三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「クアンガイ省:戦争中の虐殺事件50周年、韓国人団体が謝罪」

2017年04月30日 | 個人史・地域史・世界史
http://www.viet-jo.com/news/social/161206090402.html
「VIETJO ベトナムニュース」 2016/12/06
■クアンガイ省:戦争中の虐殺事件50周年、韓国人団体が謝罪
 南中部地方クアンガイ省ビンソン郡ビンホア村で2日、ベトナム戦争中にこの村で起きた韓国軍による虐殺事件50周年の追悼式が行われ、韓国人訪問団の29人が参列した。
 虐殺事件は1966年12月3~6日にかけて発生し、女性や子供、高齢者など430人が韓国軍に殺害された。訪問団は犠牲者全員の名前が刻まれた記念碑に献花し、線香を手向け手を合わせた。雨の中、土下座する人もいた。
 今年2月26日に中部沿岸地方ビンディン省で行われたビンアン虐殺事件50周年追悼式にも、韓国人の団体が参加した。韓国ベトナム平和財団設立促進委員会のRoh Hwa Wook委員長は「半世紀が過ぎても悲しみや苦しみは消えることがない。謝罪する以外に言葉がない」と何度も謝罪した。
 韓国人のべトナムに対する謝罪運動は、今から10年ほど前に女性記者による「ベトナム戦争中に韓国軍が引き起こした虐殺事件」に関するレポートが新聞に掲載されたことを契機としている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「韓越平和財団、韓国・済州島に「ベトナム・ピエタ像」を建立」

2017年04月29日 | 韓国で
http://www.viet-jo.com/news/social/170427064705.html
「VIETJO ベトナムニュース」 2017/04/27
■韓越平和財団、韓国・済州島に「ベトナム・ピエタ像」を建立
 韓国・済州(チェジュ)島の聖フランシスコ平和センターで26日、母親が赤ちゃんを抱く姿を表した彫刻「ベトナム・ピエタ像」の除幕式が、4月30日のベトナム南部解放42周年の記念日に合わせて開催された。
 ベトナム・ピエタ像は、ベトナム戦争中に韓国軍が引き起こした虐殺事件に謝罪するため、韓国のキム・ソギョンとキム・ウンソンの2人の彫刻家が共同で製作した。「ピエタ」はイタリア語で「哀れみ」や「慈悲」などの意味がある。
 ピエタ像を建立した韓国・ベトナム平和財団のカン・ウイル理事長は、「ベトナムが『過去を閉じて未来に向かう』と言うのは、過去を忘れ繰り返すことを意味するものではない。歴史の真実は避けたり無視したりできないことを、私たちは経験してきた」と語った。
 済州島は韓国の最南端に位置する同国最大の島で、現在の人口は約60万人。同島は、1948年に「済州島四・三事件」が起き、大領虐殺が行われた歴史を持つ。米軍政下の南朝鮮の済州島で島民が4月3日に武装蜂起したのに対し、軍や警察などが弾圧した事件で、3万人の島民が殺害されたとされる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「「ベトナムピエタ」像、江汀村の懐に抱かれる」

2017年04月28日 | 韓国で
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/27186.html
「The Hankyoreh」 登録 : 2017.04.27 03:22 修正 : 2017.04.27 07:24
■「ベトナムピエタ」像、江汀村の懐に抱かれる
 韓ベ平和財団、ベトナム戦争終戦42周年を記念し 
 聖フランシスコ平和センターで銅像の除幕式開く

【写真】今月26日午後、済州西帰浦市江汀村の聖フランシスコ平和センターで、韓ベ平和財団のカン・ウイル理事長らが出席した中、「ベトナムピエタ」像の除幕式が行われた=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 「私の野蛮を記憶し、また記憶する/ここで/ベトナムの最後の子守歌が韓国の子守唄と出会う/ああ、東アジアの波の音よ、君と私の波の音よ」(高銀)。
 「韓国とベトナムの間に憎悪の跡が消え/愛だけが残るそんな世の中を作るのは/もう君と私の役目ではなかろうか!」(タンタオ)。

 「ベトナムピエタ(最後の子守唄)」を題名に、韓国の代表的な詩人、高銀(コ・ウン)氏とベトナムを代表する詩人、タンタオ氏の詩が刻まれた銅板が現れた。
 ベトナムと済州(チェジュ)が平和の名で出会った。ベトナム戦争当時、韓国軍による民間人虐殺犠牲者の母親と無念の死を遂げた名もなき赤ちゃんたちの魂を慰めるために制作された「ベトナムピエタ」像が26日、「平和の島」済州の江汀(カンジョン)村に建てられた。
 今月30日はベトナム戦争終戦42周年になる日だ。また、済州江汀村への済州海軍基地の誘致が決まってから10年になる日でもある。財団法人韓ベ平和財団(理事長カン・ウイル主教・カトリック済州教区長)は同日午後、10年間にわたり海軍基地建設反対闘争を繰り広げてきた済州江汀村の聖フランシスコ平和センターで、ベトナム戦争終戦42周年記念記者会見と共にベトナムピエタ像の除幕式を行った。
 ベトナム戦争を乗り越え、ベトナムとベトナム人たちが平和を渇望しているように、(済州)四・三事件の廃墟を乗り越えて立ち上がった済州と、基地反対闘争を通じて生命平和村に生まれ変わった江汀村も、平和を渇望している。この日造成された追悼空間にはベトナムピエタ像だけでなく、平和に向けた詩が壁に刻まれ、江汀平和活動に参加した米国人のウィリアム・ジェローム・ビックス神父(1928~2015)の浮彫像と遺体も安置された。
 カン・ウイル理事長は同日、記者会見で「ベトナムピエタは戦争で亡くなったすべての尊い命を胸に抱き、平和の子守唄を歌う。これだけでは韓国の謝罪を伝え切れないが、『ベトナムピエタ』を出発点にしたい」としたうえで、「『平和は平和のまま生きていくよう、そっとしてくれ』というベトナムの代表的な詩人タンタオの言葉は、江汀に対するベトナムの心だ。ベトナムピエタが江汀と出会った理由だ」と話した。
 カン理事長は「堕落した政権の没落と、それに続く(セウォル号の)真実の引き揚げは、私たちが住むこの地の現在であり、私たちが見守ってきた歴史の真理」だとしたうえで、「私たちが認知できず、歴史の行間に消えていったベトナム戦争当時の韓国軍による民間人虐殺の真相究明は、必ず行われなければならない。私たちの兄弟や隣人を戦場に送り出した私たち皆の反省や謝罪も伴わなければならない」として、真実究明を求めた。
 韓ベ平和財団は、ベトナム戦当時、韓国軍のベトナム民間人虐殺に対する韓国社会の反省と省察を通じて平和と共存の未来を切り開いていくために、今年2月に設立された。

ホ・ホジュン記者
韓国語原文入力:2017-04-26 21:58
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/792347.html
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

民衆の世界史概要 4、国民国家日本の他地域他国侵略史・被侵略地域民衆の抗日反日闘争史

2017年04月27日 | 個人史・地域史・世界史
■国民国家日本史。国民国家という暴力
 アイヌモシリ領土化。ウルマネシア領土化。「千島列島」植民地化、台湾植民地化。カラフト南部植民地化。朝鮮植民地化。「南洋」植民地化。中国東北部・モンゴル東南部植民地化。中国本土侵略。海南島植民地化。東南アジア・太平洋侵略。

■国民国家日本の成立。日本国民(「臣民」)の成立
 他地域他国侵略による国民国家形成

   国家主権、国民、領土・領域、貨幣、「国語」、神道・天皇制、日本国民(「臣民」)、戸
  籍(戸籍制度は徴兵制度の前提)、徴兵、軍隊・軍備、警察・監獄、日本史・日本文化〈教
  科書、……〉。
   日本国民(臣民)を形成する装置:博物館、学校、神社、象徴、勲章、ヒノマル、キミガヨ、
  国章、国花、国鳥。
   国民(臣民)統合。「民族」差別。人種差別。

   1889年2月11日:「大日本帝国憲法」発布(「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、
         「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」、)
   1890年10月30日:「教育ニ関スル勅語」発布(「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシ
         テ……常ニ国憲ヲ重ジ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ
         皇運ヲ扶翼スヘシ」。
   1945年8月15日:「大東亜戦争終結ノ詔書」放送(「朕……茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク」、
         「尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明
         ヲモ破却スヘシ」、「朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ
         常ニ爾臣民ト共ニ在リ」、「擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ……國體
         ノ精華ヲ發揚シ……」、「爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ」)。

■くに。国
 日本。大和。ヤマト。ニッポン。ジッポン。ニホン。にほん。ひのもと。NIPPON。NIHON。Japan。

 邪馬台国(倭国連合):『魏志倭人伝』(『三国志』「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条。
3世紀末)。
 倭国:『後漢書』(5世紀前半)。
 倭・葦原中國:『古事記』(712年3月9日)。
 日本:『日本書紀』(720年)。
 大和:養老律令(757年)。
 大日本帝国:「大日本帝国憲法」1889年2月11日。
 日本国:「日本国憲法」1947年5月3日。

