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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

八所村で 4

2008年05月31日 | 海南島
 符貴発さんに案内されて、捕虜収容所跡から八所港の“万人坑”跡に向かいました。
 細い路地を通りぬけると、2車線の舗装道路にでました。遠くに「日軍侵瓊八所死難労工紀念碑」が見えました。
 その道を200メートルほど碑に向かって進んだところで符貴発さんが止まり、左側を指差し、「そこに見える水路は、英国人捕虜が作ったものだ。父がそう言っていた」と言いました。
 ハンク・ネルソン『日本軍捕虜収容所の日々 オーストラリア兵士の証言』(リック・タナカ訳、筑摩書房、1995年)には、アンボン島から海南島八所に連行された捕虜は、貨物船からコメなどの荷おろし作業、小川の上に高架をかける作業、水田のなかに道路をつくる作業、砂丘から砂を海に運び埋め立てる作業、材木の切り出しなどをさせられた、と書かれています。

 捕虜がつくらされたという水路を過ぎてさらに碑に向かって300メートルほど2車線の舗装道路を進んでから、符貴発さんは、左側(海側)の幅50センチほどの細い道に入りました。その道の両側には、エビの養殖池がいくつもありました。100メートルほど進んで右側の小川を渡って10メートルたらずの台地に登りました。その台地は、300メートルほど離れた「日軍侵瓊八所死難労工紀念碑」まで広がっていました。
 符貴発さん(1962年生)は、
    「子どものころ、よくここに牛を連れてきて草を食べさせた。す
   こし掘ると骨がでてきた。頭蓋骨を見たこともある。ここも“万
   人坑”だ。ここから、あの碑のあるところまで、ずっと“万人坑”
   だ。碑をつくるとき、すこし骨を集めたようだが、全部は集めなか
   った。ここには、骨がまだたくさん埋められたままだ」
と話しました。

 八所地域や石碌地域を軍事支配していた日本海軍部隊は、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊であり、八所港建設・石碌―八所間鉄道建設・石碌鉱山採鉱をおこなっていた日本企業は、日本窒素と西松組(現、西松建設)でした。
                                  佐藤正人
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八所村で 3

2008年05月30日 | 海南島
 符路福さんの家から、市場の反対方向に進み、八所村委員会の前を過ぎて200メートルほど行った地点が、捕虜収容所のあった場所でした。そこは潅木が茂る広い墓地になっていました。近くに家が何軒も建っていました。
 符貴発さんは、「ここから700メートルほど離れたところに“万人坑”がある」と、言いました。

 10年前、1998年6月にはじめて海南島に来た時、わたしたちは、三亜の「朝鮮村」や田独鉱山や「慰安所」跡、涯県の「慰安所跡」などに行ったあと、八所と石碌を訪ねました。そのとき、旧八所港跡で“万人坑”跡や追悼碑(「日軍侵瓊八所死難労工紀念碑」を見ました。その後、わたしたちは、しばしば八所や石碌に来て、聞きとりをさせてもらいました(冊子『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』4~5頁、写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』67~72頁を見てください)。

 20年前の1988年に、海南島は行政的に広東省から切り離され、新しい省となりました。その5年前、広東省人民政府は、「八所港万人坑遺址」を「省級重点文物保護単位」に指定しました。1994年10月に、そこに、「日軍侵瓊八所死難労工紀念碑」が建てられました。高さ14メートル83センチの碑です。この碑の建設経過は、曾会瓊「“日軍侵瓊八所死難労工紀念碑”興建紀実」(海南省政協文史資料委員会編『海南文史資料』11〈『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』下、1995年8月〉)に書かれています。

 わたしたちは、老欧村を訪ねた翌日、八所村を訪ねる前日、4月11日に、東方市政治協商会議文史委員会を、2000年4月以後8年ぶりで訪れました。8年前の知人は退職していましたが、副主任の鄭瑤新さんに会い、かれが1995年9月20日付けで書いた「日軍修建八所港及制造八所“万人坑”之始末」を見せてもらいました。そこにはつぎのように書かれていました(部分抄訳)。
   「1939年末から1942年末までの3年間に、日本軍は、2万人
  以上の労工と千人以上の東南アジアで捕虜にした英国、イン
  ド、カナダ、オーストラリアの戦虜に、八所潭の荒涼とした
  砂浜に人口の港をつくらせた」、
   「生き残った労工は、1960人だった。八所港建設、八所―
  石碌間鉄道建設の過程で、3万人を越す労工が埋葬された。
  いま“万人坑”の砂の下には、遺骨が層になって埋められて
  おり、風が吹くといたるところに白骨が現れ、見るに耐えな
  い」。

 1942年11月19日付けで日本海軍海南警備府参謀長と海南海軍特務部総監が連名で海軍省軍務局長などに出した文書(「海南警備府機密第40号ノ236」)に海南警備府が作製した「石碌鉱山開発状況調査書」(1942年11月)が添付されています。そこには、つぎのような記述があります。
   「開発開始以来十一月始迄ニ死亡セル者職員三十一名人
  夫実ニ四〇七六名ヲ算スルノ惨状ヲ呈シ十一月一日ニ於ケ
  ル総員数一四五四二名ニ対シ休業入院者四〇九八名ニ達シ
  居ルヲ見レバ広義ノ労務管理ガ如何ナル状況ニ在リシヤヲ
  窺知シ得ベク……」、
   「従来漫然ト一西松組ノミニ請負ハシメ而モ確固タル契
  約ヲ締結スルコトナク只西松組ノナスガ儘ニ放任シアリタ
  リ」。
                                  佐藤正人
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八所村で 2

