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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「逆境の人生にも屈しなかった在日1世のハルモニたちの「明るい闘争」」

2024年05月10日 | ドキュメンタリー
「The Hankyoreh」 2024-05-10 08:10
■逆境の人生にも屈しなかった在日1世のハルモニたちの「明るい闘争」
 金聖雄監督のドキュメンタリー『アリランラプソディ~海を越えたハルモニたち~』

【写真】在日コリアン1世のハルモニたちの人生を描いたドキュメンタリー『アリランラプソディ』=全州国際映画祭提供//ハンギョレ新聞社

 日本の大阪の在日コリアン密集地域である鶴橋で生まれて育った在日コリアン2世の金聖雄(キム・ソンウン)監督(61)は、キムチを食べられない少年だった。しかし、最も親しい友人の前でもそれを口には出せなかった。金監督が育った1970~80年代の在日コリアンの民族意識は非常に高く、韓国民謡や伝統舞踏が好きで韓国料理を食べることが在日コリアンの基本の徳性とみなされていたためだ。幼いころの在日コリアンの強い連帯感に「違和感を感じてなじめなかった」金聖雄監督が、在日コリアン1世のハルモニ(おばあさん)たちの現在を扱ったドキュメンタリー『アリランラプソディ~海を越えたハルモニたち~』を携え、第25回全州(チョンジュ)国際映画祭を訪れた。『アリランラプソディ』は20年前に出した『花はんめ』の続編だ。
 「故・呉徳洙(オ・ドクス)監督の助監督としてドキュメンタリー『戦後在日50年史・在日』(1997)に参加し、在日コリアン問題に関心を持つようになりました。しかし、植民地の歴史から始めて今の差別に到着する流れだけが正解なのか、他のアプローチはできないのだろうかと考えるようになりました」
 そのように悩んでいたときに出会ったのが、神奈川県川崎市に住む在日コリアン1世のハルモニたちで、その結実が演出デビュー作『花はんめ』(2004)だった。「想像を絶するほど過酷な年月を生きてきた方たちなのに、あまりにも元気でたくましい姿」に感銘を受けた監督は、映画制作を決めつつ「つらい過去の話は絶対に聞かない」ことを誓った。代わりに「夢は何ですか」と尋ねた。「ただ歌って踊って笑って、今が夢のようだよ」だというハルモニたちのあっけらかんとした返事には、逆説的に彼女たちが生きてきた苛酷な年月がにじんでいた。

【写真】在日コリアン1世のハルモニたちの人生を描いた『アリランラプソディ』で第25回全州国際映画祭を訪れた金聖雄(キム・ソンウン)監督=金聖雄監督提供//ハンギョレ新聞社

 元々、金監督は続編『アリランラプソディ』を計画していたのではない。『花はんめ』後の記録として、80歳を超えて文字を学び、沖縄や広島などに旅行にいって同じような年月を生きたハルモニたちと交流する日常をときおり撮影していた。2015年に自衛権行使を容認する安保法制の問題が出てくると、監督のカメラは忙しくなり始めた。「在日コリアンに向けられたヘイトスピーチ集会が、ハルモニたちの住む町内で行われました。極右の集会が開かれるとしても、攻撃される当事者の居住地の目の前で行われるなんてありえない。ハルモニたちの顔が一人ひとり思い出され、私ももうこの問題に向き合わなければ、と決心しました」
 おびえるハルモニたちを心配して駆けつけたが、彼女らは監督が初めて会ったときよりも、はるかにたくましかった。それどころか、日本の国会の前に行って安保法制反対のデモをするとまで言った。多くのハルモニたちは体が不自由なので東京まで行くことはできなかったが、彼女たちが住む桜本地域で800メートル行進し、ハルモニたちは「戦争反対」「子どもたちを守れ」と叫んだ。金監督はこの現場をみて、「韓流ブームの勢いで高まる韓国に対する関心のなかで、すっぽり抜け落ちている在日の歴史を撮らなければ」と決心し、『アリランラプソディ』を完成させた。
 金聖雄監督はハルモニたちと出会い、不条理な状況にあっても尊厳と品位を失わない人間の偉大さを知った。このテーマは監督の重要な演出の方向になった。1967年に強盗殺人罪で無期懲役判決を受けて29年を獄中で過ごした後、再審で無罪判決を受けたが、獄中でも歌を歌って詩を書き、「不運だが不幸でなかった」と回顧する主人公を追う『オレの記念日』は、2022年に「座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバル」のコンペティション部門で大賞を受賞した。
 来年の戦後80年に向けて、金監督はヘイトコメントと脅迫に苦しめられながらもヘイトスピーチに対抗する在日コリアン3世を扱った作品を構想中だ。若者たちが「ヘイトスピーチとヘイトコメントの攻撃が集中する象徴的な存在」だからだ。また、「韓国で生まれて育って日本に来た私の両親と、日本で生まれ育ちメキシコに移住した私の娘、そして、メキシコで生まれた2人の孫につながるディアスポラの旅程を描く作品も作りたい」と述べた。

