三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

関東虐殺後83年  いまも日本関東の各地に犠牲者の遺骨が埋められている

2008年01月23日 | 木本事件
       『パトローネ』67号(2006年10月1日)に掲載された文章です。
                         佐藤正人


 1923年9月に日本関東の各地で、日本軍兵士や日本民衆が朝鮮人や中国人を虐殺した。平沢計七や加藤高寿ら南葛労働会の労働者10人が習志野騎兵第13連隊によって亀戸警察署で、大杉栄、伊藤野枝ら3人が麹町憲兵分隊長甘粕正彦によって東京憲兵隊本部で殺された。
 それから83年が過ぎたが、いまもなお、朝鮮人犠牲者、中国人犠牲者の名前はほとんど明らかになってない。加害者もほとんど特定されていない。

■2006年9月1日
 午前11時から、東京墨田区横網町公園内の「追悼 関東大震災朝鮮人犠牲者」と刻まれた追悼碑(1973年建立)のまえで、関東大震災83周年朝鮮人犠牲者追悼式(関東大震災朝鮮人犠牲者追悼会実行委員会主催)がおこなわれた。
 つよい雨が降りつづけていた。金順子さんが、鎮魂の舞をおどった。参加者は50人あまりだった。
 つづいて、同じ場所で、午後1時から、関東大震災朝鮮人虐殺83周年東京同胞追悼の集い(在日本朝鮮人総聯合会主催)が開かれた。雨はまだ降りつづいていた。 東京朝鮮第5初中級学校の生徒ら200人あまりが参加した。

■2006年9月2日
 午後3時から、旧四つ木橋附近の荒川河川敷で、関東大震災83周年韓国・朝鮮人殉難者追悼式(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会・グループほうせんか主催)がおこなわれた。
 満開の無窮花(ムグンファ)と鳳仙花(ポンソンファ)の前につくられた「祭壇」。
 荒川河川敷での25回目の追悼式であった。参加者は、250人ほどだった。
 河川敷であるという「理由」で、墨田区や建設省は、ここに追悼碑を建てることを認めようとしていない。また、一年草である鳳仙花はべつとして、樹木である無窮花は、2010年までに河川敷のそとに移植するように墨田区は求めている。

■犠牲者の遺骨「発掘」
 関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会は、26年前、1982年9月2日、3日、7日の3日間、ここで、朝鮮人犠牲者遺骨を「試掘」した。
 総指揮者として協力した考古学者は岡本勇氏だったが、この「試掘」を日本の考古学会は無視した。
 「試掘」条件は極めて悪く、建設省(小名木川出張所)がだしてきた条件は、「1日1か所掘って埋め戻す」、「試掘個所は3箇所だけ」というものだった。
 そのため、このときには、遺骨は発見できなかった。
 その後、関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会は、地域での聞きとりをすすめるとともに、追悼碑建立運動を開始し、毎年、追悼式をおこなってきた。
 1923年当時の現場地図を入手・分析し、目撃証人のさらなる助けを借り、系統的に「試掘」を進めるならば、この地での朝鮮人虐殺の事実を示す遺骨に出会うことができたと思われる。
 だが、ちいさな民衆組織が、単独で「試掘」を継続するのはむずかしかった。
 考古学は、発掘・鑑定という方法で、歴史的事実を明らかにする学問である。
 日本の考古学会は、歴史学会とともに、総力をもって、関東虐殺の真相を明らかにする努力をすべきである。
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10年前の第4回紀州鉱山「現地調査」

2008年01月13日 | 紀州鉱山
 今年3月8日の紀州鉱山「現地調査」と3月9日の紀州鉱山で亡くなられた朝鮮人を追悼するはじめての集会が近づいてきました。 
 追悼集会前日の3月8日には、「現地調査」選鉱所跡、坑口、朝鮮人労働者の宿所跡、墓地、朝鮮人の遺骨が残されていた本龍寺、朝鮮人犠牲者の名が記されている「記録帳」がある慈雲寺などを回るとともに、当時のことを知るかたから証言を聞かせてもらったあと、朝鮮人宿所があった湯の口に宿泊する予定です。
 参加しようと思われるかたは、竹本昇さん(t1950@lilac.ocn.ne.jp)に連絡してください。
 
 以下は、10年前の第4回紀州鉱山「現地調査」 (1998年11月16日)の報告です。毎回参加されていた朴慶植先生は、この年2月に交通事故で亡くなられていました。
                                                      佐藤正人

