三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

1941年12月8日 12

2010年02月28日 | 海南島
 ■2009年12月18日に書きこんだ「1941年12月8日 11」の続きです。

 1941年12月8日に、ヒロヒト・日本政府・日本軍中枢は、アジア太平洋全域を戦場とする対アメリカ合州国・イギリス戦争を開始し、侵略地域をいっきょに拡大しはじめた。
この日ヒロヒトがだした「詔書」には、
    「天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践タル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス」、
    「朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス。……億兆一心国家ノ総力ヲ挙ゲテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラム
   コトヲ期セヨ」、
    「帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為、蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ」、
    「朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ、祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ、速ニ禍根ヲ芟除シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ、以テ帝
   国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス」
と書かれてあった。「自存自衛」、「東亜永遠ノ平和」のため、アメリカ合州国とイギリスに対して宣戦したというのである。日本民衆の大人のほとんどがこの「詔書」を支持し、子どもたちは支持させられた。
 1941年7月28日、日本軍兵士約4万人が海南島の三亜から「仏領印度」南部(ベトナム南部・カンボジア)に侵入し、占領を開始した。その3週間前の7月2日に、ヒロヒトらは、「南方進出」のさいに「対英米戦を辞せず」という方針を決定していた(「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」)。
 ヒロヒト・日本政府・日本軍中枢は、1941年11月の時点で、12月上旬のパールハーバーのアメリカ合州国艦船攻撃、コタバル奇襲上陸、香港侵入を決定するとともに、アジア太平洋全域の占領を計画していた。
 海南島における日本海軍の「Y5作戦」(1941年11月25日~1942年1月25日)は、そのあらたな国民国家日本の侵略戦争の一環だった。
                                           佐藤正人
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熊野市指定文化財「史跡 英国人墓地」について 5

2010年02月27日 | 紀州鉱山
 2009年9月11日に、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会は、河上敢二熊野市長と杉松道之熊野市教育長に、熊野市が文化財に指定している「史跡 英国人墓地」について、質問をおこないました。
 10月16日に、濱口幸治熊野市教育委員会社会教育課長から、「今回から社会教育課長名で回答させていただきます。ご了解ください」として回答がありましたが、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会はそれを了承しませんでした。
 この10月16日の回答は、その回答方式が熊野市長・教育長の責任をあいまいにするものであり、その回答内容は質問にきちんと応答するものでなかったので、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会は、2010年2月1日に、熊野市長と教育長に、2月15日を回答期限として、文書で再質問をしました。
 その文書は、「熊野市が、イギリス兵の遺骨が埋葬されていない“現在の英国人墓地”を文化財として指定している理由」、あるいは「“現在の英国人墓地”に埋められているという“灰”が、イギリス兵の遺骨の灰なのか」など、熊野市指定文化財「史跡 英国人墓地」にかかわる重大な疑問に明快に答えることを要求する文書でした(その全文は、2月1日に、このブログに掲載してあります)。

 しかし、回答期限を1週間すぎても回答がなかったので、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会は、2月22日に、速やかに回答することを要求する文書を熊野市長と教育長に送りました。きょう(2月27日)現在、いまだ、回答は届いていません。
 いま、熊野市の公式ウェブサイトの「文化財(一覧表)」(http://www.city.kumano.mie.jp/kankou/bunkazai.html)からは、なぜか、熊野市指定文化財「史跡 英国人墓地」は削除されています。
 昨年(2009年)6月10日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、熊野市が市の文化財に指定している「英国人墓地」にかかわる公文書の開示を請求しました。それに対して、同年6月24日に、杉松道之熊野市教育長から、「公文書部分開示決定通知書」(熊教第465号)が届きました。開示文書は不十分なものでしたが、この通知書に添付されていた「国・県・熊野市指定文化財(旧紀和町分)。2009年4月現在」には、「指定分野:記念物」・「指定内容:史跡」として「英国人墓地」(1965年2月1日指定)が掲載されていました。

 2月22日に熊野市長と教育長に送った文書の全文はつぎのとおりです。  
■「再質問」に速やかに回答してください
                  2010年2月22日
 熊野市長   河上敢二さま
 熊野市教育長 杉浦道之さま

        紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会
                 在日本朝鮮人総聯合会三重県本部
                 在日本大韓民国民団三重県地方本部
                 紀州鉱山の真実を明らかにする会

 2010年2月1日に「熊野市指定文化財「史跡 英国人墓地」について 再質問」をおこないましたが、その回答期限(2月15日)をすぎ、本日(2月22日)に至っても、回答が届いておりません。
 速やかに誠実に回答してください。
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2月25日

2010年02月26日 | 紀州鉱山
 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の除幕集会の日(3月28日)が迫ってきました。
 きのう(2月25日)、在日本朝鮮人総聯合会三重県本部・在日本大韓民国民団三重県地方本部・紀州鉱山の真実を明らかにする会のメンバーと友人たちが、熊野市紀和町に集まって、「追悼の場」で「作業」をしました。
 昨年7月に、紀和町の中心部に土地を購入していらい、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会は、そこを「追悼の場」としていくための「作業」を重ねてきました。
 「追悼の場」の中心に置く石を探して、なんどとなく紀和町の旧紀州鉱山周辺や尾鷲などをたずねましたが、昨年中には決めることができませんでした。
 ことし1月25 日に、ようやく紀和町丸山千枚田の近くの石を選ぶことができました。
 きのうは、その石を、「追悼の場」に置き、その石にはめ込む碑文板の大きさと位置を決めました。
 そのあと、参加者全員が、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の名前を、1人ずつ、石に書きました。
 また、「追悼碑建立宣言」を掲示する板の土台をつくりました。

