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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

壬辰倭乱・朝鮮植民地化・強制連行の痕跡をたどる 2

2016年10月31日 | 紀州鉱山
壬辰倭乱・朝鮮植民地化・強制連行の痕跡をたどる
    ――2015年11月、韓国慶尚北道の道議員団とともに――

                                   金靜美

■解放後、新宮地域で亡くなった朝鮮人
 このあと、浄泉寺に安置されている朝鮮人の遺骨を見せていただいた。 
 山口範之住職によれば、本堂を改修したときに出てきたという。
 「栄宋讃」と書かれているが、朝鮮で「栄」という姓があると聞いたことはないので、書きまちがいかもしれない。
 山口範之住職からいただいた「ダム 工事人夫 家 過去帳」と書かれた名簿によれば、金光珠さんは1959年8月19日に亡くなり、42歳であった。ほかに、金徳俊さん(32歳)、河玉変さん(42歳。燮のまちがいと思われる)、金点守さん(54歳)、金成出さん(35歳)、「金田武夫」さん(35歳)の名前があるが、遺骨が残っていないので、家族が引き取ったのだろう。

★南谷墓地
 その後、山口範之住職に新宮の南谷墓地にある共同墓地に案内していただいた。
 南谷墓地には、「大逆事件」の犠牲者、大石誠之助さん(1911年に処刑)、高木顕明さん、峯尾節堂さん(1919年に千葉監獄で獄死)の墓がある。
 高木顕明さんの顕彰碑に案内していただいた。

■16世紀末の日本の朝鮮侵略と熊野
 その後向かった徐福公園にある「徐福の墓」(1736年建立)の碑文字「秦徐福之墓」は、李梅渓が書いたものだという。李梅渓(1617-1682年)の父、李真栄(1571-1633年)は、朝鮮慶尚道霊山の儒学者で、壬辰倭乱(1592-1593年)のときに捕えられ、大阪に連行され、後に和歌山の紀州藩主徳川頼宣の「侍読」になった。 李真栄と李梅渓の墓は、和歌山市道場町の海善寺にある。
 その後行った熊野速玉大社(2004年7月にユネスコの世界遺産)は、熊野本宮大社、熊野那智大社を合わせた熊野三山のひとつである。
 壬辰倭乱のさい、熊野水軍の総督として朝鮮海域に侵入した九鬼嘉隆は鳥羽城に本拠を置いていたが、九鬼の祖先は、9世紀から13世紀末にかけて熊野三山を統括する役職だった「熊野別当」をしていたという。
 また、新宮地域の支配者であった堀内氏善も熊野水軍に加わり、壬辰倭乱と丁酉倭乱(1597-1598年)のとき、朝鮮に侵入した。
 朝鮮侵略のさい、熊野地域沿岸の港では、船100隻あまりが造船されたという。

 こうして、慶尚北道議員団とわたしたちは、11月6日から7日にかけて、李基允氏と裵相度氏を追悼する集会がはじまる午後2時まで、16世紀末から20世紀中期の朝鮮人の強制連行にいたる時期の熊野地域を回った。
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壬辰倭乱・朝鮮植民地化・強制連行の痕跡をたどる 1

2016年10月30日 | 紀州鉱山
壬辰倭乱・朝鮮植民地化・強制連行の痕跡をたどる
    ――2015年11月、韓国慶尚北道の道議員団とともに――

                                   金靜美

 昨年11月7日と8日の追悼集会に、韓国慶尚北道の道議員団(7人)が参加した。
 議員団は、6日午前に関西空港に着いた。紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員は、昼ころ議員団と合流し、午後、311号線を通って、熊野市紀和町和気の本龍寺に着いた。
 311号線は、現在ほとんどの区間で、新設道路建設、拡張、改修がおこなわれているが、311号線とほとんど並行して走っている以前の旧熊野街道は、山合いを抜け、川に沿って走り、谷を越えていく道路であった。この古い道路の各所で、朝鮮人は働いた。逢坂トンネル、高尾隧道などである(高尾隧道については、2009年11月4日発行の三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会『会報』52号・紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』7号に掲載した「野中の清水のトンネル」を読んでください)。

★本龍寺
 本龍寺の本堂には以前、木箱に入れられ白い布に包まれた「無縁」の数十体の遺骨が置かれていた。木箱を包んでいる布には、名前が書かれてあり、朝鮮人だと考えられる遺骨は、5体であった。この「無縁」の遺骨はすべて、1999年10月2日に、本堂前の庭に新しく作られた納骨堂におさめられた。
 朝鮮人と考えられる5人のうち、2人は、3歳と8歳の幼児である。紀州鉱山には、強制連行された朝鮮人のほかにも、土木工事などで朝鮮人が働いていた。地元の人の話によると、家族連れの朝鮮人がおり、小学校に通っていた子どももいたという。
 本龍寺をでて、わたしたちは、紀州鉱山の坑口のひとつがあり、朝鮮人の飯場があった惣房を訪ねた。惣房は、熊野川の上流である楊枝川に沿った村である。ここには、紀州鉱山で使用された電力の発電所跡があり、板屋から出るトロッコの終点でもあった。いまも、トロッコのホーム跡が残っている。惣房の飯場から少し川上に向かうと、対岸に、川の土手に沿って段々場になっている場所がある。そこには、朝鮮人の飯場があったという。さらに進み、右手の細い道を登っていくと、開けたところがある。そこには、かつて、坑口や、三和小学校などがあった。
 1996年11月に、惣房で生まれ育った葛原三千代さんに、朝鮮人の宿舎のあと、三和小学校があった場所などを案内していただいたことがある。葛原さんが通っていた1940年ころ、三和小学校には、惣房から10人くらいの朝鮮人が通っていたという。校舎の土台が残っていた。

■新宮で
 11月7日、朝9時に新宮駅前に行った。
 新宮は、紀州鉱山に強制連行されていた朝鮮人が、日本敗戦後の1945年12月24日に、帰郷するために集結した場所であった。朝鮮人は、紀州鉱山から新宮までトラックで移動し、新宮駅から、列車で天王寺―大阪―下関を経由して、関釜連絡船で、帰国した。

