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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島の朝鮮人兵士 11

2010年10月21日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■李西根さんの証言 1
 2010年10月5日に、ソウルで、金永振さんと李西根さんから聞かせていただいた話の概要は、同じに日このブログで報告しましたが、以下に、そのときの李西根さん(1923年1月14日生)の証言内容をよりくわしく報告します。
 
 平安南道安州で生まれ育った。
 1943年秋に、故郷で、海軍特別志願兵に、強制的に志願させられた。ハルビンに逃げようとしたが、家に警察が来て捕まった。
 10月1日に海軍特別志願兵第一期生として鎮海の特別志願兵訓練所に入って、1944年3月に卒業し、鎭海海兵団に入った。鎭海海兵団は6月30日に卒業した(鎭海海兵団第一期生)。海兵団に入った韓国人は996人だった。
 7月10日に休暇があり、海南島に行く人たちだけ、700人が休暇をもらった。鎭海海兵団団長、海軍大佐さとうくにおの命令だった。2人が事故で海南島に行けず、海南島にいったのは698人だった。
 ほかの300人近くは、舞鶴とか佐世保とかに行った。
海兵隊を組織するとき、配置を決める。海兵隊の訓練が終わったとき、海南島に行くと知った。鎭海にいるときに、海南島に行くということはわかっていた。
 海南島に行くとき、2回遭難した。下関から乗った船は、豊岡丸だった。
 1回目は、9月9日。2回目は11月15日だった。1回目に遭難したとき、救助された人たちは、フィリピンの北サンフェルナンドに行き、それからマニラに行った。マニラで、そこの海軍第31特別警備隊にいったん所属した。
 そこから海南島に出発したが、南沙群島でまた遭難した。
 海防艦に救助されてサイゴンに上陸した。
 サイゴンまでは、金永振氏たちもいっしょだった。飛行場があるタンサヌートにフランス軍駐屯基地があったが、当時フランス軍は日本と友好関係にあって、その向かい側に遭難した日本軍人たちの収容所があって、そこにはいっていた。
 船がなくて、1か月ほど、そこにいた。
 サイゴンから、ちいさな中国の船、ジャンクに乗った。50人くらい乗っていた。4、5日かかって海南島の三亜に着いた。
 三亜から汽車で那大に行った。那大に到着したのは、1944年12月だった。正月を那大で過ごしたのを覚えている。
 那大には、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の司令部があった。
 当時、海南島には、3個陸戦隊、2個警備隊があった。舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊、横須賀鎮守府第4陸戦隊、佐世保鎮守府第8陸戦隊、海南15警備隊、海南16警備隊。それを、3陸、2警といった。3個陸戦隊、2個警備隊という意味だ。
 3個陸戦隊、2個警備隊を統括する司令部の司令官の名は、伍賀だった。海南島は、海軍の陸戦隊が占領していた。
 わたしは、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊、舞特だ。
 舞特には、韓国人が44人いた(歩兵が38人、主計兵が4人だった)。そのうち那大の本部にいたのは15人で、あとは分遣隊に行った。
 那大では機動部隊にいた。武器は、機関銃、迫撃砲、擲弾筒、空冷銃があった。迫撃砲は4人でかついで走る。
 (武器の)使用法は、海南島で学んだ。
 銃をじっさいに使ったことがある。五指山のふもとに討伐に行ったときだ。交戦して、そのとき使った。
 討伐には、1個中隊で行く。そのうち、朝鮮人は2、3人だった。
 日本軍はすぐには撃たない。敵が撃ってきたら、撃つ。
 討伐に行ったのは2回だけ。交戦したのは2回だけ。戦死した者も負傷した者もいなかった。
 中国側はわからない。竹で作った掘ったて小屋みたいな家がいくつかあったが、兵隊小屋のようだった。2、30人いたようだ。黒い服を着ていて、小銃を持っていた。
 雨がはげしく降って、撤退した。
 討伐に行くと、3、4日かかる。五指山のふもとまで軍用車で行って、歩いて山に入る。道路状況がよくなくて、車では入れず、歩く。夜は、露営だ。
 わたしは、那大と澄邁を行ったり来たりした。澄邁には約2個中隊が駐屯していた。わたしは、澄邁には、1か月近くいた。
 1945年7月に東山分遣隊に行った。
 東山分遣隊の兵士は30人で、韓国人はわたしひとりだった。
 東山分遣隊で、わたしは、歩哨をやった。(抗日軍の)襲撃はなかった。近くにちいさな村があり、その村の名前が東山。その村の近くに古城がある。
 村を巡察することもある。巡察に廻るときは、下士官2名。武装している。
 村民は、日本人か朝鮮人かわからない。日本軍人も、台湾軍人はわかるが、朝鮮軍人はわからない。台湾人は巡警。5人くらいいた。
 山の頂上に分遣隊の宿所があって、望楼もあった。望楼は3階建てで、石でつくってあったように思う。一番上には銃座があった。
 水は、井戸があってポンプでくみ上げていたように思う。主計兵が食事を作り、水をくみ上げた。
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海南島の朝鮮人兵士 10