2008年05月29日 | 海南島
 日本窒素海南興業総務部にいた河野司氏の編著『海南島石碌鉄山開発誌』(石碌鉄山開発誌刊行会、1974年)に、八所港とその周辺の地図が付けられており、その地図の「旧八所」の西に「捕虜収容所」の位置が示されています。
 わたしたちは、その地図のコピーを持って、今年4月11日に、東方市政治協商会議文史委員会を訪れ、「捕虜収容所」があった場所を訊ねましたが、はっきりさせることはできませんでした。わたしたちは、1998年からこれまで東方市に7回行き、「万人坑」や旧八所港跡や「朝鮮報国隊」の人びとの宿所跡を訪ねましたが、「捕虜収容所」跡は発見していませんでした。東方市政治協商会議文史委員会で聞いてもわからなかったので、翌日4月12日朝、旅館の前にいた三輪オートバイの運転手に聞きましたが、やはりわかりません。「むかしの八所(過去的八所)は、どこか」と聞くと、「東方市の市街地全体がそうだ」とのことでした。そのとき、「老八所」というコトバを思いつき、とりあえず、「老八所」に行ってみることにしました。
 三輪オートバイに乗って「老八所」に近づくと、なんどか訪ねた見覚えのあるなつかしい市場がありました。そこをとおり過ぎて、「老八所」の村委員会に行きました。ちょうど会議中でしたが、村委員の1人、符貴発さんが、むかしのことを知っている符路福さんの家(海南省東方市八所鎮八所村)に案内してくれました。
 在宅していた符路福さんは、わたしたちが訪問した目的を知ると笑顔で迎えてくれ、すぐに話を聞かせてもらうことができました。
 符路福さん(1924年生)は、つぎのように話しました。
     「むかし、日本軍は、外国人をたくさん捕まえてきた。
     村の南に収容所があった。当時、わたしたちは、あのあたり
    を“南辺坡”と呼んでいた。収容所の高さは3メートル半ほど
    で、屋根はスレートの瓦だった。敷地の周りに鉄条網がはり
    めぐらされていた。広さは、8ムー(5300平方メートル)ほど
    だったと思う。収容所には、200人あまりが入れられていた。
    ほとんどが英国人だった。インド人も少しいた。看守はみん
    な日本兵だった。
     日本兵は、捕虜が命令に従わないと、すぐに殴った。殴ら
    れて殺された人もいた。日本兵の殴りかたがあまりにひどい
    ので、見ていた人は泣いた。餓死した捕虜も多かったようだ。
     わたしたちの捕虜にたいする感情はとてもよかった。
     捕虜が働かされているのを見たことがある。鉄道を建設し
    たり、道路や排水路をつくったりしていた。しかし、直接手
    まねなどで交流することはできなかった。
     英国人が死んだ時には、なかまの英国人が埋めた。日本兵
    が、その英国人たちが逃げないように見張っていた。場所は、
    いまの八所村委員会の建物があるあたりだ。
     英国人捕虜の何十倍もの香港人が連れてこられた。香港人
    は、食べ物を少ししかもらえなかった。餓死した香港人が多
    かった。病気で死んだ香港人も多かった。身体が弱っている
    から香港人はすぐ死んだ。香港人はたくさん来たが、ほとん
    どが死んだ。村の西側の坡に遺体が捨てられた。そこを、村
    人は、“万人坑”と呼んでいる。そこには、日本軍の監視所
    があった。いまもその建物が残っている。病気になった香港
    人を、日本軍は、伝染を恐れてすぐに焼いた。まだ生きてい
    るのに焼かれた人もいた。火のなかからはいだしてきた香港
    人を見た村人がいた。
     もとの八所村は、もっと海の近くにあった。日本軍が来て、
    港をつくるからといってほかのところに移住させられた。ま
    もなく、そこからも移住させられて、ここに来た。
     朝鮮人を見たことがある。香港人と同じような仕事をさせ
    られていた。朝鮮人は香港人よりずっと少なかった。英国人
    よりは多かった。朝鮮人も餓死した。自分は朝鮮人だと言う
    人がいて、村人はかれらが朝鮮人だということを知った」。

 符路福さんから話を聞かせてもらったあと、符貴発さんに、捕虜収容所があったところへ案内してもらいました。
                                 佐藤正人
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八所村で 1

2008年05月28日 | 海南島
 海南島南部の楡林港を1941年12月4日に出港した日本軍は、12月8日午前1時半にマラヤのコタバルに奇襲上陸しました。このときアジア太平洋戦争が開始されました。1941年11月26日にエトロフ島ヒトカップ湾を出た「ハワイ作戦機動部隊」が、ハワイ島のパールハーバーを奇襲攻撃したのはその1時間あまり後でした。
 その9日後の12月17日にオーストラリア軍が、オランダの植民地とされていたインドネシアのアンボン島に上陸しました。翌1942年1月31日、日本軍がアンボン島に上陸し、2月1日~3日に、オランダ兵、オーストラリア兵を捕虜としました。
 このとき捕虜とされた兵士のうち、オランダ兵245人とオーストラリア兵263人は、1942年11月5日に、海南島西海岸の八所に連行されました。

