三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

黄尚徳さん

2018年10月31日 | 『会報』
 2017年11月17日、18日の熊野での追悼集会に参加された黄尚徳さん(1931年8月13日生まれ)に、ごく短い時間だったが、宿所で話を聞かせていただいた。
 広島→呉→朝鮮に帰郷。朝鮮戦争がはじまり志願。ことばがわからず除隊。日本に密航して四日市へ。
 この道程で、黄尚徳さんはどれほどのことを体験しただろうか。黄尚徳さんの体験は、黄尚徳さん個人の体験であるが、黄尚徳さんひとりのものではない。
 朝鮮人が生きてきた過程に近現代史が反映されている。朝鮮人ひとりひとりの歴史の集積が、朝鮮史であるが、その民衆個人の歴史はほとんど無視されてしまうことが多い。
 あらためて、時間を作って話を聞かせていただきたいと考えている。ここでは、かんたんに黄尚徳さんの話を紹介したい。

 故郷は金海。
 広島で生まれ、呉に行った。呉の港町国民高等小学校に通っていた。
 原爆が落ちたあと、1945年8月8日、呉から広島まで、15、6キロはあると思うが、線路沿いに歩いた。広島にいた兄を探すために。
 兄はぶじだった。兄は、5日の夜、麦を持って、せっけん、砂糖と交換するために、出かけていた。8日の夜、戻ってきた。
 当時は、学徒兵で、金子鉄工所呉本社で、銃弾を作る工場で働いていた.第11海軍航空廠所属。15歳のときで。給料は30円だった。
 1945年9月22日、台風が来て、土石流で家もみんな流されてしまった。何もなくなって、11月、一家で貨物車に乗って下関まで行き、木造船をチャーターして帰国した。
 朝鮮戦争がはじまり、北の軍が南下してきて、避難して釜山にいたとき、志願した。21歳だった。26歳のとき伍長で除隊した。束草(江原道)の第5管区司令部にいたとき。済州島にあった下士官学校に行くことも考えたが、ことばがわからず、命令も聞けない。それで除隊した。
 その後、からだ一つで日本に密航。さいしょ四日市に住んだ。

                                         金靜美 記
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熊野市立図書館と「木本事件」・紀州鉱山にかんする資料

2018年10月30日 | 『会報』
 2017年11月26日、追悼集会の1週間後、熊野市立図書館に行った。
 図書の検索では、『63年後からの出発』、同増補版、『紀伊半島・海南島の朝鮮人――木本トンネル・紀州鉱山・「朝鮮村」――』はかかり、郷土史コーナーに開架されていた。
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会・紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』は、検索にかからず、受付で尋ねた。職員は、郷土史コーナーなどを探したが、受付の後ろの棚からファイルケースに綴じられた『会報』を探し出した。
 このファイルには、李基允氏と裵相度氏を追悼する碑の除幕集会資料集、新聞の折り込みチラシなども綴じられていた。
 記録し忘れたが、『会報』は17号か18号までしかなかったように思う。
 2009年8月まで熊野市立図書館は熊野市民文化会館の中にあり、そこでパネル展示をしていたころ、毎号の『会報』や資料を購入してもらっていたので、なぜ『会報』がこれだけなのかを尋ねた。
 職員のYさんの話によれば、『会報』は館長や図書館の職員が個人的に購入し、図書館に置いていた、という説明だった。
 持っていっていた資料、『会報』51号・6号(2009年8月25日)~『会報』63号・18号(2017年11月10日)、2010年3月28日の紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集会の資料集『紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑 除幕集会 報告と記録』(2011年7月10日)の購入をお願いしたところ、すぐには決められない、上司と相談しなくてはならない、のちに連絡をするということで、資料は置いてきた。
 11月29日午後、Yさんから電話があった。
 Y「資料は購入しない」
 キム「地域史にかんする資料で、以前は購入した。なのに、なぜか?」
 Y「上からの指示」
 キム「上とは?」
 Y「教育委員会の社会教育課長」、「資料を送り返す」
 以上が電話でのやり取りだ。
 12月1日、熊野市立図書館から資料が送り返されてきた。

 熊野市立図書館は、「木本事件」、紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんする資料の購入を拒否した。熊野市民図書館は、熊野市民が郷土にかんする歴史を知る権利を妨害している。

