三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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2016年春、海南島で 8

2016年04月30日 | 海南島近現代史研究会
 きょう(4月30日)午前9時から3時間近く、霍宝珍董事長ら南海出版公司のみなさんと話しあいました。
 わたしたちが1998年6月からおこなってきた海南島「現地調査」は、今回で29回目であり、ことし秋に30回目になります。この30回の「現地調査」の全記録と報告を、来年9月までに南海出版公司から発行する準備をすすめることになりました。

 午後、海口市三江鎮闘門村に行きました。闘門村は、1942年1月17日に共産党軍と国民党軍が戦闘し、国民党軍の保安第七団団長の李春農さんが死亡した地域です。楊慈順さん(1929年生)に当時のことを話してもらいました(闘門での戦闘や李春農さんについては、このブログの2015年5月20日、5月22日、5月28日の「1942年1月の「大水戦闘」について」4、5、8をみてください)。

                              佐藤正人
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2016年春、海南島で 7

2016年04月29日 | 海南島近現代史研究会
 きょう(4月29日)、瓊中黎族苗族自治県南東の和平鎮に行き、国民党の王毅瓊崖守備隊司令官(1900年~1949年)が書いたとされる“唯戦能存”という文字が刻まれている乘坡河の浅瀬にある大石をみました。
 その後、万寧市内に向かいましたが、万寧市長豊鎮に近づいたとき、警官隊に道を塞がれました。前方に大勢の人が集まっているのがみえました。
 わたしたちは、道を引き返し、大きく迂回して万寧市内に入りました。
 あとで知ったのですが、長豊鎮ではゴミ焼却発電所に反対する住民の抗議運動が続けられており、4月25日には暴力的に弾圧され、負傷した人が多かったようです。

 ひるころ万寧市内にはいり、蔡徳佳さんに会いました(蔡徳佳さんについては、このブログの2008年06月28日の「文字・絵・音・声・映像 8」、2013年7月10日の「日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 4」、2015年11月22日の「万寧市万城鎮月塘村、文昌市文城鎮南陽老王村で」などをみてください)。
 夕刻、王昭成さんと話し合いました。わたしたちが王昭成さんにはじめて出会ったのは2012年3月18日でした(このブログの2013年4月7日~13日の「雷鳴鎮で」1~7をみてください)。

                                 佐藤正人


http://hnrb.hinews.cn/html/2015-09/07/content_4_2.htm
『海南日报』 2015年9月7日 本报营根9月6日电  
                   记者王培琳 特约记者黎大辉 通讯员王丽娟
■抗战期间刻石明志鼓舞士气
 王毅将军“唯战能存”题刻成旅游景点
  记者今天看到琼中黎族苗族自治县和平镇乘坡河的一块巨石上,清晰地刻着遒劲的“唯战能存”4个红色大字。这是抗日战争时期,原国民党陆军中将王毅为鼓励士气于1944年5月题刻的,以表示他的抗战决心。据悉,这是海南少见的王毅题刻。题刻的巨石现在已成为琼中的旅游景点,最近有不少游客到乘坡河观看“唯战能存”的题刻。
  琼中党史县志办退休干部谢晋颀介绍,王毅是澄迈县文儒乡排坡园村人,出生于1900年。抗日战争爆发后,王毅将军作为海南最高军政长官,在国家民族生死危亡的紧急关头,抱定正义必胜、唯战能存的信心坚持抗战。根据有关史料记载,1939年2月,日军大举进犯海南。孤悬海外的海南,在特殊的地理环境下,物资补给、兵力援,都较内地各战场相对困难。面对凶残的日本侵略军,王毅指挥作战的琼崖保安军配备极为简陋,力量明显单薄,被迫一路从海口撤往当时的定安翰林地区、南闾鸭塘上艾,以及琼中的乘坡等地,他不畏艰苦与战士们坚持拼力抗日。为了将抗战进行到底,他对士兵反复强调“唯战能存”,指出“唯战能存”是全琼崖抗日的基本方针。在乘坡河巨石上题刻“唯战能存”4个大字,彰显他抗日的决心。


