三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

感城鎮宝上村で

2011年12月31日 | 海南島史研究
 日本海軍司令部は、海南島全域を5つに区分し、第15警備隊、第16警備隊、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の5部隊に軍事支配をさせていました。第15警備隊と第16警備隊は、呉鎮守府に所属する陸戦隊部隊でした。日本本土の4個の海軍鎮守府すべての陸戦隊が海南島に侵入し侵略犯罪をくりかえしていました。
 横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の本部は感恩県北黎(現、東方市新街鎮)におかれており、石碌、保平、海尾、海頭、白馬井、下黎、楽安、九所、黄流、佛羅、重合、雅星、高石、和盛、宝橋、感恩など30地域に守備隊基地がありました。
 各陸戦隊各守備隊には数10人の将兵が常駐しており、ほとんどの守備隊本部の周囲には壕が掘られており、鉄条網がはりめぐらされていました。守備隊兵舎の近くには望楼が建設されていました。
 日本海軍海南警備府の文書によると、感恩守備隊本部には30人あまりの将兵が常駐していたようです。感恩守備隊本部は、現在の感城鎭中心学校の敷地内にありました。
 11月3日午後1時半ころ、わたしたちは、麦家祠から西に300メートルほどの地点にある感城鎭中心学校に行きました。そこで出会った元教師の楊さん(67歳)は、
   “日本軍の炮楼は見たことがある。かなり高く、四角い形だった。かなり前に無くなった。
   学校の正門を入って左側に、日本軍の宿舎があった。日本軍のいたところには、東西南
   北の4つの門があった”
と話しました。
 わたしたちは、2006年4月1日に、感恩で「現地調査」をしたことがあります(このブログの2009年10月21日の「パランオッ・藍色衣服・青い服 8」をみてください)。
 その5年7か月後の2011年11月3日午後、感恩鉄橋跡や宝上村を再訪しました。宝上村は、「朝鮮報国隊」の宿所があった村です。
 午後2時半ころから、宝上小学校近くの雑貨店で梁恩嬌さん(1929年生。女性)に話を聞かせてもらうことができました。梁恩嬌さんは、つぎのように話しました。
   “わたしは、日本軍が入ってきた当時、この村にいた。
    このあたりの田はすべて日本軍に奪われた。日本軍は奪った田の稲の栽培や収穫を
   村人にさせた。わたしも、田んぼのしごとや収穫したコメを集めるしごとなどいろいろさ
   せられた。
    いつも日本兵が監視していた。70パーセントは日本軍がとり感城の本部に運ばせた。
   のこりの30パーセントが村人にわたされた。収穫のときにも日本兵が監視しているの
   で隠すことはできない。
    農作業を終えて家に帰るとき、若くてきれいな女性は、ときどき連れていかれた。
    日本兵は凶悪な顔をしていた。村人はたいへんだった。草がはえたら、その責任を追
   及された。その人の名前は、思い出せない。 稲の生育が良ければ、よくがんばったと
   いう。生育が悪ければ殴られた。殴られて死んだ人もいる。
    わたしの家では遠くはなれたところにも田んぼを持っていたが、栽培できなかった。
   問題が起きたらと思うと恐くて”。
 同じ場所で、張鉄球さん(1931年生)と蘇太助さん(1932年生)は、交互にこう話しました。
   “青い服を着た集団:藍衣隊がこの村にいた。帽子、上着、ズボン、背負うカバン、み
   んな青かった。軍隊のようなベルトをして、靴も履いていた。しごとの行き帰りに列を
   作って歩かされ、歌をうたわせられていた。みんな背が高かった。20歳すぎくらいの若者
   たちだった。
    藍衣隊はこの村の昔の学校に住んでいた。昔の宝上小学校。たくさんいたが、はっき
   り覚えていない。100人以上はいたと思う。
    藍衣隊は鉄道工事をしていた。土を運んだり、レールを運んだり。土をくるまに積み
   入れて、鉄道の場所まで運んでいた。
    さいしょ、木の柱の橋。セメントの丸い土台に真ん中を丸くくぼませたところに、木の
   柱を立てた。列車の鉄道の橋だ。洪水で流されて、それで、柱がコンクリートのいま
   立っている橋を作った。柱をコンクリートで作って、上は板で作った。鉄でつなげて、レ
   ールの間の枕木は木。列車が通ったこともある。機関車だけで、試運転だけした。爆弾
   で橋がこわされたこともあった。
    トラックが通る道路は、いまも使ってるあの道路。
    1948年の大洪水で、枕木、鉄板、レール、みんな流された。
    仕事が終わって列を作って戻ってからは、どこにも行かせなかった。白い帽子、白い
   ズボンをはいた人たちが監視していた。ずっと監視している。外に出ることはできない。
   仕事をしにいくとき、帰ってくるときも、監視していた。監視する人は、銃を持っていな
   いが、剣を持っていた。白い服装の人は。5、6人。藍衣隊より年上。
    木の橋を作ったのは朝鮮人。通訳がいて、通訳から聞いた。軍人ではなかった」。
 張鉄球さんは、さらにこう話しました。
   “橋の工事で柱は、ニシマツクミが作った。藍衣隊は土を運んだ。
    ニシマツクミは八所から来ていた。通訳が教えてくれた。ニシマツクニには少し年かさ
   の人がいて、あごひげをはやしていた。
    日本兵は子どもに‘カミ’をくれた。ここでは大便をしたとき、草などでふいたが、日本兵
   が、子どもに‘カミ’をくれることがあった。
    道路工事をするのにレンガが必要で、家を壊してレンガをはずして使った。少しでも不
   満を言ったら殺されるので、怒ることができない。
    “日本人はみんな殺してしまうというので、みんな山に逃げた。
     半月とか、1か月。2か月間逃げていた人もいた。漢奸が、「日本人は殺さない。戻っ
    てください。抵抗する人だけ殺す」というので、戻った。
     日本人は、だれもいなくなってしごとをさせることができずに困っていた。
     さいしょ何人か戻って、大丈夫だったので、それで少しづつ戻った。
     昔は、このあたりは原始林だった。
     日本人は、飛行機で、誰も殺さない、というビラを撒いた。山には食べ物はないし、田
    んぼのしごともできないから、早く戻りなさい、という内容だった。ぜんぶ漢語で書いて
    あった。
     日本軍が家を焼いたこともあった。日本軍がさいしょ来るとき、飛行機で爆弾を落とし
    た。そのあと、日本軍が入ってきて、家を焼いた」。
     日本が敗けるという話を聞いたが、日本軍が何をするか恐ろしくてまた山に逃げた。最
    後に日本軍がまた殺したりひどいことをするかと思って、みんな逃げた。
     共産党は日本が敗けたとき。武器を回収するために早いうちに感城に来た。少数民族
    の人も連れていた。少数民族の人は山にいるので、火薬中を持っている。共産党は武器
    がないので、それで(少数民族をなかまにした。
     国民党は、日本軍から小さい手榴弾をもらって、麦家祠に投げたと聞いたことがある”。
 
