三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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日本人の海南島からの「帰還」

2010年10月19日 | 海南島史研究
 海南警備府司令長官であった伍賀啓次郎が1946年4月10日付けで第2復員省に提出した「帰還報告書」(日本防衛研究所図書館所蔵)には、海南島にいた日本人は、1946年3月に、7回に分けて日本に「帰還」したと書かれています(1945年12月1日付で海軍省に代わって第2復員省が設置されていました)。
 その詳細は、つぎのとおりです(伍賀啓次郎の「帰還報告書」は、海軍の用紙にタイプ印刷されています)。この報告書を提出した翌日1946年4月11日に、伍賀啓次郎は「充員召集」解除となり、海南島などでの侵略責任をとることなく、1951年4月8日に病死しています。1948年10月7日に、伍賀啓次郎は、横浜での「海南島第十六警備隊能美事件合同戦犯裁判」に、証人として出廷しています(このブログに2010年5月15日に掲載した「海南島第十六警備隊能美事件」3などを見てください)。
 
 ■楡林出港(総計1万4948人乗船)
 3月12日 3927人乗船(16警備隊、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊など)。大竹上陸。
 3月13日 3756人乗船(佐世保鎮守府第8特別陸戦隊など)。田辺上陸。
 3月14日 3476人乗船(居留民)。上陸地大竹。
 3月19日 3787人乗船(司令部、特務部、施設部、病院)。大竹上陸。
 ■秀英出港(総計9401人乗船)
 3月22日 4395人乗船(舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊など)。浦賀上陸。
 3月24日 3013人乗船(15警備隊など)。田辺上陸。
 3月27日 1993人乗船(司令部、特務部、居留民)。田辺上陸。

                               佐藤正人
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