http://www.hainan.gov.cn/tiandata-rdjy--5878.html
「海南省人民政府网」 2016-01-27
■关于将琼中和平镇乘坡河石臼群列为省级地质公园保护区的建议
  近年来,琼中开发了红毛镇什寒美丽乡村、湾岭镇鸭坡红色乡村等多个旅游路线,建立了琼中“奔格内”乡村旅游品牌。实际上,琼中还保持着不少原始风貌的自然奇观,尚未深入的进行旅游开发,和平镇乘坡河石臼群就是其中之一。乘坡河石臼群坐落在牛路岭水库上游琼中乘坡河西岸,即和平镇政府大院东面200米处,该河段河床上分布着长约1000米,宽约300米的石臼群,这是我国乃至全世界都罕见的地质奇观,其石臼群数量之多,规模之大,造型之绝妙,水流之变幻,令人叹为观止。近年来,石臼群的美景让更多游客慕名而来,但与此同时,对石臼群的破坏也日益凸显。河岸边生活垃圾随着的雨水的冲击,或被水冲进石臼里或漂流在河面上,污染河道;石臼群中,还有凿取花岗岩石材的痕迹;河中原国民党陆军中将王毅为鼓励士气于1944年5月题刻的“唯战能存”的巨石的右上角也被敲掉一块。加大对石臼群景观的开发与保护迫在眉睫。因此,建议省政府将琼中和平镇乘坡河石臼群列为省级地质公园保护区。

一、将琼中和平镇乘坡河石臼群列为省级地质公园保护区的优势
  乘坡河石臼群是典型的石臼地质遗迹,是普及地质知识的最好殿堂。乘坡河石臼群,在地貌学的科学分类上,属于水磨石臼群,主要是在强大的水动力条件下,水流对岩石的构造裂隙或岩石的较软部位,历经几十万年甚至几百万年磨蚀而成的。从河流西岸行走观看,形态各异、巧夺天工的石臼比比皆是,有的像圆盘子,有的像是大水缸,有的像农夫的一只大脚丫,有的像一把耕地的犁头,还有的像一朵盛开的大莲花。在东岸最高处的一块巨石上,横向阴刻有“唯战能存”四个行体大字,是抗战时期国民党琼崖守备司令王毅所书。乘坡河石臼群景观融山、石、崖、河流为一体,景致丰富多彩,组合为一幅天然的绚丽画卷。乘坡河石臼群拥有着稀有的自然属性,是特色生态旅游资源,具有较高的科研和科普价值,随着横跨乘坡河,连接和平镇镇墟与堑对村的乘坡二桥项目的启动,把琼中和平镇乘坡河石臼群列为省级地质公园保护区也将带动琼中休闲农业与乡村旅游的发展,为琼中带来一定的经济效益。

二、建议
  建议省政府有关部门从保护石臼群的角度出发将琼中和平镇乘坡河石臼群列为省级地质公园保护区,组织专家论证,提出科学的保护、开发、利用方案,确立建设和保护的主体责任,使乘坡河石臼群珍贵的、不可再生的地质遗迹资源更好地得到保护。同时,以乘坡河石臼群为主线,在充分考虑保护自然资源的前提下,聘请有资质的专业公司对琼中乘坡河石臼群沿岸的景观栈道进行规划设计,将河景、山景、青砖黛瓦、炊烟袅袅收入眼底,形成一幅生机盎然的美丽自然画卷。
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2016年春、海南島で 6

2016年04月28日 | 海南島近現代史研究会
 きょう(4月28日)は、朝から夕刻まで瓊中黎族苗族自治県の紅毛地区を回りました。
 海南省政協文史資料委員会編『海南文史資料』13(『鉄蹄下的腥風血雨 日軍侵瓊暴行実録』続、1996年8月)に「憶日軍在紅毛地区的暴行」(王業清口述,馮海雄整理)が掲載されています。そこには、1941年12月19日から3日間、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の日本兵が、紅毛地区の什托、冲也、什寒、打頭、什括上、毛西、芳响、牙模、冲也摸など9か村と紅毛郷公所を襲撃したと書かれています。
 毛西村は昨日訪ね、きょうは、牙寒村(共建村)、什寒村、什托村、冲沙村、元也村を訪ねました。牙寒村(共建村)では王玉欽さん(1927年生)に長時間、くわしく話しを聞かせてもらうことができました。

