三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「海南島的台湾兵」について

2011年01月31日 | 海南島史研究
 鄭麗玲「海南島的台湾兵(1937-1945)」(『台湾風物』46巻3期、1996年)は、海南島の台湾兵にかんする数すくない論文のひとつである。台湾では、ほかに、湯熙勇「脱離困境:戦後初期海南島之台湾人的返台」(『台湾史研究』第12巻第2期、中央研究院台湾史研究所、2005年12月)が発表されているが、中国本土でも海南島でも、海南島の台湾兵にかんする個別論文は発表されていない。日本では、林えいだい『台湾の大和魂』(東方出版、2000年11月)で、海南島の台湾兵だった数人の証言が紹介されている。
 「海南島的台湾兵(1937-1945)」で、鄭麗玲は、台湾人青年が日本侵略下の海南島で具体的にどのようなことをさせられたのかについて、具体的に述べようとしていない。この論文で、鄭麗玲は、日本軍と戦う人たちを、しばしば「土共」「土匪」と表現しており、「敵」と表現していることもある。
 鄭麗玲は、「台湾兵」とされていた人たちから聞きとりを重ねており、この論文でも証言を「資料」としているが、証言の客観性をほとんど検証していない。
 鄭麗玲は、この論文で、日本政府・軍が海南島を侵略するという方針を1936年9月の「北海事件」のさいにだしていた、という重大な事実を示している。
                             佐藤正人
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「海南島的台湾兵」 10

2011年01月30日 | 海南島史研究
 鄭麗玲「海南島的台湾兵(1937-1945)」の「結論」の要旨はつぎのとおりである。
                                 佐藤正人

 1937に中日戦争が起こってから2か月後、台湾人軍夫が中国戦場に送られた。1939年の海南島占領後、日本は台湾統治の経験を海南島で生かし、海南島の物産資源調査を開始し、民間商社を海南島に引き入れ、日本軍と共同で開発させた。海南島開発のための人力として日本は台湾人を徴用あるいは募集した。台湾人は日本軍と民間会社で働かされた。日本軍で台湾人は、治安と防禦をおこなう巡警と海軍陸戦隊で働かされたり、軍事基地の整備をさせられた。かれらの名義はすべて軍属であり、台湾本島より平均して4、5倍高い賃金で雇用された。軍属にされない者は、脅迫あるいは利益誘導され、志願兵として徴用された。当時青年だった台湾人には、選択の余地はなかった。
 戦争中、海南島の台湾兵は、ほかの日本占領地域の台湾兵と同じく、アメリカ合州国などの飛行機の空爆を受けたり、風土病におかされたりした。戦争終結時に海南島では直接的に敵軍と対面しなかったが、占領期間に山地にいる土匪や抗日遊撃隊に対抗した。戦争終結後、台湾はカイロ宣言によって中国に帰属し、日本の植民地だった戦敗国が戦勝国になった。この変化によって、海南島の台湾兵の立場は複雑になった。日本軍の軍票を汚そうとする海南島人と、それを制止しようとした台湾兵との衝突は、台湾兵が自分の戦後の「位置」を把握できていなかったことを示している。台湾兵は国民政府軍に接収され、戦争時の敵が戦後は同胞に変わったが、海南島人は日本人にたいする憤怒を台湾兵に向けた。
 国民政府の戦後の接収過程は混乱し、台湾兵は戦後1年以上も収容所で待たされた。おおくの台湾兵は、“戦後、苦難の日々が始まった”と語っている。
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「海南島的台湾兵」 9

2011年01月29日 | 海南島史研究
 鄭麗玲「海南島的台湾兵(1937-1945)」の「四、悲惨的戦後経歴」の後半の要旨はつぎのとおりである。
                                   佐藤正人

