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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島における抗日反日闘争の記録

2013年12月31日 | 海南島史研究
 日本軍文書は、侵略犯罪の証拠文書であるが、抗日反日闘争の記録文書でもある。
 防衛研究所戦史研究センター資料室で公開されている海南島侵略日本軍の文書のおもなものは次のとおりであるが、これらの文書にも抗日反日闘争の記録が内包されている。
 たとえば、日本海軍海南警備府横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の「横鎮四特戦闘詳報第五号」が感恩県龍衛新村(現、東方市新龍鎮新村)地域の抗日反日闘争の記録でもあることについて、このブログに2011年3月29日~4月21日に21回連載した「2011年3月2日」をみてください。
                                          佐藤正人

 海南島警備府司令部『海南島敵匪情况』1941年7月。
 海南警備府司令長官「現状申告書」1941年11月5日。
 『Y五作戦戦闘詳報』1941年11月25日~1942年1月25日。
    「海南部隊命令」、「1941年海南島緊急米穀対策要綱(原文は「元号」使用)」、「Y五
    作戦ニ関スル参謀長口述覚書」、「Y五作戦戦訓所見摘録」を含む。
 『海南警備府戦時日誌』1941年12月。
 『海南警備府戦時日誌』1942年1月。
 『海南警備府戦時日誌』1942年2月。
 『海南警備府戦時日誌』1942年3月。
 『海南警備府戦時日誌』1942年4月。
 『海南警備府戦時日誌』1942年5月。
    「印度人特別教育訓練実施要領」を含む。
 『海南警備府戦時日誌』1942年6月。
 『Y六作戦関係記録』1942年6月。
    「Y六作戦経過図」(地図)と「佐世保鎮守府第八特別陸戦隊」、「舞鶴鎮守府第一特別陸
    戦隊」、「横須賀鎮守府第四特別陸戦隊」、「航空部隊」、「封鎖部隊」の「Y六作戦」の報
    告。
 『海南警備府戦闘詳報』『Y六作戦海軍部隊戦闘詳報』1942年6月8日~6月25日。
 『海南警備府戦時日誌』1942年7月。
 『海南警備府戦時日誌』1942年8月。
 『海南警備府戦時日誌』1942年9月。
 『海南警備府戦時日誌』1942年10月。
 『海南警備府戦時日誌』1942年11月。
 『海南警備府戦闘詳報・Y七作戦第一期』1942年11月1日~1943年1月31日。
 海南海軍特務部編『海南島三省連絡会議決議事項抄録』1942年11月。
 『海南警備府戦時日誌』1942年12月。
 『海南警備府戦時日誌』1943年1月。
 『海南警備府部隊作戦及警備概要申告覚書(海南警備府機密第44号)』1943年1月3日。
 『海南警備府戦時日誌』1943年2月。
 『海南警備府戦闘詳報・Y七作戦第一期』1943年2月1日~4月19日。
 『海南警備府戦時日誌』1943年3月。
    毎月作成された『海南警備府戦時日誌』には、各号に、「海南島敵勢力分布状況一覧
   表」が添付されている。この表では、「敵種」が、「保安団」・「遊撃隊」・「共産系」に分類さ
   れている。たとえば、1943年3月15日現在の「海南島敵勢力分布状況一覧表」では、「保安
   団」4930人、「遊撃隊」4053人、「共産系」3865人、計1,2848人とされている(『海南警備府
   戦時日誌』1943年3月分、1870頁)。
 『海南警備府戦時日誌』1943年4月。
 『海南警備府戦闘詳報・Y七作戦第二期』1943年4月20日~6月4日。
 『海南警備府戦時日誌』1943年5月。
    「海南警備府情報部規定」、「海南警備府情報部規定施行細則」を含む
 『海南警備府戦時日誌』1943年6月。
 『海南警備府戦闘詳報・Y七作戦第三期』1943年6月5日~6月24日。
            1943年7月、欠
 『海南警備府戦時日誌』1943年8月。
     「海南島人労務者管理規定」を含む。
 『海南警備府戦時日誌』1943年9月。
 『海南警備府戦時日誌』1943年10月。
 『海南警備府戦時日誌』1943年11月。
            1943年12月、1944年1月、2月、欠
 『大東亜戦争 戦闘詳報 横須賀第四特別陸戦隊 Y八作戦戦闘詳報(其ノ一)』1943年12月1日~1944年5月31日。
 『海南警備府戦時日誌』1944年3月。
    「海南警備府航空管制規定」、「瓊崖銀行令」を含む。
 『海南警備府戦時日誌』1944年4月。
 『海南警備府戦時日誌』1944年5月。
 『海南警備府戦時日誌』1944年6月。
 『海南警備府戦時日誌』1944年7月。
    「各管区ニ於ケル共産匪ハ其ノ勢力ノ扶殖伸展ニ執拗ナル策動ヲ続ケアリ」(6頁)。
 『大東亜戦争 戦闘詳報 横須賀第四特別陸戦隊 Y八作戦戦闘詳報(其ノ二)』1944年6月1日~12月7日。
 大本営陸軍部『軍事秘密 海南島概説』1944年12月8日。
 「横鎮四特戦闘詳報第五号」1945年4月 5日。
 「横鎮四特戦闘詳報第六号」1945年5月10日。
 「横鎮四特戦闘詳報第七号」1945年5月25日。
 「横鎮四特戦闘詳報第八号」1945年6月5日。
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海南島における抗日闘争についての記述

2013年12月30日 | 海南島史研究
 海南島における抗日闘争について、これまでわたしたちが見ることができた記述はつぎのとおりです(発行年月順)。
                                           佐藤正人