                                   金靜美 記
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小川茂子さんのこと

2018年10月29日 | 『会報』
 昨年のパネル展示に来てくれた小川茂子さんに話を聞かせていただくために、追悼集会の1週間後の11月26日、熊野に行った。
 小川茂子さんは1928年生まれ、教師をしていた夫の小川文雄さんは1920年、尾鷲生まれ。小川文雄さんの父は平壌師範学校の教師で、文雄さんも平壌中学卒業で、日本敗戦後に日本に戻ったという。
 小川文雄さんは、1959年に吉野熊野新聞社を創設した谷川義一さん(1904年生まれ)、岡本実さん(1917年生まれ)とも親交があったそうだ。
 谷川義一さんは、「木本事件」当時、木本小学校教師であり在郷軍人分会の副会長で、「木本事件」に深くかかわっていた。1973年には「木本事件」について、『木本小学校百年誌』(創立百年祭実行委員会広報部編著)に、「鮮人騒動の記」を書いている。
 岡本実さんも「木本事件」を直接体験したひとりで、1983年に出された『熊野市史』中巻に、「木本トンネル騒動」という文を発表し、そこで朝鮮人虐殺について、「木本町民としては誠に素朴な愛町心の発露であった」と書いている。
ふたりとも亡くなったが、わたしたちは、生前の谷川義一さん、岡本実さんとも数回会って「木本事件」当時の話を聞いた。
 小川文雄さんは9年前に亡くなった。生前に会うことができていたら、「木本事件」について、いろいろ聞けただろうに残念でならない。
 小川茂子さんは、これまで、何回かパネル展を見に来たそうだ。保健師として、入鹿小学校、木本小学校、新鹿小学校に勤務し、入鹿小学校に勤務していたとき、紀和町所山の炭鉱住宅まえの「墓地」も見たという。
 小川茂子さんは、「墓地」には、朝鮮人が埋まっていると思っていた、と話していた。
 その「墓地」には、「外人墓地」と題された碑が建てられていて、近くの人も、「外人墓地」だから、朝鮮人も埋まっていると思っていたと話していた。さいしょの場所からいまの場所への移転に立ち会った慈雲寺の住職も、同じようなことを話していた。
 熊野市文化財専門委員会は、2005年11月に名称を「外人墓地」から「英国兵士墓地」に変更し、熊野市はその「墓地」を熊野市指定文化財とした。
 紀州鉱山で命を失わされた「英国兵士墓地」とされているそこには、おおきな虚偽が隠されているようだ。
                                       金靜美 記
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朝鮮学校への差別に反対

2018年10月28日 | 『会報』
 千葉県には、たった1つ、朝鮮学校があります。千葉市花見川区にある千葉朝鮮初中級学校です。幼稚班もあり、幼い子から、15歳ぐらいまでの生徒たちが通っています。2年生のクラスは5~6人ほどでした。県南から通うのは困難でしょう。さまざまな理由で、生徒が減っているそうです。

歴史――――――――――――――――――――――――――― 
 1945年、日本の敗戦後、日本にいた朝鮮人たちは、子どもたちに朝鮮語を教える「国語講習所」を各地に開きました。翌年4月から「初等学院」に改編し、千葉県では、千葉、船橋、柏、木更津、茂原、横芝、館山の7校ができました。
 しかし48年に入り、GHQと日本政府は、朝鮮人が作った学校を弾圧しました(文部省通達「朝鮮人学校設立の取扱について」第一次学校閉鎖令)。大阪では、府庁をとりまく反対を訴えるひとびとに対し、警察隊が無差別発砲し、16歳の金太一氏が殺されました。
 49年、文部省と法務省共同の通達(「朝鮮人学校に対する措置について」)が出され、二度目の閉鎖が命じられます(第二次学校閉鎖令)。千葉県では7校の初等学院は全て閉鎖され、子どもたちは日本学校に強制編入されました。それでも曽我小学校と船橋小学校の放課後、子どもたちを集めて、「民族学級」という形で続けられました。各地でも民族学級という形で続けられていきます。
 千葉朝鮮初中級学校は、51年9月、自分たちで校舎を建て直し、自主学校として再出発しました。
 68年に、朝鮮大学校(東京都小平市)が認可を取得し、75年までには、全ての朝鮮学校が各種学校としての学校法人認可を得ました。

朝鮮学校への差別――――――――――――――――――――― 
 高野連、高体連に参加させない、JR定期券の学割を認めない、国立大学の受験資格を認めないなど、さまざまな差別があり、粘り強い反対運動が続けられ、権利を獲得したものもあります。
 国立大学の受験資格については、各大学が審査するとなっていて、いまだに文科省としては認めていません。各自治体から出されていた補助金も、いろいろな理由を付けて、削減・不支給にしてきています。
 千葉市は、これまで、「地域交流事業」補助金として、千葉朝鮮初中級学校に約50万出していたのを、2017年度は不支給を決定しました。美術展への補助金だったのですが、そこに生徒が描いた日本軍による性奴隷制度被害者の絵があり、「解説で日韓合意を否定する等、目的に反すると判断」(千葉市長のTwitter)したからだというのです。
 2010年、高校無償化法ができ、インターナショナルスクールはこの法律の適用となりました。同じ各種学校の外国人学校でも朝鮮学校だけが適用除外とされ、各地で反対運動、裁判闘争が続けられています。
 ことし6月、神戸朝鮮高級学校の修学旅行で朝鮮民主主義人民共和国から帰国した生徒たちのお土産を、関空の税関職員が「上の指示で輸入が禁止されているから」と、「任意放棄書」を生徒たちに強制的に書かせ没収しました。

