三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「広東裁判」・「香港裁判」 5

2012年01月31日 | 海南島史研究
 外務省外交資料館で公開されている第二復員局残務処理部業務課長が連絡調整中央事務局第三部戦争裁判課長あてにだした「中国に於ける戦犯処刑者公表方申請の件依頼」に添付されている「(別紙)要処理者名簿」に、1947年4月21日に広東で死刑を執行されたと書かれている「邦人」は、中村三郎氏です。
 防衛研究所戦史研究センター史料室で公開されている「被抑留者(戦犯容疑者)北部地区」という文書には、中村三郎氏について、「所轄 居留民」、「配置 元厚生公司支配人」、「被抑留年月日 1946年3月23日(原文「元号」使用)、「本籍地 和歌山県……」と書かれており、「被抑留ノ理由(中国側)及所轄長所見並ニ処置」の欄には、「本人ニ対スル容疑理由不明ナルモ阿片取扱業者タリシ点ニ非ラザルカト思料セラル 然ルニ本人ハ元厚生公司支配人トシテ海軍ノ漸進的阿片禁絶方針ノ下単ナル一農事会社トシテ阿片ノ生産販売ノ衝ニ当ルト共ニ海南島ニ対シ割当ヲ受ケタル阿片輸入シ関スル純粋ナル経済的主体トシテ計算上輸入業者タリシニ止マリ阿片政策ニ関シ何等関与セズ島内生産阿片竝ニ輸入阿片ハ全テ一応特務部ニ於テ管理シ挙ゲテ之ヲ臨時政府財政庁専売局竝ニ禁煙局ニ移管漸進的禁煙方針ニ基キ之ガ配給業務ヲ担任セラレタルモノニシテ中村ハ島内ニ於テハ単ニ命令ニ依リ之ガ取扱納入ニ当リ島外ノ輸入ニ就テハ現物ノ取扱ヲ為スコトナク単ナル計算上ノ輸入者タリシニ過ギズ」と書かれています。
 厚生公司が海南島で阿片を栽培していた事実については、このブログに2007年6月24日から5回連載した「白蓮鎮で」、2007年6月29日から5回連載した「海南島でのアヘン生産」、2008年5月11日に掲載した「烈楼で」、2008年9月8日に掲載した「『海南島三省連絡会議決議事項抄録』5」、2010年5月31日に掲載した「厚生公司曾在海南強迫村民種鴉片斂財」などをみてください。
                                          佐藤正人
コメント

名古屋高裁に控訴理由書をだしました

2012年01月30日 | 紀州鉱山

 きょう(1月30日)、三重県を被告とする訴訟の控訴理由書と熊野市を被告とする訴訟の控訴理由書を、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員5人の原告が、名古屋高等裁判所にだしました。
 2009年7月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立するために、紀州鉱山事務所があった場所(熊野市紀和町の鉱山資料館の敷地)の斜め向かいの土地を購入しました。そのさい紀州鉱山の真実を明らかにする会という組織の名では登記できないので、紀州鉱山の真実を明らかにする会の5名の会員の名義で登記しました。
 そして、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、在日本大韓民国民団三重県地方本部、在日本朝鮮人総聯合会三重県本部とともに、2010年3月28日、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立し、除幕集会をおこないました。
 土地の名目上の所有者である5人の紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員にたいし、三重県は不動産取得税を、熊野市は固定資産税納税をかけてきました。
 日本の植民地支配の犠牲者を追悼する場にたいする日本の行政機関の課税を承認することは、日本による他地域・他国の植民地支配を追認することであるため、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、課税に抗議し課税を拒否し課税を取消させる訴訟を昨年3月に津地方裁判所に提起しました。
 津地方裁判所の担当裁判官は、2011年9月29日、第2回裁判(口頭弁論)開始後まもなく、「弁論終結」を宣言し、訴訟の基本的論点にかかわる十分な弁論の機会をわたしたちから奪い、総計30分に満たない2回の口頭弁論ののち、2011年12月1日の3回目の法廷で、三重県と熊野市の課税を承認する判決をだしました。
 それにたいして、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、5人の会員の名で控訴し、きょう、その理由書をだしました。
 その主要な論点は、つぎのとおりです。
                                        佐藤正人
 