 張鉄球さんと蘇太助さんから話を聞きおわってから、以前行ったことのある「朝鮮報国隊」の宿舎跡に向かいました。途中以前話を聞かせてもらった呉日文さん(1931年生)の家を訪ねました。呉日文さんといっしょに話を聞かせてもらった蘇諠芬さん(1923年生)は4年ほど前に病死したとのことでした(呉日文さんと蘇諠芬さんの証言は、写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(紀州鉱山の真実を明らかにする会編、2007年2月発行)95頁をみてください)。
 こんかい、また呉日文さんに「朝鮮報国隊」の宿舎跡に案内してもらってさらに話を聞かせてもらいましたが、5年7か月前には残っていたその建物は撤去され、広い空き地になっていました。

                                       佐藤正人
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麦家祠戦闘中犠牲 3

2011年12月30日 | 海南島史研究
  韩孙利 (1911—1945) 海南感恩县新龙乡(今东方市新龙镇)新村人。l945年参加琼崖抗日独立纵队,为第二支队三大队八中队战士。同年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  曾广学 (1920—1945) 海南感恩县新龙乡(今东方市新龙镇)龙卧村人。1944年参加琼崖抗日独立纵队,为第二支队三大队八中队战士。1945年9月在感恩县感城麦宗祠战斗中牺牲。
  黄士刚 (1911—1945) 又名黄士圣。海南感恩县(今东方市)感城镇感城村人。l945年参加琼崖抗日独立纵队,为第二支队三大队八中队战士。同年9 月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  符木贵 (1909—1945) 海南感恩县新龙乡(今东方市新龙镇)龙佑村人。1945年在昌感县中队当班长,同年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  符邓金 (1921—1945) 海南感恩县新龙乡(今东方市新龙镇)长坡村人。1945年初参加琼崖抗日独立纵队,为第二支队三大队八中队战士,同年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  符亚进 (1906—l945) 海南乐东县公爱乡(今属东方市)公爱村人。黎族。l945年参加昌感县常备队,同年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  符亚利 (1915—l945) 海南乐东县公爱乡(今属东方市)温村人。黎族。1943年参加村抗日自卫队。1945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  符亚茂 (1913—1945) 又名符林茂。海南感恩县新龙乡(今东方市新龙镇)道达村人。1945年参加琼崖抗日独立纵队,为第二支队三大队八中队战士,同年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  符亚烂 (1918—1945) 海南乐东县中沙乡(今属东方市)中沙村人。黎族。l944年参加琼崖抗日独立总队,为第二支队三大队九中队战士。l945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  符亚脱 (1905—1945) 海南乐东县公爱乡(今属东方市)公爱村人。黎族。l945年参加昌感县常备队。同年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  符亚寒 (1909—1945) 海南感恩县新龙乡(今东方市新龙镇)龙佑村人。1944年参加琼崖抗日独立总队,为第二支队三大队八中队战士。1945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  符亚察 (1915—l945) 海南乐东县公爱乡(今属东方市)温村人。黎族。1943年参加温村抗日自卫队,l945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  符成祥 (1917—1945) 海南感恩县新龙乡(今属东方市新龙镇)长坡村人。1943年参加村抗日自卫队,后为琼崖抗日独立纵队第二支队三大队八中队战士。l945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  符成祥 (1917—1945) 海南感恩县北黎镇北黎村(今属东方市新街镇)人。l941年参加琼崖抗日独立总队,为第二支队三大队八中队战士。l945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  符贞成 (1925—1945) 海南感恩县(今东方市) 罗带乡高排村人。l943年参加琼崖抗日独立总队,为第二支队三大队八中队战士。1945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  符色存 (1915—1945) 海南乐东县公爱乡(今属东方市)公爱村人。黎族。l943年参加村抗日自卫队,l945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  符君相 (1917—1945) 海南昌江县四更乡(今东方市四更镇)日新村人。中共党员。l940年任琼崖抗日独立总队第二支队三大队八中队指导员。l945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  符阿典 (1909—1945) 海南感恩县新龙乡(今东方市新龙镇)龙佑村人。1943年参加琼崖抗日独立总队。为第二支队三大队八中队战士。1945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  符物公 (1910—1945) 海南乐东县公爱乡(今属东方市)温村人。黎族。1943年参加村抗日自卫队。1945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  符思兴 (1921—1945) 海南昌江县四更乡(今东方市四更镇)日新村人。1942年任琼崖抗日独立总队第二支队三大队八中队小队长。1945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  符福则 (1918—1945) 海南感恩县新龙乡(今东方市新龙镇)龙卧村人。1945年参加琼崖抗日独立总队。为第二支队三大队八中队战士,同年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  符养 (1917—1945) 海南感恩县(今东方市)罗带乡高排村人。l945年参加琼崖独立纵队,为第二支队三大队八中队战士。同年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  王贡 (1919—1945) 海南感恩县三区丹村(今属乐东县佛罗镇)人。l944年参加琼崖抗日独立总队。后为琼崖独立纵队第二支队三大队八中队战士。1945年9月3日在感恩县(今东方市)感城麦家祠战斗中牺牲。
  王九斧 (1918—1945) 海南感恩县三区求雨村(今属乐东县佛罗镇)人。l944年9月参加琼崖抗日独立总队。后为琼崖独立纵队第二支队三大队八中队战士。l945年9月3日在感恩县麦家祠与日伪顽军战斗中牺牲。
  王宇坤 (1924—1945) 海南感恩县三区求雨村(今属乐东县佛罗镇)人。l944年参加琼崖抗日独立总队,为第二支队三大队九中队战士。l945年9月3日在感思县麦家祠与日伪顽军战斗中牺牲。
  石良碧 (1924—1945) 海南感恩县三区青山村(今属乐东县佛罗镇)人。l943年参加琼崖抗日独立总队。为第二支队战士。l945年9月3日在感恩县麦家祠战斗中牺牲。
  石奇能 (1910—1945) 海南感恩县三区青山村(今属乐东县佛罗镇)人。l944年参加琼崖抗日独立纵队,为第二支队三大队战士。1945年9月在感恩县麦家祠战斗中牺牲。
  邢贻福 (1923—1945) 海南感恩县三区凤田村(今属乐东县尖峰镇)人。中共党员。1943年参加琼崖抗日独立总队,曾任第二支队第三大队八中队队长。1945年9月3日在感恩县麦家祠战斗中牺牲。
  李亚层 (1926—1945) 海南感恩县三区眉报村(今属乐东县尖蜂镇)人。l944年参加琼崖抗日独立总队,为战士。l945年9月3日在感恩县城麦家祠与日伪顽军战斗中牺牲。
  李亚相 (1917—1945) 海南感恩县三区山道村(今属乐东县尖峰镇)人。l943年参加琼崖抗日独立总队,为第二支队第三大队八中队战士。1945年9月3 日在感恩县城麦家祠与日伪顽军战斗中牺牲。
  麦亚福 (1926—1945) 海南感恩县三区翁公头村(今属乐东县尖蜂镇)人。l944年参加琼崖抗日独立总队,为第二支队第三大队八中队战士。1945年9月3日在感恩县城麦家祠战斗中牺牲。
  麦秋望 (1924—1945) 海南感恩县三区长田村(今属乐东县尖峰镇)人。l945年参加琼崖纵队,为第二支队战士。同年9月在感恩县麦家祠与日伪顽军战斗中牺牲。
  张开芳 (1917—1945) 海南崖县五区莺歌海村(今属乐东县莺歌海镇)人。中共党员。1943年参加革命工作,后参加琼崖抗日独立纵队,曾任第二支队第三大队副政委。l945年9月3日在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  陈人珍 (1929—1945) 海南感恩县三区岭头村(今属乐东县尖峰镇)人。l945年4月参加感恩常备班。为常备班战十。同年9月3日在感恩县感城麦家祠战斗牺牲。
  陈开发 (1925—1945) 海南感恩县三区青山村(今属乐东县佛罗镇)人。l943年参加琼崖抗日独立总队,为第二支队战士。l945年9月3日在感恩县感城麦家祠战斗牺牲。
  陈文运 (1925—1945) 海南感恩县三区丹村(今属乐东县佛罗镇)人。中共党员。1943年参加琼崖抗日独立总队,曾任班长。l945年9月在感恩县感城麦家祠战斗牺牲。
  陈文样 (1915—1945) 海南感恩县三区丹村(今属乐东县佛罗镇)人。l943年参加琼崖抗日独立总队,为战士。l945年9月3日在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  陈美安 (1921—1945) 海南崖县五区新村(今属乐东县莺歌海镇)人。l944年参加琼崖抗日独立纵队,为第二支队第三大队战士。l945年9月3日在感恩县感城麦家祠战斗牺牲。
  林朝安 (1920—1945) 海南感恩县三区岭头村(今属乐东县尖峰镇)人。中共党员。1943年4月参加琼崖抗日独立总队,曾任第二支队第三大队小队长。1945年9月3日在感恩县(今东方市)感城麦家祠与日伪顽军战斗中牺牲。
  林朝辉 (1928—1945) 海南感恩县三区白井村(今属乐东县佛罗镇)人。l943年参加琼崖抗日独立总队。后为琼崖独立纵队第二支队第三大队八中队战士。1945年9月3日在感恩县感城麦家祠与日伪顽军战斗中牺牲。
  黄亚位 (1930—1945) 海南感恩县三区岭头村(今属乐东县尖峰镇)人。l945年参加感恩县三区抗日民主政府常备班,为常备班战士。同年9月3日在感恩县感城麦家祠战斗牺牲。
  黄亚苦 (1926—1945) 海南感恩县三区山道村(今属乐东县尖峰镇)人。l945年参加琼崖抗日独立纵队。为第二支队第三大队八中队战士。1945年9月3 日在感恩县感城麦家祠战斗牺牲。
  梁其英 (1919—1945) 海南感恩县三区白沙村(今属乐东县尖峰镇)人。l944年5月在感恩县参加革命工作,l945年9月在感恩县感城麦家祠战斗牺牲。
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麦家祠戦闘中犠牲 2

