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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「我在海南找老兵」

2016年11月30日 | 海南島史研究
http://hnrb.hinews.cn/html/2016-11/28/content_14_1.htm
http://hnrb.hinews.cn/html/2016-11/28/content_15_1.htm
『海南日报』 2016年11月28日  海南日报记者 计思佳 实习生 钟圆圆
■我在海南找老兵

【相片】老兵邢谷颖(左)对着照片回忆父亲从缅甸送他回国参军的经过。图右为郑新忠。
【相片】被老兵邢定标视为珍宝的两枚抗日勋章。
【相片】郑新忠骑行到海口。 海南日报记者 袁琛 摄

  每拜访一位老兵,为表示尊敬,临走时郑新忠都会给他们敬军礼。面对久违的军礼,很多老兵会努力挺起弯曲的脊梁、举起微颤的双手回敬一个军礼。他们如今的军礼,更像岁月在指尖划过时留下的痕迹。

  在海南岛上有这样一群人,他们最小的92岁,最大的年龄已经达101岁。在1931年至1945年对抗日本侵略者的战争中,他们甘洒热血赴国难、出生入死保家园,用鲜血愈合中华民族的伤口。他们有一个共同的名字——抗日老兵。
  硝烟散尽,解甲归田,如今这些老兵大多生活在农村,随着时间的消逝正慢慢凋零。没人能说清有多少抗日老兵在琼岛上生活,据一群热诚的志愿者、媒体人努力搜寻,2015年他们找到16位幸存抗战老兵,现在只剩下14位了。而还有更多老兵可能已无声地沉寂在历史的角落里。
  为向抗战老兵致敬,来自河北保定的郑新忠一路骑行,跨越海峡,来到海南岛。11月,在志愿者和记者的陪同下,郑新忠拜访了海口、文昌、琼海、儋州、琼中5地幸存的老兵。“老兵们的时间不多了,我想趁他们活着的时候送去更多慰藉,让他们不要抱憾离去。”郑新忠说。

★骑行两年看望200多个老兵
  因郑新忠罹患神经性耳聋,对他的采访是依靠纸笔完成的。让人不禁感慨,一路骑行已非常不易,在陌生的城市,仅剩微弱听力的郑新忠,是如何问路找寻老兵的?

  今年39岁的郑新忠6年前耳朵突然患病。保定曾是华北抗日主战场,生长于此的郑新忠从小是听着小兵张嘎、狼牙山五壮士、平原游击队的故事长大的,抗战这段历史已深深印刻在他心里。两年前,他做出决定,要用骑行的方式为每位活着的老兵送去祝福。
  北京、天津、山东、安徽、江苏……从北到南,骑着自行车,驮着行李,郑新忠一共穿越了全国18个省、市、区,海口是他到达的第145个城市。
  两年、12万里路、200多位老兵,一路上郑新忠是怎么坚持下来的?接触的几天时间里,记者觉得,他过得是如同苦行僧一样的生活。
  郑新忠说,自己是个农民,两年下来,花销已经不小,所以路上是能省则省——自行车前挂着1升的大水杯,看到哪有热水就赶紧接满;行李袋里装着挂面、小米和电热壶,早餐晚餐是吃自己煮的面和粥;车上还有帐篷和睡袋,必要时得在野外露营。
  为何要把自己逼得这么苦?郑新忠说,老兵是“抗战活化石”,是民族的脊梁。“我希望用双脚丈量他们当年走过的路,听他们亲口说当年浴血奋战的经历,当面向他们表达敬意。”

★黄埔是一生最深刻的烙印
  “怒潮澎湃,党旗飞舞,这是革命的黄埔!”四万黄埔生,三千海南籍。记者发现海南现存的抗战老兵中,大多有在黄埔军校学习的经历。70多年过去,这些耄耋老人,仍清楚记得这首当年让他们热血澎湃的校歌。
  从当年英姿飒爽的热血青年到如今垂垂老矣、缠绵病榻的老人,他们的记忆力、听力、视力都在急剧下降,昔日与敌厮杀的情形已记忆模糊,但一提到黄埔,都能从他们的眼睛里看到骄傲的神采。
  11月11日,记者和郑新忠一起来到儋州市峨曼镇盐丁村抗战老兵许乃斌的家中。今年95岁的老人脊背差不多驼到90度,听儿子说有人要来看望他,一直拄着拐杖在门口等着。
  当天下了小雨,天气有些冷。许乃斌穿着一件深圳市龙越慈善基金会赠送的墨绿色棉背心,背心后面写着“抗战老兵 民族脊梁”八个字。翻阅过去的相片、资料,这位95岁的老人依然思路清晰,用铿锵有力的话语为记者打开了70年前他追随父亲考入黄埔,一片丹心向国的记忆之门。
  许乃斌1岁时,父亲许云汉就考入了黄埔军校一期,毕业后参加了东征。1939年,日本占领海南岛后,乡村小学废弃了,许乃斌也失学了。“死守在家里就要当亡国奴!”在父亲的鼓励下,许乃斌来到湛江的琼崖联中读书,后报考进入黄埔军校四分校19期9总队学习。
  1944年,许乃斌来到广西南丹、河池、车河等地,每天背着通讯设备,冒着炮火往返于各个部队之间。每当前线部队进攻完毕,他就要加紧联系各个部队,确保战场上的信息传递流通。许乃斌对记者说,他觉得自己是幸运的。“我是通讯兵,战争结束后身上连伤都没有,而我很多战友献出了生命。”
  许乃斌家的墙上,端正地挂着他父亲的黑白画像。“高宦商女不知羞,日上秦淮歌舞楼。东北沦亡悲欲绝,那堪犹唱后庭调。”他从抽屉里翻出父亲在抗日时期写的诗给记者看,他一直小心保留着。看得出,忧国忧民的父亲对许乃斌的影响很深。
  被褥叠得方方正正,书报被归类得整齐有序,在许乃斌独住的小房间里,仍然带着70年前行军的痕迹。
  最引人注目的是墙上的几张挂历,上面工整地粘贴了40多张历年海南黄埔军校同学会的合影。在许乃斌的家里,最多的书就是黄埔军校同学会寄来的杂志,有的还被他细心地用牛皮纸包了书皮。打开一本黄埔军校毕业50周年纪念特刊,许乃斌指着一张年轻小伙的黑白照片骄傲地说:“这是我年轻时候的样子。”
  记者还看到他家中有三本厚厚的《黄埔军校史料汇编》,这是这位家里靠打鱼、养猪过生活的老人,自己掏400元特地去邮局买的。“校庆90周年,我要留个纪念。”
  家住琼海市长坡镇的植德英老人现已瘫痪。他仰面躺在床上,房间有点昏暗,墙上一张照片中戎装在身、英气逼人的军官才让记者知道,这位老人以前是能说一口流利英语的伞兵。
  即使女儿在他耳边大声喊叫,98岁的植德英似乎都置若罔闻。但当女儿说“黄埔的人来看你了”,老人抓着记者的手连问:“你是黄埔的呀?”

