符貴発さんに案内されて、捕虜収容所跡から八所港の“万人坑”跡に向かいました。
細い路地を通りぬけると、2車線の舗装道路にでました。遠くに「日軍侵瓊八所死難労工紀念碑」が見えました。
その道を200メートルほど碑に向かって進んだところで符貴発さんが止まり、左側を指差し、「そこに見える水路は、英国人捕虜が作ったものだ。父がそう言っていた」と言いました。
ハンク・ネルソン『日本軍捕虜収容所の日々 オーストラリア兵士の証言』(リック・タナカ訳、筑摩書房、1995年)には、アンボン島から海南島八所に連行された捕虜は、貨物船からコメなどの荷おろし作業、小川の上に高架をかける作業、水田のなかに道路をつくる作業、砂丘から砂を海に運び埋め立てる作業、材木の切り出しなどをさせられた、と書かれています。
捕虜がつくらされたという水路を過ぎてさらに碑に向かって300メートルほど2車線の舗装道路を進んでから、符貴発さんは、左側(海側)の幅50センチほどの細い道に入りました。その道の両側には、エビの養殖池がいくつもありました。100メートルほど進んで右側の小川を渡って10メートルたらずの台地に登りました。その台地は、300メートルほど離れた「日軍侵瓊八所死難労工紀念碑」まで広がっていました。
符貴発さん(1962年生)は、
「子どものころ、よくここに牛を連れてきて草を食べさせた。す
こし掘ると骨がでてきた。頭蓋骨を見たこともある。ここも“万
人坑”だ。ここから、あの碑のあるところまで、ずっと“万人坑”
だ。碑をつくるとき、すこし骨を集めたようだが、全部は集めなか
った。ここには、骨がまだたくさん埋められたままだ」
と話しました。
八所地域や石碌地域を軍事支配していた日本海軍部隊は、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊であり、八所港建設・石碌―八所間鉄道建設・石碌鉱山採鉱をおこなっていた日本企業は、日本窒素と西松組(現、西松建設)でした。
佐藤正人
細い路地を通りぬけると、2車線の舗装道路にでました。遠くに「日軍侵瓊八所死難労工紀念碑」が見えました。
その道を200メートルほど碑に向かって進んだところで符貴発さんが止まり、左側を指差し、「そこに見える水路は、英国人捕虜が作ったものだ。父がそう言っていた」と言いました。
ハンク・ネルソン『日本軍捕虜収容所の日々 オーストラリア兵士の証言』(リック・タナカ訳、筑摩書房、1995年)には、アンボン島から海南島八所に連行された捕虜は、貨物船からコメなどの荷おろし作業、小川の上に高架をかける作業、水田のなかに道路をつくる作業、砂丘から砂を海に運び埋め立てる作業、材木の切り出しなどをさせられた、と書かれています。
捕虜がつくらされたという水路を過ぎてさらに碑に向かって300メートルほど2車線の舗装道路を進んでから、符貴発さんは、左側(海側)の幅50センチほどの細い道に入りました。その道の両側には、エビの養殖池がいくつもありました。100メートルほど進んで右側の小川を渡って10メートルたらずの台地に登りました。その台地は、300メートルほど離れた「日軍侵瓊八所死難労工紀念碑」まで広がっていました。
符貴発さん(1962年生)は、
「子どものころ、よくここに牛を連れてきて草を食べさせた。す
こし掘ると骨がでてきた。頭蓋骨を見たこともある。ここも“万
人坑”だ。ここから、あの碑のあるところまで、ずっと“万人坑”
だ。碑をつくるとき、すこし骨を集めたようだが、全部は集めなか
った。ここには、骨がまだたくさん埋められたままだ」
と話しました。
八所地域や石碌地域を軍事支配していた日本海軍部隊は、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊であり、八所港建設・石碌―八所間鉄道建設・石碌鉱山採鉱をおこなっていた日本企業は、日本窒素と西松組(現、西松建設)でした。
佐藤正人