★浄泉寺
 その後、わたしたちは、新宮駅から浄泉寺(真宗大谷派)に向かった。浄泉寺は、「大逆事件」で1911年1月18日に死刑判決を受け、無期懲役に減刑された後、1914年に秋田監獄で自死した高木顕明(1864-1914年)が、住職となっていた寺である。
 浄泉寺の現住職である山口範之さんから、韓国からの訪問者を迎えることばとていねいな説明が印刷されたものをいただいた。さいしょのあいさつは、朝鮮語でなされた。
  「みなさんこんにちは。お会いできて大変うれしく思います。
   熊野川の上流に7つのダムがあります。
   当寺院の過去帳を調べると1959年2月から1962年1月までに多くの方が亡くなり、
  葬儀がなされたと書かれています。
   このダムの施工主は西松建設とあり、過去帳にその業者の人夫と書かれている
  ところから二津野ダムの工事の時に亡くなった方が葬儀されたと思われます。
   4年前に亡くなった父から聞いた話ですが、韓国の人は名前が分からない人や、
  名前は判るが何処の出身なのかわからない人がいて、親族に連絡が出来ずに、葬
  儀の後に引き取り人が居なくてお骨だけが残ったと言っていました。
   10数年前に、新宮市に相談して共同墓地に埋葬していただき、お骨の少しだけを
  取り出し納骨堂でおまつりしています。
   続いて大逆事件に連座し追放された高木顕明師の簡単な説明をします。
   高木顕明師は18代目の住職で……。日露戦争の開戦に当たり戦争を反対した方
  でした。
   叉、天皇を神とし国民を神に従わせようとした時、人は平等であると平等を唱えた
  方でした」。
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海南島近現代史研究会第10回総会・第18回定例研究会報告

2016年10月29日 | 海南島近現代史研究会
海南島近現代史研究会総会・定例研究会報告
■第10回総会・第18回定例研究会   主題:海南島と台湾
 2016年8月28日

 3名が主題報告をおこないました。
 佐藤正人さんは、「海南島に連行された台湾人(軍属・兵士、「台湾報国隊」……)」と題して、“海南島を植民地化する基地として台湾が利用され、多くの台湾民衆が、軍属や兵士として海南島に送り込まれ、さらに台湾の獄中者が「台湾報国隊」として海南島の日本軍用施設建設工事に送り込まれ、台湾の女性が性奴隷として海南島に送られた。日本敗戦後に広東でおこなわれた戦犯裁判で台湾人が日本兵と共に処刑されたが日本軍の司令官や参謀などは全員が日本にもどった”、と資料をもとに報告しました。
 韓国から参加した金勝一さんは、「日本の海南島侵略における台湾総督府の役割」と題して、“日本が台湾を統治したときの「台湾経験」が海南島侵略後に海南島を統治するモデルとして移植された、台湾総督府は台湾島における軍事的独裁の権限をもち、恐怖政治によって抵抗勢力を封じ込め、「台湾人で台湾を治める」という方針をとったが、この方針が海南島でも適用され、日本語を強要する「皇民化政策」と住民虐殺と資源・食料の略奪が恒常化し、海南島の民衆を苦しめた”、と報告しました。
 斉藤日出治は「台湾総督府の南進政策と海南島侵略」と題して、“1895年の台湾の植民地化以降、日本は政府だけでなく台湾銀行による金融活動、台湾協会による教育事業などによって民間レベルでも台湾を拠点としてアジア南方への侵略を進めてきた。1930年代末になると、台湾を「大東亜共栄圏」構想の中軸として位置づけ、海南島をも「大東亜共栄圏」における資源確保の拠点に組み込んで、収奪を進めた”、と報告しました。
 主題報告のあと、竹本昇さんが、「『台湾日日新報』で日本の海南島侵略は、いかに報道されていたか」と題して、『台湾日日新報』の記事を紹介し、“1908年から1936年ころまで台湾総督府は海南島への「探検」を企て、資源の「調査」をし、海南島の資源を略奪しようとし、1933年ころからは、海南島への軍事的な関与の動きが活発化したことが、新聞記事から知ることができる”、と報告しました。

 つづいて、会場からの発言を受けました。
   「わたしの父は、海南島に召集された。父の所属する部隊に台湾や朝鮮の人がいた
  ことは聴いていたが、詳しいことは知らなかった。今日の報告で、台湾人が海南島に
  派遣されたことを知り、自分の父もその加担者であったことを知って、罪深いことだと
  思った」。
   「非暴力の闘いを自分の中に抱えている自分にとって、海南島の歴史研究が思考の
  突破口になるか、歴史研究をする中で自分がどう生きていくか、そういうことを思いま
  した」。
   「日本人はいまだに沖縄を属国だと思っている。それは、対外的な膨張を続けていっ
  た大日本帝国の植民地支配の清算をやっていない敗戦後の私たちの問題だと思う。
  天皇裕仁を戦犯として裁くことができなかったことが大きいと思う」。
   「日本の軍需産業、軍産共同体を潰すことが大事だ。軍需産業は戦争を起こそうと
  している」。

 討論の後、久保井規夫さんが「海南島への侵略と支配」と題して、図版や写真(「黎族を使役して軍用道路をつくる」「黎族の」「占領に怯える住民」「海南島を侵攻する日本軍」「海南特務部」など)を紹介しました。
 そのあと、金靜美さんが、2016年春に、海南島の土卜嶺村、嶺尾村、南北溝村、新街村、大坡村、老王村、昌美村、慶雲村、光村、大水村……で聞かせてもらった証言を、写真を示しつつ報告しました。
                                          斉藤日出治 記
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海南島近現代史研究会第17回定例研究会報告

2016年10月28日 | 海南島近現代史研究会
海南島近現代史研究会総会・定例研究会報告
■第17回定例研究会  主題:日本政府・軍・企業に殺害された人びとの生と死
 2016年2月14日