★最珍贵的物件是两块抗日勋章
  老兵邢定标的家非常醒目,门口挂着一副红底对联“抵御外敌民族英雄,为我中华独立自由”,横批“英雄户”。邢定标的侄媳妇说,这是他自己设计贴上去的。“台风把对联吹掉了,老爷子还让我们赶紧贴上。”
  今年101岁高龄的邢定标是志愿者们发现的海南目前年龄最大的抗日老兵,他的一生也颇具传奇色彩。邢定标家住文昌市文教镇培龙三加东村一队。志愿者“十二角”了解到,三加东村先后有10多位参加抗战的老兵,但目前在世的就剩下邢定标一人了。邢定标说,1939年日寇登陆海南岛,对人民无恶不作,血流成河。“没有国,哪有家?”还在上学的邢定标毅然弃笔从戎。
  “我从翁天港乘帆船渡海,日军军舰不断开枪向帆船扫射,幸而脱险逃到广西省宜山县,投考黄埔学校第四分校第十七期第八总队第四队。”说起当年渡海的惊险,邢定标不禁握紧拳头,声音放大,情绪变得激动。
  回忆在黄埔学习的日子,邢定标说,由于当时军情紧逼,原定三年一期的训练,缩为六个月为一期。“军事教学日夜进行,学生都戎装待命,随时准备开赴前线参加战斗。”
  1940年3月,邢定标被派往抗日前线,和部队驻守广东博罗县城。日寇用飞机大炮向守城部队狂轰猛炸,战斗异常激烈,双方伤亡惨重。令邢定标痛心的是,自己的侄儿邢谷雄也参加了这场战争,结婚不满一个月的他,在敌人的炮火中牺牲了。“我当时就想着要为侄儿报仇,所以受伤以后,包扎好继续上战场杀敌。”最终日本人弃城败退,邢定标也因在战斗中立功,升为防毒排上尉排长。
  郑新忠说,想看看邢定标的抗日纪念章。在家人的搀扶下,邢定标走到书桌前,从抽屉里取出一个棕色的月饼盒。“这里面装的是我家最宝贵的东西。”盒子里整齐摆放着一条红色领带,这是几年前邢定标花50元钱买来,专门为每年参加黄埔军校同学会聚会准备的,还有一条妻子的项链,剩下的就是两块由官方和民间颁发的抗日纪念章了。
  总是挂着一脸微笑的邢定标说对现在的生活挺满意,早上还会去文教镇街上同大家一起喝茶聊天,生活过得很是悠闲。老人阅尽沧桑后的豁达令人动容。

★“父亲从缅甸送我回国参军”
  在文昌市定芳办事处流坑村,我们看望了当年被父亲从缅甸送到黄埔军校参军的抗日老兵邢谷颖。
  今年93岁的邢谷颖披着一件黑棉袄,坐在凳子上,深埋着头,两条纤瘦孱弱的腿交叉搭在一起。当得知郑新忠是从河北一路骑行来海南看望老兵时,他抬起头惊讶地说:“这么远啊!不容易,不容易。”
  邢谷颖出生在泰国曼谷,抗战爆发后,饱含爱国之情,邢谷颖的父亲邢定光除了捐物筹款,还毅然远涉重洋,亲自把大儿子邢谷颖从曼谷带到贵州,报考黃埔军校17期26总队。
  记者在邢谷颖的家中发现一张黑白过塑照片,上面写着“黃埔军校17期26总队第8队旅泰侨生毕业纪念”。照片上19个身着戎装、英姿飒爽的年轻军人,站在右下角的就是邢谷颖。将照片递到邢谷颖眼前,老人拿起放大镜,用苍老枯瘦的手,一一抚摸过相片上同窗们年轻英气的面庞。“当年我们19个人是一起从泰国去黄埔参军的。”老人长叹。
  熟悉的面庞勾起了邢谷颖心中最不平凡的记忆。他回忆说,当时在黃埔军校还沒毕业,因前线官兵死伤太多,整个部队就开赴前线,提前开始了兵戎生涯。“冲锋时,前面的整排部队倒下去,后面部队又整排冲上去,尸体堆积如山,非常慘烈。”他说,自己也是很多次和死神擦肩而过。
  抗战胜利后,因兵荒马乱,又没有通航到泰国的条件,邢谷颖回到了海南老家。
  改革开放后,邢谷颖终于和泰国的亲人联系上,几年前弟弟来文昌老家看望了邢谷颖。“兄弟俩一见面就抱头痛哭。”邢谷颖的儿子邢治义说,自从70年前邢谷颖和爷爷在贵州分別后,直到爷爷奶奶在泰国去世,都未能再见上一面,这也成了邢谷颖心中最大的遗憾。
  “父亲很少和我们提起以前的遭遇,直到他和泰国来的叔叔见面说话时,我们才知道他曾坐过牢。”邢治义说,家里曾有一把赠与黄埔军校毕业生的“中正剑”,这些年没看到了,可能是被父亲扔了。

★志愿者捐钱捐物关爱老兵
  由于历史原因,不少抗战老兵都曾饱尝艰辛。为了不让老兵们抱憾离世,海南一群志愿者和媒体人怀着极大的热忱,自发寻找老兵,为老兵们送去物质上的帮助和精神上的慰藉。
  网友“十二角”在三亚工作,从去年开始关注抗战老兵。“我在网上看到了关于深圳市龙越慈善基金会帮助抗日老兵的报道后,深受感动。我联系了该基金会创始人孙春龙,也想为关爱老兵出一份力。在孙春龙的介绍下,我认识了海南一位关注抗日老兵的媒体人。从去年9月到现在,我和他一起开车看望了每位我们能找到的抗战老兵,每个人都去看望了两次以上了。”
  网友“姜博宁”在一次北京的进修班中,认识了广东梅州市关爱抗战老兵志愿者协会的负责人。受其影响,“姜博宁”也开始关注海南的抗战老兵。在他的努力下,梅州关爱老兵志愿者协会专门拨付了10万元基金用于帮助海南的抗战老兵。“以前都是我们志愿者去看望老兵的时候,给每人送几百元的慰问金。有了这10万元基金后,我们每个月固定给海南9位符合要求的老兵发放600元以上的补助。”
  除了自己出力,网友“十二角”和“姜博宁”还带动了身边不少亲朋好友加入志愿者队伍。如今,海南关注抗战老兵志愿者协会人数从最初的几个人增加到40多人。
  今年8月29日,梅州关爱抗战老兵志愿者协会的3位志愿者来到海南,带着茶叶和月饼等物品,看望了云昌舜、植德英、周学而3位抗日老兵。
  当周学而从房间走出,看着摆放在他桌子上的礼物和纪念品,又听到志愿者介绍她们是从梅州赶来看望他时,瞬间被感动,竟捂着脸大哭起来。周学而说:“当年和他一起参加抗战的海南人有很多,可如今只剩下他一人了,自己真是既孤独又幸运。”
  老兵是“抗战活化石”,除了给与老兵们物质和精神上的关怀,也有人为抢救老兵的记忆而努力。几年前海南日报记者采写的《大山深处的93岁独腿老兵》《侨生慷慨赴国难》《历史从此无声》等文章,通过采访老兵本人及他们的子女,详细记述了这些老兵抗战时期浴血沙场的经历,为历史留下了珍贵的资料。
  其中2013年刊登的《大山深处的93岁独腿老兵》一文,报道了曾参加中国远征军,在缅甸战场上中弹被截取左腿,但一直未被政府承认身份的老兵秦崇议。11月,记者去琼中探望秦崇议时,他的儿子说,去年8月,海南省民政厅专门赶赴广西进行调查,最后核实了秦崇议的身份,并给他发放了残疾军人证。“现在父亲每个季度有9700元的补助。去年收到政府颁发抗战胜利70周年纪念勋章,父亲潸然泪下,说能够得到政府的承认,他死而无憾了!”
  “民间志愿者对抗日老兵的关爱,让他们在时日不多的晚年感受到更多温暖,除了出于人道主义,也是我们民族不可或缺的尊严。”网友“十二角”说。