■抗日反日闘争
   義兵戦争:1895~96年、1905~14年)。
   台湾の抗日反日戦争(1895~  霧社烽起:1930年10月~12月  )。
   三・一運動。
   青山里戦闘;1920年10月。
   シベリアの抗日パルチザン。
   「満州」の抗日パルチザン。
   中国の抗日戦争。
     百団大戦:1940年8月~12月。
     拉孟・騰越の戦い:1944年6月~9月。
   フクバラハップ(Hukbalahap。Hukbong Bayan Laban sa mga Hapon。フィリピンの抗日
  人民軍)。
   自由タイ運動( カブアンカン・セーリー・タイ):1941~1945年。
   ベトナム独立同盟会(Việt Nam Ðộc Lập Ðồng Minh Hội。ベトミン):1941年5月~。

■琉球独立。アイヌモシリ独立

■領土・植民地
 「侵略と開発」

■国民国家日本の侵略犯罪
 愛国という侵略イデオロギー
    「教育ニ関スル勅語」
    愛世界心 ⇔ 愛国心。

■日本政府・日本軍・日本民衆による地域住民虐殺現場
 旅順、佳里・花蓮・埔里・枕頭山・「霧社」地域など台湾各地、江西・密陽・孟山・陝川・定州・南原・堤岩里など朝鮮各地、インノケンチェフスカヤ・イワノフカなどシベリア各地、間島、日本関東、平頂山など中国東北部各地、陽高などモンゴル各地、上海・南京など中国各地、海南島各地、香港、マラヤ各地、シンガポール、インドネシア各地、フィリピン各地、太平洋各地……。

■加害・被害。日本国民(「臣民」)の戦争反対の実態

■護憲運動の歴史と意味

■博物館という装置
 大英博物館(1759年開館)・強盗博物館:ロゼッタ・ストーン(1802年から展示)。
 ルーブル美術館(1793年開館):サモトラケのニケ(1884年から展示)。
 ベルリン新博物館 (1859年開館):ネフェルティティの胸像(1924年から展示)。

 1872年:東京国立博物館・国立科学博物館。
 1895年:帝国奈良博物館→1900年:奈良帝室博物館→1947年:国立博物館奈良分館→19
    52年:奈良国立博物館。
 1897年:帝国奈良博物館→1900年:京都帝室博物館→1924年:恩賜京都博物館→1952年:
    「京都国立博物館。
 1977年:国立民族学博物館(大阪)。
 1979年:大阪府、文部省に「国立産業技術史博物館」設置要請→2009年:2万数千点あまり
    の資料の廃棄処分決定。
 1981年:国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市城内町。1966年:日本政府、「明治百年」記念事
    業の一環として歴史博物館の設置決定)。
 2005年:九州国立博物館(福岡)。
 2020年:国立アイヌ民族博物館・国立民族共生公園(「民族共生象徴空間」。白老ポロト湖
    畔)。