 参加した友人の1人、徐文平さんは、「追悼碑建立宣言」の最後に、
    「わたしたちは、この追悼碑をひとつの基点として、紀州鉱山から生きて故郷にもどることができなかったみなさん、
   海南島で死んだ朝鮮人、そしてアジア太平洋の各地で日本政府・日本軍・日本企業によって命を奪われた人びとを
   追悼し、その歴史的責任を追究していきます」
と書いてあるのを読んで、
    「追悼碑の建立は、新たな運動の出発だと自分も思う」
と話しました。徐文平(서문평  ソムンピョン)さんは、積水ハウスの社員ですが、勤務中に顧客から受けた自己の名前にかかわる悪意に満ちた発言に対して、2006年7月に「在日社員本名裁判」を提起した人です。この裁判は、1年後、被告が謝罪して終わりました。
 きのう、わたしたちは、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人ひとりひとりの名を石に書きいれましたが、姓がわからない人が何人もいました。日本政府・朝鮮総督府が、かつて、朝鮮人に創氏と改名を強制していたからです。
 わたしたちがこれまで見ることができた紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の名を記した文書は、紀州鉱山の朝鮮人について石原産業が三重県内務部に提出した報告書(これをわたしたちは「紀州鉱山1946年報告書」とよんでいます)、紀和町小栗須の慈雲寺の本堂に置かれている「紀州鉱業者物故者諸精霊」と書かれた箱に入っている『紀州鉱業所物故者霊名』と題された書き物、石原産業株式会社が1955年につくった『従業物故者 忌辰録』という「会社創業以来の物故者」の名簿などしかありません。これらの文書だけでは、本名を知ることができない人がいます。
 この人たちの名をはっきりさせることも、これからの紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会の課題のひとつです。
                                             佐藤正人
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東アジアにおける一九一〇年 6

2010年02月25日 | 個人史・地域史・世界史
■二〇一〇年
 国民国家フランスの形成は、一七八九年のフランス革命を契機としていた。
 国民国家日本の形成は、一八六八年の「明治維新」を契機としていた。
 フランスでは、王制廃絶を契機として「国民」が形成されはじめたが、日本では、王制復活(「大政奉還」)を契機にして「国民」が形成されはじめた。正確にいうなら、このとき日本で形成されはじめたのは、「国民」ではなく「臣民」であった。
 日本の「臣民」が「国民」となったのは、一九四五年八月以後である。
 天皇ヒロヒトが、一九四五年八月一四日午後一一時過ぎに録音した「ポツダム宣言」を受諾する「詔書」が、八月一五日正午に、「キミガヨ」のあと放送された。
 その「詔書」で、ヒロヒトは、「忠良なるなんじ臣民」にたいし、「神の国」である日本は不滅だが、敵が残虐な爆弾を使うのでこれ以上戦争をつづければ民族が滅亡し、人類の文明が破滅するので、ポツダム宣言を受諾すると言い、さらに「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ」、「爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ」などと無恥のコトバを並べていた。
 その数年後、日本の「臣民」は日本の「国民」となったようだ。一九四六年一一月の天皇ムツヒトの誕生日に公布され一九四七年五月三日から施行された日本国憲法からは、「臣民」は消えていた。日本国憲法前文の主語は、「国民」である。その憲法で、ヒロヒトは病死するときまで、日本国の象徴および日本国民統合の象徴となっていた。
 ヒロヒトの死後、その子アキヒトが、現在まで、日本国と日本国民統合の象徴となっている。

 国民国家日本は、形成期いらい一貫して、天皇制と他地域・他国侵略の経済的・政治的・社会的・文化的構造を維持しつづけている。
 国民国家日本の軍隊と企業は、アジア太平洋各地で、おおくの人のいのちを奪い、大地と海を侵し、資源や生産物を略奪してきている。
 その巨大な侵略犯罪の責任をとろうとしないまま、膨大な物質的・精神的債務を支払おうとしないまま、天皇制を維持し最悪の侵略犯罪者天皇ヒロヒトの誕生日を国民の祝日としたまま、国民国家日本は、「東アジア共同体」を形成しようとしている。
 
 一九一〇年から一〇〇年が過ぎようとしている。
 一九四五年八月一四日以前も以後も、国民国家日本の体制は変わっていない。
 国民国家日本の他地域・他国侵略の構造を破壊する東アジア民衆の共同闘争の網状組織を広げていき、世界的な解放のインターナショナリズムを強固にする道を、反日抗日闘争を戦いつづけたアジア太平洋各地の民衆の生活・労働・闘争の軌跡に学びつつ、わたしも進んでいきたい。
                                            キムチョンミ
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東アジアにおける一九一〇年 5