【相片】老兵许乃斌。
【相片】老兵周学而。
【相片】邢定标为自己的老兵身份感到骄傲。
【相片】老兵秦崇议。

★我们在和时间赛跑
  每拜访一位老兵,为表示尊敬,临走时郑新忠都会给他们敬军礼。面对久违的军礼,很多老兵会努力挺起弯曲的脊梁、举起微颤的双手回敬。他们如今的军礼,就如同岁月在指尖划过时留下的痕迹。
  “老兵们就像寒风中树上的叶子,随时可能跌落,岁月留给他们的时间不多了。”一同探望老兵的路上,郑新忠翻看微信朋友圈时得知,今年2月份他在湖北荆州看望的100岁抗日老兵黄应开,已在10月份过世了。也许在记者敲下这篇文章的时候,就会有某个老兵在角落里悄悄离去。
  采访过程中,大家意外发现92岁的文昌老兵陈立轩在11月初刚刚去世,98岁的琼海老兵杨全杏也在两个月前离世了。
  陈立轩的事迹曾被媒体详细报道,而关于杨全杏的详细资料无法找到。记者陪同郑新忠来到陈立轩和杨全杏的墓地。坟冢都在距离他们家不到800米的地方。新修的墓地上还没有任何碑墓,来往的人也不知道这里埋着谁。坟冢旁的黄色野花和青草随风摇曳,两位老兵随着这堆黄土,从此湮没在岁月深处。
  郑新忠的自行车前,挂着一面自己做的旗帜,上面写着“丈量从北平到北京的距离”几个字。“北平到北京的转变,包含着抗日战争、解放战争等一系列历程。先有抗日战争的胜利才有了后来新中国的成立,所以我们要缅怀这段历史。”他说,女儿已经16岁了,这两年暑假妻女专门坐火车到厦门、武汉和他团聚,一家人一起去看望老兵。“女儿专门做了贺卡送给老兵。我希望让她从小对这段历史有认识,这样等她长大也能慢慢理解我了。”
  记者单独拜访几位老兵时,没有给他们带去任何物品,但老兵们都非常兴奋。告别时,虽然一再推辞,老人们仍坚持要把我们送出村口。走远后,回头看,他们依然拄着拐杖站在那里注视着我们的背影。
  志愿者“十二角”说,他每次去的时候也是这样。“因为老兵们太渴望与人交流,太渴望得到尊重与认可了。我们的时间不多了,大家要尽最大努力,让老兵们在有生之年,有尊严地活在他们曾经守护过的国土上。”
  这是一场和时间的赛跑,这是一个国家心灵的救赎。

        (本版照片除署名外均由计思佳摄)
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2016年11月26日夜の交流会で

2016年11月29日 | 個人史・地域史・世界史
 李基允さんと裵相度さんを追悼する23回目の集会当日の夜、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する9回目の集会の前日の夜、11月26日午後9時から2時間あまり、紀州鉱山に連行された朝鮮人労働者の飯場があった紀和町湯ノ口の宿所で、参加者が交流会を開きました。
 これからのわたしたちの運動のすすめ方、課題を中心に話しあいました。