………………………………………………………………………………………………………………

 朝8時半に、みんなでそろって宿所をでて、すぐ近くの熊野市役所にいき、熊野市・熊野市教育委員会に要望書をわたし、10時すこし前に、紀和町役場に着いた。
 紀和町・教育長との話しあいのあと、昼食。午後から、選鉱場跡に。
 選鉱場は、高さ100メートルほどの丘の頂上から、斜面に階段状につくられていた。いまは、コンクリートの骨格だけが残っている。
 その斜面を、のぼった。
 70歳を越している金源植氏も金鍾鎬氏もいっしょだ。
お二人は草や潅木やいばらで覆われた急な斜面を、同行した30代の「青年」よりも元気に、のぼっていかれた。
 半分ほどのぼった時に、雨が降ってきた。
 見下ろすと左側に鉱山資料館がみえる。
そこはかつて紀州鉱山事務所の建物があった所。
 正面すこし右寄りの丘に薄く霧がかかっていた。そこには共同墓地があり、朝鮮人も埋められている。60年ほどまえには朝鮮人と日本人が住んでいた飯場がその近くにあった。
 雨に濡れながら、韓国から訪ねてこられた金源植氏や金鍾鎬氏と見ているこの風景のなかで、かつて故郷から強制連行された朝鮮人が働いていた。
 その風景を眺めながら、金源植氏は、日本の植民地とされていた時期に日本人が朝鮮でつくった工場やダムの規模の大きさを語る。
 朝鮮でも日本でもカラフトでも太平洋の島々でも、おおくの朝鮮人が働かされた。
 日本の他地域・他国侵略の歴史を総体的に把握しようとしなければ、紀州鉱山の歴史をくわしく知ることはできないだろう。
 紀州鉱山を「現地調査」し、紀州鉱山の真実を歴史的に明らかにすることは、思想的にも現実的にも、紀州鉱山のみにかかわることではないということを、4回目の今年の「現地調査」のとき、わたしは強く感じた。
 選鉱場の高台をおりて、鉱山資料館にいった。そこでは、朝鮮人の痕跡は消しさられている。これまでの「現地調査」を基礎とするわたしたちの運動によって、1999年からは、朝鮮人労働者について、この資料館でも事実が事実として示されていくだろう。
 鉱山資料館をでてから、1943年に石原産業が建てた「慰霊塔」を見たあと、紀和町教育委員会指定「史跡 外人墓地」・「イルカボーイズ墓参記念碑」・毒水処理場・板屋朝鮮人飯場跡へいき、そこで、解散した。
 3か月まえ、韓国安東文化放送の李貞姫記者は、紀和町長と教育長に、紀州鉱山への朝鮮人強制連行・強制労働にかんする記述が『紀和町史』にほとんどなく、紀和町鉱山資料館にいたっては、紀州鉱山に朝鮮人が働いていた事実すら示されていない理由を尋ねていた。そのとき、紀和町長も教育長も、朝鮮人強制連行の事実をこれから調べ、『紀和町史』や紀和町鉱山資料館で示していきたいと答えていた。10月に、安東MBC制作『紀伊半島に隠された真実』(紀州鉱山の真実を明らかにする会協力)が放映された。

 毎年の「現地調査」の場は、出会いの場であり別れの場もであった。
 今年は、その場に朴慶植先生の姿がなかった。

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原告の黄有良さんが海南島から来て証言します

2008年01月12日 | 海南島
 2008年1月15日午後2時から、東京高裁818法廷で、「海南島戦時性暴力被害訴訟」の口頭弁論が開かれます。
 この日、原告の黄有良さんが海南島から来て証言します。
 傍聴される方は午後1時までに、東京高裁前(丸の内線霞ヶ関駅A1出口徒歩1分)に来てください。傍聴券が配布される可能性があります。
  http://hainannet.org/
  http://blog.goo.ne.jp/hainan-net