2010年02月24日 | 個人史・地域史・世界史
■一九一〇年
 一九一〇年二月一四日、日本の遼東半島南端部占領機関である関東都督府の旅順地方院が、安重根に死刑判決をおこなった。安重根は、三月二六日に、旅順監獄で絞首された。
 五月三〇日に、寺内正毅が陸軍大臣のまま韓国統監となった。
 六月一日に、日本で、幸徳秋水、管野スガら検挙された(五月二五日に宮下太吉、新村忠雄らが検挙されていた)。
 六月二四日に漢城で、「韓国警察事務委託ニ関スル覚書」が調印された。ここでは、「韓国ノ警察制度ノ完備シタルコトヲ認ムルトキ迄韓国政府ハ警察事務ヲ日本国政府ニ委託スルコト」とされていた。
 このころ、日本軍(韓国駐剳憲兵隊をふくむ)は、全羅南道だけでも約二〇〇〇人の朝鮮人を捕らえ、そのうち一〇〇人を「死刑」にし、三〇〇人を投獄したようである(「韓国匪魁死刑」、『大阪朝日新聞』一九一〇年八月二六日号)。
 八月二二日、漢城で韓国統監寺内正毅と大韓帝国首相李完用が「韓国併合ニ関スル条約」に調印した。その第一条は、「韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲与ス」というものであった。
 八月二三日の『読売新聞』に、「日本の領土膨張」と題して、
     「大日本帝国の領土は一八七二年以来、実に左記のごとき趨勢を以って漸次に膨張し来たれり。別に租借
    地たる遼東を含むも、今はこれに加えず。
     琉球(一八七二年九月一四日)一五六方里九一、台湾(一八九五年五月八日)二三三二方里一〇、樺太
     (一九〇五年九月八日)二〇九六方里〇〇、朝鮮(一九一〇年八月20日)一四一二三方里〇〇、合計
    四三四四九方里四六」
という記事が掲載された(原文は「元号」使用。一方里は約一五・四平方キロ)。ここで、『読売新聞』は、一八七二年九月一四日までは琉球は日本の領土ではなかったとのべている。一八七二年九月一四日は、日本政府が天皇の名で「琉球藩」を設置するという「勅令」を出した日である。
 『大阪朝日新聞』一九一〇年八月二八日号に「韓国併合ニ関スル条約」の内容が掲載されたが、その記事のタイトルは、「韓国処分細目」であった。韓国もまた、琉球と同様に「処分」されたのである(一八八二年には、壬午軍乱後まもなく、日本で、『朝鮮処分纂論(附暴動顛末)』と題する本が出版されていた)。
 朝鮮で抗日義兵がたたかっていた時代に、台湾でもおおきな犠牲をはらいつつ反日抗日闘争が戦いつづけられていた(キム チョンミ「国民国家日本の国境と台湾侵略」、前掲『故郷の世界史 解放のインターナショナリズムへ』三三~七八頁、参照)。
 一九一〇年五月二二日から、台湾北部のタイヤル族ガオガン部の村々を警官隊六部隊(総数一五九〇人)が襲撃した。ガオガン部の民衆は反撃し敵を包囲した。一〇月二七日の攻防戦のなかで多くの原住民が殺害され、敗北した。このときの日本側の死傷者は四八八人であったという。
 『台湾日日新報』一九一〇年八月一三日号に、「討蕃隊情報 宜蘭方面」と題する次のような記事が掲載されている。
     「ガオガンタヤに集合し居たる蕃人はカラホ社、タカワン社、ラハオ社、エヘン社、テイリツク社、ハルツ社、プトノ
    カン社、トル社、カオイラン社の各土目及内灣土目ツタンマライ外蕃丁約二百名にして何れも武装をなし居れり而し
    て左岸蕃は隘勇線を尚ほ前進せらるヽに於ては絶対に帰順せず………」、
     「官はガオガン蕃を包囲し隘勇線を前進し完成の上は兵器全部を引上げ領地を掠奪し老人は海に投じ処女を
    辱しめ壮丁は労役に使役せられ若し之に応ぜざれば残殺に処せらるべしとの事なるに依り帰順せざることヽなり
    しなり云々右の申告……」。
 『大阪朝日新聞』一九一〇年九月七日号の「討蕃隊近状」と題する記事には、「彼等が勇猛なる一例を挙ぐれば敵に後を見せざる風習を保ち戦場に死体を遺棄する事を為さず電光石火の裡に立ちて克く味方の死体を収容し後方に持去る……」と書かれている。

 一九一〇年一〇月一日、日本政府は韓国統監府を朝鮮総督府に改組し、陸軍大臣寺内正毅を陸軍大臣のまま朝鮮総督にした。朝鮮総督は、朝鮮における行政・立法・司法・軍事の全権を握っていた。
 一〇月五日に、ポルトガルで王制が打倒された。
 一二月一〇日から東京で、「大逆事件」の大審院公判が非公開で開始された。
一九一一年一月一八日、幸徳秋水ら二四人に死刑判決がだされた。一審即決だった。翌日、天皇恩赦という形式で坂本清馬ら一二人が無期懲役に減刑されたが、一月二四日に幸徳秋水、内山愚童、大石誠之助、森近運平、宮下太吉、古河力作、奥宮健之、成石平四郎、新美卯一郎、松尾卯一太、新村忠雄の一一人が東京監獄で絞首され、翌日二五日に管野スガが絞首された。
 二月一二日に義兵隊長姜基東が北間島に移動中、元山で捕えられ、四月一七日にソウルで銃殺された。