 Aさん:日本の状況は悪くなっている。敗戦のときに戦争責任、侵略責任をうやむやにした
    のが原因だと思う。わたしたちの運動を広めなければならない。
 Bさん:わたしが高校生のときに天皇が死んだ。校長がヒノマルを掲げ、それを教師がひき
    ずりおろした。
     仕事を通して木本の会のことを知った。碑文をめぐって熊野市などと激しい討論が
    あった。事実を丹念に追及していることがこの会の運動の基礎になっていると思う。
     史実を伝えている碑文の意味は大きい。
     木本の会を通じて朴慶植さんに出会った。いま、朴慶植さんの書いたものを読みかえ
    している。
 Cさん:わたしは15年戦争の最中に小学生だった。天皇を神だと思っていた。
 Dさん:これまでなんども参加しようと思っていた。こんどやっと参加できてうれしい。13年前
    に中学3年のとき反戦デモに参加した。
     こんなに日本の状況がヒドクなるとは思ってなかった。身近な人を変えていくことが重
    要だし、できることだと思う。最近、両親が、“朝鮮人も中国人も日本を侵略したことがな
    く日本人を殺したことがないのに、日本人が朝鮮人や中国人を差別するのはおかしい”
    と言った。
 Eさん:だいじな人のいのち。わたしも変わっていきたい。
 Fさん:相模原の障害者殺害が象徴的にいまの世の中を表している。殺害者が本気でやろう
    としていたことが怖い。共感している人が少なくない。ペサンドさんとイギユンさん
    を殺したことを‘素朴な愛町心の発露’としたこと熊野市はいまもキチント取消して
    いないが、本当にそう思っているからだ。
 Gさん:八王子から1年に一度、6年ほど前からここに来るようになった。来るたびに考えさせ
    られることがおおい。自分を変えていく運動が必要だと思っている。
     八王子に近い高尾の浅川地下壕に最近行ってきた。ここは、はじめは陸軍の軍需品
    備蓄倉庫だったが中島飛行機の地下工場となった。総計10キロの地下壕掘削工事に
    朝鮮人も働かされたが、そのことを明確に説明する展示はなかった。八王子空襲や学
    徒動員にかんする説明はあったが。
     朝鮮人が何人、どのように働かされ、何人が死んだかは、まったく説明されていな
    かった。浅川地下壕の保存をすすめる会は20年ほどまえに運動をはじめているのだ
    が……。日本ナショナリズムにからめとられない運動を自覚的にすすめていかなけれ
    ばならないと思う。 
 Hさん:ナショナリズムに対決する民衆運動としてのわたしたちの会の土台をしっかり築いて
    いきたい。
 Iさん:紀州鉱山で朝鮮人に過酷な労働を強制した石原産業は、マラヤ、フィリピン、海南島
    でも現地の人びとを極悪な条件で働かせて命を奪ったが、日本でも四日市で三菱化成
    などとともに毒物を散布した。
     海南島では石原産業と日本窒素と三菱鉱業が鉱物資源を略奪していた。日本窒素は
    海南島の鉄鉱山で2万人近い労働者の命を奪っていた。その日本窒素は、日本の八千
    代海に毒物を流しつづけ多くの人の命と健康を奪いつづけた。日本政府は長期間日本
    窒素の犯罪に加担していた。国外での日本政府・日本企業の侵略犯罪は、日本国内で
    の犯罪とむすびついている。 
     いまも熊野市での朝鮮人虐殺を肯定する日本人がいる。いまなお日本人は日本の侵
    略犯罪を肯定し、原発を肯定する者を首相にしている。20世紀末から日本ナショナリズ
    ムが強化されてきている。
     このような社会を変えていく民衆運動を進めていきたい。
     「木本事件」・紀州鉱山問題を放置し、行政責任をとろうとしていない熊野市に、
    侵略責任をとろうとしてこなかった日本の歴史的問題が凝縮している。日本の各地に
    日本の侵略犯罪にかかわる諸問題が凝縮している。
 Jさん:追悼碑の建立をつうじて地域においても新しい人間関係が生まれた。
 Kさん:アイヌモシリ侵略以後の日本国家の加害の歴史を明確にしていきたい。
 Lさん:原発は公害の最悪の源泉だ。
 Jさん:いま急速に全世界的規模で右傾化が進んでいる。わたちたちの力はまだまだ小さいが
    悪化している状況に対抗していく運動の土台をつくってきたと思う。
    
  討論を重つつ、参加者はこんごの民衆運動の具体的なすすめかたを模索していました。
 最後に、会の事務局が作成した熊野市にたいする抗議・要請の案文を検討して、交流会をおわりました(このブログの11月26日の「李基允さんと裵相度さんを追悼する23回目の集会」の末部をみてください)。
                               佐藤正人
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「紀州鉱山で死亡の朝鮮人 支援者ら20人 追悼の集会」

2016年11月28日 | 紀州鉱山
 以下は、きのうの紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集会のことを報道する、今日(11月28日)の『毎日新聞』三重版の記事です。

■紀州鉱山で死亡の朝鮮人 支援者ら20人 追悼の集会
【熊野】旧入鹿村周辺(現熊野市紀和町)にあった紀州鉱山で第二次世界大戦が終わるまでに亡くなった朝鮮人35人を追悼する集会が27日、紀和町板屋の追悼碑前であった。雨が降る中、在日朝鮮・韓国人や日本の支援者ら約20人が冥福を祈った。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会(金靜美事務局長)が主催した。紀州鉱山は銅を産出し、1978年に閉山した。会によると、戦争中1300人以上の朝鮮人がいた。うち35人が死亡している。
 この日は神戸市や北海道などから参加者があった。金管楽器で「アリラン」が演奏された後、追悼碑にカーネーションを献花、日本酒で献杯した。  【汐崎信之】

【写真】追悼碑に献花する在日朝鮮人・韓国人ら 熊野市紀和町板屋で
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紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する9回目の集会

2016年11月27日 | 紀州鉱山
 今日(11月27日)は朝から雨が降り続いていました。
 午後1時から、熊野市紀和町の紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の前の広場で、9回の追悼する集会(기슈광산에서 돌아가신 조선인을 추도하는 모임)が開かれました。

 はじめに、八王子からきたUさんによってユーフォニウムによる「ありらん」が演奏されたあと、会員の竹本昇さんが、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の敷地にたいする熊野市の課税に抗議する裁判について報告しました(対熊野市第2訴訟の経過については、このブログの2016年3月7日の「裁判官の侵略責任(戦争責任、植民地支配責任、戦後責任)」、2016年11月4日の「熊野市を被告とする第2訴訟の経過」などをみてください)。
 この報告の最後に、竹本昇は、「わたしたちは、敗訴しましたが、司法の侵略責任を質した有意義な訴訟でした」とのべました。
 つぎに会員の佐藤正人が、「紀州鉱山と海南島」という主題で報告しました。佐藤は、
   「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、
   追悼碑を建立した翌年の1995年から紀州鉱山に強制連行された朝鮮人について調査
   を開始しました。
    1992年に紀州鉱山の真実を明らかにする会が創立されました。
    紀州鉱山の真実を明らかにする会は、13年間、紀州鉱山にかかわる歴史的事実の
   調査をつづけ、2010年3月に紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する追悼碑を建立
   しました。
    それから6年8か月が経ったいま、わたしたちは日本政府・日本企業の他地域他国
   侵略の歴史に対決していく民衆運動をさらに深め広げていかなかなければならない
   と考えています。
    石原産業は、海南島でもマレイシアでも、フィリピンでも多くの民衆のいのちを犠牲
   にして鉱物資源を略奪していました。海南島では日本窒素や三菱鉱業も大規模の企
   業犯罪をおこなっていました。日本窒素も石原産業も日本国内で毒物を放出し多くの
   人の命と健康を奪ってきました。
    石原産業と日本窒素の海南島、朝鮮……における侵略犯罪を日本政府・日本企業
   の侵略犯罪のなかで把握し、アイヌモシリ侵略以後の日本の他地域他国侵略の歴史
   と対決する民衆運動を、これからさらに紀州鉱山の真実を明らかにする会は深め強め
   ていきたいと考えています」、
と話しました。
   
 そのあと、雨の中、追悼碑のまえの紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の名を記した35個の石の一人ひとり(ひとつひとつ)に花をおくり、献杯しました。