2011年12月29日 | 海南島史研究
  花秋英 (1924—1945) 女。海南昌江县新街镇(今属东方市)新街村人。1944年参加琼崖抗日独立总队,在第二支队八中队当炊事员。1945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  苏义 (1923—1945) 海南感恩县新龙乡(今东方市新龙镇)龙卧村人。1942年初参加龙卧村抗日自卫队,后为琼崖抗日独立纵队第二支队三大队八中队战士。l945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  苏亚地 (1907—l945) 海南感恩县(今东方市) 感城镇不磨村人。l943年初参加不磨村自卫队,1945 年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  苏亚昌 (1918—1945) 海南感恩县新龙乡(今东方市新龙镇)龙卧村人。1942年初参加感恩县中队,后为琼崖抗日独立纵队第二支队三大队八中队战士。1945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  苏亚实 (1920—1945) 海南感恩县新龙乡(今东方市新龙镇)龙卧村人。1945年初参加琼崖抗日独立纵队,为第二支队三大队八中队战士。同年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  苏亚常 (1922—1945) 海南感恩县新龙乡(今东方市新龙镇)龙卧村人。1945年初参加琼崖抗日独立纵队,为第二支队三大队八中队战士,同年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  苏汝杰 (1925—1945) 海南感恩县新龙乡(今东方市新龙镇)龙卧村人。1945年初参加感恩县基干队,后参加琼崖独立纵队第二支队三大队八中队。同年9 月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  李秀才 (1922—1945) 海南昌江县新龙乡(今东方市新龙镇)新村人。l945年初参加琼崖抗日独立纵队,为第二支队三大队八中队战士,同年在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  李福地 (1911—1945) 海南感恩县(今东方市) 感城镇感城村人。l944年参加抗日自卫队,后在琼崖抗日独立纵队第二支队三大队八中队当战士。l945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  杨亚儋 (1911—1945) 海南乐东县东方乡(今东方市东方镇)土蛮村人。1945年参加土蛮村抗日自卫队。同年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  吴水兴 (1916—1945) 海南感恩县新龙乡(今东方市新龙镇)新村人。l945年在琼崖抗日独立总队第二支队三中队当班长,同年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  吴玉喜 (1925—1945) 女。海南昌江县新街镇(今属东方市)益兴村人。1942年在琼崖抗日独立总队第二支队三大队八中队任班长。l945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  吴世喜 (1925—l945) 海南昌江县四更乡(今东方市四更镇)赤坎村人。1942年参加琼崖抗日独立总队,在第二支队三大队八中队当班长。l945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  吴冯章 (1913—1945) 海南感恩县板河乡(今东方市板桥镇)文质村人。1940年参加抗日自卫队,曾任琼崖抗日独立纵队第二支队三大队九中队排长。1945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  吴亚黎 (1926—1945) 海南感恩县新龙乡(今东方市新龙镇)通天村人。1942年参加通天村抗日自卫队,后为琼崖独立纵队第二支队三大队八中队战士。1945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  吴如羲 (1926—1945) 海南昌江县墩头乡(今东方市墩头镇)墩头村人。1940年参加抗日自卫队,后在琼崖抗日独立纵队第二支队八中队当战士。l945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  吴魁仁 (1907—1945) 海南感恩县(今东方市) 感城镇感城村人。l944年参加宝城乡抗日自卫工作,任宝城乡税收员。l945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  邱打皇 (1925—1945) 海南感恩县板河乡(今东方市板桥镇)文质村人。1943年参加琼崖抗日独立总队,后为琼崖抗日独立纵队第二支队三大队八中队战士。1945年9月在感恩县感城(今东方市感城镇)麦家祠战斗中牺牲。
  张亚宁 (1929—l945) 海南乐东县公爱乡(今属东方市)王外村人。1945年参加琼崖抗日独立纵队,为第二支队三大队七中队战士,同年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  张亚出 (1917—1945) 海南感恩县新龙乡(今东方市新龙镇)柴头村人。黎族。l944年参加柴头村抗日自卫队。后为琼崖抗日独立纵队第二支队三大队八中队战士。l945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  陈亚老 (1915—1945) 海南乐东县公爱乡(今属东方市)温村人。黎族。1943年参加温村抗日自卫队,l945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  陈亚属 (1910—1945) 海南乐东县公爱乡(今属东方市)温村人。黎族。1943年参加温村抗日自卫队,l945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  陈关球 (1918—1945) 海南感恩县新龙乡(今东方市新龙镇)部道村人。1944年参加部道村抗日自卫队,后在琼崖抗日独立纵队第二支队三大队八中队当战士。l945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  陈孙发 (1926—1945) 海南感恩县新龙乡(今东方市新龙镇)新村人。l943年参加新村抗日自卫队,后为琼崖抗日独立纵队第二支队三大队八中队战士。1945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  陈克纪 (1906—1945) 海南感恩县(今东方市) 感城镇不磨村人。l945年参加琼崖抗日独立纵队,在第二支队三大队八中队当战士。同年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  陈献芹 (1920—1945) 海南感恩县新龙乡(今东方市新龙镇)新村人。l945年参加琼崖抗日独立纵队,为第二支队三大队八中队战士。同年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  林木养 (1907—1945) 海南感恩县新龙乡(今东方市新龙镇)龙卧村人。1943年参加县中队,1945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  林玉英 (1922—1945) 又名林亚问。女。海南乐东县中沙乡(今属东方市)高园村人。黎族。l944年参加琼崖抗日独立纵队,为第二支队三大队九中队战士。l945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  林圣劝 (1923—1945) 海南感恩县新龙乡(今东方市新龙镇)新村人。l945年初参加琼崖抗日独立纵队,为第二支队三大队八中队战士,同年在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  林亚北 (1915—1945) 海南乐东县公爱乡(今属东方市)榔头村人。黎族。l943年参加榔头村抗日自卫队。l945年在感恩县感城镇麦家祠战斗中牺牲。
  林关有 (1915—l945) 海南感恩县新龙乡(今东方市新龙镇)龙卧村人。1943年参加龙卧村抗日自卫队。后为琼崖抗日独立纵队第二支队三大队八中队战士。1945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  林福昌 (1923—1945) 又名林亚生。海南乐东县中沙乡(今属东方市)高园村人。黎族。l944年参加琼崖抗日独立纵队,为第二支队三大队七中队战士。1945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
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麦家祠戦闘中犠牲 1