■三重県を被告とする控訴理由書(準備書面1)
 1、津地裁担当裁判官の訴訟指揮は原告の弁論の機会を保証しなかった。
 2、地方税法73条の31、三重県県税条例第74条1項3号などの規定にしたがって、「特別の事情がある者」である原告にたいし、三重県知事は不動産取得税を免除しなければならない。
 3、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する場(土地)には公共性・公益性がある。
 4、紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での朝鮮人強制労働には石原産業、熊野市とともに三重県に歴史的責任がある。
 5、三重県は紀州鉱山の真実を明らかにする会の不動産取得税免除手続き段階において重大な告知義務違反をおこなった。

■熊野市を被告とする控訴理由書(準備書面1)
 1、津地裁担当裁判官の訴訟指揮は原告の弁論の機会を保証しなかった。
 2、地方税法367条、熊野市税条例第71条1項2及び4号の規定にしたがって、「特別の事情がある者」である原告にたいし、熊野市長は固定資産税を免除しなければならない。
 3、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する場(土地)には公共性・公益性がある。
 4、紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での朝鮮人強制労働には石原産業、三重県とともに熊野市に歴史的責任がある。

コメント

「広東裁判」・「香港裁判」 4

2012年01月29日 | 海南島史研究

 巣鴨遺書編纂会編刊『世紀の遺書』(1953年12月)、茶園義男・重松一義『戦犯裁判の実相』下巻(不二出版、1987年8月)、岩川隆『孤島の土となるとも―-BC級戦犯裁判』(講談社、1995年6月)は広東裁判に触れており、茶園義男さんがまとめた『BC旧戦犯軍事法廷資料ーー広東編』(不二出版、1984年8月)が出されていますが、広東裁判にかんする文書・書物は、日本ではあまり多くはありません(巣鴨法務委員会編『戦犯裁判の実相』〈槇書房、1981年8月〉には「中国戦犯裁判」にかんする記述がありません)。広東地区残留日本軍連絡班員だった今永英文氏(元日本陸軍歩兵第137連隊第3中隊長)が書いた「終戦後の広東地区に於ける戦犯裁判の実情について」(『南支のあゆみ』〈鳳会、1976年10月〉)には、広東裁判の内容がほとんど書かれていません。
 わたしがこれまで見た広東裁判にかんする文書・書籍のなかで、海南島で逮捕され広東で裁かれた日本人についてもっとも詳しく述べているものは、海南海軍警察隊隊員だった今井豊平氏が発表した『嗚呼天哉命哉』(海南海軍警察隊戦友会、1978年5月発行)です。
 防衛研究所戦史研究センター史料室で公開されている『海南警残務処理報告綴(別冊)』にふくまれている「被抑留者(戦犯容疑者)北部地区」という文書のなかに「今川豊平」の名があり、「所轄 特務部」、「配置 連絡部指導官」、「官職 巡査」、「被抑留年月日 1946年3月13日(原文「元号」使用)、「本籍地 新潟……」と書かれており、「被抑留ノ理由(中国側)及所轄長所見並ニ処置」の欄には、「偽軍ヲ指導民衆ヲ圧迫シ我方進撃時ニ民衆ヲ乱殺家屋ヲ焼燬セルコト挙ゲテ数フベカラズ(中国側理由)   偽軍(臨時政府綏靖隊)ノ下級指導官トシテ忠実ニ任務ヲ遂行セルノミニテ民衆ヲ乱殺家屋ノ償却ヲ指導セル事実ナキモノト認ム」と書かれています。
                                         佐藤正人