キム・ウンヒョン先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2024-05-09 19:09
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「韓国軍のベトナム虐殺を扱った『最後の子守歌』、ベトナム国営VTVドキュメンタリー賞」

2017年04月15日 | ドキュメンタリー
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/26111.html
「The Hankyoreh」 登録 : 2017.01.02 22:54 修正 : 2017.01.03 09:44
■韓国軍のベトナム虐殺を扱った『最後の子守歌』、ベトナム国営VTVドキュメンタリー賞
 年末放送大賞ドキュメンタリー部門奨励賞を受賞 
 異例にも国営放送局が製作し受賞 
 「ベトナムピエタ」像のモチーフとなった虐殺を扱う

【写真】ベトナム国営放送クアンガイ省「VTV」テレビプロデューサーのホニョッタオ氏(左)が韓国軍による民間人虐殺問題を扱ったドキュメンタリー『最後の子守歌』を撮影している//ハンギョレ新聞社

 昨年12月24日に開かれたベトナム国営放送「VTV」放送大賞でベトナム戦争当時の韓国軍による民間人虐殺問題を扱ったドキュメンタリー『最後の子守歌』がドキュメンタリー部門奨励賞を受賞したと2日伝えられた。ベトナム現地で韓国軍による民間人虐殺を扱ったドキュメンタリーが製作され、国営放送会社の放送大賞を受賞したのは異例のことだ。ベトナム政府はベトナム戦終戦以後、民族統合と和合を最優先課題とし、この過程でかつての韓国軍による虐殺問題は公論化しない基調を維持してきた。
 『最後の子守歌』の背景は、1966年に韓国軍の青龍部隊が南ベトナムのクアンガイ省ビンホア村で行った虐殺で、この虐殺で民間人430人が亡くなった。虐殺当時生後6カ月だったトアヌンイア氏(50)は銃弾に倒れた母親の腹の下にいてかろうじて生き残ったが、雨水と共に流れ込んだ弾薬のために失明した。この話は子供をしっかり抱きしめた母親を彫刻した「ベトナムピエタ」像のモチーフになった。
 ドキュメンタリーは昨年11月30日から5泊6日の日程でベトナム平和紀行に参加した韓国人参拝団30人あまりの姿も含まれた。ビンホア虐殺50周年の慰霊祭が開かれた12月2日、トアヌンイア氏を訪ねた韓国人参拝団が「犠牲者の墓の前で心が痛んだ」として涙を流し、トアヌンイア氏が参加者の手を握る姿は“和解”と“慰労”というドキュメンタリーの核心メッセージを伝える。
 ドキュメンタリーは過去16年間にわたり「ごめんなさい、ベトナム」運動をリードしてきた韓国ベトナム平和財団のク・スジョン理事、2015年ベトナム民間人虐殺被害者として初めて韓国を訪問した生存者ウンウイェントロン氏、「ベトナムピエタ」彫刻像を製作したキム・ソギョン、キム・ウンソン夫妻の姿を照らした。
 ベトナム戦当時、韓国軍による民間人虐殺は80件あまり、犠牲者は9000人に達する。韓国政府は未だ韓国軍によるベトナム民間人虐殺を認めていない。

ファン・グムビ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2017-01-02 18:03
http://www.hani.co.kr/arti/international/asiapacific/776990.html



http://japan.hani.co.kr/arti/culture/20626.html
「The Hankyoreh」 登録 : 2015.05.11 21:58 修正 : 2015.05.12 06:20
■“記憶のための闘争”に転換された韓国のベトナム戦争
 ユン・チュンノ博士が最新論文で主張
 民間人虐殺の真実糾明のため
 1999~2000年のハンギョレ21キャンペーン
 「反共・発展のための戦争」とする公式記憶が崩壊
 参戦軍人は記憶強化で反発