日本政府は在日朝鮮人の民族教育を保障すべき――――――――
 在日朝鮮人の大半は、日本の植民地支配により、朝鮮から来日せざるを得なかった、強制連行されたひとびとの子孫です。日本政府は、植民地支配の反省、戦後補償の立場に立てば、在日朝鮮人の民族教育を謝罪とともに、保障すべきです。
 千葉市の補助金不交付の理由については、朝鮮人の子どもたちに、民族が受けた被害を表現するなと、加害者の日本人が強制しているのと同じことです。
 神戸朝鮮高級学校生のお土産没収も、むごい、恥ずかしい行為だと思います。

日本学校の教育はどうか――――――――――――――――――
 いま、在日朝鮮人の子どもたちのおおくは、日本学校に通っています。
 いろいろな国籍、民族の子どもたちがいる日本学校で、「ヒノマル」を体育館に常に掲げ、式となると「キミガヨ」を流し、愛郷心だとか、愛国心を道徳の教科書で押し付ける教育は、支配的で、暴力的です。Jアラートの避難訓練のとき、在日朝鮮人の子どもたちはどんな気持ちでいるのでしょうか。
 日本政府は、日本学校の支配的な、暴力的な教育を改め、朝鮮人、いろいろな国籍、民族の子どもたちの民族教育が保障される教育を行わなければなりません。


千葉朝鮮初中級学校に関わらせてもらって――――――――――  
 千葉朝鮮初中級学校の校舎に入ると、1階には、生徒たちの集合写真が貼ってあります。写真は白黒から色付きへ、校舎も新しくなっていき、人数も減っていっているのが分かります。
 教室にある時間割を見ると、日本学校よりもたくさん詰まっています。科目数が多いからです。
 千葉朝鮮初中級学校関係の催し物があると、校長先生がお誘いを送ってくれます。集会もありますが、バザー、フェスタという名の催しは、おいしい食べもの、楽しい出店がたくさん出ます。うちの地域の小学校の半分ぐらいの広さの校庭に、いす、机を並べ、舞台が設置され、出し物もにぎやかです。家族でとても楽しみにして、参加させてもらっています。
 校庭の4分の1ほどのところでは、たくさんの七輪を囲み、いい匂いをぷんぷんさせて、大人たちが楽しんでいます。
 生徒たち、親、関係者たちが、朝鮮語、日本語が混ざり合ったことばであちこちで話しているのを聞くと、共同体だなと感じ、日本人のわたしがお邪魔をしている気もします。
 千葉朝鮮初中級学校は、うちの地域の小学校よりも催し物の回数が多く、大々的で、参加する大人が多いです。準備、片づけをする先生たちは大変でしょう。
 生徒たち、親、関係者、地域の日本人、おそらく考え方はさまざまかもしれないけれども、支援する日本人が集まってくる場となっています。
 朝鮮学校は在日朝鮮人のものだと実感します。千葉県に住む日本人であるわたしは、千葉朝鮮学校への差別に反対し、ささやかですが、ともに行動を続けたいと思います。

                                          日置真理子
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海南島近現代史研究会第22回定例研究会・第12回総会(2018年8月18日)

2018年10月27日 | 海南島近現代史研究会
  「海南島近現代史研究の軌跡と現状、そして未来」を主題にしました。
 1998年6月にわたしたちは初めて海南島を訪問し、以来20年にわたって海南島の現地で日本の侵略犯罪、および民衆の抗日反日闘争に関する証言を聴かせてもらってきました。そして、今日に至るまで続いている日本の他地域および他国家の侵略の時代を終わらせるための民衆運動を追求してきました。この20年間でわたしたちが何をなしえたのか、これからどうすべきなのか、について話し合いました。
 2009年6月から9年間、海南島で共に調査、聞きとりをおこなってきた海南島人で海南島近現代史研究会の会員である邢越さんから「回顾和海南岛近现代史研究会共同走过的日子和今后的期待」が寄せられました。各報告のテーマと討論の要旨はつぎのとおりです。