 それから、参加者一人ひとりが、思いを語りました。
 Aさん:わたしは京都の丹波で生まれた中国人です。母は朝鮮の釜山に生まれ、日本に
    来て盧溝橋事変の前に都会の排外的な空気を避けて丹波に住むようになりました。
     母は反物の行商をやっており、幼かったですがわたしも母に連れられて一緒に行
    ってました。中国人ということでよくいじめられました。「軍人遺族の家」というのが
    あって、その家の前を通ると“自分の息子が大陸で中国人兵士に殺された”といって犬
    をけしかけて“シナ人来るな”と脅されたこともありました。母子で田んぼのあぜ道
    を逃げて、売り物の反物が田んぼのなかに落ちて母と一緒に田んぼの中に入って拾っ
    たこともありました。母は谷川でそれを洗い木に干しました。母は空に向かって朝鮮
    語で“アイゴー、アイゴー”といって日本人をののしり涙を流していました。
     ここに来て、故郷の丹波のことを思い出しました。マンガン鉱の採掘の為に多くの
    朝鮮人が連れられて来て被差別の人も住まないような山の裾にみすぼらしい
    杉皮葺きの小屋を建てて住んでいました。多くの朝鮮人がじん肺などで死んだと聞
    きました。
     わたしは2005年まで、南京攻略戦に参加した日本兵を探しに三重県になんど
    も来ました。三重の33連隊は南京大虐殺で城内と揚子江岸で虐殺に大きくかか
    わった部隊です。兵士達が昔のままの思想で如何に多くの中国人を虐殺したか、
    女性を次々と強姦したかを誇らしげ語っていたのに、私の体が怒りに震えるのを
    止めることはできませんでした。    
     中国人も朝鮮人も日本人も、加害民族と被害民族ではその立場は異なります
    が、過去の歴史を如何に受けつぐかということは大切だと思います。
     1923年9月の関東大地震のときに東京神奈川で1千人近い中国人が虐殺され
    ました。
     わたしは4年前からその中国人労働者の遺族とともに、日本政府に謝罪と賠償
    を求める運動をすすめています。また、花岡事件の被害者や大阪港に強制連行さ
    れた被害者と共に、日本政府の戦争犯罪を追求する国賠訴訟に係わっています。
    これらは半世紀前或いは1世紀前のことですが、過去の過ちは正しく清算されない
    限り、人類の進歩はありません。
     いまの日本は歴史をゆがめ、他民族を排外する傾向が強くなっていると感じて
    います。あの時代と同じ空気ですね。覆われてきた歴史のベールをはいで、いま
    こそ、歴史の真実を我々自身にとりもどさなければならないと思います。
     紀州鉱山の真実を明らかにする会の集会には、はじめて参加しましたが、ずっと
    まえから参加したいと思ってました。中朝日の連帯の上に、共に未来をきりひらい
    ていく運動をすすめていきましょう。
 Bさん:八王子から来ました。一人の日本人として歴史を背負って生きていこうと思ってます。
 Cさん:いま、韓中日の民衆の連帯の深まりを感じています。
 Dさん:日本の学校での在日朝鮮人の教育にかかわわっています。自分の名前を名のれる
    社会をつくっていきたいと思っています。
 Eさん:紀州鉱山の真実を明らかにする会の日本人は加害の歴史的責任をとろうとして運動
    しているように感じています。在日2世としていっしょに運動をすすめていきたいと思
    います。
 Fさん:千葉から子ども3人と母といっしょに来ました。子どもたちが自分でどのように歴史
    を知っていくかは、まだ幼いのでわかりません。しかし、ここに来ると歴史を知ること
    の大切さはわかっていくと思います。
 Gさん:去年も今年も雨が降りました。犠牲者のくやし涙だと思います。そのくやしさをうけ
    とめて、今日から来年までの1年間を生きていこうと思います。

                                佐藤正人
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李基允さんと裵相度さんを追悼する23回目の集会

2016年11月26日 | 木本事件
 今日(11月26日)午後2時から木本トンネル入り口の追悼碑前の広場で、23回目の李基允さんと裵相度さんを追悼する集会(이기윤씨와 배상도씨를 추도하는 모임)を開きました。
 追悼集会開会前の午後1時から、熊野市文化交流センターで、「木本事件」、紀州鉱山への朝鮮人強制連行・紀州鉱山での朝鮮人強制労働についてのパネル展示を明日午後5時までの予定で開催しました。

 集会には、日本各地からおおくの人たちが参加しました。
 はじめに、追悼碑に参加者ひとりひとりが献花したあと、全員で献杯しました。
 そのあと、参加者は、追悼碑の前で、つぎのように語りました。
 Aさん:毎年参加している。毎年日本の状況は良くならなければならないのに、悪くなって
    きている。
     1926年1月の事件から90年以上が過ぎたが、2人の犠牲者に加害者である日本人
    がしっかり向き合ってこなかったという罪科を、わたしは日本人として感じている。
 Bさん:3人の子どもといっしょに参加した。
 Cさん:おおくの日本人は加害責任をとろうとしていない。
 Dさん:1994年のこの追悼碑の除幕集会に参加した。
     徹底的な調査と研究をすすめながらこの会が運動を長い間続けてきていることを、
    感じている。
 Eさん:イジメと差別は、超々近い。日本人の民族差別は続いている。
 Fさん:この近くに住んでいる。この集会に参加している皆さんに会うとうれしい。仲間だと
    思う。
 Gさん:アリランを演奏します。
 Hさん:ポーランドのビルケナウに行ってきた。
 Iさん:木本トンネルは三重県が発注した。三重県にも責任がある。
 Jさん:「木本事件」についてあまりくわしく学んでいないが、朝鮮人と結婚して子どもが生ま
    れ、子どもが育っていく過程で歴史を知ってほしいと思っている。
 Kさん:22年まえにここに追悼碑が建てられたとき、民衆運動のひとつの根拠地がつくられた、
    ここが根拠地だと感じ、うれしかった。
     この碑を中心にして、多くの出会いがあった。木本町(熊野市)の住民との新しい出会
    いもあった。最近、「木本人」のような発言もあったが、この広場は、差別と侵略に対決
    する民衆運動の拠点でありつづけると思う(「木本人」の発言にかんしてはこのブログの
    2016年11月10日~13日の「「木本事件」は終っていない」1~4をみてください)。     
 Lさん:毎年、この集会に参加して、新しい歴史をつくっていけるという確信がつよまっている。
 
 閉会後、「木本事件」の現場のあとをたどりつつ極楽寺に行き、李基允さんと裵相度さんの墓碑に花を献じました。
 その後、熊野市文化交流センターの展示会場で、展示を見にきてくれた人たちと話しあい、さらに紀和町の宿所に移動しました。

 夕食後、交流会を開きました。そこで、夜遅くまでみんなで話しあいました。
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と李基允さんと裵相度さんを追悼する集会の参加者、紀州鉱山の真実を明らかにする会と紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集会の参加者は、これまで会の要請に応えてこなかった熊野市長と熊野市教育長にたいして抗議と要請をおこなってきました(昨年の抗議・要請については、このブログの2015年12月10日の「「木本の会」の熊野市に対する抗議・要請」および2015年12月11日の「紀州鉱山の真実を明らかにする会の熊野市に対する抗議・要請」をみてください)。
 交流会では、「木本事件」と紀州鉱山への朝鮮人強制連行・紀州鉱山での朝鮮人強制労働にかかわる熊野市の行政責任を問い、ふたたび同じ犯罪がくりかえされることのない政治的・社会的・文化的情況をつくりだしていく民衆運動についても話しあいました。
               