2010年10月20日 | 海南島史研究
 1946年5月に日本陸軍少将富田直亮(第23軍司令官田中九一代理)の名でだされた第23軍司令部の「状況報告」(日本防衛研究所図書館所蔵)の別表第一「華南地区第二十三軍隷属(指揮)下部隊(海軍部隊及居留民ヲ含ム)人員一覧表」には、「海南島地区」の陸軍部隊は68人、海軍部隊は3万3475人、居留民は1万1935人、計4万5478人であり、陸軍部隊は全員が「内地籍」、海軍部隊は、「内地籍」1万7674人、「台湾籍」1万5068人、「韓籍」733人、居留民は、「内地籍」5214人、「台湾籍」5488人、「韓籍」1233人と書かれています。
 ここでは、当時、海南島にいた朝鮮人は、733人+1233人=1966人であったとされています。
 海南警備府司令長官であった伍賀啓次郎が1946年4月にだした「帰還報告書」(日本防衛研究所図書館所蔵)には、“日本敗戦時に海南島にいた朝鮮人の総数は1620人であり、そのうち軍人は175、軍属は110人、「其ノ他」は1335人であった”、と書かれています。
 ここでは、第15警備隊:軍人36人・軍属2人、第16警備隊:軍人21人・軍属4人、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊:軍人52人・軍属5人、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊:軍人22人・軍属1人、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊:軍人44人、軍需部・運輸部:軍属31人、施設部:軍属5人、特務部:軍属9人、気象部:軍属1人、「朝鮮報國隊」:軍属52人・「其ノ他」606人、居留民:「其ノ他」729人とされています。
 日本敗戦時に海南島にいた朝鮮人軍人・軍属は、「華南地区第二十三軍隷属(指揮)下部隊(海軍部隊及居留民ヲ含ム)人員一覧表」では733人、伍賀啓次郎の「帰還報告書」では285人(軍人175人・軍属110人)とされており、大きく違っています。
                                佐藤正人
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日本人の海南島からの「帰還」

2010年10月19日 | 海南島史研究
 海南警備府司令長官であった伍賀啓次郎が1946年4月10日付けで第2復員省に提出した「帰還報告書」(日本防衛研究所図書館所蔵)には、海南島にいた日本人は、1946年3月に、7回に分けて日本に「帰還」したと書かれています(1945年12月1日付で海軍省に代わって第2復員省が設置されていました)。
 その詳細は、つぎのとおりです(伍賀啓次郎の「帰還報告書」は、海軍の用紙にタイプ印刷されています)。この報告書を提出した翌日1946年4月11日に、伍賀啓次郎は「充員召集」解除となり、海南島などでの侵略責任をとることなく、1951年4月8日に病死しています。1948年10月7日に、伍賀啓次郎は、横浜での「海南島第十六警備隊能美事件合同戦犯裁判」に、証人として出廷しています(このブログに2010年5月15日に掲載した「海南島第十六警備隊能美事件」3などを見てください)。
 