 2001年7月に、海南島の故郷の村で少女の時に日本軍の性奴隷とされた黄玉鳳さん、陳金玉さん、玉民さん、陳亜扁さんは、黄有良さん、林亜金さん、譚玉蓮さん、譚亜洞さんの8人は、日本国を被告として、「名誉及び尊厳の回復のための謝罪」と「名誉及び尊厳の回復がなされてこなかったことに対する損害賠償」を求めて、訴状を東京地裁にだしました(「海南島戦時性暴力被害訴訟」)。
 この年11月に、原告の黄有良さんが第1回口頭弁論で証言しました。
 2005年3月に、原告の林亜金さんと日本の海南島侵略史研究者張応勇さんが、第13回口頭弁論裁判で証言し、2006年3月に、原告の陳亜扁さんが、第14回口頭弁論で証言しました。
 2006年8月に、原告の陳亜扁さんが見まもるなかで、東京地裁民事24部の裁判官(矢尾渉、梶智紀、亀村恵子)は、海南島における日本軍の性犯罪事実とその不法性を認定しながら日本政府を免罪する「原告らの請求をいずれも棄却する」という不当判決をだしました。
 原告と海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団は直ちに控訴し、中国人戦争被害賠償請求事件弁護団は、海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団と共同抗議声明をだし、中華全国律師協会・中華全国婦女聨合会・中国人権発展基金会・中国法律援助基金会・中国抗日戦争史学会は共同抗議声明をだしました。
 2007年5月15日に、東京高等裁判所で「海南島戦時性暴力被害訴訟」の審理が開始され、9月25日に第2回口頭弁論、10月18日に第3回口頭弁論が開かれ、こんどの1月15日は高裁4回目の口頭弁論です。
 2001年7月に黄有良さんらが日本の裁判に訴状を出す6年半前、1995年2月に発行された政協陵水黎族自治県委員会文史学習委員会編『陵水文史』第7輯(日軍侵陵暴行実録)に掲載されている黄有良口述・胡月玲整理「一位“慰安婦”的血和泪」には、“黄有良さんの村(架馬村)から40メートルの地点に日本軍は軍営を作った。日本兵30人あまりが駐屯した。その軍営を拠点にして日本軍は、近くの黎族の村を襲撃し、多くの人を殺し、女性に暴行した……” と書かれています。
 黄有良さんら8人の原告に危害を加えたのは、海南海軍第16警備隊加茂分遣隊、保亭派遣隊、藤橋派遣隊などに所属する日本兵たちでした。海南海軍第16警備隊に所属する日本兵は、1945年には「朝鮮村」でおおくの朝鮮人を虐殺していました(当時の第16警備隊司令は、海軍大佐能美実)。

 2008年1月15日午後2時からの東京高裁での黄有良さんの証言を傍聴してください。

                                                   佐藤正人
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海南島近現代史研究会制作『海南島月塘村虐殺』ができあがりました

2008年01月11日 | ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
 ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』暫定版を、2007年8月5日の海南島近現代史研究会創立集会のときに試写しました。
 その後、2007年9月末、完成直前に編集機械の操作を誤って編集ファイルをすべて失ってしまいました。
 2007年10月はじめから11月上旬まで、あらたに月塘村で証言を聞かせていただき、シナリオに加筆し、再編集し、2007年末に完成させました。上映時間は、前版は28分でしたが、新版は41分になりました。
 沖縄戦のさなか、1945年5月2日の明け方、海南海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊(当時の司令は、海軍大佐森本一男)の日本兵は海南島万寧市万城鎮月塘村を襲い、4時間の間に、多くの村人を殺傷しました。
 1994年4月1日、月塘村の全村民は、「月塘村村民に国際社会に公開で謝罪すること、幸存者と犠牲者家族に賠償すること、月塘村に死者を追悼する記念館を建設し追悼式をおこうこと、焼失した家屋や強奪した財産を弁償すること」を日本政府に要求する文書を出しました。
 月塘村の人びとは、いま、犠牲者すべての名を刻んだ追悼碑を建立しようとしています。
 このドキュメンタリーは、月塘村虐殺62年後の2007年1月、5月、10月、11月に、生き残った人びとの証言を、村人のみなさんの助けをかりて、のべ50日間にわたって記録したものです。
 月塘村、豊丁村、烏場村、春園村、西截村、波鰲村、上嶺園村、上辺嶺村、坡村、長仙村、三古村、南橋村、雅昌村、佳文村、風嶺村、吉嶺村、官園村、北岸村、大洋村、抗日軍根拠地のあった六連嶺山麓の村むらなど海南島東部の各地で住民虐殺、放火、略奪をくりかえしていた海南海軍佐世保鎮守府第八特別陸戦隊の「戦没者」約300人の氏名・出身地を刻んだ石碑が、佐世保市内の「海軍墓地」に建てられています。そのそばの説明板には、「佐八特は……約六年有余炎熱と険しい“ジヤングル”をものともせず勇戦奮闘した。この間幾多の討伐作戦等に尊い戦没者出すに至った」と書かれています。
 このドキュメンタリーには、2005年3月に撮影したその石碑や「説明板」の映像も収録してあります。
 月塘村虐殺をふくむ、日本占領下の海南島における住民虐殺の事実はほとんど明らかにされておらず、みどり児や幼児や妊婦をふくむ村人を殺傷した日本兵の名は隠されたままです。

 ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』の価格は、個人購入2000円、上映権つき12000円です。
 VHS版とDVD版があります。送料は200円です。
 購入を希望されるかたは、saito@eco.osaka-sandai.ac.jp に連絡してください。
 郵便振替番号は、海南島近現代史研究会 00960-5-280485 です。

 海南島近現代史研究会
 http:/www.hainanshi.org/
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海南島近現代史研究会第一回定例研究会を開きます

2008年01月10日 | 海南島近現代史研究会
 海南島近現代史研究会は、会則「三 総会と定例研究会」で、「毎年冬に定例研究会を開催します」と決定しているように、昨年8月5日の創立集会から半年後の冬、第一回研究会を開きます。
 みなさんの参加をお待ちしています。

と き:2008年2月10日(日) 13時~17時(開場12時半)
ところ:大阪産業大学 梅田サテライト・レクチャーA室
                 (大阪駅前第三ビル19階)
参加費:500円(『会報』創刊号・資料を含みます。会員は無料です)

第一回定例研究会プログラム

1、創立集会以後の会の活動報告

2、研究報告Ⅰ  海南島近現代史のなかの世界近現代史    佐藤正人
 国民国家日本が1869年にアイヌモシリ(「北海道島」)を植民地としてから70年後、天皇ヒロヒトと日本政府は、1939年2月に海南島に日本軍を奇襲上陸させました。その後、日本政府、日本軍、日本企業は、1945年8月までの6年半の間に、残酷な侵略犯罪を実行しました。国民国家日本の近現代史は、他地域・他国侵略の歴史でした。
 証言を基礎として海南島における国民国家日本の侵略犯罪と海南島民衆の抗日反日闘争の歴史を探求しつつ日本の国家犯罪を総体として認識し伝達する方法を模索してきた道程を報告し、海南島近現代史のなかにおける世界近現代史を認識する意味を、みなさんと共に考えたいと思います。

3、研究報告Ⅱ  海南島近現代史資料について          久保井規夫
 戦時、日本軍政下におかれた海南島における、日本軍の殺戮行為と抗日反撃の戦い、日本軍用施設・基地の建設、軍・企業一体となっての資源の強奪、植民地・占領地の民衆への迫害と苦役の強制。これらの状況を手持ちの日本側資料から(分かりやすい図版・写真を中心に)分析して報告する。

4、質疑と討論

5、海南島近現代史研究会制作『海南島月塘村虐殺』上映
 沖縄戦のさなか、1945年5月2日の明け方、海南海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊(当時の司令は、海軍大佐森本一男)の日本兵は海南島万寧市万城鎮月塘村を襲い、4時間の間に、多くの村人を殺傷しました。
 このドキュメンタリーは、月塘村虐殺62年後の2007年に、生き残った人びとの証言を、村人のみなさんの助けをかりて、のべ50日間にわたって記録したものです。

6、こんごの研究主題について

■海南島近現代史研究会は、会則「四 『研究報告書』と『会報』」で、「毎年夏の総会時に会誌『海南島近現代史研究』を発行します。毎年2回、『会報』を発行します」と決定しているように、2月10日に、『海南島近現代史研究会 会報』創刊号を発行します。

海南島近現代史研究会  事務局 大阪産業大学経済学部 斉藤日出治研究室
                       住所 大東市中垣内3
                       saito@eco.osaka-sandai.ac.jp 
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『海南島月塘村虐殺』新シナリオ8(最終回)

2008年01月09日 | ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
Ⅶ、要求賠償                
影像:朱学平さんと子どもたち
テロップ:要求賠償  要求賠償

