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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「サルモン岬」 10

2010年11月30日 | 海南島史研究
 11月10日に掲載した「サルモン岬」5に書きましたが、「第103震洋隊」の指揮官だった益田義雄氏は、その著書『還らざる特攻艇』(1956年、鱒書房)で、「第103震洋隊」のあった地域を、「サルモン岬」あるいは「猿門山」などとし、「私ら第103震洋隊の駐屯したサルモン半島には、約二百名の民が平和な生活を送っていた」、「キャッキャッと付近で猿がさけぶ。この地が猿門と呼ばれる理由はこの猿が原因で、小さいモンキー猿である」と書いています。
 しかし、「第103震洋隊」基地周辺地域には、野生の猿は当時もいまも住んでいません。「第103震洋隊」基地跡から2キロほど離れた三亜市鹿回頭村(現、兄弟村)に生まれ育った羅煥高さん(1938年生)は、猿をここで見たことはないと話していました。

 「第32震洋隊」の基地は、現在の陵水黎族自治県新村鎮石頭村につくられていました。
 その地域には、むかしから野生の猿がたくさん住んでおり、いまは、南湾猴島南湾自然保護区とされています。
 「第103震洋隊」に所属する益田義雄氏は、「第32震洋隊」基地に行ったとき、「キャッキャッと付近で猿がさけぶ」風景を見たことがあるのかも知れません。かれは、日本に戻ってから、その風景の場所を「第103震洋隊」基地の場所と混同錯覚し、さらに「サロモン」を「サルモン」をしたうえで、「サルモン」に「猿門」という漢字をあてはめたのだろうと思われます。
 この問題は、ささいな錯覚という問題ではなく、海南島に侵入した日本軍人の思想と感性にかかわる問題だと思います。海南島の地名が日本語でないことを自覚していれば、そこに猿が住んでいようといまいと、「サルモン」という海南島の地名に、日本語を当てはめることはできなかったでしょう。

 「第32震洋隊」に所属していた人たちは、日本に戻ってから「三二震洋会」という会をつくりました。事務局長は、「第32震洋隊」の隊長だった大沢芳夫氏でした。「三二震洋会」は、1985年4月に、大沢芳夫氏が執筆した『第三二震洋特別攻撃隊』を出版し、1988年5月に、はじめて海南島に行き、さらに、その11年後の1999年2月に再訪しました。そのとき、大沢芳夫氏は、「南湾嶺麓住民の皆様へ」という文章を発表しようとしました。そこには、
    「私達は太平洋戦争末期の1945年2月から約1年間、旧日本海軍の震洋特攻
   隊員として南湾嶺麓の基地に駐留していた者です」。
    「私達にとって海南島は終生忘れることのできない思い出の地であると同時に、
   その過程で現地住民に大変ご迷惑をおかけしたことに対する贖罪意識を引きずっ
   ている所なのであります」。
と書かれていました。
 この文章の漢語訳文を大沢芳夫氏は、住民に手渡そうとしましたが中止しました。その内容は2年近くたってから、『海南日報』(2000年12月22日号)に、「侵華日軍老兵向新村人道歉 為50多年前日本“震洋特攻隊”給当地人民造成的苦難贖罪」と題して紹介されました。その数年後、大沢芳夫氏は亡くなりました。
                                      佐藤正人
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李西根さんの証言 3