 日本の韓国併合は、朝鮮における抗日義兵戦争のさなかにおこなわれた。
 朝鮮駐箚軍司令部編『朝鮮暴徒討伐誌』(一九一三年三月)では、一九〇六年五月から一九一一年一二月の間に、日本軍守備隊が「殺戮」した「暴徒」は一万三八七九人、憲兵が「殺戮」した「暴徒」は三五七一人、警察官が「殺戮」した「暴徒」は三二九人、総数一万七七七九人で、日本側の死者総数は一三六人であったとされている。
 国民国家日本の「韓国併合」は、アイヌモシリ植民地化を起点とするそれまで四一年間の国民国家日本の侵略犯罪のひとつの帰結であり、アジア太平洋戦争を経過して現在にいたる新たな国家犯罪の起点であった。
                                            キムチョンミ
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東アジアにおける一九一〇年 4

2010年02月23日 | 個人史・地域史・世界史
■抗日義兵の時代
 一九〇四年二月八日夜、日本海軍が旅順港のロシア軍を奇襲攻撃し、二月一〇日に、日本政府は、ロシアに宣戦を布告した。
 日ロ戦争開始二週間後の二月二三日、「大日本帝国皇帝陛下ノ特命全権公使林権助」と「大韓帝国皇帝陛下ノ外部大臣臨時署理陸軍参将李址鎔」が「日韓議定書」に調印した。その第四条は、「第三国ノ侵害ニ依リ若ハ内乱ノ為大韓帝国ノ皇室ノ安寧或ハ領土ノ保全ニ危険アル場合ハ大日本帝国政府ハ速ニ臨機必要ノ措置ヲ取ルヘシ……」というものであった。
 五月三〇日、日本の元老会議は、韓国を「保護国」とする「対韓施設要綱」を決定した(五月三一日に閣議決定)。
 八月二二日、日本軍占領下の韓国で、日本政府が、韓国政府に日本人を財政顧問にすることを強要するとともに韓国の外交権をうばおうとする「第一次日韓協約」が調印された。
 一九〇五年一月二二日、ロシア帝国の首都サンクトベテルブルグで、日ロ戦争中止、憲法制定、基本的人権確立などを求めて皇帝の住居に向かう労働者に軍隊が発砲し、おおくの労働者を殺傷した。
 ロシアの大規模艦隊が日本に向かっていた一九〇五年一月末、日本政府は、独島を日本領土とすることを閣議決定し、二月はじめに島根県は独島を島根県に編入した。大韓帝国政府がそのことを知ったのは、一九〇六年三月末であった。
 九月五日、「日ロ講和条約」が調印された(一一月二五日、批准書交換)。ロシア政府は、「日本國カ韓國ニ於テ政事上、軍事上及經濟上ノ卓絶ナル利益ヲ有スルコトヲ承認」するとともに、日本がロシアに代わって遼東半島南部(「関東州」)と「満鉄附属地」を植民地(「租借地」)とすることを承認した。日本政府とロシア政府による自国の領土侵略にかんする不当な約束を、清国政府は日本との「満洲に関する条約」(一九〇五年一二月二二日調印、一九〇六年一月二三日批准書交換)で追認した。
 また、ロシアとの「講和条約」によって、日本は「樺太島」の南半分を植民地とした。この先住民族を無視した侵略国間の条約によって「国境線」とされた北緯五〇度線によって、「樺太島」に住む先住民族の生活圏・労働圏が分断された。
 一一月一七日に、日本政府は、韓国政府の五人の大臣(五賊)に「日韓交渉条約」(「第二次日韓協約」、「乙巳勒約」)を締結させ、大韓帝国から外交権をうばい、日本の「保護国」(植民地)とした。
 一二月二〇日、日本政府は、韓国統監府を設置し、翌日、伊藤博文が韓国統監になった。
 乙未義兵のたたかいをひきついで、一九〇六年五月に忠清南道で、六月に全羅北道、慶尚道、忠清道で抗日義兵が戦いを開始した。
 一九〇七年二月、日本の足尾銅山で労働者が待遇改善、賃上げなどを要求してたたかいを開始したが、軍隊(高崎連隊の三個中隊)が出動し、三六〇人あまりが検挙されて敗北した。その後、夕張炭鉱、幌内炭鉱、別子銅山、生野鉱山でも労働者がたたかいを開始した。
 七月三日、伊藤博文は、一九〇七年六月の「ハーグ密使事件」に韓国皇帝高宗が関与した「責任」を追及した。退位を迫られた高宗は、七月一九日に譲位の詔勅を発表し、翌日、高宗の一男純宗が韓国皇帝となった。
 七月二四日、「第三次日韓協約(丁未七条約)」が締結され、日本人を韓国の政府官僚にすることが「合法化」され、また非公開で、大韓帝国軍解散と司法権・警察権の日本への「委任」が決められた。
 八月一日、日本政府は、大韓帝国軍を解散させ、皇帝を護衛する小規模な近衛兵としての「近衛歩兵隊及び近衛騎兵隊」に再編する策動を開始した。その直後から、大韓帝国軍将兵の一部は、一九〇六年からたたかいつづけられていた義兵闘争に合流していった。
 抗日義兵闘争は、拡大した。韓国駐剳軍(日ロ戦争開始直後から韓国に常駐していた日本軍)が、抗日義兵闘争をおさえようとして、義兵の根拠地と判断した朝鮮各地で住民を殺傷し、村を焼き、略奪をおこなった。
 抗日義兵は、たたかいのなかで、多くの檄文を発した。たとえば、一九〇八年に、湖南義兵将金東晩は、「昨秋八月ヨリ今年九月ニ至ル迄汝等ノ死傷スル者多ク吾等ノ死傷スル者亦少カラス」、「天地汝ヲ悪ミ……我ヲシテ兵ヲ起シ義ヲ唱ヒ汝ヲ滅セシム汝滅亡セント欲セバ則チ我ニ対シテ接戦セヨ汝若シ保存セント欲セハ則チ撤還シテ東帰セヨ」という檄文をだしている(「日人ニ檄ス」、『秘 暴徒檄文集』〈緑蔭書房、一九九五年五月〉)。
 一九〇八年一二月一八日に、東洋拓殖株式会社が設立された。天皇も株を所有するこの株式会社は、朝鮮人から土地をうばい、うばった土地で地主的農業経営をすすめた。
 一九〇九年一〇月二六日、安重根が伊藤博文をハルビンで銃殺した。
                                             キムチョンミ
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東アジアにおける一九一〇年 3