■佐藤正人 「20年間に何ができたか,何ができなかったか」

■金靜美 「植民地朝鮮から海南島に連行された朝鮮人」

■斉藤日出治 「海南島における日本の国家犯罪と日本人の「戦後」責任」
 日本政府は、1941年12月8日に開始したにアジア太平洋戦争をその4日後に「大東亜戦争」と規定し、「アジアの植民地を解放し、大東亜細亜共栄圏を設立する」を戦争目的とし、その地域の資源を略奪し住民の生活を蹂躙し文化を破壊し人びとの生命を奪いました。
 海南島の軍事侵略下で日本がおこなった資源略奪、強制連行、強制労働、食糧の略奪の実態は、この「大東亜戦争」がどのようなものであったのかを示しています。
 日本の「戦後」は、「大東亜戦争」における犯罪を否認することから成り立っています。海南島における日本の国家犯罪はまるでなかったかのごとくにされています。わたしたちの運動は、この「戦後」社会の根底にある国家犯罪の否認を許さない闘いでもあります。

■竹本昇 「海南島における侵略の事実を伝える」

■日置真理子 「極東国際軍事裁判文書に記録されている日本軍の海南島侵略犯罪 2」
 「A級極東国際軍事裁判記録(和文)」の№50には、オーストラリアのW・エイケン医師の供述があります(アンボン島で捕虜になり、1942年11月に海南島に到着。不衛生な仮小屋で、食物がとても不足していた。よろめいている病人も労働を強制され、たびたび殴打された。多くが脚気、赤痢、飢餓、マラリア等で死んでいった)。
 この記録のなかの捕虜の証言に、日本が侵略して各地での暴行、殺人などが示されています。

■蒲豊彦 「三竈島と沖縄」
 日本海軍は日中戦争が激化する中で航空基地を建設するために1937年12月から香港近くの三竈島に侵入しその後7年近くにわたって占領を続けました。1938年4月にはその占領に反対する島の多くの住民を虐殺します。9月に航空基地がほぼ完成した後、1939~1941年に沖縄から三竈島に約350人の移民が侵入しました。
 日本敗北後、三竈島は中国の内戦の際に、中華民国政府が台湾に撤退するための撤退センターになりました。そのため、抗日ゲリラとして活躍したひとびとが、共産軍によって粛清を受け虐殺されました。

■竹本昇 「ピースおおさか改悪リニューアル裁判上告と「取り戻す会」の発足」
 このブログの2018年10月24日の「ピースおおさか改悪リニューアル裁判報告5」と10月25日の「「設置理念に則ったピースおおさかを取り戻す会」について」を見てください。

■全体討論  海南島近現代史研究の意味と今後の課題
 日本国家の政治的・経済的・社会的・文化的侵略構造は、19世紀後半から現在まで変わっていません。日本の他地域他国侵略の構造を破壊する民衆の歴史認識について討論しました。
 会場の参加者から、自分の家族の戦争体験、あるいは自分が取り組んでいる活動、さらには日本の現状における歴史認識のありかたなどについてたくさんの発言ありました。ごく一部ですが、紹介します。

Mさん 最近、私の母が亡くなりました。その関係で戸籍謄本を取り寄せたところ、私の父親の本籍地を調べたら、南満州南東、今は丹東だったことがわかった。私の父親は戦争体験世代だが、何も語りませんでした。話が聞けたら、今のおかしな日本の現状などが見えてくるのではないか。安倍晋三の祖父の岸信介は「満州は私の作品だ」と言ったが、その「作品」で、どれだけ、日本が、中国・朝鮮の人たちに迷惑をかけたか、考えなければなりません。

Yさん 海南島のことは、ぜんぜん知らなくって、日本の当時の侵略というのは、全面的であらゆるところで、あらゆるとんでもないことをしでかしてしたんだな、と思います。けれど、その調査されていない所がいっぱいある。この調査は、戦争なり侵略なり、そういう反人権的なおこないが将来にわたって繰り返されないようにするためですが、現在の時代の流れは、全く逆の方向に流れています。この流れに抗するためには、具体的に事実を僕ら自身が学び、とくに若い人たちが、学ぶ機会を持っていかんなあかんと思います。そのためにどうしたらいいのか、考えていきたいです。

Nさん わだつみ会で活動してきて、1970年ごろから、天皇制の問題と戦争責任の問題を大きい課題としてきました。それを、もっと、地についた形でやりたいと思って参加しました。

Mさん 母が先日、亡くなりました。自分と海南島は全く関係ないと思っていたのですが、生前の母の話しでは、戦時中に海軍でフィリピンに行き、フィリピンから逃げる時にアメリカ軍の潜水艦にやられて4隻しか残らず、その1隻が海南島で避難したと聴きました。

Bさん 自分の父は戦争中,中国の青島で小学校の教師をして,敗戦の末期に海軍に召集されたけれど、当時のことをほとんど話さない。でも、自分が今戦争をいやだと発言しなかったら父と同じことになるのではないか。今日の集会はとても勉強になりました。