2011年12月28日 | 海南島史研究
  马亚汉 (1919—1945) 海南乐东县公爱乡(今属东方市)温村人。黎族。1943年参加温村抗日自卫队,1945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  马亚志 (1915—1945) 海南乐东县公爱乡(今属东方市)公爱村人。黎族。l943年参加温村抗日自卫队,l945年在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  马亚现 (1900—1945) 海南乐东县公爱乡(今属东方市)温村人。黎族。1943年参加温村抗日自卫队当队员,l945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  马亚浅 (1905—1945) 海南乐东县公爱乡(今属东方市)温村人。黎族。1943年参加温村抗日自卫队,1945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  马亚副 (1920—1945) 海南乐东县公爱乡(今属东方市)公爱村人。黎族。l945年参加感恩县常备队,同年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  马亚温 (1910—l945) 海南乐东县公爱乡(今属东方市)光良村人。黎族。l943年参加光良村抗日自卫队,1945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  王亚业 (1915—1945) 海南乐东县公爱乡(今属东方市)光良村人。黎族。l943年参加光良村抗日自卫队,1945年在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  王亚伍 (1923—l945) 海南感恩县(今东方市) 感城镇感城村人。l944年参加琼崖抗日独立纵队,为第二支队三大队八中队战士。1945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  王尧典 (1928—1945) 海南感恩县板河乡(今东方市板桥镇)板桥村人。1941年参加琼崖抗日独立总队,为琼崖抗日独立纵队第二支队三大队八中队战士。1945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  王廷俊 (1916—1945) 又名王白鱼。海南感恩县(今东方市)感城镇感城村人。l929年开始参加党的地下工作,1933年加入中国共产党。1938年7月当选为学生抗日救亡会主任,率领抗日宣传队进行抗日宣传。l940年6月在中共琼崖特委当《抗日新闻报》刻字员。l940年12月国民党军队向琼崖特委驻地澄迈县美合进攻,经过激烈战斗后,随特委转战于琼山、文昌、定安等地,继续搞新闻出版工作,任《抗日新闻报》印刷处主任。l944年2月任昌感崖联县抗日民主政府副县长,l945年9月任昌感联县副县长。这期间,多次率领抗日自卫队潜入感城地区开展抗日斗争,智取敌人营地,攻破日军据点。1945年9月,率领部队进驻感城麦家祠,准备接受日军缴械,遭到国民党部队的围攻。领导部队对敌作战5个多小时,因敌众我寡。在战斗中英勇牺牲。l953年被东方县人民政府追认为烈士。
  王助宣 (1919—1945) 海南感恩县(今东方市) 感城镇感城村人。l945年任宝城乡抗日民主政府助理员,同年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  王孟瑞 (1917—1945) 海南感恩县(今东方市) 感城镇感城村人。中共党员。1945年7月任宝城乡抗日民主政府宣传员,同年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  王常养 (1917—l945) 海南感恩县新龙乡(今东方市新龙镇)龙卧村人。1944年参加琼崖抗日独立总队,在第二支队三大队八中队当班长。1945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  王常端 (1923—1945) 海南昌江县四更乡(今东方市四更镇)四更村人。1943年参加琼崖抗日独立总队,在第二支队三大队八中队当战士。1945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  毛石全 (1925—1945) 海南感恩县新龙乡(今东方市新龙镇)新村人。l945年参加琼崖抗日独立纵队。为第二支队三大队八中队战士。同年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  卢永跃 (1900—1945) 海南感恩县新龙乡(今东方市新龙镇)龙卧村人。1945年参加琼崖抗日独立纵队,为第二支队三大队八中队战士,同年在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  吉亚公 (1915—1945) 海南乐东县公爱乡(今属东方市)光良村人。黎族。l943年参加光良村抗日自卫队,1945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  吉进贤 (1911—1945) 海南昌江县四更乡(今东方市四更镇)沙村人。l943年参加琼崖抗日独立总队当战士。l945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  庄亚听 (1921—1944) 海南感恩县(今东方市) 感城镇感城村人。l943年参加抗日自卫工作。l944年在感恩县感城被捕,后在不磨村遭杀害。
  刘锡端 (1920—1945) 海南昌江县三家乡(今属东方市)居候村人。1940年参加琼崖抗日独立总队。曾任琼崖抗日独立纵队第二支队三大队八中队小队长。1945年9月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  麦上丙 (1917—l945) 海南感恩县(今东方市) 感城镇感城村人。l942年参加琼崖抗日独立总队。后为琼崖抗日独立纵队第二支队三大队战士。l945年9 月在感恩县感城麦家祠战斗中牺牲。
  麦永振 (1923—1945) 海南感恩县(今东方市) 感城镇感城村人。l945年参加感城村抗日自卫队,同年9月在感城麦家祠战斗中牺牲。
  麦树越 (1921—1945) 海南感恩县(今东方市) 感城镇感城村人。中共党员。1945年参加琼崖抗日独立纵队,为第二支队三大队八中队战士,同年9月在感城麦家祠战斗中牺牲。
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感城鎮感城村麦家祠惨案 3

