三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

木本トンネルと紀州鉱山 3

2008年03月25日 | 木本事件
三 紀州鉱山における朝鮮人の強制徴用について

1 社史における朝鮮人労働者の記述について
 紀州鉱山における朝鮮人労働者の徴用について、『創業三十五年を回顧して』は、戦時下における「労力不足の対策」と題する項目で、わずか2頁にわたって書かれているだけである(254-256頁)。それによると、石原産業は1940年から朝鮮に労務担当者を派遣し、労務者を募集し、同年春に「江原道から百名の労務者が来山」し、1941年から1943年までに、江原道、京畿道、慶尚北道から毎年二百名程度の者が入山した」、とある。
 朝鮮人労務者との契約は「期限を2カ年」とし、「半年過ぎれば本人の希望により家族の呼び集めを認め、契約期間経過後は本人の希望通りにさせた」と書かれているが、それは1944年ころから「逃亡者が続出」した、という記述と矛盾している。自由な契約であれば逃亡という事態はありえない。労務契約はけっして自由契約ではなかった。朝鮮人労働者はもっとも多かった1943年で500名に達した、とされている。
 待遇についても、「わが社従業員と同様に待遇した」(254頁)とあるが、石原産業は、海外の鉱山で働く日本人従業員に対しては、諸種の福祉政策と待遇改善策を講じていた。長期勤続者優遇のために定期昇給、職務手当、海外手当、住宅手当、出産手当、そのほか高額の退職金や団体保険契約、自家生命保険制度など、石原はこれらの従業員待遇を会社の自慢としている(172-178頁)。これらの待遇が朝鮮人労働者に対して適用されなかったことは言うまでもない。
 なお、四日市工場においても、1943-44年から不足した従業員を補充する形で、朝鮮人労働者が徴用され、1944年には300名を受け入れた、という記述がある。

2 強制徴用の実態調査
 1997年になって市民団体《紀州鉱山の真実を明らかにする会》が結成され、『紀州鉱山1946年報告集』を手がかりにして、聞き取り調査が始められた。96年秋から97年夏にかけて、強制連行のもっとも多かった韓国の江原道の麟蹄[インジェ]郡(96名)、平昌[ピョンチャン]郡(160名)で調査がおこなわれ、役場や老人会を訪れ、戸籍簿を調べたり、聞き取りをすることによって、10数名の体験者に出会うことができた。日本でも、当時就労していた日本人の鉱山夫や徴用に従事した朝鮮人の監督に聞き取り調査がおこなわれた。
 石原産業が三重県内務省に提出した『報告集』には、朝鮮人労働者の名簿と本籍が記載されているが、名前は本名ではなく通名であり、本籍も不明確なものが多くて、調査の手掛かりになりにくい。そのため、通名から本名を推測し、面の事務所をたずねて戸籍簿を調べてもらったり、各地域の老人会を訪れて当時の体験者から情報を受け取るという形で調査が始められた。
 そのなかで紀州鉱山ではなく、そのほかの地域に徴用された老人の聞き取りもすることができた。たとえば平昌郡の安味の老人会では、南洋諸島のトラック島に徴用され、飛行場で働いたというお年寄りから話を聴くことができた。結婚してひとりの子供がいるなかでの徴用で、ラバウル島では1日12時間昼夜交替で働かされたとのことであった。
 また、植民地統治下の朝鮮の悲惨な状況も聴くことができた。畑の作物はすべて供出させられ、自分たちは木の芽や皮を食べた。徴用が嫌で山に逃げたが、そのために父親が逮捕され、やむなく山から出て来た、という話をしたお年寄りもいた。
 平昌郡の珍富面や龍坪面では、老人会の情報を頼りにして、紀州鉱山に連行された体験者に実際に面会することができた。これらの体験者の多くは結婚していて、一家の働き手をもぎ取られるようにして連行が行われたことがわかる。また徴用先がどこであるかもわからずに連行された者が多かった。日本に到着した後でも、家族との通信が思うようにならなかったとのことであった。朝鮮人が住んでいた寮にも、病院にも、監視がいて、逃亡を防いでいたが、それでもかなりの逃亡者がいた。また帰国の際にはほとんど手当をもらっておらず身ひとつで帰ってきた、ということであった。
 徴用の体験者はすべて70歳を越えており、今聞き取りをしなければ、50年前の実態は永遠のやみに葬られてしまう。このことを強く感じた今回の調査であった。
 日本の地域は、企業と国家に主導されて組織されてきたが、そのために、そこに国境を越えた人と人との絆が必然的につくりだされた。紀和町の住民がイギリス人の捕虜や徴用された朝鮮人と交流しコミュニケートする場がそこに生まれる。このコミュニケーションの場に、今日のわたしたちはどのような光を当てたらよいのであろうか。紀和町の紀州鉱山を訪れ、その後に江原道の各地域で聞き取りをおこなうなかで、わたしたちは、植民地支配と侵略戦争という50年前の負の遺産を国境を越えた地域間の新しいコミュニケーションへと転換する可能性を感じとることができた。

追記
 本稿は、共同研究「わが国の産業経済の将来動向について」の一環である。筆者は、1997年8月6日より10日まで、聞き取り調査のため韓国の江原道平昌郡訪問した。聞き取りの詳細な報告は、別の機会におこなう予定である。
 なお、この研究ノートをステップにして、今後このテーマを継続して追究していきたい。

《参考文献》

1)グローバル化によって国家主権が動揺し、新しい複合的な主権が誕生しつつあるという論点については、以下の拙著・拙論を参照されたい。
  『ノマドの時代』大村書店、1994年。
  『都市の美学』(共著)平凡社、1996年。
  「新しい人種主義と越境する市民権」『月刊フォーラム』1995年4月。
  「国民国家の危機と新しい市民権」『月刊フォーラム』1996年5月。
  「市民社会の発展とラディカル・デモクラシーの課題」『歴史としての資本主義』青木書店、1998年(刊行予定)。

2)「木本事件」に関する資料・文献
a)地元地域の郷土誌関係
  「木本トンネル騒動」(岡本実氏執筆)『熊野市史』、1983年。
  谷川義一「鮮人騒動の記」『木本小学校百年誌』創立百年祭実行委員会公報部編 著、1973年。
  武上千代之丞「内鮮人[ママ]土工乱闘事件始末」(同氏著刊『奥熊野百年誌』)、1978 年。
b)木本事件に関する文献
  金静美「三重県木本における朝鮮人襲撃・虐殺について」『在日朝鮮人史研究』 第18号、在日朝鮮人運動史研究会、1988年。
  『六十三年後からの出発(増補版)』三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・ 相度)の追悼碑を建立する会、1991年。
  斉藤日出治「虐殺された朝鮮人労働者の追悼を!」『月刊ちいきとうそう』第251号、1991年。
  金静美「一九二六年一月、三重県木本町(現熊野市)で、そしてそののち」『季刊サイ』第七号、在日韓国・朝鮮人問題学習センター、1993年。
  『六十八年後の追悼  除幕式資料集』三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会、1994年。
  斉藤日出治「六十八年後の追悼 三重県熊野の朝鮮人虐殺をふりかえる」『月刊フォーラム』1995年3月号。
  嶋田実「李基允氏と相度氏の“墓石”と追悼碑  三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者」『季刊リバティ』第9号、大阪人権歴史資料館、1995年。
  朴仁祚「木本事件の追悼碑」『キョレ通信』第2号、梅軒研究会、1995年。
  金静美「虐殺七〇年後の夏」『在日コリアン関西パワー』第7号、新幹社、1997年。
  佐藤正人「熊野市の木本トンネルと紀和町の紀州鉱山」『キョレ通信』第5号、キョレ通信編集委員会編、梅軒研究会刊、1997年。

