2017年11月17日、18日の熊野での追悼集会に参加された黄尚徳さん(1931年8月13日生まれ)に、ごく短い時間だったが、宿所で話を聞かせていただいた。
広島→呉→朝鮮に帰郷。朝鮮戦争がはじまり志願。ことばがわからず除隊。日本に密航して四日市へ。
この道程で、黄尚徳さんはどれほどのことを体験しただろうか。黄尚徳さんの体験は、黄尚徳さん個人の体験であるが、黄尚徳さんひとりのものではない。
朝鮮人が生きてきた過程に近現代史が反映されている。朝鮮人ひとりひとりの歴史の集積が、朝鮮史であるが、その民衆個人の歴史はほとんど無視されてしまうことが多い。
あらためて、時間を作って話を聞かせていただきたいと考えている。ここでは、かんたんに黄尚徳さんの話を紹介したい。
故郷は金海。
広島で生まれ、呉に行った。呉の港町国民高等小学校に通っていた。
原爆が落ちたあと、1945年8月8日、呉から広島まで、15、6キロはあると思うが、線路沿いに歩いた。広島にいた兄を探すために。
兄はぶじだった。兄は、5日の夜、麦を持って、せっけん、砂糖と交換するために、出かけていた。8日の夜、戻ってきた。
当時は、学徒兵で、金子鉄工所呉本社で、銃弾を作る工場で働いていた.第11海軍航空廠所属。15歳のときで。給料は30円だった。
1945年9月22日、台風が来て、土石流で家もみんな流されてしまった。何もなくなって、11月、一家で貨物車に乗って下関まで行き、木造船をチャーターして帰国した。
朝鮮戦争がはじまり、北の軍が南下してきて、避難して釜山にいたとき、志願した。21歳だった。26歳のとき伍長で除隊した。束草(江原道)の第5管区司令部にいたとき。済州島にあった下士官学校に行くことも考えたが、ことばがわからず、命令も聞けない。それで除隊した。
その後、からだ一つで日本に密航。さいしょ四日市に住んだ。
金靜美 記
広島→呉→朝鮮に帰郷。朝鮮戦争がはじまり志願。ことばがわからず除隊。日本に密航して四日市へ。
この道程で、黄尚徳さんはどれほどのことを体験しただろうか。黄尚徳さんの体験は、黄尚徳さん個人の体験であるが、黄尚徳さんひとりのものではない。
朝鮮人が生きてきた過程に近現代史が反映されている。朝鮮人ひとりひとりの歴史の集積が、朝鮮史であるが、その民衆個人の歴史はほとんど無視されてしまうことが多い。
あらためて、時間を作って話を聞かせていただきたいと考えている。ここでは、かんたんに黄尚徳さんの話を紹介したい。
故郷は金海。
広島で生まれ、呉に行った。呉の港町国民高等小学校に通っていた。
原爆が落ちたあと、1945年8月8日、呉から広島まで、15、6キロはあると思うが、線路沿いに歩いた。広島にいた兄を探すために。
兄はぶじだった。兄は、5日の夜、麦を持って、せっけん、砂糖と交換するために、出かけていた。8日の夜、戻ってきた。
当時は、学徒兵で、金子鉄工所呉本社で、銃弾を作る工場で働いていた.第11海軍航空廠所属。15歳のときで。給料は30円だった。
1945年9月22日、台風が来て、土石流で家もみんな流されてしまった。何もなくなって、11月、一家で貨物車に乗って下関まで行き、木造船をチャーターして帰国した。
朝鮮戦争がはじまり、北の軍が南下してきて、避難して釜山にいたとき、志願した。21歳だった。26歳のとき伍長で除隊した。束草(江原道)の第5管区司令部にいたとき。済州島にあった下士官学校に行くことも考えたが、ことばがわからず、命令も聞けない。それで除隊した。
その後、からだ一つで日本に密航。さいしょ四日市に住んだ。
金靜美 記