【写真】ベトナム戦争 資料写真//ハンギョレ新聞社

 1999~2000年のハンギョレ21によるベトナム戦キャンペーンと市民社会団体の真実糾明運動により、この戦争に対する韓国社会の“記憶闘争”が公式記憶と対抗記憶の闘争として対立し、冷戦の社会的実在を見せているという分析が出てきた。
 歴史社会学者ユン・チュンノ博士(韓国学中央研究院主任研究員)は、季刊『社会と歴史』2015年春季号に載せた「韓国のベトナム戦争記憶の変化と再構成」という論文で、「(ベトナム戦争に対する)現在の記憶闘争は、公式的記憶と対抗記憶、それぞれの『記憶のための闘争』に転換された」と説明した。
 論文は1999年9月から2000年9月まで46週にわたり続いたハンギョレ21のキャンペーンは、韓国のベトナム戦争経験と記憶に対する社会的関心を触発し、その前後に形成された市民社会団体が真実糾明運動を行い、ベトナム戦争に対する“記憶”に一大転機を提供したと評価した。 その時まで、韓国社会におけるベトナム戦争の記憶は「反共・発展のための戦争」という公式的記憶で定形化されていたが、1987年以後の民主化と脱冷戦は戦争の記憶に対する国家独占の解体をもたらしたということだ。
 論文はまた、キャンペーンと真相糾明運動は参戦軍人に対して加害者であり被害者であるという二重の位置を付与したが、ハンギョレ21と市民社会団体の人権・平和談論に対して参戦軍人が反発し、公式記憶を強化する意図せざる結果を生んだと分析した。 時間が流れ参戦軍人の記憶が「政治的葛藤次元に転換」され、李明博(イ・ミョンバク)・朴槿恵(パク・クネ)政権のベトナム戦争関連法改正と公式記念行事に対して、ベトナム政府が敏感に反応し外交的な複雑性まで高まった。 このように、それぞれ異なる方向に展開した“記憶闘争”の結果、韓国政府はベトナム戦争に対する公式的記憶を否認することもできず、自由守護と経済発展のための戦争だったという修辞を捨てない限り、過去の歴史からも自由になれないジレンマに陥ることになったと論文は総合した。
 ユン博士は「参戦軍人と保守勢力は過去の公式記憶をより一層強化していて、ベトナム戦真実委員会を引き継いだ平和博物館や、韓国とベトナムの過去の問題に関心を持っている市民社会団体は、対抗記憶の維持・強化のために努力している」と述べた。それでも「脱国家的戦争記憶、生命権、人権、平和に根ざした戦争に対する認識の拡張は、社会的冷戦を弱化させることに寄与するだろう」と見通した。我らが内なる冷戦」が解体される時、初めてベトナム戦争は歴史の中の戦争として残ることになるという意味だ。

イ・ユジン記者
韓国語原文入力:2015-05-11 19:20
http://www.hani.co.kr/arti/culture/religion/690695.html



http://megalodon.jp/2010-0817-1927-00/kankoku-020115.tripod.com/vietnam_war/miscellany/watasinomura.html
『ニューズウィーク日本版』 2000年4月12日号 ロン・モロー(バンコク支局長)
■私の村は地獄になった
韓国軍がベトナムで行った残虐行為の
被害者たちが真実を語りはじめた
 今から33年前の1967年4月1日。グエン・バン・トイはびくびくしながら、ベトナム中部フーイェン省の水田で働いていた。
 当時、この地域では韓国軍が大規模な作戦を進めていた。韓国兵は農民を力ずくで追い立て、南ベトナム政権の支配下にあった沿岸部に無理やり移住させていた。
 だが、多くの村人は移住を嫌がった。トイのビンスアン村を含む5カ村からなるアンリン郡の農民も、先祖代々の土地を捨てるのは気が進まなかった。
 トイが農作業を続けていると、いきなり機関銃の銃声と手榴弾の爆発音が響いた。音がしたのはビンスアン村の方角。トイはあわてて身を隠し、あたりが暗くなるまで動かなかった。
 村に戻ったトイが目にしたのは、身の毛もよだつ光景だった。家は黒焦げになり、少なくとも15人の村人が血の海に倒れていた。多くの遺体は銃剣で腹を切り裂かれていたと、トイ(71)は言う。
 そのなかには、トイの妻と3人の子供の遺体もあった。生後4日の末の子は母親に抱かれたまま、背中を撃ち抜かれていた。4歳の娘ディエムは銃弾を5発受けていたが、奇跡的に命をとりとめた。
 トイは遺体を近くの防空壕に運び、入り口を泥で覆った。ここが、そのまま墓になった。トイも他の村人も、「あまりに悲しすぎて」犠牲者を改葬する気にはなれなかったからだ。