■2018年秋の海南島近現代史研究会の20回目の海南島「現地調査」について
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海南島近現代史研究会第21回定例研究会(2018年2月3日)

2018年10月26日 | 海南島近現代史研究会
 紀州鉱山の真実を明らかにする会が海南島における日本の侵略犯罪の「現地調査」を始めたのは1998年6月でした。2007年8月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会のメンバーが中心になって海南島近現代史研究会を創立しました。
 わたしたちは、海南島で日本の侵略犯罪の実態を調査するとともに、海南島における抗日反日闘争の軌跡をたどってきました。その20年間のあゆみを前提にして、今回の定例研究会の主題を「日本の侵略犯罪・アジア太平洋民衆の抗日反日闘争」とし、アジア太平洋全域における国民国家日本の侵略犯罪を明らかにし抗日反日闘争の歴史を追究する実証的な民衆史の方法について話し合うことにしました。
 各報告のテーマと討論の要旨はつぎのとおりです。

■佐藤正人 「二〇年間(1998年―2017年),32回の海南島訪問の途上で」

■金城馨(関西沖縄文庫) 「琉球処分は続いている」 
 沖縄の青年が仕事を求めて大阪に来ても、彼らを待ち受けていたのは「朝鮮人・琉球人お断り」という差別と排除であった。
 この日本社会で生きていくために青年たちは自己防衛として1975年から「エイサー祭り」を始めた。「エイサー祭り」は沖縄の文化と民族としてのアイデンティティーを保持するものである。ところがそれが沖縄の先輩たちから「恥さらし」と批判を受けた。その背景には、現在も「琉球処分」が続いていることがある。1879年の「琉球処分」は、日本に同化することと迎合することを強要するものであり、これは、今も同じである。
 また、1903年の「人類館事件」のとき、本当の意味で事件化するのではなく、沖縄は日本人であるのに、アイヌモシリ・台湾・朝鮮・インド・ジャワ・マレーと同列に置いたことを問題にした。これは、日本人への同化を志向した負の歴史である。
 1924年には沖縄県民会を結成し差別に抗してきた。しかし、差別する側の日本人が、差別することをやめないなかで少数である沖縄人は、差別される側から差別する日本人の側に身を置くことで、生き延びるようになった。
 今、それを現在に当てはめると沖縄基地の「県外移設」がある。
 日本の平和運動が、すべての基地をなくすといいながら、沖縄に米軍基地が集中させてきた歴史がある。基地を押し付ける者と押し付けられた者との関係性と責任性を明確にするべきである。同じ日本人だから手を取り合ってアメリカの基地撤廃を闘う、というのではなく、日本人が沖縄に押し付けた基地をまず自分らで引き取ってから基地撤廃をいうのが、「県外移設」の意味だ。
 単なる権力と闘って基地が撤去できるのではなく、自分らが押し付けた基地を引き取ることによって、沖縄に基地を押し付ける暴力の共犯化を拒否することは、日本人、一人ひとりが自分の意志でできる基地反対闘争である。
 沖縄人には、人類館事件を事件にしなかった責任がある。植民地として支配されながら、植民地主義を克服できない責任がある。
 沖縄人はこの問題を問い直すなかで、アジアと、どう、つながっていくかを考えていかなければならない。

■金靜美 「海南島に連行された朝鮮人と台湾人の歴史」

■斉藤日出治 「海南島における日本の侵略犯罪と「大東亜戦争」」
 日本は1930年代から中国、モンゴル地域を侵略し、1940年代末からアジア太平洋地域を侵略する「大東亜戦争」を開始し、アジア太平洋地域の資源を奪いました。
 この方針が海南島はじめアジアの南方進出を図った日本軍の戦略のなかに明示されています。 
 海南島における住民虐殺、強制労働、資源・食糧・各種産業・家財の略奪、性暴力、住民の虐待、村落の破壊は、この奪い尽くし利用し尽くすそうとする戦略がもたらした帰結です。


■日置真理子 「極東国際軍事裁判文書に記録されている日本軍の海南島侵略犯罪 1」 
 「A級極東国際軍事裁判記録(和文)№50に、日本海軍によってインドネシアのアンボン島から海南島に連行されたオーストラリア兵捕虜の証言(同じ区域に中国人労働者が多数宿泊していた。約20人の中国人労働者が掘った穴に、120人ほどの中国人労働者がトラックで連れていかれ、その後悲鳴を聞いた)をふくむ記録があります。
 極東国際軍事裁判文書に記録されている日本政府と日本軍(特に日本海軍)の海南島侵略犯罪の分析はこれからの課題です。

■竹本昇 「「ピースおおさか」の侵略の事実隠しに対抗する裁判闘争」
 このブログの2017年11月2日の「ピースおおさか改悪リニューアル裁判報告4」と一昨日(10月24日)の「ピースおおさか改悪リニューアル裁判報告5」を見てください。