 梁秉謳「日冦攻陥海南前后」、『広東党史資料』第2輯、1961年9月。
 張家倬「抗戦勝利后海南島劫収記」、『広州文史資料』第19輯、1965年4月。
 海南抗戦卅週年紀念会編印『海南抗戦紀要』上、下、文海出版社、1971年2月。
 瓊島星火編輯部『瓊島星火』1~4、6、8~23、1980年~1997年。
   12:『白沙起義専輯』。20:『紅色交通線専輯』。21:『瓊崖革命根拠地』。
   23:『紀念瓊崖縦隊成立七十周年専輯』
 龔日泉「日本鉄蹄下的南鵬島」、『広州文史資料』第21輯、1980年12月。
 馮安全「海南革命闘争親歴記」、『広州文史資料』第30輯、1981年4月。
 「抗日戦争和黎族人民的白沙起義」、《黎族簡史》編写組『黎族簡史』広東人民出版社、1982年5月。
 中共昌江県委党史辧公室編『中共昌江党史大事記』1985年5月。
 中共文昌県委党史資料征集研究領導辧公室編『紀念抗日戦争勝利四十周年専刊』1985年。
 中共文昌県委党史資料征集研究領導辧公室編『文昌党史資料』第四集。
 中共文昌県委党史資料征集研究領導辧公室編『文昌党史資料』第五集、1985年11月。
 中共文昌県委党史資料征集研究領導小組辧公室編『文昌党史資料』第六集、1986年3月。
 陳永階編『瓊崖革命先駆者文集(海南島党史資料)』瓊島星光編集部出版、1985年9月。
 張世英「瓊従挺進支隊」、『広東党史資料』第7輯、1986年2月。
 瓊崖武装闘争史辧公室編『瓊崖縦隊史』広東人民出版社、1986年9月。
 中共広東省委党史資料征集委員会・中共広東省海南行政区委員会党史辧公室編『瓊崖抗日闘争史料専編』広東省内部刊行物、1986年10月。
 星火燎原編輯部編『星火燎原叢書』3(海南島革命闘争専輯)、解放軍出版社、1987年5月。
 中共昌江県委党史辧公室編『昌江革命史料』第三集、1987年5月。
 郭克承整理「抗戦前后七差峒黎族奥雅唐亜梅」、政協広東省昌江県委員会文史資料組編『昌江文史』2、1987年9月。
 中共昌江県委党史辧公室編『昌江革命史料』第四集、1987年11月。
 中共文昌県委党史辧公室編『文昌人民革命史』海南人民出版社、1988年9月。
 海南財政経済史編写組編著『瓊崖革命根拠地財政経済史』中国財政経済出版社、1988年11月。
 中共昌江黎族自治県委党史辧公室編『昌江英烈傳』1989年5月。
  中共海南省委党史研究室・海南省民政庁編『瓊崖英烈伝』第一輯~第四輯、三環出版社、1989年8月、90年3月、91年6月、92年8月。
 中共海南区党委党史辧公室編『南天一柱 懐念馮白駒将軍』海南人民出版社、1989年9月。
 中共文昌県委党史辧公室編『文昌党史資料』第七集(総第八集)、1989年11月。
 「海南島各族人民的抗日闘争和抗日根拠地」、『中国少数民族革命運動史』四川民族出版社、1990年。
 黄大光口述「回憶襲撃日寇的几次戦闘」、中国人民政治協商会議海南省通什市委員会文史資料委員会編『通什文史』 1、1990年4月。
 中共瓊海県委党史辧公室編『瓊海革命闘争史』三環出版社、1990年5月。
 南陽革命史話編写組編『南陽革命史話』瓊島星光編輯部出版、1991年。
 中共文昌県委党史研究室編『文昌党史資料』(民主革命時期史料選集編専輯)、1991年4月。
 宝汝成・王礼「日本侵占海南岛和海南岛 人民的抗日斗争」、『抗日战争与中国历史——“九·一八”事变60周年国际学术讨论会文集』 中国社会科学院近代史研究所、1991年9月
 中共万寧県委党史研究室編『六連嶺上現彩雲』海南省非営利性出版物、1992年12月。
 中共文昌県委党史研究室編『文昌党史資料 文昌英魂』1993年4月編。
 中共昌江県委党史研究室著『昌江革命史』海南出版社、1994年7月。
 中共海南省委党史研究室・海南省中共党史学会編『瓊崖革命研究論文選』中共党史出版社、1994年10月。
 文若谷「昌感抗日民族統一戦線的形成与発展」、『東方文史』第9輯、1995年3月。
 呉以懐「在敵占区工作日子里」、『東方文史』第9輯。
 戴澤運「日軍在昌咸若干暴行記述」、『東方文史』第9輯。
 雷鐸・曹柯・謝岳雄『南粤之剣 ――粤海抗戦実録』(中国抗日戦争紀実叢書)解放軍文芸出版社、1995年7月。
 中共海南省委党史研究室編『瓊崖抗日英雄譜』海南出版社、1995年8月。
 黄玉梅「瓊崖女性熱血豊碑――浅析抗日戦争時期瓊崖婦女運動的歴史地位」、『海南史志』1995年第3期、1995年8月。
 政協保亭文史資料委員会編『保亭文史』9(紀念抗日戦争勝利50周年)、1995年8月。
 王善功・班石「石山抗日闘争与日軍暴行」、『海南史志』1995年第3期。
 海南省瓊山市政協文史資料委員会編『侵略与反抗』(『瓊山文史』8 紀念抗日戦争勝利50周年専輯)、1995年10月。
 政協海南省陵水黎族自治県文史学習委員会編『陵水文史』8(陵水抗日史料専輯)、1995年11月。
 中共海南省委宣伝部・海南省社会科学界聯合会・中共海南省委党史研究室編『不朽的豊碑――紀念抗日戦争勝利50周年論文選』中共党史出版社、1996年12月。
 符開梅「昌感敵后抗日根拠地的形成和発展」、『昌江文史』6、1997年1月。
 邢益森「抗日戦争時期日寇的経済侵略和瓊崖人民的反経済掠奪闘争」、『海南史志』1997年第2期、1997年3月。
 中国抗日戦争史学会・中国人民抗日戦争記念館編『少数民族与抗日戦争』北京出版社、1997年6月。
 中国史学会・中国社会科学院近代史研究所編『抗日戦争』四川大学出版社、1997年6月。
 呉淑貞「抗日戦争時期瓊崖婦女文化工作記略」、『海南史志』1997年第4期、1997年11月。
 方克『生命之旅』中華工商聯合出版社、1999年2月。
 程昭星・邢詒孔著、中共海南省委党史研究室編『黎族人民闘争史』民族出版社、1999年3月。
 中共瓊山市委党史研究室編『瓊山革命豊碑』東西文化事業公司(香港)、1999年7月。
 中共海南省委党史研究室編『海南英烈譜』海南出版社、2000年12月。
 李学山執筆整理『鉄血丹心献瓊崖 張開泰在他的那個年代里』天馬図書有限公司、2002年4月。
 林日挙『海南史』吉林人民出版社、2002年7月。
 海南省軍事志領導小組辧公室編『海南戦事100例(1829~1988)』南方出版社、2004年6月。
 中共万寧市委党史研究室編『二十三年紅旗不倒――六連嶺革命闘争紀実』2005年7月。主編鍾燕波。海南省印刷工業公司印刷。
 中共海口市委党史研究室・海口市瓊山老区建設促進会『血与火――日本侵略軍的暴行与海口人民抗日紀実』北京燕山出版社、2005年9月。
 海口市委宣伝部・海口警備区政治部・海口市委党史研究室『勿忘歴史 警鐘長鳴――紀念抗日戦争勝利60周年展覧』2005年9月。
 中共万寧市委党史研究室編『万寧革命闘争史研究』2006年3月。
 海南革命史研究会編『瓊崖風雲』海南出版社、2006年12月。
 馬必前編著『浴血天涯 馬白山』上下、南海出版公司、2007年3月。
 陳達婭・陳勇編著『再会吧南洋 海南南洋華僑機工回国抗戦回憶』中国華僑出版社、2007年4月。
 中共海南省委党史研究室・海南省地方志辧公室編『海南史志文集』2007年9月。
 海口市地方史志辧公室編『漢珠崖郡研究文集』香港銀河出版社、2007年12月。
 張一平・程暁華『海南抗日戦争史稿』(海南歴史文化体系 歴史巻)、南方出版社・海南出版社、2008年4月。
 程昭星・王新芒『瓊籍華僑與海南革命』(海南历史文化大系 華僑卷)、海南出版社・南方出版社、2008年4月。
 中共文昌市委党史研究室・中共文昌市東閣鎮宝芳辦事処委委員会編(執筆、符積錫)『宝芳革命史話』2008年4月。
 李芳『琼崖革命史』(海南历史文化大系. 历史卷)、南方出版社・海南出版社、2008年4月。
 中元秀『黎族人民領袖王国興』民族出版社、2009年12月。 
 海南革命史研究会編『瓊崖風雷』海南出版社、2010年4月。
 蔡徳佳『六連嶺風雲』天馬出版有限公司、2010年10月。
 符悦龍主編『瓊崖紅色記憶』上下、南海出版公司、2011年6月。
 《中国抗日戦争史》編写組『中国抗日戦争史』人民出版社、2011年9月。
 中共昌江黎族自治県党史研究室編刊『昌江県革命遺址縦覧』2012年6月(前言・後記)。
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国民国家日本の侵略犯罪 民衆虐殺 16

