三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「日本’紀州鉱山の真実を明らかにする会’関係者、慶北道議会訪問」

2015年02月26日 | 紀州鉱山
 以下は、きょう(2月26日)午後4時過ぎに入力された『영남도민일보(嶺南道民日報)』の記事です。

                                佐藤正人


http://www.yndm.kr/default/index_view_page.php?part_idx=194&idx=33035
■일본‘기슈광산의 진실을 밝히는 모임’관계자, 경북도의회 방문
 일본 내에 ‘일제시대 기슈광산 한인 강제노역 희생자 추모터’를 조성하는데 앞장서 온 ‘기슈광산의 진실을 밝히는 모임’ 관계자(사토쇼진 일본 역사학자, 김정미, 재일교포)가 추모터에 대한 경북도 기부채납 추진사항 협의차 2월 26일 경북도의회를 방문했다.
 경북도의회 행정보건복지위원회(위원장 황이주)는 도 의회 차원에서 간담회를 개최하여 집행부 관계부서와 기부채납 관련 현안사항을 논의했다.
 기슈광산은 총알을 만들기 위해 구리를 캐내던 광산으로 이시하라산업이 1938년부터 1978년까지 운영했고, 일제강점기 때 한국인 1,000여명이 이곳으로 끌려가 혹독한 강제노역에 시달렸다.
 당시 이시하라 산업이 1946년에 작성한 명부에는 729인이 기록되어 있으며, 거기에는 강원도 545명, 경기도 97명, 경북도 63명이 강제 연행된 것으로 나타나고, 확인된 희생자만 35명이다.

‘기슈광산의 진실을 밝히는 모임’은 1997년 2월 결성되어 일본의 역사학자와 시민․재일교포 등 250명으로 이뤄졌으며, 2008년 구마노시와 이시하라산업에 추모비 건립 지원을 요청했으나 거부당하자 부지를 직접 사들여 2010년 3월 추모비를 세우고 추모 공간을 만들었다.

이날 간담회에서는 기슈광산 모임 관계자로부터 일본 미에현과 구마노시의 추모터에 대한 부당과세 철회소송* 진행과정과 도 집행부로부터 기부채납에 따른 부지 등기이전에 대한 현안 및 향후 계획에 대한 설명과 상호 의견교환으로 이어졌다.

도 관계부서에서는 추모터 기부채납과 관련하여 관계 중앙부처의 질의답변 등을 검토한 결과 ‘대일항쟁기 강제동원 피해조사 및 국외강제동원 희생자 지원에 관한 특별법’에 따라 추도공간의 조성 등 위령사업은 국가가 예산 지원 하도록 하고 있는 점에 대한 고려와 함께 피해 다수지역인 강원도, 경기도와 공동 추진 방안을 강구하겠다고 밝혔다.

경북도의회에서는 지난 2012년도에 제9대 도의회 차원에서 당시 김창숙, 홍진규 의원 등의 주축으로 ‘기슈광산 강제동원 희생자 진실규명 촉구 결의안’을 채택했으며, 강제징용관련 진상규명 요구와 추모비 부지에 대한 과세철회 결의문을 미에현과 구마노시에 전달한 바 있다.

이번 ‘기슈광산의 진실을 밝히는 모임’의 일원인 일본인 사토쇼진(역사학자)씨가 작년도 방문 시 독도가 한국 땅이라고 명시된 1776년도 당시 고지도(古地圖)를 동북아역사재단 독도문제연구소에 기증하여 영인본(影印本)*으로 제작한 고지도를 공개하기도 했다.
(원본을 사진이나 기타 과학적 방법으로 복제한 책)

경북도의회 행정보건복지위원회 황이주 위원장은 이날 간담회를 주재하면서 “독도를 관장하고 있는 경상북도에 추모터 기부채납 의지 표명과 기슈광산 희생자에 대한 추모사업 추진에 대해 감사함을 표시하고, 향후 추모터 기부채납과 관련 타 도와 공동 건의안 채택 등 다각적 협력방안을 강구하겠다.”는 뜻을 전했다.

   우광호 기자 gwangho7704@hanmeil.net
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「紀州鉱山犠牲者追悼の場造成懸案協議」

2015年02月25日 | 紀州鉱山
 以下は、きょう(2月25日)21時47分に『대구신문(大邱新聞)』電子版に掲載された記事です。

                                佐藤正人


http://www.idaegu.co.kr/news.php?mode=view&num=156530
『대구신문』기사전송 2015-02-25, 21:47:35
■日 기슈광산 희생자 추모터 조성 현안 협의

  ‘…진실을 밝히는 모임’
  오늘 경북도의회 방문
  기부채납 추진사항 협의

【写真 】‘기슈광산의 진실을 밝히는 모임’이 지난 2010년 3월 기슈광산에서 희생된 이들을 추모하기 위해 조성한 공간.

 일본에 ‘일제시대 기슈광산 한인 강제노역 희생자 추모터’를 조성하는 데 앞장서 온 ‘기슈광산의 진실을 밝히는 모임’이 추모터에 대한 경북도 기부채납 추진사항 협의차 26일 경북도의회를 방문한다.
 경북도의회 행정보건복지위원회는 일본 역사학자 사토쇼진, 재일교포 김정미 씨 등 ‘기슈광산의 진실을 밝히는 모임’ 관계자들과 만나 기부채납 관련 현안사항을 논의한다.
 간담회에서는 기슈광산 모임 관계자로부터 일본 미에현과 구마노시의 추모터에 대한 부당과세 철회소송 진행과정을 청취하는 한편 도 집행부로부터 기부채납에 따른 부지 등기이전에 대한 현안 및 향후 계획에 대한 설명과 상호 의견교환이 이뤄질 예정이다.
 기슈광산은 총알을 만들기 위해 구리를 캐내던 광산으로 이시하라산업이 1938년부터 1978년까지 운영했고, 일제강점기 때 한국인 1천여명이 이곳으로 끌려가 혹독한 강제노역에 시달린 곳이다.
 당시 이시하라 산업이 1946년에 작성한 명부에는 729인이 기록돼 있다. 강원도 545명, 경기도 97명, 경북도 63명이 강제 연행된 것으로 나타났고 확인된 희생자만 35명에 달한다.
 일본의 역사학자와 시민·재일교포 등 250명으로 이뤄진 ‘기슈광산의 진실을 밝히는 모임’은 지난 1997년 2월 결성됐다.
 이 모임은 2008년 구마노시와 이시하라산업에 추모비 건립 지원을 요청했으나 거부당하자 부지를 직접 사들여 2010년 3월 추모비를 세우고 추모 공간을 만들었다.
 앞서 경북도의회에서는 지난 2012년 제9대 도의회 차원에서 당시 김창숙, 홍진규 의원 등의 주축으로 ‘기슈광산 강제동원 희생자 진실규명 촉구 결의안’을 채택했으며, 강제징용관련 진상규명 요구와 추모비 부지에 대한 과세철회 결의문을 미에현과 구마노시에 전달한 바 있다.
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「日本紀州鉱山韓国人犠牲者追悼碑敷地、慶北道寄付進呈協議記事」

2015年02月25日 | 韓国で
 以下は、きょう(2月25日)午後5時半過ぎに記事登録された「NEWSIS」のパクジュン記者の記事です。

                                      佐藤正人

http://www.newsis.com/ar_detail/view.html?ar_id=NISX20150225_0013498458&cID=10810&pID=10800
「NEWSIS」 기사등록 일시 [2015-02-25 17:46:20]
■日 기슈광산 한인 희생자 추모터, 경북도 기부채납 협의
【대구=뉴시스】박준 기자 = '기슈광산의 진실을 밝히는 모임' 관계자가 추모터를 경북도에 기부하는 것을 협의하기 위해 오는 26일 경북도의회를 방문한다.
 25일 경북도의회에 따르면 일본 내 '일제시대 기슈광산 한인 강제노역 희생자 추모터'를 조성하는데 앞장서 온 '기슈광산의 진실을 밝히는 모임'의 회원인 사토쇼진(일본 역사학자)씨와 김정미(재일교포)씨는 경북도와 경북도의회 행정보건복지위원회와 함께 추모터 기부채납 사항을 논의한다.
  '기슈광산의 진실을 밝히는 모임'은 1997년 2월 결성돼 일본의 역사학자와 시민·재일교포 등 250명으로 이뤄졌다.
 특히 이들은 2008년 구마노시와 이시하라산업에 추모비 건립 지원을 요청했으나 거부당하자 부지를 직접 사들여 2010년 3월 추모비를 세우고 추모 공간을 만들었다.
 이날 경북도와 경북도의회는 기슈광산 모임 관계자로부터 일본 미에현과 구마노시의 추모터에 대한 부당과세 철회소송 진행과정과 도 집행부로부터 기부채납에 따른 부지 등기이전에 대한 현안 및 향후 계획에 대한 설명과 상호 의견을 교환할 예정이다.
 또 경북도에서는 추모터 기부채납과 관련해 관계 중앙부처의 질의답변 등을 검토한 결과 '대일항쟁기 강제동원 피해조사 및 국외강제동원 희생자 지원에 관한 특별법'에 따라 추도공간의 조성 등 위령사업은 국가가 예산을 지원하도록 하고 피해 다수지역인 강원도, 경기도와 공동 추진 방안을 강구할 계획이다.
 경북도의회 황이주 행정보건복지위원장은 "독도를 관장하고 있는 도에 추모터 기부채납 의지 표명과 기슈광산 희생자에 대한 추모사업 추진에 대해 감사하다"며 "앞으로 추모터 기부채납과 관련 타 도와 공동 건의안 채택 등 다각적 협력방안을 강구할 것"이라고 말했다.
 한편 기슈광산은 총알을 만들기 위해 구리를 캐내던 광산으로 이시하라산업이 1938년부터 1978년까지 운영했으며 일제강점기 때 한국인 1000여명이 이 곳으로 끌려가 혹독한 강제노역에 시달린 것으로 알려졌다.
 당시 이시하라 산업이 1946년에 작성한 명부에는 729인이 기록돼 있으며 강원도 545명, 경기도 97명, 경북도 63명이 강제 연행된 것으로 나타나 있다. 확인된 희생자만 35명이다.

     june@newsis.com
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きょう、名古屋高裁に、「控訴理由書」をだしました

2015年02月24日 | 紀州鉱山
 きょう(2015年2月24日)、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、名古屋高裁に、「控訴理由書」をだしました。
 その全文は、つぎのとおりです。
 控訴にいたる過程については、このブログの2014年12月17日の「熊野市を被告とする訴訟の経過」、12月18日の「津地裁の審理不十分なままの「弁論終結」・「判決」に抗議する」、2015年1月5日の「きょう、控訴しました」などをみてください。

                                         佐藤正人

■控訴理由書■

■第一 基本問題 裁判官の良心
 憲法76条に「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」、憲法19条に「思想及び良心の自由はこれを侵してはならない」と書かれている。
 良心とは、何か。良心は、どのように形成されるのか。裁判官の良心とは、何か。裁判官は、思想と良心をどのように形成するのか。
 個人の思想・良心は、社会的諸関係のなかで形成され、社会認識・歴史認識の過程で検証されていく。
 「その良心に従い独立してその職権を行う」とその行為を規定されている裁判官は、「その良心」の内実を常に自ら問わなければならない。
 1991年から2010年まで、東京・下関・広島の裁判所で、日本軍によるアジア太平洋各地における性暴力にたいする日本国家の歴史的責任を追及し、日本政府の謝罪と賠償を求める裁判(海南島戦時性暴力被害賠償請求訴訟など)がおこなわれたが、1998年に山口地裁下関支部第一部(近下秀明裁判長)が「立法不作為による国家賠償責任」(日本国家の賠償立法が遅れている責任)を認めて原告3人への各30万円の支払いを日本国に命じた以外は、すべて、国家無答責・除斥期間・日中二国間条約などを「理由」にして、日本政府・日本軍の歴史的侵略犯罪を追認した。
 裁判官が、国家犯罪による被害者にたいし日本国家が謝罪し賠償するのは普遍的正義と人道に基づくあたりまえのことだ、という良心をもっているなら、国家無答責・除斥期間・日中二国間条約などという「理由」は、容易に法的に打破できるにもかかわらず、戦時性暴力裁判においては、裁判官は被害女性に対して戦時性暴力が行使されたという事実を認定しながら、その事実にもとづいて日本国家の謝罪と賠償を求めるという良心にもとづく判断を放棄した。
 日本の多くの裁判官の「良心」は、国民国家日本の侵略犯罪を肯定する「良心」である。