コメント

「広東裁判」・「香港裁判」 3

2012年01月28日 | 海南島史研究
 日本で公開されている「広東裁判」・「香港裁判」・「横浜裁判」にかんする文書は、極めて限られています。
 防衛研究所戦史研究センター史料室(旧、防衛研究所図書館)で公開されている関係文書はほとんどありません。
 外務省外交資料館で公開されている『本邦戦争犯罪人裁判関係雑件』、『本邦戦犯裁判関係雑件』、『外地における本邦人の軍事裁判関係』などには、いくらか関係文書がふくまれており、『外地における本邦人の軍事裁判関係 中国ノ部』には、海南島で逮捕された日本兵にかんして書かれた文書(1948年5月7日付けで、第二復員局残務処理部業務課長が連絡調整中央事務局第三部戦争裁判課長あてにだした「中国に於ける戦犯処刑者公表方申請の件依頼」)がふくまれています。この文書は、日本海軍の用紙を使ってつくられています。日本海軍省は1945年12月に第二復員省となり、第二復員省は1946年6月に復員庁第二復員局となっていました。
 「中国に於ける戦犯処刑者公表方申請の件依頼」に添付されている「(別紙)要処理者名簿」には、海南警備府第15警備隊の大尉A、大尉B、中尉Cが1947年7月26日に、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の巡査部長Dが1947年5月10日に、中尉Eが1947年9月8日に、海南島の「邦人」Fが1947年4月21日に広東で死刑を執行されたと書かれています。
 またこの「名簿」には、海南島施設部の軍属Gが海南島の三亜で「新編十九師司令部特務連に抑留中の処1946年9月頃銃殺せられたと」(原文、元号使用)と書かれており、1945年12月11日に12年の刑の判決を受けていた海南海軍警察の少尉H、海南島施設部の技工士IとJの3人が「(1946年6月6日に)海南島瓊山県政府監視所付近ニテ逃亡中射殺サレタリ」と書かれており、海南島施設部技工士Kが「同右逃亡事件により負傷6月8日死亡」と書かれており、海南特務部の巡査Lが「(1946年11月16日に)抑留中病死」と書かれており、海南島施設部の工員Mが「(1946年11月5日に)抑留中病死」と書かれています。
 この名簿の人名は、すべて塗りつぶされています。
                                       佐藤正人
 
コメント

「広東裁判」・「香港裁判」 2

2012年01月27日 | 海南島史研究
 海南島では、日本敗戦の年、1945年においても、日本軍将兵は、4月12日に楽会県互助郷(元、瓊海市中原の中原鎮。坡村、長仙村、三古村、南橋村、雅昌村、佳文村、鳳嶺村、吉嶺村、官園村)、5月2日に万寧の月塘村、7月30日に文昌の秀田村でおおくの住民を虐殺ました。しかし、1945年8月の日本敗戦後、逮捕され裁かれたのは、ごく少数でした。楽会県互助郷の村民虐殺で逮捕され裁かれたのは、前田三郎と鮫島宗義2人だけであり、月塘村の村民虐殺では誰も逮捕されず、秀田村の村民虐殺で裁かれたのは兼石績1人だけした。
 前田三郎は、海南警備府佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の海軍中尉で「起訴理由概要」には「1945年4月海南島中原事件」(原文「元号」使用)と書かれており、1947年9月16日に広東で銃殺されました。
 鮫島宗義は、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の日本海軍兵士ではなく、海軍巡査部長でした。鮫島宗義の「起訴理由概要」は、「楽会県互助郷坡村において民衆を集団虐殺せり」というもので、1947年5月10日に、広東で銃殺されました。その1週間前の5月3日から、最悪の侵略犯罪者天皇ヒロヒトを「日本国の象徴」兼「日本国民統合の象徴」する「日本国憲法」が施行されていました。
 兼石績は、海南警備府第15警備隊の海軍大尉で「起訴理由概要」には、第15警備隊大尉富田堯人、第15警備隊中尉望月為吉とともに「被告達三名は共謀して1942年7月頃~1943年11頃迄の間に亘り海南島文昌県文教県に出兵し計画的に且連続して土民の屠殺財物の掠奪家屋の破壊等を行った」(原文「元号」使用)と書かれており、1947年7月26日に、3人が共に広東で銃殺されました。
 楽会県互助郷の住民虐殺については、曹靖『日本法西斯“三光”政策罪行録 回顧長仙聯村“三・一”血泪史』(海南島近現代史研究会会誌『海南島近現代史研究』第2号・第3号。2011年2月10日発行)、このブログに2008年4月6日に掲載した「2008年農暦3月1日」、 2008年4月30日に掲載した「燕嶺坡、戴桃村、鳳嶺村、長仙村、橋園で」、2011年12月20日から3回連載した「海南島瓊海市中原鎮で」などをみてください。
 月塘村の住民虐殺については、このブログに2007年6月4日から13回連載した「月塘村で」、2007年9月2日から8回連載した「月塘村虐殺 ソンミ村虐殺」、2008年1月2日から8回連載した「『海南島月塘村虐『海南島月塘村虐殺』新シナリオ」、2008年6月13日の「海南島月塘村の追悼碑 虐殺63年後に建立」、および海南島近現代史研究会企画・制作ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』新版(2008年)などをみてください。
 秀田村の住民虐殺については、このブログの2007年2月14日の「日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究 3」、および紀州鉱山の真実を明らかにする会企画・制作ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』(2004年)などをみてください。
                                         佐藤正人