2013年12月29日 | 個人史・地域史・世界史
■日本政府・日本軍・日本企業が海南島で殺害した民衆の数と死者の名
 国民国家日本がアジア太平洋全域で殺害した民衆の数は、明らかにされていない。
 日本政府・日本軍・日本企業が海南島で殺害した民衆の数は、明らかにされておらす、犠牲者の名が明らかにされていない人も多い。
 陳宏「前事不忘 以史為鑑」(海南省政協文史資料委員会編『海南文史資料』 11〈『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』上。1995年8月〉)には、
   「日本ファシストは20万人あまりに及ぶ海南抗日軍民を殺害した」、
   「過酷な徴用労役やファシズム戦争がもたらしたさまざまな災いによって、海南島全土で40万人
  以上に及ぶ民衆が非正常に死亡した。これは当時の海南社会の人口の5分の1にあたる」、
と書かれており、符和積「前事不忘 以史為鑑」(政協陵水黎族自治県委員会文史学習委員会編『陵水文史』 7〈『日軍侵陵暴行実録』、1995年2月〉)には、
   「海南島を侵略した日本軍は17・3万人あまりに及ぶ海南抗日軍民と無辜の平民を殺害した」、
   「日本軍の残酷な焼殺拉致と過酷な徴用労役によって、23・4万人以上に及ぶ民衆が非正常に
  死亡した(この中には国内の各地から強制連行されてきた数万人の死亡者は含まれていない)。
  これは当時の海南社会の人口の10分の1にあたる」、
と書かれている。
  卓冠亜「路多凍死骨――万寧一九四四年大飢饉惨况」(万寧県政協文史辧公室編『万寧文史』第五輯(『鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』1995年7月〉)には、
   「日本軍の残酷な統治下で、万寧県で1944年に空前絶後の大飢饉が発生した。この年の冬
  から翌年の春までの半年たらずの間に、全県で41820人が餓死した。これは全県の人口の4分
  の1以上である」、
と書かれている。
 中共海南省委党史研究室編『海南英烈譜』〈海南出版社、2000年12月〉に抗日戦争時期に倒れた英烈7981人の名前と略歴が個別に記されている。
 だが、同じ時期に、英烈のほかに日本軍によって殺害された海南島民衆の名は、海南島の公的機関によっては、ほとんど明らかにされていない。
 わたしたちが、1998年からこれまでの15年間の海南島「現地調査」の過程で、名前を知ることができた日本軍に殺害された村民は、1500人ほどである。
 それは、秀田村・白石嶺村・昌文村・波鰲村・上嶺園村・上辺嶺村・大溝村・月塘村・旦場村・常樹村・聖眼村・光田村・浪炳村などの村民である。
 ことし11月2日に、聖眼村の温国興さんを通じて知ることのできた犠牲者の名は、聖眼村197人、文旭村20人、昌表村35人、美梅村43人、那南村32人の325人であった(このブログの12月2日の「国民国家日本の侵略犯罪 民衆虐殺 5」をみてください)。
 海南島で日本政府・日本軍・日本企業に殺された人のうち、名前がわかっているのは、1万人たらずである。
                                        佐藤正人
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国民国家日本の侵略犯罪 民衆虐殺 15