2010年11月29日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 船は、三亜から広州に寄った。そこでも朝鮮人が乗った。1000人くらい乗った。広州からは慰安婦の女性たちも乗った。
 広州から乗った朝鮮人の総責任者は、崔徳新だった。「朝鮮士兵集訓総隊」と書いたのぼりを持って乗ってきた。広州から「朝鮮士兵集訓総隊」の人たちが乗船する前に、崔徳新とは何回も会議をした。
 船に乗っていた舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の隊員が44人いた。44人のほかに朝鮮航空の2人をいれて、46人全員の名簿をつくった。名簿の最初に「舞特会」と書き、各自の住所などを書いた。
 釜山に着くころ船の中でコレラが発生し、収まるまで上陸できなくなった。1か月ほど、船のなかで待っていた。上陸したのは、4月24日だった。
 韓国は分断されていた。38度線を越えたら、ロシア兵につかまった。背嚢を調べられた。葉巻を10本、全部とられた。「舞特会」の名簿が何かの組織の名簿だと思われ、逮捕され、海州の刑務所にいれられた。1か月ほどいれられた。名簿は没収されてしまった。
 平安南道安州の家についたのは6月だった。母は、毎日、駅に行ってわたしの帰るのを待っていたという。
 帰ってから10日もたたないときに、郡人民委員会の人が来て、明日出頭しろと言った。行ったらロシア軍の大尉がいた。女医だった。ウラジオで4年間日本語を学んだ人だった。その助手をやれと言われ、それから安州の村を病人がいないか調査して回った。そのとき、帰国するとき広州から乗った女性に再会した。わたしより2歳年上の人だった。
 2か月ほど、ロシア兵の行動や人民委員会のやりかたをみていると、自分はここでは生きておられないと思った。南に行くことにした。平壌駅にいくと、小学校のときの同級生に出会った。かれが鉄道警備の仕事をしていたので、汽車の切符を買ってもらうことができた。
 歩いて38度線を越えた。
 日本に行こうと考えて釜山に行った。そこで所持金を盗まれてしまった。
 ソウルに行き、親戚の商売の手助けをしたが、1948年に韓国軍ができたとき、海兵隊の幹部候補生になり、1950年1月14日に海軍少尉になった。
 韓国戦争が始まった6月25日には、済州島にいた。
 1950年に、4日前(11月23日)北の軍隊が砲撃した大延坪島の韓国軍の部隊長になった。
 1969年3月30日に退役し、その年の6月にベトナムのダナンに行って技術訓練所の所長になった。3年間いた。
 最初1人で南に来たが、あとから3人の弟が来た。両親とあとの兄弟は、故郷に残った。
 両親に会えないまま、64年がすぎた。
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李西根さんの証言 2