コメント

「広東裁判」・「香港裁判」 1

2012年01月26日 | 海南島史研究
 日本軍が天皇ヒロヒトが「裁可」し、日本軍が海南島に奇襲上陸した73年前の1939年2月以後1945年8月までの6年半に、日本政府、日本軍、日本企業が海南島でおこなった侵略犯罪の実態は、まだわずかしか明らかにされていません。
 海南島で民衆虐殺、資源略奪、土地略奪、性犯罪、労働強制などの犯罪をおこなっていた日本人の少数が、日本敗戦後、広東の中華民国軍事法廷で裁かれましたが、最悪の侵略犯罪者・戦犯ヒロヒトも海南警備府司令長官伍賀啓次郎も、裁かれませんでした。
 海南警備府横須賀鎮守府第4特別陸戦隊司令だった青山茂雄らが香港のオーストラリア軍事法廷で裁かれましたが、それは海南島でのオーストラリア兵虐待についてであり、海南警備府第16警備隊司令だった能美実らが横浜のアメリカ合州国軍事法廷で裁かれましたが、それは海南島三亜空爆時に捕虜となったアメリカ合州国兵殺害についてでした(このブログに2010年5月4日から6回連載した「旧海軍戦犯」、2010年5月13日から7回連載した「海南島第十六警備隊能美事件」、2010年8月16日から5回連載した「能美実らに対する横浜裁判」などをみてください)。
                                        佐藤正人
コメント

熊野市を被告とする第1回控訴審の日が決まりました

2012年01月25日 | 紀州鉱山
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立するために、2009年7月に、紀州鉱山を経営していた石原産業の紀州鉱山事務所(現、熊野市鉱山資料館)の斜め向かいの土地を購入しました。
 その土地に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、在日本大韓民国民団三重県地方本部、在日本朝鮮人総聯合会三重県本部とともに、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立し、2010年3月28日に除幕集会を行ないました。
 その土地に対し、三重県は不動産取得税を、熊野市は固定資産税を課税してきました。
 日本の植民地支配の犠牲者を追悼する場にたいする日本の行政機関の課税を承認することは、日本の他地域・他国植民地支配を追認することです。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、三重県と熊野市の課税を拒否し課税に抗議し、三重県と熊野市の歴史的行政責任を追究する訴訟を、2011年3月18日に三重県の津地方裁判所に提起しました。 
 対三重県訴訟も、対熊野市訴訟も、それぞれ2回、合計時間が30分ほどの極めて短時間の裁判(口頭弁論)がおこなわれただけで、2011年12月1日に出されました。紀州鉱山の真実を明らかにする会が十分に弁論する機会を奪い、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する場への課税を肯定する判決ををだしたのは、戸田彰子裁判長、福渡裕貴裁判官、坂川波奈子裁判官の3人でした(このブログの2011年12月1日の「一審の判決」や12月4日、5日の「1審判決が示していること」1、2などをみてください)。
 この判決にたいし、紀州鉱山の真実を明らかにする会は12月12日に名古屋高等裁判所に控訴しました。

 熊野市を被告とする第1回控訴審の日がきまりました。
 4月10日午後1時半からです。場所は、名古屋高等裁判所民事第3部1003号法廷です。
 「事件番号」は、「2012年(行コ)第2号」で、担当裁判官は、長門栄吉裁判長、内田計一裁判官、山崎秀尚裁判官の3人です。

 傍聴(監視)に来てください。
 三重県を被告とする控訴審開始日は、まだ決まっていません。
                                      紀州鉱山の真実を明らかにする会
コメント

9回目の海南島近現代史研究会定例研究集会に参加してください

2012年01月24日 | 海南島近現代史研究会
 1か月後の2月26日午後1時から(開場は12時です)、海南島近現代史研究会の9回目の定例研究集会を開きます。
 参加してください。場所は、大阪産業大学 梅田サテライト・レクチャーA室(大阪駅前第三ビル19階)です。第三ビルはJR大阪駅から南に歩いて5分ほどです。参加費は、500円です(会員は無料です)。
 今回の定例研究集会では、日本軍が海南島に設置した小学校で日本語などを教えていた人に話をしてもらうとともに、海南島における非軍人日本人の侵略犯罪について会員が報告します。海南島の首都海口から離れた昌江黎族自治県で建設中の原子力発電所についての報告もおこなわれます。
 集会のくわしい内容は、このブログの1月14日の「海南島近現代史研究会第9回定例研究集会」をみてください。