                              佐藤正人
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2016年春、海南島で 5

2016年04月27日 | 海南島近現代史研究会
 きょう(4月27日)朝8時40分に楽東民族中学を訪問しました。林睿校長が出迎えてくれました。
 楽東民族中学では、2014年3月21日から屋外展示「日本侵略海南歴史図片展」(海南省楽東県民族中学制作、海南島近現代史研究会協助)が開催されていました。
 わたしたちは、その展示が開始されてから3日後の2014年3月24日に楽東民族中学を訪問し、展示を見にきていた学生たちと交流しました(『海南島近現代史研究』第4号・第5号、89~90頁をみてください)。
 2年前に始められた展示のパネルが風雨にさらされながら、いまも継続されていました。一部分が傷んではいましたが。
 
 午前10時半ころ楽東黎族自治県西端の万冲鎮に着きました。ここには日本軍侵略期に日本海軍横須賀第4特別陸戦隊万冲守備隊が駐屯していました。
 わたしたちは、2014年3月23日の夕刻に万冲を訪問し、王永光さん(80歳)に話を聞かせてもらったことがありました(『海南島近現代史研究』第4号・第5号、89頁をみてください)。このときには時間がなかったので万冲守備隊の兵舎や望楼の跡をくわしく調査できませんでした。
 万冲守備隊本部があったところは、万冲中学校の敷地のなかにありました。
 日本軍の兵舎や望楼があった場所のすぐ近くには、当時もあった大きな榕樹が立っていました。
 中学校の守衛をしている陳丕毅さん(1963年生)は、その樹にしばしば日本兵は人を吊るして殺したと言い、そのときに太い枝にとりつけた金属の輪の位置を指さしてくれました。その金属の輪は、樹の枝にくいこんで残っていました。陳丕毅さんさんは2子どものとき、日本軍侵略期のことを大人から教えられたそうです。
 午後1時過ぎに、張献祥さん(1928年生)に話しを聞かせてもらうことができました。

 午後2時半ころ万冲を離れ、西に進み、五指山市番陽鎮・毛陽鎮を経由して瓊中黎族苗族自治県に入り、白沙起義紀念碑のあるところに4時ころ着きました。
 その後、紅毛鎮毛西村で王愛文さん(95歳)に話を聞かせてもらいました。
  
                                    佐藤正人
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2016年春、海南島で 4

2016年04月26日 | 海南島近現代史研究会
 きょう(4月26日)、朝、重合村の符介育敗さんの家を訪ねました。
 符介育敗さんの娘さん(符育拝さん)、お孫さん、弔問に来ていた符永令さん(82歳)に話を聞かせてもらいました。
 別れぎわに、お孫さんが裏庭の石榴の樹に上り、石榴の実をとってくれました。
 
 その後、七叉鎮文化会館、七叉鎮人民政府、七叉鎮小学校を訪ねてから、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊重合守備隊本部跡に行きました。望楼のあった小高い所に、レンガが残っていました。

 七叉鎮には、大きな鍾乳洞がいくつもあります。昼過ぎに、そのひとつ革命洞(愛情洞)に行きました。
 奥行150メートルほどで内部の高いところは20メートルほどのいりくんだ鍾乳洞で、抗日戦争期に共産党軍が隠れていたことがあったので革命洞と呼ばれるようになったようです。

 午後1時ころ南部に向かい、2時半ころ東方市東河鎮広壩(広坝)村に着きました。
 わたしたちは、この村をこれまで2回訪ねたことがあります。1度目は、14年前の2002年春、2度目は2003年夏でした(紀州鉱山の真実を明らかにする会編『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』2005年5月、16頁、および紀州鉱山の真実を明らかにする会制作『〈写真集〉日本の海南島侵略と抗日反日闘争』2007年2月、69頁をみてください)。
 鉄鉱石を略奪するために石碌山地に侵入した日本窒素は、ここ(昌化江下流域)に発電所を建設しました。広壩(広坝)は、「大きなダム」という意味で、この村の名は、日本人がここにダムを建設した時期につけられたのだと思われます。
 3度目に行った旧石碌発電所の水路、貯水池跡は、10年あまり前よりかなり崩れていましたが、発電機の土台は原型のまま残っていました。