 ■楡林出港(総計1万4948人乗船)
 3月12日 3927人乗船(16警備隊、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊など)。大竹上陸。
 3月13日 3756人乗船(佐世保鎮守府第8特別陸戦隊など)。田辺上陸。
 3月14日 3476人乗船(居留民)。上陸地大竹。
 3月19日 3787人乗船(司令部、特務部、施設部、病院)。大竹上陸。
 ■秀英出港(総計9401人乗船)
 3月22日 4395人乗船(舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊など)。浦賀上陸。
 3月24日 3013人乗船(15警備隊など)。田辺上陸。
 3月27日 1993人乗船(司令部、特務部、居留民)。田辺上陸。

                               佐藤正人
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海南島近現代史研究会事務局会議

2010年10月18日 | 海南島近現代史研究会
 きのう(10月17日)、海南島近現代史研究会の事務局会議を開きました。議題は、つぎのとおりでした。
 海南島近現代史研究会は規約で毎年春に定例研究会を開催することにしています。来年春の7回目の定例研究会は、2月13日午後1時から開くことにしました。

■海南島近現代史研究会第4回総会・第6回定例研究会のまとめ
■海南島近現代史研究会第7回定例研究会  2011年2月
■海南島近現代史研究会第5回総会・第8回定例研究会 2011年8月
■会誌『海南島近現代史研究』第2号
■海南島近現代史研究会『会報』3・4合併号
■月塘村全村民の日本政府に対する要求実現のために
■海南島「現地調査」  
   前回:2010年5月21日~6月3日 海南島・三灶島(三竈島)
   次回:2011年2月下旬~3月
■「朝鮮村」虐殺真相究明(←「朝鮮村」発掘)
■韓国での聞きとり
   ことし、これまで:4月22日~4月29日、6月下旬、9月29日~10月6日。
   ことし、これから:11月下旬。
■日本での聞きとり
   「朝鮮村虐殺」時の海南警備府司令長官伍賀啓次郎、1951年4月死亡。
   「朝鮮村虐殺」時の海南警備府参謀長千田金二、1966年1月死亡。
■「海南島戦時性暴力被害訴訟」最高裁判決(2010年3月2日、上告棄却)
   これから、どうするか。
■研究、資料・文献収集
   曹靖『日本法西斯“三光”政策罪行録 回顧長仙聯村“三・一”血泪史』読書会
■出版計画
   1、『海南島現代史 抗日戦争期(1939年~1945年)』
   2、冊子『月塘村惨案』(漢語+日本語)
   3、冊子『“朝鮮報国隊”』(朝鮮語版、日本語版)    
   4、えほん『日本がせんりょうした海南島で』
   5、「海南島文庫」(ブックレット)連続発行
       1 日本は海南島で何をしたか、2 海南島における抗日反日闘争、
       3 許如梅さん、4 「朝鮮村」、5 林亜金さん、6朴来順さん、
       7 田独鉱山・紀州鉱山、8 興南・水俣・石碌、9 回新村の歴史、
       10 后石村、11「朝鮮報国隊」・「台湾報国隊」・「図南報国隊」、
       12 六郷村、13 高福男さんと柳済敬さん、14 海南島の朝鮮人兵士、
       15 月塘村虐殺、16 沙土虐殺、17 長仙聯村虐殺、18 秀田村虐殺、
       19 日本軍用洞窟(「朝鮮村」、南林、中村、高峰、雷虎嶺、石山)、
       20 日本軍用飛行場・鉄道・道路、21 特攻艇「震洋」基地(新村、三亜)。
   6、証言集。
■継続的上映運動
   『日本が占領した海南島で』、『海南島月塘村虐殺』、『“朝鮮報国隊”』
■新ドキュメンタリー制作    海南島人、中国人、朝鮮人、日本人……の共同作業。
   『抗日闘争期海南島民衆史 日本が占領した海南島で』
■パネル展・企画展・シンポジウム・証言集会……  
■ウェブサイト
■財政
■恒常課題   海南島・韓国・日本で
   「現地調査」・証言聞き取り・記録・保存・資料収集、共同展示・出版・シンポジウム。
■長期課題
   海南島近現代史研究を深め、共同研究の輪を広げる。
   日本政府・日本企業に関係文書を開示させ、責任を追及する。
   日本本政府に侵略犯罪の真相を究明させ、謝罪させ、賠償させ、責任者を処罰させる。
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「海南島同胞實情」 2

2010年10月17日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■海南島同胞實情(続)