2011年12月27日 | 海南島史研究
 11月3日午前11時半、麦文龍さんに案内されて、麦家祠で殺された人たちが埋葬された場所に着きました。
 そこは、広い墓地の端にあり、いまはゴミ捨て場のようになっていました。墓地は古くからの感城の墓地でした。
 村から続く道のつきあたりにあたるところでした。この道は当時からあり、「事件」当時、から牛車で遺体を運んだ道でした。埋められた場所を背にして村の方を見ると、道の左は池、右は水田でした。
 その場で、麦文龍さんは、つぎのように話しました。
   “漢民族の遺族が身内を探そうとして掘り出したので、そのとき、見にきたので、この場所を覚えている。
    ここは、村から続く道のつきあたりだ。
ここから左の方へ、あの建物(ゴミ焼却場)のあたりまでだ。
    まだ骨が残っているだろう」。
 わたしたちのそばにきたふたりの青年(麦為杰さんと林世進さん)は、〝小さいときに大人から麦家祠のことを聞いた。このあたりに遊びに来たとき、足や手の骨を見たことがある。最近、この近くで日本兵の鉄カブトが出てきた”と話しました。麦為杰さんは麦文龍さんの息子さんでした。
 墓地の海側のはずれに行ったとき、林世進さんは、
   〝ここには、感城の人ではない人たちが埋められている。
    日本軍のために働いていた人の墓ではないかと思う。
    最近、5人の頭の骨が見つかった。ふつうの人か兵隊かは、はっきりしていない。
    鉄カブトが見つかったのもここだ。
    骨は、自分が掘りだした。建築用の砂を取りに来て掘っていて見つけた。
    以前は平らだったが、建築用の砂を取ったので、でこぼこの状態になった。
    砂を掘りにきて見つけた骨は、そのまま置いておいた”
と話しました。
 その場で、麦文龍さんは、
   “青い服の人もここに埋められただろう。骨は下に埋まっていると思う。
    海岸をふくめここら辺一帯を15億元で不動産会社が買った。ビーチを開発する会社だ。まもなく、この墓地全体がなくなるだろう。隣村も引っ越しすることが決まっている”
と話しました。
 墓地から海のほうに向かうと小さな村(港門村)に着きました。港門村は感恩川の河口の村で、海岸に漁港がありました。麦文龍さんは、
   “ここの海岸のあたりと感恩川で民族兵が国民党と戦って殺された。民族兵が、逃げて溺れ死んだ。岸に死体が流れ着いたということを聞いたことがある。最近、この港から、火薬銃が見つかった”
と話しました。港門村には、当時のことを知っている年寄りは住んでいませんでした。
                                          佐藤正人
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「麦家祠惨案:107位革命者被日軍残忍殺害」

2011年12月26日 | 海南島史研究
■麦家祠惨案:107位革命者被日军残忍杀害
 2011年7月31日《海南日报》      
 http ://www.360doc.com/content/11/0731/14/5848515_136936485.shtml

  坐东向西,隔着田洋,面朝大海,东方市感城镇感城村的麦家祠堂虽然比较破败,但传统的“抬梁+穿斗”式结构还很坚挺,木料被涂上红色的油漆后,显得格外醒目。
  “你们到村里,随便问一个中年人或老年人,谁不知道66年前,发生在我们麦家祠堂的那场惨案?”感城村支书麦笃宏刚见到记者一行,情绪就激动起来。
  “麦家祠惨案”到底有多惨?84岁的麦贤尧老人,是惨案发生后现场目击者之一,他告诉记者:“祠堂里都是尸体,血流了一地,泡过了我的脚踝!”
  当时18岁的他见此情景之后,呕吐不已,连续几天吃不下饭。“几乎每位死者都有一只耳朵被割掉,估计是拿回去邀功请赏了;有的男女被杀害后,尸体还遭受了侮辱。敌人太残忍、太没人道了!”
  那一幕,恐怕一辈子都在麦贤尧的心理上留下了抹不去的巨大阴影。