 夕刻、広壩村を離れ、東方市江辺をとおり、楽東黎族自治県抱由に着いたのは午後8時過ぎでした。

                                      佐藤正人
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2016年春、海南島で 3

2016年04月25日 | 海南島近現代史研究会
 きょう(4月25日)、七叉鎮の村や山を巡りました。
 夕刻、前日に約束していた符介育敗さんに会おうとして、重合村の家の近くまで行くと、大勢の人が集まっていました。
 聞くと、符介育敗さんは、朝、突然、亡くなられ、遺体は埋められたとのことでした。
 家の前の広場では、100人あまりの人たちが、追慕の食事会をしていました。
 符介育敗さんの子どもさんやお孫さんに聞くと、前日夜、符介育敗さんは薬を飲み、明け方体調が崩れ、早朝病院に行く途中、車のなかで急死したとのことでした。符介育敗さんは1927年生れでした。
 前日会ったとき符介育敗さんは杖をつき、耳はすこし聞こえにくいようでしたが、お元気そうだったのですが。
 家族のみなさんにお悔やみの心を伝え、翌日朝にまたお訪ねすることにして、別れました。

 そのあと、前日に符介育敗さんが教えてくれた横須賀鎮守府第4特別陸戦隊重合守備隊本部のあった場所に行きました。そこは、重合村から北に1キロほどのところで、七叉鎮温泉のすぐそばでした。
 七叉鎮温泉は、重合守備隊の日本兵が利用していた温泉で、当時は直径数メートルほどの温泉池でしたが、日本軍がいなくなってから村人が整備し、10数メートル×10メートルほどの長方形の露天温泉になっていました。温泉水は濁っていました。そこにいた重合村の符永慶さん(1968年生)に聞くと、温泉の周囲の壁や石段には、日本軍の望楼や兵舎のレンガや石板が使われているとのことでした。
 暗くなってきたので、守備隊本部の跡は翌日調査することにしました。

                                 佐藤正人
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2016年春、海南島で 2

2016年04月24日 | 海南島近現代史研究会
 きょう(4月24日)10時に、昌江黎族自治県石碌鎮の死難砿工紀念碑(1965年10月建立)近くに住む李耀さん(1925年生)を訪ね、2時過ぎまで4時間あまり、話しを聞かせてもらいました。わたしたちは、これまで、このように長時間、証言を聞かせてもらったことはありませんでした。わたしたちは、お疲れになることを恐れて、こころ残りでしたが、なんどかおいとましようとしたのですが、李耀さんは、語り続けてくれました。
 李耀さんは、広東から海南島に強制的に連行され、三亜の田独鉱山で働かされ、逃亡し、日本敗北後、石碌鉱山で働いた人です。李耀さんの証言によって、石原産業が「経営」していた田独鉱山でどのようなことがおこなわれていたのかを、されに鮮明に知ることができました。アメリカ合州国軍の空爆があったころから食べ物が少なくなり、餓死した人が多かったという証言は、はじめて聞きました。
 
 李耀さんの家を出てから、石碌鉱山に連行されていた「朝鮮報国隊」の宿所跡(3か所)に行きました。1か所は昌江黎族自治県委党校委党校、1か所は昌江黎族自治県第二小学、もう1か所は黎族自治県中西医結合医院の敷地内でした。

 5時前に石碌を離れ、5時半に昌江黎族自治県(旧、楽東県)七叉鎮に着きました。七叉鎮の重合村には、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊重合守備隊本部があり、そこを拠点に尾高邦雄と岡田謙が1942年11月26日~12月20日に「黎族調査」をおこなっていました(尾高邦雄「海南島黎族の経済組織」・岡田謙「海南島黎族の社会組織」〈1944年。海南海軍特務部〉)。
 重合村は七叉鎮の中心部にありました。6時過ぎに、重合村で尾高邦雄の「海南島黎族の経済組織」に写真が掲載されている符忠英さんの弟の符介育敗さんに出会うことができました。遅い時間だったので、20分ほど話を聞かせてもらったあと、翌日にゆっくり話しを聞かせていただく約束をして、おいとましました。別れ際に握手しましたが、手に力がはいっていました。