 当時、20歳以上の台湾兵と海南島の青年とはしばしば様ざまな衝突が起こった。そのひとつは那大市で発生したつぎのような衝突だった。事件は、ある海南島人が、日本が以前出していた軍票で尻を拭こうとしたのを、ある台湾兵が制止したことから始まった。双方が言い争ったあと、那大市の収容所にいた台湾兵(主に、巡警と海軍陸戦隊員)の何人かが声援に行った。そのときそれを鎮圧にいった中国軍隊がすぐに発砲して、台湾兵が少なからず死亡した。このような大規模な衝突のほかにも、1人でいた台湾兵が海南島人に取り囲まれて殴られ重傷を負わされることもあった。それで、ほとんどの台湾兵は軍隊的編成を維持し自主管理し単独行動をしないようにして不幸な事件が発生しないようにした。
 中華民国政府の接収情況の混乱も大きな問題だった。海南島の台湾兵の大部分は自力で台湾に戻ることができないので、国際的な救済会の輸送船に頼らなければならず、日本が投降してから1年以上経った1946年9月から11月の間にようやく戻った。海南島にいた日本人朝鮮人はすべて帰国していた。ビルマ、シンガポール、マレイシア、南洋の島じまなどにいた台湾兵の大部分は1946年5、6月に戻っていた。
 1年あまり海南島の収容所に入れられていた台湾兵には、食料がきちんと支給されなかった。一週間分の食料が与えられても、つぎの週には支給されず、倉庫にコメがなくなっている所もあった。収容所では食べるものはなかったが、衣類はあったので、軍用毛布などの衣類を金にかえた。そのため、台湾に着いたときハダカ大隊になっていた。
 栄養不良のせいで感染症にかかりやすくなっていたが、国民政府は食料だけでなく薬品も配給しなかった。アメーバー赤痢のような伝染病が流行ったときには、適切な治療を受けることができず、数百人がいっしょに収容されていて患者がきちんと隔離されないため、はなはだしい場合には、一日で7、8人が死亡した。
 台湾に戻る日がのびのびになるなかで、自力で台湾に戻ろうとする人たちがでてきた。当時、海南島、香港、台湾を行き来する船が少なくなかった。これらの船は、主に台湾の砂糖などを中国に運んでおり、台湾に向かう船は空船だった。わずかな所持品を売って空船の船倉を借りて、それで台湾に戻ろうとした人たちがいた。この船は帆船で主とする動力は風力だった。船倉には転覆を避けるために重たいものを積んでいたが、そこに100人から200人あまりの人が乗った。気候不良や台風の恐れのほか、多くの海賊に襲われる危険もあったので、無事に台湾に戻れる確立は、4分の1だった。このようにして台湾に戻ることができたのは少数だった。
 軍医や運転手などの技術をもっている人は国民政府に留用され、海南島で中国軍の陣営にいれられた人もいた。そのなかには中国大陸につれていかれた人もいた。かれらは、
 国民政府が国共戦争に敗北して台湾に撤退するとき、中国に留置された。1987年の台湾開放のあと、外省籍の老兵が中国大陸を訪ねたとき、海南島の台湾兵が「発見」された。
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「海南島的台湾兵」 8

2011年01月28日 | 海南島史研究
 鄭麗玲「海南島的台湾兵(1937-1945)」の「四、悲惨的戦後経歴」の前半の要旨はつぎのとおりである。
                                    佐藤正人

 日本が投降したあと、海南島は国民政府が接収した。接収した軍隊は19師だった。
 海南島の中央山地は一貫して遊撃隊や保安団など抗日組織の根拠地であった。
 このため、日本が投降してから正規軍が海南島に進駐してくるまでの1か月ほどの間は、海南島の武装抗日団体は、日本軍の武器を接収しようとして争った。日本軍が武器は国民政府正規軍に引渡すことにしたため、さまざまな抗日団体が日本軍の武装解除を求めたとき、情勢は緊迫した。このとき通訳をした張子は、“海南島守備隊の営長が軍隊を率いて山麓に進駐して日本軍万寧派遣隊が所有している武器・弾薬・戦車などを接収しようとしたことがあった。このとき双方の隊長と営長は、それぞれ30人ほどの完全武装した兵士30人を率いて広い草原で会見した。このとき双方の兵士は銃に実弾をこめ相手側に照準をあわせていた。日本軍の陣営は保安団、守備隊、遊撃隊、共産党などの組織に武力で武器を奪取されることのないようにかなり緊張していた。戦争終結時の海南島の状態は極めて不穏だった。情勢が混沌とし危険な状態が1か月ほど続いた。韓国で新国家が成立したので、韓国人、日本人、台湾人は、別々に収容された”と述べている。
 台湾はカイロ宣言によって中国に帰還した。国際情勢が変化して台湾は戦勝国になった。しかし、国民政府が接収した台湾兵の状態は複雑だった。戦争末期に台湾人巡警と台湾人陸戦隊員は海南島の日本海軍の主力として、五指山地域の遊撃隊などと戦った。したがって、台湾兵と海南島人との間の矛盾は深刻だった。戦後、台湾兵は同胞である海南島現地人の怒りにさらされた。張子は収容所で台湾への帰郷を待っているとき、台湾人は捕虜ではないので労役の義務はなかったが、中国軍に義務労働を課せられ、司令部営内の清掃や嘉積市附近の村の環境整備をおこなった。
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トマコマイ市長も、アメリカ合州国軍艦の入港を許可