 主題にかんして3名が報告をしました。
 佐藤正人さんは、「日本の侵略犯罪の犠牲者の生涯」と題して、タスマニア虐殺・ヘレロ虐殺・マジマジ虐殺などの世界近現代史におけるジェノサイド・エスノサイドの総括は世界史研究の領域においてもほとんどなされていない。住民虐殺など海南島における日本の侵略犯罪もそうである。海南島で日本政府・日本軍・日本企業よって殺された民衆の名前と数を明らかにし、その生と死の軌跡をおおくの人とともにたどっていきたい、と話しました。
 つづいて、金靜美さんが「海南島と中国東北部:村落襲撃、強制労働」と題して、中国東北部における長期にわたる日本侵略史のなかで、731部隊がおこなった生体解剖、人体実験、ペスト菌やコレラ菌などの散布による犠牲者についてのべました。さらに、海南島でも、これまでの「現地調査」によって、ガス散布(東方市四更鎮旦場村)、河川への毒散布疑念(黎母山鎮新林郷榕木墟村内尖石村)、労働者への皮膚病感染注射(東方市八所)などの証言があったこと、定安県の「海軍の医療施設」で生体解剖がおこなわれたこと(日本人看護師渡辺はつの証言)などを報告しました。
 蒲豊彦さんは「三竈島と海南島:三竈島の抗日ゲリラ隊と日本軍の住民虐殺」と題して、香港の当時の新聞記事と大井篤日記という新資料を手掛かりにして三竈島における住民虐殺の実態を明らかにしました。
 斉藤日出治は「海南島とベトナムで:元舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊兵士の証言」と題して、元日本兵の杉原剛さんからの聞き取りの報告をおこないました。
 
 そのあと、参加者からのつぎのような発言がありました。
   「今日のテーマはとても大切だ。自分が加害行為に加担することがどれほど恐ろしい
  ことなのか、を肌身で感じ取らなければならない」。
   「東京で近現代史の資料の編集に係わっているが、日本の当時の占領地の資料を刊
  行することで、当時何がおこなわれていたのかを伝えていきたい」。
   「福島で被災し放射能を浴びたひとたちを関西に保養で迎え入れる運動をしているが、
  今日の集会で国家は民衆のことを考えていると思っていたが、その正反対のことをする
  のだとつくづく感じた」。  
   「海南島で住民がどのように殺されたのかを学ぶことで、そのことの責任の重さを深く
  感じとらなければならない」。
   「北大、京大などの研究者が略奪し大学が所持しているアイヌの人骨の返還運動に取
  り組んでいる。
    日本人研究者らの人骨調査の目的は、アイヌ民族が滅びゆく民族であることを裏付け
  ようとすることだった。
    台北大学の金関文夫という研究者が台湾の霧社事件の先住民の人骨、海南島の先住
  民黎族の人骨を調査しようとしたことが判明している」。
   「日本で日の丸、君が代に違和感を持たないどころかそれに誇りを感じるという人が増え
  てきている。このような雰囲気にどのように抵抗するのか、そしてその姿勢を将来世代にど
  のように継承していくのかが問われている」。

 討論の後、金靜美さんが2015年秋の「現地調査」について報告しました。
 最後に、事務局が、定安県南曲村の抗日闘争の記念館を建設するので研究会として基金カンパをしたいという提案をおこない、承認されました。
                                        斉藤日出治 記
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海南島における日本の国家犯罪をテーマにした市民講座

2016年10月27日 | 海南島近現代史研究会
 ことし4月に創立された大阪労働学校・アソシエが、「海南島における日本の国家犯罪」というテーマで9月10日、10月1日、10月8日に、はじめての公開市民講座を開催しました。この講座で、海南島近現代史研究会は、ドキュメンタリー上映と報告を担当しました。

■第1回(9月10日)
 佐藤正人が、日本の他地域他国侵略の事実を記録し伝達することの意味について話し、なぜ日本民衆は海南島を含む他地域他国への日本国家の侵略犯罪を阻止できなかったのかを共に考えたいとのべたあと、紀州鉱山の真実を明らかにする会が制作したドキュメンタリー『日本が占領した海南島で』を上映しました。

■第2回(10月1日)
 はじめに、斉藤日出治が、海南島近現代史研究会の前史をふくむ活動の歴史を報告し、熊野での朝鮮人虐殺や紀州鉱山の強制労働と海南島における朝鮮人虐殺・住民虐殺とがつながっていることを話しました。
 ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』の上映後、斉藤が、2008年4月に月塘村で追悼碑を建立した直後、村民は日本政府に犯罪者の処罰と謝罪と補償を要求したが日本政府はあいまいな回答しかしなかったこと、2014年7月に村民は証言集『血和泪的記録 海南万寧月塘村三月廿一日惨案専輯』をだしたことを報告しました。

■第3回(10月8日)
 佐藤正人が「日本国家の海南島侵略史の世界史的意味」について報告しました。 
 佐藤は、日本の近現代史は他地域他国侵略の歴史であった、1939年2月から1945年8月まで6年半の日本の 海南島侵略の時代は海南島民衆の抗日反日闘争の時代であったと話したあと、海南島での1998年からこれまで18年間の聞きとりの内容を報告しました。
 そして、6年半の海南島戦争(侵略と抵抗)の歴史を知ることによって、侵略者の世界史に対決する被侵略者の世界史を学び、日本政府・日本軍・日本企業の侵略犯罪の責任を追及するならば、侵略を許さない日本民衆の運動を強めることができるのではないか、と話しました。

■参加者のアンケート
  「このような事実があったことを全く知らなかったので驚いた」。
  「当時の証言を残せたのは貴重だ」。
  「日本人が国の為といって、平気で村を焼き、人を殺す、こんなことが許されてよい
 のか」。
  「海南島を知らなかった。真実を知ることで本当の過ち、それを繰り返さない気持ち
 が強くなる」。
  「日本政府の、海南島への侵略犯罪の責任追及し国家賠償をさせるべき」。   
  「次は、どうしてこのようなことをしたのか、なぜここまでしなければいけなかったの
 か聞きたい」。
  「(今後の公開講座では)日本国のアジアにおける侵略・虐殺の歴史をもっと明らか
 にしてほしい」。

 労働学校が主催した公開講座であったため、参加者の多くが労働者でした。3日間の参加者は200人以上でした。
 侵略国家の侵略犯罪の事実を明らかにし、その責任を追及することが、現在の世界史的な課題であり、今回の公開講座は、この課題が労働運動なかでさらに大きな意味をもっていくひとつの契機となったのではないか、と感じています。