3)石原産業に関する文献
  石原廣一郎『創業三十五年を回顧して』石原産業株式会社社史編纂委員会編刊、1956年。
  『石原廣一郎関係文書』赤澤・粟屋ほか編、上・下巻、柏書房、1994年。

4)紀州鉱山に関する資料
  紀和町史編纂委員会編『紀和町史』1993年。
  『紀州鉱山1946年報告集』石原産業株式会社。

5)紀州鉱山に関する調査研究文献
  紀州鉱山の真実を明らかにする会「紀州鉱山への朝鮮人強制連行」『在日朝鮮人史研究』第27号、在日朝鮮人運動史研究会、1997年。
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木本トンネルと紀州鉱山 2

2008年03月24日 | 木本事件
二 石原産業の戦前の事業史における紀州鉱山の位置
 紀州鉱山が海外の資源獲得をめざした日本企業のアジア侵略の拠点としての位置を占めていたことを確認するために、経営主体である石原産業の社史(石原廣一郎著『創業三十五年を回顧して』)を参照しながら、石原産業の戦前の事業史を概観してみたい。

1 アジアの南方進出のまなざし
 石原産業の創業者の石原三兄弟(新三郎、儀三郎、廣一郎)は、日本の産業の発展をアジアの南方進出によって果たそうとする野望を抱いて、1916年にマレー半島にわたり、バトパハ州でスリメダンの鉄鉱山を発見する。そしてこの鉱山を企業化するため、1920年に合資会社南洋鉱業公司を創立する。これが石原産業株式会社の起源となった。続いて開拓したマレー半島のケママン鉱山と併せて、石原産業による両鉱山の鉄鉱石の総採掘量は1300万トンにものぼり、石原産業の事業史のなかでも最大規模のものとなった。
 石原三兄弟は、当初ゴム園の経営をめざして渡南し、偶然に鉄鉱石を発見して、鉱山業に乗り出すのであるが、注目すべきことは、かれらが「南方開拓事業」を日本の産業発展の新しい方向として位置づけ、軍や国家の後押しなしに、いわば単独でこの事業に取り組み、日本のその後の南進政策の先便を切ったことである。

2 「南方発展の構想」
 石原産業は、その後マレー半島から東インド諸島全域に開発の手を伸ばす。スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベス、ニューギニアの西半分からなる地域は、オランダの植民地であったため、石原は1923年、日本とオランダの合弁会社を設立して開発を進める計画をたてる。
その計画の趣意書のなかで、石原は開発の趣旨をつぎのように述べている。日本は領土が狭く、資源が乏しく、人口密度が高い。しかもそのうえに人口増加率がきわめて高い。このような難問を解決するためには、「北守南進」の策が必要である。アジアの南方は「大部分が未開のままであるが、国土は天恵的な資源に富み、南進の実を挙ぐべき絶好の場所である」(61頁)、と。
この合弁会社設立の計画は、同年9月に起きた関東大震災によって挫折したが、それは石原産業が東南アジアを日本の産業発展のための資源戦略をくりひろげる地政学的空間として位置づけている点において注目に値する。
 石原は「東南アジアの未開地資源開発によって日本経済の繁栄をはかる必要性を政界人と財界人に力説して廻り」(61頁)、その後の日本の財界や軍部の動きを方向づけるうえできわめて重要な役割を果たした。
 石原産業は、同時に海運事業にも着手し、船舶を購入して、鉱石の輸送だけでなく、客の運搬のための定期航路も開拓する。ジャワの定期航路を開き、1935年にはこれらの海運事業を遂行するため、四社共同の出資で「南洋海運株式会社」を設立する。
 鉱山事業はさらに広がり、マレーでボーキサイトの発掘に取り組み、日本電工(現在の昭和電工)のアルミニウム精練工場にたいして、1936-41年まで原料のボーキサイトを総量で28万トン送った。
 1920年から1933年まで、石原産業は同族会社経営であったが、その後株式会社経営にきりかえる。それを契機として、石原産業は日本国内の鉱山開発事業に乗り出す。

3 日本国内の鉱山開発
 アジアの南方に進出して鉱山開拓に成功した石原産業は、1931年日本の国内での鉱山開拓(「内地事業」)にも着手する。石原広一郎は、日本の国内開発の理由として、海外に派遣している従業員のために「内地に事業地を持ち、常に南方事業地との間に従業員の交流をはかることが」「会社発展の恒久策」であるとして、従業員のために「内地事業」を始めたかのような説明をしているが、その真の動機は、日本の南方進出に対してイギリス、オランダなど諸列強の注視と制圧が強まったことが直接の契機であったと思われる。しかしこの「内地事業」は、事業の国内への撤退ではなく、石原産業が国内の地歩を固めてさらなる南方への事業拡大をはかるためのスプリングボードとなった。
 石原産業が最初に手がけたのは産金事業であった。1935年に山陰の神美村の神美金山を、1934年に九州の旭金山を開拓する。だが石原産業は、開発の主力を金のような貴金属ではなく、一般に利用範囲の広い鉄や銅におくことに決め、その結果熊野鉱業地帯が開拓の対象となる。こうして1934年に三和鉱山、そして1935年に紀州鉱山の開発に着手する。
 紀州鉱山の産銅量は、1939年から1943年までのあいだ毎年2000トンを上回るようになり、この時期の日本の銅山のなかで生産量が6、7位に達するまでになった。開業から1954年までの総産銅量は、3万トンに達した。紀州鉱山の従業員も、1939年には2300人、1941年には3300人に達する。
 三和・紀州鉱山のほかにも、熊野鉱業地帯の鉱山開発として、和歌山県東牟 郡の妙法山を中心とした妙法鉱山が開拓された。
 石原産業が開発したこのほかの鉱山としては、四国徳島の久宗鉱山(1938年-1945年)があり、また試掘だけに終わった鉱山としては、石峰鉱山(朝鮮慶尚南道固城郡)、東川鉱山(高知県安芸郡東川村)、大河内鉱山(宮崎県西臼杵郡椎葉村)などがある。
 さらに石原産業は炭鉱の開発にも精力を注ぐ。北海道中知床半島の中央部にある美田炭鉱、徳島県生比奈村の徳島炭鉱、紀州鉱山に隣接した薬師炭鉱、などがそれである。
 いずれにせよ、紀州鉱山は石原産業が1931年に日本国内の鉱山開発に着手して以降開拓した最大の鉱山であった。

4 四日市工場の建設と南方の海外事業地の拡大
 石原産業は1942年、四日市市に銅の精錬所を建設し、操業を開始する。この精錬所の建設は、日本国内の鉱山から採掘した銅だけでなく、海外の鉱山で採掘した銅の精練をも考慮に入れたものであった。石原廣一郎は四日市の精錬所の建設の趣旨について、つぎのように述べている。
   「今後の在り方としては、鉄鉱石と同様、銅原料も国内に依存せず、南方資源の
   活用を  考えるべきではなかろうか。とすればこの際、紀州銅鉱石を基礎とし
   て、フィリピンにある銅資源を開発または輸入し、この二つを合わせ用いる精錬
   所を日本のどこかに建設することが、わが社に課せられた新しい使命ではあるま
   いか」(130-131頁)。