 海南島近現代史研究会は、日本の海南島占領期(1939年2月~1945年8月)の侵略犯罪の実態を解明するとともに、海南島民衆の抗日反日闘争の歴史を究明しようとして、2008年8月3日に結成されました。
 日本政府と日本軍は、海南島をアジア太平洋侵略の基地とし、さらに台湾や朝鮮や中国東北部と同じ植民地としようとしました。そのため、日本軍は、海南島各地で、抵抗・反撃する抗日反日武装部隊の兵站をつぶそうとして、海南島各地で住民虐殺や略奪などの暴虐な侵略犯罪をくりかえしました。
 また、日本政府と日本軍は、日本企業を海南島に呼び入れ、飛行場、港湾、道路、橋梁、鉄道などの軍事施設を整備・新設し、鉱山資源、森林資源、漁業資源を奪いました。日本政府と日本軍は、海南島各地に「慰安所」を設置し、性的暴行をくりかえしました。
 日本政府と日本軍と日本企業は、アジア太平洋民衆を海南島で強制労働させ、おおくの人のいのちを奪いました。日本政府と日本軍は、「軍票」を乱発しました。

 創立後、海南島近現代史研究会は、海南島における日本の侵略犯罪の実態を具体的・総合的に把握し、それが海南島の政治的・経済的・文化的・社会的な構造をどのように破壊したのかを究明し、その歴史的責任を追及してきました。
 そのために、海南島近現代史研究会は、紀州鉱山の真実を明らかにする会とともに、海南島をなんども訪問し、抗日反日闘争の戦士、日本の侵略犯罪の犠牲者から証言をきかせてもらい、記録してきました。また、韓国に行き、日本侵略期の朝鮮から海南島に連行された朝鮮人に体験を聞かせてもらい記録してきました。また、海南島侵略にかかわった日本人に日本で証言を聞き記録してきました。
                                          海南島近現代史研究会
コメント

「旧海軍軍属身上調査表」・「旧海軍軍人履歴原表」 18

2012年01月23日 | 海南島史研究
■フィルム番号2019「旧海軍軍属身上調査表」2
 「中山晃一」さん(本籍地、咸鏡北道。本名不明。1912年生)は、「所属」は「海南施」、「身分」は「工員(傭人)」で、1943年3月1日に「佐施」に「採用」され、1945年1月20日に「海南島」で「戦死」しており、「状況」には、「爆撃を受けた際戦死 陸上戦闘」と書かれています。
 鄭龍植さん(本籍地、全羅南道。生年不明)は、「所属」は「2伏見丸」、「身分」は「機関長」で、1942年11月8日に「2伏見丸」に「徴用」され、1945年6月22日に三灶島附近で「戦死」しており、「状況」には、「1945.6.22 三灶島附近に於て敵機と交戦中戦死 航空機攻撃」〈原文、元号使用〉と書かれています。三灶島(三竈島)については、このブログに2010年6月6日から3回連載した「三竈島」をみてください。
 「金光信雄」さん(本籍地、慶尚南道。本名不明。1906年生)は、「所属」は「十六警(新安丸)」、「身分」は「甲板員(傭人)」で、1941年3月1日に「朝鮮総督府新安丸甲板員」に「徴用」され、1945年3月30日に「海南島」で「戦死」しており、「状況」には、「敵機と交戦中直撃弾を受け沈没 潜水艦の攻撃により沈没」と書かれています。
 「白川忠雄」さん(本籍地、慶尚南道。本名不明。1915年生)は、「所属」は「16警(新安丸)」、「身分」は「操舵手(傭人)」で、1943年11月27日に「徴用」され、「金光信雄」さんと同じく1945年3月30日に「海南島」で「戦死」しており、「状況」には、「敵機と交戦中直撃弾を受け沈没 航空機の攻撃により沈没」と書かれています。
 「金本泰一」さん(本籍地、慶尚南道。本名不明。1906年生)は、「所属」は「16警(新安丸)」、「身分」は「甲板員(新安丸)」で、1943年9月14日に「徴用」され「釜山府税関監視課新安丸甲板員として勤務」し、1944年5月15日に「新安丸舞鎮所管ニ転籍」し、「金光信雄」さんや「白川忠雄」さんと同じく1945年3月30日に「海南島」で「戦死」しており、「状況」には、「敵機と交戦中直撃弾を受け沈没 航空機の攻撃により沈没」と書かれています。
 「宮本一郎」さん(本籍地、慶尚南道。本名不明。〈生年、判読不可〉)は、「金光信雄」さんや「白川忠雄」さんや「金本泰一」さんと同じく1945年3月30日に「海南島」で「戦死」しており、「状況」には、「敵機交戦中直撃弾ヲ受ケ戦死」と書かれています。
 この6人の個人記録紙すべてにも、1959年7月31日付けの「靖国神社 合祀手続済」という丸印と、1959年10月17日付けの「靖国神社合祀済」という縦長のゴム印が押されています。
                                          佐藤正人
コメント