2011年01月27日 | 個人史・地域史・世界史
 きのう(1月26日)、トマコマイ市長もアメリカ合州国海軍艦船の入港を許可しました。
 オタル港とトマコマイ港に、同一期間(2月5日午前9時~9日午前9時)、アメリカ合州国の軍艦が寄港することになりました。このようなことは、これまでなかったことです。
 オタル港に入ろうとしている「フィッツジェラルド」はアメリカ合州国海軍第7艦隊に所属し横須賀を母港としているミサイル駆逐艦であり、トマコマイ港に入ろうとしている「グリッドレイ」はアメリカ合州国海軍太平洋艦隊に所属しサンディエゴを母港としているミサイル駆逐艦です。これまで、アイヌモシリの港に、アメリカ合州国海軍太平洋艦隊所属の軍艦が入港したことはありませんでした。
 きょう(1月27日)の『北海道新聞』は、つぎのように報道しています。
                                  佐藤正人

 ■米艦船の寄港を苫小牧市長容認
 【苫小牧】米海軍のミサイル駆逐艦「グリッドレイ」(8800トン)が2月5~9日に苫小牧港への寄港を求めていることを受け、港湾管理者の岩倉博文苫小牧市長は26日、寄港受け入れを苫小牧海保をつうじて米海軍に伝えた。兵器搭載能力がある米軍艦船の苫小牧寄港は初めて。
 市の核兵器搭載の照会に対し、24日に外務省から「搭載能力がない以上、搭載の疑いを有していない」との回答があった。苫小牧港中央北埠頭で5日間、停泊できる調整がついたことから、岩倉市長は「住民の声も合わせて総合的に受け入れを判断した」とした。
 苫小牧港には1998年、米海軍の海洋調査船が民間の埠頭に寄港したことがある。

 
 きょう(1月27日)の『苫小牧民報』(夕刊新聞)は、つぎのように報道しています。 
 ■米艦船を受け入れ 苫小牧市長が表明
 岩倉博文苫小牧市長は27日、在日米軍から要請があったミサイル駆逐艦「グリッドレイ」(8800排水トン)の苫小牧寄港を受け入れる、と発表した。核兵器搭載能力がないことの確認が取れ、岸壁の調整が付いた、としている。接岸は、苫小牧西港中央北埠頭(ふとう)東1号岸壁になりそう。
 岩倉市長は、苫小牧港管理者。受け入れの理由を、▽市非核平和都市条例に基づいた核搭載の有無を外務省などに照会したところ、同駆逐艦は核兵器搭載能力がないため「核兵器を搭載していないことに政府として疑いを有していない」との見解を得た、と説明した。
 グリッドレイの寄港は、友好親善が目的。2月5日に入港し、9日まで停泊する予定としている。13日に要請があった。
 受け入れに向け市長は、約200人の米軍人が乗船していることから、苫小牧署に寄港中の警備を要請し、「(市民の)懸念の軽減に万全を期していきたい」と述べた。
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アメリカ合州国軍艦の入港を許可したオタル市長に抗議

2011年01月26日 | 個人史・地域史・世界史
 きょう(1月26日)午前10時半に、米空母に反対する市民の会は、アメリカ合州国の軍艦「フィッツジェラルド」のオタル入港を許可した山田勝麿オタル市長に抗議しました。 
 以下は、その抗議文です。
                      米空母に反対する市民の会 佐藤正人