 つまり四日市の銅精錬所は、たんに国内鉱山の活性化のためであるだけでなく、石原産業がアジアの南方に向けてさらなる事業拡大を図るための拠点として建設されたのである。
 この四日市の銅精錬所のための銅鉱資源の探索のために、まずフィリピンにマニラ石原産業会社を設立する。ルソン島東部のパラカレ鉱山を開拓する。この鉱山は1938年から1941年の閉山まで、43万トンの鉄鉱石を日本に供給した。
 また1938年以後、石原産業は軍の命を受け、海外の資源開発に取り組むようになる。1938年に軍部が海南島に上陸したあと、海南島にある田独鉱山の開発にとりかかる。この鉱山は日本軍の占領下にあったため、戦時中も経営が続けられ、1940-44年の5年間に270万トンの鉄鉱石の採鉱がおこなわれた。
 このほか戦時下で軍部の委託を受けて取り組んだ事業としては、ボルネオのラウト炭山、フィリピンのカンランバ鉱山、マレーのマラッカおよびバトパハのボーキサイト鉱山、スマトラのトト金山、ジャワのソロ銅山、などがある。
 だが1945年の日本の敗戦によって、石原産業の海外事業地はすべて閉鎖されることになる。
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木本トンネルと紀州鉱山 1

2008年03月23日 | 木本事件
     『大阪産業大学論集 社会科学編』108号(1998年2月)に発表した「研究ノ
    ート 木本トンネルと紀州鉱山 日本の地域史における国家と企業の役割につ
    いて」を、3回にわけて、掲載します。         斉藤日出治



     はじめに
        一 「木本事件」と紀州鉱山
          1 「木本事件」に見られる地域の国家への吸収
          2 紀州鉱山にみられる地域の企業への吸収
     二 石原産業の戦前の事業史における紀州鉱山の位置
          1 アジアの南方進出のまなざし
          2 「南方発展の構想」
          3 日本国内の鉱山開発
          4 四日市工場の建設と南方の海外事業地の拡大
     三 紀州鉱山における朝鮮人の強制徴用について
          1 社史における朝鮮人労働者の記述について
          2 強制徴用の実態調査

はじめに

 世紀末の今日、グローバル化の波が国民国家という近代の枠組みを大きく揺るがしつつある。
 とりわけ明治維新以来、集権的な国民国家を統合の軸として経済発展を続けてきた日本の社会は、このグローバル化の動きによって原理的な転換を迫られようとしている。国民国家の統合原理は、単一民族のイデオロギー的言説と密接に結びついてきた。
 この言説の再審によって、アイヌ、沖縄など異民族の抹殺のうえに存立してきた日本社会の起源が問い直されつつある。
 また国民国家の統合原理は、家父長制と結びつき、男女間の性別役割を固定化し、男女間の社会的な不平等を定着させてきたが、国家による統合原理の揺らぎはそのような固定したジェンダーやセクシュアリティのありかたにも疑問を投げかけている。歴史教科書をめぐる近年の論争も、国民国家の統合原理の動揺がもたらしたナショナル・アイデンティティの危機の現れと見ることができる。
 国家によって一元化された社会に代わって、社会の多元化が進行し、それと並んで、空間における主権の複合化が進展する。国境を越えた国際的な主権が誕生する一方で、国家から自律した地方分権の動きが活発化する。たとえば市民権を例にとってみても、従来は市民権を国籍と結びつけ、国籍をもたない外国人は参政権も、社会保障も取得が困難であったが、いまやアジア・レベルでの市民権が問われているし、地方の自治体では外国人に地方参政権をあたえよ、という声が高まっている。このようにして、市民権が国際地域レベル、国家レベル、地方レベルに多元化する傾向がみられる。
 以上のような時代的背景を踏まえながら、日本の地域社会が国家主権を脱して自律する道を探るためにこれまでの地域史をふりかえるというのが本稿の問題意識である。
 日本の地域は国家と企業のヘゲモニーのもとに築き上げられてきた。その一例として、紀伊半島南端の熊野市で起きた事件と、紀和町における鉱山企業の歴史をとりあげてみたい。

一 「木本事件」と紀州鉱山

1「木本事件」に見られる地域の国家への吸収
 木本事件とは、大正時代の末期の1926年1月に木本町(現熊野市)で起きた朝鮮人の惨殺事件である。
 当時三重県の県道工事の一環として木本トンネルが掘り進められていた。その工事のため数十名の朝鮮人労働者が日本人労働者とともに工事現場近くの飯場で暮らしていた。この年の正月、地元住民と朝鮮人とのささいなトラブルから「鮮人が家を焼き払う」という流言飛語が広がり、木本町はパニック状態に陥った。木本町長は事態を収拾するために、在郷軍人会、消防組、自警団の出動を要請し、地元の住民は銃剣、トビ口、猟銃などで武装して労働者の飯場を襲った。
 この混乱のさなかに、二人の朝鮮人の若者が住民に袋だたきにあい、竹槍やトビ口でめった突きにされて惨殺された。遺体は現場近くの寺の墓地に数日にわたってこもをかぶせられたまま放置されたと言う。
 事件の後も、住民はトンネルや山に難を逃れた朝鮮人を追跡し、すべての朝鮮人が逮捕されるか鳥羽に移送されて、木本町から追放された。
 公衆の面前で行われた惨殺事件であるにもかかわらず、二人を殺害した人物は最後まで特定されることはなかった。消防組のメンバーら3名が裁判にかけられたが、わずか懲役2年の判決で、その年の暮れの昭和天皇の即位によって「恩赦」で釈放されている。
 1989年以来、市民団体「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会」が結成され、碑の建立を熊野市に呼びかけると同時に、事件についての調査が行われてきた。
 ささいなトラブルが町全体の騒動にまで発展し、ふたりの犠牲者まで出すにいたった最大の原因は、住民のなかにある排外主義的な差別感情と、この感情に依拠して公的機関の出動をおこなった行政の行動にある。町長の出動要請によって在郷軍人会・消防組織・自警団が工事労働者の飯場を襲撃し、労働者をトンネル内に追いやることによって、住民と労働者との全面的な対峙という構図が作り出された。ふたりの死者はこの対峙のなかから生まれた。
 戦後になってこの事件について書かれた地元の郷土誌を読むと、事件における地元民の行動を正当化する記述が散見される。1983年に刊行された『熊野市史』では「木本トンネル騒動」の項のなかでは、事件の背景を当時の日本の植民地政策に求めながらも、住民はこの植民地政策の「ひずみを背負わされた」犠牲者であり、地元民のとった行動は「素朴な愛町心の発露」であったと、弁護的な評価がおこなわれている。
 また『木本小学校百年誌』の「鮮人騒動の記」という回顧録のなかでは、朝鮮人の日頃の行動を非難し、「無銭飲食、商品の借り倒し、野菜や果物の野荒らし、暴力沙汰、婦女子のいたずら」など「半島同胞の態度は目に余るものが」あり、「彼等の無法地帯的な行状に泣いたこの地方の人々こそあわれというべく、こうした騒動の勃発もあながち無理とはいえない」、と住民の行動が正当化されている。
 飯場の労働者と地元民のあいだには、子供の学校友達のつきあいや酒屋での大人同士のつきあいなど、親密な交流が存在していた。だがそのような交流は、排他的なナショナリズムの回路によって断ち切られる。この事件が語り出しているのは、地域が異文化をもった外国人との交流のきずなを築き上げながらも、その交流を育てて外に開かれた地域のアイデンティティ形成にまで高めることができずに、閉鎖的で狭隘な排外主義に身をゆだねてしまったということである。その排外主義を背後で支えたのが国家ナショナリズムであった。この排外主義的な差別感情を後ろ盾にして、行政が公的な暴力装置を発動した結果、悲惨な事件が引き起こされた。
 地域が危機に陥ったとき、その恐怖心が被差別者に対する攻撃的暴力へと転ずる例は、ちょうど木本事件が起こる3年ほど前、関東大震災で朝鮮人・中国人の大量虐殺を引き起こした関東地区の住民の行動においても立証されている。
 地域が異文化との交流を通じて自己を再発見するという自律した地域形成の原理を確立し、この原理によってナショナリズムを飼い慣らすことができていたならば、このような事件は起こらなかったであろう。地域が共同性を創造する力を国家にゆだねたことが、地域の閉鎖性・排他性を打ち固める結果になった。