                                   佐藤正人
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文昌市秀田村から鋪前鎮鋪前へ

2016年11月25日 | 海南島史研究
 11月7日10時半過ぎに陳胎芳さんと別れ、秀田村から鋪前に向かいました。かつて鋪前の市街地には、秀田村を襲撃した海南警備府第15警備隊鋪前守備隊の本部がありました(海南警備府の「陸上部隊兵力配備要図」によると1943年3月の時点で鋪前には35人の日本兵が「駐屯」していました)。

 10時50分ころ鋪前小学校前に着き、そこで落ち合った陳貽嶠さんの息子さんに案内してもらって陳貽嶠さんの家に行きました。2007年10月26日から9年ぶりに陳貽嶠さんに会うことができました。陳貽嶠さんは、わたしの名を覚えていてくれました。陳貽嶠さんは7~8年前に秀田村から鋪前に移住したとのことでした。
 2003年3月27日にはじめて会ったとき、わたしたちは陳貽嶠さんに陳貽嶠・陳貽鴻修編『海南陳氏譜』第二巻(秀田村分冊、1999年)をいただいていました。同書には、秀田村虐殺52年後の1997年農歴6月22日付けの「文昌市羅豆農場秀田村歴史惨案記実」が収められていました。これは、これまで発表された秀田村虐殺についてのもっとも詳細な記述です。
 その要旨は、つぎのとおりです。
   “秀田村の幸逃者は、わずか56人だった。1945年農歴6月22日早朝、日本軍部隊は、16人
  づつの2隊に分かれて村に侵入した。
    この日午後4時ころ、日本軍がいなくなってから、幸存者は急いで家にもどった。
    村のすべての家に火がつけられておりまだ燃えていた。人影はなかった。
    父母を探す子どもの泣き声が聞こえたが、答える声は返ってこなかった。……
    村の西に行くと2軒の家に、焼き殺された遺体があった。どの遺体も、誰なのか見分ける
  ことができなかった。
    苦しみ嘆き、ものを食べることも眠ることもできなかった。
    3日後、140人の遺骨を集め、ふたつの穴に埋めた”。

 11月7日に、陳貽嶠さんはつぎのように話しました。
   「あの日わたしは祠堂にいたので逃げることができた。羅豆市まで逃げて、夕方もど
  った。午後4時か5時ころだったと思う。
    祖母、母、妻、息子の4人が殺された。
    襲ったのは、鋪前からきた16人の日本兵だった。
    どうして16人だとわかるかというと、鋪前を出発した32人の日本兵が、鋪前と秀田村
  の間を流れる河を渡るとき、16人づつ2組に別れたからだ。このことは、あとで渡し船の
  船頭から聞いた。
    あとの16人は、西沟村に行った。西沟村にも国民党の兵士がいたことがあったが、
  このとき日本軍は家を2~3軒焼いただけだったらしい。
    この村の周辺では、国民党の遊撃隊が活動していた。わたしは、ときどき見たことが
  ある。夜、2~3人がいっしょに行動していた。
    日本軍が村を襲ったのは、秀田村に国民党軍の陳文軒がいると考えたからではな
  いか。陳文軒は秀田村の人で、母と妻と幼い子どもふたりいたが、家にいることはなか
  った。
    日本軍は、秀田村からニワトリ、アヒル、羊、コメなどを奪って、よその村の人たちに
  鋪前まで運ばせた。
    日本が敗けたあと、1950年代に、陳文軒は、共産党に殺された。錦山で人民大会が
  開かれ、銃殺された」。

 12時40分すぎに陳貽嶠さんと別れてから、鋪前の旧市街地と鋪前港に行きました。
 わたしたちは、2004年12月18日~29日に鋪前を訪ねた日本海軍の鋪前守備隊本部の位置などを探索したことがあります(そのとき撮影した鋪前の写真は、紀州鉱山の真実を明らかにする会制作『写真集 日本の海南島侵略と抗日反日闘争』〈2007年2月〉9頁に掲載してあります)。
 
 秀田村を襲ったのは、海南警備府第15警備隊に所属していた日本兵(兼石績大尉ら)でした。
 防衛研究所戦史研究センター史料室で公開されている「被抑留者(戦犯容疑者)北部地区」には、兼石績大尉の「被抑留ノ理由(中国側)」として「民国三十四年〈1945年〉七月文昌県羅豆村秀田村ニテ一百八十余人を惨殺ス(以上中国側理由)」と書かれています(このブログの2012年2月1日の「「広東裁判」・「香港裁判」6」をみてください)。
 兼石績大尉は処刑されましたが、海南警備府第15警備隊司令吉田喜一大佐は、いったんは逮捕されましたが数日後に釈放され日本に戻りました。
 兼石積大尉は、1947年7月に、広東裁判で死刑判決をうけ、処刑されました(「被抑留者(戦犯容疑者)」、『海南警残務処理報告綴』第二復員局残務処理部資料課〈防衛研究所図書館蔵〉。『本邦戦争犯罪人裁判関係雑件』〈外交史料館蔵〉。『外地における本邦人の軍事裁判関係』〈外交史料館所蔵〉。巣鴨遺書編纂会編『世紀の遺書』1953年12月。
 岩川隆『孤島の土となるとも―-BC級戦犯裁判』(講談社、1995年6月)には、
   「海南島海軍警備隊の派遣隊長・兼石績海軍大尉をはじめ、富田克人海軍大尉、望月
  為吉海軍中尉については、
     「戸口調査、ゲリラ隊員捜査などの口実のもとに計六百六十五名の住民を逮捕
    し、計画的に集団殺人をおこない、家屋六百八十二軒を焼き払った」
  という起訴理由があげられた。数字は正確ではないが、終戦直前、米軍の上陸を前に
  して玉砕を覚悟した日本軍が島内の呼応者や反乱者を逮捕・殺害しようとした作戦で、
  まさに戦争の悲劇というしかない悲惨な事件であり、虐殺行為であった」
と書かれています(479頁)。
 岩川隆氏は、ここで、秀田村での住民虐殺を「米軍の上陸を前にして玉砕を覚悟した日本軍が島内の呼応者や反乱者を逮捕・殺害しようとした作戦」と解説していますが、オキナワをアメリカ合州国軍が占領していた1945年7月の時点では、アメリカ合州国軍が海南島に上陸することを日本軍は想定しておらず、海南島の日本軍は「玉砕を覚悟」していませんでした。
 また、「玉砕を覚悟」することと住民を虐殺することとは、なんの関係もないことです。日本軍が村を襲って幼い子どもをふくむ住民を虐殺したことを、「まさに戦争の悲劇というしかない悲惨な事件」だと説明することは、戦争犯罪の本質を隠すことだと思います。
 