Ⅷ、朱彩蓮さん
映像:瀕死の妹、朱彩蓮さんを抱いて逃げた道を62年後に歩く朱学平さん
テロップ:妹を抱いて逃げた道を歩く朱学平さん
映像:「坡」で話す朱学平さん
テロップ:妹は、近くに埋めた
テロップ:妹を抱いてここまで逃げてきた
テロップ:妹は、近くに埋めた
テロップ:妹は ただ 水だけを欲しがった
テロップ:妹は静かに目を閉じ
      死んでしまった
映像:朱学平さん 樹と草の茂みのなかで
テロップ:ナグゥサン(ひどい)、ナグゥサン
      思い出す。悲しい ホレン(可怜)
      食べるものも着るものもなかった
      土の上に麻の袋を敷いて、蓑をかけて寝た
テロップ:ここで何か月も暮らした
      捨てられているサツマイモの
      くずを探して食べた
      ひとりで何年も暮らした
      怖かった
      思い出すと涙がでてくる
映像:「坡」を去る朱学平さん
映像:太陽河
テロップ:太陽河 2007年11月
映像:太陽河の水辺に映る揺らめく太陽→遠景
テロップ:朱学平さんは、瀕死の妹に
      この河の水を汲んで飲ませた
映像:牛、ビンロウ樹の林、太陽河
テロップ:月塘村と その農地と 入会地は
      太陽川の 北側の台地にある


『海南島月塘村虐殺』
構成・シナリオ:佐藤正人
編集:佐藤正人 小谷英治 金静美
翻訳:林彩虹 佐藤正人 金静美
撮影:小谷英治 佐藤正人
ナレーション:崔文子
協力:月塘村のみなさん
    蔡徳佳 朱学基 朱振華

制作:海南島近現代史研究会
              2007年


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『海南島月塘村虐殺』新シナリオ7

2008年01月08日 | ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
Ⅴ、海南島における日本軍の住民虐殺 
影像:瓊海市楽会県波鰲村、上嶺園村、上辺嶺村の追悼碑
テロップ:瓊海市楽会県波鰲村、上嶺園村、上辺嶺村の追悼碑
影像:五百人碑
テロップ: 五百人碑
影像:“三・一”被難公塚
テロップ:“三・一”被難公塚
ナレーション:佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属する日本兵は、1941年5月13日未明、楽会(ロホェイ Lehui)県の波鰲(ボーアォ Boao)村など三つの村を襲って住民を殺し、さらにその翌月、6月24日に、楽会県北岸(ベィアンBeian)郷の北岸村と大洋(ダーヤン Dayang)村を襲撃し、数日間に、多くの村人や通行人を殺しました。
 いま、北岸村に、そのときの犠牲者を追悼する「五百人碑」が建てられています。
 北岸郷の西隣りの楽会県互助(フージュHuzhu)郷でも、多くの人が佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の日本兵によって殺されました。
 大虐殺がおこなわれたのは、日本敗戦の4か月まえ、月塘村での住民虐殺の20日まえの1945年4月12日(農暦3月1日)でした。
 その4年後、1949年農暦3月1日に、虐殺現場の燕嶺坡(イェンリンポ Yanlingpo)に、犠牲者全員の名を刻んだ追悼碑が建てられました。
映像:龍滾海岸
テロップ: 万寧市龍滾海岸
       狗匙石洞付近
テロップ: 1939年10月14日 ここで日本軍は 
      襲撃を避けて 村から逃げてきた 
      多くの人たちを殺害した
ナレーション: 1944年7月にアメリカ合州国軍がサイパン島を占領した後、ヒロヒト・日本政府・日本軍は、硫黄島やウルマネシアに大量の軍隊をおくりこみました。
 それは、アメリカ合州国軍の「本土」上陸をすこしでも遅らせ、天皇制を維持するためでした。
 ウルマネシアでは、10万人の住民が日本軍やアメリカ合州国軍に殺され、約9万人の日本兵と、「軍夫」とされた朝鮮人が死にました。
 互助(フージュ Huzhu)郷や月塘村で、日本兵が、多くの住民を虐殺したのは、沖縄戦のさなかでした。
映像:海口市長流鎮儒顕村 五源河にかかる石橋
テロップ:海口市長流鎮儒顕村
      五源河にかかる石橋
テロップ:1939年8月15日
      ここで 日本軍は
      多くの村人を射殺した
ナレーション:1939年2月から1945年8月までの6年半の間に、海南島で、日本軍と日本企業によっていのちを奪われた犠牲者の数も、名まえも、ほとんどが明らかになっていません。
 海南島各地で住民虐殺を命令した日本軍将校の名も、直接住民を虐殺した日本兵の名前も、隠されたままです。