                            斉藤日出治 佐藤正人 記
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白南基(ペク ナムギ)さんと‟육철낫”

2016年10月26日 | 韓国で
■白南基(ペク ナムギ)さんと‟육철낫”
                               金 靜美

 ことし9月25日、白南基さんが亡くなった。1947年生まれ、69歳だった。
 白南基さんは、朴正煕政権下の学生時代、1969年の大統領3選改憲反対や1972年10月からの維新体制反対など、民主化運動を闘い、大学からの除籍処分や復学を経たあと1980年5月17日、全斗煥政権の非常戒厳令違反で逮捕され、懲役3 年の刑を宣告された。
 その後、故郷の全羅南道宝城郡熊峙面にもどり農業に従事した。韓国麦興し運動光州・全羅南道本部をなかまとともに作り、共同議長になった。
 白南基さんは、昨年11月14日、自宅から農民120人余りとともにソウルに行き、民衆総蹶起集会に参加した。
 集会後のデモのとき、白南基さんは警察の直射放水銃に撃たれて倒れた。ソウル大学病院で脳内出血の手術を受けたが、意識を回復することなく、10か月10日後に亡くなった。
 昨年11月14日の民衆総蹶起は、朴槿恵政権退陣、労働問題、農業問題、歴史教科書国定化反対、セウオル号の真相糾明などを目的とし、民主労総、全国農民会総連盟、全国貧民連帯など53の団体が共同主催した集会であった。民衆総蹶起闘争本部は、主食用米輸入阻止、TPP反対、米および農産物の適正価格保証、露店摘発中断、歴史歪曲中断、歴史教科書国定化計画廃棄など、11領域22項目の要求を掲げていた。

 白南基さんが亡くなった9月25日、わたしは、韓国にいた。白南基さんと同じ農民として、長く運動を共にしてきた韓道淑(ハンドスク)さんら、白南基さんの死を悼み憤る人たちといっしょだった。
 韓道淑さんは、以前、全国農民會総連盟議長だった人である。いまは同連盟の顧問をし、おもに果樹(梨、りんご、栗など)を栽培している農民であり、詩人である。最近、評論集『さつまいもの花が咲きました(고구마꽃이 피었습니다)』(2015年、民衆の声社、ソウル)、詩集『踏みしめる大地(딛고선땅)』(2016年、民衆の声社)をだした。

 以下は、韓道淑さんが、韓九淵(ハングヨン)という筆名で発表した、白南基農民の死にさいして作った詩、 ‟육철낫”の原文と日本語訳である。
 ‟육철낫”の日本語訳はむずかしい。翻訳の過程で、韓道淑さんに尋ねた。
 韓道淑さんによれば、韓国で一般的に使われている鎌は、‟왜낫(倭鎌)”といわれ、植民地期に朝鮮にもたらされ、おもに稲などを刈るときに使われるそうだ。軽くてよいが、硬いトウモロコシや豆の茎を切るときには、よく刃がかけ、使えないという。
 ‟육철낫”は、大量生産品ではなく、鍛冶屋でひとつづつ手作りで鍛造された、強靭で頑丈な鎌のことだという。漢字にすると、‟肉鉄낫”と書く。職人が時間をかけ心を籠めた鎌という意味で、‟肉鉄낫”というのだという。韓九淵さんは、白南基農民を、‟육철낫”になぞらえた。
 ‟육철낫”を、‟手打ち鎌”とするか? ‟手撃ち鎌”とするか? 闘いの途上で斃れた白南基農民には、‟手撃ち鎌”が合うように思った。


육철낫

섶 따위만 치진 않았오
뒤란 대숲 참대 내리쳐 죽창을 만들었오
더러는 탐학의 목을 치고
더러는 침략자의 피를 벼린 날에 묻히기도 했오
그러다가
헛간 부스러진 흙담에 걸리어
녹슨 몸을 어루며
억센 손아귀 맛을 본지 어언 일 년이오
풀무간에서
쇳덩이가 신열을 하며 달아오를 때
큰망치로 두두리고
작은망치로 때려
찬물에 몸을 담그면
온몸에 우주가 담기는
섬뜩함으로 단련되어
또 한 번 거친 세상을 향해 포효 하고 말 것이오
저만의 무게 만으로도
멈추기 어려우니 조심하시오
한 번 허공을 헤침이
우지끈 세상을 날리는 회오리로 불어 닥치니
순박한 농부의 손아귀에
“퉤” 침방울로 욺켜지고
우직하게 휘두르면
육철낫은 냉철하게 예리하다오
나무에 꽃이 피지 못하는
생명이 잉태되지 못하는 죽음의 시절
다시
백남기의 육철낫이 살아오오
몸뚱이 붉게 달아오른 냉철한 육철낫


手撃ち鎌

木々を切り払うだけではなかった
裏山の竹林の真竹を切り落とし 竹やりを作った
ときに 暴虐を打ち倒し
ときに 侵略者の血を 鍛えた刃になすりつけることもあった
それから
納屋の崩れた土塀にもたれかかり
錆びついたからだをなだめ
ごつごつした手のひらの汗を吸って いつのまに1年が過ぎた
ふいごで
鉄の塊が真っ赤に焼きあがり
大づちでたたかれ
小づちで打たれ
冷たい水にからだがひたされると
全身に宇宙がみなぎるごとく
ひゅうっと 鍛えられ
いま一度 荒々しい世に向かって 咆哮するのだ
みずからの重さだけでも
立ち止まるのがむずかしい 注意せよ
ひとたび 空を切れば
めりめりと 世を吹き飛ばすたつまきが 吹き荒れるから
純朴な農夫が手のひらに
ぺえっと つばをなすりつけ
愚直に振り回すなら
手撃ちの鎌は 冷徹で鋭い
木に花が咲かず
命が宿らない 死の季節
ふたたび
白南基が手撃ち鎌となって 生きるのだ
からだが真っ赤に燃えたぎる 冷徹な 手撃ち鎌
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「日韩学者再到海南调查日军侵琼真相」