■全体討論  国民国家の侵略犯罪と抗日反日闘争
 国民国家日本の歴史はアジア太平洋侵略の歴史でした。この時代は全世界的な規模でいまも終わっていません。海南島近現代史に内包されている世界近現代史における国民国家の侵略犯罪の全容をいかに明らかにしていくかについて話し合いました。
 また、海南島近現代史研究会が提案した「日本政府に2015年12月28日の「日韓合意」の撤回を求める」集会決議案をめぐって討論がおこなわれました。以下は、そのときの発言の一部です。

Aさん 「慰安婦」について、日本軍が関与したということを知らない人が多い。日本は植民地支配しているところの女性を性奴隷にしたが、そこに軍および国が関与した。女性をそのように扱ったことを書き入れるべきだ。

Bさん 全面的に賛成します。「日韓合意」が話し合われた時点では、朴槿恵政権と安倍政権でした。ところが、連日、ソウルで100万人以上の民衆が立ち上がり朴槿恵政権を倒して、今の文在寅政権になった。民衆が立ち上がって大統領が替わった。状況が全く変わっているという認識が必要だ。元「慰安婦」にされた当事者とほとんどの民衆が反対している現状を認識するべきだ。

Cさん 全面的に賛成です。マスコミでは、国と国との合意を今さら、みたいな論調が目立っているが、国連の方では、女性差別撤廃委員会と拷問禁止委員会と自由規約委員会が、この合意はおかしい、撤廃するべきと言っており、国際的には日本政府の方が批判されている。

Dさん この案に全面的に賛成です。「不可逆的」という言葉を使うことは、反省していないということだ。侵略戦争の反省なしに合意などありえない。

Eさん 少女像のまっすぐな目つきをまともに見られないのだろう。まともに見られるようになるまで、ゴメンなさいと言い続けるべきです。世界中に少女像が建てられたらいいと思う。

Fさん 若い人と、このようなことに興味のない人に広めることが大事と思っています。

Gさん 被害者が納得していないのに加害者が一方的に押し付けるのは解決ではない。相手が納得するまで、
謝らないかん。これは、国家も個人のことも同じだ。「日韓合意」は撤回が正しい。

※ その後、この抗議要請文を集会参加者一同の合意で決議しました。
  抗議要請全文は、2018年2月3日のこのブログに掲載してあります。
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「設置理念に則ったピースおおさかを取り戻す会」について            

2018年10月25日 | 国民国家日本の侵略犯罪
 ピースおおさかから戦争の加害展示を撤去させないための活動を担ってきた「「ピースおおさか」の危機を考える連絡会」の活動を引き継ぐとともに、今回の裁判で、大阪府・大阪市・(公財)ピースおおさかが、ピースおおさかから侵略戦争・植民地支配の歴史的事実を消すために市民の意見を排除して強行した明らかになったため、この非を質して、改悪リニューアルを改めさせるために、2018年4月30日、「設置理念に則ったピースおおさかを取り戻す会」が結成されました。  
 会の活動として、大阪府・大阪市・(公財)ピースおおさかに対する要請活動、機関紙の発行、最高裁への葉書による公正裁判要求、ピースおおさか前でのスタンディング、講演集会、学習会、パネル展示会開催、会員の拡大などに取り組んでいくことになりました。
 そして、今日まで、機関紙の発行、ピースおおさかの裁判を取材をしてくれたNHKの記者が森友問題の取材から外された不当人事に対するNHKへの抗議行動、大阪府・大阪市・(公財)ピースおおさかに対して設置理念に則ったピースおおさかにするための要望活動、大阪大空襲被害者の証言集会、関東大震災時における中国人虐殺の遺族の証言集会、情報公開請求などの活動が行われていいます。            
                                             竹本昇      

【新聞記事】湯谷茂樹「日本軍加害展示 復活を ピース大阪撤去 市民団体を結成」、『毎日新聞』2018年5月3日朝刊、大阪市内版。
【写真】大阪府・市が出資してつくられた平和資料館の加害展示復活を求める市民団体「設置理念に則ったピースおおさかを取り戻す会」の結成集会=大阪市北区


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ピースおおさか改悪リニューアル裁判報告 5 

2018年10月24日 | 国民国家日本の侵略犯罪
 請求した情報を公開せず、ピースおおさかが設置された目的に反して、侵略戦争・植民地支配の歴史的事実を知るパネル展示を撤去した改悪リニューアルに対して、2015年8月に、大阪府知事・大阪市長・(財団)ピースおおさか理事長の3者を被告とした3つの訴訟について、2017年11月2日のこのブログの「ピースおおさか改悪リニューアル裁判報告 4」に続けて、その後の経過の報告します。

