■李西根さんの証言 1
2010年10月5日に、ソウルで、金永振さんと李西根さんから聞かせていただいた話の概要は、同じに日このブログで報告しましたが、以下に、そのときの李西根さん(1923年1月14日生)の証言内容をよりくわしく報告します。
平安南道安州で生まれ育った。
1943年秋に、故郷で、海軍特別志願兵に、強制的に志願させられた。ハルビンに逃げようとしたが、家に警察が来て捕まった。
10月1日に海軍特別志願兵第一期生として鎮海の特別志願兵訓練所に入って、1944年3月に卒業し、鎭海海兵団に入った。鎭海海兵団は6月30日に卒業した(鎭海海兵団第一期生)。海兵団に入った韓国人は996人だった。
7月10日に休暇があり、海南島に行く人たちだけ、700人が休暇をもらった。鎭海海兵団団長、海軍大佐さとうくにおの命令だった。2人が事故で海南島に行けず、海南島にいったのは698人だった。
ほかの300人近くは、舞鶴とか佐世保とかに行った。
海兵隊を組織するとき、配置を決める。海兵隊の訓練が終わったとき、海南島に行くと知った。鎭海にいるときに、海南島に行くということはわかっていた。
海南島に行くとき、2回遭難した。下関から乗った船は、豊岡丸だった。
1回目は、9月9日。2回目は11月15日だった。1回目に遭難したとき、救助された人たちは、フィリピンの北サンフェルナンドに行き、それからマニラに行った。マニラで、そこの海軍第31特別警備隊にいったん所属した。
そこから海南島に出発したが、南沙群島でまた遭難した。
海防艦に救助されてサイゴンに上陸した。
サイゴンまでは、金永振氏たちもいっしょだった。飛行場があるタンサヌートにフランス軍駐屯基地があったが、当時フランス軍は日本と友好関係にあって、その向かい側に遭難した日本軍人たちの収容所があって、そこにはいっていた。
船がなくて、1か月ほど、そこにいた。
サイゴンから、ちいさな中国の船、ジャンクに乗った。50人くらい乗っていた。4、5日かかって海南島の三亜に着いた。
三亜から汽車で那大に行った。那大に到着したのは、1944年12月だった。正月を那大で過ごしたのを覚えている。
那大には、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の司令部があった。
当時、海南島には、3個陸戦隊、2個警備隊があった。舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊、横須賀鎮守府第4陸戦隊、佐世保鎮守府第8陸戦隊、海南15警備隊、海南16警備隊。それを、3陸、2警といった。3個陸戦隊、2個警備隊という意味だ。
3個陸戦隊、2個警備隊を統括する司令部の司令官の名は、伍賀だった。海南島は、海軍の陸戦隊が占領していた。
わたしは、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊、舞特だ。
舞特には、韓国人が44人いた(歩兵が38人、主計兵が4人だった)。そのうち那大の本部にいたのは15人で、あとは分遣隊に行った。
那大では機動部隊にいた。武器は、機関銃、迫撃砲、擲弾筒、空冷銃があった。迫撃砲は4人でかついで走る。
(武器の)使用法は、海南島で学んだ。
銃をじっさいに使ったことがある。五指山のふもとに討伐に行ったときだ。交戦して、そのとき使った。
討伐には、1個中隊で行く。そのうち、朝鮮人は2、3人だった。
日本軍はすぐには撃たない。敵が撃ってきたら、撃つ。
討伐に行ったのは2回だけ。交戦したのは2回だけ。戦死した者も負傷した者もいなかった。
中国側はわからない。竹で作った掘ったて小屋みたいな家がいくつかあったが、兵隊小屋のようだった。2、30人いたようだ。黒い服を着ていて、小銃を持っていた。
雨がはげしく降って、撤退した。
討伐に行くと、3、4日かかる。五指山のふもとまで軍用車で行って、歩いて山に入る。道路状況がよくなくて、車では入れず、歩く。夜は、露営だ。
わたしは、那大と澄邁を行ったり来たりした。澄邁には約2個中隊が駐屯していた。わたしは、澄邁には、1か月近くいた。
1945年7月に東山分遣隊に行った。
東山分遣隊の兵士は30人で、韓国人はわたしひとりだった。
東山分遣隊で、わたしは、歩哨をやった。(抗日軍の)襲撃はなかった。近くにちいさな村があり、その村の名前が東山。その村の近くに古城がある。
村を巡察することもある。巡察に廻るときは、下士官2名。武装している。
村民は、日本人か朝鮮人かわからない。日本軍人も、台湾軍人はわかるが、朝鮮軍人はわからない。台湾人は巡警。5人くらいいた。
山の頂上に分遣隊の宿所があって、望楼もあった。望楼は3階建てで、石でつくってあったように思う。一番上には銃座があった。
水は、井戸があってポンプでくみ上げていたように思う。主計兵が食事を作り、水をくみ上げた。