2016年10月25日 | 海南島史研究
http://www.cctv.com/news/china/20060323/100610.shtml
「cctv.com」 2006年3月23日 10:30    
■日韩学者再到海南调查日军侵琼真相
  中新社海口三月二十二日电(记者 王辛莉) 九年来逾十次到海南调查日军侵琼真相的三位日韩学者日前再次来到琼岛。他们今天在此间向记者透露,此行将重点到发现日军侵琼新线索的海南黎母山、尖峰岭等五个地区进行调查。
  日本学者佐藤正人、小谷英治和韩国学者金静美三人都是日本民间组织“查明纪州矿山事实真相自治会”成员。佐藤正人介绍,近期,他们在日本找到已解密的《海南警备府战时日志》之“战斗详报”,并对照海南前些年出版的《日军侵琼暴行回忆录》,发现了日军毁坏黎母山森林资源、日军在儋州松涛控制食盐残杀无辜及尖峰岭抗日根据地遗址等新信息。
  据悉,三位日韩学者此次在海南岛的调查长达半个多月。今天下午他们到海口永兴镇日军洞窟遗址调查,晚上将向村民放映《日本占领下的海南岛》纪录片。明晚,一位琼籍留日学生将特地从日本飞返海南协助调查做翻译工作,后天他们将赴发现新线索的地区及五指山、三亚、昌江、东方等地展开调查。
  佐藤正人多年来关注海南“慰安妇”。本月八日,海南“慰安妇”事件受害者一案日本东京最后一次开庭,佐藤等自治会成员赴东京声援“慰安妇”证人,并向日本市民散发自制的《倾听海南岛战时性暴力被害者的控告》宣传册,揭露日军侵琼真相。此行他们还将到保亭看望“慰安妇”受害者。
  金静美向记者表示,今年“自治会”将分别在东京高丽博物馆、大阪人权博物馆举行《日本占领下的海南岛》展示会,并出版《日本侵略海南岛和海南岛抗日斗争的史迹》写真集。(完)



http://jczs.news.sina.com.cn/p/2006-03-22/1833359059.html
「新浪军事」 2006年3月22日 18:33 中国新闻网
■图文:日韩学者海南调查日军侵琼真相
  九年来逾十次到海南调查日军侵琼真相的三位日韩学者,近日在海南岛展开为期半个月的调查。他们此行重点将到发现日军侵琼新线索的海南黎母山、尖峰岭等五个地区进行调查。他们都是日本民间组织“查明纪州矿山事实真相的自治会”成员。图右为日本学者佐藤正人,图左为韩国学者金静美。作者:王辛莉
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「日韩学者眼中的日军侵琼史:日政府应谢罪赔偿」

2016年10月24日 | 海南島史研究
http://www.hq.xinhuanet.com/news/2004-12/31/content_3492154.htm
「xinhuanet」2004-12-31 15:58  来源:『海南日报』
■日韩学者眼中的日军侵琼史:日政府应谢罪赔偿
  由韩国学者金静美和日本学者佐藤正人共同策划、历时6年制作的纪录影片《日本占领下的海南岛》,今天首次在海南公开放映。

★影片分4个章节
  佐藤正人特地将首映的地点,选在了三亚市田独镇一个名为“朝鲜村”的小村落。因为,这里长眠着上千受日本侵略者虐杀、惨死异乡的朝鲜劳工。
  影片以佐藤等人寻访朝鲜村朝鲜劳工遗骸、村民回忆目睹劳工受虐经过等为第一章节,寻访儋州中和、文昌重兴、琼海潭门等地老人回忆日军侵琼暴行为第二章节,寻访保亭等地曾被逼充当慰安妇的幸存者为第三章节,收集琼台儿女抗日史料为第四章节,并在影片结尾处表示,日本政府应该查明受日本军队和日本企业迫害中国民众的被杀害场所、被杀害状况、被杀害方法,对受害者遗骨的处置情况,处罚事件责任人,向受害人谢罪、赔偿。

《日本占领下的海南岛》影片中记述,受日军驱使和残害,惨死在海南岛的劳工,难以统计确切的数字。这些游荡在异乡的冤魂,来自朝鲜、印度、台湾、香港、广东汕头等地。

★“朝鲜村”没有朝鲜人
  在三亚“朝鲜村”遭到集中虐杀的朝鲜劳工是当时日本统治下的朝鲜青年政治犯,他们的被害受到了韩日学者的重点关注。
  朝鲜村里现在没有一个朝鲜人了,老年村民尚能回忆起孩提时所见的惨剧。1935年出生的周学勤老人回忆说,日本人用小手指般粗细的铁丝线,把朝鲜劳工双手反绑,或是圈住腰身,吊在酸豆树上毒打,然后用汽油把奄奄一息的劳工烧死。
  日军驱使劳工进行高强度的劳动,譬如修建铁路、机场、开凿矿山、开凿花岗岩山洞建造军艇基地等。在陵水等地的村庄里,还有幸存的外地劳工能回忆当年的情景。海南各地政府为纪念大批量死亡的劳工,在田独、石碌、八所等地修建了千人坑、万人坑纪念碑。
  2000年1月,在海南地方政府的支持下,韩国商人出资,对朝鲜村劳工遗骸进行挖掘,一个多月的时间就挖出了109具遗骸。从出土的尸骨上,能看到手腕处戴着的铁制手铐,头骨上被钉入的粗铁钉和弹孔。影片中,森森白骨上空洞的眼眶似乎正注视着来者,配上女人用哭腔吟唱的朝鲜歌曲《风的声音》,让观者感到深深的悲怆。
  记者与佐藤正人交谈得知,当时从日本占领下的朝鲜监狱,以减刑的名义被日军强拉至海南岛的“朝鲜报国队”,主要是反抗日本政府的朝鲜政治犯,数量在2000人左右,几乎全部受残害至死。“朝鲜村”的劳工遗骸被发掘后,韩国民众强烈要求日本政府公布这批劳工的名单,遭到拒绝。佐藤等人查明,当时看守这些劳工的是日军海南海军第16警备队南丁进驻队,有200多人,佐藤希望他们能站出来,得到的却是沉默的回应。