2010年11月28日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 すぐに海南島に行く船がなくて、1か月ほど、タンソンニャットにいた。
 タンソンニャットからサイゴンに行き、ちいさな中国のジャンクに乗って海南島に向かった。50人くらい乗っていた。4、5日かかって、海南島の三亜に着いた。
 三亜から汽車で、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊司令部のある那大に行った。那大に到着したのは、1944年12月だった。正月を那大で過ごしたのを覚えている。
 当時、海南島には、3個陸戦隊、2個警備隊があった。舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊、横須賀鎮守府第4陸戦隊、佐世保鎮守府第8陸戦隊、海南15警備隊、海南16警備隊。それを、3陸2警といった。3個陸戦隊、2個警備隊という意味だ。
 3個陸戦隊、2個警備隊を統括する司令部の司令官の名は、伍賀だった。海南島は、海軍の陸戦隊が占領していた。
 舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊は、舞特と言った。舞特には、朝鮮人が44人いた(歩兵が38人、主計兵が4人)。そのうち那大の本部にいたのは15人で、あとは分遣隊に行った。
 わたしは那大では、機動部隊にいた。武器は、機関銃、迫撃砲、擲弾筒、空冷銃があった。迫撃砲は4人でかついで走った。
 武器の使い方は、海南島で学んだ。
 銃をじっさいに使ったことがある。五指山のふもとに討伐に行ったときだ。交戦して、そのとき使った。
 討伐には、1個中隊で行った。そのうち、朝鮮人は2、3人だった。
 日本軍はすぐには撃たない。敵が撃ってきたら、撃つ。
 討伐に行ったのは2回だけ。交戦したのは2回だけ。戦死した者も負傷した者もいなかった。
 中国側はわからない。竹で作った掘ったて小屋みたいな家がいくつかあったが、兵隊小屋のようだった。2、30人いたようだ。黒い服を着ていて、小銃を持っていた。
 雨がはげしく降って、撤退した。
 討伐に行くと、3、4日かかる。五指山のふもとまで軍用車で行って、歩いて山に入る。道路状況がよくなくて、車では入れず、歩く。夜は、露営だ。
 わたしは、那大と澄邁を行ったり来たりした。澄邁には約2個中隊が駐屯していた。わたしは、澄邁には、1か月近くいた。
 1945年7月に東山分遣隊に行った。
 東山分遣隊の兵士は30人で、韓国人はわたしひとりだった。
 東山分遣隊で、わたしは、歩哨をやった。抗日軍の襲撃はなかった。近くにちいさな村があり、その村の名前が東山。村の近くに古城があった。
 村を巡察することもある。巡察に廻るときは、下士官2名。武装している。
 村民は、日本人か朝鮮人かわからない。朝鮮軍人はわからない。台湾人もいたが、兵士ではなく巡警だった。5人くらいいた。
 山の頂上に分遣隊の望楼があり、すぐ近くに宿所があった。望楼は3階建てで、石でつくってあったように思う。一番上には銃座があった。
 水は、井戸があってポンプでくみ上げていたように思う。主計兵が食事を作り、水をくみ上げた。
 東山にいるとき、日本が敗けた。東山の軍事施設を中国軍に引き渡して、そこにいた人たちがそのまま、加来に行った。加来には2か月いた。加来には飛行場があった。
 澄邁で武装解除されたと思う。キチットした軍服を着た中国軍の将校が来て、200人くらいを並ばせ、1人ひとりに銃や弾薬を提出させた。
 日本が敗けたあと、日本軍は、海口、瓊山、三亜の3か所の収容された。舞鶴第1特別陸戦隊と15警備隊は瓊山と海口の収容所にいれられた。台湾人の巡警は収容されなかった。
 わたしは瓊山に行った。瓊山では、中国軍が瓊山師範学校を接収して、収容所にしていた。
 収容所は、朝鮮人、日本人はいっしょだったが、朝鮮人の区域と日本人の区域は別で、鉄条網で仕切られていた。日本人が入れないようにだ。日本人は外出できなかったが、朝鮮人は自由だった。
 外出したかったら、外出願いを出した。わたしは朝鮮人の責任者だった。わたしが外出願いを中国軍の大尉に出し、サインをもらった。
 日本軍の司令官らも瓊山に収容されていた。そこに行き、伍賀中将に会った。1946年の1月か2月はじめだった。伍賀に会いに行ったとき、ベトナム沖で沈没した勝浦丸に乗っていた暗号解読の日本人女性の1人に再会した。この女性は、船が沈没しかかっているときにおびえて船から海に飛び込めずにいたので、わたしが飛び込ませた人だった。わたしが救助された第18海防艦とは別の船に救助されたらしい。
 わたしは、伍賀に、日本軍は3月に戻るのに、なぜわれわれはすぐに韓国に帰国できないのか、早く帰国できるようにしろ、と言った。伍賀は、復員計画にしたがって帰ることになっている、朝鮮人も1か月後には戻るから待て、と答えた。
 不安だし、信じることもできず、わたしは、すぐに帰国できないなら半年分の食料を渡せ、と言った。食料は、よこした。日本軍は、食料を持っていたから。
 韓国に戻るとき、瓊山に終結した人たちもいったん海口に行き、海口に終結した人たちといっしょになった。
 4月はじめに船に乗った。船は、リバティ号だった。
乗る前に中国軍の検査を受けた。毛布1枚、上着1枚、ズボン1枚、シャツ2枚、パンツ2枚、タバコなどを持って船に乗った。
 日本の軍人は1か月前に帰っていた。
 船は海口を出てから南下して、楡林に行った。楡林で、海南島の南にいた韓国人が楡林に集まっていた。その人たちが楡林で船に乗った。
 この船でいっしょに戻ったのは、軍人、一般人、徴用された人たちだった。舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の軍人は44人だった。
 鎮海から海南島に向った海軍志願兵は第1期だけで698人で、第2期、第3期を合わせると1000人以上だったが、途中船が沈没し、海南島に着いてからも死んだ人がいて、帰る船に乗っていたのは、全部で150人ほどだった。
 海南島から乗った女性は28人か30人で、慰安婦ではない女性たちだった。仲居、日本人と結婚した朝鮮人の女性など、ほとんどが日本から海南島に行った女性だった。復員計画にしたがって、日本に住んでいた人でも、朝鮮人は、朝鮮に戻った。
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李西根さんの証言 1