 紀州鉱山の真実を明らかにする会が提訴した紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の敷地への熊野市による課税に抗議する訴訟もまた、朝鮮人強制連行・強制労働という国民国家日本の侵略犯罪の歴史的責任を問う訴訟である。
 日本が朝鮮を植民地としていた時代に、日本政府(熊野市という地方政府を含む)と日本企業(この場合は石原産業)は、紀州鉱山に朝鮮人とイギリス人を強制連行し強制労働させていた。
 日本敗戦後、A級戦犯容疑者として石原産業社長(石原廣一郎)が逮捕されてからまもなく石原産業は事故などで死んだイギリス人の「墓」を作った。その「墓」の遺骨はまもなくすべて横浜の「英連邦戦死者墓地」に移された。その遺骨がない場所をいま熊野市は「英国人墓地」と名づけ、熊野市指定文化財としている。
 その一方で、熊野市は、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の敷地提供を拒否した。
 そのため、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、やむをえず、会員のうち5人(朝鮮人1人、日本人4人)を名義上の所有者として、敷地(土地)を購入した。その土地に、熊野市は、固定資産税を課税してきた。
 そのような無恥の行為を許さないのは、あたりまえのことである。
 厳密に法を適用することによって、朝鮮人の追悼碑の敷地への課税を許さないという判決を良心にしたがってだすのは、思想と良心の自由の侵害を拒否する裁判官には当然の行為である。
 しかし、2014年12月18日に、津地裁民事部の坪井宣幸裁判官らは、実質審理をほとんどしないまま形式的な「判決」を、原告が出席を拒否している法廷でだした。坪井宣幸裁判官らの「良心」は、社会正義と人道に反する「良心」である。

■第二 本訴訟の核心
 日本政府と日本企業は、日本の各地に朝鮮人を強制連行し、強制労働させた。紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での朝鮮人強制労働には、日本の地方自治体である熊野市も加担していた。
 石原産業が経営していた紀州鉱山には、1940年から1945年の間に、1300人余の朝鮮人が朝鮮の故郷から強制連行され、銅鉱石採掘などの過酷な労働を強制された。そのなかには、命を失わされて故郷に戻ることができなかった人も多かった。
 紀州鉱山で、多くの朝鮮人が死亡したが、その人数も名前も、いまだ、明確にされていない。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、『1946年石原産業報告書』、『従業物故者 忌辰録』、『紀州鉱業所物故者霊名』、紀和町和気の本龍寺に残されている遺骨をつつんだ名前が書かれている白い布などを手がかりとして、犠牲者の一部の名前を知ることができた。
 ほんらいならば、日本政府、石原産業、熊野市が、その歴史的責任を自覚し、徹底的に事実を明らかにし、犠牲者の追悼碑を建立すべきである。
 しかし、日本政府も石原産業も熊野市も追悼碑を建立しようとしなかったので、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、在日本大韓民国民団三重県地方本部、および在日本朝鮮人総聯合会三重県本部とともに、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立し、2010年3月28日に除幕集会をおこなった。
 本訴訟の核心は、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑の敷地に、紀州鉱山での朝鮮人強制労働に加担していた熊野市が課税するという社会正義と人道に反する行為を許してはならない、ということである。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会が紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の土地に対する課税を拒否し、三重県と熊野市を被告とする民事訴訟を提起したのは、日本の植民地支配の犠牲者を追悼する場にたいする日本の行政機関の課税を承認することは、日本による他地域・他国の植民地支配を追認することであるからである。

■第三 実質審理をしなければならない
 2009年7月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、追悼碑建立に適当な鉱山資料館の斜め向かいの本件土地を購入した。
 その後、熊野市は、追悼碑の敷地の名目上の所有者に、固定資産税を納めさせようとしてきた。
 その課税は、紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での朝鮮人強制労働という犯罪に加担していた熊野市の歴史的責任をとろうとしないだけでなく、熊野市が紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼しないという姿勢を示す非人間的な行為である。
 追悼碑の敷地への熊野市の課税を拒否する紀州鉱山の真実を明らかにする会の訴訟においては、裁判所は、熊野市の課税の非道さ、不法性、反人道性を明らかにする実質審理をおこなわなければならない。
 実質審理をすることなしに、裁判官は判決をだすことはできないし、判決をだしてはならない。
 津地裁民事部の坪井宣幸裁判長らは、原告に十分な弁論の機会を保証しなかった。
 実質審理とは、原告・被告に十分な弁論の機会を保障し、綿密に証拠調べをおこない、現場検証をおこなうことである。
 坪井宣幸裁判長らは、原告が訴状、準備書面、証人申請書などに詳細に示している本訴の根本問題の審理を避け、実質審理を拒み、熊野市の虚偽の主張を黙認し、審理に必要な証人申請を却下し、2014年2月22日と2014年5月22日の合計40分に満たない2回の口頭弁論で、弁論を終結させようとし、ものごとの本質を見極め、事実を明らかにするという裁判官の使命を放棄した。人権意識、法意識、正義感を確立できていない坪井宣幸裁判長は、職権を乱用した。
 2014年5月22日は、2回目の口頭弁論の日であった。この日、口頭弁論の冒頭で、原告は、2014年5月9日の原告準備書面2と2014年5月21日の原告準備書面3の趣旨説明を短時間おこない、被告熊野市が「「紀州鉱山での朝鮮人強制労働と朝鮮人死者」は知らない」と「答弁」していることを弾劾し、紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での朝鮮人の労働の強制性を、法廷で審理することを求め、あらためて、とくに、紀州鉱山で亡くなった李白洛さんの遺児李炳植さんと千炳台さんの遺児千鳳基さんを証人とすることを要求するとともに、本件訴訟においては、強制連行と強制労働の事実を明らかにすることによって不当課税であることが明らかになるのだから、この事実について審理が尽くされなければならないということを、強く主張した。
 原告の弁論がいったん終わるとすぐに、坪井宣幸裁判長は、「チョット、進行について合議をします」と言って、二人の陪席裁判官といっしょに法廷を出て行き、4分後に再び法廷に出てきて、「証人申請は却下します」と言い、続けて「これで弁論を……」と言い出し、実質審理をおこなうことなく、弁論を終結させようとした(2014年2月20日の1回目の口頭弁論においても、原告が短時間訴訟提起の理由を弁論したあと、坪井宣幸裁判長は、実質審理にはいることはなかった)。
 本訴の根本問題の解明のための実質審理が開始されるべき時に、坪井宣幸裁判長は、本訴の審理を強権をもって終わらせようとした。その瞬間、即座に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、坪井宣幸裁判長を忌避した。
 控訴人は、名古屋高裁民事部の裁判官が、津地裁の坪井宣幸裁判官らのような不当・不法な強権的訴訟指揮をおこなわず、実質審理をおこなうことを要請する。

■第四 「特別の事情」・「特別な理由」
 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑の敷地は、紀州鉱山の真実を明らかにする会という組織名では登記ができないという「特別の事情」・「特別な理由」があったので、紀州鉱山の真実を明らかにする会は5名の会員の名義で登記した(地方税法367条、熊野市税条例第71条1項2及び4号参照)。
 裁判官は、この「特別の事情」・「特別な理由」を認め、熊野市に課税を取り下げさせなければならない。

■第五 公共性(公益性、すなわち「不特定多数の利益」)の否定は不当
 1 「歴史の真実を究明しその責任を問い続ける」ことは公益を有する
 本追悼碑の土地が「強制連行の犠牲者を追悼すると同時に、歴史の真実を究明しその責任を問い続ける拠点」であることは、熊野市も認めているとおりである(熊野市答弁書2013年6月3日付、10ページ、15行目~18行目)。
 日本政府は、朝鮮人と中国人を強制連行して強制労働に就かせ、日本の各地域の行政機関はこの国策に加担した。しかし、日本政府は歴史的事実を明らかにしようとせず、侵略犯罪に対する反省もしようとしていない。強制連行された朝鮮人や中国人を強制的に働かせ、事故などで命を失わせた日本企業のほとんどが、その侵略犯罪を認めようとしておらず、反省・謝罪・賠償をしていない。
 このとき、「歴史の真実を究明しその責任を問い続ける」ことは、社会正義を実現するという大きな公益を有する。

 2 公共性を有する事実を審理しない判決
 判決では、
     「本件土地が「公益のために直接専用する財産」に該当することを認めるに足りる証拠はない」(判決
    文11ページ、11行目~12行目)
としているが、この土地が追悼碑の敷地として使用されている事実、2010年から毎年追悼集会が開催され多くの参加者がいる事実、韓国の江原道議会議員一同から課税に対する抗議の文書が出された事実、慶尚北道議会から熊野市議会議長に課税撤廃を要請する親書が手渡された事実、地域の歴史を学ぶためにこの土地を訪れている人が多数いる事実、他の自治体は追悼碑建立に公共性を認めている事実、これらの事実は、多数の人たちが植民地支配という歴史的事実を直視し、今後、どのような社会をつくっていかなければならないかを考える場としてこの土地を位置づけている、という意味において公益性を有している。地裁では、この事実認定についてのいっさい実質審議を放棄している。
 追悼碑の土地の公益性を裏付ける事実についての審議を放棄したまま「本件土地が「公益のために直接専用する財産」に該当することを認めるに足りる証拠はない」と断定することは裁判官の良心にもとる行為である。

■第六 地方税法について審理しないで判決
 (1) 裁判官は、追悼碑の土地が地方税法第6条1項に該当することについて審理していない。
 判決では、
    「固定資産税の非課税範囲は法定(法348条2項各号、同条4項ないし9項)されているところ、原告らは本件
    土地がそのいずれかに該当するのかについて具体的な主張をせず、また、本件土地の現況及び利用状況
    等(甲8ないし11)に照らせば、固定資産税の非課税の固定資産として法定されているもののいずれかに
    該当するとも認め難く、他にこれを認めるに足りる証拠はない。」(判決文9ページ、2行目~6行目)
としているが、わたしたちは法6条1項にいう課税免除を主張しているのであって、法348条に掲げる非課税の範囲を理由として、課税処分の取消を求めているのではない。裁判官は、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立した土地が、地方税法第6条1項にいう課税免除に該当する土地であることについて審理することなく、地方税法第348条にいう非課税の範囲を適用したため、間違った判決をおこなっている。

 (2) 法3条1項の適用は誤り
 判決では、
    「法6条1項は、「公益上その他の事由に因り課税を不適当とする場合においては」、「課税しないことができ
    る」と規定するが、これを具体化するためには条例にそのための規定を設ける必要がある(法3条1項)。し
    かるに、被告にはそのような条例の定めがあることを認めるに足りる証拠はない。
     したがって、法6条1項の存在を根拠にして、直ちに、本件土地の固定資産税につき非課税とすることはでき
    ない」(判決文9ページ、8行目~14行目)
として、熊野市の課税を正当化しているが、法3条1項は、固定資産税の賦課徴収における規定であって、固定資産の課税免除についての規定ではない。ここでも、裁判官は法解釈を誤り、誤った判決をおこなっている。