「旧海軍軍属身上調査表」・「旧海軍軍人履歴原表」 17

2012年01月22日 | 海南島史研究
■フィルム番号2019「旧海軍軍属身上調査表」1
 フィルム番号2019の「旧海軍軍属身上調査表」のマイクロフィルムには、旧日本海軍佐世保鎮守府と舞鶴鎮守府に「徴用」され死亡した朝鮮人の個人記録が含まれており、海南島で死亡した人の記録紙にはつぎのように書かれています。
 
 「山本一雄」さん(本籍地、慶尚南道。本名不明。生年不明)は、「所属」は「海南施」、「身分」は「工員(職手)」で、1942年3月1日に「海南建」に「徴用」され、1943年11月8日に「海南島方面」で「戦傷死」しており、「状況」には、「大和川丸ニ於テ作業中敵機ノ爆撃ニ依リ受傷即日海口分院ニ入院同日戦傷死」と書かれています。
 趙鐘完さん(本籍地、全羅南道。1937年12月21日生)は、「所属」は「若松丸」、「身分」は「操舵手(傭人) 船員」で、1942年11月4日に「海南需」に「徴用」され、1944年3月26日に「海南島方面」で「戦死」しており、「状況」には、「敵機と抗戦中沈没ノ際戦死」と書かれています。この記録によると、趙鐘完さんは、16歳になる前に「徴用」され、17歳3か月で命を失わされています。
 兪百秀さん(本籍地、全羅南道。1927年生)は、「所属」は「28新生丸」、「身分」は「油差(傭人) 船員」で、1942年12月1日に「第28新生丸」に「徴用」され、1943年2月26日に「海南島方面」で「戦病死」しており、「状況」には、「急性肝炎 南支方面ニ於テ勤務中1943.2.26.海口市同仁会医院ニテ戦病死(急性肝臓炎)」と書かれています。
 太田有奉さん(本籍地、全羅南道。本名不明。1919年生)は、「所属」は「若松丸」、「身分」は「機関員(傭人)」で、1942年10月24日に「海南海軍運輸部」に「採用」され、趙鐘完さんと同じく、1944年3月26日に「海南島方面」で「戦死」しており、「状況」には、「敵機と抗戦中沈没ノ際戦死」と書かれています。
 南小宰さん(本籍地、全羅北道。生年不明)は、「所属」は「16警」、「身分」は「傭人」で、1942年2月23日に海南島で「戦病死」しており、「状況」には、「脚気に依り戦病死」と書かれています。「16警」とは、呉鎮守府特別陸戦隊の部隊によって編成された日本海軍海南警備府第16警備隊のことです。
 「木戸顕澤」さん(本籍地、咸鏡南道。本名不明。1915年生)は、「所属」は「海南警 大和川丸」、「身分」は「舵夫(傭人)」で、1943年5月6日に「海警(大和川丸)」に「徴用」され、1943年9月1日に「同船乗組中侭楡林海軍運輸部ヘ配属変更」され、1943年10月26日に「南支方面」で「戦死」しており、「状況」には、「敵機と交戦中戦死 敵機海口方面空爆ノ際○○○○○大和川丸乗組員トシテ揚荷役ニ従事中爆弾ノ直撃ヲ受ケ破片ヲ残サズ飛散シ戦死ス 航空機攻撃」と書かれています。
 この6人の個人記録紙すべてに、1959年7月31日付けの「靖国神社 合祀手続済」という丸印と、1959年10月17日付けの「靖国神社合祀済」という縦長のゴム印が押されています。
佐藤正人
コメント