★理由なき無差別の殺戮
 韓国軍がベトナムに派兵されていたのは1965~73年。こうした残虐行為のねらいは、ベトナム中部の3省(ビンディン、クアンガイ、フーイェン)から農民を移住させて人口を減らし、ベトコン(共産ゲリラ)の勢力伸張を阻止することにあったようだ。
 現地の自治体当局者によると、立ち退きを拒否した人々は、韓国軍の手で組織的に惨殺されたという。しかも犠牲者の多くは、老人や女性、子供だった。
 歴史の闇に葬り去られていた虐殺の事実に再び光が当てられたのは、勇気ある韓国人研究者、具秀ジョン(ク・スジョン)が行った調査のおかげだ。彼女は韓国軍による大量虐殺の詳細を記録したベトナム政府の文書を発見した。
 生存者の証言によると、虐殺は理由なき無差別殺人であり、多くはベトコンとの戦闘が行われていない時期の出来事だった。
 グエン・フン・トアイ(46)もビンスアン村の虐殺と同じころ、アンリン郡の別の村で危うく殺されかけた。
 当時13歳だったトアイは、韓国軍が家に近づいて来るのを見てすぐに逃げた。近くの畑に隠れて見ていると、韓国兵は村の家に次々と火をつけ、母親と祖父母、弟と妹、そして近所の人々に暴行を加えたという。
 韓国軍は、トアイの家族を含む11人ほどの村人に銃剣を突きつけ、防空壕に追い込んだ。残りの12人ほどは、穴の外に立たされた。次の瞬間、何の前ぶれもなく銃声がとどろき、手榴弾の爆発音が空気を引き裂いた。トアイはとっさに頭を隠した。
 硝煙が消えたとき、すでに韓国軍の姿はなかった。トアイは急いで家族がいた場所へ行った。
 防空壕の前には、穴だらけになった血まみれの死体が並んでいた。防空壕の中も、誰かが生きている気配はまったくなかった。トアイは恐怖に駆られて逃げ出した。戦争が終わった後も、ここへ戻ることはできなかったという。

★見つかったのは肉片だけ
 「みんな、村を離れたくなかった。私たちにとって、家や土地や水田はかけがえのないものだ」。トアイはそう言って泣きだした。「でも、立ち去るのを渋った人間はみんな殺された。連中は村をめちゃくちゃに破壊してしまった」
 こうした残虐行為の結果、多くの人々がベトコンの陣営に加わった。67年、16歳のときに父親を韓国軍に殺されたブイ・タイン・チャムもその1人だ。
 チャムは数人の韓国軍がアンリン郡の家に押し入る直前、裏口から脱出した。韓国兵は70歳の年老いた父親を捕らえ、防空壕に押し込むと、すぐに手榴弾を投げ入れた。チャムは日が暮れてから村にこっそり戻り、崩れた避難壕を掘り返したが、「肉片しか見つからなかった」という。
 それから数週間、物ごいをしながらさまよったチャムは、山岳部にこもっていた共産ゲリラに加わる決意を固めた。「父を殺した奴らに復讐したかった。韓国兵が村でやったことを見た以上、そうせずにはいられなかった」
 グエン・ゴク・チャウは83歳になった今も、憎しみを忘れていない。67年5月22日、フーイェン省ホアドン郡のミトゥアン村で農業をしていたチャウは、たまたま親戚のいる近くの村に出かけていた。
 そこへ前夜、韓国軍が村を攻撃したという知らせが届いた。大急ぎで帰ったチャウが目にしたのは、村人が井戸からバラバラになった遺体を引き揚げている光景だった。犠牲者のなかには、妊娠中の妻と4人の子供も含まれていた。

★「首を切り落としてやる」
 虐殺を隠れて見ていた老人の話では、韓国兵は女性や子供を井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだという。チャウは、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。
 「殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかであるわけがない」と、チャウは言う。「韓国人は人間じゃない。目の前に現れたら、首を切り落としてやる」
 ベトナムで虐殺行為を犯したのは、韓国軍だけではない。アンリン郡から海岸沿いに北へ向かえば、68年に米軍部隊が500人以上の村人を虐殺したクアンガイ省ソンミ村がある。
 それでも戦争体験をもつフーイェン省の村人の間では、米兵の評判は必ずしも悪くない。地方公務員のファム・トゥ・サン(47)は66年のテト(旧正月)のとき、米兵と一緒に遊んだりチューインガムやキャンディーをもらったことを今も覚えている。
 だが米軍はこの年、フーイェンから引き揚げ、代わって韓国軍がやって来た。それから「67年のテトを迎えるまで、韓国軍は殺戮を続けていた」と、サンは語る。「韓国兵に会ったら、死に出会ったも同然だった」と、今は地元の退役軍人会の会長を務めているチャムも言う。
 アンリン郡の村人によれば、韓国軍はとりわけ女性にとって恐怖の的だった。韓国兵は残忍なやり方で女性をレイプしてから、殺すケースが多かったからだ。
 こうした残虐行為が明るみに出てきたことに、ベトナム政府は神経をとがらせている。
 虐殺があったこと自体は、政府首脳も承知している。だがベトナム当局は、虐殺事件の報告書が国内で発表されることは望んでいない。友好関係にある韓国政府はもちろん、ベトナムに莫大な投資を行っている大宇や現代、三星といった韓国財閥の不興を買うことを心配しているからだ。