 老欧村で死んだ2人のトラリア兵の「墓」のそばに建てられている碑の銅版には、つぎのようなことばが、漢語とイングランド語で書かれています(冒頭部の「1939年から1945年までの第二次世界戦争中に」というのは正確な記述でありませんが、原文のまま翻訳します)。
   「1939年から1945年までの第二次世界戦争中に、22000人を
  越すオーストラリア人の男性と女性が、日本の戦争捕虜とな
  った。その多くは、“シンガポール陥落”のさいに捕らえら
  れた人たちだが、オーストラリア北方諸島を防衛しようとす
  る連合軍の作戦が失敗したために捕らえられた人もいた。捕
  虜とされた人々は、未曾有の非人道的な残虐な扱いを受けた。
   1945年8月の日本敗戦時までに、3分の1以上のオーストラリ
  ア人捕虜が死亡した。中国海南島の東方市で死んだ人もい
  た。
   1942年はじめに、アンボン防衛中に捕らえられた2/21歩
  兵大隊所属のオーストラリア兵263人が、9か月後に、日本
  人の奴隷労働者として、海南島の八所港に輸送された。粗
  末な捕虜収容所が西海岸の八所に作られた。食べ物はいつ
  も乏しかった。多くの中国人が、死の危険をおかしながら、
  捕虜にひそかに食べ物を売った。
   オーストラリア人、オランダ人、インド人、そして何千人
  もの現地中国人労働者が、2年半の間、毎週7日酷使され、日
  本人のために軍事施設や経済施設を建設させられた。
   残虐な扱いに耐え切れず、何人かのオーストラリア人捕虜
  したものや武装した老欧村に隠れたものがいた。2人が病死し
  村人たちによって埋葬されたが、ほかのものの生死は不明で
  ある。
   すべての日本の戦争捕虜収容所で、残虐行為が行われ
  た。最も残虐なことのいくつかは、アンボンと海南島で行
  われた。海南島の中国人は、それよりもさらにひどい扱い
  をうけ、何千人もが記録されることなく消し去られた。ア
  ンボンで捕らえられたほぼ1100人のオーストラリア人の約
  70パーセントが、餓えや殴打や処刑によって日本人に殺さ
  れた。
   残虐な扱いを受けたが、オーストラリア人捕虜は、魂の
  自立性を失わなかった。しかし、多くのものは、身体にも
  心にも傷を負って故郷にもどった。
   中国とオーストラリアは、これらの人びとの犠牲を決し
  て忘れない。かれらはいつまでも両国を結びつづけるだろ
  う」。

 この碑は、2002年に、オーストラリアのダーウィン市議会が、東方市と海口市(ダーウィン市の姉妹都市)の協力のもとに建立したもので、同じ銅板がダーウィン市にも置かれているそうです。
 いまの東方市の地域は、中華民国期には感恩県と呼ばれており、その西海岸に八所という小さな村と小さな漁港がありました。
 1939年2月に日本軍が侵入し、東の石碌から鉄鉱石を運びだし、日本に輸送するために八所港を大型輸送船が停泊できる規模に改造しました。その八所港建設工事、石碌―八所間鉄道建設工事、石碌鉱山での採鉱作業などで日本軍と日本企業(日本窒素、西松組など)に酷使された人たちが、1万人ちかく、あるいはそれ以上、命を失わされました。
 いまの東方市は広大ですが、海岸近くに老八所と呼ばれている小さな八所村があります。そこに、オランダ兵捕虜とオーストラリア兵捕虜が入れられていた収容所がありました。
 わたしたちは、今年4月12日に、その八所村を訪ねました。
                                  佐藤正人
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ドキュメンタリー上映会のおしらせ

2008年05月23日 | ドキュメンタリー
   日本政府・日本軍・日本企業が海南島でおこなったことを明ら
   かにする3本のドキュメンタリーを、いっきょに上映します。

海南島近現代史研究会、コリアン・マイノリティ研究会共催
と き 2008年6月22日(日)午後2時から6時まで 午後1時半開場
ところ 大阪産業大学梅田サテライト(大阪駅前第3ビル19階)
資料代 1500円(冊子『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』など)
              学生・院生800円、高校生以下は無料です。

  上映後、制作者との話し合いを予定しています。

■『日本が占領した海南島で――60年まえは昨日のこと――』
               制作  紀州鉱山の真実を明らかにする会
                               2004年 65分
 1939年2月、日本軍が海南島に奇襲上陸しました。
 それから1945年8月までの6年半の間に、日本政府・日本軍・日本企業は、海南島各地で、村落を襲撃し、住民を虐殺し、資源を略奪し、労働を強制し、女性を軍隊性奴隷とするなどの侵略犯罪をくりかえしました。
 村を襲撃された海南島住民、植民地朝鮮の監獄から海南島へ連行され殺された「朝鮮報国隊」の人たち、アジアの各地から連行され酷使された人たち、軍隊性奴隷とされた人たち……にとって、日本政府・日本軍・日本企業による虐殺・暴行・略奪・人権侵害は、昨日のことです。
 このドキュメンタリーは、日本が占領した海南島でなにがあったのかを1998年から2004年までの6年間の「現地調査」によって報告するものです。
 アジア太平洋の民衆にとって,日本の侵略の時代は、反日・抗日闘争の時代でした。その時代は、全世界的規模で、まだ、終わっていません。