■大阪市を被告とする裁判 
 控訴審で敗訴した大阪市は、2017年9月14日に上告し、現在、最高裁で審理中です。

【新聞記事】遠藤浩二「大阪市の非開示 逆転「違法」 ピースおおさか展示変更」『毎日新聞』 2017年9月2日 朝刊

■大阪府を被告とする裁判
 2017年11月30日、大阪高裁の田中俊次裁判長は、大阪府がピースおおさかのリニューアルに関する情報を非開示にしたことは違法であるとして、大阪府知事に5万円の賠償を命じました。一審の不当判決は変更され、二審では、私が逆転勝訴しました。二審の判決文では、
  「本件文書に記録された情報は、被控訴人と大阪市の共同出損により設立された公益財団法人で高い公共的性格を有する本件センター(ピースおおさか)が、その設立目的を達成するための本事業を行うに当たって作成したものであり、その内容も、先の戦争に対する歴史認識に関わり、多くの国民(ママ)が高い社会的関心を持つもので、それ自体高い公益性を有するものである」
と認定され、情報を非公開にして市民の要望と意見を封殺し、侵略戦争・植民地支配の事実を知るための写真パネルを撤去した違法性が裁かれました。
 大阪府は、2017年12月14日、大阪府は上告しました。
 
【新聞記事】采沢嘉高「大阪府も逆転敗訴 ピースおおさか文書非公開」 『朝日新聞』 2017年12月1日 朝刊

■(財団)ピースおおさかを被告とする裁判
 控訴審は、第1回口頭弁論が11月16日に大阪高裁で開かれ、この日、結審しました。そして、2018年2月16日に判決となりました。判決文では、一審と同様に
 「本件文書を公開することにより、監修委員及び理事が自由に意見を表明することを躊躇しかねない状況が認められるから、そのため、率直な意見の交換若しくは円滑な意思決定が不当に損なわれるおそれがあったものと認めるのが相当である。」
と認定しました。
 しかし、設置目的に反して歴史的事実を隠ぺいするリニューアルに対して、市民が反対の意見を述べるのは当然のことです。ところが、一審の裁判長は、市民が意見を述べることに対して「脅迫をうけたという事実はうかがえない」と言いつつも、「監修員会の委員や理事が、会議において発言を差し控えたり、一定の意見に迎合、配慮する発言をするおそれがあった」と認定し、あたかも情報を公開すると、市民が監修委員会の委員や理事に不当な圧力をかけるかのような事実無根の認定をしました。
二審の裁判長は、この一審の判決をそのまま採用し、そこへ、改悪リニューアルオープン当日の市民の穏健な抗議行動も情報を非公開の理由に付け加え、表現の自由をも侵害する不当な判決でした。この不当判決に抗議して、私は、2018年3月1日に上告しました。

【お詫びと訂正】
 このブログの2017年11月2日の「ピースおおさか改悪リニューアル裁判報告 4」で、私は、第一審の裁判長が情報を公開すると「脅迫行為を想像で起こると判断」したと書きましたが、これは私の判決文の誤読でした。
 判決文で書かれているのは、「脅迫等をうけたという事実はうかがわれないとしても、監修委員の委員や理事が、会議において発言を差し控えたり、一定の意見に迎合、配慮する発言をするおそれがあった」という趣旨のものでした。訂正して、お詫びいします。
但し、このことをもってしても、私の主張の正当性が損なわれるものではありません。

■裁判で明らかになったこと
1).改悪リニューアルの目的は、設置理念に反する展示に変えること
 ピースおおさかのが開設された目的を示す設置理念には、「戦場となった中国をはじめアジア・太平洋地域の人々、また植民地下の朝鮮・台湾の人々にも多大な危害を与えたことを、私たちは忘れません。」と明記されてきました。この設置理念に基づき、侵略戦争・植民地支配を示す写真パネルが展示されていましたが、今回のリニューアルですべて撤去されてしまいました。

2).改悪リニューアルの強行に、橋下前大阪市長の政治的圧力が加えられたこと
 南京大虐殺の映像シナリオについて、教科書に準拠した記述とすることを決めていたピースおおさかに対して、橋下徹前大阪市長が、政治的圧力を加えて認めませんでした。また、前号で報告しましたとおり故常本一さんの意見書でも、橋下前市長が圧力を加わえたことが証言されています。

3).松井一郎知事が、大阪府の条例に違反して不当な介入をして、改悪リニューアルを強行したこと
 大阪府(被抗告人)が裁判所に提出した証拠説明書では、「松井一郎知事が「自虐的な部分があった」としてリニューアルを指示した」ことが示されていますが、同時に、大阪府自身が,ピースおおさかの展示内容に干渉することは大阪府の条例に違反することになると主張しました。そして、裁判長は、大阪府の主張のとおり、大阪府知事が展示内容に干渉することは違法であることを認めました。
 このことによって、この度のリニューアルは、大阪府が情報公開条例に違反しただけでなく、松井一郎大阪府知事の不当な介入という条例違反によってなされてことが明らかになりました。