2010年02月22日 | 個人史・地域史・世界史
■甲午農民軍・乙未義兵・義和団・活貧党の時代
 一八九四年(甲午年)二月一五日、全琫準らが農民軍を組織して全羅南道古阜で烽起し、六月一日に全州城を占拠した。農民軍を鎮圧するために朝鮮政府は清国に軍隊派遣を要請し、六月五日に清国軍が朝鮮中部西海岸の牙山に上陸した。農民軍の基本主張は、「済世安民」・「逐滅洋倭」・「尽滅権貴」であった。
 朝鮮政府は日本軍派遣を要請しなかったが、日本政府は六月二日に朝鮮への八千人の派兵を決定し、六月一〇日に海軍陸戦隊を朝鮮の首都漢城に侵入させた。
 六月一一日に朝鮮政府は、農民軍の弊政改革案を受諾して「全州和約」を結んだ。清と日本の武力介入を回避するために農民軍が全州城を撤退したので、朝鮮政府は清と日本に軍隊撤兵を要請したが、清も日本も受け入れなかった。
 七月二三日、日本軍が朝鮮王宮(景福宮)を占領した。この時の日本公使大鳥圭介は、「箱館戦争」のとき榎本武揚グループの一員で、逮捕拘禁ののち、榎本釈放のすこしまえに釈放され、「開拓使」の官僚になっていた。
 七月二五日、牙山湾に近い豊島沖で、日本の艦船と清国の艦船が戦闘し、日本は八月一日に清国に宣戦布告した。以後、数か月間、朝鮮が清日戦争の戦場となった。
 日本軍は、朝鮮で食料・物資・馬などをうばいつつ戦争を継続した。朝鮮民衆は、日本軍の徴発に抵抗した。
 この年秋、農民軍は、朝鮮南部でふたたび、たたかいを開始した。日本軍が南下し、圧倒的な武力で農民軍に敵対した。清日戦争のさなかであった。農民軍は敗北した。全琫準は捕らえられ、一八九五年三月に処刑された。
 一一月二一日午後旅順を占領した日本軍(乃木希典を師団長とする第一師団の歩兵第二連隊と歩兵一五連隊と歩兵二四連隊。総責任者大山巌)は、以後数日間、民家に侵入して住民大虐殺をおこなった。一八九六年に建てられた犠牲者を追悼する「万忠墓」の裏面には、「官兵商民男婦被難者一萬八百餘名」と書かれている。当時、日本のマスメディアはこの大虐殺をほとんど報道しなかったが、イギリスやアメリカ合州国の新聞は報道した。清日戦争後、一八九六年一〇月から乃木稀典は台湾総督となった(一八九八年二月まで)。
 一八九五年三月三〇日に清国と日本は停戦し、四月一七日に講和条約が調印された(五月八日、批准書交換)。
 この条約で、清国は、日本に台湾と澎湖諸島の支配権をわたした。日本政府は、ただちに台湾総督府を設置し、五月末に日本軍を上陸させた。以後、数十年間、日本軍と警察は、台湾各地で残虐な犯罪をおこなった。台湾の漢族も原住民も持久的にたたかいつづけた。
 この年一〇月八日、駐朝鮮日本公使三浦梧楼(日本陸軍中将)を首謀者とする集団が朝鮮王宮に侵入し、国王高宗の妻(王后閔氏。一八九七年に明成皇后と改称)や宮内大臣らを残虐な方法で殺した。その集団の中心に、竹橋烽起のさいの背反者岡本柳之助がいた。
 この年(乙未年)一二月、忠清北道、京畿道、慶尚北道などで、義兵が日本軍や政府軍との戦闘を開始した。乙未義兵のたたかいは朝鮮各地に拡大し、翌年秋までつづけられた。
 一八九六年四月一日に、日本政府は、北海道と台湾にかんする「諸般の政務」を「管理」する拓殖務省を新設した。この年三月三〇日付けでだされた「拓殖務省官制」の第二条では「拓殖務省大臣は、台湾総督及び北海道長官を監督す」とされ、拓殖務省には、「北海道に関する事務を掌る」北部局と「台湾に関する事務を掌る」南部局とが置かれていた。このことは、当時、日本政府が明確に、北海道と台湾を日本南北の植民地だと認識・規定していたことを示している(同年に発行された『第一五回日本帝国統計年鑑』には、「日本帝国」の地域分類に「台湾及び北海道」という項目がつくられ、一九一〇年発行の『第二九回日本帝国統計年鑑』には、「北海道」、「台湾」、「樺太」に新たに「朝鮮」という項目が加えられている)。
 一八九七年一〇月一一日、朝鮮国の国名が大韓帝国に変えられ、一二日に高宗の皇帝への即位式がおこなわれた。
 一九〇〇年六月はじめ、清国の民衆組織義和団の反侵略運動に敵対する日本・ロシア・ドイツ・フランス・イギリス・アメリカ合州国・イタリア・オーストリア八か国の軍隊が連合して清国に侵入した。連合軍兵士総数は二万人弱で、日本兵が四割(約八〇〇〇人)だった。連合軍とともに北京に侵入した日本軍は他国軍に先駆けて約三〇〇万両の馬蹄銀や三〇万石以上の玄米などを略奪した。それ以後、一九四五年八月まで、日本正規軍が中国から消えることはなかった。
 朝鮮で、甲午年(一八九四年)の農民軍のたたかいを継承して一九世紀末から運動をすすめていた活貧党は、一九〇〇年一〇月ころ、「大韓四民論説一三条目」を政府に要求した。活貧党は、土地の均等分配、コメの日本への飢餓輸出禁止、外国商人の市場への出入り禁止、外国人に鉄道敷設権を譲渡しないことなどを求めていた。
                                          キムチョンミ
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東アジアにおける一九一〇年 2