2013年12月28日 | 個人史・地域史・世界史
■なぜ、日本兵は、アジア太平洋の各地で、民衆を虐殺できたのか
 1871年5月22日に、日本政府は戸籍法を布告し、10月12日に「等ノ称」を廃止するという「布告」(「賎称廃止令」)をだし、1972年2月1日から戸籍簿(「壬申戸籍」)の編成を開始した。戸籍簿作成を前提にして、1873年1月10日に、日本政府は、徴兵令」を布告した。
 徴兵された日本人は、アジア太平洋の各地で住民虐殺・略奪などの犯罪をくりかえした。
 徴兵され、アジア太平洋の各地に送られた日本人のほとんどは、上官から命令されて、犯罪をくりかえした。
 自己の命を賭して、命令に背いた日本兵もいたと思うが、ほとんどの日本人は、主体的に(自分の意思で)犯罪をくりかえした。
 侵略地での日本兵の犯罪は「功績」とされ、その内容は、「功績表」などに具体的に示されている。
 徴兵され日本兵とされた日本民衆は、「清日戦争」のときに1万数千人、「ロ日戦争」のときに12万人あまりが、「戦死」した。
 かれらは、「ヤスクニ」で「神」にされている。日本各地に、「戦死」した日本人の「忠魂碑」が残っている。
 「忠君愛国」は、国民国家日本の政治的・軍事的・社会的支配者が日本民衆におしつけることに成功した日本ナショナリズムイデオロギーだった。
 この侵略イデオロギーに抵抗できなかった日本民衆は、アジア太平洋の各地で現地の民衆を殺害した。
 日本の民衆(「平民」)のおおくは、「天皇」を「神」とし、侵略戦争に動員され加担しました。そのなかには、モーターボートや小型飛行機などに乗って自爆した青年もいた。
 第二次アジア太平洋戦争の時期に「鬼畜米英撃滅」をスローガンにして日本民衆を侵略戦争に動員したヒロヒトらは、日本敗戦後も生き残り、あっというまに、親米派になった。
 「ヤスクニ」で「神」にされている日本民衆のなかには、「忠君愛国」、「鬼畜米英撃滅」、「大東亜建設」……のために死んだ者が多く含まれている。
 日本の政治家の「ヤスクニ参拝」は、侵略戦争侵略戦争を国家のための戦争であったことにすること行為だが、かれらが執拗に「ヤスクニ参拝」を実行するのは、その行為を支持する日本民衆が多いからだ。かれらの「ヤスクニ参拝」は、支持層を拡大する政治活動だ。
 イタリアでイタリア民衆がムッソリーニを殺し、ドイツでヒトラーが自殺したにもかかわらず、ヒロヒトが生き残っただけでなく「天皇」であり続けたのは、日本民衆の多くが侵略思想を克服できなかったからだと思う。
 国民国家日本の国民(1947年5月3日までは「臣民」)が、アイヌモシリ侵略以後、主体的に異民族民衆を虐殺できた理由も同じだ。おおくの日本国民の侵略思想の中心に「天皇」がいる。「天皇」は、日本人の侵略思想の「象徴」だ。
 「天皇」を含む数百人の国家権力者・資本家だけで、他地域他国侵略をおこない続けることはでなかった。数千万人の日本民衆が、他地域他国侵略を「正義」と考え、自分の生命をかけて侵略犯罪を実行することなしには、国民国家日本は他地域他国侵略を続けることはできなかった。
 「戦争犯罪」という言葉があり、「戦争犯罪者」という言葉がある。
 この言葉は、侵略犯罪の巨大さを隠蔽し、侵略犯罪者の犯罪性を極小化する言葉ではないか。
 「戦争犯罪」・「戦争犯罪者」は、言葉だけの問題ではなく、実際に「戦争犯罪裁判」がおこなわれた。そのひとつが「極東国際軍事裁判」(「東京裁判」)であった。しかし、この裁判における戦争犯罪人はわずか28人であり、最悪の侵略犯罪者天皇ヒロヒトは、ふくめられなかった。
 国民国家の国家犯罪は、他地域他国侵略戦争だけでなく他地域他国植民地支配、他地域他国の資源略奪……の総体だ。
 帝国主義諸国の他地域他国侵略の国家的・社会的・政治的・経済的・思想的全構造を分析しなければならない。その過程で、日本の国家犯罪を実行した日本の国家権力者・資本家と日本民衆の犯罪の歴史的・社会的構造を明らかにしていきたい。
 そのことは、なぜ日本兵がアジア太平洋の各地で民衆を虐殺できたのかを解明することでもある。
                                     佐藤正人
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第13回定例研究会の主題

2013年12月27日 | 海南島近現代史研究会
 13回目の海南島近現代史研究会定例研究会を、来年2月9日午後1時から大阪で開催します。
 主題は、「海南島における日本の侵略犯罪」です。
 主題報告につづいて、「帝国主義諸国の国家犯罪、とくに日本の国家犯罪をどのように認識するか」を話し合いたいと思います。
 みなさんの参加をお待ちしています。
 くわしい内容は、来年1月7日に、このブログでお伝えします。
 12回目の海南島近現代史研究会定例研究会(2013年8月25日)の主題は「海南島と沖縄」、11回目の海南島近現代史研究会定例研究会(2013年2月10日)の主題は「海南島と独島」、10回目の海南島近現代史研究会定例研究会の主題(2012年8月18日)は「日本はなぜ海南島を侵略したのか」でした。
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日本海軍の海南島侵略犯罪の証拠文書

2013年12月26日 | 海南島史研究
 防衛研究所戦史研究センター史料閲覧室(旧、日本防衛研究所図書館)で、海南島に侵入した日本軍にかかわる文書の一部が公開されており、そのなかに、海南警備府が作成した『海南警備府戦時日誌』と『海南警備府戦闘詳報』(計32冊)があります。この32冊が、公開されている日本軍の海南島侵略にかんする基本文書です。
 しかし、『戦時日誌』は1941年12月~1943年11月、1944年3月~7月の分のみであり、「戦闘詳報」は『Y五作戦戦闘詳報』(1941年11月25日~1943年4月19日)、『Y六作戦海軍部隊戦闘詳報』(1942年6月8日~6月25日)、『Y七作戦第一期』(1942年11月1日~1943年1月31日 )、『Y七作戦第二期』(1943年4月20日~6月4日)、『Y七作戦第三期』(1943年6月5日~6月24日)のみで、それ以外は公開されていません。
 『海南警備府戦時日誌』と『海南警備府戦闘詳報』には、「大東亜戦争 功績調査資料綴 海軍功績調査部」と朱書きされた表紙がつけられています。かれらにとっては、「討伐」という名の民衆殺戮は、記録されるべき「功績」でした。
 日本海軍は、「武功調査」なるものをおこなっていました。
 海南島に侵略し「討伐」をくりかえしていた日本海軍は、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊、呉賀鎮守府第一特別陸戦隊、佐世保鎮守府第八特別陸戦隊、舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊などでした。
 その各陸戦隊は、日本海軍本部に「功績概見表」なるものを提出していました。
 それは、池田福男(「舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊司令海軍中佐」)による1940年4月29日~11月15日の「舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊支那事変第八回功績概見表」、高島三治(「佐世保鎮守府第八特別陸戦隊司令海軍中佐」)による「佐世保鎮守府第八特別陸戦隊第八回功績概見表」、神岡重雄(「横須賀鎮守府第四特別陸戦隊司令海軍中佐」)による「横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第八回功績概見表」、板垣昂(「横須賀鎮守府第四特別陸戦隊司令海軍中佐」)による1940年11月15日~1941年5月31日の「横須賀鎮守府第四特別陸戦隊支那事変第九回功績概見表」、高島三治(「佐世保鎮守府第八特別陸戦隊司令海軍中佐」)による「佐世保鎮守府第八特別陸戦隊第九回功績概見表」、池田福男による「舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊支那事変第九回功績概見表」、板垣昂による1941年6月1日~1941年11月30日の「支那事変第十回功績概見表」、藤村正亮(「呉鎮守府第一特別陸戦隊司令海軍中佐」)による「呉賀鎮守府第一特別陸戦隊支那事変第十回功績概見表」、坂田義人(「舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊司令海軍中佐」)による「舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊支那事変第十回功績概見表」(1941年度「舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊美談集」を含む)、斎藤泰蔵(佐世保鎮守府第八特別陸戦隊司令海軍中佐)による「佐世保鎮守府第八特別陸戦隊第十回功績概見表」などです。
 「舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊支那事変第九回功績概見表」には、「功績抜群者調書」、「舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊美談集」(1941年度)が含まれています。
                                               佐藤正人
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国民国家日本のアイヌモシリ植民地化と朝鮮植民地化 8