【国民国家日本史年表】
★前史
1457年:コシャマインの戦い。
1592~1593年:壬辰倭乱。
1597~1598年:丁酉倭乱。
1602年:オランダ東インド会社、ジャワ島に。オランダのインドネシア植民地化開始。
1609年:薩摩軍、奄美・琉球国に侵入 → 幕府、琉球国を薩摩藩の「所管」とする。薩摩藩、
   奄美を直接支配。
1637年12月~1638年4月:島原・天草烽起。籠城した37000人死亡。
1643年:ヘナウケの戦い。
1669年:シャクシャインの戦い。
1763年~65年:ポンティアック戦争(アメリカ北西部先住民諸部族が連合して、白人侵入者と
       戦う)
1776年7月4日:アメリカ合州国独立宣言 → 先住民織の大地にたいする大規模侵略開始。
1789年:フランス革命。
1789年:クナシリ・メナシの戦い。
1828~1832年:「ブラックウォー」(タスマニア人虐殺)。
1840~1842年、1856~60年:アヘン戦争。
1850~1864年 太平天国。
1851年5月~10月:ロンドン万国博覧会(第1回国際博覧会。The Great Exhibition
        of the Works of Industry of All Nations)。
1853年7月~1854年11月:ニューヨーク万国博覧会(第2回国際博覧会。万国産業博覧会。
        Exhibition of the Industry of All Nations)。
1857~1859年 インド大反乱(第一次インド独立戦争)
1861年:イタリア王国成立。
1861~1865年:アメリカ合州国・アメリカ連合国戦争(南北戦争。American Civil War)。
★国民国家日本 維新クーデタ以後。
1867年11月9日:幕府15代将軍徳川慶喜、「天皇」に政権返上(「大政奉還」)。
1868年1月3日:江戸幕府廃絶、新政府樹立。「天皇」、「親政」宣言(「王政復古の大号令」)。
1868年1月27日~1869年6月27日:戊辰戦争。
1868年2月9日:維新政府、東征大総督府設置。
1868年5月3日:旧江戸幕府、東征大総督府に江戸城を明け渡す。
1868年6月11日:太政官設置。
1868年4月5日:太政官「神仏分離令」布告。→「廃仏運動」。
1868年12月4日~1869年6月27日:箱館戦争。
1869年7月8日:日本政府(維新政府)、「開拓使」設置(~1882年)。
1869年7月25日:「版籍奉還」。
1869年9月:日本政府、アイヌモシリを日本領土とし「北海道」と名づける。
1869年9月:日本政府、色丹島を「北海道根室国花咲郡」の一部とする(「開拓使」が管轄)。
1870年2月:商船規則(太政官布告第57号)で「国旗」の原型決定。27日:「国旗制定記念日」。
1871年1月3日:日本政府、徴兵規則制定。
1871年1月18日:ドイツ帝国(Deutsches Reich)成立。
1871~1878年:ドイツで「文化闘争(Kulturkampf)」(反カトリック教会運動)。
1871年8月29日:「廃藩置県」(藩消滅、国家権力中央政府に集中。薩摩藩→鹿児島県。琉球
       王国、鹿児島県の管轄下に)。
1872年2月:陸軍省・海軍省設置。
1872年3月:東京国立博物館(文部省博物館)創設。
1872年10月:「琉球藩」設置(琉球国王「琉球藩王」に。第1次琉球処分)。
1872年12月9日:太政官布告「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス(12月3日を1973年1月1日に)」。
1873年3月:オランダ、アチェ王国侵略開始(1904年、アチェ王国滅亡)。
1873年:屯田兵制開始。
1873年5月~10月:ウィーン万国博覧会(第6回国際博覧会。日本公式初参加。日本館建設。
        当時ウィーンはオーストリア=ハンガリー帝国の首都)。
1873年11月10日:内務省設立。
1874年5月:西郷従道(「台湾蕃地事務局都督」)が指揮する日本軍が台湾に侵入。住民虐殺。
1875年:ロシアとカラフト・千島交換条約(千島列島を日本の領土に)。
1876年5月:最後のタスマニア人死亡。
1877年2月~9月:西南戦争。
1879年4月:「琉球藩」を「沖縄県」と名づける(第2次琉球処分。琉球での廃藩置県)。
1880年11月3日、「キミガヨ」初めて公演。
1884~1885年:清フランス戦争(→1887年 フランス領インドシナ)。
1889年2月11日:「大日本帝國憲法」発布(1890年11月29日施行。1947年5月2日まで存続)。
1889年5月~10月31日:パリ万国博覧会(第12回国際博覧会)。
1890年10月30日:「教育ニ関スル勅語」発布。
1890年12月28日:ウンデットニー虐殺(USA軍第7騎兵隊のサウスダコタ州スー族大虐殺)。
1894年7月:アメリカ合州国の侵略集団「ハワイ共和国」樹立宣言(10月、日本政府が承認)。
1894~1895年:朝鮮・日本戦争(甲午農民戦争)→清・日本戦争。
1894 年11月:旅順大虐殺。
1895年1月:清・日本戦争の最中に、釣魚島(釣魚台)を「沖縄県」に編入すると閣議決定。
1895年4月:「日清講和条約」締結(台湾、澎湖列島、遼東半島を日本領土とする)。
    ?月:宮古・八重山諸島を日本領土とする。
1895年5月:日本軍、台湾侵入開始。以後、長期にわたって台湾民衆を殺害。
1895年6月17日:台湾総督府開庁。
1896年8月:フランス、マダガスカル「併合」。
1898年8月:アメリカ合州国、ハワイ「併合」。
1898年12月:アメリカ合州国、プエルトリコ、フィリピン、グアム島を植民地に。
1899年3月:「北海道旧土人保護法」制定。→1997年7月:「アイヌ文化の振興並びにアイヌ
     の伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律(アイヌ文化振興法。アイヌ文
     化法。アイヌ新法)」施行。
1900~1901年:義和団戦争(日本、ロシア、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカ合州国、イタ
     リア、オーストリア・ハンガリー8か国の軍隊が連合して清国に侵入)。
1902年1月:日英同盟協約調印。
1905~1908年:ドイツ軍、タンガニイカで大虐殺。
1905年2月:大韓帝国の独島を日本領とする。
1905年8月1日:日本軍、カラフト全島に軍政。
1905年11月13日:カラフト国境画定会議で北カラフトをロシアに返還、南カラフトを日本領に
     確定。1905年:遼東半島南部、「満鉄附属地」を日本の領土とする。
1906年:日本占領下の大韓帝国で、反日義兵が中心になって独立戦争を開始。
1907年4月1日:樺太庁開庁(1905年8月~1907年3月:樺太民政署)。
1910年:大日本帝国、大韓帝国を日本領土とする。
1910年9月30日:朝鮮総督府設置。
1915年:「南洋群島」を植民地とする。
1918~1922年:シベリア侵略戦争(日本・イギリス・アメリカ合州国・フランス・イタリア・カナダ)。
1919年3月~5月:朝鮮で3・1独立運動。
1919年3月22日:日本軍、イワノフカ村虐殺(アムール州ブラゴベシチェンスク郊外)。
1919年4月:イギリス軍、インドでアムリットサル虐殺。
1922年4月:南洋庁設置。
1930年10月~1931年5月:台湾の日本軍と警察、烽起した霧社の民衆を殺戮。
1931年7月6日:「沖ノ鳥島」を内務省告示で小笠原支庁の管轄区域に加え日本領土とする。
1931年9月18日:日本関東軍、中国東北部侵略開始。
1932年3月1日:「満洲国」偽造(中国東北部・モンゴル東部植民地化)。
1936年8月7日:広田弘毅内閣の五相会議(総理・陸軍・海軍・大蔵・外務の5大臣の会議)
      で「国策の基準」策定(→8月11日、閣議決定。「帝国トシテ確立スベキ根本国策
      ハ外交国防相俟ツテ東亜大陸ニ於ケル帝国ノ地歩ヲ確保スルト共ニ南方海洋ニ
      進出発展スルニ在リ」、「国防軍備ヲ充実ス」、「国民ノ覚悟ヲ強固ナラシム」)。
1936年11月~12月:「綏遠事件(綏東事件)」。
1937年7月:中国への全面的侵略開始。
1937年12月:日本陸軍将兵が南京に侵入していたころ、日本海軍将兵が三灶島に侵入。
1939年9月:西からドイツ軍が(9月1日)、東からソ連軍が(9月17日)ポーランドに侵入、分割
     占領(第2次世界大戦開始)
1939年9月1日:朝鮮総督府、「朝鮮人労務者募集並渡航取扱要綱」を出す(「募集」方式の
     朝鮮人強制連行開始)。
1939年11月10日:朝鮮総督府、「朝鮮民事令」改悪。→1940年2月「創氏改名」実施。
1940年6月22日:フランス、ドイツに降伏。
1940年7月27日:大本営政府連絡会議(ヒロヒト参加)で「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要
     綱」決定。
1940年8月16日:「経済的大東亜共栄圏ノ完成」を目標とする「南方経済施策要綱」を閣議決
     定。
1940年9月:第1期晋中作戦復行実施要領。
1940年9月23日:日本陸軍(第5師団)、「仏領印度」北部(ベトナム北部)に侵入開始。
1941年2月3日:大本営政府連絡会議、「対独伊「ソ」交渉案要綱」決定。世界を「大東亜圏、
     欧州圏(「アフリカ」を含む)、米州圏、「ソ」聯圏(印度「イラン」を含む)の四大圏」に
     分割し、日本は「大東亜共栄圏地帯に対し政治的指導者の地位を占め秩序維持の
     責任を負う」とした。
1941年7月2日:ヒロヒトら「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」決定(「帝国は……大東亜共栄
     圏を建設……」、「帝国は……自存自衛の基礎を確立する為南方進出の歩を進め又
     情勢に対し北方問題を解決す」)。
1941年7月24日:「仏領印度」南部(ベトナム南部・カンボジア)に侵入する日本陸軍第25軍約
     4万人(歩兵3個連隊、戦車・高射・鉄道・野砲兵・工兵各1個連隊)をのせた輸送船39
     隻、海南島楡林港に集結完了。
1941年7月25日:日本海軍の艦艇約50隻と日本陸軍第25軍を輸送する39隻の計約90隻の船
     団、楡林港から「仏領印度」南部に出港→28日に侵入開始。
1941年9月6日:ヒロヒトら「帝国国策遂行要領」決定(「帝国は自存自衛を全うする為対米(英
     蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」)。
1941年11月5日:ヒロヒトら、ふたたび「帝国国策遂行要領」を決定(開戦時を12月上旬に設
     定。これは、11月2日の大本営政府連絡会議で決定されていた)。
1941年11月6日:大本営陸軍部・大本営海軍部、グアム島、ビスマルク諸島占領を決定。
1941年11月18日:マレー作戦陸海軍協定、サイゴンで調印。
1941年11月20日:大本営政府連絡会議「南方占領地行政実施要領」決定。
1941年11月15日:第五師団先頭部隊、上海から海南島三亜に出発。
1941年11月26日:日本海軍「ハワイ作戦機動部隊」、エトロフ島ヒトカップ湾出発。
1941年12月1日:ヒロヒトと日本政府・軍の「指導者」ら、11月5日の「帝国国策遂行要領」に基
       づいて、アメリカ合州国、イギリス、オランダと戦争することを最終決定。
          マレー半島東海岸に奇襲上陸する日本陸軍第25軍先遣兵団(第5師団・第18
       師団)、海南島楡林港に集結完了。
1941年12月2日:大本営、「ニイタカヤマノボレ」(パールハーバー奇襲攻撃命令)発信。
1941年12月4日:日本海軍艦隊(「馬来部隊(南遣艦隊)」)が護衛する日本陸軍第25軍先遣
       兵団の船団、海南島楡林港から出港。
1941年12月8日:午前1時半、日本陸軍コタバル奇襲、アジア太平洋戦争開始。午前3時、日
       本海軍パールハーバー奇襲。午前4時、ホンコン侵入。午前8時、グアム島奇襲
       爆撃、午前9時半、ルソン島ツゲガラオ飛行場・バギオ兵営奇襲爆撃。
1941年12月10日:日本軍、グアム島、タラワ島、マキン島の軍事占領開始。
1941年12月18日:日本軍、ホンコン占領
1942年1月18日:日本・ドイツ・イタリアの軍統帥部が、東経70度線を日本とドイツ・イタリアの
       作戦地域を分ける線とする協定を締結。このとき日本軍部は、インド西部からウラル
       山脈にいたる地域から、南北アメリカ大陸西海岸にいたるまでの地域を「作戦地域」
       とすると想定。
1942年2月28日:大本営政府連絡会議、「大東亜戦争現情勢下に於て帝国領導下に新秩序
      を建設すべき大東亜の地域」を、「日満支及東経九十度より東経百八十度迄の
      間に於ける南緯十度以北の南方諸地域」とした。
1942年6月5日~7日:ミッドウエー海域で日本海軍大敗北。
1943年5月29日:アッツ島の日本軍守備隊全滅。
1943年9月8日:イタリア、「連合軍」に全面降伏。
1943年9月30日:ヒロヒト・日本政府・日本軍、「今後採るベき戦争指導の大綱」決定。「帝国戦
       争遂行上、太平洋及印度洋方面に於て絶対確保すべき要域を、千島、小笠原、
       内南洋(中、西部)及西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む区域とす」。「絶
       対国防圏」を「大東亜共栄圏」より縮小して設定。
1943年11月:「絶対国防圏」東端のマキン島とタラワ島の日本軍壊滅。
1944年3月~7月:「インパール作戦」。日本陸軍兵約5万人、インド国民軍兵約2千人死亡。
1944年6月15日~7月9日:アメリカ合州国軍、サイパン島再占領。
1944年7月21日~8月10日:アメリカ合州国軍、グアム島再占領。
1944年9月:日本大津島に回天(=人間魚雷)基地建設。
1944年10月10日:沖縄10・10大空襲。
1944年10月21日~1945年8月15日:特攻隊(死者 海軍 4156人〈航空隊2531人、特殊潜航
       艇440人、回天104人、震洋1081人〉。陸軍 1689人〈航空隊1417人〉。計5845人。
       他に第二艦隊3751人など8164人。総計1万4009人)。
1944年10月23日~25日:レイテ沖海戦。
1945年1月4日~6月~ :ルソン島戦(フィリピン人犠牲者110万人)。
1945年2月3日~3月3日:マニラ大虐殺(フィリピン人犠牲者10万人)。
1945年2月19日~3月17日 硫黄島戦(日本側死者2万人余、アメリカ合州国側死者6821人)
1945年3月10日:東京大空襲、3月12日:名古屋大空襲、3月13日:大阪大空襲、3月17日:神
       戸大空襲。
1945年3月26日:アメリカ合州国軍、沖縄慶良間諸島の座間味島などに上陸。沖縄戦開始以
       後、アメリカ合州国軍と日本軍によって沖縄人15万人が殺された。
1945年3月26日:沖縄座間味島で“強制的集団死”(135人)。
1945年3月27日:沖縄渡嘉敷島で“強制的集団死”(325人)。
1945年4月1日:アメリカ合州国軍、沖縄本島中部西海岸に上陸。
1945年4月2日:沖縄読谷村チビチリガマで“強制的集団死”(140人のうち83人)。
1945年4月27日:沖縄阿嘉島で日本軍、朝鮮人軍夫約10人虐殺。
1945年4月30日:ヒトラー自殺。
1945年5月7日:ドイツ無条件降伏。
1945年5月29日:横浜大空襲。
1945年6月13日頃:沖縄で日本海軍大田司令官自殺。6月22日頃、日本陸軍牛島司令官自殺。
1945年6月21日:沖縄真栄平村で日本軍、住民虐殺。「南北之塔」。
1945年6月27日:沖縄久米島で日本軍、住民虐殺。
1945年8月6日・9日:アメリカ合州国政府、広島・長崎に原爆投下(14万人・7万4千人殺害)。
1945年8月14日:日本無条件降伏(「大東亜戦争終結ノ詔書」発布)。
1945年8月15日:「大東亜戦争終結ノ詔書」NHK放送。
1946年11月3日:「日本国憲法」公布(1947年5月3日施行)。
1999年8月13日:「国旗及び国歌に関する法律」(国旗国歌法)公布・施行。