2 紀州鉱山にみられる地域の企業への吸収
 熊野市から車で1時間ほど山に入った紀和町に、石原産業が開発した紀州鉱山という銅山がある。
 1935年に操業を開始し、今はすでに廃山になっているが、戦時中の最盛時には3000人以上の従業員が就労し、3000トン近い銅を採掘して、一時は全国の銅山で6、7位を占める大銅山であった。
 この鉱山で戦時中にイギリス軍の捕虜(300名)や強制徴用された朝鮮人労働者が就労していた。
 近年になって、石原産業が敗戦後の1946年に三重県内務部に提出した報告書が公表され、それによると朝鮮人労働者はのべ875人(報告書本文)にのぼることが明らかとなった。就労中に10名が病死・事故死し、就労中に逃亡した者は282名にのぼる。賃金の未払いの者や退職手当の支給されなかった者も多い。だがその実態については、戦後50年以上が経過した今日でも詳細な調査がなされていない。石原産業の社史も、鉱山の地元である『紀和町史』も、この件についてはごく簡単に触れているだけである。
 イギリス軍の捕虜(紀州鉱山の当時の所在地であった「入鹿村」の名前にちなんで「イルカボーイズ」と呼ばれる)については、就労中に16名が死亡したのを追悼して、1987年に追悼碑が紀和町に建立され、1992年にイギリス人捕虜の生存者を地元に招いて追悼祭が催された。
 だが強制徴用された朝鮮人については、そのような追悼の動きを地元に見ることはできない。アジア太平洋戦争を日米戦争に還元し、欧米を意識しながら、アジアの諸国の犠牲者には目をつむる日本人の国際感覚をここにも見ることができる。それは戦後日本の国家による対外政策・教育政策・文化政策を地域において反映するものと言うことができる。
 日本の企業は、戦前に帝国軍隊と国家の庇護のもとに海外の資源の略奪を遂行した。強制連行は、この資源略奪と連動した人的資源の略奪を意味する。次節で見るように、このような企業の海外における資源戦略のなかに紀州鉱山を位置づけて考える必要があろう。そして紀和町の地域は、このような鉱山企業の資源戦略のなかで、企業の主導権のもとに組織されてきた。たとえば、この地域は企業の活動によって深刻な環境破壊を被り、今日でもなおその影響から脱することができずにいる。紀和町に流れる河川は、鉱毒によって現在でも魚の住めない状態が続いている。
 次節では、石原産業の企業戦略における紀州鉱山の位置を確認し、紀和町の地域がそのような企業の戦略的拠点として位置づけられてきたことを確認したい。
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年表・紀州鉱山史(抄) 2

2008年03月19日 | 紀州鉱山
1943年 日本軍ボルネオ島占領後、石原産業、ラウト炭鉱(ラウト島)の石炭採掘開始。
1943年1月 江原道伊川郡などから75人が紀州鉱山に強制連行(「官斡旋」)。
1943年4月、三重県協和会鵜殿支部(支部長鵜殿警察署長)が紀州鉱山の紀州会館で、
     第三回総会。
1943年4月 石原産業四日市工場、軍需工場に指定。
1943年6月 海運業を日本海運株式会社に譲渡。社名を石原産業海運から石原産業に変更。
1943年7月 阿田和国民学校で、鵜殿警察署管内の朝鮮人にたいして「徴兵実施を前提
     とした錬成教育」。
1943年9月 江原道平昌郡などから99人、紀州鉱山に強制連行(「官斡旋」)。
1943年12月 江原道旌善郡から90人、紀州鉱山に強制連行(「官斡旋」)。
1943年ころから 「学徒勤労動員報国隊」が紀州鉱山で働きはじめる。
1944年4月 紀州鉱山板屋会館で協和会鵜殿支部総会。三重県警察本部長代理、鵜殿警
     察署長、紀州鉱山役員らが、朝鮮人労働者に「増産に挺身するよう訓示」。
     このころから紀州鉱山で、朝鮮人労働者の逃亡者続出。
1944年   四日市工場内に、朝鮮人労働者の宿舎「協和寮」新築。
1944年5月 慶尚北道安東郡から28人、軍威郡から29人が紀州鉱山に強制連行(「官
     斡旋」)。
1944年6月25日 入鹿村板屋の紀州鉱山敷地内に、大阪俘虜収容所第16分所開設。
   6月29日、 イギリス兵「捕虜」300人、連行。収容中に16人死亡。
1944年7月 板屋の朝鮮人宿舎「八紘寮」で、朝鮮人労働者143人、病人への待遇改善を
     要求して闘争。「送局」された8人全員が、8月15日に木本区裁判所で有罪判
     決(懲役8か月など)。
1944年8月 江原道鉄原郡から77人、紀州鉱山に強制連行(「徴用」)。
1944年8月11日 石原産業四日市工場敷地内に大阪俘虜収容所第17分所開設。「捕虜」
     600人連行。石原産業四日市工場で強制労働。1945年4月6日、名古屋俘虜収
     容所第5分所に移管。1945年6月、300人が北陸地方に。日本敗戦時、USA
     兵196人、オランダ兵75人、イギリス兵25人。収容中に600人のうち19人死亡。
1944年9月 「半島人労務者ノ移入ニ関スル件」閣議決定→朝鮮人「徴用」開始。
1944年秋  紀州鉱山の坑道の入口に、「朝鮮民族は日本民族たるを喜ばず。将来の朝
     鮮民族の発展を見よ」と、カンテラの火で焼きつけられていたという(許
     圭氏証言)。
1944年11月 江原道麟蹄郡などから98人、紀州鉱山に強制連行(「徴用」)。
1944年12月末、三重県に住む朝鮮人は25160人で、そのうち鵜殿警察署管内の朝鮮人は
     2288人であったという。
1945年1月 江原道平昌郡などから98人が紀州鉱山に強制連行(「徴用」)。
1945年1月25日、協和会鵜殿支部が鵜殿興生挺身隊と改称。紀州鉱山板屋会館で結成式。
1945年4月6日 紀州鉱山のイギリス兵「捕虜」、名古屋俘虜収容所第4分所に移管。
1945年5月 江原道原州などから36人が紀州鉱山に強制連行(「徴用」)。
1945年6月26日夜 USA軍、四日市爆撃。石原産業四日市工場、操業不能となる。
1945年   紀州鉱山のイギリス兵「捕虜」のところに、日本人軍曹、16個の骨箱をも
    ってきて埋めるように指示。イギリス兵「捕虜」、収容所敷地内に埋め、木の
    十字架をつくって、小枝に死者の名を刻む。
1945年8月18日 紀州鉱山のイギリス兵「捕虜」、日本敗戦を知る。
1945年9月9日 紀州鉱山のイギリス兵284人、入鹿村出発。9月12日、東京出発。
1945年11月 紀州鉱山の朝鮮人労働者、帰国を求めて争議。
1945年12月、石原廣一郎、A級戦犯容疑で逮捕。後任社長小山卓次郎も公職追放。
1946年 石原産業が、紀州鉱山のイギリス兵16人の「墓」を作る(1946年2月20日撮影
   の写真あり)。
1946年2月 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)法務局調査課調査官、紀州鉱山
   の捕虜収容所の調査に来る。その後、連合軍墓地捜索班が遺骨を横浜の「外人墓
   地」に埋葬。
1946年2月1日、紀州鉱山労働組合結成。2月10日、石原産業四日市工場労働組合結成。
1948年12月 東条英機らの処刑翌日、石原廣一郎釈放。
1964年3月 石原産業紀州鉱業所、紀和町板屋の共同墓地に「無縁塔」を立てる。
1978年5月 紀州鉱山、閉山。
1987年6月 紀和町教育委員会、「史跡 外人墓地」を造成し、紀和町文化財に指定。
1995年4月 石原産業が提供した紀州鉱山事務所跡地に、紀和町が紀和町鉱山資料館を
   建設、開館。
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年表・紀州鉱山史(抄) 1