2013年12月25日 | 個人史・地域史・世界史
■四 アイヌモシリ植民地化以後の日本近現代史の総括を
 日本は、侵略戦争のさなかに、中国人や朝鮮人を強制連行し強制労働させた。その事実を明らかにし、その歴史的意味を考えようとする各地の民衆の最初の交流集会が一九九〇年に名古屋で開かれ、以後毎年場所を変え、その地域の有志が実行委員会を形成して開催されている。
 一九九七年の八回目の集会は、島根県と鳥取県の有志が実行委員会を組織して七月に松江でひらかれたが、この集会で、はじめて、「近代日本100年と他民族侵略」(註22)と題する分科会が設定された。この分科会の報告者のひとり深田哲士は、アイヌモシリ侵略にかんしてこうのべている。
   「この地に私達日本人が大挙して押しかけ、その土地と資源と文化と言葉を奪って現在に
   到っています。
    これは朝鮮・中国その他アジア各地で日本が行った侵略と全く同質の侵略であり、百年
   後の今日でもその状態が継続しているという意味で、より重大な問題です」(註23)。

 アイヌモシリ植民地化を日本近現代史の起点として日本の侵略史を総体として把握しようとする日本の民衆が、交流をつよめ、民衆の歴史研究を深化させていくならば、アイヌモシリ植民地化新法の社会的根拠を崩していくことができるのではないか。
 アイヌモシリ植民地化一二八年後に、日本民衆はアイヌモシリにたいする新たな植民地化新法の制定を許した。日本人の歴史意識の変革なしには、日本のアイヌモシリ植民地支配をおわらせることはできない。
 アイヌモシリが日本の植民地とされてから一〇年後、一八七九年に琉球王国が日本の植民地とされ、沖縄県と名づけられた。その一六年後の一八九五に台湾が、そしてその一〇年後の一九〇五年に独島(註24)とサハリン南部が、さらにその五年後の一九一〇年に朝鮮が日本の植民地とされた。
 だが、これまで朝鮮の近現代史を研究する日本人は、日本のアイヌモシリ植民地化の歴史、琉球王国植民地化の歴史をとらえようとする姿勢が弱かったのではないか。
 一九四五年に、ミクロネシア、台湾、朝鮮、中国東北部……は、日本の植民地支配から解放された。だが、アイヌモシリは解放されず、かつての琉球王国はUSAの植民地とされ、一九七二年にふたたび日本に「復帰」した。
 現在すすめられている「北方領土返還」策動は、ロシア支配下のアイヌモシリを「返還」させて国民国家日本の領土とするという国民的民族差別運動である。
 いま、国民国家日本のアイヌモシリ植民地化と朝鮮植民地化の歴史的過程を総体として把握する方法を構築することは、朝鮮近現代史研究者にとっても重要な課題となっているのではないか。
                                       一九九七年七月

 註22 「近代日本一〇〇年」という時間的枠組みでは、いまから約一〇〇年前の台湾植民地
   化以後のことを主要に分析することになってしまうので、この分科会の名はその内容に
   ふさわしく改められなければならないが、朝鮮人・中国人の強制連行・強制労働を考えよ
   うとする民衆の集会で、このような分科会が設定された意味はおおきい。  
 註23 交流集会山陰実行委員会編刊『第八回朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える
   全国交流集会 in 松江』一九九七年、二八頁。 
 註24 佐藤正人「国民国家日本의  独島占領」(国民国家日本の独島占領)」、国際教科書
   研究所編『世界化時代와  歴史学과  歴史教科書(第七次国際歴史教科書学術会議総
   合報告書)』一九九六年、参照。
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国民国家日本のアイヌモシリ植民地化と朝鮮植民地化 7