 (3) 規定外の地方税法による適用の強制は、公平さを欠いた恣意的な判決
 固定資産税の減免には、法第367条で条例化が求められているが、固定資産の課税免除には条例化が求められていない。そうであるのに、法3条1項を持ち出すこの判決は、該当しない法の適用を強制するもので、租税法定主義に違反している。
 課税免除の条例化をせずとも、熊野市が紀州鉱山における朝鮮人の強制連行・強制労働に対する歴史的責任を果たすためには課税免除の措置をとることができるし、そうしなければならない、のである。

■補 名古屋高裁の不法・不正義の実例
 これまでのわたしたちの訴訟にたいして名古屋高裁の裁判官は、不当・不正に裁判官としての権力を行使し、不法で非人道的な判決をおこなった。控訴人は、このような名古屋高裁の判決を糾弾するとともに、今後、このような人道に反する不法判決をくりかえさないことを要請する。
 名古屋高裁は、これまでも、不当・不法判決をくりかえしてきた。その数例をここに挙げる。
 控訴人は、名張の「三奈の会」の奥西勝さんにたいする悪質・不当・不正な名古屋高裁の判決・再審請求却下を糾弾する。この裁判は刑事部だが民事部も本質は同じである。
 奥西勝さんにたいする裁判で、津地裁での一審の無罪判決を名古屋高裁は逆転させ、最高裁も名古屋高裁判決を追認した。
 その後、弁護団は、1974年から2002年までに7回再審請求した。7回目の再審請求のとき、2002年4月に名古屋高裁(第1刑事部・小出一裁判長)は、再審開始と死刑執行停止を決定した。しかし、2006年12月26日に名古屋高裁(第2刑事部・門野博裁判長)が再審開始決定と死刑執行停止をも取り消した。2010年4月5日に最高裁は再審開始決定を取り消した名古屋高裁決定を破棄し、審理を名古屋高裁に差し戻した。
 しかし、2012年5月25日に名古屋高裁(下山保男裁判長)は再審開始の取り消しを決定した。
 2013年10月16日、最高裁判所第1小法廷(桜井龍子裁判長)は名古屋高等裁判所の再審取り消し決定を支持し、第7次再審請求にかかる特別抗告を棄却した。
 その20日後、2013年11月5日に弁護団は名古屋高裁に第8次再審請求をおこなった。しかし、昨年2014年5月28日に名古屋高裁刑事1部は請求を認めない決定をした。
 ことし2015年1月9日に第8次再審請求異議審で、名古屋高裁刑事2部も刑事1部の決定を支持し、再審請求を却下した。
 奥西勝さん(1926年1月14日生)は、2013年6月に八王子医療刑務所に移され、いま、人工呼吸器をはずせない寝たきりの状態だという。

 2002年4月18日に名古屋高裁民事4部の裁判官(渡辺修明裁判長ら3人)は、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の敷地に課税した三重県を被控訴人とする1回目の控訴審で、実質審理をほとんどしようとせず、法と社会正義にもとづく正当な訴訟指揮をしないで、いきなり強権的に「弁論」を終結させようとした。控訴人は、直ちに、法廷内で、3人の裁判官を忌避した。この即座の忌避申立てと傍聴席からの怒りの声のため、この日に、裁判長は判決日を指定できないで退廷した。
 渡辺修明裁判官は、2002年3月16日に、「新聞記事で前科や罷免歴を公表されたのは名誉毀損やプライバシー侵害に当たる」として元判事補が中日新聞社や社長らに慰謝料を求めた訴訟の控訴審判決で、請求を棄却した1審判決を変更し、同社と当時の編集局長らに計100万円の支払いを命じる、という、民衆の知る権利を侵害する判決をだしている。
 渡辺修明裁判官はまた、名古屋高裁金沢支部の裁判長であったとき、2009年3月18日に、北陸電力志賀原子力発電所2号機にかんして北陸電力による安全性の立証を認め、運転差し止めを命じた2006年3月24日の金沢地裁の1審判決(井戸謙一裁判長)を破棄し、石川、愛知、岐阜など17都府県の住民の請求を棄却していた。
 渡辺修明裁判官はまた、名古屋高裁金沢支部の裁判長であったとき、2010年3月8日に、アジア太平洋戦争中に、朝鮮から日本に強制連行され、不二越の軍需工場(富山市)で強制労働させられた被害者が不二越と国を訴えた裁判で、富山地裁の1審判決同様、「1965年の日韓請求権協定により個人の請求権は失われている」として、原告の訴えを棄却していた。2014年10月30日に、ソウル中央地裁は、「反人道的な不法行為」を認定し、不二越に、損害賠償金の支払いを命じた。
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「海南文史资料选辑 第十一辑~第十二辑」

2015年02月22日 | 海南島史研究
http://www.hainanzx.gov.cn/data/news/2009/06/2254/
■海南文史资料选辑 第十一辑:铁蹄下的腥风血雨(日军侵琼暴行实录)上、下册
序 ……………………………………………………………………………陈 宏
一、日军在海口市的暴行
日军侵占海口地区罪行纪实 ………………………………………………梁鸿志
日军侵占长流地区及其暴行 ………………………………………………吴国礼
日军修建南渡江铁桥事略 ………………………………………………… 欧良柱
二、日军在琼山市的暴行
日军侵占琼山县及其暴行纪实 …………………………………………… 王万江
百般杀戮奸淫 天良人性丧尽——我亲见亲闻的日军在树乡的暴行 ……李常青
烧杀淫掠 制造“无人区”——日军在咸来地区扫荡的罪行纪实…………吴家驹等口述,何家汉整理
无情砍伐 疯狂掠夺——日军在永兴地区的罪行之一 ………………… 王镇宁
杀人放火 无恶无作——日军在永兴地区的罪行之二……………………王镇宁等口述,王向明整理
摧残妇女 天理难容——日军在永兴地区罪行之三 ……………………王祖唐、王泽礽
忆日军在云龙乡的几件暴行 …………………………………… 陈尊贵等整理
忆日军在大致坡乡的几件暴行 …………………………………… 范运锵整理
三、日军在文昌县的暴行
日军侵占文昌县及其暴行述略 ………………………………………… 庄迪海
日军在文北扫荡惨杀村民纪实 ………………………………………… 龙建武
“三光”政策下的南阳乡——日军制造“无人区”暴行实录……………符气连等口述,林嘉等整理
煎煮幼童 奸杀妇女——日军烧杀石马村纪实 ……………………… 韩茂良
诱骗烧杀 四村遭毁——日军在重兴乡白石岭暴行亲历记………………李昌炳等口述、龙建武整理
“百人墓”前忆往事——日军烧杀昌文村述实……………………………李重发口述,林嘉等整理
四、日军在琼海市的暴行
日本侵略军在琼东、乐会地区的暴行 ………………………………… 黎良镇
日军施暴潭门渔乡罪行录 …………………………………………………冯启香等整理
翻译携械投诚 日军滥杀千人——我亲历的互助乡“三•一惨案”………谢式容口述,卢家桐整理
日军“三光”扫荡 村民五百罹难——我们亲历的大洋、北岸两村惨案………何君范等口述,卢家桐等整理
乐会县波鳌、上岭园、上边村三村惨案 ………………………………王先柏等
琼东县川教、田独、江湖三村惨案 ……………………………………王先柏等
大难不死忆当年——我俩亲历的烟塘乡大沟村惨案…………………………伍书清等口述、卢家桐整理
藏身谷桶 幸免于难——我亲历的东山村“七•二六”惨案…………………………林诗兴口述、黎东芹等整理
我所知道的烟塘乡珠田村惨案 ………………………………………陈衍等口述、卢家桐整理
暴施酷刑 刺肚抽肠——红色地区“九•一三”惨案实录………………………陈业良等口述,庞启江等整理
挖心割头 杀人祭旗——我亲睹的侵琼日军暴行………………………王景泽等口述,陈居荣等整理
五、日军在万宁县的暴行
日军侵占万宁县暴行述略 …………………………………………… 蔡佳等
日军在六连岭地区“蚕食”、“扫荡”的滔天罪行 …………………… 陈业秀
侵万日军残害民工的罪行 ……………………………………………… 卓冠亚
日军修建万宁县中兴墟据点的罪行 ……………………………………杨明育口述、蔡佳等整理
“人过刀,屋过火”的月塘村“三•二一”惨案………………………陈宏炳等
龙滚乡“狗颈石惨案”纪实 ……………………………………………邢国贵口述、陈业秀整理
“狗颈石惨案”亲历记…………………………………………………邢福源口述、王国建整理
饥殍遍地 路冻死骨——忆万宁县1944年大饥荒惨况 …………………卓冠亚
六、日军在定安县的暴行
日军入侵定安县及其暴行 …………………………………………………吴升平
日军在定安同部地区的种种暴行 ………………………………………陈烈等口述、梁振景整理
日军在定城的杀人场 ………………………………………………………许荣颂
惨绝人寰的黄竹四村血案 ………………………………………………符史轩、林绍芳
惨遭血洗的吴招村 …………………………………………………………吴碧廉
我在吴招村惨案中的经历 ………………………………………………黎文秀口述、王国建整理
惨遭烧杀淫掠的河头村惨案 ………………………………………………吴俊平
屡遭摧残 村毁人亡——侵琼日军铁蹄下的莲塘湖村忆略………………吴昌盛口述,梁振景整理
七、日军在澄迈县的暴行
十村千民 惨死一旦——侵琼日军制造“沙土洞惨案”实况……………温家明等口述,曾宪富等整理
侵琼日军屠杀美亭乡民众概况 ……………………………………雷登华等整理
日军红花岭下暴行纪略 ……………………………………………蔡有祥执笔
日军在美合要塞的罪行纪略 ………………………………………蔡有祥执笔
侵琼日军侵占加乐峒罪行述略 ……………………………………王明恩整理
我所亲历的新吴“九•二七”血案 …………………………………唐有交口述、何运平整理
美伦惨案调查录 ………………………………………………………黄慧基、杨孝
八、日军在屯昌县的暴行
日军侵占乌坡地区暴行纪实 …………………………………………高日蕃等
日军制造三妈沟墟百人庙惨案纪实 …………………………………李泽光口述,符业权整理
佳塘岭,枫木民众的血泪岭 ………………………………………………许开忠
屠刀下幸存话当年——忆我遭日军残杀的经历…………………………庞宏和口述、符名凤整理
日军掠夺羊角岭水晶矿及奴役、杀戮农工惨况亲历记 ………………符名凤
九、日军在临高县的暴行
日军侵略临高县的经过和罪行 …………………………………………陈汉恩
侵琼日军的临高县罪恶录 ………………………………………………陈勇干
侵琼日军在加来地区的暴行 ……………………………………………洪照杰
新盈日军司令部的设立及暴行… ………………………………………王 京
我亲睹的剖腹取肝的乐全村惨案 ……………………………………王云开口述,王碧中整理
十、日军在儋州市的暴行
惨绝人寰 罪恶滔天——日军血洗和合村始末 ……………………钟守甫、梁春田
十女惨遭蹂躏 九死一得生还——和合村惨案幸存者韦月英忆当年遭难脱险经过……梁春田整理
虎口余生话当年——和合村惨案幸存者韦懋堂、赵玉忆当年脱险经过………………梁春田整理
三百村民惨遭屠 二百民屋毁于一旦——吴村“八一八”惨案纪实………………钟守甫
日军焚村杀人 童妪首遭其害——我亲历的洋龙村惨案……………………………黄伯木口述、钟守甫整理
我亲历的铁匠村大屠杀惨案 ………………………………………………李阿春口述,李觉多等整理
忆罗便村惨案的经过 ………………………………………………………羊本交等口述、梁春田整理
日军淫乐人伦丧尽 枪逼男女裸体互戏——我们所遭受的日军在新隆村的兽行……唐发章等口述,梁春田整理
十一、日军在三亚市的暴行
日军侵占崖及其暴行纪实 ………………………………………………羊杰臣
接见日本“和平之船”访华团讲话 …………………………………… 孙惠公
阴施毒计 诱杀村民——妙山村大屠杀纪实 …………………………陈锡礼
田独万人坑 ……………………………………………………………黄怀兴、何国
人间地狱 虎口余生——两位田独铁矿劳工的血泪控诉……………………吉亚等口述 潘先 等整理
田中商仁株式会社盗走崖城千年大铜钟 ………………………………谭天山
崖县侵琼日军“慰安妇”调查 …………………………………………羊杰臣
十二、日军在陵水县的暴行
日军侵陵史实概要 …………………………………………………………潘先枵
日军在陵水县乌牙峒暴行实录 ……………………………………………胡茂震
日军在提蒙乡血腥暴行亲睹记 …………………………………………陈农具等口述 、潘先 等整理
日军占领呠号地区暴行 …………………………………………………吉亚等口述、潘先 等整理
隆广白石日军暴行 ………………………………………………………黄公爷等口述、黄兴朝等整理
死里逃生忆当年——狗尾吊村“三•九”大屠杀述实…………………………… 冯卿等口述、苏光明整理
苦气岭刀下冤魂不散——港坡村大屠杀纪实 …………………………………符光桂口述,龙建武等整理
一个几乎被杀绝烧光的村庄——朝拜山大屠杀实录………………………………吴泽顺、颜启明
借故杀人 村民丧生——文罗镇后头园大屠杀忆述…………………………胡石国口述、王人造等整理
文罗镇广昌村大屠杀纪实………………………………………………马文学等口述、王人造等整理
迁怒无辜 残忍诱杀——日军诱杀六弓村青壮年黎胞纪实………………………吴阿福等口述、莫日文等整理
日军为修建后石军用机场制造的血案………………………………………王关文等口述、潘先 等整理
焚尸坑里的幸存者——忆我义父悲惨的劳工遭遇…………………………朱亚妹口述、王人造等整理
我险些葬身千人坑——一个机场劳工的自述……………………………胡京鹏口述、龙建武整理
魔穴里的血和泪——我被日军抓逼充当“慰安妇”的经历…………………黄有良口述、胡月玲整理
十三、日军在保亭县的暴行
日军入侵保亭县始末 ………………………………………………………张应勇
日军在南林乡的罪行录实 … ………………………………………………王世忠等口述、张应勇整理
杀人吃肉 惨绝人寰——日军在番雅暴行回忆……………………… 高帕伦口述、张应勇整理
少年身受凌迟 日军惨无人性 …………………………………………杨仕芳口述、潘先 整理
日军“战地后勤服务队”中的黎族妇女 ……………………………… 张应勇
我被骗逼当日军慰安妇的经历 ……………………………………………朴来顺口述、张应勇整理
十四、日军在通什市(现五指山市)的暴行
日军对通什地区的骚扰破坏 ……………………………………………… 朱开宁
十五、日军在琼中县的暴行
日军侵略琼中县境及其暴行…… ………………………………………… 谢晋颀
淫杀劫烧 血债累累——侵琼日军在岭门地区暴行实录………………………王一生等整理
除夕团圆 半途遭杀——忆我与奶奶被日军杀戮的经过………………………陈金玉口述、叶传雄整理
虎口见证 辱戮无辜——碑记岭日军地牢亲历记…………………………… 卓传校口述、符业新整理
十六、日军在白沙县的暴行
日机轰炸白沙县纪实 ……………………………………………………… 符耀坚
日军在可任乡犯下的罪行 ………………………………………………… 陈金英
日军侵占七坊乡及其暴行 ………………………………………………… 王琼华
日军侵占荣邦乡及其暴行 ………………………………………………… 叶开福
日军在阜类村暴行纪实 …………………………………………………… 符耀坚
十七、日军在乐东县的暴行
日军侵占乐东县始末 … ………………………………………………… 邢华胄
侵琼日军在乐东制造的七宗惨案 ……………………………………… 周文珍
日军侵占志仲地区暴行简况 …………………………………………… 周国民
日军飞轰炸保定村目击记 ……………………………………………… 王开贤
日军杀害俩老小的回忆 ……………………………………………………黄森磊婆口述,石崇安整理
我所知道的日军黄流机场“慰安所” ………………………………… 钟 强
含垢忍辱的血泪遭遇——四位被迫为日军“慰安妇”妇女的控诉…………黎蔚林整理
十八、日军在东方县的暴行
日军侵占昌感后的第一桩血案 ………………………………………… 邢力新
东方县旦场村惨案 ……………………………………………………… 吴昌雄
日本帝国主义修建八所港及其暴行 ……………………………………《八所港史》编写组
忆我被诱抓来琼充当劳工的遭遇 …………………………………………赵彦富口述、曾会琼整理
“日军侵琼八所死难劳工纪念碑”兴建纪实 ………………………… 曾会琼
忆日军侵琼时的日窒海南建设部 ……………………………………… 涂雕梁
北黎日军“慰安所”情况调查录………………………………………… 牛 泊
十九、日军在昌江县的暴行
日军侵占昌江及其暴行 ………………………………………………赵志贤整理
掠夺资源 残害劳工——日本侵略时期石碌劳工简况……………………关松瑶
三百“慰安妇”惨死泰半——石碌铁矿“慰安所”调查实录……………何千里
日军侵琼大事记 ……………………………………………………………王缵文
编后语
                            印制时间:1995年8月

