■沙土で 3
6月22日に、沙土の北山村で、符礼慶さんの家で、符礼慶さん、符明魁さん、符明進さん、陳承裕さんにつづいて、陳春洪さん(78歳)と符礼章さん(69歳)に話しを聞かせてもらうことができました。
陳春洪さんは、つぎのように語りました。
「わたしの家では、父の陳必連、祖父の陳書桂、祖母(婆道村の人)、叔父の陳必史、姉の陳妃転が、家で殺された。
わたしと弟二人は、学校にいたので、日本軍に見つからなかった。
母はあのとき村にいなかった。兄は、日本軍が村で人を殺していると聞いて、すぐに逃げたので助かった。
日本軍が村からいなくなってから、午後5時か6時ころだったと思うが、わたしは家族の遺体を埋めた。父は7か所刺されていた。
父は農民だった。
父が殺されてから、わたしは、兄といつも山にいってさつまいもを探して家にもってかえって食べた。
日本軍が村人を殺した翌年、わたしは日本軍の仕事をさせられた。
当時、日本軍は花場に駐屯していた。
わたしは、花場で道路工事などをさせられた。日本軍はカネも食べ物もくれなかった。食べるものは自分でもっていった。
日本軍に家族を殺されてから、いつもこころが苦しく、毎日泣いた。
このこころの苦しみをことばで表すことはできない」。
符礼章さんは、つぎのように語りました。
「わたしが生まれてから数日後に、日本軍が村を襲った。
父が市場から戻るときに日本軍の車がむらの入り口に停車して日本兵が降りてきたという。
父は日本兵にお辞儀をしたが、日本兵は銃剣で父を刺そうとした。
その銃剣を父は手で押さえたが、手が血だらけになったという。
その後、父は家にいた母をつれて逃げ出すことができた。
の母に、わたしが抱かれていた」。
佐藤正人
6月22日に、沙土の北山村で、符礼慶さんの家で、符礼慶さん、符明魁さん、符明進さん、陳承裕さんにつづいて、陳春洪さん(78歳)と符礼章さん(69歳)に話しを聞かせてもらうことができました。
陳春洪さんは、つぎのように語りました。
「わたしの家では、父の陳必連、祖父の陳書桂、祖母(婆道村の人)、叔父の陳必史、姉の陳妃転が、家で殺された。
わたしと弟二人は、学校にいたので、日本軍に見つからなかった。
母はあのとき村にいなかった。兄は、日本軍が村で人を殺していると聞いて、すぐに逃げたので助かった。
日本軍が村からいなくなってから、午後5時か6時ころだったと思うが、わたしは家族の遺体を埋めた。父は7か所刺されていた。
父は農民だった。
父が殺されてから、わたしは、兄といつも山にいってさつまいもを探して家にもってかえって食べた。
日本軍が村人を殺した翌年、わたしは日本軍の仕事をさせられた。
当時、日本軍は花場に駐屯していた。
わたしは、花場で道路工事などをさせられた。日本軍はカネも食べ物もくれなかった。食べるものは自分でもっていった。
日本軍に家族を殺されてから、いつもこころが苦しく、毎日泣いた。
このこころの苦しみをことばで表すことはできない」。
符礼章さんは、つぎのように語りました。
「わたしが生まれてから数日後に、日本軍が村を襲った。
父が市場から戻るときに日本軍の車がむらの入り口に停車して日本兵が降りてきたという。
父は日本兵にお辞儀をしたが、日本兵は銃剣で父を刺そうとした。
その銃剣を父は手で押さえたが、手が血だらけになったという。
その後、父は家にいた母をつれて逃げ出すことができた。
の母に、わたしが抱かれていた」。
佐藤正人