Ⅵ、月塘村追悼碑 
影像:集会場前の大樹
テロップ:月塘村の榕樹
      樹齢300年あまり
影像:月塘村集会場→月塘の文字
テロップ:月塘村集会所
影像:2007年5月24日会議
テロップ:2007年5月24日
      月塘村集会場で
月塘村追悼碑建設についての話し合い
ナレーション:月塘村では、犠牲者を追悼する碑の建設が試みられてきましたが、これまで実現していませんでした。
 2007年5月24日、月塘村集会場で、追悼碑建立について話し合いがおこなわれました。
 犠牲者を追悼する碑を建立することと、日本政府に月塘村虐殺の事実を明らかにさせ、謝罪させ、賠償させ、責任者を処罰させることは、つながっています。
映像:月塘村の壁に貼られた「籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑公告」
映像:「籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑公告」 静止画面
ナレーション:2007年10月6日に、追悼碑建設委員会が結成され、追悼碑建設が公告されました。
映像:風水鑑定の様子
テロップ:追悼碑建立予定地の風水鑑定
ナレーション:2007年10月6日に、追悼碑建設予定地の風水の鑑定がおこなわれました。
影像:追悼碑建立予定地で話す村人たちと風水師
テロップ:追悼碑建立予定地で話す村人たちと風水師
映像:月塘村に貼り出された「1945年5月2日(農暦三月廿一日)日寇殺害月塘村民人数名単登記表」
映像:「1945年5月2日(農暦三月廿一日)日寇殺害月塘村民人数名単登記表」
    静止画面
映像:請衆郷親識真査閲 要事実求是 糾正補漏
ナレーション:2007年10月20日に、月塘村の数か所の壁に、1945年5月2日に日本軍に殺された村人の名簿が貼り出されました。
 追悼碑に刻む犠牲者の名前を最終的に村人に確認してもらうためです。
映像:「1939年―1944年 日軍殺害月塘村無辜村民調査登記」
ナレーション:1945年以前にも、20人の月塘村村民が、日本軍に殺されていました。
影像:雨の月塘
ナレーション:月塘村虐殺の日、午後、突然、空が曇り、雷が鳴り、雨が激しく降り始めたそうです。
 殺された多くの村人の血が、雨水とともに、この月塘に流れこんだといいます。
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『海南島月塘村虐殺』新シナリオ6

2008年01月07日 | ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
Ⅳ、戦犯を「象徴」とする日本国で
影像:佐世保の「海軍墓地」 
テロップ:佐世保市内にある「海軍墓地」
影像:「海南島忠魂碑」
テロップ:1974年に建てられた
影像:「佐世保鎮守府第八特別陸戦隊戦没者慰霊名碑」
テロップ:約300人の名が書かれている
影像:「説明石」:「佐八特は……約六年有余炎熱と険しい“ジヤングル”をものともせず勇戦奮闘した。この間幾多の討伐作戦等に尊い戦没者出すに至った」
ナレーション:月塘村虐殺をおこなったのは海南海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊万寧守備隊の日本兵たちでした。
 海南島でで残酷な侵略犯罪をくりかえしていた日本兵たちは、日本敗戦後、日本に戻りました。
 かれらは、日本に帰ってからは、海南島でおこなった犯罪を隠し、責任をとろうとしないで、最悪の戦犯ヒロヒトを「象徴」とする日本国で生きつづけました。
影像:六連嶺
テロップ:六連嶺
ナレーション:万寧北方の六連嶺(リゥリェンリン Liulianling)地域には抗日軍の根拠地がありました。
 佐世保鎮守府第8特別陸戦隊はその地域の村々を襲撃し、抗日軍を支援したとして村民を虐殺し、家屋を焼き、村を無人化していきました。
影像:六連嶺山麓に建てられている革命烈士記念碑
テロップ:六連嶺山麓にたつ革命烈士紀念碑
影像:六連嶺地域
テロップ:六連嶺地域
影像:万寧市内の革命烈士紀念碑
影像:万寧県政協文史弁公室編『鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』
テロップ:万寧県政協文史弁公室編『鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』(1995年刊)
ナレーション:日本軍は万寧(ワンニン Wanning)県で8000人以上の無辜の民衆を殺害したと書かれています。