※进驻感城
  在省作协会员、东方市史志办主任科员黄文的帮助和梳理之下,记者得以了解“麦家祠惨案”的前前后后。
  1945年8月15日,日本宣布无条件投降。当时,感城一带的日寇刚刚投降,还没有集结到那大军部,墟内仍驻有尚未受降的日军和伪军。
  琼崖共产党的部队遵照中共中央关于号召各解放区军民迅速前进,收缴日伪武器,接受日军投降,向一切敌占城市和交通要道开展进攻的军事部署行动的指示,中共昌感崖联合县县委决定派副县长王廷俊(感城村人)和琼崖独立纵队二支队三大队副政委张愚,率领新编第八中队和地方干部到感城外围活动,准备与张应桓的第九中队一起进入感城墟,接收日军武器。
  9月2日上午,八中队和九中队来到宝上村。宝上村在北,感城墟在南,中间隔着感恩河,相距约2公里。中午时分,昌感崖联合县政府粮食科长王康宁(家乡在感城以南的板桥村)奉命前来传达命令:张应桓率第九中队到该县北部的新街地区活动,王廷俊和张愚率八中队和地方干部进驻感城墟接受日军投降,并召开庆祝大会。
  考虑到感城是国民党历届感恩县政府的驻地,本着慎重起见的态度,王廷俊和张愚先派人潜入感城村了解情况,确认那里秩序稳定后,于当夜子时住进了感城村有坚固围墙的麦家祠堂。
  “一切行动都显得很安全和稳妥,但悲剧总发生在意想之外。”黄文说。

※血染祠堂
  王廷俊他们的行动还是被敌人察觉。
  当地国民党反动头子苏秀谦和伪维持会会长庄继周感到十分恐慌,尤其是苏秀谦,他是感恩县一霸,历来垄断着当地的妓院、赌场和烟馆生意,怎能容许正义的人民武装来“坏”了他的好事?
  恐慌之余,他们探知英勇善战,而且装备较好的九中队已经北上,只有八中队入驻感城,认为这是天赐良机,于是当即与另一个反动头子林克裕,连夜纠集了400多人的武装力量,准备“吃掉”只有60余人的八中队。
  9月3日中午,苏秀谦等人将麦家祠堂团团围住,然后发起疯狂进攻。
  面对敌人的汹汹来势,王廷俊等人利用围墙作为屏障,沉着应战,狠狠地还击来犯之敌,围墙外的敌兵死伤一片。
  为了消灭更多的敌兵,王康宁干脆爬上祠堂的制高点———牌楼,在上面不但可以把敌人看得清清楚楚,指挥下面的战友反击,还有利于个人歼敌,敌人只要进入有效射程内,王康宁就一枪一个,让他们有来无回。
  黄文说,下午时分,感恩河北岸宝上村的40多名民兵闻讯来救援,但由于武器落后,加之河水暴涨,他们无法趟过感恩河,最终被敌人击退。
  在麦家祠堂,双方酣战已4个小时,且在难分胜负之际,苏秀谦和庄继周等人从日军那里弄来了几箱手榴弹,全部投进面积不足一亩的祠堂之内,八中队官兵被炸得尸首相枕。王康宁受了枪伤之后,掉落下来,被战友的尸体所掩埋。
  感觉祠堂里没有动静之后,敌人才冲进去,或补枪,或毁尸……

※死里逃生
  双方激战时,麦贤尧和母亲就在祠堂后面的家里,激烈的枪声吓得他躲到了床底下。傍晚的时候,他走进祠堂,看到了那惨不忍睹的一幕……
  经过事后调查,“麦家祠惨案”共有107人牺牲,这当中包括当地的干部和民兵队伍。王廷俊和他的三弟王孟瑞、五弟王人俊都在战斗中捐躯。
  有4人在惨案中幸免于难,他们分别是王康宁、吴以炳、麦建云和孙若(女)。王康宁是在入夜后才从血泊中苏醒过来,怀着悲愤之情,带着其余3位幸存者,踉踉跄跄地朝东北方向的抱利革命根据地转移。
  麦贤尧等老人还记得王康宁他们离去时悲壮的背影。
  王康宁后来曾出任昌感县公安局局长、副县长、县长、海南铁矿副矿长,后来又到广东惠阳地区工作,1984年在惠州病逝,享年65岁。
  抗战刚刚胜利,国民党反动势力的屠刀就挥向同胞,何其残忍!个中原因又是什么?
  原来,在接受日军投降,接收日军武装的过程中,国民党琼崖当局不接受琼崖特委提出的“分区受降”的合理建议,甚至动用武力阻止人民抗日武装接收日军武器,制造了震惊全琼的“麦家祠惨案”;几乎与此同时,琼山、文昌等地区也发生了类似的事件,由于人民抗日武装的克制和警,才避免了“麦家祠惨案”的重演。
  值得告慰先烈的是,制造“麦家祠惨案”的主凶解放后便伏法。苏秀谦于1948年曾当上国民党的“国大代表”,海南解放时逃到三亚崖城,1951年被逮捕,就地正法。此外,苏秀谦的帮凶林克裕也在海南解放后被枪毙;庄继周在解放前夕逃往台湾,最终客死他乡。
   (记者 陈耿 卞王玉珏)
   【照片】东方市感城镇感城村的麦家祠堂。 本报记者 张杰 摄
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感城鎮感城村麦家祠惨案 2

2011年12月25日 | 海南島史研究
 11月3日朝10時過ぎに麦家祠を離れ、もときた道をたどって十字路にいくと角の雑貨店の前で何人もの年寄りが休んでいました。
 蒙秀富さん(1925年生)、林泰栄さん(1931年生)、麦篤良さん(1935年生)、麦篤普さん(1934年生)さん、麦文龍さん(1931年生)でした。
 みなさんから話を聞かせてもらうことができました。周りに大勢の子どもたちが集まり、熱心に話を聞いていました。
  