■『海南島月塘村虐殺』   制作 海南島近現代史研究会
                           2007年 41分
 沖縄戦のさなか、1945年5月2日(農暦3月21日)、の明け方、海南海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の日本兵は海南島万寧市万城鎮月塘村を襲い、4時間の間に、村人180人を殺害しました。
 1994年4月1日、月塘村の全村民は、犠牲者すべての名と傷を負いながらも生き残ることができた人たちの名を記した「月塘惨案受害者登記表」を添付して、「要求日本国政府賠償請願書」を中華人民共和国外交部にだしました。
 この文書で、月塘村の全村民は、「月塘村村民に国際社会に公開で謝罪すること、幸存者と犠牲者家族に賠償すること、月塘村に死者を追悼する記念館を建設し追悼式をおこうこと、焼失した家屋や強奪した財産を弁償すること」を日本政府に要求しました。
 月塘村虐殺をふくむ、日本占領下の海南島に住民虐殺の事実は隠され続けており、みどり児や幼児や妊婦をふくむ村人を殺傷した日本軍司令官の名も日本兵の名も明らかにされていません。
 このドキュメンタリーは、月塘村虐殺62年後、生き残った人びとの証言を、村人のみなさんの助けをかりて現場で記録したものです。
 ことしの農暦3月21日(4月26日)に、月塘村のひとびとは、犠牲者180人すべての名を刻んだ追悼碑を建立しました。

■『「朝鮮報国隊」』   制作 紀州鉱山の真実を明らかにする会
                               2008年 55分
 朝鮮人獄中者を海南島で強制労働させようとする日本海軍の要請に応じた朝鮮総督府は、朝鮮各地の刑務所から獄中者をあつめ、「朝鮮報国隊」を組織し、1943年春から海南島に送り出しました。これは、日本政府の閣議決定にもとづくものであり、当時の内閣総理大臣は東条英機でした。「朝鮮報国隊」にかんする日本政府・日本軍文書はほとんど公開されていません。
 約2000人の朝鮮人獄中者が海南島に連行されましたが、生きて朝鮮の故郷に戻ることのできた人は、わずかでした。
 海南島南部の「朝鮮村」と名づけられた黎族の村の人たちは、朝鮮人が虐殺されるのを目撃したと証言しています。「朝鮮村」には、いまも、多くの朝鮮人の遺骨が埋められています。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1998~2007年に、海南島、韓国、日本の各地で、「調査」をおこないました。
 このドキュメンタリーでは、目撃者の証言・虐殺現場・強制労働現場(飛行場、鉱山、鉄道、鉄橋、軍用道路、軍用洞窟、特攻艇格納庫)、生還者の証言、旧日本兵の証言などを記録するとともに、2006年5月に紀州鉱山の真実を明らかにする会が試みた初めての科学的な「朝鮮村発掘」にいたる過程を報告しています。

コリアン・マイノリティ研究会
     http://white.ap.teacup.com/korminor/
     TEL/FAX 06-6328-1073 090-9882-1663
海南島近現代史研究会
     http://www.hainanshi.org/
     大阪府大東市中垣内3 大阪産業大学斉藤日出治研究室
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老欧村で 4

2008年05月22日 | 海南島
 2人の墓地を離れ、ふたたび符天祥さんと村に戻り、2人がかくまわれていた所に案内してもらいまいました。
 そこは、秦さんの家でしたが、秦さんが数年前に亡くなり、空家になっていました。
 入り口に鍵がかけられていましたが、村人が入ってもいいというので、向かって左側の納屋の窓から入ってみました。その納屋に2人はかくまわれていたそうです。15平方メートルほどの広さでした。
集まってきた村人たちは、誰もが、墓地には、いまも遺体が埋められていると言っていました。
 当時のことを知っている高昌隆さんが近くに住んでいるというので、符天祥さんに連れていってもらいました。
 高昌隆さんは留守でしたが、家の人が、近くにいると言って呼びにいってくれました。
 まもなくしっかりした足どりでやってきた高昌隆さんは、「海南島で消えた豪州兵の捜索」に「村の元幹部のガオ・チャンロン」と書かれている人でした。
 自宅の庭で、高昌隆さん(1927年生)は、つぎのように話しました。
    「1939年農暦9月5日に日本軍が村を襲ってきたとき、わ
   たしは12歳で、児童団の団員で、見張りの役をしていた。
    あの日、日本軍は村に入ってきて、家をぜんぶ焼き、牛
   や豚やたくさんの物をぜんぶ奪った。村人48人が殺され
   た。あのとき日本軍は捕まえた村人を、村の東にあった
   大きなガジュマルの樹の所に集めて銃剣で刺し殺した。
   わたしの両親は、山に逃げて助かった。
    1944年に、八所にいた2人のオーストラリア人が、羅
   帯の方から人に連れられて村にやってきた。村人はみん
   なで2人の世話をし、食べものを運んだり、着るものを
   あげたりした。日本軍の飛行機が飛んできたことがあ
   った。2人は、味方の飛行機が来たと喜んだが、違っ
   た。ことばは通じなかったが、手まねで分かりあった。
   2人は2、3か月村で暮らしたが、水や食べものが合わ
   ず、蚊に刺されて熱をだし、下痢をして死んでしま
   った。
    日本軍に知られないように、村はずれに、村人み
   んなで埋めた」。
  
 そばで話を聞いていた高昌隆さんの妻、秦成姨さん(1929年生)は、
    「1939年に日本軍が村に来た時、わたしは山に
   逃げた。樹の葉で、身体を隠した。 
    そのあと何年かたって村にイギリス兵が2人き
   た。1人は背がとても高かった。まもなく2人とも
   死んでしまった」
と話しました。
 ここでも、集まってきた村人たちは、誰もが、墓地には、いまも2人の遺体が埋められていると言っていました。