■海南文史资料选辑 第十二辑:琼侨抗日英杰(符克烈士专辑)
序 ……………………………………………………………………… 符思之
一、综述篇
琼崖华侨联合总会回乡服务团概述……………………………林飞鸾、陈永阶
琼崖华侨回乡团的回忆………………………………………………… 符思之
琼崖华侨回乡服务团的组建及其抗日活动 ……………………………范世儒
甘洒热血写春秋——琼崖华侨回乡服务团总团长符克烈士传略…… 李光邦
爱国华侨楷模——纪念符克烈士抗日牺牲五十五周年………………符大榜
二、回忆录
忆符克……………………………………………………………………符思之
悼念符克同志 ………………………………………………………… 符荣鼎
缅怀符克同志 ……………………………………………………… …周训堂
忆符克同志二、三事 …………………………………………………张 奋
符克同志在琼侨回乡服务团前后的一些活动 ……………………潘 照
满怀悲愤悼烈士——忆符克同志追悼会 ……………………………韩立人
回忆符克同志牺牲的一些情况 ………………………………………何佩玲
我所知道的琼侨回乡服务团团长符克和民主人士韦义光被难的经过……林荟材
关于符克在海外工作团情况的一封信 ………………………………钟 萍
忆符克同志在西贡的抗日救亡活动…………………………林 明、符 川
追忆任童子团长时的符克同志… ………………………………… 黄岐山
缅怀符克烈士 …………………………………………………………方 克
符克烈士纪念碑建造始末 ………………………………… 陈家英、曹邦祥
爱国门第 光荣之家——符克烈士家史纪实 ……………………… 符 健
三、其他资料
越南报刊有关符克烈士资料三则
拳拳赤子心殷殷爱国情——读符克烈士家书有感 …………………邓 坚
符克致双亲、哥嫂的三封信
越南琼侨救乡会组服务团回乡工作
旅越琼崖侨胞组救济乡灾总会
琼侨回乡服务团电致总会暨全琼侨书
诗五首 …………………………………………………………… 赵子民等
证书资料
一本珍贵的纪念册 …………………………………………………… 符 干
                           印制时间:1996年2月
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「海南文史资料选辑 第七辑~第十辑」

2015年02月21日 | 海南島史研究
http://www.hainanzx.gov.cn/data/news/2009/06/2254/
■海南文史资料选辑 第七辑:黎族史料专辑(《中南地区少数民族史料》丛书)
一、军政史迹
黎族氏族及其传统社会组织结构实录 ……………………………………… 符镇南
清末黎族人民大起义与冯子材治黎 …………………………………… 蔡佳整理
剿抚并施 手辟南荒——冯子材治黎记…………………………王帕雅口述,王一生整理
恩威并施 化解黎怨——记陈汉光两下番阳峒………………王仁福口述,朱开宁、朱少川整理
在广东军政学校“化育班”学习的回忆 ………………………黄鸿禧口述,朱开宁整理
辛酸往事 不堪回首——我被陈汉光骗去省城当兵的经过…………………王大昌口述,朱开宁整理
建国前保亭县县政纪略——我任四任县长的县府秘书经历与见闻………… 温公木
抗日战争时期的黎族番阳地区………………………………………………… 王明东
我所知道的黎族头人王维昌、王昭夷父子……………………郑有坤口述,朱开宁、朱少川整理
仲田岭根据地黎族后备队纪事 ………………………… 周成武稿,龙建武整理
黎族赤子符尤相 ………………………………………………………… 邝立新整理
历尽艰险找救星——我在白沙起义危难时寻找共产党的经过………………吉有理口述,王一生等整理
王国兴赴京出席首届政协会议经过…………………………………王家贤口述,王一生、王才斌整理
二、经济活动
白沙县黎族经济生活中的族规实录……………………………………………王栋刚
黎族农民“刀耕火种”的生产方式……………………………………………林秀森
昔日黎族田地耕牛租赁分成形式 ……………………………………………王栋刚
东方县侾黎狩猎活动忆述 ……………………………………………………邢世杰
忆我家的砍山与饮食活动 ……………………………………………………马文礼
陵水县黎汉民族之间的社会贸易活动 …………………………………………谭能、潘先
五指山第一间货栈“公馆”……………………………………………………王轩友
白沙县黎族大地主符亚努的兴衰史 ………………………………………… 王栋刚
先祖化黎聚财,近世历经风雨——忆我家的兴衰经历………………………黄义仁口述,潘先 整理
三、民族融合
陵水县祖关镇黎汉同化史录…………………………………………………黄家明口述,胡茂震整理
落籍入俗汉化黎——陵水县祖关镇市场村民族同化实录……………………陈亚尧口述,潘先 整理
黎族竹葵村历史与文化的民族交融…………………………………马亚英口述,潘先枵、胡月玲整理
政策诱心汉改黎——陵水县提蒙乡远景管区族籍变化实录……………………陈卿口述,潘先 整理
黎苗情浓爱更深——黎苗通婚与情感纪实…………………胡硕礼、盆玉春口述,潘先 、严才科整理
四、文化习俗
美孚黎原始宗教及自然崇拜 ………………………… 符镇南口述, 郑广琼整理
陵水县侾黎丧俗与宗教之调查…………………………………………… 王人造
陵水县田仔乡高土村杞黎风俗拾零 …………………………………… 王 静
黎族民间舞蹈《跳娘舞》的调查 ………………………………………王人造
《打柴舞》与陵水县侾黎的丧葬 ………………………………………王人造
三亚黎族风情•社交 …………………………………………………… 陈 荣
加茂黎民歌博采纪略……………………………………………………… 陈运宏
黎族传统体育精粹选录 ………………………………………………… 李英才
黎族的吃穿住行…………………………………………………………… 董其礼
黎族医药及现代医学建设概述 ………………………………………… 林诗泉
编后语
                             印制时间:1993年8月