★補償より謝罪の言葉を
 さらに政府当局には、観光客としてベトナムを再訪する韓国の元兵士が増えている状況に水を差したくないという思いもある。だが、韓国軍の残虐行為を目の当たりにした地元の当局者は、観光や経済発展のために真実を隠すべきではないと考えている。
 地元が望んでいるのは、韓国政府の公的な釈明だ。たとえば韓国側から謝罪や罪を認める発言があれば、両国の絆はむしろ強まると、地元の人々は考えている。
 「韓国軍は、この地域にかつてない災厄をもたらした。犠牲者は銃を持てない老人や女性、子供たちだ」と、フーイェン省のある当局者は言う。「私たちが望んでいるのは、物質的な補償ではない。それよりも共感と友好の姿勢を示してほしい。犠牲者が過去を忘れられるように」
 韓国軍のために流された罪なきベトナム人の血の量を考えれば、なんとささやかな要求だろう。
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文字・絵・音・声・映像 14

2008年07月04日 | ドキュメンタリー
 これまで、わたしたちは、海南島で、文昌市重興鎮排田村・白石嶺村・昌文村・賜第村、文昌市羅豆郷秀田村、文昌市抱羅鎮石馬村、文昌市南陽鎮老王村・托盤坑村、定安県黄竹鎮大河村、瓊海市九曲江郷波鰲村、瓊海市北岸郷北岸村・大洋村、瓊海市九曲江郷坡村・長仙村・南橋村・佳文村・鳳嶺村・官園村・戴桃村、瓊海市陽江鎮覃村、瓊海市烟塘鎮大溝村・書田村、瓊海市潭門鎮潭門村九所村、瓊海市新市鎮南城園村、瓊海市参古郷上坡村・外路村、瓊海市大路鎮川教村、万寧市石城鎮月塘村、万寧市東澳鎮豊丁村、万寧市南橋鎮田公村、万寧市龍滾鎮、万寧市和楽、万寧市烏場、万寧市北大鎮中興、儋州市中和鎮東坡村、儋州市長坡鎮呉村、陵水黎族自治県后石村・三十笠村、陵水黎族自治県陵城鎮南門嶺、瓊中黎族苗族自治県湾嶺鎮烏石、瓊中黎族苗族自治県黎母山鎮黎母山村・榕木村、瓊中黎族苗族自治県吊羅山郷、五指山市水満郷、楽東黎族自治県仏羅鎮仏羅村、東方市感城鎮長坡村、三亜市羊欗鎮妙山村、海口市永興鎮、海口市咸来鎮美村・美桐村・昌洽村・美良村・丹村、海口市三江鎮上雲村・古橋村・東寨村・演州村・福内湖村、海口市長流鎮儒顕村、海口市東山鎮儒万村、三亜市田独鎮「朝鮮村」……などを訪ね、住民虐殺の目撃者や幸存者から話しを聞かせてもらい、それを撮影してきました。
 その映像記録は、すべて海南島における日本の侵略犯罪と抗日反日闘争の史料です。
 この史料を、わたしたちは、国民国家日本の海南島侵略と中国民衆の海南島における抗日反日闘争の歴史を共に探求しようとする人びとに公開します。
 わたしたちは、これらの映像史料を共有し、共同研究を深めていくことを願っています。
                                    佐藤正人
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文字・絵・音・声・映像 13

2008年07月03日 | ドキュメンタリー
 1869年8月にアイヌモシリの一部を植民地としてから70年後、1939年2月に日本軍が海南島に奇襲上陸してから1945年8月までの6年半、日本政府、日本軍、日本企業は、残酷な侵略犯罪を実行しました。
 日本政府・日本軍は、海南島で、住民虐殺、村落破壊、放火、暴行、性的暴行、略奪をおこないました。
 日本政府・日本軍・日本企業(三井物産、日本窒素、石原産業、西松組、浅野セメント、王子製紙、武田薬品、資生堂、三越、トヨタ自動車……)は、港湾・道路・橋梁・鉄道・飛行場などを農地・住宅などを破壊して建設するとともに、鉱山資源、森林資源、漁業資源、農産資源を略奪し、その過程で、海南島・香港・広東・台湾・朝鮮……から民衆を強制連行し労働を強制しました。おおくの人が事故や病気や飢えや暴行で死にました。 
 日本政府・日本軍は、海南島の金融を支配し、「軍票」を乱発ました。
 日本政府・日本軍は、行政機関を設置(三省〈外務省、海軍省、陸軍省〉連絡会議)するとともに傀儡政府を造成し、「治安維持会」を設置して「良民証」などによって住民を管理しようとしました。
 日本政府・日本軍は、海南島民衆に「ヒノマル」・「キミガヨ」おしつけ、天皇賛美を強制しました。
 毒ガス大量使用、組織的生体解剖以外の犯罪のほとんどを、日本政府・日本軍は海南島でもおこないました。