影像:卓飛さん
テロップ:卓飛さん(1915年生)
ナレーション:月塘村で生まれ育った卓飛(ジュォ・フェイ Zhuo-Fei)さんは、日本軍が海南島に侵入してくる前、1932年に共産党に入って革命に参加し、抗日戦争に勝利するまで、月塘村に戻らなかったそうです。
テロップ:日本軍に突撃し
      白兵戦となった
テロップ:日本軍といろんな場所で
      戦った
テロップ:部隊の根拠地は
      楽東と白沙にあった
テロップ:解放後 故郷に戻った
テロップ:母や従弟たちの遺体が埋められているのを見て
      はじめて 事件を知った
テロップ:日本軍を心から憎んでいる
テロップ:わたしの家族をたくさん殺した
テロップ:私は日本軍と
      200回以上  戦った
テロップ:多くの人が犠牲になった
テロップ:わたしは日本軍と戦って
      四回負傷したが生き残った
テロップ:日本軍が投降したときは
      とてもうれしかった
テロップ:那大で日本軍を包囲して
      武装解除した
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『海南島月塘村虐殺』新シナリオ5

2008年01月06日 | ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
Ⅲ、「要求日本国政府賠償請願書」     
影像:要求日本国政府賠償請願書
ナレーション:1994年4月1日に、月塘村の全村民は、日本国政府に賠償を要求することを中華人民共和国外交部に求める文書をだしました。
影像:殺害された日付、1945年農歴3月21日(1945年5月2日)が書かれている墓石
ナレーション:その文書には、こう書かれています。
 1945年5月2日(中国農歴乙酉年3月21日)、万寧(ワンニン Wanning)県万城(ワンチョン Wancheng)の日本軍部隊は、理由なくわれわれ月塘村を襲った。罪のない村民286人が殺傷された。
 この日、日本軍は、月塘村の家70軒を焼き、多くの牛などの財産を強奪した。
 日本軍は、われわれ月塘村の100以上の家庭から親しい家族を失わせるという苦痛をあたえ、われわれ月塘村村民に、ことばでは言い表すことのできない肉体的精神的物質的損失をもたらした。
影像(連続的に):日本軍に襲撃された家の跡と現在の月塘村風景
影像:月塘をのぞむ廃墟の道
テロップ+ナレーション:
 49年が過ぎたが、われわれ、罪のない被害者に誰も責任をとろうとしていないことに対して、われわれはこころから憤慨し、日本国政府に厳正につぎのことを要求する。
影像:月塘村風景
テロップ+ナレーション:
 1、われわれ月塘村村民に対し、国際社会に公開で謝罪せよ。
 2、受傷して生き残った幸存者と犠牲者家族に賠償せよ。
 3、月塘村に死者を追悼する記念館を建設し、追悼式をおこなえ。
 4、焼失した家屋、強奪した財産を弁償せよ。
テロップ+ナレーション:
 日本軍がひき起こした月塘村虐殺にかんするわれわれ月塘村村民の要求に対して、日本国政府が具体的に回答することを希望する。
 そうしないことによって生ずるいっさいの問題の責任は、すべて日本国政府が負わなければならない。
影像:月塘惨案受害者登記表   頁を開いていく
影像:月塘村の子どもたち
テロップ:10歳 6歳 11歳 13歳 同じ13歳 14歳 14歳 11歳
ナレーション:1945年5月2日の朝、まだ暗いうちに月塘村を襲った日本海軍海南警備府佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の日本兵たちは、わずか4時間ほどの間に、1歳の幼児、2歳の幼児、3歳の幼児、4歳の幼児、5歳の幼児、6歳の少年・少女、7歳の少年・少女、8歳の少年・少女、9歳の少年・少女、10歳の少年・少女をふくむ多くの村民を殺しました。
影像:月塘惨案受害者登記表 拡大  「一屍二命」をアップ
テロップ:一屍二命
ナレーション:朱開洪(ジュ・カイホン Zhu-Kaihong)さんの妻で19歳だった女性と朱鴻周(ジュ・ホンジョウ Zhu-Hongzhou)さんの妻で25歳だった女性は、妊娠しており、胎児も殺されました。
 「一屍二命」(一体のしかばねに二つのいのち)と書かれています。
映像:朱志東さん
テロップ:朱志東さん(1937年生)
映像:妊娠していた妊娠していた二人の女性が殺された家の跡
テロップ:妊娠していた朱開洪さんの妻と
      朱鴻周さんの妻がここで殺された
ナレーション:朱志東(ジュ・ジドン Zhu-Zhidong)さんは、
 「ここで9人が殺された。
 男が1人、あとはみんな女だった。
 2人は妊娠していた。
 日本兵が家にくる前に、母は、わたしを抱いて逃げた」
と話しています。
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『海南島月塘村虐殺』新シナリオ4

