殺傷したのは、1945年5月2日(農暦3月21日)でした。
 その20日前、1945年4月12日(農暦3月1日)に、同じ佐世保第8特別陸戦隊に所属する日本軍部隊(中原守備隊、橋園守備隊、陽江守備隊)は、瓊海市九曲江郷(当時は、楽会県互助郷)の坡村、長仙村、三古村、南橋村、雅昌村、佳文村、風嶺村、吉嶺村、官園村など9か村を襲撃し、おおくの村民を殺害しました。
 幸存者の一人、曹靖さんが長い間かかってすべての村人からの聞きとりをくりかえして書き、2005年8月に出した『日本法西斯“三光”政策罪行録  回顧長仙聯村“三・一”血泪史』には、殺された村人384人の名が、記されています。
 九曲江郷で、日本軍が大虐殺をおこなったのは、日本敗戦の4か月まえでした。
 日本軍が9か村の村人を集めて殺害した燕嶺坡に、1947年につくられた“三・一”被難公塚の墓碑には、「楽会県互助郷坡村長仙三古南橋雅昌佳文風嶺吉嶺官園等村抗戦死難民衆公墓」と刻まれています。
 2008年4月3日午後、万寧にいたわたしに曹靖さんから、農暦3月1日に、“三・一”被難公塚に、例年のことだが村人が集まって掃墓と祭拝をするので、参加しないか、という電話がありました。わたしは参加させてもらうことにしました。
 ことしの農暦3月1日は4月6日でした。
 きょう朝8時半すぎに燕嶺坡に行くと、すでに300人あまりの村人が集まっていました。
 10時に追悼集会が始まり、黙祷のあと、幸存者の曹家成さん、曹徳炳さん、曹靖さんが話しました。そのあと、どうしても話せと言われたので、わたしが話しました。日本語を使いたくなかったので、きわめてつたない漢語で話し、同行した林彩虹さんに海南語で通訳してもらいました。その要旨は、つぎのとおりです。漢語なので、おおまかなことしか話せませんでした。
  「わたしが、はじめてここに来たのは、2002年10月でした。きょう追悼集会に参加させていただいて、たいへんありがたく思っています。1945年のこの日、日本軍はここでとても残忍な犯罪行為をおこないました。このことに関して、現在の日本政府に責任があります。わたしは、日本政府がおおくの村人を殺害した日本兵を探し出し、処罰しなければならないと考えています。日本政府は犠牲者に公開謝罪しなければなりません。日本政府は賠償しなければなりません。昨年8月5日、日本人、朝鮮人、海南人が、日本で海南島近現代史研究会を創立しました。この研究会は、主として、日本が海南島を占領していた時期の侵略犯罪行為を明らかにすることを目的にしています。わたしは、みなさんのたすけをかりて、これから、みなさんとともに、歴史の真実を明らかにし記録していきたいと思っています」。

 そのあと、祭壇に供えられた、飯、肉などが分けられました。食事の終わるころ、大型の爆竹が10数個、連続して鳴らされました。
 12時前に散会。
 わたしは、林彩虹さんといっしょに長仙村に行き、曹家成さん(72歳)の自宅で話を聞かせてもらいました。
 曹家成さんの父は、1945年2月ころ、日本兵に殴られ、それがもとで死んだそうです。
 1時間あまり話を聞かせてもらったあと、曹家成さんに、1945年農暦3月1日に一家全員が殺され、それ以後は廃墟になっている場所に案内してもらいました。
 そのあと、佳文村に行き、馮運輝さん(1936年生)、陳国煌さん(1930年生)、黄明英さん(85歳)から話を聞かせてもらいました。
                                       佐藤正人
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