抗 議

(一)軍艦の寄港は軍事行動の一環
 わたしたちは、アメリカ合州国軍艦「フィッツジェラルド」の2月5日から9日までのオタル港寄港を、在日アメリカ合州国海軍が要請していることを、1月6日に知りました。 
  「フィッツジェラルド」は、アメリカ合州国海軍第7艦隊の原子力空母「ジョージ・ワシントン」の打撃群第15駆逐隊に属するミサイル駆逐艦で、2年前の同じ2月5日から9日まで、オタル港に入港していました。
 1月7日、わたしたちは、「フィッツジェラルド」のオタル港への入港に反対し、オタル港の港湾管理権をもつオタル市長に、5項目の要請をおこないました。
 しかし、1月21日に、オタル市長は、オタル港長をつうじて在日アメリカ合州国海軍に「フィッツジェラルド」の入港を容認すると回答しました。同じ1月21日の夕刻、わたしたちは、1月7日の5項目要請に対するオタル市長からの文書回答を受けとりました。
 そこには、
    「今回、フィッツジェラルドの小樽港入港の目的が「親善及び友好」であることか
   ら、小樽市としては、商業港としての港湾機能への影響を最大限に考慮し、1月21
   日に開催されたバース会議の結果を踏まえ、従来から寄港に当たっての判断の基
   本としている3つの条件、①入出港及び接岸時の安全性 ②商業港としての港湾
   機能への影響 ③核兵器搭載の有無 について勘案した上、入港について総合的
   かつ慎重に判断したところです」、
    「フィッツジェラルドの核兵器搭載の有無については、在札幌米国総領事館と外
   務省に対し照会を行い、その結果、核搭載はしていないものと判断しました」、
    「今回、フィッツジェラルドの小樽港入港の目的が「親善及び友好」であるものの、
   商業港としての港湾機能への影響を最大限に考慮して入港の検討をしたところで
   あります」
と書かれてありました。
 2年前の同じ2月5日から9日まで、「フィッツジェラルド」がオタル港に入港したとき、在日アメリカ合州国海軍が示した入港目的は、「通常入港」とされていました。
 今回、入港目的は、「親善及び友好」に変えられていますが、軍艦の寄港は、その目的が「親善及び友好」であろうと「乗組員の休養」であろうと軍事行動の一環です。

(二)在サッポロ米国総領事館の回答文書は核兵器非搭載を証明していない
 オタル市長は、
    「フィッツジェラルドの核兵器搭載の有無については、在札幌米国総領事館と外
   務省に対し照会を行い、その結果、核搭載はしていないものと判断しました」
と回答していますが、在サッポロアメリカ合州国総領事館からの1月19日付けのオタル市への文書回答は、
    「1991年9月にブッシュ大統領が発表し、1994年にクリントン大統領が発表し
   た政策にかんするあなたの質問にかんしては、2010年にアメリカ合州国の現行政
   策の声明として公表された“核態勢の見直し”を参照してください」
というものでした」(米空母に反対する市民の会訳)。

 1997年9月、オタル港にアメリカ合州国海軍第7艦隊所属の空母「インディペンデンス」が入港しました。これは、日本の民間港へのアメリカ合州国空母のはじめての入港でした。米空母に反対する市民の会は、それに反対する民衆組織として、1997年8月に結成されました。
  「インディペンデンス」がオタルを出港した後、1997年10月に、オタル市は、在サッポロアメリカ合州国総領事館に、「今後アメリカ合州国軍艦船がオタルに入港しようとする際には核兵器搭載の有無を文書で回答してほしい」という趣旨の申入れをおこない、在サッポロアメリカ合州国総領事館は、それを了承しました。
 今回の在サッポロアメリカ合州国総領事館の文書は、「フィッツジェラルド」が核兵器を搭載していないことを示す文書ではありません。2010年4月にアメリカ合州国政府が公表した「核態勢の見直し(Nuclear Posture Review)」は、核兵器保有量の削減、新たな核兵器の開発停止などに触れている文書であって、アメリカ合州国海軍艦船が核兵器を搭載していないことを示す文書ではありません。
 1975年3月18日に神戸市議会は、神戸港に寄港する外国軍の艦船に核兵器を搭載していないことを証明する「非核証明書」の提出を義務付ける「核兵器積載艦艇の神戸港入港拒否に関する決議」を可決しました。
 それ以後、アメリカ合州国艦船は神戸港に入港していません。
オタル市は、核兵器を搭載していないことを証明する文書を在サッポロアメリカ合州国総領事館などアメリカ合州国政府機関から入手して下さい。