 これらの侵略犯罪の実態は、日本では、隠されつづけていました。
 わたしたちは、1998年6月から、国民国家日本の海南島侵略と中国民衆の海南島における抗日反日闘争の歴史を探求してきました。
 その過程で、わたしたちは、2001年1月から、証言をビデオカメラで記録し始めました。
 それは、侵略と抵抗の史実を探求するとともに、その史実の史料を創出することでした。
                                   佐藤正人
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2008年07月02日 | ドキュメンタリー
 たとえば、54分のドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』は、2001年1月以後に撮影した100時間近い原映像を編集したものです。編集にさきだってキム チョンミさんと共同で、構成を決定し、シナリオを書きましたが、それは、文字による歴史叙述の場合と方法的には同じ作業でした。
 撮影を開始したときには、わたしは自覚していなかったのですが、「朝鮮報国隊」にかんする証言や現場を撮影することは、「朝鮮報国隊」にかんする史料を創出することでした。
 ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』のシナリオを、わたしたちは、海南島と韓国で撮影した原映像を史料として執筆しました。
これまで、わたしたちは、「朝鮮報国隊」に入れられ、生き残って故郷にもどることができた人たちから、韓国で話を聞かせてもらうことができました。そのうち、証言している映像の公開を承諾してくれた人は、高福男さん、柳濟敬さん、呂且鳳さんでした。
 わたしたちは、高福男さん、柳濟敬さん、呂且鳳さんを何回も訪ね、そのたびに話を聞かせてもらい、「朝鮮報国隊」にかかわる証言の際には、すべてを撮影させてもらってきました。
 その数10時間の映像記録のうち、ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』で紹介できたのは、5分ほどです。したがって、高福男さん、柳濟敬さん、呂且鳳さんの証言の史料としてのドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』の役割はきわめて限定的です。
 「朝鮮報国隊」にかんする文書史料は、ほとんど公開されていません。わたしたちが撮影した映像史料を検討することなしに、これからは、「朝鮮報国隊」にかかわる日本の侵略犯罪事実を明らかにしていく作業はほとんど進展しないと思います。
 「朝鮮報国隊」にかんする史実探求においてだけでなく、国民国家日本の海南島侵略犯罪にかんする史実探求においても、わたしたちが撮影してきた証言映像・現場映像は、その史実にかかわる史料となっています。
                                佐藤正人
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2008年07月01日 | ドキュメンタリー
 ドキュメンタリーは、記録であるとともに、歴史叙述なのだと思います。
 ドキュメンタリーのシナリオは、ことばによる記録と歴史叙述ですが、文章形式のことばだけによる記録・歴史叙述とは違い、影像による表現を前提としています。
 11月6日に、朱学平さんの姿と証言を撮影したわたしは、11月中旬に、『海南島月塘村虐殺』のシナリオを書き換えました。
 ドキュメンタリーシナリオという形式での記録・歴史叙述は、撮影してきた映像および撮影しようとする映像に規定されますが、同時に、撮影できない映像をも前提としなければ、書きあげることができません。
  『海南島月塘村虐殺』のシナリオを書いていく過程は、わたし自身が、月塘村虐殺を認識しているのかを確かめる過程でもありました。ドキュメンタリーのシナリオは、証言を文字で記録しているという意味では記録ですが、映像を前提とし数百個のクリップを編集しているという意味では歴史叙述です。わたしにとって、『海南島月塘村虐殺』のシナリオを書くということは、歴史を認識すると同時に歴史を叙述するということでした。
 ナレーションという形式の歴史叙述を書くためには、依拠する文献史料の史料批判を厳密におこなわなければならないのは当然です。
 ナレーションは、現在の証言映像に示されている過去の歴史的事実、現在の廃墟の映像に示されている過去の歴史的事実をことばによって「解説」するものでもあります。ナレーションは、文献史料と影像史料を結びつける役割を果たすものだと思います。
                                   佐藤正人
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2008年06月30日 | ドキュメンタリー
朱学平さんは、「坡はすっかり変わってしまった」と言いました。
 その数日後、11月6日、わたしは、朱学平と「坡」に向かいました。その道は、以前にも歩いたことのある道でした。
 しかし、朱学平さんといっしょに歩いていると、違った道のように感じました。
 まえに行った地点を通り越して、道がなくなったところをさらに100メートルほど行ったところで朱学平さんは立ち止まりました。すぐそばを太陽河が流れていました。
 そこで、朱学平さんは、つぎのように話しました。