2013年12月24日 | 個人史・地域史・世界史
■三 アイヌモシリ植民地化の数年後から
 一八七四年はじめ、日本政府地誌課は、「皇国全図」をつくった。それには、「北海諸州」と「琉球群島」も「皇国」の領域にふくめられていた(註15)。この年五~六月に、日本政府は「台湾蕃地処分」と称して日本軍を台湾に侵入させた。台湾原住民族は武装してたたかった(註16)。
 その翌年、アイヌモシリ植民地化の六年後、一八七五年九月に日本軍が、朝鮮の永宗島に侵入した。その四月前の五月に日本政府とロシア政府は「千島樺太交換条約」を締結し、アイヌモシリのこの地域を分割しあっていた(註17)。この条約に調印したのは榎本武揚であった。榎本は、「幕府軍」の指揮官として、一八六八年に「維新政府」軍に降伏して監禁され、釈放されたあと「維新政府」の官僚(調印時「開拓使」の四等官)になっていた。
 一八七六年二月、日本政府は江華島海域で軍事的威嚇をおこないつつ、朝鮮政府に不平等条約(「日朝修好条約」)を調印させた。日本の全権代表として調印した黒田清隆は、このとき「開拓使」の長官であった。朝鮮侵略条約に日本を代表して調印したのは、アイヌモシリ侵略機関の最高位官僚だった(註18)。
 その三年後、一八七九年に日本政府は「琉球処分」と称してウチナーを植民地とした。竹橋烽起の翌年だった。
 徴兵令施行五年半後、一八七八年八月二三日深夜、東京の竹橋に駐屯していた近衛砲兵大隊の農民兵士二〇〇人あまりが烽起し、天皇が住んでいた赤坂離宮に向かった。だが、数時間後に敗北した。その二か月たらずのちの一〇月一五日、日本政府は、烽起に参加した五三人を銃殺し、さらに翌年四月に二人を処刑した。殺された反乱兵士の年齢は、ほとんどが二〇歳代前半であった(註19)。
 一八九四年七月二三日、日本軍が朝鮮王宮を占領した。この時の日本公使大鳥圭介は、「箱館戦争」のとき榎本武揚グループの一員で、逮捕拘禁ののち、榎本釈放のすこしまえに釈放され、「開拓使」の官僚になっていた。大鳥はこの年七月一〇日、朝鮮政府に、「内政改革方案綱目」をだしている。その二〇日たらず後に軍国機務処がつくられた。
 「日清戦争」に勝利したあと、一八九五年六月、日本侵略軍が台湾に上陸した。このときから、台湾の漢族と先住民族は持久的に武装して抗日闘争を戦いつづけた(註20)。 
 この年、日本公使三浦梧楼(日本陸軍中将)を首謀者とする日本人集団が朝鮮王宮に侵入し、王の妻(「閔妃」)や宮内大臣らを虐殺した。その実行部隊長は、竹橋烽起のさいの裏切者岡本柳之助だった(註21)。兪吉濬(一八八一年に日本の慶応義塾に入学)は、「閔妃」虐殺後、その暗殺者が誰であるかを知りつつ、新親日派政権の内務大臣になった。

註15 『東京日日新聞』一八七四年一月七日。
註16 このときの台湾侵略軍の指揮官西郷従道は、一八八二年一月一一日に「開拓使」の長
  官となった。この年二月八日に、北海道は三つの県(函館県、札幌県、根室県)に分割さ
  れ、「開拓使」は廃止された。
註17 松本茂美は「北海道はもちろん、全千島はアイヌモシリ(アイヌの島)であった」とのべ
  ている(「アイヌと北方領土」、佐藤和彦ら三人編『地図でたどる日本史』東京堂、一九九
  五年、三八頁)。このように明快に事実をのべている日本人歴史研究者はすくない。
   森岡武雄は一冊の本のなかで、あるところでは「千島列島は歴史的にも国際法的にも日
  本の固有の領土である」と言い、べつのところでは「北海道は……アイヌの人たちが、自然
  と調和しながら自由に暮らして来た大地であった」と言っている(森岡武雄「千島全島が固
  有の領土」、桑原真人ら六人編『北海道の歴史 60話』三省堂、一九九六年、二五二頁、
  およびi頁)。「千島全島」においても北方諸民族が「自然と調和しながら自由に暮らして来
  た」という歴史的事実を認識するなら、アイヌモシリの一部であるこの地域を「日本の固
  有の領土」であると主張して国民国家日本のアイヌモシリ侵略の固定化に加担するのを、
  森岡は、やめるだろう。
註18、20 キ ムチョンミ『故郷の世界史――解放のインターナショナリズムへ――』の第一章「東
   アジアにおけるインターナショナリズムの歴史」、現代」企画室、一九九六年、参照)。
註19、21 竹橋事件百周年記念出版編集委員会編『竹橋事件の兵士たち』現代史出版会、一
    九七九年、参照。
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国民国家日本のアイヌモシリ植民地化と朝鮮植民地化 6

2013年12月23日 | 個人史・地域史・世界史
■二 アイヌの「平民」化 3
 一八七六年に、日本のアイヌモシリ植民地機関である開拓使は、アイヌに「創氏改名」強制しはじめた(註11)。
 アイヌの社会生活は、姓を必要とする社会生活とは異質なものであった。
 アイヌにたいする日本式の姓名の強要は徹底的だった。日本に住むすべてのアイヌの戸籍名は、日本式姓名とされた。
 一八七七年に日本政府は「北海道地券発行条令」をだし、アイヌの土地をすべて「官有地」とした。この法令では、アイヌモシリに侵略した和人を「人民」、アイヌを「土人」と書きあらわしていた(註12)。
 一八七八年一一月四日付で「開拓使」は、「旧蝦夷人ノ義ハ戸籍上其他取扱向一般ノ平民同一タル勿論ニ候」としたうえで、アイヌに対する「名称」を、「旧土人」とするという「達」をだした(「開拓使達」一八七八年第二二号)。以後、日本の公文書で、アイヌは「旧土人」ということばで記載され、一九九七年六月末まで、アイヌを「旧土人」とする法令が運用された。一九四五年八月まで、日本政府機関は、法令で、台湾の原住民族を「蕃人」とよび、ミクロネシア地域の原住民族およびサハリン地域のウィルタ、ニブヒ、キーリン、ヤクート、ウルチを「土人」とよんでいた。
 一八八六年六月二九日に、日本政府は、「北海道土地売貸規則」と「北海道地所規則」を廃止し、「北海道土地払下規則」を制定した。
 一八九七年三月二七日、日本政府は、「北海道土地払下規則」を廃止し、「北海道国有未開地処分法」を制定した。 一八九九年に、日本政府は、「北海道旧土人保護法」を公布・施行した(註13)。
 このとき、四年前から台湾を植民地としていた日本の軍隊は、台湾の漢人と先住民族にたいする残虐な軍事行動をおこなっていた。
 アイヌモシリ植民地化以後、日本政府は、鮭猟と鹿などの狩猟をおもな生活手段としていたアイヌに鮭猟も狩猟も禁止し、主要な食料獲得の手段をうばいつづけていた。
 「旧土人保護法」は、アイヌに土地を「無償下付」し、アイヌに農耕のみをおしつけようとするものであったが、実際にアイヌにわたされたのは、狭く、農耕に適さない荒れ地であった。
 日本人「移民」も加担しておこなわれてきたアマゾニア「開拓」は、先住民の生きてきた自然と大地を破壊・汚染することであった。アマゾニアの先住民は、侵入してきた「移民」のもちこむ病原菌によって命を失い、人口が激減している。アイヌモシリの自然も、この大地が日本の植民地とされて以後急速に破壊された。
 この破壊はいまも強行されている。昨年、「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」の報告がだされた翌日、四月二日朝、日本国は、沙流川の二風谷ダムの試験貯水を開始し、アイヌ民族の生活と労働と儀式の場を水没させはじめた。
 現在すすめられている「北方領土返還」策動は、ロシア支配下のアイヌモシリを「返還」させて国民国家日本の領土とするという国民的民族差別運動である。
 日本が台湾や朝鮮を領土としていた時代、日本民衆のほとんどは、それをあたりまえのことと考えていた。
 三・一独立運動の三年後に創立された日本民衆の全国も、朝鮮などにたいする日本の植民地支配を前提としていた(キ ムチョンミ『水平運動史研究ーー民族差別批判ーー』現代企画室、一九九四年、参照)。
 いま、おおくの日本民衆は、アイヌモシリが国民国家日本の領土であることをあたりまえのこととしている。
 だが、一九九四年に、エヤサアイヌの曽孫、サイカンレキの孫、パンロクの子、中本俊二は、こうのべている。
   「やがて何時の日か、世の中が正しく改まり、一九四五年に日本の侵略者が中国全土か
   ら、朝鮮半島から、そして、東南アジアの全域から追い払われたように、現在日本に居座
   っている侵略政権が日本の国内から追い払われた暁には、かつての満州における「開拓
   農民」と同様に北海道の「開拓農民」も侵略者がアイヌから奪い取った、その土地を持主
   であるアイヌに返還せざるをえなくなるのではないでしょうか」(註14)。