(三)外務省のあらたな虚言
 今回の、「フィッツジェラルド」の核搭載問題にかんする外務省のオタル市に対する回答は、
    「当該艦船については、搭載能力がない以上、核兵器を搭載していないことにつ
   き、我が国政府として疑いを有していません」
というものでした。
 2009年2月の「フィッツジェラルド」のオタル入港時までは、オタル市のアメリカ合州国艦船の核搭載有無についての問い合わせに対して、外務省は、「米国にとって、事前協議に関する約束を履行することは日米安全保障条約及びその関連取り決め上の義務」、「核持ち込みについて事前協議が行われない以上、核持ち込みは無い」と回答していました。
 しかし、実際には、日本政府とアメリカ合州国政府は、1960年に、核兵器を積んだアメリカ合州国艦船の日本寄港を事前協議の対象外とするという密約を結んでいました。
  「インディペンデンス」、アメリカ合州国海軍第7艦隊旗艦「ブルーリッジ」、アメリカ合州国海軍第7艦隊空母「キティホーク」などのアメリカ合州国艦船オタル寄港のさいに外務省がくりかえしていた「事前協議がないから、核もちこみはない」という回答は、いつわりでした。
 7か月後2009年9月に、高知港に寄港を希望しているアメリカ合州国海軍救難艦の核兵器搭載の有無を高知県が照会したとき、外務省は、口頭で「搭載能力がない以上、核兵器を搭載していないことにつき、政府として疑いを有していない」と回答しました。
 日本政府がアメリカ合州国軍の核搭載艦船の日本通過や寄港を黙認してきた「日米密約」の存在を否定することをやめた外務省は、それまでのいつわりを、あらたな虚言に変えました。
 2010年2月の「ブルーリッジ」のオタル入港のさいには、外務省は、高知県への回答と同じ回答をしてきました。今回も、同じ回答をしてきました。
 アメリカ合州国海軍のすべての艦船に核兵器搭載能力がないことは、具体的に証明されていません。

(四)軍事行動に協力しないという意思を具体的に
 1997年以後、1998年と2001年を除いて、オタル港には毎年アメリカ合州国軍艦が入港し、昨年までに18隻が入港しています。
 アメリカ合州国海軍のミサイル駆逐艦「フィッツジェラルド」のオタル入港承認を取り消し、入港を拒否してください。
 アメリカ合州国軍艦のオタル入港を毎年くりかえして許可し続け、アメリカ合州国軍艦の入港を通常化させないでください。
 地域政府の長として、戦争非協力の意思を明確に示すとともに、日本政府にたいして軍事行動に協力しないという意思を具体的に示して下さい。

(五)軍艦「フィッツジェラルド」入港許可に抗議する
 憲法と港湾法と地域の自治をまもろうとする姿勢を堅持することなく、市民の平和と自治の願いに反して、商業港であるオタル港に軍艦「フィッツジェラルド」の入港を許可し、アメリカ合州国海軍の軍事行動に協力し、1982年6月28日のオタル市の「核兵器廃絶平和都市宣言」の精神を守ろうとせず、オタル地域の民衆を戦争に協力させようとしている地域政府の長であるオタル市長に、わたしたちは、抗議します。

  2011年1月26日
               米空母に反対する市民の会
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「海南島的台湾兵」 7

2011年01月25日 | 海南島史研究
 鄭麗玲「海南島的台湾兵(1937-1945)」の「三、海南島佔領與台湾兵」の「(四)戦地生活」の要旨はつぎのとおりである。
                                    佐藤正人

 日本帝国は拡張野心のため相当の人力の代価を支払った。海南島の気候は暑く、水質は悪く、重金属を含んでおり、アメーバー赤痢、デング熱などの伝染病が蔓延していた。産業志願隊員として海南島に行ったことのある尤天和は、海南島の鉄道建設のときに1本の枕木ごとに1人の命が失われたと指摘している。多くの人の死因は伝染病であった。各種の病気のほかに、太平洋戦争戦争末期、日本軍がしだいに敗退していくとき、海南島にいた台湾兵も空襲の危険に遭遇した。
 海南島の日本海軍工員だった林淡國は、“1943年3月3日の三亜大空襲のときの恐怖がいまも残っている。航空隊、飛行場、海軍病院などの三亜の日本軍の軍事施設はみんな大きな損害を受けた。航空隊の火薬庫に爆弾が命中し大爆発した。海軍工員だった台湾人、日本兵、現地の工員などの死者は少なくなかった。遺体を一人ひとり別々に収容できず、海岸に運び、ゴミを焼くようにして焼いた”と話している。
 台湾人巡警は、日本海軍陸戦隊員や通訳として、空襲にあったほかに、仕事のさいに海南島の住民や抗日民兵と接触する機会が多く、危険にさらされた。討伐工作のさいに隠れていた遊撃隊の攻撃を受けて死亡したり、住民と接触しているときに偽装したスパイに殺された台湾人巡警が少なくなかった。日本軍の苛酷な集団的処罰を受け入れないで、日本軍から逃亡して遊撃隊に加入する台湾人巡警もいた。戦争末期(1945年)においては、海南島で兵役年齢に達した台湾青年は、海南島で現地徴兵された。
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「海南島的台湾兵」 6