2008年03月18日 | 紀州鉱山
1920年9月 石原廣一郎、マラヤのスリメダン鉄鉱山開発のため、大阪市に合資会社南洋
     鉱業公司設立。
1925年8月 石原産業公司設立。南洋鉱業公司の事業すべてを継承。
1929年8月 石原産業公司を石原産業海運合資会社と改称。
1934年7月 石原産業海運、三重県南牟婁郡入鹿村に、紀州鉱山を創業。
1935年12月 紀州鉱山坑道工事開始(清水組)。
1935年12月 「紀州鉱山従業員85名が、待遇改善を要求して同盟罷業」。
1937年4月 紀州鉱山板屋に選鉱場建設開始。1939年7月、完成。
1938年10月 石原産業海運、紀州鉱山の銅鉱石精錬をおこなう付属精錬所として三重県四
     日市で工場建設開始。
1939年2月 日本軍、海南島に侵入。5月、石原廣一郎、日本軍の護衛で海南島資源調査。
     8月、石原産業海運、海南島の田独鉄山を独占、1940年7月以後、奪った鉄鉱石を日
     本八幡製鉄所に。
1939年7月28日 「朝鮮人労務者内地移住に関する方針」、「朝鮮人労務者募集要綱」(内
    務・厚生両次官名義の依命通牒)→「募集」方式の朝鮮人強制連行開始。
1940年から 三重県は「朝鮮人労働者募集要綱」にもとづき、1939年度に200人、19
     40年度に300人の朝鮮人を紀州鉱山に連行することを承認。石原産業の社
     史には、「(1940年から)朝鮮に労務担当者を派遣し、同年の春、江原道
     から百名の労務者が来山」と書かれている。
1940年5月 石原産業海運、北山川瀞峡上流の3か所に発電用ダム建設申請。地域住民が反
    対し、計画中断。
1941年1月 四日市工場操業開始。都市地域での銅精錬は異例。日本国内だけでなく
    「南方」で採掘した銅鉱石の精錬もしようとした。操業開始後も工場建設工事
    はつづけられ、工事現場には朝鮮人労働者の飯場があった。
1941年5月24日、紀州鉱山の朝鮮人労働者130人が、米穀の増配を要求してストライキ。
   警察は「警察官にたいする暴行事件関係被疑者」として30人逮捕。7月4日、「首謀
   者金子命坤外十二名」を、「公務執行妨害並傷害罪」で「送局」。
1942年   日本軍のフィリピン占領後、石原産業海運、フィリピンのカランバヤンガ
     ン鉱山(ルソン島)の鉄鉱石、アンチケ鉱山(パナイ島)の銅鉱石、ピラカ
     ピス鉱山(パナイ島の銅鉱石)などの採掘開始。
1942年2月 「朝鮮人労務者活用に関する方策」閣議決定→「官斡旋」開始。
1942年2月 京畿道長端郡から99人の朝鮮人が紀州鉱山に強制連行(「官斡旋」)。
      中央協和会の文書は、「朝鮮人労働者募集要綱」にもとづいて紀州鉱山に
      「雇入」された朝鮮人の総数は、1942年6月末までで582人であり、そのとき
      の「現在数」は228人であるとしている。
1942年3月中旬 カランバヤンガン鉱山の西原儀一鉱長が、抗日ゲリラに殺される。
1942年9月 サンホセ(アンチケ銅山の積出港)からアンチケ銅山にトラックで向かう
     石原産業の従業員24人、抗日ゲリラに攻撃される。石原廣一郎、日本軍に空
     爆依頼。陸軍航空隊が爆撃。
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紀州鉱山で亡くなられた朝鮮人を追悼する集会

2008年03月13日 | 紀州鉱山
 三重県南部の熊野市紀和町の紀州鉱山(1978年閉山)で、アジア太平洋戦争中に1000人を越える朝鮮人が強制連行され強制労働させられていました。
 紀和町の慈雲寺本堂に置かれている朝鮮人犠牲者の名が記されている『紀州鉱業所物故者霊名』などによると、紀州鉱山で30人余りの朝鮮人が亡くなっています。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1997年2月の会結成前から、紀州鉱山に強制連行された人びとの故郷を訪ね、存命の方からお話しを聞かせていただいていました。そして、紀州鉱山での朝鮮人強制連行・強制労働の事実をおおくのみなさんとともに明らかにしていくとともに、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼するための何かをしたいと考えてきました。
 ようやくことし3月9日に、紀州鉱山ではじめての追悼集会をおこなうことができました。在日本朝鮮人総聯合会三重県本部、在日本大韓民国民団三重県地方本部、申載三さん(在日本大韓民国民団三重県地方本部伊賀支部長・伊賀コリアン協議会会長・伊賀市外国人住民協議会会長)、三重県歴史教育者協議会が後援してくれました。
 
 集会の前、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員2人が韓国に行き、紀州鉱山に強制連行された人たちの消息をたずねました。1996年から1998年にかけて江原道と慶尚北道でわたしたちは、紀州鉱山に強制連行され故郷にもどることのできた人たち15人に会いました。しかし、おおくの方がその後亡くなられており、こんど会うことができたのは、平昌郡珍富面に住む尹東顕さんと龍坪面に住む金烔燮さんだけでした。

 紀州鉱山選鉱所跡前の広場でおこなった3月9日の屋外追悼集会では、
  「朝鮮の故郷から引き離され、紀州鉱山で働かされ、亡くなった人たち。
   家族とともに紀州鉱山に来て亡くなった幼い子たち。
   わたしたちは、生きて故郷に帰ることができなかったみなさんを想い、なぜ、
  みなさんが、ここで命を失わなければならなかったのかを明らかにし、その歴史的
  責任を追究していきます」
と朝鮮語で書かれた追悼のことばが読まれ燃やされたあと、32人の犠牲者一人ひとりの名が朝鮮語で読みあげられるなか、その名を書いた紙が参加者一人ひとりによって燃やされました。
 紀和コミュニティセンターでの屋内集会では、10年~12年ぶりに江原道麟蹄・平昌や慶尚北道安東を訪れたときのことを報告するドキュメンタリー『紀州鉱山に強制連行された人たち 故郷で』上映後、30名あまりの参加者全員が、それぞれの思いを語りました。韓国政府機関である日帝強占下強制動員被害真相究明委員会の全基浩委員長からは、追悼のことばが寄せられました。