  同胞の苦節はとうてい形容することができない実情であり、衛生状態は、同胞の8割が脚気患者であり、熱帯地方特有のマラリアが発生し、多くの患者がいるが、衛生設備はきわめて貧弱であり、薬品はまったくなく、救助の道はない。さらに、米、野菜等の不足で、全居留同胞が罹病の危険性が確実であり、全滅の危機にある。
 帰還問題にかんしては、3月11日まで3回の船が出たが、第1回目から、日本人といっしょに乗船させるといいながら、第3回目まで朝鮮人を乗船させず騙してきた。第4回目は、3月18日、播磨丸という1万トン級の船が出るので、かならず朝鮮人を乗船させるといいつつ、これまでと同じく朝鮮人はひとりも乗船させないため、金、李、両君はやむをえず、(海南島を)脱出して密航を企図した。18日と翌19日は食事もできず、この事実を本国同胞に知らせようと、ありとある困難と辛苦をへて、去る29日に広島県宇品港に上陸したのである。
 いま海南島では同胞が朝鮮僑民会という団体を組織している。会長は洪改植氏、副会長は張壽鳳氏というが、その団体の勢力はまったく無力である。
 ゆえに、同胞はいっそう悲惨な待遇を受けている。
 こうした苦節のうちにも、数千万里の波濤をこえ、一日も早く祖国の建設に参加しようと、毎日朝には、祖国独立を合掌祝福しているという。このような話をし、両君は、朝聯を訪問した。そして、この事実を話し、海南島同胞の財産が約300万円になる、全員が帰還後には自由に(この財産を)使用できるといい、一刻も早く救助してくれることを、中国代表団とマ司令部への交渉を依頼した。
 読者同胞よ! 涙なくしてこの事実を聞くことができようか。われわれ在日同胞も在外朝鮮人のひとりである。海南島の同胞のこの悲惨な苦節をわが苦節と考え、すみやかに救助運動を開始しよう。
 海南島同胞の健康を祈念しつつ、海南島同胞とともに祖国の独立を祝福しよう。
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「海南島同胞實情」 1

2010年10月16日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 最近、在日朝鮮人歴史研究所から『民衆新聞』16号(朝鮮民衆新聞社刊、東京都芝区田村町1-3、 発行兼編集印刷人金桂淡、1946年4月15日)に掲載された記事「海南島同胞實情」を、海南島近現代史研究会に送っていただきました。日本語に翻訳して2回に分けて掲載します。
 ここに書かれている「徴用報國隊」は、「朝鮮報國隊」のことだと思われます。

■海南島同胞實情
 祖国独立を合唱して祝福
 准捕虜待遇をうけつつ

 今日(10日)朝、本社を訪問し、海南島同胞の悲惨な准捕虜生活実情を悲憤する口調で話し、一刻も早く救助の手を差し伸べてくれることを待っていると話す、2人の人がいた。
 本籍地平安北道寧辺郡鳳山面陽地洞の金錫溶君(29歳)と忠清南道牙山郡祈昌面五木里の李順永君(30歳)の両君だ。3月18日、海南島を出港した播磨丸で密航し、3月29日、広島県宇品港に上陸し、本社を訪問した。
 以下、両君の話を記す。
 金、李両君は、1942年11月、日本窒素興業株式会社設営隊として海南島に渡航した。 終戦後、在留同胞とともに一日も早く本国に帰還する日を待ち望んだが、一回目、二回目、三回目も朝鮮人は乗船できず、四回目はどうしても同胞の苦節を見すごしことができず、その救助を本国に嘆願しようと密航してきたという。
 
 海南島に居住するわれわれ同胞の総数はおおよそ1200名である。
 集合地は海口180名、楡林856名、北黎372名であり、全員が日本侵略戦争にかりだされた軍人軍属、徴用報国隊である。
 中国側官憲は、ことばでは朝鮮と中国は兄弟とおなじだというが、同胞を取り扱う態度は准捕虜待遇をするという。それゆえ、同胞の終戦後の生活状○(判読不能)は、今年1月までは1人につき1合5勺の配給があったが、2月以降は物資欠乏の理由ですべての配給がまったくなくなった。
 いまは衣服等を売り、闇で米1斤320円(法幣)、さつまいも1貫60円であり、その他の物資は話にならないほど高価である。
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追悼集会のお知らせ