2011年01月24日 | 海南島史研究
 鄭麗玲「海南島的台湾兵(1937-1945)」の「三、海南島佔領與台湾兵」の「(三)台湾兵在海南島的職務」の後半の要旨はつぎのとおりである。
                                   佐藤正人

 1943年に日本連合艦隊が南太平洋の海戦で大敗北してから、失われた兵員を補充するために、日本は、海南島の海軍陸戦隊将兵の3分の2に相当する現役下士官を派遣した。そのため海南島の兵員が足りなくなったので、ただちに台湾から徴用した巡査補をあてた。巡査補は、のちに巡警と改称されたが、実際には陸戦隊に入れられた。1943年5月に応募して巡査補として海南島に行った趙石材は、海南島の那大で陸戦隊に入れられたとき、兵士の3分の2が台湾兵であったと証言している。海軍の通訳をしていた張子は、当時海南島に進駐し日本海軍陸戦隊討伐隊兵士の3分の1の多くは45歳以上の日本兵で、3分の2は20歳前後の台湾人巡警で3あったと証言している。
 通訳は日本軍と現地人の間の溝にかけられた橋の役割をもつものである。日本軍と現地の政府が治安などについて会談するときには、通訳は翻訳を担当すると同時に、情報を収集し日本軍の隊長に報告した。通訳が、自動車道路建設のさいに各村に労務を割り当てることもあった。日本海軍陸戦隊に入れられていた台湾人巡警は、しばしば、抗日遊撃隊を攻撃しようとして遊撃隊の待ち伏せ攻撃に遭遇した。台湾人巡警は、警戒活動のほかに、現地の村長とともに住民の労力を徴用する責任をもたされた。巡警だった潘坤城は、日本人は村人にレンガを作らせ、燃料にする木材を集めさせた、と証言した。そのとき潘坤城ら台湾人巡警は、現場で監督し、働きにきた村人にいくらかの「口銭」あるいは塩や米をあたえたという。
 日本は台湾の西部5州で「産業志願者」を募集した。「産業志願隊」に入った者は、まず台湾でわずかな基礎的農業訓練を受けて、海南島に送られ農業改良工作をおこなった。日本軍は当時三亜に改良農場をつくり、糖業部門ではサトウキビの品種選定、林業部門では樹種調査、畜産部門では養豚養牛試験をおこなった。これらの農業改良は非常に成功した。海南島では産出していなかった蓬来米の品質を台湾の蓬来米より優れたものにした。この試験場には、日本人と台湾人のほかに、香港や汕頭から来た労働者も働いていた。海南島には日本人の移民村もつくられ、日本本土から日本人移民が来た。このことから、日本が海南島を南方と中国にたいする軍事基地とするだけでなく長期占領しようとする野心をもっていたことがわかる。
 日本の新たな占領地である海南島における台湾人の地位は、日本人の下で、海南島および外地から徴募した技術をもたない労働者を指導することであった。これは、シンガポール、マレイシア、インドネシアその他の情況と似ていた。台湾は、日本が次々と新領土としていく地域にくらべて、歴史的背景も空間的位置も、相対的に日本に近かった。台湾人の外地性格はしだいに消失していった。
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「海南島的台湾兵」 5

2011年01月23日 | 海南島史研究
 鄭麗玲「海南島的台湾兵(1937-1945)」の「三、海南島佔領與台湾兵」の「(三)台湾兵在海南島的職務」の前半の要旨はつぎのとおりである。
                                     佐藤正人