     「あのとき、わたしは、妹を抱いて、前を走っていく人につ
    いて、逃げた。
     妹が痛いというと、いったん下におろし、また抱えて走るよ
    うにして逃げた。
     雨が降りそうになったので急いだ。
     ここまで逃げてきて隠れた。
     あの日、午後3時ころだったと思うが、大雨が降った。夜に
    は止んだ。
     ここにはすぐには食べるものがなかったが、まもなくさつま
    いもを探して掘って煮て食べた。鍋は、‘坡’に住んでいた人
    に借りた。水は太陽河から汲んできた。
     3日後、妹は、静かに目を閉じて死んだ。なにも食べようとし
    ないで、水だけ飲んで死んでしまった。
     妹は、ただ、痛い、痛いと言って、水だけを欲しがった。
     妹のからだは、年寄りに助けてもらって近くに埋めた。いま
    では、どこなのかはっきりしない。
     叔父(朱洪昆)が日本兵に10か所あまり刺された。からだに
    虫がわいて、何日もしないうちに死んだ」。

 こう話したあと、朱学平さんは、樹と草の茂みに入って行きました。
 そして、とつぜん泣き出しました。
 そのあと、朱学平さんは、仕事があると言って、一人で戻りました。
 岩場の多い太陽河が、光って流れていました。
 太陽河沿いの細い道を下流に進んでいくと、銀白色のススキが風に大きく揺れていました。
 すぐに道が川辺をはずれ、ビンロウジュの畑にでました。
 夕方、帽子を返しに、朱学平さんの家に行きました。朱学平さんは不在でした。連れ合いさんが、「午後、坡から戻ってから、夫はずっと泣いていた」、と話しました。
                                   佐藤正人
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文字・絵・音・声・映像 9

2008年06月29日 | ドキュメンタリー
 わたしたちたが、朱学平さんから、瀕死の妹の朱彩蓮さんを抱えて「坡」まで逃げたことを聞いたのは、朱学平さんにはじめて会った、2007年1月17日でした。その後、5月に再会し、10月に月塘村に毎日のように行って、なんども朱学平さんに会いました。約束しているわけではないのに、月塘村で、なんどとなく、会いました。
 わたしたちには、1月には、月塘村虐殺にかんするドキュメンタリーを制作するという発想はありませんでした。
 5月に、月塘村で朱進春さんや朱振華さんなどと話し合っているとき、いっしょにドキュメンタリーを制作しようということになりました。
 数日後、わたしたちは、その準備作業として、月塘村の風景の撮影を始めました。月塘のそばの太陽河ぞいの三叉路にカメラを固定し、遠景を撮影していると、遠くから鍬をかついだ人が歩いてきました。その人が近づいてくるのを撮影しつづけました。その人は、朱学平さんでした。畑から帰る途中だとことでした。
 その後も、このような偶然の出会いが何度となく、ありました。
 何度会っても、朱学平さんは、笑うことがありませんでした。その朱学平さんを見ているとき、しばしば、わたしは、1926年1月に、4歳のとき、三重県木本町(現、熊野市)で父相度さんを虐殺された敬洪さんのことを思い出しました。
 敬洪さんは、「父が殺されてから、わたしは心の底から笑ったことは一度もない」と言っていました(三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会編刊『紀伊半島・海南島の朝鮮人――木本トンネル・紀州鉱山・「朝鮮村」――』〈2002年11月〉を見てください)。

 わたしは、朱学平さんの妹、朱彩蓮さんを、映像で表現したいと考えました。
 もちろん、朱学平さんの記憶のなかの朱彩蓮さんを撮影することはできません。しかし、朱彩蓮さんを記憶している朱学平さんを撮影することはできます。
 昨年10月末、わたしは、思い切って、朱学平さんに、あの日、朱彩蓮さんを抱いて逃げた「坡」まで行きたいと言いました。
                                   佐藤正人
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文字・絵・音・声・映像 8