 話を聞きおわるころには陽がほとんど落ちていました。
 おおぜいの村人に見送られて、三輪オートバイで八所に向かいました。
 20分ほどですっかり暗くなり、対向車のほとんどない道を10数匹の子豚をつれた母豚が歩いている姿が、オートバイの淡い光に照らしだされました。
                                 佐藤正人
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老欧村で 3

2008年05月21日 | 海南島
 雑貨店前の広い道から村内の小道に入って300メートルほど行った所が、符天祥さんの家でした。
 符天祥さんは、ちょうど庭で農作業をしていましたが、わたしたちがとつぜん訪問したわけを話すとすぐに理解してくれ、時間をさいてくれました。
 7年前の「海南島で消えた豪州兵の捜索」に75歳と書かれていますが、82歳には見えないので聞くと、符天祥さんは、いま73歳(1934年生)だとのことでした。
 「海南島で消えた豪州兵の捜索」の記述は細部があまり正確ではないようです。
 自宅前の作業場で、符天祥さんはつぎのように話しました。
    「1939年農暦8月28日に、北黎にいた日本軍が、はじめて
   老欧村に来た。
    このとき日本軍は村の中まで入らないで北黎に戻った。北
   黎に日本軍の司令部があった。
    5日後、農暦9月5日に日本軍がまた来た。日本軍は、朝8
   時に村を包囲し、11時か12時ころまで、攻撃を続けたが、村
   の中に入ってこられなかった。当時、村の周りに壕が掘って
   あった。午後、奸漢といっしょに村に入ってきた日本軍は、
   村人をたくさん殺した。
    それから何年もたったある日、英国人捕虜2人が、村に来
   た。あのときは、英国人だと思っていたが、あとからオース
   トラリア人だということがわかった。2人を連れてきたのは
   抗日軍だった。抗日軍の指導者が2人をかくまってくれとい
   うので、村でかくまうことにした。
    ある人の納屋に住んでもらうことにし、食事を運んだ。し
   かし、2人とも弱っており、あまり食べなかった。わたした
   ちが食べる物を食べなかった。まもなく病気になった。村
   には病院がなかった。薬草を煎じて飲ませたが、死んでし
   まった。遺体を、村のはずれに埋めた。
    何年か前に、オーストラリア政府の人と東方市外事部の
   人たちが来て、墓のそばに記念碑を建てた」。

 すべてをビデオカメラで撮影しながら1時間ほど証言を聞かせてもらったあと、符天祥さんに2人のオーストラリア兵の墓に連れていってもらいました。
 100平方メートルほどの敷地の真ん中に墓があり、その横に2002年に建てられた追悼碑がありました。50センチほどの台座のうえに、幅2メートルあまり、高さ1メートル半ほどの楕円形の石が置かれ、「海鴎支隊紀念碑 1942-1945 澳大利亜与中国」、「GULL FORCE 1942-1945 Australia and China」という文字と説明文と捕虜収容所に位置を示すアジア太平洋地図が書かれた銅板がはめこまれていました。
 敷地の入り口には、樹の枝を組み合わせた門があり、その前に、「中澳友誼紀念碑 敬請各村民愛護」と書かれた石板が立てられていました。そこから追悼碑まで幅2メートルほど、長さ10メートルあまりの舗装された道がつくられていました。その道のそばの赤い花が満開でした。

 1942年11月5日に海南島西海岸の八所に、日本軍捕虜とされたオーストラリア兵263人、オランダ兵245人が上陸しました。そのオーストラリア兵の1人、トム・プレッジャーさんの日記の日本語訳を、つぎのウェブサイトで見ることができます。
      http://members.ozemail.com.au/~pledgerp/jplepow.htm
 その1944年4月8日の部分には、つぎのように書かれています。
    「日本人の見張りと20人の我々の仲間が、トラックで丘陵
   地帯に労役のために出かけていったところを、ゲリラに襲わ
   れ9人が殺され、10人が捕らわれ行方が分からなくなり、5人
   は無事だった。
    死亡:ギルダー軍曹、コーネル兵士、クラクストン兵士、
      ラッセル・タルボット兵士、ダイヤー兵士、ウォー
      トン兵士、アームストロング兵士、マッケンジー兵士、
      ハイムズ兵士 。
    行方不明:ヤングベリー伍長、デイビッドソン伍長、スタ
      ッフォード兵士、ホーキング兵士、ストークス兵士、
      リンチ兵士、ヘインズ兵士、ラットクリフ兵士、スト
      ルース兵士、チェインスワース兵士」。

 このとき「行方不明」となった10人のうちの2人が、老欧村にかくまわれ、そこで病死しました。
                                佐藤正人
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老欧村で 2

2008年05月20日 | 海南島
 ことし、4月10日、わたしたちは、POW研究会の西里扶甬子さんといっしょに老欧村を訪ねました。西里扶甬子さんは、海南島につれてこられたイギリス軍、オーストラリア軍、USA軍、オランダ軍などの戦争捕虜について「調査」するために、4月6日から、はじめて海南島に来ていました。