★数个村庄被杀戮消失
  影片中放映的第二章节,是佐藤等人寻访海南各地遭受日本侵略军暴行的村落内容,拍摄时间多为去年3月底4月初,是佐藤正人、金静美等人第6次来琼调查日军侵琼史证的时间。当时,本报记者一路跟随日韩学者,从三亚出发,经陵水、琼海、文昌、儋州等地,向当地老人求证日军暴行。
  在琼海市潭门镇潭门村,73岁的麦兴富说,1939年6月,侵琼日军海军陆战队一部经当时的乐会县博鳌镇珠塘湾登陆侵入潭门港,在3天之内将全村200多名群众尽数出家园,全村房屋均被拆毁,用来作日军军部建设材料。日军在潭门村以西2公里处的潭门坡设屠人场,对被怀疑与共产党有关的群众随意杀戮。不断的杀戮造成潭门周边部分村庄人员灭绝,排溪、九所、墩头等3个村庄先后消失了。
  在曾被日军焚毁的文昌铺前秀田村,79岁的陈贻侨回忆说,1945年农历6月22日清晨,为农时,当时21岁的他早早离家去了田地。哪知中午回来时,村里已是人迹全无。在村民陈文礼、陈明禄家中,陈贻侨发现,133位秀田村民和到秀田走亲戚的7名外村村民都被烧死在这里。焦的尸体有的蜷缩在屋角,有的藏匿于床底、水缸,有的匍匐在墙边,还保持着攀爬的姿势。陈贻侨母亲、妻子及4个月大的幼儿均丧命于此。说到这里,陈贻侨几度语音哽咽、神情悲愤。身边71岁的陈贻芳老人也开始抽泣,当时才13岁的他和小伙伴藏身于草垛中逃过一劫,但目睹父母、兄嫂、姐弟被日军逼入屋内用烈火焚烧,8个月大的侄儿连着摇篮被日军扔进火堆。

★希望日本正视历史
  记者在此次随同采访时记录到,历经过如此国恨家仇的老人,最后都表示,现在中日已经结为友好,希望日本能正确面对侵华战争罪行,使死难者得到安息。佐藤正人告诉记者,他们制作这样的影片,也是希望能通过他们的行为,告诉日本民众受到日本政府隐瞒真相的历史本来面目,并帮助中国受害者向日本政府索赔。
  面对“慰安妇”的称呼,曾受日本侵略军迫害的女性受害者,心头永远激荡着仇恨。佐藤等人经历很多曲折寻访到的保亭南林乡罗葵村老人林亚金,就在影片中表示,她对日本人的憎恨永远不会消失。影片中还记录到一位至死都不愿重回家乡的朝鲜慰安妇朴来顺。1942年她在海口时曾有一张留影,现在看来,仍让人感到这是位娴静淑雅的女子。1993年,她的经历被当地文史部门的同志整理出来。今天,朴来顺老人的坟墓,孤零零地立在保亭的乡间。
  佐藤等人的民间寻访行为,也许是孤单而薄弱的,但通过他们的身影,让人感受到了一些有正义感的日本人的诚恳和善良。佐藤向记者表示,他在听到林亚金当面的呵斥时,心中涌动的是对老人的深切同情。他说,林亚金老人最后表示,看到有日本人来找寻这段历史,心里还是好受了些。(完)(陈超 袁锋)
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日帝強制動員歴史館(釜山)の「木本事件」についての展示

2016年10月23日 | 木本事件
■日帝強制動員歴史館(釜山)の「木本事件」についての展示

                                     佐藤 正人

 朝鮮解放70周年の昨年12月10日(世界人権の日)に、韓国で日帝強制動員歴史館(일제강제동원역사관)が開館しました(2010年着工。総工費約47億円。7万5465平方メートル。7階建て。釜山南区大淵洞。韓国の政府機関である対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会などが建設)。
 この韓国で唯一の日帝強制動員歴史館は、開館7か月後の今年7月中旬に韓国で41館目の国立博物館になりました。
 わたしは、9月21日午後、はじめてこの歴史館を訪ねました。

 4階と5階が常設展示室になっており、4階は、プロローグ(記憶のトンネル)、日本強制動員の開始、日本強制動員の実体、解放と帰還、終わっていない日帝強制動員……を主題とする展示で構成されており、5 階は、強制動員の過程、強制動員現場(朝鮮人労務者宿舎など)、炭鉱、中・西部太平洋戦線、日本軍慰安所、帰還を主題とする展示で構成されていました。
 4階の常設展示室を入ってまもなく、「関東大地震朝鮮人虐殺事件(관동[간토關東]대지진 조선인 학살사건)」と「三重県朝鮮人虐殺事件(미에 현三重縣 조선인 학살사건)」についての記述がいっしょに示されている一枚のパネルがありました。
 そのパネルの上段には、つぎのような全体解説が書かれていました。
    「日帝は、対外的に内鮮一体を打ち出したが、日帝の侵略戦争が本格的に始まるまえ
   から、日本社会には朝鮮人にたいする根深い差別と排除意識が存在した。関東大地震
   当時、無差別におこなわれた朝鮮人虐殺事件をはじめ、地域別集団虐殺事件は、日本
   社会に内在している朝鮮人差別意識を克明に表している。結局、日帝の内鮮一体は、
   差別のもとで権利なく義務だけを強要する近代植民地支配の矛盾であった」(佐藤訳)。

 そして、その左下には、「関東大地震朝鮮人虐殺事件」についてつぎのように書かれていました。その下には、「虐殺した朝鮮人の死体を見ている自警団員」というキャプションがつけられている写真が示されていました。
    「1923年9月1日、日本関東地方で、歴史上例を見ない大地震が発生した。日本当局
   は地震によって荒れはてた民心をべつの方向に向けるために“朝鮮人が井戸に毒を入
   れた”という流言飛語を広めた。興奮した日本民衆は、朝鮮人虐殺に出た。この事件の
   特徴は軍と警察はもちろん、一般民衆まで朝鮮人虐殺に出たという点だ。数千名以上
   の無辜の朝鮮人が虐殺されたが、日本当局の隠ぺいにより、現在も正確な被害状況が
   明らかになっていない」(佐藤訳)。