4).市民の意見を封殺して改悪リニューアルが強行されたこと
  市民の意見を封殺して改悪リニューアルが進められたことが、リニューアルを担当した元事務局長の陳述書によって明らかになりました。陳述書には、
  「(情報を公開すると)いわゆる加害展示が撤去されていることに加え、各種団体からの意見、要望、要請のほとんどが反映されていないことが明らかになってしまいます」
と、市民の意見や要望を封殺した事実が証言されています。
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被害者の恨(ハン)はいつ晴れるか 初めて集会に参加して

2018年10月23日 | 紀州鉱山
 昨年11月18、19日の両日、「李基允氏と裵相度氏の24回目の追悼集会」と「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する追悼集会」に初めて参加した。
 所謂「木本事件」と三重県への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での過酷な強制労働については書物を通して知識としては知っていたが、実際に現場に足を運ぶのは初めてであった。
 虐殺現場を回り、差別戒名が記された墓石を見て、鉱山の周辺を回りながら犠牲となった朝鮮人の方々に一人の朝鮮青年として深い哀悼の意を表した。
 現場に来てみると、当時に思いを馳せ、追体験の努力を傾けるしかないのであるが、異国の地で「鮮人」と蔑まれ、デマによって虐殺され、過酷な労働の果てに無念の死を迎えるしかなかった被害者の悔しさを思うとやりきれない気持ちになると同時に、その事実を隠蔽しようとする様々な動きに対する怒りがさらに強まった。
 学生時代に「木本事件」を知った時、関東大震災での朝鮮人大虐殺から3年もたたないうちに地元である三重でこのような事件が起きていたという事に衝撃を覚えたが、今回集会に参加し、三重県の在日朝鮮人の歴史を少しでも調べてきた者として現場に足を運ぶのが遅くなったことを恥じるともに、この事件が「素朴な愛町心の発露」と記されている事実から、最近の関東大震災の虐殺否定論(「テロ計画からの正当防衛」)の跋扈を含め、様々な妄言が堂々と放たれる現在の社会状況に対する恐怖を覚えた。
 筆者自身が持つ力は微弱ではあるが、この事実をしっかりと記憶し、伝え、絶対に風化させてはならないという事を胸に刻んだ。
 筆者自身は強制連行被害者の子孫ではないが、同じ植民地支配の結果として「在日」する朝鮮人の一人として被害同胞の恨(ハン)が晴れるよう、微力を尽くしていきたい。
 最後に、様々な困難、特に歴史修正主義が蔓延する最近の社会状況の中で、あくまで責任追及の立場を堅持し、被害者の追悼と真相究明の活動を繰り広げられている主催者の方々に心から敬意を表したい。
                                       申正春
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紀州鉱山にて

2018年10月22日 | 紀州鉱山
 毎年この時期に紀州鉱山で亡くなられた35名の方々の慰霊祭が行われる。今年で11回目だという。
 強制連行で連れてこられた朝鮮人の、判明した犠牲者38名が石となって弔われている。紀伊半島の山あいの町、三重県熊野市紀和町。今でこそ車で行けるが、それでも大阪から山道をぬっての三時間半、揺れる道程。近くには熊野川が流れ、瀞峡としてジェットボートが走る、名が知られた奥地である。この日のために各地から約五十名の方々が集まり、黙とうをし、語り、偲んだ。
 過酷な労働に耐えきれず逃げきれず殺されたり、劣悪な環境のもと、事故で、病気で亡くなられた方々。朝鮮半島の江原道や慶尚北道から何処かも知らされず連れてこられた紀和の町。こんな山奥に来なかったら死ななくてもいい命が消されてしまった。
 70年余りが過ぎていても、清算を求める主催者の日本人からの「日本人の責任」という言葉に心が震え、私自身ほとんど関わる事のなかった在日中国人の、連帯とはどういうものを示してくれる言葉に感動を覚える。
 それでも歳月が歴史の重みを流し、加害の事実を消してしまおうとしている。
考えて見れば被害者の歴史でもある原爆犠牲者慰霊祭は毎年盛大に行われているが、一方で加害の歴史、侵略の歴史は置き去りにされている。不条理だと思う。私もまた置き去りに加担するわけにはいかない。父母の墓参りを欠かさないようにできるだけ毎年こようと思う。在日のひとつの8・15でもある。
                                    郭政義

 注記 筆者の許可を得て、民族教育をすすめる連絡会通信『아이』第29号(2018年1月25日)から転載しました。
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