■海南文史资料选辑 第八辑:海南文史资料(军政综合卷)
一、抗日史踪
南京陆军步兵学校创建者王俊将军纪实 …………………………………陈一匡
怎样破击日三十八师团——王俊将军纵谈粤北战役……………………炎 川
我入黄埔军校前后的回忆…………………………………………………周学而
保国抗战 血洒沙场——唐惠洽将军纪略………………………………唐惠济
回忆抗日时期的礢硇洲琼崖难童学校……………………………………林 彬
二、黎明前夕
林廷华张光琼联名起义的经过……………………………………………钟慧娱
海府地区黎明前的点点滴滴——一个中学生的周记和日记摘录………梁鸿志
黎苗同胞喜迎渡海大军……………………………………………………崔懋峰
海南人民迎接渡海大军作战的支前劳军活动 …………………………邢益森
三、建国后史料
忆刘少奇主席访问大路公社 ……………………………………………潘 干
建国后的海南高校体育事业 ……………………………………………伍建瑶
剿肃匪特巩固人民政权 …………………………………………………杜昌圣
四、人物纪事
梨园沧桑 今昔荣辱…………………………………………………… 陈 华
传奇式悲剧人物——近代黎族头人王昭夷生平活动 …………………符和积
苗族卢亚五其人其事 ………………………………朱开宁、庞玲、林友侨
卓浩然先生传略 …………………………………………………………林壮标
陈光羲其人其事 …………………………………………………………陈子平
五、赤子沧桑
陈平与新加坡的《琼潮报》………………………………………………潘 干
首部南来的新中国影片 …………………………………………………王振春
五十年代的“共产鸡”……………………………………………………王振春
六、其 他
海南西医之传入和发展 ………………………………………林诗泉、林书勇
基督教在海南的历史与现状 …………………………………符国华、李向耘
大革命时期的琼崖农民运动 ……………………………………………叶振群
                             印制时间:1993年10月

■海南文史资料选辑 第九辑:黎族史料专辑(续)(《中南地区少数民族史料》丛书)
一、军政史迹
清末冯子材征剿万宁黎族暴动的经过………………… 杨国清、郑人权稿,魏宗周整理
清末黎族毛道峒发生的一次大械斗………………… 朱开宁、罗才东、王秀玲
五指山腹地最大的黎族土豪家族…………………………… 朱开宁、朱少川
我亲睹之黎族大土豪王氏家族残害黎族群众的暴行…………王文会口述,朱开宁、邢书龙整理
“南圣惨案”的前前后后……………………………………… 朱开宁、庞 玲
五指山区“红也惨案”始末………………………………… 朱开宁、黄大光
什阳地区黎族人民驱逐国民党县长邱海云事件的经过………王启训、刘开熙
红水沟黎族农民革命斗争实录 ………………………………………周文珍
回忆白沙革命斗争时期的黎族同胞 …………………………………李英敏
琐忆父亲王国兴 ………………………………………………………王家贤
永恒的思念——缅怀父亲王玉锦 ………………………………………王 雄
一个穷苦黎人的成长道路——回忆父亲符桂森 …………………………符爱琼
二、经济活动
黎族头人王维昌、王昭夷父子在南圣地区的经济文化活动……朱开宁、黄少英整理
黎族合亩制地区的土豪亩头王老贯 …………………………朱 辉、朱 赤
黎族农民致富的领头人胡昌盛 …………………………………………苏光明
黎族传统的制陶工艺——制土烧坯 ……………………胡乐正口述,潘先 整理
黎族民间传统的捕鱼方法纪实 …………………………………………冯安本
三、民族融合
陵水县诸黎来源及分布现状 …………………………………潘先 、李其芬
陵水县黎族与汉回通婚及同化的历史与现状 …………………………潘先
五指山麓黎寨的清将冯子材士兵后裔 ……………………… 朱开宁、王业雄
黎寨里的羊城姑娘——记马金瑶的坚定爱情 ………………………… 张应勇
四、文化习俗
保亭县黎族传统文化纪实 …………………………………… 张应勇、陈运明
黎母山水会城及水会社学的设置——黎母山镇文化教育溯源纪述……王勇口述,王一生、王才斌整理
建国前基督教在通什地区的传播 ………………………… 朱开宁、罗才东
黎族特殊方言——那斗话 ………………………………………………符镇南
黎族美孚支系人名及辈份称谓实录 ……………………………………符镇南
陵水县黎族传统节期纪录 ………………………………………………潘先
黎族的发式、头饰和服饰………………………………………………符爱琼
白沙县黎族妇女的纹身习俗……………………………………………李贻昭
陵水县黎族家庭与习俗实录……………………………………………潘先
港尾村侾黎的传统习俗纪实…………………………杨运礼口述,潘先 、黄善堂整理
黎万峒的变迁及习俗…………………………………………潘先 、王人造
杞黎婚俗 ………………………………………… 王开权口述,王世祥整理
加茂黎的“座”活动与传说…………………………………………胡月玲
我亲历的黎族“钱铃双刀舞”……………………符吉荣口述,王人造整理
奇特的骨片——黎族氏族恩仇报答标志实录…………………………张应勇
                          印制时间:1994年4月

■海南文史资料选辑 第十辑:海南文史资料(综合卷)
一、杏坛春秋
筹办海南大学的回顾……………………………………………………… 李光邦
记万仲文教授奋斗不息的一生……………………………………………李 坚
教鞭手执驰中外——忆万禧先生…………………………………………林壮标
献身科研,风范永存——记著名橡胶育种专家刘松泉…………………周钟毓
二、新闻史迹
忆在新华社琼崖分社的日子里………………………………………… 潘 干
“海南日报”的创建与发展历程…………………………………………王 越
三、辛亥前后
“三点会”在定安的反清斗争………………………………… 蒙齐日、中 阳
回顾陈侠农历史片断 ……………………………………………………王植三
云振飞与滦州起义…………………………………………………………吉 父
四、峥嵘岁月
陈策和徐亨香港突围记…………………………………………………能
抗日英雄唐惠洽将军传略………………………………………………易升运
风雨足迹,坎坷人生——梁秉枢先生事略………………………………林书桓
归 宿……………………………………………………………………郑庭笈
五、民族民俗
吊罗山上一劲松——追忆陈斯同志…………………………………陈书凤
海南岛福湾海湾伊斯兰墓群及伊斯兰后裔去向查考………………潘先 、李居礼
新村港胥家来源及习俗调查……………………………………………潘先
六、侨情侨乡
一个普通华侨的恋乡情怀——忆我的伯父龙鹏植……………………龙建武
侨乡文化之花……………………………………………………………龙兴任
七、建国后史料
忆白沙县围捕空降蒋军武装特务………………………………………王 勇
随中国农专家组赴非洲加纳的经历与见闻……………………………龙甫伟
八、其 他
视察海口、台北纪实……………………………………………………陈开国
民主革命时期海南革命统一战线的形成与发展………………徐冰、唐昆宁
                          印制时间:1994年11月
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「海南文史资料选辑 第四辑~第六辑」

2015年02月21日 | 海南島史研究
http://www.hainanzx.gov.cn/data/news/2009/06/2254/
■海南文史资料选辑 第四辑:海南文史资料
(辛亥革命•军政卷)
一、辛亥风雷
孙中山与海南辛亥革命运动 ……………………………………………… 符和积
孙中山致琼籍旅泰华侨的两封信 …………………………………… 符和积供稿
辛亥年琼崖政权移交之斗争 ……………………………………… 晓 微
辛亥革命时期琼崖革命党人的运动 ……………………………………… 梁秉枢
民主革命先驱林文英在辛亥革命前后的活动 ……………………… 王国建整理
琼崖讨袁军总司令陈侠农 ………………………………………………… 范运晰
刘中悟先生与琼崖辛亥革命运动 ………………………………………… 王亚成
同盟会员王贻方进行的护法武装斗争 …………………………………… 王 京
早期同盟会员王斧先生史纪略 …………………………………吴季泽、吕钟英、许楥
辛亥革命时期新加坡的琼侨书报社和夜校 …………………………… 范会俊
琼籍同盟会员名事录 ……………………………………………… 吴陆荣整理
二、民国人物
深忱怀念父亲刘中悟 …………………………………………刘爱琼口述 王俊整理
陈策将军策划的几次海军起义 ………………………………………… 符和积
吴乃宪、吴乃应先生史略…………………………………吴乃慜、钟萍、吴永寸口述 吴国礼整理
从民主志士到共产主义战士——王大鹏先生生平纪述 ……………… 王业雄
将军泪——叶佩高先生事略补记 ……………………………………… 叶 风
三、近代社会
近代外国资本主义对海南岛的侵略概述 ……………………………… 邢关英
清末民初海南涉外劳工的悲惨遭遇 …………………………………… 符国华
日军侵占海口地区罪行记实 …………………………………………… 梁鸿志
新民主主义革命时期琼崖国民党党、政、军组织机构沿革及其序列简况 ………叶振群、陈业坤
四、抗日史事
王毅在琼崖抗日民族统一战线建立前后所做的二三事………………… 文谦受
琼山华侨在抗日战争中的贡献 ………………………………………… 潘 干
五、经济文化
琼崖革命根据地的金融、货币 ………………………………………… 邢益森
海南报刊史录 ………………………………………………………… 王 越
六、移民探源
海南云姓源流与分布 …………………………………………………… 范运晰
                       印制时间:1991年8月


■海南文史资料选辑 第五辑:海南文史资料(文化教育•综合卷)
一、教育史踪
今昔海南大学的创办 ……………………………………………………… 周润章
海南师范学院的创建与变迁 …………………………韦经照、陈封椿、温强、符世贤
琼台书院话沧桑 …………………………………………………………… 叶风
六师学运纪实 …………………………………………………………… 龙兴任
烽烟弥漫,书声不缀——纪琼崖联合中学粤北分校 …………… 陈修发、符干
琼台师范学校改革纪事 ………………………………………………… 唐和亲
海南中学前身——私立琼海中学 ……………………………… 符干、陈多余
琼文中学创办衰兴的见闻与经历 ……………………………………… 龙兴任
侨乡之学——文昌中学 ……………………………………………… 邢福基
二、杏坛春秋
杏坛耕耘五十载——记著名教育家、数学家范会国教授 ……………… 范运晰
海南教育家钟衍林史事纪实 …………………………………… 郑放、钟前英
钟衍林赴马来亚筹款建校轶事 ………………………………………… 龙兴任
我所认识的麦逢秋博士 ……………………………………………… 林壮标
忆我的父亲林筱海 …………………………………………………… 林梅新
三、海外赤子
高风亮节四海情——赵玉山先生事略 ………………………………… 范会俊
业创南洋,誉满琼州——琼籍爱国殷商“郭氏兄弟”事略 …………… 云雯天
四、舞台生涯
琼剧泰斗郑长和 ………………………………………………………… 陈世民
琼崖纵队文艺队伍史略 ………………………………………………… 黄胜基
五、民国人物
陈得平将军史略 …………………………………………………………… 王 青
郑彬将军事略 ……………………………………………………………… 冯秋泓
                           印制时间:1992年8月

■海南文史资料选辑 第六辑:海南文史资料(军政综合卷)
一、民国史事
琼崖西路讨袁军司令张良栋 …………………………………………… 戴泽运
刘中梧先生与国民革命之商民运动 …………………………………… 王亚成
追忆蔡廷锴将军在琼州创办的学生教导营 …………………………… 李以劻
国民党统治在海南的崩溃 ……………………………………………… 林荟材
二、峥嵘岁月
日军侵占崖县及其暴行纪实 ……………………………………………… 羊杰臣
在琼西隐蔽的抗日阵线上——钟升恒烈士纪实 ………………………… 钟升耋
琼崖抗日女杰——陈氏 …………………………………………………… 吴陆荣
解放官兵教导所纪实 ……………………………………………………… 潘 干
三、民主志士
海南著名爱国人士周铮同志 …………………………………………… 陈修发
以生命谱写讲诗篇——琼籍现代诗人征军及其创作活动 …………… 王春
忆曾中英烈士 ………………………………………………………… 梁鸿志
四、赤子沧桑
陈显彰先生创办的福民农场与福山咖啡 ……………………………… 吴乾毅
海外海南人群体的形成及其业绩 ……………………………………… 谢鹏飞
五、其他
1938年旅居海口见闻录 ………………………………………………… 梁鸿志
春风桃李总深情——王纲的教育生涯 ..……………………………… 王中柱
                         印制时间:1993年1月
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「海南文史资料选辑 第一辑~第三辑」

