日本海軍司令部は、海南島全域を5つに区分し、第15警備隊、第16警備隊、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の5部隊に軍事支配をさせていました。第15警備隊と第16警備隊は、呉鎮守府に所属する陸戦隊部隊でした。日本本土の4個の海軍鎮守府すべての陸戦隊が海南島に侵入し侵略犯罪をくりかえしていました。
横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の本部は感恩県北黎(現、東方市新街鎮)におかれており、石碌、保平、海尾、海頭、白馬井、下黎、楽安、九所、黄流、佛羅、重合、雅星、高石、和盛、宝橋、感恩など30地域に守備隊基地がありました。
各陸戦隊各守備隊には数10人の将兵が常駐しており、ほとんどの守備隊本部の周囲には壕が掘られており、鉄条網がはりめぐらされていました。守備隊兵舎の近くには望楼が建設されていました。
日本海軍海南警備府の文書によると、感恩守備隊本部には30人あまりの将兵が常駐していたようです。感恩守備隊本部は、現在の感城鎭中心学校の敷地内にありました。
11月3日午後1時半ころ、わたしたちは、麦家祠から西に300メートルほどの地点にある感城鎭中心学校に行きました。そこで出会った元教師の楊さん(67歳)は、
“日本軍の炮楼は見たことがある。かなり高く、四角い形だった。かなり前に無くなった。
学校の正門を入って左側に、日本軍の宿舎があった。日本軍のいたところには、東西南
北の4つの門があった”
と話しました。
わたしたちは、2006年4月1日に、感恩で「現地調査」をしたことがあります(このブログの2009年10月21日の「パランオッ・藍色衣服・青い服 8」をみてください)。
その5年7か月後の2011年11月3日午後、感恩鉄橋跡や宝上村を再訪しました。宝上村は、「朝鮮報国隊」の宿所があった村です。
午後2時半ころから、宝上小学校近くの雑貨店で梁恩嬌さん(1929年生。女性)に話を聞かせてもらうことができました。梁恩嬌さんは、つぎのように話しました。
“わたしは、日本軍が入ってきた当時、この村にいた。
このあたりの田はすべて日本軍に奪われた。日本軍は奪った田の稲の栽培や収穫を
村人にさせた。わたしも、田んぼのしごとや収穫したコメを集めるしごとなどいろいろさ
せられた。
いつも日本兵が監視していた。70パーセントは日本軍がとり感城の本部に運ばせた。
のこりの30パーセントが村人にわたされた。収穫のときにも日本兵が監視しているの
で隠すことはできない。
農作業を終えて家に帰るとき、若くてきれいな女性は、ときどき連れていかれた。
日本兵は凶悪な顔をしていた。村人はたいへんだった。草がはえたら、その責任を追
及された。その人の名前は、思い出せない。 稲の生育が良ければ、よくがんばったと
いう。生育が悪ければ殴られた。殴られて死んだ人もいる。
わたしの家では遠くはなれたところにも田んぼを持っていたが、栽培できなかった。
問題が起きたらと思うと恐くて”。
同じ場所で、張鉄球さん(1931年生)と蘇太助さん(1932年生)は、交互にこう話しました。
“青い服を着た集団:藍衣隊がこの村にいた。帽子、上着、ズボン、背負うカバン、み
んな青かった。軍隊のようなベルトをして、靴も履いていた。しごとの行き帰りに列を
作って歩かされ、歌をうたわせられていた。みんな背が高かった。20歳すぎくらいの若者
たちだった。
藍衣隊はこの村の昔の学校に住んでいた。昔の宝上小学校。たくさんいたが、はっき
り覚えていない。100人以上はいたと思う。
藍衣隊は鉄道工事をしていた。土を運んだり、レールを運んだり。土をくるまに積み
入れて、鉄道の場所まで運んでいた。
さいしょ、木の柱の橋。セメントの丸い土台に真ん中を丸くくぼませたところに、木の
柱を立てた。列車の鉄道の橋だ。洪水で流されて、それで、柱がコンクリートのいま
立っている橋を作った。柱をコンクリートで作って、上は板で作った。鉄でつなげて、レ
ールの間の枕木は木。列車が通ったこともある。機関車だけで、試運転だけした。爆弾
で橋がこわされたこともあった。
トラックが通る道路は、いまも使ってるあの道路。
1948年の大洪水で、枕木、鉄板、レール、みんな流された。
仕事が終わって列を作って戻ってからは、どこにも行かせなかった。白い帽子、白い
ズボンをはいた人たちが監視していた。ずっと監視している。外に出ることはできない。
仕事をしにいくとき、帰ってくるときも、監視していた。監視する人は、銃を持っていな
いが、剣を持っていた。白い服装の人は。5、6人。藍衣隊より年上。
木の橋を作ったのは朝鮮人。通訳がいて、通訳から聞いた。軍人ではなかった」。
張鉄球さんは、さらにこう話しました。