                                     佐藤正人
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「강정마을, ‘베트남 피에타’상을 품다」

2017年04月26日 | 韓国で
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/792347.html?_fr=mt2
『한겨레신문』 2017-04-26
■강정마을, ‘베트남 피에타’상을 품다
 한베평화재단, 베트남전 종전 42주년 기념
 성프란치스코 평화센터에서 동상 제막식 가져

【写真】한베평화재단은 강우일 이사장 등이 참석한 가운데 26일 오후 제주 서귀포시 강정마을 성프란치스코평화센터에서 ‘베트남 피에타’ 동상 제막식을 가졌다. 허호준 기자

 “나의 야만을 기억하고 기억한다/여기/베트남의 마지막 자장가가 한국의 자장가와 만난다/오 동아시아 파도소리여 너와 나의 파도소리여”(시인 고은) “한국과 베트남 사이에 증오의 흔적이 사라지고/사랑만이 남아있는 그런 세상을 만드는 일은/이제 당신과 나의 몫이 아닌가!”(시인 탄타오)

 ‘베트남 피에타(마지막 자장가)’라는 제목으로 한국의 대표시인 고은과 베트남의 대표시인 탄타오의 글이 새겨진 동판이 나타났다.
 베트남과 제주, 평화로 만났다. 베트남전 당시 한국군에 의한 민간인 학살 희생자인 어머니와 억울하게 죽어간 이름없는 아가들의 넋을 위로하기 위해 제작된 ‘베트남 피에타’ 동상이 26일 ‘평화의 섬’ 제주 강정마을에 들어섰다.
 오는 30일은 베트남전 종전 42주년이 되는 날이다. 또한 제주 강정마을에 제주해군기지를 유치하기로 결정한 지 만 10년이 되는 날이다. 재단법인 한베평화재단(이사장 강우일 주교·천주교 제주교구장)은 이날 오후 만 10년 동안 해군기지 건설 반대투쟁을 벌인 제주 강정마을 성프란치스코 평화센터에서 베트남전 종전 42주년 기념 기자회견과 함께 베트남 피에타 동상 제막식을 가졌다.
 베트남전을 딛고 베트남과 베트남 사람들이 평화를 갈구하듯이, 4·3의 폐허를 딛고 일어선 제주와 기지 반대투쟁을 통해 새롭게 거듭난 생명평화 마을 강정마을도 평화를 갈구하고 있다. 이날 조성된 추모공간에는 베트남 피에타 동상만이 아니라 평화를 향한 시가 벽에 새겨지고, 강정 평화활동에 함께한 미국인 윌리엄 제롬 빅스 신부(1928~2015)의 부조상과 유해도 안치됐다.
 강우일 이사장은 이날 기자회견에서 “베트남 피에타는 전쟁으로 스러진 모든 아까운 생명을 보듬고 평화의 자장가를 부른다. 이것만으로 우리의 사죄를 표현하기엔 턱없이 부족하지만, ‘베트남 피에타’를 출발로 삼고자 한다”며 “‘평화는 평화로 살게 놔두라’는 베트남 국민시인 탄타오의 말은 강정에 대한 베트남의 마음이다. 베트남 피에타가 강정과 만난 이유다”라고 말했다.
 강 이사장은 “타락한 정권의 몰락과 곧 이은 진실의 인양은 우리가 사는 이 땅의 현재이며, 우리가 지켜본 역사의 진리”라며 “우리가 인지하지 못하고 역사의 행간으로 사라진 베트남전 당시 한국군의 민간인 학살 진실규명이 반드시 이뤄져야 한다. 우리 형제와 이웃을 그 전쟁터로 내보낸 우리 모두의 참회와 사죄가 이뤄져야 한다”며 진실규명을 촉구했다.
 한베평화재단은 베트남전 당시 한국군의 베트남 민간인 학살에 대한 한국사회의 반성과 성찰을 통해 평화와 상생의 미래를 열어나가기 위해 지난 2월 설립됐다.

  허호준 기자 hojoon@hani.co.kr
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「「ベトナムピエタ」像の除幕によせて」

2017年04月25日 | 韓国で
http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/27167.html
「The Hankyoreh」 2017.04.25
■[寄稿]「ベトナムピエタ」像の除幕によせて

【写真】韓ベ平和財団はベトナム戦終戦42周年を迎える今月26日、済州江汀村の聖フランシスコの平和センターに、ベトナム戦争当時韓国軍による民間人虐殺の犠牲となった母親と赤ちゃんたちの魂を慰めるために製作された「ベトナムピエタ」銅像を建てる=韓ベ平和財団提供//ハンギョレ新聞社

 名前を呼びます。
 ボ・ザイン(Vo Danh)
 漢字語では無名氏、韓国語ではアムゲ(なにがし)。
 ボ・ザイン
 名前でない名前を呼びます。
 ベトナム中部のそこ、ユイタンで。そこ、ユイチンで。そこ、ビンホアで。そこ、ジエンニエンで。そこ、フォックビンで。そしてそこ、ハミで…。生まれたばかりでまだ名前も授からないまま死んでいった、多くの赤ちゃんたちの名前は“ボ・ザイン”です。
 ベトナムピエタの母は、この無名の赤ちゃんたちを胸に抱き、子守唄を歌います。
 生きていれば数えきれないほど歌ってあげた子守唄を、短すぎる生涯の最期にも歌ってあげられなかった子守唄を、もう苦痛のない世界で深く美しく眠りなさいと、眠れ、眠れと子守唄を歌います。だから「ベトナムピエタ」のベトナム語の名前は「最後の子守唄」(Loi ru cuoi cung)です。
 ベトナムピエタは、巨大な歴史の渦の中で咲き落ちた多くの命に捧げる慰撫であり、ばらばらになったそのちっぽけな肉体に対する記念碑であり、死んだ者のための生ける者の哀悼であり、数年、数十年、いや、もしかしたら数百年たっても癒えない傷を治癒しようとする鎮魂曲です。
 トナムピエタはまた、国家暴力によって無念にも犠牲になりながら、最後まで国家が責任を負わない命に対する、そして韓国政府がまだきちんと伝えていない「ベトナム民間人」に対する謝罪の碑にならなければなりません。それが今日私たちが、自分で一度も大きく呼吸することもできず、自分の声を一度もちゃんと吐き出せずに消えて行った数多くの存在を、この場に呼ぶ理由です。
 悲しみが別の悲しみに問うことが平和です。痛みが他の痛みに差し出す手が平和です。2017年4月26日、「韓ベ平和財団」は、平和の島済州、世界平和の一線の江汀(カンジョン)村にベトナムピエタを建てます。  「ベトナムピエタ」が江汀に宿り、江汀が「ベトナムピエタ」を抱くこの場が、まさに平和です。「わたし」の哀悼と「あなた」の哀悼が出会い、完全に悲しみを見送る場に、初めて咲くものが平和です。

  そうして
  再び、名前を呼びます。
  韓国軍の銃刀に殺戮された数千、数万のベトナムの英霊たちよ、
  日本軍の軍靴に踏みにじられた20万の花よ、
  3万の済州の風よ、
  光州(クァンジュ)の5月の花の雨よ、
  ついに済州に着けず星になったセウォル号の子どもたちよ…
  この世のすべての悲しみが流れこみ
  ここ、済州で。ここ、江汀で。ここ、クロンビで
  春の花として咲くだろう
  ああ、平和よ!
               ク・スジョン 韓ベ平和財団常任理事

韓国語原文入力:2017-04-24 19:03
http://www.hani.co.kr/arti/opinion/because/792050.html



http://www.viet-jo.com/news/social/161013080517.html
「VIETJO ベトナムニュース」 2016/10/14 15:27
■韓国平和財団、ベトナム戦争時の行為謝罪のピエタ像を贈呈

【写真】ベトナム・ピエタ像

 韓国・ベトナム平和財団は11日、南中部沿岸地方ダナン市のダナン博物館に、母親が赤ちゃんを抱く姿を表した彫刻「ベトナム・ピエタ像」を贈呈した。この像には、ベトナム戦争時に韓国軍によって虐殺された被害者を慰霊し、謝罪する思いが込められている。
 「ピエタ」はイタリア語で「哀れみ」や「慈悲」などの意味がある。ベトナム・ピエタ像は、韓国のキム・ソギョンとキム・ウンソンの2人の彫刻家が共同で製作した。韓国・ベトナム平和財団は、ベトナム戦争の歴史的な責任を追及する活動を行っている。
 同財団はピエタ像と共に、「ベトナムへの謝罪」運動に関する写真19点、韓国軍による虐殺の記憶に関する写真11点、虐殺被害者を追悼する絵画6点、ベトナム戦争に関する書籍やディスク14点、韓国の生徒らが平和と戦争反対のメッセージを手書きで記したカード多数を贈呈した。
 ダナン博物館のフイン・ディン・クオック・ティエン館長は、韓国・ベトナム平和財団に感謝の意を表し、贈られたこれらの資料を博物館に展示する考えを示した。




http://asianews.seesaa.net/article/441408407.html
「Asia News」 2016.04.27
■平和を念願する「ベトナムピエタ」像