2015年02月21日 | 海南島史研究
http://www.hainanzx.gov.cn/data/news/2009/06/2254/
■海南文史资料选辑 第一辑:琼岛风雨(国民党围剿琼崖革命根据地纪事)
“二战”时期国民党军“围剿”琼崖革命根据地综述 …………………陈登乔、齐楚姗
琼崖地区“清党”经过……………………………………………………李洁之
海府保安团与陆战队混战记……………………………………………翁振民、冯仁鸿
南区绥靖委员公署的“剿共”和“防共”…………………………………林廷华
在海南“剿共”“抚黎”“绥靖”的真相……………………………………林荟材
陈汉光警卫旅在琼崖的残杀……………………………………………原吉征
陈汉光对海南少数民族的血腥统治……………………………………何凯诒
莺歌咀渔民反抗盐警纪实………………………………………………陈遹曾
国民党对琼崖革命根据地“围剿”大事记………………………………陈登乔、刘楚姗
附录  “围剿”反“围剿”斗争中国民党和红军序列表
征稿启事
                        印制时间:1989年5月

■海南文史资料选辑 第二辑:海南文史资料(军政综合卷)
一、云涌南天
举义旗反污吏——海南各族人民起义录…………………………………符国华
竞把头颅换自由——革命党人在琼斗争事略……………………………范会俊
“五四”风潮卷琼崖——忆府海与万宁地区早期青年学生运动…………魏宗周口述,蔡佳整理
二、民国将领
陈策将军史事纪要…………………………………………………………符和积
陈策将军在孙中山广州蒙难时的活动 ……………………………………陈宏、符和积
陈策将军香港突围记 ………………………………………………………符和积
忆张光琼将军起义的前前后后 ……………………………………………苏翰彦
三、英烈春秋
孙成达的赤色足迹 …………………………………………………………吴淑华、黄恒俊
忆为党捐躯的革命烈士韦义光 ……………………………………………王绍基
四、抗战史章
忆木排敌后根据地斗争………………………………………………………陈 辉
1、转入了新的戎马生活
2、卡敌咽喉的战略要地
3、反击顽军的窜扰破坏
4、粉碎日寇的蚕食扫荡
5、沧海横流显英雄本色
五、赤子报国
琼侨与琼侨回乡服务团——纪念海南解放四十周年……………………陈克功
新马抗日时期的琼籍华侨…………………………………………………陈世民
六、渡海奇袭
忆雷州半岛山狗吼海面截击战 ……………………………………………吴 泉
智渡海峡接大军 …………………………………… 林栋口述,冯仁鸿整理
                        印制时间:1990年4月

■海南文史资料选辑 第三辑:人物春秋(宋氏宗亲,符克、王特秋烈士,叶佩高将军等)
一、宋氏家族
宋庆龄宗亲考实 ………………………………………………………………朱运彩
宋氏家庭第一人——宋耀如 ………………………………………………云雯天
忆宋子文还乡…………………………………………………………………郑放、陈世民
二、历史真相
一场历史误会的真相——通过“海口谈判”认识爱国将领韩练成 …………史 丹
三、营垒之间
秘密的工作特殊的战斗——忆解放前夕府海特区策反工作的情况 …………祝菊芬
计议策反举义文南——国民党海南警保第一师第四团起义概况…………祝菊芬供稿
秘密策划瓦解敌营——国民党陆军步兵学校教导师第一团起义概况……祝菊芬供稿
我在海南参加起义的经过 ………………………………………………… 林荟材
难忘的回忆 ………………………………………………………………… 李湘武
四、英烈春秋
短暂一生流芳万年——符克烈士革命活动纪实 ……………………………李光邦、符 干
闪光的生命——记革命烈士王特秋 …………………………………………陈娟、吴淑华、陈琳
五、回顾往事
脚印——我的回忆 …………………………………………………………… 周 铮
六、民国人物
叶佩高将军事略 …………………………………………………………… 叶 风
刘中悟先生史略 …………………………………………………………… 王亚成
开明军政人员学新 ………………………………………………………陈修发、力之
七、抗战史话
琼崖抗日民族统一战线 …………………………………………………唐昆宁
琼崖侨属在抗日战争中 …………………………………………………邢益森、韩启元
一条红线穿南北——忆昌江县二区地下交通线 ……………………………陈 辉
八、情溢桑梓
满门俊杰 闻名泰华——“云氏家族”史略 ……………………………… 云雯天
九、不堪回首
新盈日军司令部 …………………………………………………………… 王 京
刘中造为匪始末 …………………………………………………………… 蔡佳
十、史海拾贝
邓本殷踞琼时的苛政和卖官 …………………………………魏宗周口述,蔡佳整理
海南岛诸种称谓之源 ……………………………………………………… 冯仁鸿
                               印制时间:1990年8月
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「海南文史资料选辑」

2015年02月20日 | 海南島史研究
http://www.hainanzx.gov.cn/data/news/2009/06/2254/
■海南文史资料选辑 出版时间:1989—2008年 辑数:22辑
第一辑:琼岛风雨
第二辑:海南文史资料(军政综合卷)
第三辑:人物春秋
第四辑:海南文史资料(辛亥革命•军政卷)
第五辑:海南文史资料(文化教育•综合卷)
第六辑:海南文史资料(军政综合卷)
第七辑:黎族史料专辑
第八辑:海南文史资料(军政综合卷)
第九辑:黎族史料专辑(续)
第十辑:海南文史资料(综合卷)
第十一辑:铁蹄下的腥风血雨(日军侵琼暴行实录)上下冊
第十二辑:琼侨抗日英杰(符克烈士专辑)
第十三辑:铁蹄下的腥风血雨(日军侵琼暴行实录)续
第十四辑:一曲艰苦奋斗的凯歌(海南松涛水库建设实录)
第十五辑:海外琼人
第十六辑:文史集粹
第十七辑:棕榈之岛(清末民初美国传教士看海南)
第十八辑:海南土改运动亲历记
第十九辑:海南文史(综合卷)
第二十辑:海南文史(纪念抗战胜利60周年专辑)
第二十一辑:海南名人与故居
第二十二辑:海南天然橡胶事业
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「琼崖日偽政权」

2015年02月19日 | 海南島史研究
http://www.hnszw.org.cn/data/news/2010/02/46175/
「海南史志网」编辑日期:2010-02-05 01:49:42
■琼崖日伪政权
  
  海南岛是中国南方乃至太平洋上的战略要地,日本帝国主义觊觎已久。1937年7月7日,日本帝国主义发动侵华战争。1938 年10月21日,日军攻占广州。日本大本营海军部提出海南岛是日本在太平洋西面的第二道门户,有必要向海南岛转移,以取得海上作战封锁基地,切断香港、新加坡、越南之间的联络,以及掠夺海南岛的资源。1939年2月10日,日军攻占了海口、琼山,继而侵入定安、文昌、三亚、榆林、崖县等地,海南沦陷。

  一、机构设置

  (一)海南警备府
  日军占领海南后,最高统治机关曾三次更改名称。1939年2 月10日占领海南时称第四基地队。同年11月15日,改为海南岛基地队,下设特务部,称为“总监”。在特务部下分设官房(管理秘书、人事、会计、庶务等行政事务)、政务局(管理民政、教育、外交、情报等行政事务)、经济局(管理农业、工矿、交通、金融、贸易、专卖等行政事务)和卫生局、地政局以及嘉积、三亚、那大、北黎四支部。
  1941年4月10日,海南岛基地队改称为海南警备府,掌管海南岛的军政大权。在警备府下设海南海军经理部(管理警备府的财会监督、物品买卖事项),海南海军军需部(设于三亚,负责各部所需军需品、装备、供给、保管事宜),海南海军运输部(设于榆林,负责区域运输、补给联络及海上护卫事项),海南海军工作部(设于榆林,负责各军舰队兵器工作、有线通信装置及修护事项),海南海军刑务所(设于三亚)。
  日本帝国主义为了战争的急需,掠夺海南岛的优质矿产资源,于1940年春在海南岛西部沿海要地——感恩县八所潭(今东方县八所镇)组建日窒海南建设部。下属机构设有港湾部(负责筹建八所港矿砂码头和装卸货物商用码头)、铁道部(主要修建八所—石碌铁路运输线)、输送部(主要负责工程施工所需物资的运输)、矿山部(设于石碌,兼管田独铁矿,主要任务是开发矿山、采矿、钻探工作)、农林部(主要任务是从事农林、牧、副、渔业生产)以及5个课室(总务课、劳务课、机械课、电气课、建筑课)。

附:海南警备府官员更迭表
   姓名      军衔      职务            任职时间
  太田泰治    少将   第四基地队司令官   1939年1月20日至11月15日
  福田良三    少将   海南岛基地队司令官  1939年11月15 日至1940年11月15日
  井上保雄    少将   海南岛基地队司令官  1940年11月15日至1941年4月10日
  谷本马太郎   中将   海南警备府司令长官  1941年4月10日至11月20日
  砂川兼雄    中将   海南警备府司令长官  1941年11月20日至1942年12月15日
  小池四郎    中将   海南警备府司令长官  1942年12月15日至1943年1O月1日
  松本益吉    中将   海南警备府司令长官  1943年10月1日至1944年11月4日
  佐贺启次郎   中将   海南警备府司令长官  1944年11月4日至1945年8月15日

  井上保雄    少将   海南警备府参谋长   1941年4月10日至1941年9月1日
  宇垣完尔    少将   海南警备府参谋长   1941年9月1日至1943年2月19日
  一濑信一    少将   海南警备府参谋长   1943年2月19日至1944年3月10日
  千田金二    少将   海南警备府参谋长   1944年3月10日至1945年8月15日

  (二)伪琼崖临时政府
  日军侵琼后,推行“以华治华”的政策,在海南岛建立傀儡组织。1939年5月,在海口设立治安维持会,嗣后,改为琼崖自治委员会。委员长赵士桓,副委员长吴直夫,委员松年(兼琼崖自卫军司令)、毛镜澄(兼海口维持会会长)、吴柏、吴世俊、李志健、王钦宇、李树标、梁发彭。琼崖自治委员会下设机构有财经、民政、政法、绥靖、复兴、警务6个处和物资统制局、盐务局、卷烟专卖局、物资推销合作社、农事试作场、贸易协会、华侨协会。
  1942年,琼崖自治委员会改为琼崖临时政府,撤销处、局建制,琼崖临时政府下设警务厅、民政厅、建设厅。琼崖临时政府主席赵士桓,副主席松年(兼琼崖自卫军司令和警务厅厅长),副主席吴柏(兼民政厅厅长),建设厅厅长李志健。
  海南警备府为了利用中国人来统治中国人,在全岛14个县(即琼山、文昌、定安、澄迈、琼东、乐东、万宁、陵水、临高、儋县、崖县、昌江、感恩、保亭)的县城、乡镇及重要地区分别建立了维持总会、维持会、维持分会或办事处共195个。其中建立维持会最多的是文昌县和临高县。两县共82个乡镇都建立了维持会或分会。