 麦篤良さんは、
   “事件のとき、麦家祠から少し離れた田んぼに牛追いに行っていた。機関銃の音が聞こえた”
と話し、林泰栄さんは、
   “麦家祠の近くの家にいた。銃の音を聞いた。日本の敗戦直後だった。
    国民党がいたところはハオスイスイ(好瑞村)。共産党は、麦家祠にいた。日本軍は、今の感城小学校にいた。
    国民党はさいしょは麦家祠に入ることはできなかった。外から撃ちあう銃撃戦だけだった。
    その後国民党は日本軍の軍営に行って、手榴弾や機関銃をとってきて、麦家祠の共産党を攻撃して全滅させた”
と話しました。麦篤良さんは、
   “あの、事件のあと麦家祠に行ってみた。死体がたくさんあった。恐くて家に帰った”
と話しました。
 麦文龍さんは、つぎのように話しました。
   “国民党は何日間も共産党がいる麦家祠を包囲した。
    それを知った山にいた共産党の部隊は、支援部隊を送った。
    支援部隊は海側から麦家祠に入ろうとした。
    山にいた共産党の部隊は、黎族が多く、武器もあまりなかった。国民党は待ち伏せしていて、その黎族の部隊を攻撃した。
    黎族は泳げない人がおおい。川や海に逃げてほとんど溺れて死んだ。
    死んだ民族兵(黎族の兵士)は140人。麦家祠の死者の数には入っていない。
    支援部隊が全体で何人だったか知らない。
    ここは川が海に流れ込むところに近い。支援部隊は銃はあまり持っていない。火薬銃を持っていた。
    わたしはそのとき、家にいた。国民党の麦家祠攻撃と、支援部隊への国民党の待ち伏せ攻撃は同じ日に起きた。
    その後、わたしは2か所とも見に行った。
    麦家祠の両隣の家にも、死体が何層にも重なっていた。
    歩くとき、死体を踏まないように歩くのがたいへんだった。
    海のそばに穴を掘って、牛車で死体を運んで埋葬した。
    麦家祠で死体を牛車に積み込むのは見ていないが、死体を積んだ牛車が通るのを見た。埋めるのは見ていない。
    運んだ死体の数はわからない。村人が運んで埋葬した。場所は知っている。何日かたって、家族が掘り起こしてじぶんの身内を見つけると、家族の墓地に埋葬した。
    民族兵の死体は海に流された。いくつかの死体は岸に流れついた。民族兵の死体はどこに埋めたか知らない。
    共産党の服装は、軍服ではない。一般の人といっしょの服。民族兵も同じ。
    日本の敗戦後、国民党は各家をまわって、男を国民党に入れた。国民党も、みんな同じ制服はきていない。
    朝鮮人が鉄道とか道路を作っていると話は聞いたが、じっさいには見ていない。
    日本軍は敗戦後、軍営から列を作って撤退したらしい。夜のうちにトラックで。
    日本兵はみんな恐ろしい。顔を見たら、みんな逃げた。山に。
    感城にいた日本兵は100人たらずだったと思う。黄色い軍服を着て、足は布で巻いていた。皮靴をはいていた。
    感城の河口で青い服を着た人がしごとをしていた。人数はかなりいた。砂などをかついで運んだりしていた。
    橋の下の方でしごとをしていた。橋で何を作っていたかわからない。その人たちのしごとはきつかった。
    日本人がどこかからその人たちを捕まえてきて、辛いしごとをさせていた。
    住んでいるところは、日本軍の軍営といっしょの場所。見張りは厳しかった。出入り口を日本軍が監視していた。日本軍からよくいじめられていたと聞いた”。
                                      佐藤正人
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感城鎮感城村麦家祠惨案 1

2011年12月24日 | 海南島史研究
 11月3日朝、東方市感城鎮感城村の麦家祠(麦家祠惨案の現場、麦家祠惨案旧址)を訪ねました(麦家祠惨案についてはこのブログの2011年4月15日の「2011年3月2日17(文書・証言・映像・音声・もの・場 6)」を、麦家祠惨案旧址については4月16日の「2011年3月2日18 (文書・証言・映像・音声・もの・場 7)」をみてください)。

 麦家祠は、感城鎮の中心部から市場を通りぬけて200メートルほど進み、雑貨店のある角を右に曲がって100メートルほどのところにありました。麦家祠は、麦という姓の一族の廟です。
 麦家祠の近くにいた男の人が、「むかしは両隣には家があっただけでほかには家はなかった。あなたたちが、どこから来たのかわからなが、何十年もたったのに、犠牲者について関心を持って来るひとは、ひじょうにめずらしい」と言いました。その人が、当時のことをよく知っている人がいると言って林さん(90歳くらい)を麦家祠までつれてきてくれました。林さんは、解放後、生産大隊婦人大隊主任をしていたことがあるとのことでした。
 林さんは、こう話しました。
    “この村で生まれ、ずっとここに住んでいる。
     「事件」のときには家にいた。当時、20歳あまりだった。
     麦家祠の後ろの方に家があった。国民党の兵隊がが、近くの家の屋根の上ののぼって麦家祠をみはっていた。日本兵はいなかった。国民党の兵隊だけだった。
     国民党はいい武器を持っていたのに、共産党は警戒しなかった。
     包囲されてからの指揮はまちがっていた。撤退する政策を取らなかった。逃げようと主張する人もいたのに、指揮した人が、この案を退けた。
     警戒して早めに脱出していたら、もっと生き残っていただろう。
     以前も麦家祠のことを調べに来たことがあったが、遺族のことなど,何も調べていかなかった。来てくれて感謝している。
     殺された人のなかに知り合いがいる〔名前を聞いたら、林さんは、思い出せなくて、涙を出し胸をたたいて悔しがりました〕。
     生き残った人、庄恩鳳。何年か前に亡くなった。この村(感北村)の女性。庄恩鳳の兄弟は何人か、このとき死んだ。
     日本軍は恐ろしい軍隊だった。見つかったら殺されるというので、みんな山のほうへ逃げた。
     兄嫁の夫は共産党に参加した。この辺は、共産党に入る人が多かった。
     感恩で道路や鉄橋を作るとき、台湾人、朝鮮人がおおぜい死んだ。
     道路工事がきつくて、共産党に入りたいという台湾人がいたが、山の生活はたいへんだからといって入らなかった”。        

 90歳ほどの林さんは、当時のことを嘆き悲しみつつ長い間話してくれました。
 感恩で死んだというおおぜいの台湾人、朝鮮人について、なんども聞き返しましたが、それ以上のこたえはかえってきませんでした。
 麦家祠は、「事件」のあとなんども改築されたそうですが、柱は当時のままで、銃弾のあとがいくつも残されていました。
                                       佐藤正人
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『海南島ニ於ケル中国共産党』