“橋の工事で柱は、ニシマツクミが作った。藍衣隊は土を運んだ。
ニシマツクミは八所から来ていた。通訳が教えてくれた。ニシマツクニには少し年かさ
の人がいて、あごひげをはやしていた。
日本兵は子どもに‘カミ’をくれた。ここでは大便をしたとき、草などでふいたが、日本兵
が、子どもに‘カミ’をくれることがあった。
道路工事をするのにレンガが必要で、家を壊してレンガをはずして使った。少しでも不
満を言ったら殺されるので、怒ることができない。
“日本人はみんな殺してしまうというので、みんな山に逃げた。
半月とか、1か月。2か月間逃げていた人もいた。漢奸が、「日本人は殺さない。戻っ
てください。抵抗する人だけ殺す」というので、戻った。
日本人は、だれもいなくなってしごとをさせることができずに困っていた。
さいしょ何人か戻って、大丈夫だったので、それで少しづつ戻った。
昔は、このあたりは原始林だった。
日本人は、飛行機で、誰も殺さない、というビラを撒いた。山には食べ物はないし、田
んぼのしごともできないから、早く戻りなさい、という内容だった。ぜんぶ漢語で書いて
あった。
日本軍が家を焼いたこともあった。日本軍がさいしょ来るとき、飛行機で爆弾を落とし
た。そのあと、日本軍が入ってきて、家を焼いた」。
日本が敗けるという話を聞いたが、日本軍が何をするか恐ろしくてまた山に逃げた。最
後に日本軍がまた殺したりひどいことをするかと思って、みんな逃げた。
共産党は日本が敗けたとき。武器を回収するために早いうちに感城に来た。少数民族
の人も連れていた。少数民族の人は山にいるので、火薬中を持っている。共産党は武器
がないので、それで(少数民族をなかまにした。
国民党は、日本軍から小さい手榴弾をもらって、麦家祠に投げたと聞いたことがある”。
張鉄球さんと蘇太助さんから話を聞きおわってから、以前行ったことのある「朝鮮報国隊」の宿舎跡に向かいました。途中以前話を聞かせてもらった呉日文さん(1931年生)の家を訪ねました。呉日文さんといっしょに話を聞かせてもらった蘇諠芬さん(1923年生)は4年ほど前に病死したとのことでした(呉日文さんと蘇諠芬さんの証言は、写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(紀州鉱山の真実を明らかにする会編、2007年2月発行)95頁をみてください)。
こんかい、また呉日文さんに「朝鮮報国隊」の宿舎跡に案内してもらってさらに話を聞かせてもらいましたが、5年7か月前には残っていたその建物は撤去され、広い空き地になっていました。
佐藤正人
横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の本部は感恩県北黎(現、東方市新街鎮)におかれており、石碌、保平、海尾、海頭、白馬井、下黎、楽安、九所、黄流、佛羅、重合、雅星、高石、和盛、宝橋、感恩など30地域に守備隊基地がありました。
各陸戦隊各守備隊には数10人の将兵が常駐しており、ほとんどの守備隊本部の周囲には壕が掘られており、鉄条網がはりめぐらされていました。守備隊兵舎の近くには望楼が建設されていました。
日本海軍海南警備府の文書によると、感恩守備隊本部には30人あまりの将兵が常駐していたようです。感恩守備隊本部は、現在の感城鎭中心学校の敷地内にありました。
11月3日午後1時半ころ、わたしたちは、麦家祠から西に300メートルほどの地点にある感城鎭中心学校に行きました。そこで出会った元教師の楊さん(67歳)は、
“日本軍の炮楼は見たことがある。かなり高く、四角い形だった。かなり前に無くなった。
学校の正門を入って左側に、日本軍の宿舎があった。日本軍のいたところには、東西南
北の4つの門があった”
と話しました。
わたしたちは、2006年4月1日に、感恩で「現地調査」をしたことがあります(このブログの2009年10月21日の「パランオッ・藍色衣服・青い服 8」をみてください)。
その5年7か月後の2011年11月3日午後、感恩鉄橋跡や宝上村を再訪しました。宝上村は、「朝鮮報国隊」の宿所があった村です。
午後2時半ころから、宝上小学校近くの雑貨店で梁恩嬌さん(1929年生。女性)に話を聞かせてもらうことができました。梁恩嬌さんは、つぎのように話しました。
“わたしは、日本軍が入ってきた当時、この村にいた。
このあたりの田はすべて日本軍に奪われた。日本軍は奪った田の稲の栽培や収穫を
村人にさせた。わたしも、田んぼのしごとや収穫したコメを集めるしごとなどいろいろさ
せられた。
いつも日本兵が監視していた。70パーセントは日本軍がとり感城の本部に運ばせた。
のこりの30パーセントが村人にわたされた。収穫のときにも日本兵が監視しているの
で隠すことはできない。