 日本陸軍が台湾軍属を徴集するときの名称は、勤労団、農業団、陸軍工員などであり、海軍は、海軍工員であった。初期の攻防戦のあと、海南島は海軍が管理し、海軍基地とした。
 当時、海南島には、自動車道路は少なく、鉄道はなかった。日本軍占領以前に、国民政府はイギリスから借款して鉄道建設を準備し、鉄路開発計画を発表していた。日本占領後、海南島一周鉄道建設が開始された。楡林港付近に優良な鉄鉱石と若干の工業原料鉱石があった。日本は、海南島の農業、林業、畜産業の調査と改良をおこなった。海南島の治安を維持し中央山地の土匪と共産党を掃滅させるために軍事施設を整備した。これらの開発計画と防禦工事にはおおくの人力が必要であった。
 当時、日本の海南島工作は日本人、台湾人、朝鮮人がおこなった。日本軍が徴集あるいは募集した海軍工員のほかに、三井、三菱、台湾拓殖会社などの民間会社が台湾人労働者を使った。当時、海南島には、これらの日本籍台湾人が1万人以上いた。
 台湾で新しい兵役法が実施されてからは、服役年齢に達した台湾青年は、民間人として海南島に行った者も、現地召集されて軍隊に入った。海軍の軍属は、施設部、軍事部、海軍警察、特務部の4つの部に分けられた。
 日本は、占領後の海南島の治安を維持するために、台湾で巡査補を募集した。当時、中央山地には依然として共産党の軍隊と遊撃隊が根拠地を築いていた。日本は、海南島を海3種の地域に分けていた。海南島外周の海岸地区では警察隊が治安を担当し、沿岸地区と山岳地域の中間は警察隊と海軍陸戦隊が共同して行動し、五指山区では、遊撃隊や共産党の攻撃を受けることがおおかったので、陸戦隊が守備することになっていた。
 しかし、事実上は、海軍陸戦隊の警戒地域で警察隊が抗日遊撃隊とたたかうこともあった。
 当時、日本は、台湾で「巡査補」を募集し、治安警察力の不足を補おうとした。日本は、海南島で、「巡査補」に月給120元を出すと約束したが、これは、台湾警察の月給の約4倍だった。警察官として募集されたので、おおくの者は海南島で後方の治安維持にあたり軍事的危険はないと考えで応募した。海南島に行くと軍隊に配属され討伐作戦に参加させられるとは考えなかった。
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オタル市長、アメリカ合州国軍艦の入港を許可

2011年01月22日 | 個人史・地域史・世界史
 1月7日に米空母に反対する市民の会は山田勝麿オタル市長にアメリカ合州国軍艦「フィッツジェラルド」オタル港入港に反対して5項目の要請をおこないました(要請全文は、1月11日のこのブログの「アメリカ合州国軍艦船のオタル入港を許さない!」に掲載してあります)。
 それにたいし、きのう(1月21日)夕刻、山田勝麿オタル市長から文書回答がありました。
 それは、つぎのようなものでした。

 1、港湾管理権をもつオタル市長は、「フィッツジェラルド」のオタル港の岸壁使用を許
  可しないでください。
   【回答】 今回、フィッツジェラルドの小樽港入港の目的が「親善及び友好」であるこ
       とから、小樽市としては、商業港としての港湾機能への影響を最大限に考慮
       し、1月21日に開催されたバース会議の結果を踏まえ、従来から寄港に当
       たっての判断の基本としている3つの条件、①入出港及び接岸時の安全性 
       ②商業港としての港湾機能への影響 ③核兵器搭載の有無 について勘案
       した上、入港について総合的かつ慎重に判断したところです。
 2、「核兵器廃絶平和都市宣言」を空文化しないでください。
   【回答】 フィッツジェラルドの核兵器搭載の有無については、在札幌米国総領事館
       と外務省に対し照会を行い、その結果、核搭載はしていないものと判断しま
       した。
        「核兵器廃絶平和都市宣言」のとおり、非核三原則が完全に実施されるこ
       とを願っております。
 3、 オタル市長は、地域政府の長として、戦争非協力の意思を明確に示すとともに、
   政府にたいして戦争協力(参戦)策動に反対する意思を具体的に示して下さい。
    オタル市長は、オタル港を平和目的以外に使用させないという意志を、明確に示
   して下さい。
 4、 オタル市長は、いっさいの軍艦にたいしオタル港の岸壁使用を許可しないでくださ
   い。
   【回答】 小樽市は1982年6月28日の「核兵器廃絶平和都市宣言」、2009年10
       月1日の平和市長会議加盟と、平和に対する姿勢を示しており、商業港であ
       る小樽港の軍事目的での使用を許可することはありません。
        今回、フィッツジェラルドの小樽港入港の目的が「親善及び友好」であるも
       のの、商業港としての港湾機能への影響を最大限に考慮して入港の検討を
       したところであります。
 5、 オタル港に、毎年のようにアメリカ合州国の軍艦が入港しようとし、入港している
   問題について話し合う市民集会を主催してください。
   【回答】 これまでも、各種団体の方々から要請書等をお受けするとともに、会合等
       で市民の皆様からのご意見をお伺いする機会もありますので、現在のとこ
       ろ、この問題についての市民懇談会を設けることは考えておりません。