 追悼集会前日の8日午後と追悼集会当日の9日午前に、「現地調査」をおこない、朝鮮人労働者の墓石といわれている石が置かれている共同墓地、惣房・湯の口・板屋などの坑口跡、朝鮮人労働者の宿所跡、朝鮮人の遺骨が残されている本龍寺、朝鮮人犠牲者の名が記されている『紀州鉱業所物故者霊名』がある慈雲寺、鉱山資料館、紀和町指定文化財「史跡 外人墓地」などに行くとともに、惣房と板屋で当時のことを知る人に話を聞かせてもらいました。板屋に住む大畑高千穂さんは、朝鮮人の骨が埋められていた場所にわたしたちを案内してくれました。

 このはじめての追悼集会の日は、紀州鉱山で亡くなられた朝鮮人を追悼する碑の建設準備を始める日となりました。
                                  キム チョンミ
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『紀州鉱山に強制連行された人たち 故郷で』

2008年03月09日 | 紀州鉱山
      きょう午後、紀州鉱山で亡くなられた朝鮮人を追悼するはじめての追悼集会
     で上映した『紀州鉱山に強制連行された人たち 故郷で』の梗概です。
      このドキュメンタリーは、ことし2月29日~3月5日に、紀州鉱山の真実を明
     らかにする会の会員が、紀州鉱山に強制連行された人たちに再会しようとして
     10年~12年ぶりに韓国江原道麟蹄・平昌や慶尚北道安東を訪れたときの報告
     です。
      上映時間は、26分30秒です。このうち、3月4日に安東MBCが同行取材し、
     同日午後9時40分から放映したニュースが1分40秒、含まれています。


■麟蹄郡から、1942年~44年に、96人が紀州鉱山に強制連行された
映像:江原道麟蹄郡麟蹄邑を流れる昭陽川
テロップ:江原道麟蹄郡麟蹄邑を流れる昭陽川
     2008年2月29日
     江原道麟蹄郡麟蹄邑は、北方の雪嶽山山系から流れる麟北川と北川が、南方の
    五台山山系から流れる昭陽川に合流するところにある。昭陽川は、ソウルを流れ
    る漢江の源流のひとつである。
映像:金興龍さん 1997年の写真
テロップ:金興龍さん(1914年9月生) 1997年5月 自宅で
     2006年4月13日に亡くなった
映像:金石煥さん 1997年の写真
テロップ:金石煥さん(1923年6月生)
     1997年5月 自宅で
     2003年6月11日に亡くなった
映像:孫玉鉉さん 1997年の写真
テロップ:孫玉鉉さん(1922年5月生) 1997年5月 自宅前で
     2003年ころ亡くなった
映像:丁榮さんと安浩烈さん 1996年10月の写真 丁榮さんの自宅で
テロップ:丁榮さん(1917年9月生) 1996年10月 自宅で
     1999年陰暦3月27日に亡くなった
映像:丁榮さんの息子の丁炳碩さん
テロップ:丁炳碩さん(丁榮さんの息子さん)
     2008年3月1日
映像:安浩烈さん
テロップ:安浩烈さん 麟蹄郡自治行政課長
     2008年2月29日

■平昌郡から、1942年~44年に、160人が紀州鉱山に強制連行された。
映像:平昌郡珍富面 1997年5月の写真
テロップ:平昌郡珍富面 1997年5月
映像:珍富老人会館
テロップ:平昌郡珍富老人会館
映像:証言する尹東顕さん
テロップ:尹東顕さん(1923年4月生)
     2008年3月2日
映像:尹東顕さんから話を聞いている1997年8月の写真
テロップ:尹東顕さんから話を聞く
     1997年8月
映像:平昌郡龍坪面梨木亭里老人会館
テロップ:平昌郡龍坪面梨木亭里老人会館
映像:梨木亭老人会館で仕事をする人たち
映像:むしろを編む金烔燮さん
映像:証言する金烔燮さん 2008年3月3日
テロップ:金烔燮さん(1923年1月生)
     2008年3月3日
映像:証言するパクイネさん
テロップ:パクイネさん(87歳) 金烔燮さんの妻
映像:金烔燮さんとパクイネさん   1997年8月の写真
テロップ:金烔燮さんとパクイネさん
     1997年8月

■安東郡と軍威郡から、1942年~44年に、62人が紀州鉱山に強制連行された
映像:安東郡陶山面温恵洞
テロップ:慶尚北道安東郡陶山面温恵洞
映像:安東MBCニュース(2008年3月4日午後9時40分放映)
テロップ:安東MBCニュース
     2008年3月4日午後9時40分放映
映像:陶山面温恵洞老人会館
映像:林在鳳さん
テロップ:林在鳳さん(林聖煕さんの息子さん)
映像:朴受烈さん
テロップ:朴受烈さん(朴曾述さんの息子さん)
映像:南正琭さん  1998年8月の映像
テロップ:南正琭さん(1920年2月生)  1998年8月
     2001年ころ亡くなった
映像:林聖煕さん 1998年8月の映像
テロップ:林聖煕さん(1926年8月生) 1998年8月
     2006年ころ亡くなった
映像:張大烈さん  1998年8月の映像
テロップ:張大烈さん(1918年9月生)  1998年8月
     2007年12月に亡くなった
映像:許圭さん  1998年8月の映像
テロップ:許圭さん(1915年生)
     1998年8月
     証言「“朝鮮民族は日本民族たるを喜ばず。将来の朝鮮民族の発展を見よ”と、
    紀州鉱山坑口にカンテラの火で焼きつけられていた」



紀州鉱山に強制連行された人たち 故郷で   麟蹄・平昌・安東・軍威
       紀州鉱山の真実を明らかにする会 2008年3月8日制作
       構成:佐藤正人
       編集:佐藤正人 小谷英治
       撮影:小谷英治 佐藤正人 キム チョンミ
       協力:李貞姫
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第1回追悼集会 2008年3月9日

2008年03月07日 | 紀州鉱山
■屋外追悼集会:選鉱所前  13:00~14:00
黙祷
開会のあいさつ・これまでの経過
献花・献杯
後援者のあいさつ
韓国からのメッセージ
追悼碑建立にむけて
追悼行事

■屋内追悼集会:紀和コミュティセンター  14:20~16:30
1 開会のあいさつ                  
2 「紀州鉱山に強制連行された人たち 故郷で」上映 
3 追悼碑建立について              
4 熊野市への要請について          
5 参加者の発言               
6 閉会のあいさつ              

                               
紀州鉱山「現地調査」
■3月8日(午後1時~午後5時半) 共同墓地(板屋。石原産業紀州鉱業所が1964年に建てた「無縁塔」、朝鮮人労働者の墓石と言われている石が置かれている)→坑口(惣房、湯の口、米込)→朝鮮人労働者の宿所跡(筑後)→三和小学校跡(朝鮮人生徒が通っていた)→坑口(三和)→和気の本龍寺(朝鮮人の遺骨が残されている)→朝鮮人労働者の宿所跡(湯の口)。
■3月9日(午前9時~午前12時) 小栗須の慈雲寺(朝鮮人犠牲者の名が記されている『紀州鉱業所物故者霊名』を見せてもらう)→鉱山資料館(板屋。紀州鉱業所本部がここにあった)→1943年に石原産業紀州鉱業所が建てた「慰霊碑」(板屋)→紀和町指定文化財「史跡 外人墓地」(板屋)→坑口(板屋)→朝鮮人労働者の宿所跡(板屋、所山)→紀州鉱山選鉱所跡(板屋)。
                                         