農作業を終えて家に帰るとき、若くてきれいな女性は、ときどき連れていかれた。
日本兵は凶悪な顔をしていた。村人はたいへんだった。草がはえたら、その責任を追
及された。その人の名前は、思い出せない。 稲の生育が良ければ、よくがんばったと
いう。生育が悪ければ殴られた。殴られて死んだ人もいる。
わたしの家では遠くはなれたところにも田んぼを持っていたが、栽培できなかった。
問題が起きたらと思うと恐くて”。
同じ場所で、張鉄球さん(1931年生)と蘇太助さん(1932年生)は、交互にこう話しました。
“青い服を着た集団:藍衣隊がこの村にいた。帽子、上着、ズボン、背負うカバン、み
んな青かった。軍隊のようなベルトをして、靴も履いていた。しごとの行き帰りに列を
作って歩かされ、歌をうたわせられていた。みんな背が高かった。20歳すぎくらいの若者
たちだった。
藍衣隊はこの村の昔の学校に住んでいた。昔の宝上小学校。たくさんいたが、はっき
り覚えていない。100人以上はいたと思う。
藍衣隊は鉄道工事をしていた。土を運んだり、レールを運んだり。土をくるまに積み
入れて、鉄道の場所まで運んでいた。
さいしょ、木の柱の橋。セメントの丸い土台に真ん中を丸くくぼませたところに、木の
柱を立てた。列車の鉄道の橋だ。洪水で流されて、それで、柱がコンクリートのいま
立っている橋を作った。柱をコンクリートで作って、上は板で作った。鉄でつなげて、レ
ールの間の枕木は木。列車が通ったこともある。機関車だけで、試運転だけした。爆弾
で橋がこわされたこともあった。
トラックが通る道路は、いまも使ってるあの道路。
1948年の大洪水で、枕木、鉄板、レール、みんな流された。
仕事が終わって列を作って戻ってからは、どこにも行かせなかった。白い帽子、白い
ズボンをはいた人たちが監視していた。ずっと監視している。外に出ることはできない。
仕事をしにいくとき、帰ってくるときも、監視していた。監視する人は、銃を持っていな
いが、剣を持っていた。白い服装の人は。5、6人。藍衣隊より年上。
木の橋を作ったのは朝鮮人。通訳がいて、通訳から聞いた。軍人ではなかった」。
張鉄球さんは、さらにこう話しました。
“橋の工事で柱は、ニシマツクミが作った。藍衣隊は土を運んだ。
ニシマツクミは八所から来ていた。通訳が教えてくれた。ニシマツクニには少し年かさ
の人がいて、あごひげをはやしていた。
日本兵は子どもに‘カミ’をくれた。ここでは大便をしたとき、草などでふいたが、日本兵
が、子どもに‘カミ’をくれることがあった。
道路工事をするのにレンガが必要で、家を壊してレンガをはずして使った。少しでも不
満を言ったら殺されるので、怒ることができない。
“日本人はみんな殺してしまうというので、みんな山に逃げた。
半月とか、1か月。2か月間逃げていた人もいた。漢奸が、「日本人は殺さない。戻っ
てください。抵抗する人だけ殺す」というので、戻った。
日本人は、だれもいなくなってしごとをさせることができずに困っていた。
さいしょ何人か戻って、大丈夫だったので、それで少しづつ戻った。
昔は、このあたりは原始林だった。
日本人は、飛行機で、誰も殺さない、というビラを撒いた。山には食べ物はないし、田
んぼのしごともできないから、早く戻りなさい、という内容だった。ぜんぶ漢語で書いて
あった。
日本軍が家を焼いたこともあった。日本軍がさいしょ来るとき、飛行機で爆弾を落とし
た。そのあと、日本軍が入ってきて、家を焼いた」。
日本が敗けるという話を聞いたが、日本軍が何をするか恐ろしくてまた山に逃げた。最
後に日本軍がまた殺したりひどいことをするかと思って、みんな逃げた。
共産党は日本が敗けたとき。武器を回収するために早いうちに感城に来た。少数民族
の人も連れていた。少数民族の人は山にいるので、火薬中を持っている。共産党は武器
がないので、それで(少数民族をなかまにした。
国民党は、日本軍から小さい手榴弾をもらって、麦家祠に投げたと聞いたことがある”。
張鉄球さんと蘇太助さんから話を聞きおわってから、以前行ったことのある「朝鮮報国隊」の宿舎跡に向かいました。途中以前話を聞かせてもらった呉日文さん(1931年生)の家を訪ねました。呉日文さんといっしょに話を聞かせてもらった蘇諠芬さん(1923年生)は4年ほど前に病死したとのことでした(呉日文さんと蘇諠芬さんの証言は、写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(紀州鉱山の真実を明らかにする会編、2007年2月発行)95頁をみてください)。
こんかい、また呉日文さんに「朝鮮報国隊」の宿舎跡に案内してもらってさらに話を聞かせてもらいましたが、5年7か月前には残っていたその建物は撤去され、広い空き地になっていました。
佐藤正人