2010年02月21日 | 個人史・地域史・世界史
■国民国家(「臣民国家」)日本の形成と侵略犯罪
 北海道は、国民国家日本の最初の植民地である。
 日本政府が、アイヌら北方諸民族の大地であった地域の一部を北海道と名づけてからほぼ一か月後、「開拓使」は、
     「北海道ハ皇国ノ北門山丹満州ニ接候場所ニテ開拓ハ方今ノ重事件ナリ依之第一土人ヲ愛恤移住ノ民ヲ撫育シ
    高山遐陬ノ隈迄モ開拓致シ……」
という布達をだした。北海道は天皇の国の「北門」だから、これからは、「土人ヲ愛恤」し、和人をすみずみに送りこんで「開拓」させるというのである。
 さらに「開拓使」は、この年一二月に、「移民扶助規則」、「北海道在住令」、「山林荒蕪地払下規則」をだし、一八七二年に、「北海道土地売貸規則」と「北海道地所規則」を施行した。
 日本政府は、急速に土地略奪の法整備をすすめ、アイヌの大地を、天皇一族、「華族」、「士族」、「平民」に分配していった。侵入してくる大量の和人植民者によって、アイヌの大地も川も山も海も荒らされた。
 一八七一年五月二二日に、日本政府は、「全国人民ノ保護」を口実とし、「人民」のすべてを住居地にむすびつけて把握しようとする戸籍法を布告した。その四か月あまりのち、一〇月一二日に、日本政府は、「穢多非人等ノ称」を廃止するという「布告」(「賎称廃止令」)をだした。この法令によって、「穢多非人等」が「平民」とされ、「臣民」のなかにふくめられた。「賎称廃止令」は、被差別部落民を解放するためではなく、統一的に「全国人民」を把握し管理支配するための基礎台帳を作成する事前策であった。
 一九七二年二月一日から日本政府は、戸籍簿(「壬申戸籍」)の編成を開始した。一八七三年ころから「開拓使」は、アイヌに日本戸籍を強制し、アイヌを日本の「平民」に加えはじめた。
 戸籍簿作成を前提にして、一八七三年一月一〇日に、太政官は、「徴兵令」を布告した。
 一八七四年四月五日に、日本政府は、「台湾蕃地事務局」を設置した。大隈重信が「台湾蕃地事務局長官」になり、陸軍中将西郷従道が「台湾蕃地事務局都督」になった。翌五月はじめに、西郷従道が指揮する日本軍が台湾に侵入し、五月下旬から「牡丹社」などの村落を襲い住民虐殺をはじめた(「台湾蕃地処分」)。台湾原住民族は武装してたたかった。「台湾蕃地処分」は「琉球処分」の五年前であった。西郷従道は、一八八二年一月一一日に、黒田清隆に替わって「開拓使」の長官になった(同年二月八日「開拓使」廃止)。
 一八七五年五月七日に日本政府とロシア政府は「千島樺太交換条約」を締結した。これは、日本が「クナシリ島」からカムチャツカ半島南端沖の「シュムシュ島」までの「千島列島」全域を植民地とし、ロシアが「樺太島」全域を植民地とすることを、相互に承認しあう侵略国間の条約であった。この条約に調印した榎本武揚は、「開拓使」の四等官であった。
 その四日後の一八七五年五月一〇日に品川沖を出港した日本の軍艦「雲揚」は、五月二五日に無許可で釜山へ入港し射撃演習などの威嚇行為をおこなったあと、九月に朝鮮の首都に近い江華島海域に侵入した。「雲揚」は長州藩が一八七〇年二月にイギリスから購入し、一八七一年七月に新政府に渡された木造の小型砲艦(長さ三七メートル)であった。
 侵入してきた日本軍艦を、九月二〇日に朝鮮軍は江華島砲台から砲撃した。翌日、「雲揚」は、艦砲射撃をおこなった。「雲揚」から江華島南方の永宗島に上陸した日本兵は、朝鮮軍兵士ら三五人を殺害し、民家をふくむ建物を焼き、略奪をおこなった。
 その五か月後、日本政府は、ふたたび江華島海域に「雲揚」を侵入させ、軍事的威嚇をおこないつつ、一八七六年二月二七日に、江華府練武堂で朝鮮政府に不平等条約(「朝日修好条規」)を調印させた。
 この条約に日本の全権代表として調印した黒田清隆は、このとき「開拓使」の長官(アイヌモシリ侵略日本政府機関の最高位官僚)であった。一八七六年七月に、「開拓使」は、アイヌに「創氏」と「改名」強制しはじめた。日本に住むすべてのアイヌの戸籍名は、日本式姓名とされた。
 一八七七年に日本政府は「北海道地券発行条令」をだし、アイヌの土地をすべて「官有地」とした。
 徴兵令施行五年半後、一八七八年八月二三日深夜、東京の竹橋に駐屯していた近衛砲兵大隊の兵士二〇〇人あまりが烽起し、大蔵卿大隈重信(前「台湾蕃地事務局長官」)の公邸を砲撃し、天皇が住んでいた赤坂離宮に向かった。だが、数時間後に敗北した。一〇月一五日、日本政府は、烽起に参加した五三人を銃殺した(さらに翌年四月、二人を処刑)。この烽起以後、日本兵が組織的に反乱したことはない。
 一八八二年一月四日に、「軍人勅諭」(「陸海軍軍人ニ賜ハリタル敕諭」)が発表された。
 一八八四年(「自由自治元年」)一一月一日、埼玉県秩父郡で、三〇〇〇人あまりの農民とともに秩父困民党が決起したが、短期間で敗北した。
 その翌月一二月四日、朝鮮で、金玉均・朴泳孝らが日本の武力に依拠してクーデタを企図したが失敗し、一二月六日に日本公使館に逃げこみ、日本に「亡命」した(「甲申政変」)。
 一八八九年二月一一日に、「大日本帝國憲法」が発布され(一八九〇年一一月二九日施行)、
 翌年一〇月三〇日に、「教育勅語」(「教育ニ関スル勅語」)が発表された。
 国民国家日本は、アイヌモシリ植民地化、琉球王国植民地化、台湾侵略、朝鮮侵略の過程で、軍備を増強し、経済基礎構造を建築・強化していった。国民国家日本の権力者は、「軍人勅諭」や「教育勅語」などを使って侵略犯罪を実行できる日本国民(「臣民」)を形成していった。
 「富国強兵」、「殖産興業」は、国民国家日本の他地域・他国侵略のための基本戦略であり、国民国家日本は、他地域・他国侵略の過程で、「富国強兵」、「殖産興業」を実現していった。
                                           キムチョンミ
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東アジアにおける一九一〇年 1