【写真】4月27日、韓・ベ平和財団設立推進委員会がソウル貞洞フランシスコ教育会館の前で公開した「ベトナムピエタ」像模型(左)

 4月27日、韓・ベ(トナム)平和財団は、ソウル貞洞フランシスコ会館「平和の少女像」の前で財団発足記者会見を開き、ベトナム民間人の犠牲者たちの魂を慰めるために作られた「ベトナムピエタ」像を公開した。この日の記者会見には、ノ・ファウク韓・ベ平和財団設立推進委員長(極東大学客員教授)をはじめ、ミョンジン僧侶、日本軍「慰安婦」被害者である人権運動家・イ・ヨンスさん、映画監督のチョン・ジヨン・チョ・グァンス氏など各界の著名人が参加した。
 ノ・ファウク推進委員長は「ベトナム戦で韓国軍が虐殺した民間人の犠牲者はなんと9千人にのぼる。また、韓国軍側も5千人の若者が命を失い、1万人の負傷者と2万人の枯れ葉剤の後遺症による患者は今でも苦しんでいる」とし「ベトナム終戦記念日である4月30日を控えて、「今年こそ平和の元年」と思い、東アジアの平和のために韓・ベ平和財団の第一歩を踏み出したい」と明らかにした。
 韓・ベ平和財団は、子供を抱えた母をイメージした彫像「ベトナムピエタ」を公開した。日本軍「慰安婦」少女像を製作した夫婦作家であるキム・ソギョン・キム・ウンソン氏が構想した「ベトナムピエタ」は、ベトナム戦争で犠牲になった民間人、特に生まれて間もないうちに命を落とした犠牲者を哀悼し、戦争に対する謝罪と反省を表するために製作された。
 キム・ソギョン作家は「ひとつの芸術作品で世界を変えることは不可能です。しかし、いくつかの芸術作品は、理性よりも人の心を動かす強力な力を持っている」とし「韓国とベトナムの平和な未来のために作った「ベトナムピエタ」が、まともに自分の声を出す暇もなく消え去った数多くの命を呼び戻す役割をしてほしい」と強調した。
 ミョンジン僧侶は、韓・ベ平和財団の発足に参加した動機について、「ベトナム派兵の時、私も兵士として参戦しました。今振り返ってみると、その戦争が正しかったのか疑問を感じる」とし「民間人が虐殺されたことについては、深く反省すべきであり、許しを求めなければならない。まだ、国家レベルの謝罪がないので、民間レベルで取り組まなければならない」と述べた。
 韓・ベ平和財団は、今後△平和運動拡散のための対国民キャンペーン△正しい歴史認識をもとにした未来世代のための平和教育△ベトナム戦争の研究、出版、アーカイブ活動△韓国-ベトナム文化芸術交流を通じた平和・和解・協力促進△ベトナム戦争の真実究明と被害者支援△参戦軍人たちの苦痛の連帯と東アジアの平和と共生のためのアジア市民連帯構築などの事業を展開する計画だ。
 4月30日は、1975年に南ベトナム政府が倒れ、ベトナム戦争が終結した日だ。ベトナム戦争は、1964年にトンキン湾事件を口実に米国が北ベトナムを爆撃したことで全面戦争に拡大され、10年以上続いた。韓国は1964年に非戦闘部隊の派遣に続き、1965年から猛虎、青龍、白馬部隊など、戦闘部隊をベトナムに送った。韓国がベトナムに派遣した部隊は延べ30万人を越え、米国の次に多く、戦争中1万6000人がけがをしたり死亡した。ゲリラ戦の根拠地であった森をなくすために米軍がまいた枯れ葉剤による被害は今も続いており、米軍と韓国軍が犯したベトナム民間人の虐殺は大きな傷を残した。

【写真】キム・ソギョン・キム・ウンソン作家が作った「ベトナムピエタ」。大地の女神の上で母が赤ちゃんを抱いている。 1.5mの高さで作られ、ベトナムと韓国に設置される予定だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「日本でのナチス思想復活に警戒」

2017年04月24日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://j.people.com.cn/n3/2017/0420/c94474-9205474.html
「人民網日本語版」 2017年04月20日14:00
■日本でのナチス思想復活に警戒
 日本政府は先日の閣議で民進党議員の質問に対して、教育機関は教育基本法に従っていることを踏まえたうえで、ヒトラーの自伝『我が闘争』の「有益適切」な部分を判断、使用できるとする答弁書を決定した。『我が闘争』の性質を、すでに世界はよく分かっている。だが日本政府がこのような本の一部を青少年生徒の教材として選ぶことにあくまでも同意するのはなぜか。新華社が伝えた。
 軌を一にするのは、今月早く日本政府が「教育勅語」に関する答弁書で「憲法や教育基本法に反しないような形」で教育勅語を教材として用いるのを認めたことだ。教育勅語は戦前の軍と政府による思想支配の道具といえるものだ。
 ファシズムの教育内容に続けざまにゴーサインを出す日本政府の行動には、日本の一部右翼政治屋が歴史を大きく逆行させ、かつての戦争の道を再び歩もうとしているのではないかと疑念を抱かざるを得ない。
 ファシズムと軍国主義の思想は日本を戦争の深淵へと向かわせ、第2次大戦を引き起こした禍根であり、徹底的に清算し、根絶しなければならない。根本的是非に関わるこの歴史問題においては、ほんの少しでも曖昧、不明瞭にすることは許されない。だが今や日本右翼勢力は日本ファシズムの戦争の罪をみじんも後ろめたく思っていない。歴史修正主義を盛んにし、侵略の罪を否認するこうした言動によって、日本にはナチス思想復活の危険性が存在する。日本国内と国際社会の平和を愛する人々は強く警戒すべきだ。
 実は安倍内閣閣僚はすでに一度ならず国内のナチス支持団体とのつながりを暴露されている。たとえば2014年には高市早苗総務大臣、稲田朋美防衛大臣が、ナチス支持者で「国家社会主義日本労働者党」頭目の山田一成氏と一緒に撮った写真がメディアに暴露された。2015年には自民党の女性議員が国会で、戦時中の侵略スローガン「八紘一宇」を「建国以来大切にしてきた価値観」と公然と称賛した。
 日本軍国主義者が発動した対外侵略戦争は中国及び世界に甚大かつ深刻な惨禍をもたらし、日本を敗北へと導き、非常に深い歴史の教訓を残した。日本はこの教訓を深く反省し、汲み取り、正しい歴史観で若い世代を教育し、ファシズムと軍国主義の思想を完全に一掃すべきだ。(編集NA)


http://jp.xinhuanet.com/2017-04/20/c_136223395.htm
「新華網」 発表時間 2017-04-20 15:43:33
■日本で息を吹き返すナチズムへの警戒
 新華網東京9月23日(新華社記者/藍建中)日本政府はこのほど、民進党議員が提起した質問主意書に回答し、「教育基本法等の趣旨に従っていること等の留意事項を踏まえて、(ヒトラーの自伝である『わが闘争』の)有益で適切なものである限り、校長や学校設置者の責任と判断で使用できると閣議決定した。」『わが闘争』という書籍の性質については世界に公論がある。だが、日本政府がこのような書籍の内容を青少年の教材に選定することにあえて同意する意図は何なのだろうか。
 これと同じ例として、今月初めに日本政府は『教育勅語』に関して「憲法や教育基本法等に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることではない」とする答弁書を閣議決定した。しかし、『教育勅語』は戦前の軍隊と政府の思想を統治する道具と言える。
 日本政府がファシズム教育内容に次から次へと青信号を灯す行動に、日本の一部の右翼政治家が歴史を逆走し、戦争への道を再び歩むのではないかと疑わずにはいられない。
 ファシズムと軍国主義思想は日本を戦争の深渊に追い込み、第二次世界大戦を引き起こす元凶で、必ず徹底的に清算し、根絶しなければならない。是非の問題に関わる歴史問題において、わずかでも曖昧模糊になることを容認できない。しかし、現在は歴史修正主義が台頭し、侵略の罪行を否認する言動によって、ナチズムが日本で息を吹き返す危険があり、日本国内と国際社会の平和を愛する人々は強く警戒する必要がある。
 近年に、日本の右翼勢力は絶えず波瀾を巻き起こしている。2013年、日本の右派系市民団体「行動する保守」が東京都新宿区新大久保でデモ行進を行ったときに、「朝鮮人をガス室に送ろう」などの過激なスローガンを声高に叫んだ。2014年、「行動する保守」は東京都豊島区池袋地区でナチスのマークを持ち出した。
 日本軍国主義者が発動した対外への侵略戦争は、中国と世界に巨大で深刻な災難をもたらしたことによって敗戦に終わった。日本はこの教訓を深く反省して汲み取り、正しい歴史観で若者世代を教育し、ファシズムと軍国主義思想を徹底して排除すべきだ。
    (新華社より)