2010年11月27日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 きょう(11月27日)、ソウルで李西根さんに再会し、話を聞かせてもらいました。
 以下は、前回(10月5日)の証言と今回の証言を重ね合わせた記録の要約です。
 このブログの、10月5日の「金永振さんと李西根さん」と10月21日・22日の「海南島の朝鮮人兵士」11・12を参照してください。
                                佐藤正人


 平安南道安州で生まれ育った。
 1943年秋に、安州で海軍特別志願兵の試験を受けた。当時わたしの父が経済犯でつかまっており、わたしが志願しなければ父が商売できなくなるような状況だった。わたしは、男ばかり7人兄弟の長男だ。強制されるよにして志願した。平壌で身体検査と面接審問を受けた。
 “アッツ島はどこにあるか。コレヒドールはどこにあるか。日本海軍をどう思うか”などを聞かれた。
 合格したあと、どうしても行きたくないし、友だちが“どうして日本の海軍に入るのか。逃げたらいいのではないか”と言ったので、ハルビンに逃げようとした。わたしは新聞を読んでおり、アッツ島で日本軍が全滅したことを知っていた。ミッドウェーで日本海軍が大敗したことも知っていた。
 逃げようとする直前、家に警察が来て、鎮海に行くまでは家を出るなと言った。
 10月1日に海軍特別志願兵第一期生として鎮海の特別志願兵訓練所に入って、1944年3月に卒業し、鎭海海兵団に入った。鎭海海兵団は6月30日に卒業した(鎭海海兵団第一期生)。海兵団に入った韓国人は996人だった。
 7月10日に休暇があり、海南島に行く人たちだけ、700人が休暇をもらった。鎭海海兵団団長、海軍大佐さとうくにおの命令だった。2人が事故で海南島に行けず、海南島にいったのは698人だった。
 ほかの300人近くは、舞鶴とか佐世保とかに行った。
海兵隊を組織するとき、配置を決める。海兵隊の訓練が終わったとき、海南島に行くと知った。鎭海にいるときに、海南警備府舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊に配属されていた。
 海南島に行くとき、9月9日に、台湾とフィリピンの間の海で、船が魚雷で攻撃されて沈没した。助かったの300人くらいだった。フィリピンの北サンフェルナンドに上陸した。
 そこから汽車でマニラに行った。マニラで、はじめはカトリック寺院に収容された。 海軍第31特別根拠地隊に配属され、砲術科倉庫の警備兵となった。マニラからバタンガスまで何度か輸送警備した。コレヒドールがあぶなくなったのでフィリピンに残らされそうになったが、海南島の海軍から、海南島に行く予定の兵士を早く海南島に送るようにと要請があったので、海南島に行くことになった。
 11月9日に勝浦丸に乗って海南島に向かった。乗ったのは全部で300人ほどだった。勝浦丸の船倉には仕切りがつくられ、寝場所がつくられてあった。日本の下士官もいたが、ほとんどは朝鮮人兵士だった。そのなかに舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の朝鮮人兵士が52人か53人いた。勝浦丸がどこから来たのかはわからなかったが、海南島に行くという女性が4人乗っていた。暗号士だと言っていた。
 11月11日夜があけてまもなく、太陽がまだ昇っていないころ、ベトナム沖で勝浦丸が魚雷をうけて沈没した。わたしは、船が沈没する前に残っている者がいないか確かめていたので他の人たちより遅く海に飛び込んだ。何かにつかまって4~5時間漂流していたら第18海防艦に救助された。てサイゴンに上陸した。漂流しているとき、海に軍票がたくさん浮かんでいた。勝浦丸は軍票を運んでいたらしい。わたしは100円軍票と10円軍票を何枚かひろった。海防艦に乗ってからそれを煙突に貼り付けて乾かした。
 海防艦でサイゴに着き、サイゴンからタンソンニャットに行った。タンソンニャットにはフランス軍の基地があった。当時フランスは日本と友好関係にあった。フランス軍基地の向かい側に遭難した日本軍人たちの収容所があって、そこにはいった。
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万人義塚