 註11 アイヌに日本式の氏名をおしつけた公文書で、いま確認できる最初のものは、一八七
   六年七月一九日付で開拓使根室支庁開拓幹事折田平内の名で、副戸長、総代、副総代
   宛にだされた
     「古民是迄姓氏不用者モ有之候処自今一般姓氏相用候様諭達可致此旨相達候事」
   というものである(根室県庶務課編刊『開拓使根室支庁布達全書』巻上、一八八五年、
   二一六頁、および北海道庁第一部記録課『沿革類聚布令目録』一八九一年、四三三頁)。
    この開拓使根室支庁民事課の文書を、海保嶺夫も海保洋子も「一八七六年七月一九日
   開拓使第四十八号布達」としているが(海保嶺夫『日本北方史の論理』雄山閣、一九七
   四年、二八六頁。前掲『近代北方史』九五頁)、あやまりである。根室県庶務課は、こ
   の文書名を『開拓使根室支庁布達全書』巻上の目録では「旧土人姓氏ヲ用ユヘキ旨諭達
   方」としている。この文書をだした折田平内は、一八七二年七月に「開拓使」根室支庁
   の主任官に、一八七五年一一月に同支庁の長官となっていた(渡辺茂編著『根室市史』
   上、根室市、一九六八年、三三四~三三六頁)。
    一八七五年の「千島樺太交換条約」のあと、一八八四年にシュムシュ島からシコタン島
   に強制移住させられたアイヌにたいして日本式姓名が「設定」されたのは、一九一〇年で
   あった(北海道庁『北海道旧土人保護沿革史』一九三四年、一五五~一五六頁)。
    アイヌにたいする日本式姓名強制についての個別研究はこれまで発表されていない。
    梁泰昊は、これまでの日本人研究者のあやまった記述を信用して、
     「すべての国民に創氏することを強要した明治政府は、一八七六年七月一九日、開
     拓使第四八号布達をもって北海道アイヌに対しての「創氏改名」を実行する」
   と書いている(宮田節子・金英達・梁泰昊『創氏改名』明石書店、一九九二年、一五八
   頁)。
 註12 「北海道地券発行条令」第一五条は、「山林川沢原野等ハ当分総テ官有地トシ其差支
    ナキ場所ハ人民ノ望ニ因リ貸渡シ或ハ売渡スコトアルベシ」というものである。
 註13 前掲『北海道旧土人保護沿革史』参照。
 註14 中本俊二『あるアイヌの生涯』民族問題研究所(千歳市大和一~一~九)、一九九四
   年、二五〇頁。
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国民国家日本のアイヌモシリ植民地化と朝鮮植民地化 5

2013年12月22日 | 個人史・地域史・世界史
二 アイヌの「平民」化 2
 一八七一年五月二二日(旧暦四月四日)に、「維新政府」は、戸籍法を布告した。
 この法令は、「全国人民ノ保護」を口実とし、「人民」のすべてを住居地にむすびつけて把握しようとするものであった。
 その第二則では、「臣民一般」は「華族士族卒族祠官僧侶平民迄ヲ云」とされ、その第三二則では、「等」の戸籍を「平民」の戸籍と別個にすることにされており、「臣民」のなかに「等」はふくめられていなかった。
 戸籍法布告の四か月あまりのち、一〇月一二日(旧暦八月二八日)に、「維新政府」は、「等ノ称」を廃止し、被差別民の「身分職業」を「平民同様」とするという「布告」(「賎称廃止令」)をだした。この法令によって、「等」が「平民」とされ、「臣民」のなかにふくめられた。
 太政官が「賎称廃止令」を布告したのは、一八七一年の旧暦八月二八日であったが、この年旧暦八月付で、「開拓使」は、「戸籍法則拾七ヶ条」をだした。そこでは、
   「ノ事向後其在所寄留ノ戸長ニテ取調万事平民同様ノ例ヲ以テ可取計事」(第拾
   参則)、
   「乞食見当リ候ハヽ其地ニ留置戸長其生国身分浮浪ス次第等具ニ詰問書取ヲ以テ
   速ニ可届出……」(第拾四則)
とされていた(註8)。
 「賎称廃止令」(被差別民の「平民」化)の政治目的のひとつは、「臣民」のなかに「等」をふくめ、統一的に「全国人民」を把握し管理支配するための基礎台帳を作成することであった。「賎称廃止令」は、被差別民を解放するのではなく、被差別民を「臣民」すなわち天皇の民とし、天皇制を確立・強化するための法令であった。
 一八七二年(「壬申」年)に、「維新政府」の地方機関は、いっせいに戸籍編成をはじめた。
 この年、東京の「開拓使仮学校」に、アイヌの青年が「留学」させられ、アイヌにたいする「同化」教育がはじめられた。このとき「開拓使」は、六月二三日付で、
   「元来北海道土人ハ容貌言語全ク殊ニシテ風俗陋醜ヲ免レス……大凡百人程出京為致
   度目的を以て先つ男女弐拾七名差登せ少壮は仮学校にて読書習字等修業為致……」
という文書をだしている(註9)。
 一八七三年ころから「開拓使」は、アイヌに日本戸籍を強制し、「壬申戸籍」にアイヌを日本の「平民」として登録しはじめた(註10)。
 アイヌにとって日本の「平民」とされること(日本人戸籍の強制←「アイヌ人別帳」)は、天皇(制)をおしつけられ、民族の文化・言語をうばわれることであった。日本人への「同化」を強制されることであった。被差別民にとっての「解放令」は、アイヌ民族にとっては「エスノサイド令」であった。
 「維新政府」は、被差別民とアイヌをともに「平民」として日本の戸籍に登録することにしたが、そのさい「等」という賎称は廃止したが、アイヌにたいする呼称は「旧蝦夷人」「古民」「土人」「旧土人」などとしていた。
 