2011年12月23日 | 海南島史研究
 東京恵比寿にある防衛研究所戦史研究センター史料室(前、防衛研究所図書館)で、『海南島ニ於ケル中国共産党』と題する謄写版の文書が公開されています。これは、1943年1月付けで海南海軍特務部政務局第一調査室が出した文書で表紙に「極秘」という印が押してあり、表紙裏に「本報告ハ海軍嘱託大塚令三ノ調査ニヨルモノナリ」と書かれてあります(本文は24頁)。
 そこには、つぎのような記述があります(原文は、「元号」使用)。
                                  佐藤正人

 西安事変ヲ契機トスル第二次国共合作ノ影響ハ、直チニ海南島ヘモ派及シ、支那事変ノ勃発ト共ニ王毅(瓊崖守備司令重慶国民党系)ハ中共側ノ馮白駒ト妥協シ、ソノ部隊ヲ人民自衛軍ト改称セシメ、1939年2月皇軍ノ上陸ト共ニ、人民自衛軍ハ更ニ瓊崖遊撃独立総隊ト改称サレテ、国共合作完全ニナツタ。然ルニ中国共産党側ハソノ主張タル抗日民族統一戦線ノ実現ヲ好機トシテ、再ビ党勢伸長ヲ企テタル為、1940年末ニハ国共両者間ニ衝突ガ起リ、爾来両者ノ相克久シク、中共側ハ郷土防衛ヲスローガントシテ島民ニ呼掛ケ、執拗ニ皇軍ニ敵対シツツアルハ衆知ノ如クデアル。現在党員数ハ不詳デアルガ、紅軍タル独立総隊ハ約三千五百名乃至四千名ニ上ルト謂フ。………
 海南島ニ於ケル中国共産党ノ行動規範ヲ示スモノハ、瓊崖特別委員会ノ指令、決議デアラウ。昨年九月、瓊崖特別委員会ハ文昌県大水デ第九次拡大会議ヲ開イタ。
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海南島瓊海市中原鎮で 3

2011年12月22日 | 海南島史研究
 10月31日午後、曹靖さんに案内されて、曹靖さんの故郷の長仙村に行きました。
 村の中心部にある茶店を過ぎて50メートルほど歩いたとき、そばの空き地のまえで、曹靖さんは、つぎのように話しました。
   “ここに家が7軒があったが、みんな焼かれた。
    この家は5人殺された。祖母、2番目の祖母、祖父、母、兄嫁。祖母の頭は切られて玄関につるされた。
    この家は4人。父、母が中原に連れていかれて殺された。兄ふたりは山に逃げたが、夜、家に戻ってきて食事の支度をしていたところを見つかって、殺された。一番下の9歳の子がひとりになって、あちこちで物乞いをしながら生き延びた。
    この子は生活はたいへんだった。いまは、遠くの白馬井で結婚して暮らしているが、お金がなくて故郷に戻れない。
    山に逃げた人たちは、解放後みんな戻ってきたが、この人や何人かは故郷に戻れないままだ。
    このときいっしょに、同じ村のふたりが殺された。食事の支度をしていて見つかり殺された。ふたりは、ここで銃殺された。2、3日たって誰かがかんたんに埋めたが、においがしたのか、犬が掘りおこして死体を食べた。
    わたしは、子どものとき、このあたりに遊びに来て、頭や手の骨を見たことがある。
    この家では、母、兄嫁が殺された。ふたりの兄弟が生き残ったが、村をはなれ、親せきの家に行って、日本軍いなくなったあと、戻ってきた。弟がこの大きな家を新しく建てた。兄は結婚しなかった。兄弟はいまも元気で、ここに住んでいる。兄は、欧育援、78歳くらい、弟は欧育河、75歳くらいだ”。

 馮家煌さん(1943年生)に出会いました。右目が白くなっていました。
 馮家煌さんは、こう話しました。
   ”父と母は、他の人たちといっしょに中原で殺された。
    残ったのは子どもがふたり。兄の家金は6歳だった。
    世話してくれる人がいなかった。食べ物がなくて、おなかがすいて、水の中の食べられるものを探しているとき、目にヒルがついて、目が見えなくなった。
    日本が敗けてから、村の親せきのおばさんがふたりを育ててくれた”。
 
 村はずれのびんろうの樹の林のまえで、曹靖さんは、
    ”ここにあった家の家族はすべて殺された。
     あそこには、8軒の家があった。おとなは男も女もぜんぶ殺された。
     家は2列に並んでいた”
と話しました。

 子どものとき日本軍が襲撃したとき住んでいた家(当時の柱を残して改築)で、曹靖さんは、つぎのように話しました。
   “日本軍が向こうから(家に向かって左方向から。木立のなかに細い道がある)来て、門のところで大きな声を出した。“戸をあけろ”という大声。
    日本軍が村に入って家を焼いている煙がひどかった。隣のおばさんが、その声を聞いて出てきて、ひどいことはしないから大丈夫だと言ってじぶんの家に戻ったが、その次見たときは、じぶんの家で死んでいた。
    午後4時ころ、12人の兵隊が家の前を通ってこの道を戻ろうとしていた。小さい犬が吠えるので、先頭の指揮官の人が突き刺そうとするかっこうをすると、犬がおばあさんの両足のあいだに入った。おばあさんは、“殺さないで”と言った。
    先頭の幹部はそのまま行き、兵士たちが通りすぎようとするとき、最後尾のひとりが、早く逃げろというような身振りをして何かを言った。わたしは、意味がわからず、海南語で、“なんですか?” “なんですか?”と聞くと、首を切るかっこうをして、海南語に似たコトバでもそういう意味のことを言った。
   それで理解できた。
   わたしとおばあさんに、逃げるようにと言ったのだ。日本軍が通りすぎていったあと、山の方に逃げた。隠れていたら、別のふたりの兵隊が、12人の兵隊がいま行った方から来て、家に入って捜索しているのが見えた。逃げていなかったら、殺されていただろう。
   昔は、家の前の畑のビンロウの木がなかった。田んぼとスイカ畑だけ。前の山から、家が見えた。
    陽江から近い村には、昔たくさんの骨が出てきた。この長仙村の大人は、おおぜいが中原の燕嶺坡で殺された”。
                                       佐藤正人
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