2010年11月26日 | 個人史・地域史・世界史
 金相律さんの住む慶尚北道亀尾市北部の村から金成文さんの住む全羅南道谷城郡梧谷面に行くには、金相律さんの村から善山に出て大邱、大邱から南原、南原から谷城、谷城から梧谷への道が最短です。
 11月24日に金相律さんに話を聞かせてもらったあとすぐ梧谷に向かいましたが南原に着いたら午後9時でした。
 25日朝8時35分発のバスで南原から谷城に着き、前日に約束した時間に梧谷の金成文さんを訪ねました。
 わたしたちは、聞かせてほしいことがたくさんあるのですが、たいていは、2時間ほどで聞きとりを終わることにしています。80歳を過ぎたかたに、60年以上前のことを話してもらうので、特に封じ込めておきたい記憶を話してもらうようなときには、負担をかけてはいけないと考えているからです。
 25日には、金成文さんに朝10時から12時まで話を聞かせてもらいました。
 そのあと、南原にもどりました。
 南原は、甲午農民革命の場であり、抗日義兵戦争の場でした。
 南原で、1597年に1万人あまりの人びと(軍人と住民)が、日本軍によって殺されたといいます。その人たちを追悼する「万人義塚」が1612年につくられました。
 1964年に「万人義塚」は、南原城外の位置に移されました。
 その「万人義塚」を、25日午後、訪ねました。
 「万人義塚」の広い敷地に高さ16メートルほどの石造の「万人義士殉義塔」が建っていました。 
                               佐藤正人
                                
 
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金成文さん

2010年11月25日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 きょう(11月25日)、全羅南道谷城郡梧谷面の自宅で金成文さんに話を聞かせてもらいました。
 金成文さん(1928年4月生)は、“鎮海で日本海軍の特別志願兵として6か月訓練をうけて海南島に行った。海南島に行く途中、船が沈没した。そのときけがをして3か月フィリピンで入院した。海南島では、ナダイ(那大)にいた。蒋介石の軍隊と戦った”と話しました。
                           佐藤正人
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金相律さん

2010年11月24日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 きょう(11月24日)、慶尚北道亀尾市北部の自宅で金相律さんに話を聞かせてもらいました。
 金相律さん(1925年8月生)は、はじめ、“1944年に、結婚してから数か月後に、日本人学校教師などに説得されて、鎮海の日本海軍警備府の第3期特別志願兵となり、海南島に行った。海南島では、‘討伐’に行ったことがある。海南島に行ったのはずいぶん前のことなので、ほとんど覚えていない。部隊の名前も地名も覚えていない”と話しました。
 わたしたちが、佐世保特別陸戦隊、舞鶴特別陸戦隊、横須賀特別陸戦隊、15警備隊、16警備隊を知らないかと尋ねると、“陸戦隊は聞いたことがある。佐世保、舞鶴、横須賀は知らない。警備隊も知らない”とのことでした。
 しばらく話しあっていると、金相律さんは、“鉱山で労務者を監視しているとき、韓国語で話している労働者がいた。聞いてみると、朝鮮報国隊だと言った。みんなわたしより年上だった。重労働をしていた。宿所はわたしの兵舎からすこし離れていた。その鉱山ではインド人も見たことがある”と話しました。
 ‘イシハラ’を知らないかと聞くと、知っているとのことなので、金相律さんが監視していたのは、石原産業が「経営」していた田独鉱山だと思われます。田独地域を「警備」していたのは、日本海軍海南警備府第16警備隊でした。
                             佐藤正人
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金永振さんの証言