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紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集会までの道程

2008年03月06日 | 紀州鉱山
1993年7月 佐藤正人「侵略・強制連行・公害――紀和町の紀州鉱山と四日市市の石
     原産業のこと――」、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允、
     相度)の追悼碑を建立する会『会報』18号。
1994年11月20日 李基允氏と相度氏の追悼碑、除幕。
1995年11月18日 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・相度氏)の追
     悼碑を建立する会編刊『熊野・紀州鉱山・新宮「現地調査」資料集』発行。
1995年11月19日 第1回紀州鉱山「現地調査」。
1996年夏 「石原産業紀州鉱山1946年報告書」入手。
1996年10月 江原道麟蹄郡麟蹄邑、瑞和面、北面、麒麟面で、紀州鉱山に強制連行
     された人たちに話を聞かせてもらう。
1996年11月14日 許圭氏から話しを聞く。
1996年11月16日 『紀州鉱山「現地調査』資料Ⅱ』発行。
1996年11月17日 第2回紀州鉱山「現地調査」。
1996年12月15日 「戦時中の紀州鉱山 朝鮮人労働者延べ875人」、『中日新聞』朝
     刊(三重版)。
1996年12月18日~21日 江原道旌善郡(旌善邑、新東邑、舎北邑、古汗邑、東面、
     北面、臨渓面、南面、北坪面)に。
1996年11月22日 「旧紀州鉱山で聞き取りや資料集め強制連行の実態旧鉱山に尋ね
     る」、『朝日新聞』朝刊(三重版)。
1997年1月 佐藤正人「三重県紀和町の紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の跡をたず
     ねて “支払われなかった退職手当” 明らかになった紀州鉱山の  
     嘘」、『パトローネ』28号。
1997年1月20日 「紀州鉱山“陰の歴史”に光 来月9日、調査会設立」、『中日新
     聞』朝刊(三重版)。
1997年2月5日 「旧石原産業紀州鉱山の朝鮮人連行 実態解明へ」、『朝日新聞』朝
     刊(三重版)。
1997年2月9日 紀州鉱山の真実を明らかにする会、創立。
1997年3月1日 韓国『東亜日報』に、紀州鉱山の真実を明らかにする会結成の記事。
1997年3月 佐藤正人「麟蹄で」、キム チョンミ「旌善で」、竹内康人「紀州鉱山への朝
     鮮人強制連行状況」、『会報』25号。
1997年4月 斎藤日出治「発足 紀州鉱山の真実を明らかにする会  紀州鉱山の強
     制連行の実態を調査!」『パトローネ』29号。
1997年5月1日~5月5日 江原道麟蹄郡各地へ。
1997年5月18日 許圭氏から話しを聞く。
1997年6月 佐藤正人「熊野市の木本トンネルと紀和町の紀州鉱山」、『キョレ通
    信』5号、梅軒研究会。
1997年7月下旬 第8回朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える交流集会(松
    江)。佐藤正人報告(「紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の故郷をたずねて」)。
1997年8月3日~8月16日 江原道平昌郡(平昌邑、美灘面、芳林面、大和面、珍富
    面、龍坪面、道岩面)、堤川へ。8月9日 『江原道民日報』、8月15日『ソ
    ウル新聞』で報道。
1997年9月 紀州鉱山の真実を明らかにする会「紀州鉱山への朝鮮人強制連行――な
    ぜ事実を解明するか、事実を解明してどうするのか――」、『在日朝鮮人
    史研究』27号。
1997年10月 キム チョンミ「強制連行された朝鮮人の故郷と朝鮮人が強制労働させ
    られた地域を結ぶ民衆のきずなを!」、『パトローネ』31号。
     佐藤正人「麟蹄と平昌で」、斎藤日出治「江原道平昌を訪れて」、崔文
    子「私の聞きとり体験――紀州鉱山に連行された人々の聞き取り調査に参
    加して」、『会報』26号
1997年11月16日 第3回紀州鉱山「現地調査」。
1997年11月17日 韓国からの参加者とともに、紀和町に抗議・要請。
1997年11月22日 橋本市に住む朴斗萬氏(紀州鉱山で働いていた)を訪ねる。
1997年12月 竹内康人「紀州鉱山への朝鮮人強制連行について」、『熊野誌』第43号。
1998年2月 斎藤日出治「木本トンネルと紀州鉱山 日本の地域史における国家と
    企業の役割について」、『大阪産業大学論集 社会科学編』108号。
1998年4月1日 中浦敏夫紀和町長、久保幸一紀和町教育委員会教育長に、はじめて
    の文書要請。
      一、紀和町と紀和町教育委員会は、紀州鉱山への朝鮮人強制連行の歴
       史的事実を積極的に急いで調査し、『紀和町史』にその事実を明記
       すること。
      二、紀州鉱山への朝鮮人強制連行の事実を示す展示がない鉱山資料館
       の展示内容を変更し、解説を書きかえること。
      三、紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんする資料を探索し開示すること。
      四、紀州鉱山に強制連行され、強制労働させられて亡くなった朝鮮人
       の追悼碑を建て、定期的に追悼式をおこない、また追悼碑の維持・
       管理に責任をもつこと。追悼式に、遺族および紀州鉱山に強制連行
       された朝鮮人の参加を保証すること。
1998年6月 石原産業が鉄鋼資源を略奪していた海南島の田独鉱山で最初の「現地調査」。
1998年8月12日 韓国KBS『紀州鉱山への朝鮮人強制連行』放映。
1998年8月18日~22日 紀州鉱山の真実を明らかにする会、第3回韓国「現地調査(慶
    尚北道安東郡・軍威郡)」。韓国安東MBC、同行取材。
1998年8月29日~9月3日 安東MBC、『紀伊半島に隠された真実』制作のため訪
    日取材。
1998年9月20日 「戦時中の紀州鉱山で“逃亡”の男性  韓国の戸籍で“死亡”の
    記述  市民団体の調査で判明」、『中日新聞』朝刊(牟婁版)。
1998年10月 「紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の故郷安東・軍威と紀和町で」、
    『パトローネ』35号。
1998年10月15日 韓国安東MBC『紀伊半島に隠された真実』放映。
1998年11月15日 熊野市極楽寺で、『紀伊半島に隠された真実』上映。
1998年11月16日 第4回紀州鉱山「現地調査」。
        紀和町教育委員会、鉱山資料館での紀州鉱山の真実を明らかにす
       る会の資料展示合意。紀和町の助役と教育長に口頭で、千炳台氏の
       埋火葬許認可書の閲覧を求める。
1999年3月25日 鉱山資料館展示用として「紀州鉱山関係資料」(13種)を紀和町教育
       委員会に送る。
1999年11月21日 第5回紀州鉱山「現地調査」。
2003年7月21日 紀和町役場で再度口頭で、千炳台氏の埋火葬許認可書の閲覧を求める。
2003年11月22日 紀和町に、公文書公開条例にもとづき、千炳台氏の埋火葬許認
       可書の閲覧を求める文書を送る。
2006年1月16日 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人と考えられる39人について、熊野市
       に、埋火葬許認可書の閲覧を求める文書を送る。
2006年2月15日 「紀州鉱山 石原産業60年前の“暗部” 記録にない朝鮮人殉職
       市民団体が調査要請」、『中日新聞』夕刊。
2007年11月24日 第13回紀州鉱山「現地調査」。
2008年3月8日 第14回紀州鉱山「現地調査」。
2008年3月9日 第1回追悼集会。
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紀州鉱山で亡くなった朝鮮人