  二、施政概略
  (一)军事进犯
  1939年1月13日,日军作出攻占海南岛的决定,其作战计划是:岛的东北部以攻占海口市、琼山县为主,以及附近的定安、澄迈、临高、儋县、文昌等地域(称为甲作战);岛的西南部以攻占崖县、三亚、榆林港为主,以及附近的陵水、万宁、琼东、乐东、感恩等地域(称为乙作战)。1939年2月9日,日军“台湾混成旅团”乘坐的输送船队,在护卫舰队的掩护下入泊澄迈湾。2月10日凌晨,在日军第五舰队司令长官近滕信竹中将和陆军第二十一军司令长官安滕吉利少将的指挥下,“台湾混成旅团”数千人,在50余架飞机、30余艘舰艇的护卫下,击败国民党军队的多次抵抗,从海口西北角琼山县天尾港一带海岸强行登陆。登陆后,“台湾混成旅团”继续东进,左翼部队击退在大英山抗击的国民党警卫部队,当天占领了海口市。右翼部队在府城甘蔗园一带击退国民党警卫部队后,当天也占领了琼山县城。
  由于“甲作战”顺利进行,护卫舰队指挥官决定将“乙作战”计划提前实施。乙作战部队2450人,乘坐3艘舰船,于2 月13日从雷州半岛的深尾港湾出动,2月14日拂晓到达三亚附近海面。驻守榆林的国民党警备队发现后,开枪阻击。日军认为榆林港有严密防守,便退出海面,从舰上以10余门大炮轰击榆林港。同时以数十架飞机在藤桥、林旺、三亚、马岭、崖城、保港等地区轮番轰炸。当天,日军从三亚港登陆成功。日军登陆后,向榆林“扫荡”,占领榆林港。同日下午,日军舰船从崖州湾海面开炮向崖县政府射击,一部兵力从头灶港湾登陆,一部兵力从崖州湾大旦港登陆,一部兵力从马岭村西的干溪登陆,三路兵力开进县城。2月15日占领崖县县城。
  1939年2月20 日,日军700余人,以飞机、战车作掩护,猛攻定安县城;2月22日,日军200余人,在战车及飞机掩护下,从海口出发进攻文昌县城;3月11日,日军占领崖县的九所、望楼、乐罗等3个圩镇;4月14 日占领金江镇;4月15 日,占领嘉积镇;4月18 日攻占临高县城;同时攻占博鳌、乐会和洋浦港、白马井,侵入儋县县城新州;4月28日,占领陵水县城;5月11日占领琼山县的屯昌镇(今属屯昌县);6月27 日占领感恩县城。7月18 日,日军侵犯昌江县城,占领新街、墩头、八所,并在北黎设立司令部。8月13日占领万宁县城。9月11 日上午,日军出动8架飞机空袭白沙县政府所在地——雅叉镇,投下炸弹12枚,燃烧弹7枚,全镇茅屋被炸坏。1940年3月15 日,驻陵水日军出占保亭县城;驻崖县日军出占乐东县城。至此,全岛除白沙县城和五指山及其周围山区外,均被日军占领。
  日军攻占海南岛后,按照1939年4月21日陆军、海军、外务三大臣决定的《处理海南岛政务的暂行纲要》规定的方针,“首先把进行作战和确保治安作为重点”,继续向国民党的琼崖警备司令部驻地和共产党领导的抗日武装力量活动的地区进行疯狂的“蚕食”和“扫荡”,妄图消灭琼崖的抗日武装力量,把海南岛变成13本在“太平洋上永不沉没的航空母舰”。
  1939年5月3日至6月1日的30天时间内,日军第一次大举进犯。主战场在定安县。日军和国民党军队保六、保七团各伤亡60余人。5月3日,日军调动兵力共3000余人,分三路向国民党琼崖警备司令部驻地——定安县翰林地区进犯。中路军1500余人,由定城向雷鸣、龙门进攻翰林;东路军1000余人,从嘉积出动,再分两路经母瑞山及石壁圩等处,向翰林、南闾进攻,与中路军会合;西路军1000余人,由澄迈金江经瑞溪向新兴与海公岭方向进攻,从三面包围琼崖警备司令部。日军三路兵力分别到达翰林、南闾集中后,未同国民党军队相遇,怕国民党保六、保七团截断出路,不敢久驻,便分别向定城、金江和西昌、坡尾撤退。
  1942年5月至9月间,日军调集第十五警备队和伪绥靖队、自警队共4000余人,向海南岛东部的琼文抗日根据地进行疯狂的“扫荡”和“蚕食”,并在根据地的外围建立据点,架桥修路,实行控制、分割和包围,妄图在三个月内消灭抗日革命武装力量。1942年10月至1943年3月,日军调第十六警备队和大批伪军,同时出动飞机、坦克,更大规模地向琼文抗日根据地发动进攻,其中,对南阳乡“扫荡”的时间长达150天。日军把琼文根据地的南阳、大昌、树、道崇、咸来、苏寻三等乡列为“无人区”,实行“三光”(杀光、烧光、抢光)政策,用飞机连续轰炸一个月,把26个村庄夷为平地,烧毁房屋4000余间,杀害群众2000余人。
  1943年4月15日至5月6日,日军为打击琼崖警备司令部驻地抗日队伍,集合主力部队7000余人,由定安县的南闾、岭门、乌坡等地,分路向保亭的八村、河滥等处进犯,并以飞机掩护进行攻击。国民党保六、保七团等部队与日军进行了21天的激战,日军始终不能突破防线。最后,日军由琼东县经保亭县偏僻的山地进犯,侵入八村、中坪等地。当时琼崖警备司令部早已转移。日军扑空,便焚烧茅屋。中午日军用膳时,国民党保六团两个连队对日军进行偷袭。日军措手不及,后在飞机掩护下撤退。这次战斗日军伤亡300余人,国民党军队阵亡158人。
  1943年秋天,日军和伪军近1000人向六连岭地区进行“蚕食’、“扫荡”,侵入柏树、歌岭、尖岭、三甲等地,向共产党军队进攻。日军先对六连岭山区外围村庄万二区的长礼、中义、茂山和一区的瑞安进行灭绝人性的轮番“扫荡”。企图将共产党的军队困死在山上。但结果适得其反,遭到驻乐万地区的第三支队多次伏击,151军死亡40多人,弃尸逃窜。
  1943年8月起至1944年间,日军在海南岛的西北部开始对儋县、临高抗日根据地——和民、清平、和祥、洛基等4个乡实行“蚕食”,建立据点,修建公路,设伪维持分会,进行轮番“扫荡”,杀害群众1400人。
  自1939年2月10日海南沦陷,至1945年9月2日日军投降止,在6年半的时间里,日军对海南岛各地进犯共达1637次,建立军事据点360余处,杀害无辜群众20多万人,烧毁民房5.9 万间,日军伤亡4284人,国民党军队阵亡4683人,琼崖独立纵队指战员牺牲5600人。
  
  (二)日军罪行
  日军在占据海南期间施行残酷的“三光”政策,大肆屠杀海南人民,手段毒辣,形式多样,计有枪决、刀刺、焚烧、活埋、狗咬、斩首、斩手、斩脚、剖腹、剥皮、割肉、水烫、棒打、电击、晒太阳、铁丝吊、插竹签等,甚至杀人取乐、以人当靶等。无所不用其极。
  下面主要记述日军肆意杀人的重大惨案和毒刑手段:
  1.枪杀、刀刺,同时进行。1939年8月14日,国民党游击队团队在琼山县长流乡琼华桥袭击监护修桥的日军,击毙2名日兵。翌日早晨,日军令长流维持会会长吴彬通知琼华桥附近的儒显村群众,以检查良民证为理由,集中于该村学校。日军300多人立刻包围全村群众,用机枪扫射。全村除外出的27人和1名幸存者外,170名无辜群众全部罹难。
  1943年10月的一天,日军海口总部直接派兵800余人,将澄迈县第四花场乡所属的13个村庄包围,挨户检查户口,以换发新良民证为名,无论男女老幼一律集中到祠堂里。然后每批以10人为一队,由日兵带领外出,在静僻之处,专用刺刀刺死。尚未被杀的村民冒死冲出祠堂,同日军肉搏,日军用大刀、刺刀乱劈乱刺,最后用机关枪扫射,当场杀死1200人。
  抗战时期,国共两党的抗日队伍都频繁活动在乐会县互助乡一带(今长仙乡)。日军对此早已怀恨在心。1945年4月12日清晨,来自中原、桥园、阳江三路的日军,突然包围了坡村、长仙、三古、南桥、雅昌、隹文、风岭、吉玲、官园9个村庄,抓了751名青壮年,押往日军据点里。中午11时,日军命令伪维持会兵剥去众人的衣服,以3人一串,5人一群地用铁丝绑起来,然后拖往燕岭坡,在两个早已挖好的大坑前,施行血腥的大屠杀。首先是逐个砍头,未砍死的就踢进坑里活埋。一连3天,日军对这9个村庄连续大肆屠杀,又有200多名群众被戮杀。后来,这些村庄的人民,为了悼念死难者,在燕岭坡上修建了一座“千人墓”。
  2.纵火焚烧。1941年农历3月11日,共产党军队在文昌县重兴乡排石岭村附近伏击日军一辆军车,打死几个日本兵。日军迁怒于附近村庄的群众,于农历3月18日早上7时,从琼东县的长坡出动一个中队100余人,在伪保长梁定鼎的引路下,包围昌文、榴石园、官仓园3个村,把107名村民胁迫到李氏宗祠里,用学校桌椅当木柴,洒上汽油点火,将他们活活烧死。过后,村里人收集死难者的遗骨,埋在一起,称为“百人墓”。
  乐会县北岸、大洋两村被日军怀疑有“通共”行为,便于1941年农历6月1日清晨,出动日军和伪军300余人闯进村中,大肆杀人。一位年轻的妇女被强奸后还被剖开肚子;一个出生仅几个月的婴儿被日兵抛到空中,坠下来又用刺刀凌空挑死;一部分村民被绑在树干上活活地用枪托打死。日兵施够淫威后,把逮住的全体村民集中起来,关进7间房子里,用汽油浇上柴草点火焚烧。有些男人挣扎着打破屋顶、墙壁和门窗,爬出火海,又被刺死或开枪射死。这一天,北岸、大洋两村有369名村民被杀害。加上几天以后,又陆续杀害的130名,总共499名群众罹难。后来人们兴建了“北岸惨案五百人纪念碑”,以示对死难者的怀念。
  3.活埋。1941年10月,在修建八所港工程中,日军以“怠工”为罪名,在八所潭枪杀和活埋了英国、印度、加拿大战俘1000余人。1943年4月17日,国民党游击队袭击了万宁和乐日军据点,日军大为恼怒,于18、19两日,大举下乡拘捕无辜百姓。在勤寨村、粟水仔村、文容村、八宝村等共捕到农民48人,开始是酷刑迫供,拳铁交打,水灌火烧,置于半死不活状态后,才挖穴活埋。
  4.斩首。1943年农历正月元宵,日军扫荡文昌县抱锦乡石马村,烧了100多间房屋,杀了140多人。他们把村里的成年人绑在一起,逐个斩头。对小孩更为残忍,有3个刚学会走路的孩童被丢进锅里活活煮死。1943年农历5月7日晚上,驻崖县羊栏的日军包围妙山等几个村庄,抓了100多人,以参与共产党游击队活动为罪名,将其中30多人用竹杆夹住脖子,用长剑一个一个地斩头。
  5.劳役迫害。日军为了大肆掠夺海南岛的矿产资源,开采石碌铁矿、田独铁矿、定安县羊角岭水晶矿(今属屯昌县)及修建八所港、八所一石碌铁路,自1940年10月开始,相继从沿海占领区内的上海、广州、江门、汕头、香港、厦门、澳门、台湾及在海南岛各县市强征4万多人,分别在石碌、田独、八所、北黎、板桥、东方等矿区和港口进行各种劳役。
  劳工们进了工场,就等于进入地狱。住的是在工地上临时搭起的草房,穿的是破烂的土布衣服,吃的是粗米番薯混合制成的饭团,半饱半饿。由于饥寒交迫,加上过度繁重的劳役,劳工们染上了水肿、痢疾、霍乱、天花、疥疮等各种流行性疾病,得不到治疗。在修建八所港的过程中,有一次,负责码头矿桥施工的总管张志华、潘保明,在查棚清工时,发现有20多人因病躺在床上,不能出工,就向日军密告为“怠工”。结果这20多人全部被拉到工场当众杀头。
  羊角岭矿区的劳工们患病时,还要被迫做工,折磨至死。八所港的广州劳工,在工地上与工友们私下讲话,被工头诬告为游击队煽动人心,一次就被杀害了80多名。有一个叫“三毛”的上海劳工,因错锯了一根木头,总管张子龙扬起皮鞭劈头就打。周围的难友见状为之求情,张马上报告日军,说劳工们要“造反”。结果为“三毛”求情的20多名劳工被当场活活打死。
  日军在各个工地上施行法西斯专政,迫害劳工大量死亡。八所港自1941年3月动工修建,到1943年5月建成,2万多名劳工,只幸存2000余人。开始死的用火葬,后来死人日益多,就挖一个占地200平方米的大坑,将死者抛到坑内埋掉,成为八所潭的“万人坑”(1983年6月10日,经广东省人民政府批准,这个“万人坑”被列为省级文物保护单位,作为人们回顾血泪史,进行爱国主义教育的基地和课堂)。田独铁矿1944年5月份统计,有工人7940人,至1945年8月份仅存1713人。日军掠夺田独铁矿6年间,被打死、枪毙、活埋以及病死、饿死的工人数以万计,死者都被抛到一个大坑内埋掉,此坑成为“田独万人坑”(1986年,经广东省人民政府批准,“田独万人坑”被列为省级重点文物保护单位)。自1942年至1945年7月的3年多时间中,参加开采羊角岭水晶矿被日军杀死、打死、劳役累病死和土崩压死的工人达1600多人。屯昌各界人民为了纪念死难者,修墓一座,并竖立石碑,永为凭吊。
  6.毒刑屠杀。日军除了用上述手段屠杀海南人民外,还采用其他惨无人道的杀人方式,比任何嗜杀暴君还残暴。1942年日军到崖县保平村抓人,一次就杀害18人。其中村民陈多儒被锯头颅取脑,陈麟金被割下阴部。1943年间,定安县东岭乡榕树脚村(今属屯昌县)农民吴信文夫妇被日军用铁丝穿通双手肌肉,吊在树干上活活晒死。蒙古坡村农民黎上吉被日军抓获后,被火烤其阴部至死。翰林业村李光桂父子两人,到南埠买盐回来,在公龙村边被日兵抓着,拖到翰林据点,用锯将李光桂父子的手脚锯掉,然后把他们抛在公路边,让烈日晒死。金妙罗老村(今属琼中县)跛子陈永发被日兵抓获,押往碑纪岭,先置于空旷处烈日暴晒,再放出几只狼狗撕咬,陈被活活分尸。1945年农历5月15日,日军夜袭定安县石丛捅村(今属琼中县)屠杀村民,将商贩陈经禄开膛抽肠,将郭玉兰2岁的婴儿放在石臼里捣成肉浆。