2008年01月05日 | ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
Ⅱ、証言 3
影像:朱深根さん
テロップ:朱深根さん(1935年生)
影像:傷跡を示す朱深根さん
テロップ:この私の家で
      日本軍は9人を刺した
テロップ:ここで刺された
テロップ:母、私……家族9人

影像:朱五弟さん
テロップ:朱五弟さん(1937年生)
テロップ:当時私も  ここで刺された
テロップ:銃剣が  腕を突き抜けた
テロップ:ここを刺されて  腸がとび出した
テロップ:ここを5回刺された
テロップ:台所の壁に押しつけられ
      刺された
影像:朱深根さんと朱五弟さん
テロップ:ふたりは幼友達

影像:李玉菊さん
テロップ:李玉菊さん(1933年生)
テロップ:あの家の中で、父と母が殺された
      父の李家勝は56歳、母は55歳だった
影像:傷跡を示す李玉菊さん
影像:当時の家の敷居
テロップ:当時の家の敷居

影像:李全治さん
テロップ:李全治さん(1938年生)
影像:傷跡を示す李全治さん
テロップ:胸を狙ったが  腕でかばった
テロップ:すぐに倒れた

影像:李建栄さん
テロップ:李建栄さん(1938年生)
ナレーション:李建栄(リ・ジェンロン Li-Jianrong)さんは、当時6歳でしたが、父親を日本刀で切り殺した日本兵の顔を覚えているといいます。
 その日本兵は唇のうえに毛をはやしていたそうです。「お父さんを殺すな」と叫んだ小さな李建栄さんは、日本兵に切りつけられ、父親のそばに倒れこんで気を失ったそうです。
 4日後、重傷を負わされた父親の李家昌(リ・ジァチャンLi-Jiachang)さんは亡くなりました。
影像:傷跡を示す李建栄さん

影像:虐殺現場で語る朱学孔(ジュ・シュェコン Zhu-Xuekong)さん
テロップ:朱学孔さん(1934年生)
テロップ:昔の家の壁です
テロップ:ここで4人死んでいた
テロップ:5人 6人 7人 8人
テロップ:ここでは 鴻勝が銃で撃たれて  死んでいた
テロップ:日本刀ではなくて 銃です
テロップ:この家で殺されたのは9人
テロップ:母は 私を寝台の下に隠し  自分は戸板の陰に隠れた
テロップ:日本兵は 母を何回も刺した
テロップ:母は気を失った
テロップ:目覚めた母は 水のところに行った
テロップ:当時の壁は竹で編んでいた
テロップ:日本兵は後ろの壁を焼いた
テロップ:母は そこから ここまで  這ってきて
テロップ:水を飲んだ母は すぐに死んだ

映像:崔金蘭さん
テロップ:崔金蘭さん(1923年生)
ナレーション:崔金蘭(ツォェィ・ジンラン Cui-Jinlan)さんは、
 「朝、9時ころだった。わたしは家の入り口にいた。日本軍は、わたしを見つけ、すぐに銃で撃った。
 左足のももと、下腹部と、左肩の3か所撃たれた。わたしは気を失った。
 わたしを殺そうとした日本兵(日本鬼子)は、見つけたら、復讐したい」
と話しました。

映像:朱東四さん
テロップ:朱東四さん(1938年生)
ナレーション:朱東四(ジュ・ドンス Zhu-Dongsi)さんは、
 「父は銃で撃たれても死ななかったが、銃剣で刺し殺された。
  わたしは、隠れて見ていた。
  父を殺した日本兵は、背がとても高かった。
  母と兄は、畑に芋の見張りに行っていたので殺されなかった」
と話しました。

影像:李家和さん
テロップ:李家和さん(1930年生)
影像:傷跡を示す李家和さん
ナレーション:李家和(リ・ジァホ Li-Jiahe)さんは、家に侵入してきた日本兵に、10か所あまり刺され気を失ったそうです。
 気がついたら、お母さん、お父さん、隣の家の李家鐘(リ・ジァチョンLi-Jiazhong)さんの3人が殺されていたそうです。
影像:「日本兵は、この道から来た」と指さす李家和さん
テロップ:日本兵は、この道から来た
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