2010年02月20日 | 個人史・地域史・世界史
 季刊誌『飛礫』65号(2010年冬号。2010年2月1日、つぶて書房発行)に掲載されたキム チョンミ「東アジアにおける一九一〇年」を6回に分けて連載します。
           ■アイヌモシリ植民地化開始後一四〇年
           ■国民国家(「臣民国家」)日本の形成と侵略犯罪
           ■甲午農民軍・乙未義兵・義和団・活貧党の時代
           ■抗日義兵の時代
           ■一九一〇年
           ■二〇一〇年

■アイヌモシリ植民地化開始後一四〇年
 日本政府は、一八六九年八月一五日に太政官の部局として「開拓使」を設置し、八月二九日にアイヌモシリの「開拓」を志願する「諸藩士族及庶民」に土地を渡すという太政官布をだし、九月二〇日にアイヌモシリの一部を「北海道」と名づけ、アイヌモシリ植民地化を開始した(キム チョンミ「アイヌモシリ侵略と国民国家日本の形成」、『故郷の世界史 解放のインターナショナリズムへ』現代企画室、一九九六年、二一~三三頁、参照)。
 日本政府は、一八七一年八月二九日、「廃藩置県」をおこなった。このとき、日本政府は、薩摩藩が支配していた琉球王国や奄美諸島も、鹿児島県(日本の領土)としていた。
 翌一八七二年九月一四日、日本政府は、琉球王国を鹿児島県からきりはなし「琉球藩」と名づけた。このとき奄美諸島は、鹿児島県内に残された。奄美諸島は、一五世紀後半からに琉球王国に占領支配されていたが、一六〇九年四月に薩摩藩の軍隊が琉球王国に侵入してからは薩摩藩に直接支配されていた。
 琉球王国は、鹿児島県に組み入れられることはもちろん、「琉球藩」とされることも拒否していたが、一八七九年三月、日本政府は、内務大丞松田道之らを「琉球藩処分官」として警官・兵士約六〇〇人とともに、琉球王国に送りこみ、二七日に、琉球王国を滅亡させて「沖縄県」を設置し、ウルマネシア植民地化を開始した(「琉球処分」)。
 「琉球処分」の五年前、一八七四年に日本政府地誌課がつくった「皇国全図」には、「北海諸州」と「琉球群島」が「皇国」の領域にふくめられていた。
 「日清戦争」後、一八九五年に、日本は、宮古島と八重山地域(石垣島・竹富島・小浜島・黒島・新城島・西表島・由布島・鳩間島・波照間島など)と与那国島を沖縄県に組みこんだ。
 ことし(二〇〇九年)は、薩摩藩のウルマネシア侵略開始後四〇〇年、国民国家日本のアイヌモシリ植民地化開始後一四〇年、国民国家日本の「琉球処分」後一二〇年の年である。
                                         キムチョンミ
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千炳台さん 3