2010年11月23日 | 海南島からの朝鮮人帰還

 きょう(11月23日)、ソウルで金永振さんに再会し、さらにくくわしく海南島でのことを話してもらいました。
 日本海軍海南警備府佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の本部で、日本兵が、軍用電話機で電気をおこし、その電気を使って住民を拷問して「尋問」したのを見たことがあるそうです。
                        佐藤正人
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世界史における1910年

2010年11月22日 | 会議
 きょう(11月22日)、ソウルで開かれた「第7回民族宗教協議会国際学術大会」で報告しました。
 国際学術大会の名称は、「庚戌國恥100周年国際学術シンポジウム」で、主題は「庚戌國恥と東北アジア平和の再建」で、わたしに与えられた小主題は「庚戌國恥と日本」です。
 ほかの報告者は、朴成寿さん(小主題、「庚戌國恥と韓国」)、申廈さん(小主題、「庚戌國恥と世界」)、宋成有さん(中国人。小主題、「庚戌國恥と中国」)です。

 わたしは、「世界史における1910年」という題で報告しましたが、はじめに、
     日本は、1896年から国民国家を形成しはじめた。
     国民国家日本の歴史は、他地域・他国侵略の歴史であり、「国恥」の歴史であ
    った。
     日本が大韓帝国を併合した1910年(庚戌年)は、加害国家日本の「国恥年」
    だが、被害国家韓国の「国恥年」ではない。
と述べ、そのことを前提として、国民国家日本の「韓国併合」は、アイヌモシリ植民地化を起点とするそれまでの国民国家日本の侵略犯罪の帰結であり、アジア太平洋戦争を経過して現在にいたる新たな国家犯罪の起点であることを、いくらか具体的に分析し、最後に、国民国家日本の「国恥の歴史」を克服する道として、つぎのように話しました。
 
 国民国家日本の歴史は、他地域・他国侵略の歴史であり、「国恥の歴史」でした。
 帝国主義諸国は、相互に植民地支配権をあらそって戦争することもありましたが、おおくの場合は相互に他の帝国主義国の植民地支配を承認し支持してきました。
 帝国主義諸国の歴史は、「国恥の歴史」でした。
 侵略諸国家・侵略諸民族による他地域・他国侵略の時代は、被侵略諸国家・被侵略諸民族の抵抗の時代でした。
この時代は、終わっていません。
 21世紀になっても、日本の他地域・他国侵略の歴史は終わっていません。アイヌモシリやウルマネシアに対する日本の植民地支配はいまも続けられています。
 国民国家日本の領土拡大と、天皇制の維持・強化は相互に関係しあっています。天皇制を維持していることは、侵略の構造を維持していることです。天皇制温存は、日本民衆がいまだ植民地支配を否定していない証拠です。
 歴史認識深化の過程は、絶えざる歴史意識変革の過程です。
 国民国家日本は、帝国主義諸国の同意・承認がなければ、台湾を植民地化することはできませんでした。
 国民国家日本は、1905年7月29日の「桂・タフト覚書」、8月12日の「第2次日英同盟」を前提としなければ、11月17日に韓国政府の5大臣に「保護条約」に調印させ、大韓帝国を日本の「保護国」(植民地)とすることはできませんでした。
 大韓帝国植民地化という国民国家日本の侵略犯罪は、1910年を世界史のなかで把握することによって、その歴史的本質を明らかにすることができるのだと思います。
 本日、1910年の100年後に、わたしは、日本民衆のひとりとして、国民国家日本の侵略の構造を破壊するアジア民衆の共同の運動である第7回民族宗教協議会国際学術大会に参加させていただいたことを感謝します。
                                       佐藤正人
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紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集会