2008年03月03日 | 紀州鉱山
■『紀州鉱山1946年報告書』
 紀州鉱山で命をおとした朝鮮人にかんしては、明らかになっていないことがおおい。
 1946年9月に石原産業は、紀州鉱山で働かせて朝鮮人労働者にかんする報告書を三重県内務部に提出した(ここでは「紀州鉱山1946年報告書」とする)。
 この報告書では、1942年から「8・14」までに紀州鉱山に「徴用・雇傭」された朝鮮人は、のべ875人で、そのうち282人が「逃亡」したとされている。
 この報告書には、738人の朝鮮人の名と本籍地や「入所経路」が書かれているが、そのうち、9人を除く729人の「入所経路」は、「官斡旋」と「徴用」とされている。この「官斡旋」とは、1942年2月の日本政府閣議決定後の強制連行のことであり、「徴用」とは、1944年9月からの「国民徴用令」による強制連行のことである。
 この報告書のはじめの部分には、1942年以後の紀州鉱山での朝鮮人労働者の「死亡者数」は10人と書かれているが、名簿部分に記されているのは、「玉川光相」氏(1944年3月7日「業務上死亡」)、「海山応龍」氏(1945年2月20日「病死」)、南而福氏(1945年5月3日「病死」)、「金本仁元」氏(1945年6月1日「公傷死」)、「金山鍾云」氏(「病死」死亡日記載なし)の5人だけである。

■『従業物故者 忌辰録』
 石原産業が1955年につくった『従業物故者 忌辰録』(1955年10月10日現在調)という「会社創業以来の物故者」の名簿がある。ここでは、「殉職者」「戦没者」「一般病没者その他」にわけられ、1269人の名前と死亡年月日が記載されている。
 「殉職者」の部分に、梁四満氏(1938年6月27日「殉職」)、安謹奉氏(1940年10月17日「殉職」)、崔俊石氏(1940年12月31日「殉職」)の名がある。
 「戦歿者」の部分に、趙龍凡氏(1942年11月16日「戦歿」)、曽春木氏(1942年11月24日「戦歿」)の名がある。
 「病没関係その他未詳分」の部分に、薜乗金氏(1936年5月15日「病没」)、梁煕生氏(1940年6月1日「病没」)、千炳台氏(1944年8月2日「病没」)、南而福氏(1945年5月3日「病没」)の名がある。
 その他に創氏改名させられていた朝鮮人労働者と思われる「安田徳勲」氏(1944年8月6日「殉職」)、「玉川鐘連」氏(1942年8月8日「病没」)らの名がある。
 この『従業物故者 忌辰録』に記されている死者のうち朝鮮人と推定・断定できる人は、25人である。推定というのは、「創氏改名」後の名前で記載されている人がいるからである。

■『紀州鉱業所物故者霊名』
 紀和町小栗須の慈雲寺の本堂に置かれている「紀州鉱業者物故者諸精霊」と書かれた箱に『紀州鉱業所物故者霊名』が入れられている。ここには、紀州鉱山で死んだ人たち423人の名が記されている(最終記載日は1978年6月16日)。そのうち朝鮮人と推定・断定できる人は、12人である。
 『紀州鉱山1946年報告書』の5人のうち3人は、『従業物故者 忌辰録』、『紀州鉱業所物故者霊名』にも名前が記載されている。『紀州鉱業所物故者霊名』の12人は、全員が『従業物故者 忌辰録』にも記されている。

■本龍寺に残されている遺骨
 紀和町和気の本龍寺には、木箱に入れられ白い布に包まれた「無縁」の数十体の遺骨が、本堂に置かれてあった。木箱を包んでいる布には、名前が書かれていた。朝鮮人だと考えられる遺骨は、5体であった。この「無縁」の遺骨はすべて、1999年10月2日に、庭に新しく作られた納骨堂に合葬された。
 朝鮮人と考えられる5人のうち、2人は、3歳と8歳の幼児である。紀州鉱山には、強制連行された朝鮮人のほかにも、土木工事などで朝鮮人が働いていた。地元の人の話によると、家族連れの朝鮮人がおり、子どもは小学校に通っていたという。

■死者の人数と名前
 『紀州鉱山1946年報告書』、『従業物故者 忌辰録』、『紀州鉱業所物故者霊名』に記された死者の重複を整理し、本龍寺に置かれている人を加えた死者は32人である。
 その名前は、つぎのとおりだが、本名がわからない人が多い(○印は、判読不能)。このほかにも紀州鉱山で命を失った朝鮮人がいたと思われる。

金本仁元 南而福 金山鍾云 海山應竜 玉川光相 千炳台 梁四満 安謹奉 大内炳南 崔俊石 金山大成 春木 安田徳勲 玉岡永植 阿李氏碧収 松本正元 趙龍凡 松本天植 河元国春 瀧山泰徳 薛秉金 梁煕生 玉川鐘連 金本万壽 金岡学録 梁井泰承 南護 安陵晟 吉興進 鄭誠○ 松本恢姫 大山泰年

■千炳台氏
 『紀州鉱山1946年報告書』では、1917年生まれ、慶尚北道安東郡臥龍面の千炳台氏は、1944年5月7日に紀州鉱山に来て、3か月後の1944年8月2日に「逃亡」したとされている。だが、千炳台氏は、『従業物故者 忌辰録』では、同じ日に、「病没」したとされている。
 1998年8月、わたしたちは、千炳台氏の消息を知るために、韓国慶尚北道安東郡臥龍面の面事務所を訪問した。そこで閲覧した戸籍簿には、千炳台氏は、1944年8月1日に当時の上川村(旧、紀和町和気。現、熊野市)で死亡し、8月2日に死亡届けが出され、上川村長が受理したことが記されていた(『会報』28号、35号を見てください)。
 千炳台氏の名は、『紀州鉱業所物故者霊名』には、「子炳台」と書かれている)。
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1998年11月16日に当時紀和町の助役と教育長に口頭で、2003年7月21日に紀和町役場で再度口頭で、同年11月22日に文書で、公文書公開条例に基づき、千炳台氏の埋火葬許認可書の閲覧を求めた。
 また、2006年1月16日に、熊野市に紀州鉱山で亡くなった朝鮮人と考えられる39人の埋火葬許認可書の閲覧を求めたが、熊野市は拒否しつづけている。
 逃亡した朝鮮人が、紀州鉱山のはずれを流れる熊野川を泳いで渡ろうとして、溺れたという話を聞いた。朝鮮人死者の数は、まだまだ、明らかではない。
 『紀州鉱山一九四六年報告書』では、「金山鍾云」氏の本籍地は江原道麟蹄郡麒麟面とされている。1997年5月に麟蹄郡で聞きとりをしたさい、「金山鍾云」氏の本名は金鍾云氏で、1945年春に獄死したという証言を麟蹄邑に住む金石煥氏から聞いた。『紀州鉱山一九四六年報告書』に「金山鍾云」氏が亡くなった日が記載されていないのはそのためではないか
 「海山応龍」氏の本籍地は、江原道平昌郡平昌面とされている。1997年8月はじめに平昌郡で「海山応龍」氏のことを尋ね歩いたが、遺族にも知人にも出会うことができなかった。
                                                                      キム チョンミ
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