 その右側には、「三重県朝鮮人虐殺事件」と題するつぎのような解説が書かれていました。
    「1926年1月3日、日本の住民が‟植民地朝鮮人の分際で、態度が傲慢だ”という理由
   で、三重県トンネル工事現場で働いていた朝鮮人労働者宿所を襲撃する事件が起きた。
   朝鮮人二人が虐殺されたが、日本警察は加害者を逮捕するどころか、朝鮮人被害者を
   検挙し追放した」(佐藤訳)。

 パネル全体の右下に「虐殺され、新義州方面の鉄路に捨てられた朝鮮人の死体(国家記録院)」というキャプションがつけられている写真が示されていました。

 この「三重県朝鮮人虐殺事件」と題するパネルについては、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会に、なにも連絡がありませんでした。
 このパネルの解説の作成者も、わかりません。ここには、「日本の住民が‟植民地朝鮮人の分際で、態度が傲慢だ”という理由で……」と書かれていますが、この理由説明は、事件の本質をほとんど示していないと思います。
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、追悼碑の碑文に、
   「李基允氏と裵相度氏が、朝鮮の故郷で生活できずに、日本に働きにこなければなら
   なかったのも、異郷で殺されたのも、天皇(制)のもとにすすめられた日本の植民地支配
   とそこからつくりだされた朝鮮人差別が原因でした」
と記しています。

 常設展示室には、パネル、記録写真、実物(ポスター、葉書、手紙、衣服……)、動画、地図、監獄・鉱山・鉄路・「慰安所」・帰国船などの大きな模型が展示されていました。
 「朝鮮報国隊」の隊員として1943年4月に海南島に連行されながらも帰国できた表台珣さん(1922年)が忠清南道瑞山市の自宅で証言している動画や佐藤正人が海南島で「朝鮮報国隊」について語っている動画もありました(これは、韓国MBCが『하이난섬의 大虐殺(『海南島の大虐殺』)と題して2001年3月1日に放映した「3・1独立運動記念特別ドキュメンタリー」の一部分です)。

 日本の他地域他国侵略の歴史や朝鮮人中国人強制連行にかかわる事実を明らかにする歴史館は、韓国や中国ではなく、まず日本につくられなければならないものだと思います。
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「佐世保海軍病院跡を訪ねて」

2016年10月22日 | 海南島史研究
http://asd12.web.fc2.com/
■佐世保海軍病院跡を訪ねて(1997年)
    ~父の足跡を追ってみる~       ※原文は元号使用

 佐世保は半世紀ぶりの訪問である。 一九四五年六月二十九日の佐世保大空襲により佐世保海兵団の兵舎も焼失したそうであるが、僅かにレンガ作りの塀らしき場所だけが残っていた。海兵団跡地内には現在、米軍ニミッツ・パーク、自衛隊佐世保病院等が同居している。
 一九四三年に父が疾病のため佐世保海軍病院へ入院した時、母と見舞いに訪れた思い出の地である。下関市から佐世保に向い一泊、翌日病院を訪れた。 守衛が「お前達は何処から来たのだ」と横柄な口をきくので、母は「あっちから来た」と返事してやったと自慢話を聞いたことがある。
 やがて長いテーブルがある食堂のようなところへ案内された。そこには、おだやかな顔をした父が待っていた。 始めて見る父でした。「遠いところよく来たな」と私を抱き上げてくれた。
 今も、その光景は忘れる事はない。4歳の時でした。帰りに菓子をもらった。見たこともない黒いかたまりの菓子だった。後から母に、それはチョコレートだと聞かされた。

   【写真】海軍病院にて(左が父)
   【写真】佐世保海兵団跡地
   【写真】自衛隊佐世保病院(資料館7Fより撮影)
   【写真】海上自衛隊佐世保資料館
   【写真】戦艦三笠(パンフレットから拝借)

 佐世保に父の生活していた痕跡が残ってはいないだろうかと思い、佐世保水交社跡(佐世保海兵団集会所)に建てられた7階建ての自衛隊佐世保資料館を訪ねた。父も幾度となく出入りした場所であろう、資料館事務所に行き氏名、入団の時期、階級を告げ調査をお願いしたが、特務士官以上の資料は残っているが下士官以下は無いとの返事であった。 終戦から60年の月日が流れ、戦場の最前線で戦ってきた小兵達の記録は無いとのことであった。もう過去の出来事として忘れ去られてしまったのだろう。
 佐世保史料館は侵略戦争への反省は全くなく、旧海軍の栄光の軌跡を追い、その歴史と伝統を海上自衛隊がそのまま受け継いでいることを、はばかることなく示していた。
 戦後、父が戦争体験を話してくれた事があった。それは住民を壕に集めて一度に虐殺する作戦だったそうです。ある日、住民を壕に入るように命令し 最後に入り遅れた幼い兄弟がいたそうです。入り口の前で、たおれた弟を兄が抱きかかえるようにして入ったそうです。その直後、手榴弾を投げ込まれたのである。 非戦闘員である住民や幼子まで容赦なく虐殺したのだ。この凄惨な光景を見ていた父は、このことが重く心にのしかかっていたのだろう酒が入ると泣きながら話していた事を覚えている。その父も一九六八年に他界した。 あの呪わしい戦争を体験した人々もしだいに数少なくなってきて戦争体験も風化しつつあることは残念でなりません。
 長い間タンスの中で眠っていた軍人恩給手帳を取り出し、戦場でどんな体験をしたか足跡を追って見ることにした。それがせめても父への供養になるのではないかと思った。1932年から1943年まで、上海事変、日中戦争から太平洋戦争までの期間のうち、2度にわたり従軍し通算9年間の出来事がつづられていて侵略戦争の一片を垣間見ることが出来た。この戦争体験談は1941年8月の海南島討伐の「Y-四作戦」だと思われる。

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              父の軍歴 (軍人恩給手帳写)

1932年6月1日   現役編入
  同年6月30日  佐世保海兵団入団     
  同年11月13日 海軍三等水兵を命ズ  
        同日 戦艦陸奥乗船を命ズ (佐世保海兵団)
1933年6月29日  馬鞍群島に向ウ 佐世保発 (陸奥)
  同年7月4日   基隆帰着
  同年7月13日  南洋群島ニ向ウ 馬公発(遠洋航海)
  同年8月21日  木更津沖帰着
  同年8月25日  1933年度特別大演習ニ付御紋菓下賜セラル