2010年11月21日 | 集会
 ことし(2010年)3月28日に、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を除幕する集いを開きました。
 この日、追悼碑の前に置かれた、そのときまでに知ることができた紀州鉱山で亡くなった35人の名を記した石に結んだひもをほどきました。
 その石に記した35人の犠牲者のうち、姓と名を知ることができた方は24人で、9人の方の姓がわからず、2人の方の名がわからず、○○姫さんは姓がわからないだけでなく名も1文字しかわかりませんでした。
 追悼碑を除幕してから1か月後、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、姓がわからなかった○光相さんの故郷を訪ねました。石原産業が 「紀州鉱山1946年報告書」には、「玉川光相」さん(1923年4月生。本籍、江原道旌善郡旌善面佳水里)は、1943年12月1日に、「官斡旋」で紀州鉱山に「入所」し、「選鉱夫」として働き、1944年3月7日に「業務上死亡」したと書かれています。
 わたしたちは、「玉川光相」さんの本当の姓がわからないので、追悼碑の前の石には「○光相」と記していました。
 ことし4月24日に佳水里で、わたしたちは、「玉川光相」さんの遺族を探しました。村の中心の大きな樹の近くに住む全文鐸さん(1925年生)から、「玉川光相」さんの本名が劉太相さんであることを教えてもらいました。劉太相さんの2歳年下の全文鐸さんは、9歳のときから2年間、いっしょに漢文を勉強したそうです。
 本当の名を知ることができたので、こんどの12月5日の追悼集会のときに、あらためて追悼碑の前に劉太相さんの名を記した石を置き、結んだひもをほどきます。
 当日、丁榮さんの子の丁炳碩さんが、韓国から参加される予定です。丁榮さん(1917年9月~1999年5月)は、1944年11月に紀州鉱山に連行され、「運搬夫」として働かされていました。
 ことし1月31日に、丁炳碩さんは、江原道麟蹄郡麒麟面の自宅で、わたしたちに、つぎのように話しました。

   わたしが7歳のとき、アボヂが日本に連れていかれ、解放後に戻ってきた。
   アボヂがいない間、オモニは、ハラボニムと農業をしながら、ありとあらゆる苦労を
  した。
   アボヂが連れて行されたとき、区長がさきに捕まり、それから村人が順に連行され
  た。
   日本人が里長に指示して、一か所に集め、連れていった。アボヂが行くのを家で
  見送った。そのときのことは覚えている。日本のどこかはわからないが、日本に
  〝労務者〝として行くとわかっていた。
   そのころ、家には子どもが7人いて、苦しい生活をしていたが、それでも捕まえてい
  った。
   アボヂは漢文をよく知っており、手先が器用だった。日本では、手紙などを代筆し
  たりしたと聞いた。三重県では、鉱山での労働がとても厳しかったと話していた。

■紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集会
   と き:12月5日(日)  午後1時から
   ところ:追悼碑前(熊野市紀和鉱山資料館斜め前)
          熊野市紀和町の311号線沿いです。
   主催 紀州鉱山の真実を明らかにする会

  「木本事件」、「紀州鉱山への朝鮮人強制連行」、「大逆事件」などのパネル展示
   と き:12月4日~5日
         4日は、午後0時から午後6時まで
         5日は、午前9時から午後4時30分まで
   ところ:熊野市文化交流センター(熊野市立図書館)の多目的室
           熊野市駅のすぐ近くです。

  12月4日夜7時から、宿所で交流会を開きます。

宿所:湯元山荘 湯ノ口温泉(熊野市紀和町湯ノ口 電話 0597-97-1126)
     宿泊費は、夕食・朝食費をふくめて、5000円以内です。
     宿泊を希望される方は11月末までに会に連絡してください。
     紀州鉱山の真実を明らかにする会
           http://members.at.infoseek.co.jp/kisyukouzan/ 
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