2010年10月5日に、ソウルで、金永振さんと李西根さんから聞かせていただいた話の概要は、同じに日このブログで報告しましたが、以下に、そのときの李西根さん(1923年1月14日生)の証言内容をよりくわしく報告します。
平安南道安州で生まれ育った。
1943年秋に、故郷で、海軍特別志願兵に、強制的に志願させられた。ハルビンに逃げようとしたが、家に警察が来て捕まった。
10月1日に海軍特別志願兵第一期生として鎮海の特別志願兵訓練所に入って、1944年3月に卒業し、鎭海海兵団に入った。鎭海海兵団は6月30日に卒業した(鎭海海兵団第一期生)。海兵団に入った韓国人は996人だった。
7月10日に休暇があり、海南島に行く人たちだけ、700人が休暇をもらった。鎭海海兵団団長、海軍大佐さとうくにおの命令だった。2人が事故で海南島に行けず、海南島にいったのは698人だった。
ほかの300人近くは、舞鶴とか佐世保とかに行った。
海兵隊を組織するとき、配置を決める。海兵隊の訓練が終わったとき、海南島に行くと知った。鎭海にいるときに、海南島に行くということはわかっていた。
海南島に行くとき、2回遭難した。下関から乗った船は、豊岡丸だった。
1回目は、9月9日。2回目は11月15日だった。1回目に遭難したとき、救助された人たちは、フィリピンの北サンフェルナンドに行き、それからマニラに行った。マニラで、そこの海軍第31特別警備隊にいったん所属した。
そこから海南島に出発したが、南沙群島でまた遭難した。
海防艦に救助されてサイゴンに上陸した。
サイゴンまでは、金永振氏たちもいっしょだった。飛行場があるタンサヌートにフランス軍駐屯基地があったが、当時フランス軍は日本と友好関係にあって、その向かい側に遭難した日本軍人たちの収容所があって、そこにはいっていた。
船がなくて、1か月ほど、そこにいた。
サイゴンから、ちいさな中国の船、ジャンクに乗った。50人くらい乗っていた。4、5日かかって海南島の三亜に着いた。
三亜から汽車で那大に行った。那大に到着したのは、1944年12月だった。正月を那大で過ごしたのを覚えている。
那大には、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の司令部があった。
当時、海南島には、3個陸戦隊、2個警備隊があった。舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊、横須賀鎮守府第4陸戦隊、佐世保鎮守府第8陸戦隊、海南15警備隊、海南16警備隊。それを、3陸、2警といった。3個陸戦隊、2個警備隊という意味だ。
3個陸戦隊、2個警備隊を統括する司令部の司令官の名は、伍賀だった。海南島は、海軍の陸戦隊が占領していた。
わたしは、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊、舞特だ。
舞特には、韓国人が44人いた(歩兵が38人、主計兵が4人だった)。そのうち那大の本部にいたのは15人で、あとは分遣隊に行った。
那大では機動部隊にいた。武器は、機関銃、迫撃砲、擲弾筒、空冷銃があった。迫撃砲は4人でかついで走る。
(武器の)使用法は、海南島で学んだ。
銃をじっさいに使ったことがある。五指山のふもとに討伐に行ったときだ。交戦して、そのとき使った。
討伐には、1個中隊で行く。そのうち、朝鮮人は2、3人だった。
日本軍はすぐには撃たない。敵が撃ってきたら、撃つ。
討伐に行ったのは2回だけ。交戦したのは2回だけ。戦死した者も負傷した者もいなかった。
中国側はわからない。竹で作った掘ったて小屋みたいな家がいくつかあったが、兵隊小屋のようだった。2、30人いたようだ。黒い服を着ていて、小銃を持っていた。
雨がはげしく降って、撤退した。
討伐に行くと、3、4日かかる。五指山のふもとまで軍用車で行って、歩いて山に入る。道路状況がよくなくて、車では入れず、歩く。夜は、露営だ。
わたしは、那大と澄邁を行ったり来たりした。澄邁には約2個中隊が駐屯していた。わたしは、澄邁には、1か月近くいた。
1945年7月に東山分遣隊に行った。
東山分遣隊の兵士は30人で、韓国人はわたしひとりだった。
東山分遣隊で、わたしは、歩哨をやった。(抗日軍の)襲撃はなかった。近くにちいさな村があり、その村の名前が東山。その村の近くに古城がある。
村を巡察することもある。巡察に廻るときは、下士官2名。武装している。
村民は、日本人か朝鮮人かわからない。日本軍人も、台湾軍人はわかるが、朝鮮軍人はわからない。台湾人は巡警。5人くらいいた。
山の頂上に分遣隊の宿所があって、望楼もあった。望楼は3階建てで、石でつくってあったように思う。一番上には銃座があった。
水は、井戸があってポンプでくみ上げていたように思う。主計兵が食事を作り、水をくみ上げた。