                              佐藤正人                              
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文昌市秀田村で 3

2016年11月24日 | 海南島史研究
 11月4日に続いて、7日午前9時45分に秀田村を訪問しました。4日には時間がなくて、虐殺現場に行くことができなかったからです。
 2003年3月27日にはじめて秀田村を訪ねたときに、陳貽嶠さん、陳明宏さん、陳貽芳さんに案内されて行ったので、自分たちだけで場所がわかると思って村内に入って探したのですが、わかりません。村内にいた人に聞いたのですが、わからないと言います。
 それで、陳貽芳さんの家に行き、案内をお願いしました。
 陳貽芳さんは、あの場所は、文昌市のブルトーザーが来て整地したので13年前とはすっかり変わったと言いました。その現場に行ってみると、細い樹がまばらに生えた空地になっていました。
 13年半前は、日本軍に燃やされ、中で人が焼かれた家の跡が、当時のままに残されていました(その家の跡の写真は、紀州鉱山の真実を明らかにする会編『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』〈2005年5月〉25頁、紀州鉱山の真実を明らかにする会制作『写真集 日本の海南島侵略と抗日反日闘争』〈2007年2月〉9頁に掲載してあります)。
 
 陳貽芳さんは、「よそからきた人もおおくなり、村でいま当時のことを実際に知っているのは自分だけになってしまった。いちばんよく知っている陳貽嶠は、鋪前にいる」と村内を歩きながら話しました。
 10時半過ぎに陳貽芳さんに見送られて秀田村から鋪前に向かいました。

                               佐藤正人
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文昌市秀田村で 2

2016年11月23日 | 海南島史研究
 11月4日午後、秀田村の自宅で陳貽芳さん(1933年生)はつぎのように話しました。

  「はじめてあなたたちが来たとき、朝鮮人の女性もいっしょだった。海南日報の記者もいっしょだった。そのあと、また来て、村長の家の庭で、映画を上映したね。
  去年文昌市の歴史資料を集めている部門の人が聞きとりにきたことがある。わたしは、日本軍が降参したのは何年だったと聞いたら、かれらは答えられなかった。それで、わたしは、聞きとりに応じなかった。

  わたしが8歳のころ日本軍がこの村に入ってきた。日本軍は祠堂に村人を集めた。指揮官は長い軍刀をもっていた。日本軍は祠堂に来なかった村人を探しに村の各家に行った。
  日本軍が村を襲って人を殺したのは、日本軍が敗けた年の6月22日(農歴)だった。
  そのとき、わたしは朝早くから祠堂の学校にいっていた。祠堂は村の東にあった。日本軍は村の西から入ってきた。東の祠堂にいたわたしは逃げることができた。
  家にいた父、母、兄、兄嫁、姉、弟、姪の7人が殺された。父と兄は学校の先生だった。姉は17歳、弟は7歳だった。姪は生まれたばかりでゆりかごに入っていた。あとから聞いたことだが、日本兵は姪をゆりかごごと火で燃やした。
  あのとき祠堂には、ほかの村からきた子どもをふくめて7~8人いたが、みんな逃げることができた。
  日本軍は逃げることができなかった村人を2軒の家におしこめて火をつけて焼いた。
  家族が全部殺されてひとりになったので、生きていくのがたいへんだった。物乞いをしてくらしたこともあった。あのころのことは、あまり話したくない」。

 話しを聞きおわって、陳貽芳さんに墓地に案内してもらいました。
 2003年春に訪ねたときには、墓地は整理されていましたが、いまは雑草が茂り、墳墓の上には一本の樹がのびていました。最近10年ほど、清明節の時にも村人が訪れることがなくなったそうです。
 村はずれから100メートルほどを湿地の中の道を歩くと、墓地に着きます。その道を、83歳の陳貽芳さんはしっかりした足どりで先頭にたって進んでいきました。
 墓碑の裏面の最初の1行に「全村各戸被害人数於下  総共三十六戸 一百三十三人 其中五戸全絶」、中頃に「胎芳戸 父母兄嫂弟姐侄女 共七人」と刻まれていました。
 陳貽芳さんは、「ここにははじめ墓が二つあった。あまりに遺体が多かったので、2箇所にわけて葬ったのだ。20年ほどまえに、一つにした。ここには殺された村人133人と村人でない7人、140人が埋められている。墓碑には133人の村人だけが刻まれている」と話しました。
 墓碑の表の「秀田村惨案記略」には、
   “1945年6月22日明け方、鋪前基地から出動してきた日本軍は、52戸、男女老少200人ほ
   どのわたしたちの村を襲い、農作業にでていた者を除く村人全員を2軒の民家に閉じ込
   め、ガソリンをかけ、生きたまま焼き殺した。140人が殺された。老人47人、青壮年24人、児
   童53人、妊婦9人、よその村から来ていた者7人であった。日本軍敗北の前夜であった。
    生きのこった者が骨灰を集め村の西の野に埋めてから40年あまりが過ぎた。
    海外の親族などが資金を寄せ、このたび墓園を重建した。 1998年12月10日 ”
と刻まれていました(このブログの2013年12月11日の「国民国家日本の侵略犯罪 民衆虐殺 14」をみてください)。 
 
 墓地を離れ、13年半前に話しを聞かせてもらった場所につれていってもらいました。あのときあった大きな樹はなくなっていました。
                                   佐藤正人
 
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文昌市秀田村で 1

2016年11月22日 | 海南島史研究
 今月(2016年11月)4日午後、文昌市東北の羅豆農場最北の秀田村を訪問しました。
 秀田村で、日本軍が村人133人と村外の人7人(あるいは8人)を虐殺したのは、1945年7月30日(農暦6月22日)でした。
 わたしたちがはじめて秀田村を訪ねたのは、13年半あまり前の2003年3月27日の午後でした。そのとき、陳貽嶠さん(1925年生)、陳明宏さん(1928年生)、陳貽芳さん(1933年生)に話を聞かせてもらい、住民虐殺現場、墓地などに案内してもらいました(紀州鉱山の真実を明らかにする会編『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』〈2005年5月〉25~26頁、紀州鉱山の真実を明らかにする会制作『写真集 日本の海南島侵略と抗日反日闘争』〈2007年2月〉8~9頁)、このブログの2013年7月12日の「日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 6」をみてください)。
 2007年10月26日に再訪し、陳貽嶠さん、陳明宏さん、陳貽芳さんの証言の映像が含まれているドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年前は昨日のこと』(紀州鉱山の真実を明らかにする会制作、漢語版、2004年12月)を上映させてもらい、翌日の10月27日に、陳貽嶠さんと陳貽芳さんにさらに話を聞かせてもらいました。陳明宏さんは体調があまりよくなく、ほとんど話を聞かせてもらうことができませんでした。
 その後、9年あまり、わたしたちは秀田村を訪問できませんでした。

 11月4日に、陳貽芳さんを訪ねました。わたしたちのことを覚えていてくれました。
 陳貽嶠さんは近くの鋪前に移り住んでおり、陳明宏さんは亡くなられたとのことでした。
 陳貽芳さんは、2003年3月27日に、「たくさんの焼け焦げた遺体が散在していた。遺体は炭になっていて、あるものは水桶の中に、あるものは塀をつかんでいて、逃げようとする姿勢だった」と、証言していました(このブログの2007年2月14日の「日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究 3」をみてください)。

                               佐藤正人
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文昌市玉堂村で

2016年11月21日 | 海南島史研究
 紀州鉱山の真実を明らかにする会としては30回目、海南島近現代史研究会としては17回目の海南島「現地調査」の最初の日である11月4日の朝9時過ぎ、文昌市羅豆農場の南端にある玉堂村を訪ねました。
 212号海南省道に面した村の入り口に「革命老区村庄 玉堂村 二〇一五年三月」と刻まれた大きな石碑があり、そこからさら212号海南省道を北に200メートルほどいくと、「老蘇区玉堂村革命烈士紀念碑」が建てられていました。
 「革命烈士永垂不朽」と刻まれた10メートルあまりの碑の下部に、13人の革命烈士の名と略歴が刻まれていました。
 王之寛さん、王興豊さん、王忠さん、王禄椿さん、王禄珍さん、王茀恵さん、王禄林さん、王綏和さん、王禄孫さん、王盛之さん、王禄松さん、蒙島南さん、王茀魁さんの13人です。
 碑の最下部に、2011年秋に建立された、と書かれていました。
 碑は100平方メートルほどの敷地に建てられていますが、その敷地の入口の門の向かって左側の壁に、「玉堂村革命史略」が刻まれていました。そこには次のように書かれていました。
   「本村は、もと100戸あまりで300人あまりが住んでおり、長い間革命活動を支持し敵との
   たたかいを堅持し、中国革命の勝利に大きな貢献をし、1999年に海南省政府は革命老
   蘇区に選定された。…………
    抗日戦争時期1938年に延安抗日大学から帰ってきて渓湖鄕長となった中国共産党員
   王忠と村の文淵小学校の教師であり中国共産党の地下党員であった王雁秋は、玉堂村
   を根拠地としてわが党の抗日主張を宣伝し、敵を震撼させた。しかし、王忠は日本軍
   に殺害された。…………………
    1942年に日本軍の飛行機が王堂村に2発の爆弾を投下し村民2人を殺した。…………
                         公元二〇一一年歳次辛卯仲秋建」

 わたしたちが碑をみていると、たまたま通りかかった王堂村の王茀鑫さんが近づいてきて、
   「この碑を建てるとき、はじめは政府に援助をもうしいれたがいつまでたっても回答がな
   かった。しかし、政府は王堂村を革命老区と認めた。
    抗日戦争時のことを知っている村人が少なくなっていくので、村に「玉堂村革命烈士碑
   等筹建小組」をつくって資金をあつめ、2011年8月に建てた」
と話しました。中共海南党史研究室編『海南省重要革命遺祉通覧』には、「老蘇区玉堂村革命烈士紀念碑」にかんする記述はありません(『海南省重要革命遺祉通覧』についてはこのブログの2014年12月26日の「《海南省重要革命遗址通览》出版发行」および2016年11月18日の「五百余处革命遗址 诉说琼岛红色往事」をみてください)。

 碑をみたあと、王茀鑫さんに案内されて玉堂村に入りました。大きな祠堂と自宅で王会賢さん(1932年生)に話を聞かせてもらうことができました。
 日本軍が海南島に侵入してくるまえには、玉堂村の中心部にある祠堂のなかに「文淵小学」という学校と教師の宿所があったそうです。いま、祠堂のそばに1981年に玉堂村出身の華僑によって再建された「文淵小学」の建物がありましたが、廃校になっていました。

 王会賢さんは、しずかな口調で、つぎのように話しました。 
   「わたしは学校(「文苑小学」)に4年間ほど通った。日本軍がきたあとも学校はしばらく
   はあった。教科書も変わらなかった。
    日本軍がくる前は革命の歌も教わった。日本軍がきたとき校長の王雁秋は共産党員
   だったので逃げた。そのあと別の校長がきた。新しい校長も秘密党員だった。
    日本軍はこの村に何回もきた。家を焼いた。むかしのことなのであまり覚えていない。
    はっきり覚えているのは、王忠のことだ。
    王忠は、延安に行っていたが、故郷の王堂村にもどってきて、この地域の共産党の郷
   長をしていた。
    王忠は王堂村のなかに住んではいなかったが、治安維持会に協力していた村の漢奸
   に通報されて村のすぐ近く(いまバス停があるところ)で日本軍に銃殺された。
    日本軍は王忠の首をきって湖山の日本軍基地を囲んでいた鉄条網に吊るした(湖山に
   は、日本海軍海南警備府第15警備隊(呉鎮守府特別陸戦隊)の守備隊本部があり、海南
   警備府の「陸上部隊兵力配備要図」によると1943年3月の時点で40人の日本兵が「駐屯」
   していました)。
    わたしは王忠のことを“兄さん(三公)”と呼んでいた。王忠はあまり背が高くなくすこし
   痩せていた。本名は王禄福だった。「三公」というのは3男という意味だ。王忠は6人兄弟
   の3番目だった。王忠の弟の王禄林も烈士だった。
    日本軍に通報したのは、王忠の叔父だった。なぜそんなことをしたのか、わからない。
   はじめは王忠との関係はよかったのだが……。
    玉堂村のなかには治安維持会はなかった」。

 「老蘇区玉堂村革命烈士紀念碑」の下部に刻まれた13人の革命烈士のなかに王忠さんと王禄林さんの名があり、そこにはつぎのように記されていました。
   「王忠  中国共産党員。抗日戦争前タイから密かに延安に行き、延安軍政大学に参加
   して訓練した。1938年夏に党の委託を受けて家に戻り、海南党組織と連係した。1939年
   に党委員会は王忠を敵の占領区である渓湖郷人民政府の郷長に委任し、農村に深入
   させた。王忠は青年を抗日軍に参加させた。日本侵略軍を殲滅するために民衆は献金し
   食料を拠出した。1940年秋に王忠は湖山の日本侵略軍によって惨殺された。このとき、
   31歳だった」。
   「王禄林  1939年に瓊崖抗日独立総隊に参加。1940年に演豊地区での反日本侵略軍と
   の戦闘中に犠牲になった。23歳だった」。

 
                                  佐藤正人
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