 オタル市長は、
    「フィッツジェラルドの核兵器搭載の有無については、在札幌米国総領事館と外
務省に対し照会を行い、その結果、核搭載はしていないものと判断しました」
と米空母に反対する市民の会に回答していますが、「フィッツジェラルド」の核搭載問題にかんする外務省のオタル市に対する回答は、
    「当該艦船については、搭載能力がない以上、核兵器を搭載していないことにつ
   き、我が国政府として疑いを有していません」
というものであり、在札幌アメリカ合州国総領事館からの1月19日付けのオタル市への回答は、
    「1991年9月にブッシュ大統領が発表し、1994年にクリントン大統領が発表し
   た政策にかんするあなたの質問にかんしては、2010年にアメリカ合州国の現行
   政策の声明として公表された the Nuclear Posture Review を参照してくだ
   さい」
というものでした(日本外務省は、「Nuclear Posture Review」を「核態勢の見直し」と日本語訳しています)。
 いずれも、「フィッツジェラルド」が核兵器を搭載していないことを明確に示す文書ではありません。
 オタル市長は、1月21日午後、オタル港の港町ふ頭3番バース(岸壁)を「フィッツジェラルド」の使用岸壁として手配すると、オタル港長に伝えたとのことです。
 以下は、きょう(1月22日)の新聞(朝刊)に掲載された記事です。
                                 佐藤正人

 『北海道新聞』。
 ■米艦の入港 小樽市長容認
 米海軍第7艦隊のイージス艦「フィッツジェラルド」(8800㌧)が2月5~9日にの小樽港への寄港を計画していることについて、港湾管理者の山田勝麿市長は21日、入港を認めると小樽海保を通じて米側に伝えた。
 この期間、同港の港町埠頭に一般船舶の使用予定がなく、同艦の核搭載の有無について外務省から「搭載能力がない以上、核兵器を搭載していないことに疑いを有していない」と回答があったことから、港町埠頭の使用を認めた。フィッツジェラルドは神奈川県横須賀港が母港。小樽寄港は2009年2月以来、2回目。米艦船の小樽入港は、海洋調査船も含めると1961年以来、延べ73隻目。

 『毎日新聞』北海道版
 ■小樽市が米艦寄港を受け入れ
 小樽市は21日、在日米海軍(神奈川県横須賀市)から寄港要請を受けていた横須賀基地配備のイージス艦「フィッツジェラルド」(8800㌧、乗組員約200人)の小樽港寄港を受け入れると発表した。滞在期間は2月5~9日で、目的は「親善・友好」という。

 『朝日新聞』北海道版
 ■米イージス艦寄港認める
 小樽市は21日、米海軍のイージス駆逐艦フィッツジェラルド(排水量8580㌧)の小樽寄港を認めると発表した。寄港は2月5~9日の予定。市は入港時の安全性、港湾機能への影響、核兵器搭載の有無を検討。外務省から「同艦は核の搭載能力がない」と回答があり、受け入れを決めた。寄港についてはこの日、共産党小樽地区委員会などが市に抗議し、撤回を申し入れた。市民団体や連合小樽なども寄港に反対している。

 『読売新聞』北海道版
 ■米艦入港 受け入れ決定
 小樽市は21日、米海軍第7艦隊所属で横須賀基地配備のイージス艦「フィッツジェラルド」(8800㌧)の小樽港への入港を受け入れると発表した。寄港は2月5~9日。
 米側から小樽海上保安部を通じて5日に寄港の通知があり、小樽市は、核兵器搭載の有無などを調べていた。外務省から「核兵器の搭載能力がなく、搭載していないことに疑いがない」との回答を得たことなどから受け入れを決めた。同市によると寄港目的は友好親善。館内を一般公開する予定はない。
 フィッツジェラルドの小樽港への入港は、2009年2月に続いて2度目。    
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