  (三)经济掠夺
  日军在侵琼期间,对海南岛进行所谓“经济开发”的全面掠夺。1940年开始,从上海、广州以及海南各地占领区强征4万余人,加上日本政府派遣的3万人,利用日本国家预算中投资的6亿日元,在海南搞侵略性的“开发建设”。
  1.采矿业。日军侵占海南后,把采矿作为当务之急,重点开发田独铁矿、石碌铁矿和羊角岭水晶矿。1939年4月,日本人发现田独矿产资源后,从日本具有技术实力的商业部门派遣技术人员勘察,证实铁矿质量优良。日本政府授命“石原产业株式会社”负责开发。同年动工,工程分3期进行,总投资为4000 万日元,工人1.5万人。整个生产主要依靠人工操作,每日产量5000吨。
  田独铁矿开采后,1940年4月7日,日军中桥本多地质调查队首次进入石碌矿山勘察,发现了南部矿床。同年11月日窒素肥料株式会社决定开采石碌铁矿,并派先遣队进入矿山筹建采矿基地,总投资额为2.2亿日元,工人1.7万人。每日生产3600 吨。
  从1940年至1944年日军共运走铁矿砂338.3万吨,其中田独铁矿268.8万吨,石碌铁矿69.5万吨。1945年日军投降时,尚有22万吨铁矿砂贮积在八所港。
  1942年上半年,日军为了扩大侵略地盘,从屯昌地区的羊角岭北侧岭脚修建一条公路,通往黄岭、南坤,进入内地。在开路时,发现水晶矿石。矿区面积3平方公里。日军随即让三菱矿业株式会社派人对矿床进行勘探调查,确认是一座较好的水晶矿山。日军便强征劳力2000多人,进行采挖。至1945年7月止,日军共掠走水晶矿石148.4吨。
  2.交通业。日军把道路桥梁建设作为适应战争和掠夺资源需要的基础设施来抓,总投资额为1.12亿日元,其中道路建设投资1.02亿日元,桥梁建设投资1000万日元。
  1940年上半年,在筹建石碌铁矿的同时,开始筹建八所港工程,由日窒素肥料株式会社海南建设部港湾部负责,驻昌化地区的日横四特部队,直接参与建港现场的施工监督,投资额为3000万日元,强征劳工2万余人。八所港码头有卸落矿砂码头和装卸货物商用码头。全长500米,内港面积6000平方米,港内水深8.5~9米,万吨级轮船可靠岸停泊。日军曾用两艘7000 吨轮船在此装运矿砂,运往日本国。
  1941年1月1日,日军铁道测量班开始对八所—石碌铁路进行测量,4月份完成测量和设计,5月份动工兴建,由日窒海南建设部铁道部负责,总投资为3800万日元。石碌隧道于1942年1月动工开凿,3月初建成,隧道长250.6米,宽24米。同时建成石碌火车站。1942年3月23日,八所—石碌铁路运输线竣工,正式通车。该铁路线全长50公里。
  北黎—三亚—榆林—田独矿山的铁路线由日本海南设施部承建。铁路从北黎站经过通天、感恩、板桥、岭头、佛罗、黄流、九所、崖城、马岭、三亚、榆林到达田独,全长180公里,于1944年上半年通车。
  1940年6月,日军在南渡江下游修建铁桥,全长587.6米,1942年3月建成使用。
  3.农业。日军掠取海南岛的资源,把所谓“农业开发”当作重点之一来抓。首先组织“海南岛农林业联合会”,对全岛的农林业实行统制。海南岛沦陷后,日军各大财阀陆续来琼,在农业方面计有36个会社或股份公司,其中农业25个,林业5个,牧业2个,渔业4个。日军对海南农业方面的总投资为1.29亿日元,其中农业投资1亿日元,林业900万日元,牧业300万日元,渔业1200万日元,水利事业投资500万日元,水利建设项目共65处。日本各个会社还在海南岛的定安、感恩、琼东、乐会、儋县、临高、澄迈、陵水、崖县、文昌、万宁等县建立了农林牧胶场共62个,作物面积达22.1万亩。在各个农场中,以南洋兴发会社在崖城至九所之间开发的10.5万亩稻田和台拓会社在陵水平野开发的10万亩种植蓬莱米的稻田为规模最大。在橡胶栽培方面,南国产业会社、台拓会社、南洋橡胶会社分别在那大、南桥、万宁设有橡胶园。在林业方面,有岛日会社在马鞍山设制材所,年生产能力1.3万平方米。王子制纸会社在尖峰岭设制材所,年生产能力1.5万立方米。台湾海南产业会社在吊罗山设制材所,年生产能力1万立方米。大共木材会社在榆林设制材所,年生产能力1.5万立方米。在畜产业方面,有台湾拓殖会社,在海口设畜产部经营生畜、屠宰、皮革、化骨等业务;有台拓藤桥牧场。在渔业方面,有林兼商店在榆林港经营大规模渔业,设立冷藏工场,具有80吨级的渔船若干艘,又租借日本水产公司渔船及高雄支店渔船若干艘,每次航海10天,捕鱼2000 箱,每箱装鱼6市斤。所捕之鱼上岸后即置于冷藏库,再由冷藏船送往日本。此外,在清澜港、海口港、新兴港、新盈港等都有日本人经营渔业。
  4.工业。日本帝国主义侵琼期间,海南工业基础极为薄弱,仅有电力工业和轻工业。1941年10月,日窒电业株式会社在昌化江中游(今东方县广坝乡)动工兴建一座水力发电站,至1943年10月25日工程竣工,装机1台,7000千伏安,年发电量平均为4500千瓦,最大为5000千瓦。架设了广坝至八所、广坝至石碌66千伏高压输电线,总长80公里。同年11月3日,广坝水电站开始向八所地区供电,以后又向石碌铁矿供电。在海口、三亚、榆林还设有火力发电厂。全岛共有火力发电厂10座,装置柴油机22台,总容量达13826千瓦。
  制糖工业有明治制糖会社在昌感农场共生产红糖1606担(1942年2月1日至4月2 日);盐水港制糖会社在龙江工场共产红糖400担(1942年2月4日至3月15 日);三井农林分社在藤桥工场、日糖会社在儋县工场也开始榨糖。日本人还在澄迈县的白莲、崖县的藤桥建起两个日产100吨的糖厂。
  盐业有三井物产会社在北黎与南丰之间设制盐场60处,年产盐3万吨。水垣食品工业公司在海口经营罐头业,年产罐头16000箱。海南水泥工业公司在榆林建立两家水泥制造厂及林兼商店建立的鱼类、牛肉、罐头工场设备也比较完善。在海南岛各地日本人和海南人分别办的小型工厂有;海南制纸厂、衣车厂、制革工厂、火柴制造厂以及汽车修理业、机械修理业、织布业、印刷业、玻璃业、肥业、建材业、榨油业、酿酒业、酱油业、缝纫业、陶器业等共80多家各类小工业。
  5.商业。日军侵琼期间,全部控制商业货源,统一由曰商经营。对中国商人则设“交易协会”加以统制。凡参加该协会的商店称为“指定商”,可以从日本批发商得到商品在市场上零售。日军还命令三井物产会社负责经营土产品和出口物资,同时设立琼崖物资交换所。日本人在海口设立生畜合资市场、海口米谷同业公会、华中百货店、大丸百货店、南京百货店等。海南人在海口设立中央市场、华中市场、中央商场。台湾蔬菜水果股份公司也在海口设店,办理贩卖蔬菜业务。
  日军侵琼期间,物价上涨很快,人民生活动荡。据1947年陈植编的《海南岛新志》记载:1940年7月至12月在海口的物价指数为:7月批发物价为196,零售物价280,土产品物价270,输入品物价174,食料品物价270。12月批发物价285.4,比7月份批发物价指数长45.6%;零售物价336.1,长20%;土产品物价426.3,长57.8%;输人品物价243,长39.6%;食料品物价306.5,长13.5%。
  6.金融业。日军侵琼期间,推行“以战养战”的政策,垄断金融业。日伪在海口设立的银行有正金银行、台湾银行、华南银行、伪琼崖银行总行,并在文昌、定安县设立支行。台湾银行还在三亚、嘉积、北黎等地设立派出营业所。日伪银行大量发行“大日本帝国政府军用票”等货币。票面有1角、5角、1元、5元、10元5种,总发行量达2.06亿元,强制在市场上流通。

  (四)奴化教育
  日军摧残海南教育后,招引日本佛教徒来海南岛,在海南设立了日华佛教会,计有大佛寺、六榕寺、华林寺、海幢寺等僧侣参加。在各寺均设立日语学校,共有生徒100余人,进行宗教迷信教育,麻痹人们思想。1940年6月至1941年间,日本人在海南各县城及重点乡镇,共办日语学校73所,强招学生4000多人。在海口设立大龙日语学校,学生300多人。在府城办琼台师范日语学校中学1所,学生200余人。在临高县城、新盈、加来开设3间日语学校,校长由日本人担任,教师22人,其中日本教官8人,学生200多人。
  在日语学校里,设有日语、国文、算术、军训、音乐等课程,其中以日语、军训为主。上日语课和遇见日本教官时,要用日语问候。上军训课时,进行军事体育训练,纪律严苛。学生稍不注意,就被日本教官施以殴打、立正、暴晒、“做牛”(即学生手脚顶地、腹部不能贴地)等各种体罚。每周星期一举行朝会时,先唱日本国歌,后向日本天皇遥拜,行90度鞠躬礼。日语学校的教育宗旨是采取各种方式,向学生灌输帝国主义奴化思想,以便巩固他们在殖民地的全面统治。
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