 海南島における「連合軍捕虜」にかんする日本軍文書はほとんど公開されていませんが、「海南警備府海南部隊命令11号」には、「第15警備隊司令及横須賀鎮守府第4特別陸戦隊司令ハ各所管内ニ於ケル白人俘虜ノ取締並ニ同収容所ノ管理ニ任ズベシ」(1942年5月30日、海南警備府司令長官砂川兼雄)と書かれています。
 また、「海南警備府海南部隊命令11号」の翌日、同じく海南警備府司令長官砂川兼雄の名でだされた「海南警備府俘虜取締細則(海南警備府法令第8号、1942年5月31日)には、「俘虜不従順ノ行為アルトキハ仮借スルコトナク厳重ニ之ヲ処罰シ……」と書かれています。
 1942年5月18日付の「海南警備府命令」(機密海南警備府命令第9号)には、「香港総督部ヨリ三亜ヘ移送スベキ印度人俘虜300名ノ輸送警戒」が三亜の第16警備隊に対して命令されています。
 これらによると、「白人俘虜」の管轄は海口の第15警備隊と八所の横須賀鎮守府第4特別陸戦隊であり、「印度人俘虜」の管轄は三亜の第16警備隊であったようです。
 三亜周辺で、インド人(ベンガル人)が労働者の監督をしていたという証言をなんどか聞いたことがあります。「印度人特別教育訓練実施要領」(機密海南部隊命令第23号別紙)という文書が残っています。

 「海南島で消えた豪州兵の捜索」には「海南島の西海岸にある共産ゲリラの拠点だった孤村ラオ・オー」と書かれていましたが、老欧村は、西海岸から8キロほど東に入った平地にありました。捕虜収容所があった八所村から直線で南東15キロほどです。老欧村の2キロ南に長坡村があります。
 横須賀鎮守府第四特別陸戦隊の1945年5月10日付け軍極秘文書「感恩県長坡村附近討伐戦」(「横鎮四特戦闘詳報」第6号)には、長坡地域の「治安ノ確立」のために、1945年4月20日に、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊第二大隊第二警備中隊(中隊長:海軍少尉久保田金蔵)の日本兵・海軍巡査・通訳146人が、軽迫撃砲などで長坡村を襲撃し「徹底的」に破壊したと書かれてあります。
 わたしたちは、この戦争犯罪記録のコピーをもって、2年まえの2006年4月1日に、長坡村を訪ねました。そのとき、自宅で、李文揚さん(1925年生。黎族)は、つぎのように話しました(写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』26頁を見てください)。
    「日本兵は、男も女も、銃剣をつきさした。きれいな女性
   がいたら、連れていって強姦した。日本兵は何回も来た。来
   るたびに、悪いことをした。36人、殺された。
    わたしは、当時15歳くらい。日本軍は、多いとき、漢奸
   もいれて100人くらい、来た。少ないときで、40人くらい。
    村のまわりに、濠をつくった。
    はじめて戦ったときは、日本軍に勝った。日本軍は1週間
   後にまた来た。機関銃を使った。年寄りや子どもはみんな逃
   げた。
    村全体が焼かれたのだ。日本はかならず賠償しなければな
   らない」。

 東方市(前、東方黎族自治県)の中心部から三輪オートバイで、羅帯鎮を経由して、1時間あまりで老欧村に着きました。村内の小さな雑貨店で聞くと、当時のことを知っている符天祥さんが近くに住んでいると言って案内してくれました。
 「海南島で消えた豪州兵の捜索」に「フー・ティェンシャンは、2人の豪州兵が自分の村に連れて来られるのを見たことを覚えている」と書かれていましたが、そのフー・ティェンシャンさんは、符天祥さん(1934年生)のことでした。
                                  佐藤正人
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老欧村で 1

2008年05月19日 | 海南島
 POW(戦争捕虜)研究会の笹本妙子さんによると、横浜保土ヶ谷区にある英連邦戦死者墓地のオーストラリア区に、海南島で死亡したオーストラリア人捕虜71人が埋葬されており、その氏名がすべて明らかになっているとのことです。 
 メルボルンで発行されている新聞『The Age 』(2001年4月24日号)に掲載された John Shauble,“The search for the lost diggers of Hainan”の訳文(「海南島で消えた豪州兵の捜索」笹本妙子訳)を、ことし2月はじめに送ってもらいました。
そこには、つぎのように書かれていました。
    「海南島の西海岸にある孤村ラオ・オーへの埃っぽい道は、
   ユーカリの木々の香しい匂いに満ちていた。60年前に中国南
   部の島でその生を終えた2人の豪州兵は、それらが好きだっ
   たことだろう」、
    「捕虜たちは、1942年2月にオランダ領インドのアンボン
   島で捕まったり殺されたりした1150人の豪州兵の分遣隊、ガ
   ル部隊の一部だった」、
    「1944年4月8日土曜日、彼らが日本の衛兵の管理下で働
   いていた時、オーストラリア海南分遣隊の24人のグループ
   がバンボンに向かう途中、バスオ港の収容所から北に数キ
   ロ離れた所で、100人の中国人ゲリラに襲撃された。
    ゲリラが共産軍だったか国民軍だったかははっきりしな
   い。9人の豪州兵が即座に殺され、5人は収容所に連れ戻さ
   れ、10人は行方不明となった。
    ラオ・オーは、島の共産ゲリラの拠点だった。フー・チ
   ャン・シャン(75歳)は、2人の豪州兵――10人の行方不
   明者の一部と思われる――が自分の村に連れて来られるの
   を見たことを覚えている」、
    「彼らを忘れていなかったもう1人の人物は、シン・リ
   シンというシナリオライターで、ドンフェン文学美術協会
   の会長だった。彼が書いたラオ・オーの2人の兵士の物語は、
   ‘感謝祭の場所’というタイトルでテレビのミニシリーズ
   に作られ、1996年に中国のテレビで放送された。シンの調
   査によれば、ラオ・オー村は、2人のオーストラリア人を匿
   っていると見なされ、そのゲリラ活動への報復として日本
   軍の残酷な攻撃を受けた。1度の攻撃で、48人の村人が殺さ
   れ、100軒以上の家が破壊された」。
    「解放からちょうど1年後に、彼らはマラリアで死んだ。
   “彼らが何という名前か、誰も知らない”と、村の元幹部
   のガオ・チャン・ロンは語る」、
    「2人の豪州兵の墓は今も見ることができる。……骨は、
   1980年代半ばに始まったオーストラリア陸軍の調査の後に
   掘り起こされた」、
    「クィン・ジー・ホァンは、かつて捕虜たちが匿われ、
   今は廃屋となった家を開け、彼らが寝ていた薄汚れた部屋
   を指さした。“彼らは日中は村から出ていったが、またこ
   こに戻って食事し、眠った”」。