                                   佐藤正人
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2016年春、海南島で 1

2016年04月23日 | 海南島近現代史研究会
 きょう(4月23日)朝から、5月4日までの予定で、紀州鉱山の真実を明らかにする会としては1998年6月いらい29回目、海南島近現代史研究会としては2007年9月~11月いらい16回目の海南島「現地調査」をはじめました。
 はじめに、儋州市白馬井鎮を訪ねました。
 白馬井には、日本海軍横須賀第4特別陸戦隊の守備隊本部があり、日本海軍海南警備府の「陸上部隊兵力配備要図」によると1942年10月の時点で34人が「駐屯」していました。
 これまで、わたしたちは、白馬井を2度、訪問しました。写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(紀州鉱山の真実を明らかにする会制作、写真の会パトローネ刊、2007年2月)の50頁の「白馬井」をみてください。

 朝10時前に白馬井の古い井戸の跡に着きました。この井戸は白馬井の地名のもとになっている明時代の井戸でした。
 この井戸の近くに廟が建てられていました。そこで羊壽宏さん(1941年生)に話を聞かせてもらいました。
 そのあと、その場にいた人が日本軍占領期のことをよく知っている人がいるというので、案内してもらいました。その人は王達栄さん(1927年、あるいは1928年生)さんで、白馬井に日本軍がつくった日本学校に通い、卒業後海口に日本軍がつくった中学校で日本語教師となる「教育」を受けたことのある人でした。11時から12時20までくわしく話を聞かせてもらったあと、その場にいたひとに、日本軍が白馬井につくった日本学校の跡に案内してもらいました。そこは、もう一つの明時代の井戸のそばにつくられていた廟でした。
 そのあと、日本軍の不発弾が鐘として使われていた小学校を訪ねました。
 その鐘は、いまでも停電時などには使われているとのことでした。

 午後2時過ぎに白馬井を離れ昌江黎族自治県海尾鎮白沙村を訪ねました。わたしたちは、2013年3月28日と29に白沙村で、吉承栄さん、陳徳興さん、吉承栄さん、吉進湖さんなどに話しを聞かせてもらっていました(『海南島近現代史研究』第4号・第5号、77~79頁をみてください)。
 この日、夕刻まで、ふたたび、みなさんにさらにくわしく証言してもらうことができました。証言をくりかえし聞かせていただき、記録することによって、証言の客観性が強化されます。
 
 そのあと、近くの昌江黎族自治県乌烈镇道隆村に行きました。村の中央部に、道隆革命烈士紀念碑がたてられていました。
                                佐藤正人
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『海南島近現代史研究』第4号・第5号

2016年04月22日 | 海南島近現代史研究会
 5月1日に、海南島近現代史研究会の会誌『海南島近現代史研究』第4号・第5号を発行します。
 B5版252頁、カラー写真260枚、定価1800円(送料300円)です。
 目次は、つぎのとおりです。 


海南島近現代史研究会 会則
海南岛近现代史研究会 会章
해남도근현대사연구회 회칙
       
海南島近現代史研究会総会・定例研究会
  総会・定例研究会 これまでの軌跡
  総会・定例研究会報告
  佐藤正人:海南島侵略日本海軍の「Y5作戦」(第5回定例研究会)
  杉浦ひとみ:原告らへの裁判報告(第5回総会・第8回定例研究会)
  佐藤正人:日本の侵略犯罪の犠牲者の生涯(第17回定例研究会)
  総会・定例研究会参加記
    植本久司:第5回総会・第8回定例研究会に参加して
    佐山和子:第5回総会・第8回定例研究会での出会い

海南島「現地調査」報告
  これまでの海南島「現地調査」(年月一覧)
  竹本昇:東方市新龍鎮新村での聞き取りに参加して
  佐藤正人:感恩県龍衛郷新村(現、東方市新龍鎮新村)で
         感城鎮感城村麦家祠惨案
  久保井規夫:日本軍の海南島侵略調査への参加報告
  梁潔女:日军侵琼历史实地考察之感想

海南島「現地調査」記録
  第10回「現地調査」(2013年3月25日~4月6日)
  第12回「現地調査」(2014年3月21日~4月2日)
  第13回「現地調査」(2014年10月29日~11月10日)
  第15回「現地調査」(2015年11月18日~11月29日)

「朝鮮報国隊」・「朝鮮村」
  韓光洙さん、李康姫さんの証言
  安金花:言い切れなかった30分
  「朝鮮報国隊」に入れられ海南島で死亡した人たち
  金靜美:「朝鮮報国隊」の軌跡
  佐藤正人:海南島における日本国家の犯罪

海南島における日本軍の住民虐殺
  旦場村で
  旦場村の追悼
  九尾村全体村民:关于抗日村庄九尾吊村被日军屠杀的报告                     

日本海軍特務部・海南師範学校・海南島日本学校

研究報告
  佐藤正人:国民国家日本の海南島侵略抄史
  斉藤日出治:日本人研究者の植民地支配責任―海南島の場合」
  蒲豊彦:三竈島史調査の経緯
  Jeremy Murray:
       Culturing Revolution: The Local Communists of China’s Hainan Island.