2010年02月19日 | 紀州鉱山
 2月3日朝、千鳳基さんに電話し、自宅で話を聞かせていただくことにしました。
 安東市内から、洛東河右岸沿いの道をさかのぼってから山道に入り、りんご畑のなかの農道をしばらく行った丘の中腹で家を探していると、千鳳基さんが通りまで出てきてくれました。
 千鳳基さんの家は、りんごの樹に囲まれ、牛小屋にはよく手入れされた赤毛の牛が3頭いました。
 千炳台さんが遺骨となって故郷にもどってきたとき、千鳳基さんは小学校一年生だったそうです。
 千鳳基さんの家をでて、来たときと反対の方向に進み、山道をぬけ、低い峠を越えてすこし行くと、千炳台さんの墓のある丘にでました。

 千炳台さんは、1944年5月7日に紀州鉱山に強制連行され、3か月もたっていない1944年8月1日に亡くなっています。
 その死因を確かめるには、埋火葬許認可書を閲覧することが必要です。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1998年11月16日の第4回紀州鉱山「現地調査」のとき、紀和町の助役と教育長に口頭で、千炳台さんの埋火葬許認可書の閲覧を求めました。  
 さらに、2003年7月21日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、紀和町役場で、千炳台氏の埋火葬許認可書の閲覧を求めました。紀和町役場がそれを拒否したので、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2003年11月22日付で、紀和町に、公文書公開条例にもとづき千炳台氏の埋火葬許認可書の閲覧を求める文書をだしました。
 紀和町が、その閲覧を認めないまま、2005年11月に紀和町は熊野市に併合されました。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2006年1月16日に、千炳台さんを含む紀州鉱山で亡くなった朝鮮人と考えられる39人について、熊野市に、埋火葬許認可書の閲覧を求める文書をだし、その後何度も埋火葬許認可書の閲覧を求めてきました。しかし、熊野市は、それらの文書はないといって、閲覧を拒否し続けています。
 1998年9月20日の『中日新聞』朝刊(牟婁版)に、「戦時中の紀州鉱山で“逃亡”の男性  紀和町 韓国の戸籍で“死亡”の記述  市民団体の調査で判明」という見出しで、つぎのような記事が掲載されています。

    「第二次世界大戦中、多くの朝鮮人労働者が働いていたとされる紀和町の紀州鉱山。
     その隠れた歴史を調べている市民団体「紀州鉱山の真実を明らかにする会」が鉱山で働いていた朝鮮人の
    名簿をもとに「逃亡した」とされる男性を訪ねて韓国まで会いに行ったところ、韓国に保管されていた戸籍では
    紀和町で死亡したと記録されていた。
     同会は……これまでの調査で、日本政府が韓国政府に提出した名簿「朝鮮人労働者に関する調査のこと」を
    入手した。
     名簿には紀州鉱山で働いた朝鮮人労働者の氏名や出身地、生年月日などが記され、終戦までの四年間で
    延べ八百七十五人が働いていたことが判明した。
     また、「逃亡」「帰国」などと鉱山を出た理由も記述されており、生存者を探して、当時の状況を聞き取り調査する
    ことにした。
     八月下旬、金代表ら五人が韓国慶尚北道安東郡を訪れた。
     名簿では一九四四年五月から約三か月間、鉱山で働いたが、逃亡したとされる男性を訪ねた。
     ところが、本籍地の役所で戸籍を見せてもらったところ、上川村大河内(現紀和町)で二十七歳の時に死亡届を
    受理していた。
     戸籍によると、死亡したのは八月一日で、死亡届が出されたのは翌日の二日。
     名簿では「八月二日に逃亡した」とされていた。

 1917年12月6日生れの千炳台さんは、1944年5月7日に紀州鉱山に強制連行されたとき、26歳5か月で、亡くなったとき26歳8か月になっていませんでした。
 日本に強制連行されるまえの千炳台さんを知っている千ヨンギさんも千鳳基さんも、千炳台さんは、背の高い元気な人だったと言っています。
 紀和町小栗須の慈雲寺の本堂に置かれている「紀州鉱業者物故者諸精霊」と書かれた箱に『紀州鉱業所物故者霊名』と題された書き物が入れられています。それには、紀州鉱山で死んだ人たち423人の名が記されており、そのうち朝鮮人と推定・断定できる人は、12人です。そのなかに「子炳台」と書かれた人がいますが、千炳台さんのことだと思われます。
 「子炳台」という名がどうして『紀州鉱業所物故者霊名』に書かれているのか、その理由ははっきりしていません。
 また、石原産業株式会社が1955年につくった『従業物故者 忌辰録』(1955年10月10日現在調)という「会社創業以来の物故者」の名簿があり、1269人の名前と死亡年月日が記載されています。その66頁に、千炳台さんの名があり、1944年8月2日に「病没」したと書かれています。韓国にある戸籍簿では、千炳台さんが亡くなった日は8月1日であり、8月2日は死亡届が出された日となっています。
 千炳台さんについて、石原産業は、「紀州鉱山1946年報告書」では8月2日に「逃亡」したことにし、『従業物故者 忌辰録』では同じ8月2日に「病没」したとしています。
                                          佐藤正人
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