 戦艦陸奥の写真も乗員に下賜された。A4大の大きさでカラー写真(中央上部に金の菊の御紋があり、昭和天皇のお姿もある)お召し艦といわれ、天皇陛下が乗船される戦艦であった。

  同年10月28日 補充交代、上海陸戦隊ニ転勤を命ズ、即日佐世保海兵団ニ仮入団セシム
  同年11月1日  海軍二等水兵を命ズ (上海海軍特別陸戦隊)

 上海特別陸戦隊の増設部隊(第三艦隊)河川砲艦を主体とする艦隊で第一次上海事変後の揚子江流域を監視した

  同年11月2日  知床便佐世保発(揚子江)
  同年11月4日  入隊 乗艦を出雲ニ指定ス  (第三艦隊)
1934年4月13日  両陛下ヨリ侍従武官ヲ御差遣、御紋付き煙草下賜セラル

 通称「恩賜の煙草」と言い、戦時中、天皇陛下から兵士たちに下賜された煙草のことである。 約8センチ四方のケースに入っており、煙草の長さは7センチ程度。一本一本に金色の菊の御紋が入っていた。

  同年6月6日   乗艦を對馬ニ変更ス 第三艦隊
  同年8月8日   乗艦を對馬ヨリ安宅に変更ス
1935年4月11日  両陛下ヨリ侍従武官ヲ御差遣、御紋付き煙草下賜セラル
  同年4月30日   帰休前に付、佐世保海兵団ニ入団を命ず
  同年5月1日   海軍一等水兵ヲ命ズ (佐世保海兵団)
1935年5月31日  現役満期
  同年6月1日  予備役編入
              1941年6月1日 後予備役編入
              予定、後予備役満期1944年5月31日
              1944年6月1日第一国民兵役編入
              第一国民兵役編入満期1951年7月23日

 【豫後備役】 現役終了後ただちに5年間の「豫備役」編入となり、豫備役期間が終了すると、 さらに10年間の「後備役」に編入されます。後備役期間が終了すると、「第一國民兵役」に編入されます。

1939年3月8日  法律第一号ニヨリ予備役1年、後予備役2年延長セラル
  同年      鎮海警備隊付ヲ命ズ 鎮海着入隊
  同年9月12日 充員招集を命ゼラレ佐世保海兵団ニ入団   
1940年5月10日 佐世保発戦地、戦務 (加算率三ヶ月)
  同年5月8日  第三遣支隊司令部付 青島根拠地隊 付ヲ命ズ(即日光済ニ便乗)

 雑役船、光済は戦後、復員兵輸送に使用された。

  同年5月10日 佐世保発北支方面戦地戦務(加算率三ヶ月)
  同年5月12日 青島着入隊 乗艦ヲ磐手ニ指定ス
           青島を拠点に華北方面の哨戒任務を担当
1941年1月7日  佐世保海兵団付ヲ命ズ(即日北安丸便乗)
  同年1月9日  佐世保帰着
  同年4月17日 佐世保鎮守府第一特別陸戦隊付ヲ命ズ(即日逢海丸便乗)南支方面戦地戦務
  同年4月24日 海南島討伐作戦に従事  佐鎮一特
        同日 三亜着、即日入隊
  同年8月9日~30日 Y-四作戦に従事

 鉄鉱石等の資源を求めての侵略戦争で「Y-四作戦」は佐世保鎮守府第8特別陸戦の作戦名。
 『海南警備府戦時日誌』によれば 8月の1か月間に、黄竹鎮村落などを遺棄死体89、射刺殺53、捕虜24、帰順26、焼却兵舎84、討伐回数202と残虐行為を重ねていました。戦後、当時の上層部は住民虐殺として広東で処刑されている。

  同年9月22日  三亜発(北泰丸便乗)
  同年10月3日  佐世保着
  同年5月1日~11月20日 南支方面事変地勤務 (加算率二ヶ月)
  同年11月28日 佐世保鎮守府特別陸戦隊ニ編入
        同日 佐世保発(幾内丸乗船)
  同年12月4日  パラオ着 (不健康地域勤務)
  同年12月4日~12月31日 南洋方面戦地戦務
1941年1月1日   蘭領東印度方面作戦に従事

 ボルネオ作戦に参加 日本軍の司令官、今村均中将が3個師団と1旅団を率いて1942年1月12日、ボルネオ島の北部のタラカンを占領した。ここは日本が石油等の資源を求めての戦争であった。
 海南島討伐戦争と大きく違うことは終戦後、今村は軍事法廷に引き立てられたが参考人として100人以上の白人や現地人がことごとく、 今村の軍政の正当適切であったことを立証して今村は無罪になったことである。

  同年3月10日  佐世保鎮守府第一特別陸戦隊ヲ第四警備隊ニ改編
       同日  第四警備隊付ヲ命ズ 、第一南遣艦隊に編入

 南遣艦隊を改名したものである。南遣艦隊の任務を引き継ぎ、シンガポール攻略を支援した。

  同年10月31日 任海軍三等兵曹
  同年11月1日  勅令第六百十号ニ依リ海軍二等兵曹トナル
1943年1月8日   1942年度四警初任下士官特別教育終了
  同年3月18日  第二種症(膀胱炎兼肺結核、病院ニ入院を命ズ)
  同年9月14日  入院中の儘佐世保第一海兵団に送籍 氷川丸病院船に転院
  同年10月31日 佐世保海軍病院に転院
  同年11月8日  支那事変ノ功ニ依リ金四十円を授ケ賜ウ  賞勲局
              支那事変従軍記章授興             賞勲局
              給一級俸
  同年11月11日 嬉野海軍病院に転院
1944年7月15日  疾病ニヨリ召集解除(公務)
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 当時の上官が書いたものであろう。インクはにじみ、紙はボロボロになっていて、読みとれないところも数箇所あったが出来るだけ忠実に写したつもりである。黄色文字の部分は調査した参考資料である。
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