寄稿
  邢越:抗战时期佛老村的大事概要
  足立正生:正論を求めず、今また、怨と恨からはじめよ

紹介 『真相 海南島近現代史研究会17年(27次)調査足跡』

海南島での報道

附 国民国家日本の侵略史に対決する民衆運動
  日本国家の侵略犯罪は、隠蔽・消去できない

編集後記

表紙写真:日本軍に虐殺された人たちが埋められている現場(中央の陽が当たっている場
   所。白沙黎族自治県邦溪鎮南北溝村)。周りはゴム林。すぐ近くに日本海軍横須賀鎮
   守府第4特別陸戦隊の基地があった(2015年11月19日撮影。このブログの2015年11月19
   日の「邦溪鎮南北溝村、七坊鎮高石村、金波英歌村で」、12月13日の「海南島「現
   地調査」報告 2015年11月18日~24日 (1)」をみてください)。



 『海南島近現代史研究』の創刊号の目次は、このブログの2008年7月31日の「『海南島近現代史研究』創刊号」を、第2号・第3号の目次は、2011年2月12日の「『海南島近現代史研究』第2号・第3号」をみてください。
 海南島近現代史研究会の『会報』創刊号については、このブログの2008年2月9日の「海南島近現代史研究会第一回定例研究会と『会報』創刊号」、および2008年2月10日の「『会報』創刊にあたって」をみてください。『会報』第2号についてはこのブログの2009年6月8日~6月11日の「海南島近現代史研究会『会報』第2号」1~4をみてください。
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抗战时期佛老村的大事概要