 わたしたちは、ここに書かれているラオ・オー(Lao Ou)は、老欧村だと判断しました。
 わたしたちは、冊子『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』(2005年5月)の裏表紙と写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(2007年2月)表紙裏の地図「抗日軍根拠地位置(1943年・1945年)と日本軍による住民虐殺現場位置」に、「老欧村 48人 1939,10,17」と書き入れました。これは、1995年8月に出版された海南省政協文史資料委員会編 『海南文史資料』11(『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』下)に掲載されている邢力新「日軍侵占昌感后的第一樁血案」(呉陸栄編集)に依拠したものです。同書巻末の年表(黄纘文「日軍侵瓊記事」)にも、「1939年10月17日 明け方5時、500人以上の日本兵が昌感老欧村に侵攻し、それを阻止しようとした抗日部隊の隊伍を突破し、村人48人を殺害し、家100軒あまりを焼き、牛や羊や財産をことごとく奪った」と書かれています。

 「日軍侵占昌感后的第一樁血案」には、つぎのように書かれています(要旨)。ここには、1939年農暦9月5日(10月17日)のことしか書かれていません。
   「1939年農暦9月5日、海南島侵略日本軍駐北黎横須賀第四
   特別陸戦隊司令部は、昌感県の抗日民主根拠地老欧村(現
   羅帯郷老欧村)に軍隊を派遣し包囲し、老欧村の村人を殺
   戮した。
    この日未明5時ころ、500人以上の日本兵が、迫撃砲、重
   機関銃、軽機関銃で村を襲った。
    大きな柵をつくり豪を掘って守っていた20人以上の青年
   抗日隊が、長銃などで反撃した。戦闘は激烈だった。多く
   の村人が、敵の砲撃のなかを、青年抗日隊に水、食料、弾
   丸を運んだ。青年抗日隊と村人は一体となって敵の侵入を
   阻止した。
    日本軍は、人質を捕らえて脅し、南方の裏道から村に入
   る道を案内させた。このことを知った青年抗日隊は、山奥
   の原始林に撤退した。村人も、山に逃げた。逃げ遅れた村
   人は、以前からつくっておいた土の穴に隠れた。
    日本軍が入ってきたとき、村には人影はなかった。日本
   軍は、家に放火した。日本軍についてきた漢奸が、“早く
   火を消せ”と叫んで、土の穴に隠れていた村人を誘きだし
   た。……
    日本軍は、村内や山林をくまなく捜索した。……1日の
   間に、村人48人が殺された。
    このあと、老欧村の村人は、この日を“忌日”とし、毎
   年、この日には殺生せず、笑わず、死者を悼んでいる」。

 「日軍侵占昌感后的第一樁血案」の筆者邢力新さんは、中国人民政治協商会議海南省東方黎族自治県委員会文史組編『東方文史』第4輯(1988年4月)に、「黒眉反撃戦」を書いています。「海南島で消えた豪州兵の捜索」で「シン・リシン(Xing Lixin)というシナリオライター」と書かれている人は、邢力新(Xing Lixin)さんだと思われます。ことし4月11日に東方市政治協商会議文史委員会で聞いたら、邢力新さんは、数年まえに亡くなられたとのことでした。
                                佐藤正人
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「口述史」について 6