2008年06月28日 | ドキュメンタリー
 わたしたちは、1998年夏に、海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』上下(1995年8月)と続(1996年8月)を精読し、はじめて月塘村虐殺のことを知りました。
 2002年春にはじめて万寧市万寧鎮に行き、地域の日本軍犯罪史と抗日反日闘争史を研究している蔡徳佳さんに会いました。蔡徳佳さんは、「万寧市北部の六連嶺地域は、抗日武装部隊の根拠地だった、侵略と抵抗の歴史を統一的に具体的に追及しなければならない」、と言いました。わたしたちは、これから、共同作業が実践的にも思想的にも可能となる道を求めていきたいと話し合いました。
 そのとき、蔡徳佳さんは、わたしたちに、万寧県政協文史辧公室編『鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』(『万寧文史』5、1995年7月)を寄贈してくれました。そこには、月塘村虐殺にかんして、蔡徳佳さんが林国齋さんと共同執筆した「日軍占領万寧始末―-製造“四大惨案”紀実」と楊宏炳・陳業秀・陳亮儒・劉運錦「月塘村“三・二一”惨案」とが掲載されていました。
 2005年秋、わたしたちは、蔡徳佳さんに紹介されて、万寧市内で、朱進春さんから話を聞かせてもらいました。月塘村に侵入してきた日本兵は、当時8歳だった朱進春さんに銃剣を向けたそうです。朱進春さんは8か所傷つけられ、その後、村人に「八刀」と呼ばれたそうです。
 わたしたちが、はじめて月塘村を訪れたのは、2007年1月17日でした。この日朝、わたしたちは、月塘村に生まれ万寧市内に住んでいる朱深潤さんを蔡徳佳さんに紹介してもらい、朱深潤さんに月塘村につれて行ってもらいまいした。
この日、わたしたちは、自宅で朱学平さんから、あの日のことを聞かせてもらいました。
 その4か月後、5月に、わたしたちは、再び月塘村を訪ねました。
 6月から、わたしたちは、ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』の制作をはじめました。
 10月はじめから11月上旬にかけて、連日、月塘村を訪ねました。

 朱学平さんが自宅や虐殺現場で証言する映像に、つぎのようなナレーションをいれました。

 朱学平(Zhu-Xueping)さんは、
    「わたしは、12歳だった。朝はやく、日本兵がとつぜん家に入
   ってきて、なにも言わないで、殺しはじめた。わたしだけが生
   き残った。母、兄の朱学温(Zhu-Xuewen)と朱学敬(Zhu-
   Xuejing)、姉の朱彩和(Zhu-Caihe)、叔母2人、いとこ2人、
   そして6歳だった妹の朱彩蓮(Zhu-Cailian)が殺された。
    わたしは、柱のかげに倒れるようにして隠れて助かった。妹
   は腹を切られて腸がとびだしていたが、まだ生きていた。
    血だらけの妹を抱いて逃げた。途中なんども妹が息をしてい
   るかどうか確かめた。激しい雨が降った。村はずれに隠れた。
    半月ほどたって戻ってみたら家は焼かれていた。遺体も火に
   あっていたが、骨になりきっておらず、くさっていた。
    まもなく、日本軍の手先になっていた者たちが万寧(Wanning)
   から来て、遺体を近くに運んで埋めた。
    その5年前の1940年11月28日に、父の朱開廉(Zhu-Kailian)
   が、近くの東澳(Dongao)村に魚を買いに行き、日本軍に銃
   で撃たれて殺されていた」
  と話しました。
                                   佐藤正人
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文字・絵・音・声・映像 7

2008年06月27日 | ドキュメンタリー
 ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』で、わたしたちは、1945年5月2日に日本兵によって命を奪われた月塘村の人びとの生と死の軌跡をたどろうとしました。60年を越す歳月のまえのある日に突然いのちを奪われた、いまは不在の人たちの生と死を、どのように映像で表現するのか、どうしたら、映像で表現できるのかを考えつづけながら。
 殺害現場、墓地の映像では、殺された人たちのそれまでの生を表現できません。あの時まで、殺された人びとが呼吸していた月塘村の大気や、浴びていた月塘村の光を撮影する方法を、わたしたちは模索しました。殺された人びとのそれまでの生を表現できなければ、その死の重さを、意味を表現できないと思ったからです。
 その模索の過程で、わたしたちは、ドキュメンタリーで表現できるのは、表現しなければならないのは、対象そのものではなく、対象と自己の関係ではないかと考えはじめました。
 おそらく、対象と向き合う者のありかたによって、映像としての対象が規定されるのでしょう。
 死者の生と死の軌跡を映像化しようとするとき、対象は直接的な映像としては実在せず、ただ関係においてのみ「実在」するのかもしれません。
                                   佐藤正人
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