『パトローネ』67号(2006年10月1日)に掲載された文章です。
佐藤正人
1923年9月に日本関東の各地で、日本軍兵士や日本民衆が朝鮮人や中国人を虐殺した。平沢計七や加藤高寿ら南葛労働会の労働者10人が習志野騎兵第13連隊によって亀戸警察署で、大杉栄、伊藤野枝ら3人が麹町憲兵分隊長甘粕正彦によって東京憲兵隊本部で殺された。
それから83年が過ぎたが、いまもなお、朝鮮人犠牲者、中国人犠牲者の名前はほとんど明らかになってない。加害者もほとんど特定されていない。
■2006年9月1日
午前11時から、東京墨田区横網町公園内の「追悼 関東大震災朝鮮人犠牲者」と刻まれた追悼碑(1973年建立)のまえで、関東大震災83周年朝鮮人犠牲者追悼式(関東大震災朝鮮人犠牲者追悼会実行委員会主催)がおこなわれた。
つよい雨が降りつづけていた。金順子さんが、鎮魂の舞をおどった。参加者は50人あまりだった。
つづいて、同じ場所で、午後1時から、関東大震災朝鮮人虐殺83周年東京同胞追悼の集い(在日本朝鮮人総聯合会主催)が開かれた。雨はまだ降りつづいていた。 東京朝鮮第5初中級学校の生徒ら200人あまりが参加した。
■2006年9月2日
午後3時から、旧四つ木橋附近の荒川河川敷で、関東大震災83周年韓国・朝鮮人殉難者追悼式(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会・グループほうせんか主催)がおこなわれた。
満開の無窮花(ムグンファ)と鳳仙花(ポンソンファ)の前につくられた「祭壇」。
荒川河川敷での25回目の追悼式であった。参加者は、250人ほどだった。
河川敷であるという「理由」で、墨田区や建設省は、ここに追悼碑を建てることを認めようとしていない。また、一年草である鳳仙花はべつとして、樹木である無窮花は、2010年までに河川敷のそとに移植するように墨田区は求めている。
■犠牲者の遺骨「発掘」
関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会は、26年前、1982年9月2日、3日、7日の3日間、ここで、朝鮮人犠牲者遺骨を「試掘」した。
総指揮者として協力した考古学者は岡本勇氏だったが、この「試掘」を日本の考古学会は無視した。
「試掘」条件は極めて悪く、建設省(小名木川出張所)がだしてきた条件は、「1日1か所掘って埋め戻す」、「試掘個所は3箇所だけ」というものだった。
そのため、このときには、遺骨は発見できなかった。
その後、関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会は、地域での聞きとりをすすめるとともに、追悼碑建立運動を開始し、毎年、追悼式をおこなってきた。
1923年当時の現場地図を入手・分析し、目撃証人のさらなる助けを借り、系統的に「試掘」を進めるならば、この地での朝鮮人虐殺の事実を示す遺骨に出会うことができたと思われる。
だが、ちいさな民衆組織が、単独で「試掘」を継続するのはむずかしかった。
考古学は、発掘・鑑定という方法で、歴史的事実を明らかにする学問である。
日本の考古学会は、歴史学会とともに、総力をもって、関東虐殺の真相を明らかにする努力をすべきである。
佐藤正人
1923年9月に日本関東の各地で、日本軍兵士や日本民衆が朝鮮人や中国人を虐殺した。平沢計七や加藤高寿ら南葛労働会の労働者10人が習志野騎兵第13連隊によって亀戸警察署で、大杉栄、伊藤野枝ら3人が麹町憲兵分隊長甘粕正彦によって東京憲兵隊本部で殺された。
それから83年が過ぎたが、いまもなお、朝鮮人犠牲者、中国人犠牲者の名前はほとんど明らかになってない。加害者もほとんど特定されていない。
■2006年9月1日
午前11時から、東京墨田区横網町公園内の「追悼 関東大震災朝鮮人犠牲者」と刻まれた追悼碑(1973年建立)のまえで、関東大震災83周年朝鮮人犠牲者追悼式(関東大震災朝鮮人犠牲者追悼会実行委員会主催)がおこなわれた。
つよい雨が降りつづけていた。金順子さんが、鎮魂の舞をおどった。参加者は50人あまりだった。
つづいて、同じ場所で、午後1時から、関東大震災朝鮮人虐殺83周年東京同胞追悼の集い(在日本朝鮮人総聯合会主催)が開かれた。雨はまだ降りつづいていた。 東京朝鮮第5初中級学校の生徒ら200人あまりが参加した。
■2006年9月2日
午後3時から、旧四つ木橋附近の荒川河川敷で、関東大震災83周年韓国・朝鮮人殉難者追悼式(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会・グループほうせんか主催)がおこなわれた。
満開の無窮花(ムグンファ)と鳳仙花(ポンソンファ)の前につくられた「祭壇」。
荒川河川敷での25回目の追悼式であった。参加者は、250人ほどだった。
河川敷であるという「理由」で、墨田区や建設省は、ここに追悼碑を建てることを認めようとしていない。また、一年草である鳳仙花はべつとして、樹木である無窮花は、2010年までに河川敷のそとに移植するように墨田区は求めている。
■犠牲者の遺骨「発掘」
関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会は、26年前、1982年9月2日、3日、7日の3日間、ここで、朝鮮人犠牲者遺骨を「試掘」した。
総指揮者として協力した考古学者は岡本勇氏だったが、この「試掘」を日本の考古学会は無視した。
「試掘」条件は極めて悪く、建設省(小名木川出張所)がだしてきた条件は、「1日1か所掘って埋め戻す」、「試掘個所は3箇所だけ」というものだった。
そのため、このときには、遺骨は発見できなかった。
その後、関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会は、地域での聞きとりをすすめるとともに、追悼碑建立運動を開始し、毎年、追悼式をおこなってきた。
1923年当時の現場地図を入手・分析し、目撃証人のさらなる助けを借り、系統的に「試掘」を進めるならば、この地での朝鮮人虐殺の事実を示す遺骨に出会うことができたと思われる。
だが、ちいさな民衆組織が、単独で「試掘」を継続するのはむずかしかった。
考古学は、発掘・鑑定という方法で、歴史的事実を明らかにする学問である。
日本の考古学会は、歴史学会とともに、総力をもって、関東虐殺の真相を明らかにする努力をすべきである。