2016年04月21日 | 海南島史研究
■抗战时期佛老村的大事概要
                          邢越

  1939年2月10日,日军从海南岛的北部开始进攻海南岛,同月,又从该岛的南部三亚榆林港登陆,遂以南北夹击之势合围海南岛,3月便占领了西南部重镇黄流。
  侵占黄流的日军,为了修建黄流机场和军队营房,在武力的威胁下,大肆强占农田和拆毁民房。佛老村在此行动中也深受其害,据2005年出版的《佛老村志》记载,当时的佛老神山庙(关公庙)、林氏祠堂和陈氏祠堂的全部以及黄氏祠堂的一半和邢氏祠堂的前半部分均被拆毁。这是日军占领黄流后对佛老村的第一次财产掠夺行为。
  日军的暴行必然会招致民众的反抗。1939年农历4月16日深夜,游击队攻打黄流据点的日军。当时游击队使用的是火药枪,此枪每射击一次后,需再用几分钟填充新火药方可再次射击。夜晚中,火药枪射击时发出的火光柱使不明真相的日本兵一时不敢动弹。但是,由于这种火药枪的杀伤力很小,而且它又不能连续射击,所以,日军在判明游击队的虚实后,随就发起了反击,没有任何作战经验的游击队招架不住,被迫撤退。
  游击队撤退的路线之一是:黄流—佛老村—佛老村北边水田—再往北上山。莺歌海籍4名(方光富、方宗秀、吴多端、陈人风)游击队员因不熟悉地形,在佛老村北边水田陷入沼泽而没法逃脱,他们被追上来的日军就地枪杀。
  那时,激烈的枪声也使不明真相的部分佛老村民惊恐地携家带口往村外逃命。凶残的日军在遇到这些逃命的平民百姓时,竟大开了杀戒,制造了惊人的佛老村“4・16惨案”。在这次惨案中,日军在龙井处枪杀黄克魁,在金钱园处枪杀林葆敏,在红土坎处放火烧死邢兰桑及其侄女,在老陈密贡肚处枪杀陈人良,在深田处杀死林水跃的祖母,在镇远村杀死黄兴楠的幼儿黄保士;另外,被日军用刺刀活活刺杀的还有陈崖魁的祖母、陈崖魁的胞弟陈运松和胞妹陈关引,陈人鸿父女二人(幼儿3岁),陈清球父女二人(女孩5岁)等。一天之内村内无辜平民计14人惨遭日军屠杀,这是日军欠下的一笔血债!
  1940年,村人陈人金因参加了游击队,日军就到村内捉捕其父母,要陈人金投案换人。陈人金是孝子,遂到黄流日军据点换父母。父母被放回家后,陈人金趁敌不备,挣脱锁链逃走,意欲回家带父母逃避日军。无奈日军发觉太早,抢先冲到陈人金家。日军先拆毁他家房子,再捉其父母到黄流生生活埋。
  村人邢谷瑚乡坤是当时黄流地区一呼百应的最有实力的人物,日本人只要稳住了邢谷瑚,就可以说已稳住黄流地区。日本人为了拉拢他,故特给他许诺了好多好职位,但邢谷瑚一概不受,他不和日本人合作,体现了高度的民族主义精神。邢谷瑚二子邢诒熊还是抗日的游击队小队长,日军有一次要邢谷瑚劝其子归降,但邢谷瑚不从。暴怒的日军遂对邢谷瑚施于生电绞刑,直至他昏死过去。以为邢谷瑚已经死亡的日军,临走之前还放火烧掉他家房屋一间。邢谷瑚后来被人救活。
  1942年,和日本人关系密切的村人林某为刚出生的孙子作满月酒,那时,伪维持会的正副会长黄梧和杜世昌均被邀请前来喝酒庆贺。游击队侦讯,潜入林某家,把正副会长两个汉奸击毙。日军闻讯,调兵包围佛老村,并把全村人到小学礼堂前集中,机关枪瞄准村民。保长邢定瓒被日军打伤后,日军收兵离去。
1943年,村人陈运昌备晚餐招待从官村来的朋友陈某,同时也邀请了同村的陈运铨、邢诒发共叙,游击队员黄槐坚、邓锦利(黄流人)也来参加。因被汉奸告密,日军来包围。一身是胆的黄槐坚在突围时中弹牺牲,邓锦利幸得逃生,陈运昌、陈运铨、邢诒发和官村陈某被抓去黄流杀害。
  1943年崖县五区区长邢诒壮和区署成员黄兴运、林炽香被特务跟踪,夜间睡觉时被敌包围,寡不敌众,全部被擒。邢诒壮被执于黄流市上,他临危不惧,向围观的群众宣传抗日的形势和抗日必胜的道理。日军没办法,把他拉回监狱,施以酷刑,他被斩手足,开腹挖肝,壮烈殉国。黄兴运、林炽香两位也宁死不降,惨遭杀害。抗战胜利后,人们为邢诒壮立碑,陆军中将吉章简的题的挽言是:“尽忠报国,虽死犹生”,琼崖党务督导专员曾三省题的的挽言是:“勇敢可风”。
  1944年2月,崖县抗日游击队特务长林葆栋从新村归来,被汉奸杨生林告密被捕。日军使用一切酷刑逼他招供,他大义凛然,拒不招供。日军于是扒光他衣服(只剩内裤),将其钉在十字架上,吊在黄流市场的旗杆上示众。三天后,日军把他押赴刑场杀害。
  抗战时期,佛老村有文化的青年精英,大都走上抗日的道路。他们意志坚定、不怕困难、不怕牺牲,是当时抗日的中坚力量。不幸被捕人员,在肉体和精神遭到残酷摧残的情况下,也没有一个人向敌人低头,他们的抗日英勇事迹可歌可泣!
  据《佛老村志》的记载统计,抗战时期,佛老村共有15人为抗日而献出他们年轻的生命,就让我们永远记住他们的英名吧!
  被捕殉难者:邢诒壮、黄兴运、林炽香、林葆栋、邢谷敏。
  战斗牺牲者:邢祚、黄克魁、林庆汉、林四黎、林永伯、黄克球、黄槐坚、林风幺、黄式俊、黄宗栋。


【註記】「被捕殉难者」のひとり邢诒壮さんについては、『海南島近現代史研究』第2号・第3号の邢越「抗日英雄 邢诒壮」をみてください。
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