http://www.recordchina.co.jp/b175380-s0-c10.html
「Record china」配信日時:2017年4月17日9時40分
■日本政府、「ヒトラーの著書を学校教材として使用可能」と閣議決定=韓国ネット「日本、大丈夫か?」「大日本帝国の復活を狙っている」
 15日、韓国・マネートゥデイは、日本政府が旧ナチス政権当時の独裁者アドルフ・ヒトラーの著書「わが闘争」を、学校教材として使用できると閣議決定したことを伝えた。
 日本メディアによると、日本政府は14日の閣議で、「わが闘争」を学校教育の教材として利用することに関連して、「教育基本法等の趣旨に従っていること等の留意事項を踏まえた有益適切なものである限り、校長や学校設置者の責任と判断で使用できる」とする答弁書を決定した。
 答弁書は「同書の一部を引用した教材を使用して、執筆当時の歴史的な背景を考察させる授業が行われている例がある」とし、「仮に人種に基づく差別を助長させる形で使用するならば、同法等の趣旨に合致せず、不適切であることは明らかだ」と指摘した。
 この報道に対し、韓国のネットユーザーからは「人類にとっての大災難を起こした人物の著書を教材にして良いとは…、正気か?」「日本、大丈夫か?」「徐々に日本がおかしくなっていく」「大日本帝国の復活を狙っている」「やはり日本はアジアで一番危険な国だ」「失敗した歴史を踏襲しようとする愚かさはどこから来るのだ」「ドイツでも長い間、出版禁止になってたような本なのに(1945年に出版禁止となり、2016年に禁止が解除された)」など、批判的な意見が多く寄せられた。(翻訳・編集/三田)


http://www.jiji.com/jc/article?k=2017041401032&g=pol
「時事ドットコムニュース」 2017/04/14-20:03
■「わが闘争」の教材使用可能=政府答弁書
 政府は14日の持ち回り閣議で、ナチス・ドイツの独裁者ヒトラーの自伝的著書「わが闘争」の教材使用について、「教育基本法等の趣旨に従っていること等の留意事項を踏まえた有益適切なものである限り、校長や学校設置者の責任と判断で使用できる」とする答弁書を決定した。民進党の宮崎岳志氏の質問主意書に答えた。
 答弁書では、「同書の一部を引用した教材を使用して、執筆当時の歴史的な背景を考察させる授業が行われている例がある」と紹介。その上で、「仮に人種に基づく差別を助長させる形で使用するならば、同法等の趣旨に合致せず、不適切であることは明らかだ」と指摘し、そうした指導があった場合は「所轄庁や設置者において厳正に対処すべきものだ」としている。


http://www.jiji.com/jc/article?k=2017040400505&g=soc
「時事ドットコムニュース」2017/04/04-11:26
■教育勅語活用、否定せず=道徳教育で-松野文科相
 松野博一文部科学相は4日の閣議後記者会見で、憲法や教育基本法に反しない形で教育勅語を学校で教材として用いることは否定しないとした政府答弁書を踏まえ、道徳教育での活用について「教育勅語のこの部分を使ってはいけないと私が申し上げるべきではない」と述べ、否定しない考えを示した。
 文科相は「どの教材を使ってどう教えるかは、憲法などに反しない限りは一義的には教員、学校長に権限があり、問題があれば所轄庁、所管庁が適切に指導すると考えている」と述べた。
 さらに、小中高校の社会科や歴史、公民などの中で、「歴史的背景や歴史の発展段階などを教えるといった観点から教育勅語が教材として使われることは問題ない」との見方を示した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「元慰安婦の陳蓮花さん死去」

2017年04月23日 | 日本軍隊性奴隷
「中央廣播電臺」 2017-04-22
■元慰安婦の陳蓮花さん死去
 謝罪、賠償は受けられず

 婦女救援基金会は21日、旧日本軍の慰安婦とされる台湾の女性3人のうちの一人、陳蓮花さんが92歳で亡くなったと発表した。婦女救援基金会では、人々が陳蓮花さんにお別れのメッセージを伝えられるよう、22日から「アマーの家-和平と女性人権館」に追悼コーナーを設けることを明らかにした。(写真:CNA)
 婦女救援基金会は21日、旧日本軍の慰安婦とされる台湾の女性3人のうちの一人、陳蓮花さんが20日の夜、腸管破裂による感染症のため亡くなったと発表した。92歳だった。
 婦女救援基金会では、人々が陳蓮花さんにお別れのメッセージを伝えられるよう、22日から台北市内の「アマーの家-和平と女性人権館」に、陳さんを追悼する記念コーナーを設けることを明らかにした。
 「蓮花アマー(アマーはおばあちゃんの意)」と呼ばれた陳蓮花さんは、1924年、現在の新北市汐止区に生まれた。若くして工場に勤務し、19歳の時、日本人から「看護婦」の名義で、半ば騙される形でフィリピンに連れて行かれ、日本軍の慰安婦となった。
 陳蓮花さんは2年近くフィリピンに滞在したが、その恐怖の記憶は一生拭い去ることはできなかった。陳さんと共にフィリピンに向かった20名あまりの台湾の女性のうち無事、生きて帰ってこられたのは、陳さん含め2人だけだった。台湾に戻ってから、フィリピンで知り合った元日本軍の台湾の男性と結婚、家庭を支えた。
 婦女救援基金会によると、陳さんは関連イベントに度々出席したが、その深い悲しみを感じさせず、逆に苦難を乗り越えてきた強さや、楽観的な姿が印象的だったという。しかし、そんな陳さんはかつて、海外のメディアに対し「自分はもう高齢だ。ようやく日本政府からの賠償を得られると喜ぶ時、我々は皆、もうこの世にはいないかもしれない」と目をうるませながら語ったという。
 陳さんは、心待ちにしていた日本政府からの謝罪、賠償を得られず亡くなった。陳さんの死去により、台湾の元慰安婦は、東部・花蓮県に住む原住民族の2人のみとなった。


http://toronto.singtao.ca/1690996/2017-04-22/post-%E8%A2%AB%E9%A8%99%E8%87%B3%E8%8F%B2%E5%BE%8B%E8%B3%93-%E6%88%90%E7%82%BA%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E6%80%A7%E5%A5%B4-%E4%BA%AB%E5%A3%BD93%E6%AD%B2-%E7%AD%89%E4%B8%8D%E5%88%B0%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%81%93/?variant=zh-cn
「星島日報」 2017-04-22
■被骗至菲律宾 成为军事性奴 享寿93岁 等不到日本道歉 慰安妇阿嬷过世

【相片】台湾慰安妇受害者陈莲花20日晚间离世,享寿92岁,图为2016年12月莲花阿嬷出席“阿嬷家”开馆活动。中央社

  妇女救援基金会21日表示,台湾仅存的3名慰安妇之一的陈莲花20日晚间8时因肠道破裂感染过世,享寿93岁。
  陈莲花被称呼为“莲花阿嬷”,她于1924年出生于汐止,从小就在工厂当女工,19岁时被日本人以“看护妇”的名义半骗半强迫地带往菲律宾,成为军事性奴隶。中央社报道,陈莲花在菲律宾待了将近2年,成为她一生的恐惧回忆,当时同行的20多名台湾慰安妇,只有她和另一位女子生还。回台后,她和一位在菲律宾认识的台籍日本兵共组家庭,以无比的生存意志,撑起家庭的经济。
  妇女救援基金会指出,在陈莲花去世之前,台湾只剩下3位已知、尚存的慰安妇受害者。陈莲花原本还是其中较健康的一位,经常出席相关活动,在她身上看不到太多悲伤,反而是一种历经磨难的坚韧和乐观,她曾红着眼眶面对国际媒体说,“年纪这么大了,等到日本开心才要来赔偿时,我们可能都走了。”
  陈莲花终究没盼到日本政府道歉、赔偿的一天,她辞世后,台湾的慰安妇幸存者只剩下2位,都是居住于花莲县的原住民阿嬷。
  妇援会提及,去年12月10日,“阿嬷家-和平与女性人权馆”举行开幕仪式时,尽管身体微恙,陈莲花还是坚持亲自到场,向所有支持并关心“慰安妇”议题的朋友们致谢,原本身体还算健朗的她,今年3月23日因为肠道阻塞导致身体疼痛,紧急送医后检查出肠子破裂,面临感染危机,进行手术后身体非常虚弱,最终仍然宣告不治,在家人的陪伴下离开人世。
  妇援会再次呼吁日本政府,尽速对台湾“慰安妇”给予正式的道歉与赔偿,也将从4月22日至5月31日,在“阿嬷家-和平与女性人权馆”设立陈莲花追思纪念区,民众可前来探寻陈莲花的身影、怀想她的歌声,并透过点灯、剪花与留言等方式,表达对陈莲花的追思与祝福。


http://www.merit-times.com.tw/NewsPage.aspx?Unid=470609
「人間福報」 2017/4/22
■等不及道歉 慰安婦蓮花阿嬤過世
【本報台北訊】婦女救援基金會昨天表示,台灣僅存的三名慰安婦之一的陳蓮花,前晚八時因腸道破裂感染過世,享壽九十三歲。陳蓮花終究沒盼到日本政府道歉、賠償的一天,台灣的慰安婦倖存者只剩下兩位。
  「蓮花阿嬤」從小就在工廠當女工,十九歲時被日本人以「看護婦」的名義半騙半強迫地帶往菲律賓,成為軍事性奴隸。在菲律賓待了將近兩年,成為她一生的恐懼回憶,當時同行的二十多名台灣慰安婦,只有她和另一位女子生還。
  婦援會指出,在陳蓮花去世之前,台灣只剩下三位已知、尚存的慰安婦受害者。陳蓮花是其中較健康的一位,經常出席相關活動,在她身上看不到太多悲傷,反而是一種歷經磨難的堅韌和樂觀。她曾紅著眼眶面對國際媒體說:「年紀這麼大了,等到日本開心才要來賠償時,我們可能都走了。」
  前總統馬英九立即在臉書發文悼念,表示「蓮花阿嬤,我們會永遠懷念您的真誠與勇敢,我會繼續批判日本軍閥的殘暴與日本政府的顢頇,因為這是人道與人權的大是大非問題,我們不會遺忘與迴避。」