2008年05月18日 | 海南島
 証言者の証言は、そのすべてがそのまま史実の証拠であることは、ほとんどないでしょう。証言(口述史料)もまた文書史料とおなじく、史料批判しなければなりません。
 証言を聞きとるときには、できるだけその「場」でその信憑性を確かめることが必要です。
 証言を聞かせてもらうということは、証言者の記憶をコトバで語ってもらうことです。
 「記憶の継承」、「記憶の共同体」などという用語をつかう人がいますが、他者の記憶は継承することはできません。「記憶の継承」とか「戦争記憶の継承」などと言う人に、具体的に、記憶を継承する方法を示してもらいたいと思います。とくに、「戦争記憶の継承」などと言う日本人「学者」などには、住民虐殺を実行した日本兵の記憶を、どのように実際に継承するのかを論理的。実証的に示すとともに、日本兵に親や兄弟姉妹を殺された人たちの記憶を継承するなどとどうして言うことができるのかを問いたいと思います。
 これらの日本人「学者」は、少女のとき日本軍隊性奴隷とされた女性たちの「記憶」を「継承」できると本気で考えているのでしょうか。これらの日本人インテリは、「戦争記憶の継承」、「戦争の記憶の継承」、「戦争の記憶の受け継ぎ」、「記憶の共同体」、「集合的記憶としての戦争の記憶」、「戦争記憶・天皇記憶の管理と再編成」などというコトバを使うことの悪質さと空疎さを自覚できないのでしょうか。
 加害者の記憶も被害者の記憶も、記憶は継承することはできません。人の記憶の内容は、声、顔や手の表情、身振り、文字や絵、音などによって、その一部を他者が知ることはできるかもしれませんが、人の記憶を他者がそのまま継承することはできません。「戦争記憶の継承」などという用語をつかう日本人「学者」は、加害者と被害者の記憶をゴッチャにして、日本人の加害責任をあいまいにし、論理的・実践的に不可能なことを提唱しています。
 コトバや身振りなどによって表現された人の記憶は、文字や映像などによって記録されてはじめて、史料となります。それを、わたしは口述史料と呼ぶことにしていますが、その史料批判は、記録する段階からはじめなければなりません。
 わたし自身の記憶もそうですが、あることがらにかんする記憶は、そのことがらについて他者に語っているときに鮮明度が増し、おもい違いに気づくことがあります。
 聞きてが、証言内容の正確度を高めうる発問を慎重におこなうことは、証言を記録する段階における史料批判のひとつの方法だと思います。
 証言→発問→証言→発問→証言……の過程で、わたしたちは、思いがけない事実を 知らされることが、なんどもありました。
 証言の内容を、証言を聞いた瞬間に即時に理解するためには、証言されている世界にかんする知識が必要です。たとえば、証言者がある地名に言及したとき、その位置だけでなくその地の地形などをおおまかにでも知っていなければ、証言内容を的確に理解できないことがあります。
 わたしたちは、海南島で聞きとをはじめてからの数年間、海南島に侵入して侵略犯罪をくりかえした旧日本海軍の関係文書(『海南警備府戦時日誌』・『海南警備府戦闘詳報』ほか)などを徹底的に読みこみ、海南島での聞きとりに備えました。そして、その過程で得た知識をもとにして聞きとりをすすめました。
 たとえば、感恩鎮高園村を訪問するまえに、わたしたちは、あらかじめ横須賀鎮守府第四特別陸戦隊の「感恩県高園村附近討伐戦戦闘詳報」を点検しました。そこには、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊嶺頭分遣隊の海軍少尉太田良知ら43人が、1945年5月22日未明から高園村地域を襲撃し、「高園村三0戸全部焼却ス」と、書かれていました。
 高園村の自宅で、わたしたちは、周亜華さん(1921年生)と妻の王亜娘さん(1920年生)と近くに住む林秋華さん(1916年生)に話を聞かせてもらいました(写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』38、39頁)を見てください)。そのとき、周亜華さん(1921年生)は、つぎのように話しました。
    「日本軍はここに来て家を壊して、火をつけた。にわと
    りや豚や牛を奪い、女性を強姦した。
     村びとを道路工事に行かせた。行きたくないといった
    ら、殴った。石碌鉱山に送られた人もいた。病気になっ
    て仕事ができなくなったら、焼かれた。
     共産党の張應煥が、よくこの村に来て泊まった。もし
    共産党の組織がなければどうなるか、といって、共産党
    に入るように誘った。仕事を積極的にする人、秘密を守
    れる人は、地下組織に入ることができるといった。
     わたしが地下党員になったのは、18歳ころ。張應煥
    は、30歳代だった。
     嶺頭で日本軍と戦ったことがあった。火薬銃で。火薬
    銃は先祖から伝わったもの。村の人はほとんど持ってい
    た。火縄銃がなかったら、弓で戦った。小さい弓、太い
    弓。太いのは、腕くらいの太さ。弓は、いのししを捕ま
    えたりするのにみんな持っていた。
     わたしが共産党に入ったことは、妻も子ども知らなか
    った。共産党に加入したら、党費を納めなくてはいけな
    い。金がなくて、マッチを党費として納めた。
     張應煥は、非常に勇気がある人だった。戦場では勇ま
    しかったが、部下にはやさしかった。
     黒眉村と高園村は、革命根拠地。この戦闘に民兵は全
    員が参加した」。

 周亜華さん(1921年生)が革命根拠地だったと話した黒眉村は、高園村から直線距離で南3キロのところにあります。
 わたちたちは、高園村を訪ね翌日、黒眉村の自宅で、邢亜响さん(1923年生)から話を聞かせてもらうことができました(写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』40頁を見てください)。
 黒眉村での戦いにかんしては、程昭星「英雄抗撃日本侵略者的黒眉村黎族人民」(中共海南省委党史研究室編『瓊崖抗日英雄譜』海南出版社、1995年)、邢力新「黒眉反撃戦」(中国人民政治協商会議海南省東方黎族自治県委員会文史組編『東方文史』第4輯、1988年。海南省政協文史資料委員会編『海南文史』第20輯〈紀念中国人民抗日戦争曁世界反法西斯戦争勝利60周年〉、海南出版社、2005年に再録)などがあります。

 口述史料批判を、文書史料批判、文献資料点検とともに行うことによって、証言、文書、文献それぞれの信憑性を確かめることができます。
                                 佐藤正人
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