2010年10月15日 | 集会
 三重県熊野市(当時、木本町)で、1926年に虐殺された朝鮮人労働者(李基允さんと相度さん)を追悼する集会と紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集会を、12月に開きます。みなさんの参加をお待ちしています。

■第17回 李基允さんと相度さんを追悼する集会
  と き:12月4日(土)  午後2時から
  ところ:追悼碑前(木本トンネル熊野側入り口の高台)
      熊野市駅から歩いて10分です。
  主催 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会

■第2回 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集会
   と き:12月5日(日)  午後1時から
   ところ:追悼碑前(紀和町鉱山資料館斜め前)
          熊野市紀和町の311号線沿いです。
   主催 紀州鉱山の真実を明らかにする会

◆「木本事件」、紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんするパネル展示
   と き:12月4日~5日
         4日は午後12時~午後6時まで
         5日は午前9時~午後4時30分まで
   ところ:熊野市文化交流センターの多目的室
           熊野市駅から歩いて1分です。

……宿泊……
  12月4日の夜は、紀和町にある「湯元山荘 湯ノ口温泉」に宿泊します。
    宿泊費は、夕食・朝食費をふくめて、5000円以内です。
      ご希望の方は会までご連絡ください。
      三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会
           http://www5a.biglobe.ne.jp/~kinomoto/
      紀州鉱山の真実を明らかにする会
           http://members.at.infoseek.co.jp/kisyukouzan/  
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海南島の朝鮮人兵士 9

2010年10月14日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 金永振さんが海南警備府舞鶴佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の朝鮮人兵士だったとき、同じ佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に沖縄人兵士もいました。崎間連正さんは、手記に、つぎのように書いています(崎間連正「佐八特海南島奮闘記 中国名の“ヒーカン”さん」、外間完英編『沖縄海軍物語――海友会員回顧録』沖縄海友会発行、1985年5月。原文は「元号」使用)。
     「1940年6月、海兵団で2ヶ月の訓練のあと、佐八特別陸戦隊に入り、海南島
    の嘉積で警備した。県出身の特務大尉が居られたが名前失念。
      陸軍が通った後だからと、だらだら安心した小隊が全滅した事もあり、海軍に
    居た台湾兵が内通して2個小隊全滅した突発事故もあったが、概ね平穏で敗残
    兵掃討が主だった。崎間は本島人や台湾人とも仲よく、チャン語でヒーカンさん
    と呼ばれ、招待されて酔う事もあった。
      沖縄戦が終った頃、1ヶ小隊が全滅させられた事もあった以外、終戦後も苦
    労はなかった」。

 金城新五郎さんは、手記に、つぎのように書いています(金城新五郎「佐八特海南島奮闘記 体のあちこちに弾傷あり」、『沖縄海軍物語――海友会員回顧録』。原文は「元号」使用)。
     「1944年2月佐八特別陸戦隊3,000名海南島の嘉積に駐屯、支那の第五
    指団長王中将が山深く立て籠もり終戦まで頑張っていた。討伐戦が多く、今でも
    躰のあちこちに弾傷が残っている」。

 上間為国さんは、手記に、つぎのように書いています(上間為国「佐八特海南島奮闘記 “チンタツサセコイ”の暗号」、『沖縄海軍物語――海友会員回顧録』。原文は「元号」使用)。
     「1943年7月1日~12月28日、横須賀航海学校第11期信号術普錬生(一
    水)」、
     「卒業後佐世保に戻り、1944年1月13日、輸送船4隻、護衛艦0隻で海南
    島佐八特に向う。25日0015高雄沖で敵潜にやられ、上間一水らは18時間も
    塩づけ、26日哨戒艇に救助されて高雄へ上陸。
      高雄から3,000屯の楡林丸に乗り海南島三亜着、トラックで80粁の行程を
    経て、1944年2月12日、嘉積の佐八特本部に着任した。
      匪賊討伐が多く、たいした戦いはなかった」。

 金永振さんが海南警備府舞鶴佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の兵士になるまえに、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊にいた宮里正助さんは、手記に、つぎのように書いています(宮里正助「佐八特海南島奮闘記 敗残兵掃討に明け暮れる」、『沖縄海軍物語――海友会員回顧録』。原文は「元号」使用)。
     「1939年1月、島田英光と共に村から2人佐世保海兵団入団」、
     「19年12月~1940年5月佐鎮にて普通科砲術特別訓練生(三水)、
    県出身は私1人だけだった。
      卒業と同時に佐八特、海のない海南島の中部山岳地帯の領水・嘉積に
    1940年5月~1943年4月勤務した。Y4作戦で奥地へ征ったが、山岳地形に
    詳しい支那軍は向って行くと隠れ、小部隊で行くと囲まれ、谷間に入るのを見計
    って決ってやられ、1個分隊25名で征ったら帰りは2名しか残らなかった事も
    あった。
      敗残兵の討伐に明け暮れたが、10徴の具志川出身が同じ小隊に居り(名前
    失念)、同年兵の真境名由勝は大隊本部に居り、県出身の大隊本部小隊長(兵
    曹長、名前失念)は戦死された」。
                                    佐藤正人
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海南島の朝鮮人兵士 8

2010年10月13日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 Aさんが海南警備府第15警備隊の朝鮮人兵士であったとき、同じ第15警備隊の日本人兵士だった小栗浩嗣氏は、手記に、つぎのように書いています(小栗浩嗣「海南島掃討戦―海軍第十五警備隊―」、平和祈念事業特別基金編刊『平和の礎 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(恩欠編)』第5巻、1995年3月。恩欠者とは、軍人軍属恩給欠格者のこと。原文は「元号」使用)。
    「私は……、1942年に徴用で三菱電機に入り一か年、その間の1943年6月1
   日、今度は召集令が来て、約一週間の後、呉海兵団に入団を命ぜられたのです。
    「海兵団入団五日後、我々召集兵は身体検査などであわただしく過ごし、その間
   に各方面に配属を命ぜられたのです。
     私は海南島方面と決定し、他の人々はそれぞれ各方面に分かれたのです。
   ……私の勤務地は「呉海兵団、佐世保局気付吉田隊」とのことで、正式には、海
   軍第十五警備隊・第一進撃隊・第一中隊第二小隊第二分隊でありました」、
    「上陸したのは、島の南端の楡林という街で、その後四日程、新兵としての心構
   えを教えられた。今度は陸路トラックで輸送され、我々には初めて武器、衣糧、そ
   の他の用具が支給をされた」、
    「我々海軍警備隊は、いってみれば陸戦隊で、島の治安維持をしながら残敵を
   掃討していたわけですが、敵は正規軍、警察、特警隊、共産軍などで、我軍にた
   ち向かって来るのです。
     兵器は幼稚だったが、共産軍は独特戦法で山にたてこもり、夜間になると一
   般民間人のへ行き、村長を脅し、物資や武器を彼らのいる山の中へ運ばせ
   た。
     日本軍の目を逃れて、山中の雨露をしのぐ仮小屋へだ、共産軍はそういう所で
   生活をしていた。
     共産軍は他の敵より多かったと思うが、神出鬼没の戦法でした。
     服装は便衣で農民の姿をしているが、夜間になると戦闘員となる。
     彼等は日本軍の行動を畑の中で観察し、その状況を本隊に知らせ、日没と共
   に兵隊となるわけです」、
    「農民の生活水準は低かった。一歩山間部に入れば勿論電灯はなく、せいぜい
   ランプか蝋燭だった。主食の米は硬質で、稲の丈も小さい。年二回の収穫だが収
   量は少ない。灌漑の方法も幼稚で、足踏み回転の水車ぐらいで、日本より技術は
   大部低かった。生活の収入源は黒豚や家鴨で貴重な家畜である」、
    「これら住民の生活の中に我々の掃討の戦闘があった。海南島は山の中では、
   木の枝から茎が延びて出て、ジャングルのようだし、露出した岩肌が多くて行動
   が困難。敵はそこにひそんで、道の途中に二メートルぐらいの高さに石を積み上
   げその中側にいて、歩哨が銃口を向けて守っている。そこを乗り越え突破する時、
   狙撃され犠牲者が出ることも多かった」、
    「共産軍は夜間行動をする。婦人などが物を天秤に担いで行動するので、我々
   はそこを狙う。そのため我々の討伐は日暮に進攻し、敵の移動時を予想し、山の
   両側に潜伏する。あるいは夜明に襲撃するのだが、敵は逃げ戦死者のみが残さ
   れていることもある。我々の服装も便衣で中国人に化ける、敵の目をくらますた
   め、隊長以下便衣で、大体一個小隊単位で行く。両軍共にゲリラ戦、こちらも敵
   も同様だった」、
    「数ある戦闘の中で苦しかったのは高い山(寿万山)での戦でした。この岩山
   に敵が陣地を構えているので、そこを攻撃した。我が兵力は二個小隊ぐらいで、
   歩兵砲、重機関銃、擲弾筒を装備しての戦闘だったが、第四分隊だけが孤立して
   しまった。
     他の部隊は討伐が終了したので下山していた。我が隊は急遽救援のため出発
   した。分隊は敵に包囲され、岩山の中の洞窟に立てこもって応戦していたのをよ
   うやく救出することが出来た」、
    「私たちは終戦まで毎日の討伐戦で、終戦は山の中で聞き「本隊に復帰すべし」
   の命令が下った」、
    「終戦を知ると、韓国の応召兵は隊列を組み、アッという間に海口の兵舎から出
   ていってしまった」。

 李西根さんが海南警備府舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の朝鮮人兵士だったとき、同じ府舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の日本人兵士だった藤縄正勝氏は、手記に、つぎのように書いています(藤縄正勝「海南島の陸戦隊」、士交会の本刊行委員会編刊『士交会の仲間たち』1989年5月。士交会の会員は旧日本海軍経理学校第11期見習尉官隊教官と卒業生。原文は「元号」使用)。
    「1943年の秋に、大学のキャンパスから兵舎に直行……12月10日……横須
   賀第二海兵団に入団」、
    「(1944年)空路、海南島は那大の府舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊に赴任した」、
    「比較的平穏な駐留生活であった。それでも、結局、点と線しかおさえていないか
   ら、時折、分遣隊が敵襲を受け、戦死者や戦傷者が本部の軍医隊に運ばれて来
   るようなことは何回かあった」。
                               佐藤正人
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海南島の朝鮮人兵士 7

2010年10月12日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 金元植さんは、広東瓊山地方法院検察処に押送され、看守所に勾留されていましたが、1946年2月19日に脱走しました。しかし、再び逮捕され、3月16日に広東瓊山地方法院で公審されました。
 この公審には、日本官兵善後連絡部長伍賀啓次郎(日本敗戦時まで、日本海軍海南警備府司令長官)、矢柴信雄、国井俊明ら数百人が傍聴したようです(1946年3月17日付「瓊山居民団日報」、防衛研究所図書館蔵『海南海軍警備府引渡目録』)。
 金元植さんは、3月19日に刑事判決を受けました。
 判決文には、
    「公訴人 本院検察官
     被告 金元植男三十歳朝鮮人韓国人民聯合會會長
     主文 金元植殺人一罪處有期徒刑十二年剥奪公権十年脱逃一罪處有期徒刑
       六月執行有期徒刑十二年剥奪公権十年」
と書かれてあります。

 いまから1週間前の10月5日に、ソウルで金永振さんと李西根さんに話を聞かせてもらっているとき、金元植さんを知らないかと尋ねました。すると、李西根さんは、ふたりと同じく日本海軍鎮海警備府の第1期特別志願兵となったあと海南島に行ったAさんなら知っているだろうと言って、さっそくその場でAさんに電話してくれました。
 電話で、Aさんは、李西根さんに、“自分は海南島で第15警備隊にいた。金元植に会ったことがある”と言ったそうです。
 わたしたちは、Aさんに、詳しく話を聞かせてほしいと頼みましたが、Aさんは、“いまは会いたくない。名前も明らかにしたくない”と言いました。
 防衛研究所図書館にある文書に、“1945年10月18日午前11時頃第15警備隊朝鮮籍兵19名ハ朝鮮人民連合会長金元植ニ誘引サレ同隊ヲ離脱……”と書かれていますが、Aさんは、この19人の1人であったかもしれません。
                                     佐藤正人
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