http://japan.cna.com.tw/search/201405090004.aspx?q=%E9%99%B3%E8%93%AE%E8%8A%B1
「フォーカス台湾」 2014-05-09 16:59
■台湾「元慰安婦」に関する記録映画の新作、日本で公開
(台北 9日 中央社)台湾の人権団体、婦女救援基金会は8日、台湾人元慰安婦についてのドキュメンタリー「蘆葦之歌」(アシの歌)の試写会が東京で行われたと発表、“台湾のアマー(おばあさん)たちの命の物語”を貴重な記録として伝えていきたいとした。
 この記録映画は同基金会の委託で国立台湾芸術大学(新北市)の助理教授、呉秀菁さんが制作したもの。7日夜に東京で催された上映会には100人ほどの日本の人々が集まり、康淑華・婦女救援基金会執行長、呉秀菁さん、映画の主人公の一人、陳蓮花さん(=写真)も出席した。
 「蘆葦之歌」は15年前に制作された「阿[女麼]的秘密」(アマー(おばあさん)の秘密)に次ぐもので、台湾の元慰安婦を支援する日本の民間団体の招きに応じて試写会が実現した。元慰安婦とされる女性らはいずれも高齢で、映画製作の過程で6人のうち4人が相次いで亡くなっており、おばあさんたちの最後の姿が作品の中に留められることとなった。
 映画の中ではおばあさんたちが楽しそうにウェディングドレスを着たり、一日客室乗務員、一日婦警さんになって若い頃の夢をかなえるシーンが出てくるほか、病の重くなった女性のところに日本の民間団体の人々がお見舞いに駆けつけ慰める場面も。
 基金会ではこの作品で、おばあさんたちが悲しみや憤りを乗り越え、ソーシャルワーカーやカウンセラーの力を借りて過去の傷と向き合い自分を受け入れようとする楽観的で気丈でけなげな姿が観衆の反響を呼んだとし、すでに亡くなった女性も含め、映像を通して彼女たちの命の物語は永遠に記憶されるだろうと述べた。
     (許秩維/編集:谷口一康)


http://japan.cna.com.tw/search/201309290003.aspx?q=%E9%99%B3%E8%93%AE%E8%8A%B1
「フォーカス台湾」 2013-09-29 14:13
■台湾人元慰安婦の記録映画、プレミア上映 「歴史の傷忘れるなかれ」
(台北 29日 中央社)台湾の元従軍慰安婦6人の晩年を描いた記録映画「蘆葦之歌」(Song of the Reed/葦の歌)が28日、台北でプレミア上映された。日本からはるばる訪れた慰安婦支援団体も出席する中、「この歳になってもう何も怖くない」、「無視されがちで忘れられてはいけないこの歴史の傷をより多くの若者に知ってほしい」とイベントに出席した出演者らが心境を述べた。
 映画では6人がカウンセラーらの協力によってどのようにして慰安婦としての過去から立ち直り、自分を受け入れたかのプロセスが描かれ、主人公たちが卒業服やウェディングドレスを身にまとったり、一日警察官、一日客室乗務員を務めたりするなど青春時代の夢をかなえる様子が映し出される。3年がかりで同映画を完成させた監督は「撮影したシーンの全ては奇跡としか言いようがない」と苦労をふり返った。
 「蘆葦之歌」は長さ76分、プレミア公開後、10月12日から11月1日にかけて台中、花蓮、台南、台北でそれぞれ1回ずつ無料巡回上映が行われる。
 今年8月の時点で平均年齢88歳の主人公6人のうち4人は映画の編集期間中に相次いで亡くなっている。

【 写真 】イベントに出席した出演者の1人、陳蓮花さん(左2)が日本の支援団体と記念撮影

     (魏紜鈴/編集:荘麗玲)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「陳蓮花阿嬤病逝 台灣慰安婦僅存二位」

2017年04月22日 | 日本軍隊性奴隷
https://www.epochtimes.com.tw/n208003/%E9%99%B3%E8%93%AE%E8%8A%B1%E9%98%BF%E5%AC%A4%E7%97%85%E9%80%9D-%E5%8F%B0%E7%81%A3%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6%E5%83%85%E5%AD%98%E4%BA%8C%E4%BD%8D.html
「大紀元」 2017年04月21日
■陳蓮花阿嬤病逝 台灣慰安婦僅存二位
【記者蕭軒 /台北報導】目前所知台灣僅存三位「慰安婦」之一的陳蓮花阿嬤,20日晚間8時因病離世,享耆壽93歲。婦援會表示,自此台灣「慰安婦」倖存者只剩下二位,在無比哀傷之餘,再次呼籲日本政府,盡速對台灣「慰安婦」給予正式的道歉與賠償。

【相片】陳蓮花阿嬤去年出席「阿嬤家–和平與女性人權館」揭牌儀式。(婦援會提供)

  1924年出生於汐止的陳蓮花阿嬤,從小被送去當養女,19歲時遭誘騙成為軍事性奴隸,戰事結束後,同行的20位台灣「慰安婦」僅有陳蓮花阿嬤和另一位女子生還。
  婦援會表示,陳蓮花阿嬤生前非常擔心被人知道她的過往,直到2010年「慰安婦」紀錄片《蘆葦之歌》開拍,才卸下心房。
  陳蓮花阿嬤說,「我過去一直擔心我的那些朋友若知道我的過去,不知會如何看我,但這幾年看到你們對我的關心及努力,我覺得,我應該要讓更多人知道這件事,讓年輕人知道,教育我們的下一代......」。
  婦援會表示,陳蓮花阿嬤等不到日本政府的道歉賠償就走了,她辭世後,台灣的「慰安婦」倖存者就只剩下二位,在無比哀傷之餘,再次呼籲日本政府,盡速對台灣「慰安婦」給予正式的道歉與賠償。


http://www.chinanews.com/tw/2017/04-21/8206012.shtml
「中国新闻网」 2017-04-21 21:15:49
■台湾“慰安妇”莲花阿嬷病逝
【资料图片】陈莲花阿嬷(右一)被人搀扶着参观纪念馆。中新社记者 刘贤 摄
  中新社台北4月21日电 台湾妇女救援基金会网站21日发文称,台湾最后的“慰安妇”之一莲花阿嬷(原名陈莲花,婚后冠夫姓许)20日晚因肠道破裂引发感染离世,享年93岁。
  陈莲花1924年出生于台湾汐止;19岁时被日本人以“看护妇”名义骗至菲律宾,受胁迫充当“慰安妇”。在菲律宾的近两年时间成为其一生的恐惧回忆,同行的20多位台湾“慰安妇”最后只有2人生还。
  回到台湾后,陈莲花重新组建家庭,几十年来一直保持低调的生活。直到2010年,妇援会筹拍“慰安妇”主题纪录片《芦苇之歌》,她才开始在镜头和公众前露面。之后,陈莲花多次出席与“慰安妇”有关的活动。
  莲花阿嬷曾说:“我觉得,我应该要让更多人知道这件事(慰安妇),让年轻人知道教育我们的下一代。”
  “永别了,莲花阿嬷,祝您一路走好。”得知莲花阿嬷过世的消息,台当局前领导人马英九在社交网络平台写到,永远怀念这位老人的真诚与勇敢。
  妇援会表示,将于4月22日至5月31日,在“阿嬷家——和平与女性人权馆”设立莲花阿嬷追思纪念区。
  据该基金会统计,当年被迫充当“慰安妇”的台湾女性至少超过1200人,目前在世的仅剩2位。(完)


http://news.ltn.com.tw/news/life/breakingnews/2043805
「自由時報」 2017-04-21 19:23
■台灣僅存的三位慰安婦之一 陳蓮花昨晚驚傳去世
〔記者陳紜甄/台北報導〕高齡93歲,目前台灣僅存的三位慰安婦之一的陳蓮花,昨晚8點左右因腸道破裂引發感染離世。
  陳蓮花1924年出生於汐止,從小被家人送去當養女,為了幫忙家計在南港一家草繩工廠當女工。19歲時一位日本人到工廠以「看護婦」名義,召募年輕女子前往菲律賓宿霧,陳蓮花在半騙半強迫情況下,與其他20多名女子從基隆搭船出發,抵達菲律賓時,才發現竟然是擔任「慰安婦」。在菲律賓將近2年時間,陳蓮花被迫成為軍事性奴隸之外,還要四處躲避砲彈攻擊,當時20多位同行的台灣「慰安婦」,最後只剩下蓮花阿嬤和另一位女子生還。

【相片】高齡93歲,目前台灣僅存的三位慰安婦之一的陳蓮花,昨晚8點左右因腸道破裂引發感染離世。(婦援會提供)