 註8 『一八六九年、七〇年、七一年 布令録』開拓使、一八八二年、一九九頁。原書表題は
   「元号」使用。
 註9 編輯課編『一八七二年、七三年 開拓使公文鈔録』一八八二年、一四五頁。原書表題
   は「元号」使用。
 註10 大蔵省が一八八五年にだした『開拓使事業報告』第一編には、「蝦夷ト雖モ斉ク国民タ
   ルヲ以テ戸籍編制ノ初メ華夷ヲ別タス」と書かれている(六〇〇頁)。
    海保嶺夫は、一八七一年に「[アイヌ民族を]戸籍上平民へ編入する布達」がだされた
   といい(海保嶺夫「北海道の「開拓」と経営」、『日本歴史16 近代 3』岩波書店、一九七
   六年、一九〇頁)、海保洋子は、「一八七一年四月の戸籍法公布の際」に「アイヌ民族を
   「平民」に編入すべき旨が布達されている」と言っている(海保洋子『近代北方史――アイ
   ヌ民族と女性と』三一書房、一九九二年、八六頁)。海保洋子の言うとおりなら、「維新政
   府」は、「等」の「身分職業」を「平民同様」とするとした「賎称廃止令」の公布
   以前に、アイヌを「平民」に「編入」するとしたことになる。だが、実際には、そのような
   「布達」は、『太政官日誌』にも『法令全書』にも「開拓使」にかかわるいかなる布令集に
   も掲載されていない。
    この実在しない「布達」にかんし、林善茂は、
     「1871年4月4日、戸籍法が公布になり、これにともなう戸籍調査の際、アイヌは平
     民籍に編入すべき旨、北海道全域に布達になった。同年8月28日、の称が
     廃止されたがら同様、「化外の民」扱いだったアイヌも、ようやく戸籍をもつように
     なる」
   と、悪質な表現でデタラメを書き(北海道新聞社編刊『北海道大百科事典』一九八一年、
   「アイヌの戸籍編入」の項)、榎森進は、
     「一八七一年、開拓使は戸籍法公布にさいし、アイヌを「平民」に編入すべき旨を布
    達し[た]」
   といい(榎森進『アイヌの歴史ーー北海道の人びと(2)』三省堂、一九八七年、一〇九頁)、
   さらには、
     「一八七一年、開拓使は戸籍法公布にさいし(大蔵省編『開拓使事業報告附録布令類
    聚』上編)、アイヌを「平民」に編入すべき旨を布達し[た]」
   と書いている(榎森進「「旧土人保護法」はアイヌを保護したか」、『日本近代史の虚像
   と実像』1、大月書店、一九九〇年、一四三頁)。だが、ここでわざわざ榎森が依拠した
   資料として示している『開拓使事業報告附録布令類聚』(一八八五年)には、上編にも
   下編にも、そのような「布達」は掲載されていない。
    一九九五年五月に榎森進は、実在しない一八七一年の「布達」を根拠にして、アイヌモ
   シリが日本の領土とされたのは一九七一年だと主張した(上村英明「先住民族と歴史のマ
   インド・コントロール」、『解放教育』一九九五年一〇月号、明治図書、参照)。
    関秀志・桑原真人は、
     「一八七一年に戸籍法が制定されると、開拓使はアイヌ民族を平民に編入すべき旨
     を布達し、その後、数年の間にアイヌの戸籍が整備されて日本国民とされ……」
   と書き(北の生活文庫企画編集会議編『北海道民のなりたち』北海道新聞社、一九九五
   年、三九頁)、大塚和義は、
     「一八七一年には、アイヌの人びとの意志を尊重しないで、勝手に「日本国民」とし
     て戸籍に編入して、同化をしいた」
   と説明し(大塚和義『アイヌ 海浜と水辺の民』新宿書房、一九九五年、一五七頁)、田
   中彰は、
     「一八七一年、開拓使が戸籍法公布に当たって、アイヌを・平民・に編入」
   といい(田中彰・桑原真人『北海道開拓と移民』吉川弘文館、一九九六年、四三頁)、大
   脇徳芳は、
     「一八七一年、アイヌを平民籍に入れ、和人と同様の姓名を強要した」
   と言っている(大脇徳芳「コタンを追われて 「北海道旧土人保護法」とアイヌ民族」、『北海
   道の歴史 60話』三省堂、一九九六年、一七七頁)。
    神奈川人権センター編刊『国際化時代の人権入門』(日高六郎監修、一九九六年)に
   は、
     「[明治新政府は]1871年には戸籍法を制定しアイヌを・平民・に編入」
   と書かれており(一七七頁。この「入門書」では、侵略戦争を煽動した民族差別者松本
   治一郎を、「「解放の父」と言われた松本治一郎」、「「解放の父」として尊敬を集め
   ている」としている。金靜美『水平運動史研究――民族差別批判――』現代企画室、一
   九九二年、参照)、花崎皋平も、
     「一八七一年、戸籍法の公布とともに、アイヌは「平民」に編入され、「旧土人」と記載
     される」
   と書いている(花崎皋平「アイヌモシリの回復――日本の先住民族アイヌと日本国家の対
   アイヌ政策――」、『差別と共生の社会学』〈『現代社会学』15〉岩波書店、一九九六年、
   九七頁)。
    このように、アイヌを「平民」とする「維新政府」の策動という基本問題にかんして、
   長年にわたってあやまった記述がくりかえされてきた。
    このようなあやまった記述の出所ははっきりしないが、一九四二年に、高倉新一郎が、
     「開拓使は……、一八七一年四月戸籍法発布・戸籍調査の際、其地の土人を平民に
    編入すべき旨を全道に布達[した]」(高倉新一郎『アイヌ政策史』日本評論社、四一八
    頁。原文は「元号」使用)
   と書いている。
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