  歷經九死一生,陳蓮花回到台灣後,和一位在菲律賓認識的台籍日本兵結婚。雖然陳蓮花年輕時曾經遭受難以想像的身心創傷,但她常常掛著開朗的笑容,唯有一次令外界印象深刻的是,去年3月8日陳蓮花面對媒體詢問有關日本政府對「慰安婦」問題的態度時,她紅著眼眶說:年紀這麼大了,等到日本開心才要來賠償時,我們可能都走了。
  她辭世後,台灣的「慰安婦」倖存者就只剩下2位,在無比哀傷之餘,婦援會還是要再次呼籲日本政府,盡速對台灣「慰安婦」給予正式的道歉與賠償。婦援會也將從4月22日至5月31日,在「阿嬤家–和平與女性人權館」設立蓮花阿嬤追思紀念區,民眾可前來探尋蓮花阿嬤的身影、懷想阿嬤的歌聲,並透過點燈、剪花與留言等方式,表達對蓮花阿嬤的追思與祝福。



http://news.ltn.com.tw/news/local/paper/1060674
「自由時報」 2016-12-11
■「阿嬤家」揭幕 92歲陳蓮花很有感
〔記者郭逸、聶瑋齡/台北報導〕台北市婦女救援基金會經十二年募款,籌建全台第一座以「慰安婦」為主題的人權運動館「阿嬤家—和平女性人權館」,選在昨天「世界人權日」開幕。

【相片】「蘆葦之歌長廊」以2000根象徵蘆葦的透明空館和59盞金屬燈,代表2000多位不知身分與59位台灣慰安婦阿嬤生命的力量。(記者聶瑋齡攝)
【相片】高齡92歲陳蓮花阿嬤在會場看到自己年輕時的照片,格外開心。(記者聶瑋齡攝)

  「阿嬤家—和平女性人權館」位於台北市大同區迪化街一段二五六號,婦援會擇定屋齡九十年、融合東西方風格的建築,透過展板、影音資料、歷史文獻及物件,呈現台灣「慰安婦」事件歷程,希望到訪民眾反思戰爭下的女性人權與戰爭性暴力。
  高齡九十二歲慰安婦陳蓮花昨到場共襄盛舉,她滿臉笑意地向在場民眾道謝,展現強韌的生命力。鄭麗君說,二次世界大戰至今七十一年,戰爭遺留慰安婦的爭議,社會都沒有遺忘;她說,保留、面對歷史,回歸人權跟公益基本的精神,才能化解對立,保障更完整的人權。
  婦援會表示,「阿嬤家—和平女性人權館」設有「蘆葦之歌長廊」,以兩千根象徵蘆葦的透明空管及五十九盞金屬燈,代表兩千多位身分不明及五十九位已知的台灣慰安婦,把手掌放在金屬燈下,慰安婦的名字就會透過光影,投射在掌心。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「「ベトナムピエタ」像、済州に建設される」

2017年04月21日 | 韓国で
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/27131.html
「The Hankyoreh」 登録 : 2017.04.21 02:38 修正 : 2017.04.21 07:29
■「ベトナムピエタ」像、済州に建設される
 韓ベ平和財団、ベトナム戦終戦42周年迎え 
 今月26日、済州江汀村で記者会見とともに 
 ベトナム戦争における韓国の責任を問うベトナムピエタ銅像の除幕式開催 
 24~28日、文化祭やトークコンサート、歴史講演も

【写真】韓ベ平和財団はベトナム戦終戦42周年を迎える今月26日、済州江汀村の聖フランシスコの平和センターに、ベトナム戦争当時韓国軍による民間人虐殺の犠牲となった母親と赤ちゃんたちの魂を慰めるために製作された「ベトナムピエタ」銅像を建てる=韓ベ平和財団提供//ハンギョレ新聞社
 
 ベトナム戦争における韓国の責任を問うベトナムピエタ(ベトナム語名:最後の子守唄)銅像が済州(チェジュ)江汀(カンジョン)村に建設される。
 財団法人韓ベ平和財団(理事長、カン・ウイル・カトリック済州教区長)は、26日午後3時から済州江亭村にある聖フランシスコ平和センターで、ベトナム戦終戦42周年を迎え、ベトナムピエタ銅像の除幕式を開くと20日に明らかにした。
 ベトナムピエタは、ベトナム戦争当時、韓国軍による民間人虐殺犠牲者の母親と無念の死を遂げた名もない赤ちゃんたちの魂を慰めるため、「平和の少女像」を作った作家のキム・ソギョン、キム・ウンギョン氏夫妻が製作した。
 韓ベ平和財団は昨年、ベトナム戦終戦記念日に合わせてベトナムピエタの原型を公開し、ベトナムのダナン博物館とベトナム国民詩人のタンタオ氏にベトナムピエタ銅像(ミニチュア)を寄贈した。今回の除幕式は、韓ベ平和財団がベトナムピエタ銅像の設立のための募金活動を通じて、韓国とベトナムにそれぞれ銅像を建立する計画のもと、今年の終戦記念日に合わせて最初のベトナムピエタを建てたことを記念するためのものだ。
 ベトナムピエタの銅像が建設される済州江汀村の聖フランシスコ平和センターは、「生命と平和の風、平和のための連帯」を夢見て2015年に作られた。韓ベ平和財団のカン・ウイル理事長は「10年前に海軍基地誘致を決定したその日から、“江汀”はすなわち“平和”を意味する言葉となった。その日以来、平和を念願する熱い魂が江汀に集まり、10年が過ぎて平和の名のもと、ベトナムピエタ像が江汀に宿ることになった」と話した。行事が開かれる4月26日は江汀村が海軍基地の誘致を決定してから10年(2007年4月26日)になる日だ。
 ベトナムピエタ銅像の除幕式の前後には関連イベントも開かれる。24日夜7時には済州市耽羅図書館の隣の訪逸里(パンイルリ)公園にある「平和の少女像」前で、作家のキム・ソギョン、キム・ウンギョン夫妻と共に「月曜文化祭」が開催され、25日夜7時には、江汀村の平和センターで「私たちが知らなかったベトナムの記憶」をテーマに、和平トークコンサートが行われる。韓ベ平和財団のク・スジョン理事、ハンギョレのコ・ギョンテ記者、キム・ソギョン、キム・ムウンギョン夫妻も出席する。28日午前10時には済州教育大学で「ベトナム戦争の記憶と韓国の戦争記念」をテーマにした講演会も開かれる。
 韓ベ平和財団は韓国とベトナムが経験した傷と苦痛を治癒し、境界を越えて平和と共存の未来を切り開いていくために、2016年4月に発足し、翌年2月に設立された。

ホ・ホジュン記者
韓国語原文入力:2017-04-20 15:45
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/791534.html



http://japan.hani.co.kr/arti/politics/24001.html
「The Hankyoreh」 登録 : 2016.04.27 23:23 修正 : 2016.04.28 06:33
■少女像の隣に立つ「ベトナムピエタ」
 韓ベ平和財団発足式で石膏原型を公開 
 ベトナム民間人虐殺謝罪のために製作 
 ベトナムのビンホアと済州の江汀に建設予定

【写真】27日、ソウルのフランチスコ会館にある平和の少女像前で開かれた「韓ベ平和財団」発足式で、慰安婦被害者のイ・ヨンスさんがベトナム戦争犠牲者のために献花し、「ベトナムピエタ」の前で手を合せている=キム・テヒョン記者//ハンギョレ新聞社

 27日、ソウル貞洞のフランチスコ教育会館前の「平和の少女像」(少女像)の隣に、子供を抱いたお母さんの姿を形象化した高さ1.5メートルの「ベトナムピエタ(ベトナム語名は最後の子守歌)像」の石膏原型が公開された。 この原型を基に青銅で製作される実際のベトナムピエタは、今後、済州(チェジュ)江汀(カンジョン)の村とベトナムのクアンガイ省ビンソン県ビンホア地域に立てられる。 少女像の作家であるキム・ソギョン、キム・ウンギョン氏がベトナム戦で命を失った小さな生命を慰める意味を込めて作った。
 ベトナム戦争終結41周年を3日後に控えたこの日午後、日本軍慰安婦被害者イ・ヨンスさん(88)も少女像の手に紫の花を持たせベトナムピエタに向かって頭を下げた。 「過ちを犯したら謝罪しなければなりません。 まだ日本の謝罪は受けられずにいますが、ベトナム人に対して申し訳ない思いをいつも胸に抱いています」。彼女がベトナムピエタを訪れた若者たちに語りかけた。 イさんはこの日、この席で発足式を行い、韓ベ平和財団建設推進委員会委員の1人として活動してきた。
 ノ・ファウク建設推進委員長は「ベトナム戦争で韓国軍による民間人虐殺犠牲者だけで約9千人だった。 韓国軍の約5千人も命を失い、1万人の負傷者と2万人の枯れ葉剤後遺症患者が残った。 戦争を忘れず省察し、平和に進むために韓ベ平和財団の第一歩を踏み出そうと思う」と話した。 韓ベ平和財団は今後「平和運動キャンペーン」「ベトナム戦争研究とアーカイブ整備」 「参戦軍人を含む苦痛の連帯作り」 「韓国とベトナムの文化芸術交流」を推進する予定だ。
 ベトナムの有力日刊紙「トゥオイチェー」(若者)は26日付新聞の一面を割き、このような活動を「ピエタ像、ベトナムに対する一言の謝罪」 「ベトナム戦争被害者のために声を上げた人々」というタイトルの記事で紹介した。 韓国で学んでいるベトナム人のウンウイェヌンオクトゥイェン氏(32)は「ベトナムの青年も教科書で韓国軍のベトナム戦争参戦の事実をあまり習っていない。 謝罪して共に平和の道を進もうと言った韓国市民に感謝したい」と話した。

パン・ジュノ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2016-04-27 19:41
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/741538.html
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする