三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島近現代史における侵略と抵抗の世界史 10

2013年06月30日 | 海南島史研究
八、歴史認識・社会倫理
 国民国家日本の近現代史は、他地域・他国侵略の歴史であった。
 北方のアイヌモシリと南方の琉球王国を国民国家の植民地としたあと、一八八九年二月に、日本政府は、天皇の名で大日本帝国憲法を発布した。
 天皇の「臣民」と規定され、天皇を「神」とする日本人によって組織された日本軍は、台湾、朝鮮、中国、モンゴル、ミクロネシア、東南アジア……を侵略した。
 日本軍に前後して日本企業が侵入し、日本人が商人・農民(「移民」)……として侵入した。
 日本の他地域・他国侵略の過程で、天皇制が強化された。天皇の「臣民」として統合された日本民衆は、他地域・他国を侵略しつづけた。
 一八九五年五月に台湾侵入を開始した日本軍は、長期にわたって台湾民衆を殺害した。台湾侵入三五年後の一九三〇年一〇月に、日本軍と警察は、機関銃や山砲だけでなく、飛行機、毒ガスをも使って、烽起した民衆を殺戮した。
 日本軍占領下の大韓帝国で、一九〇六年に反日義兵が中心になって独立戦争を開始した。このとき、日本軍は、数年間にわたり、大韓帝国各地で、住民を殺した。
 台湾植民地化のとき、朝鮮植民地化のとき、シベリア・間島侵入期、中国東北部・モンゴル東南部植民地化のときに住民虐殺をくりかえした日本軍は、海南島植民地化のときにも住民を虐殺した。
 一九三九年二月に、日本政府・日本軍が海南島侵略を開始する以前に、日本国民のほとんどが、他地域・他国侵略に反対する思想・感性・倫理を喪失していた。
 アジア太平洋戦争開始後、日本軍は、アジア太平洋の各地で住民を虐殺した。
 アジア太平洋戦争敗北後、日本の領土・植民地・占領地は縮小した。
 天皇ヒロヒトによって一九四六年五月に発布された新憲法(「日本国憲法」)て、天皇の「臣民」は、日本国家の「国民」と改称された。だが、天皇を「日本国民の象徴」とし、「明治天皇」・ヒロヒト・その子アキヒトそれぞれの誕生日をすべて日本国民の祝日とし、「元号」を使い、「ヒノマル」・「キミガヨ」を拒否しない日本国民は、侵略と「臣民」の時代を克服していない。
 日本の侵略犯罪の全容は、いまなお明らかにされていない。
 他地域・他国の民衆の大地と資源といのちを奪って経済を発展させた国民国家日本の歴史的国家犯罪は、いまだわずかしか解明されていない。
 なぜ、日本兵は、アジア太平洋各地で住民を虐殺できたのか。
なぜ、日本国民(「臣民」)は、日本の他地域・他国侵略を肯定しつづけることができたのか。
 旅順で、佳里・花蓮・埔里・枕頭山・「霧社」地域など台湾各地で、江西・密陽・孟山・陝川・定州・南原・堤岩里など朝鮮各地で、インノケンチェフスカヤ・イワノフカなどシベリア各地で、間島で、日本関東で、平頂山など中国東北部各地で、陽高などモンゴル各地で、上海・南京で、海南島各地で、マラヤ各地で、シンガポールで、フィリピン各地で…………、どうして日本民衆は、アジア太平洋民衆を虐殺したのだろうか、どうして民衆虐殺をおこなうことができたのだろうか。
 日本兵士の一人ひとりは、村落に侵入して住民を日本刀や銃剣や機関銃や小銃で殺害し、家屋に放火するとき、犠牲者一人ひとりの人生を考えることができなかったのだろうか。
 どうして、そのようなことができたのか。その日本兵は、日本にもどったあと、どのような人生を送ったか。その日本兵の上官は、その後どのような人生を送ったか。
 この問は、どうして、シオニストは、パレスチナやレバノン各地で民衆虐殺を続けるのか、続けることができるのか、という問いにつながっている。シオニストは、ドイツ人などがおこなったユダヤ人虐殺の歴史を思想的にも感性的にも実践的にも継承しているのではないか。
 アメリカ合洲国の歴史は、先住の赤人民衆虐殺の歴史であった。
 タスマニア虐殺・マジマジ虐殺・ヘレロ虐殺…………、世界近現代史におけるジェノサイド・エスノサイドの総括は、世界史研究の領域においてもほとんどなされていない。
                                          佐藤正人
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海南島近現代史における侵略と抵抗の世界史 9

2013年06月29日 | 海南島史研究
七、日本の海南島侵略と抗日闘争
 海南島を「南方」侵略基地とし、さらには全島を台湾同様の植民地とするため、日本政府と日本軍は、日本企業を海南島に呼び入れ、飛行場、港湾、道路、鉄道などを整備・新設し、鉱山開発、電源開発などをおこなった。その資金を作るために、日本政府・軍は、「軍票」を乱発し、さらには、アヘン生産をも試みた。
 日本軍と日本企業は、海南島の住民(先住民族黎族・苗族、および漢族の人たち)だけでなく、中国大陸や香港や台湾や朝鮮の民衆、マラヤやシンガポールなどで「捕虜」としたオーストラリア軍兵士やイギリス軍兵士(当時イギリスの植民地とされていたインドの民衆がおおかった)なども、強制労働させた。
 また、日本政府・軍は、海南島民衆の土地を奪って、日本人を海南島に「移民」させる策動も進めた。
 日本軍政機関は、「治安維持会」を使って住民を相互監視させ、「良民証」をもたせて管理し、「ヒノマル」・「キミガヨ」をおしつけた。
 日本軍は、抗日軍の兵站を破壊しようとして、海南島内各地の村落を襲撃し、住民虐殺と略奪をくりかえした。しかし、日本軍は、海南島全域を占領することはできなかった。
侵略軍に抗して、海南島の民衆は持久的に戦った。
 日本の海南島侵略の時代は,海南島民衆の抗日反日闘争の時代であった。
                                           佐藤正人

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海南島近現代史における侵略と抵抗の世界史 8

2013年06月28日 | 海南島史研究
六、日本軍海南島三亜出港ののち 2
 一九四三年五月三一日に、ヒロヒト、日本政府・日本軍中枢は合同会議で「大東亜政略指導大綱」を決定した(日本外務省編『日本外交年表竝主要文書』下、日本国際連合協会、一九六九年、文書五八三~五八四頁)。
 このときヒロヒトらは、ビルマとフィリピンを「独立」させ、「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」を、「帝国の領土と決定」し、軍政を継続し、「重要資源ノ供給地」とすることを夢想していた。
 この「大綱」では、海南島に触れられていないが、日本政府・日本軍は、海南島を実質的に日本の領土としていた。
 国民国家日本の第二次アジア太平洋戦争の戦争目的は、領土・植民地拡大と資源収奪であったが、日本政府・軍は、アメリカ合州国・イギリス・オランダの植民地支配からの「解放」が目的であると宣伝した。
 日本政府・軍は、占領した地域の「敵国」の資産を没収したが、地域の民衆には渡さず、アメリカ合州国人・イギリス人・オランダ人らが経営していた鉱山、工場、農園などのすべてを日本企業に渡した。
 日本政府・軍は、占領地で日本時間をつかい、「ヒノマル」を掲げ、「元号」や「皇紀」を使い、「キミガヨ」を強制し、行政機関や教育現場に日本語をもちこんだ。
 アジア太平洋戦争の全期間に、日本軍は、マラヤ(ネグリセンビラン州など)でもシンガポールでも香港でもフィリピンでも中国大陸でも海南島でもパプアでもインドネシアでも…………、多くの住民を虐殺した。
 日本のマスメディア(朝日新聞社、毎日新聞社、読売新聞社、同盟通信社……)は、侵入したアジア太平洋の各地で、天皇制・天皇主義、「大東亜共栄」、「復興大東亜」などを宣伝し、日本軍の強大さなどの偽りの「報道」を続けた。
 一九四三年九月八日、イタリアが「連合軍」に全面降伏した。その三週間後、一九四三年九月三〇日に、日本政府・日本軍の中枢は、ヒロヒトを含めた会議で、「今後採るベき戦争指導の大綱」を決定した(『日本外交年表竝主要文書』下、文書五八八~五八九頁)。この第二次アジア太平洋戦争遂行の基本方針のなかで、かれらは、
   「帝国戦争遂行上、太平洋及印度洋方面に於て絶対確保すべき要域を、千島、小笠
   原、内南洋(中、西部)及西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む区域とす」
とし、「絶対確保すべき要域」(「絶対国防圏」)を、「大東亜共栄圏」より範囲を縮小して設定した。
 だが、わずかその二か月後、一一月に、「絶対国防圏」東端のマキン島とタラワ島の日本軍(両島で五〇〇〇人余)が、アメリカ合州国軍の攻撃によって壊滅した。このときマキン島で捕虜となった一四六人のうち朝鮮人は一三二人、タラワ島で捕虜となった一〇五人のうち朝鮮人は一〇四人であり、両島で生命を失った朝鮮人は、一,二〇〇人であったという。
 タラワ島では約一五〇〇人の朝鮮人が労働させられていた。一九四四年末の朝鮮総督府の文書に、「陸海軍要員としての朝鮮人労務者」に関して、
   「現在迄に直接戦闘に起因して死歿せる者約 七三〇〇名(「タラワ」「マキン」両島に
   於ける玉砕者約一二〇〇名を含む)と推定せられ其の外行方不明七三五名を出せ
   り」
と書かれている(『第八六回帝国議会説明資料』一九四四年一二月、朝鮮総督府鉱工局勤労動員課、一六八葉)。
 劉喜亘さんを呼びかけ人として、タラワ島に朝鮮人犠牲者の追悼碑が、一九九一年一一月二五日に建てられた。劉喜亘さんは、一九四二年一〇月に日本海軍の軍属として徴用され、タラワ島で通信施設建設などをさせられ、アメリカ合州国の空爆によって負傷した経験をもつ朝鮮人である(「朝鮮人徴用工一五〇〇人 タラワ島に慰霊碑 在日の遺族会が建立」、『毎日新聞』一九九一年一二月四日、および郡義典『マウリ・キリバス』近代文芸社、一九九六年、一七三~一七八頁)。
 タラワ島とマキン島の日本軍がアメリカ合州国軍によって壊滅させられた後、この両島を含むギルバート諸島は、再びイギリスの植民地とされたが、一九七九年七月一二日に、キリバス共和国として独立した。一九九七年七月に、キリバス共和国議会の調査委員会は、日本占領時代に住民五三六人が日本軍に殺されたという報告書を作成した。
 「大東亜共栄圏」・「絶対国防圏」内の諸地域に住む民衆が大きな被害を受けた。
日本軍は各地で敗走し、日本の「国防圏」は急速に縮小していった。飢餓に苦しむ日本軍の兵士のなかには、遺体だけでなく「捕虜」や住民や自軍兵士を殺害して人肉食をおこなった者もいた。
 だが、最極悪の戦争犯罪者ヒロヒトは、日本国内の安全地帯で生き残り、「神」として「戦争指導」を続けた。
 ヒロヒトは、一九四五年八月一四日の「終戦の詔勅」で、なおも第二次アジア太平洋戦争の戦争目的を「帝国の自存と東亜の安定」であったとし、「忠良なる爾臣民」に対して「神州の不滅」を信じることを要求していた。
                                          佐藤正人
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海南島近現代史における侵略と抵抗の世界史 7

2013年06月27日 | 海南島史研究
六、日本軍海南島三亜出港ののち 1
 一九四一年一二月八日午前〇時過ぎ、日本陸軍がイギリスの植民地マラヤのコタバルを奇襲した。第二次アジア太平洋戦争は、このとき開始された。その一時間半後、日本海軍が、アメリカ合州国が一八九八年八月に「併合」したハワイのオアフ島パールハーバを爆撃した。午前九時半に、フィリピンのルソン島ツゲガラオ飛行場・バギオ兵営を、台湾の航空基地から飛んだ日本陸軍の爆撃機が奇襲爆撃した。
 コタバルに奇襲上陸した日本陸軍第一八師団の兵員はタイのシンゴラとパタニに上陸した日本陸軍第五師団の兵員とともに、一九四一年一二月二日までに海南島三亜に集結していた。その日本軍団を乗せた輸送船(「陸軍御用船」)の船団が三亜を出港したのは、一二月二日~五日であった。
 ヒロヒトと日本国家権力者が、日本陸軍にコタバルに奇襲上陸させ、日本海軍にパールはハーバーを攻撃させてから二日後の一九四一年一二月一〇日に、日本軍は、グアム島、タラワ島、マキン島の軍事占領を開始した。その一か月以上前の一一月六日に、大本営陸軍部と大本営海軍部は、グアム島、ビスマルク諸島(ニューアイルランド島など)への軍事侵略を決定していた。
 一二月一八日に、日本軍は、ホンコンを占領した。
 一九四二年一月一八日に、日本・ドイツ・イタリアの軍統帥部が、東経七〇度線を日本とドイツ・イタリアの作戦地域を分ける線とする協定を結んだ。このとき日本政府と日本軍中枢は、西はインド西部からウラル山脈にいたる地域から、東は南北アメリカ大陸西海岸にいたる地域を戦場とすることを想定していた。
 一九四二年二月にシンガポールに侵入した日本軍は、「検証大虐殺」をおこなった。
 一九四二年二月二八日に、大本営政府連絡会議は、「帝国領導下に新秩序を建設すべき大東亜の地域」を、「日満支及東経九十度より東経百八十度迄の間に於ける南緯十度以北の南方諸地域」と設定した(「大東亜戦争現情勢下に於て帝国指導下に新秩序を建設すべき大東亜の地域」、防衛庁防衛研修所戦史室編『大本営陸軍部〈三〉』朝雲新聞社、一九七〇年、四九〇~四九一頁)。
 この「大東亜の地域」には、アイヌモシリ、朝鮮、中国、ビルマ、タイ、「蘭領印度」、フィリピン、パプア島、「南洋群島」、ソロモン諸島(ガダルカナル島など)、ギルバート諸島(タラワ島など)……が含まれていた。
 このとき同時に、大本営政府連絡会議は、日本の「資源圏」と「補給圏」を、「帝国資源圏は日満支及西太平洋地域とし自給生産力の拡大を期し豪洲、印度等は之が補給圏たらしむるものとす」と設定した(『大本営陸軍部〈三〉』四八七頁)。
 国民国家日本は、その「共栄圏」・「資源圏」を維持するためには、軍事占領後、政治・経済的支配体制を確立しなければならない。
 日本は、台湾や朝鮮には総督府を設置して支配し、「関東州」には「関東庁」を、「樺太」には「樺太庁」を、「南洋群島」には「南洋庁」を設置して支配し、「南方」各地を軍政機関によって支配した。
 軍政の基本的事項は、大本営政府連絡会議で決定された。占領地において軍政を実行するためには、多数の行政官が必要であった。第二次アジア太平洋戦争の末期に、朝鮮総督府は、「将来南方軍政要員に相当数の朝鮮人起用を実現せしむる考へなり」という方針を示している(『第八六回帝国議会説明資料』一九四四年一二月、朝鮮総督府官房関係、二四葉)。
 占領地の歴史的・政治的・社会的諸条件によって、軍政の内実はことなった。
 シンガポールでも香港でも、軍政の初期に日本軍は多くの中国人を虐殺した。
 インドネシアでは、スカルノらが親日派となって協力したが、日本政府・日本軍は傀儡政権をつくらず、軍政を続けた。
 マラヤやシンガポールや香港や海南島でも、日本政府・日本軍は、軍政支配を続けた。ビルマでは、一九四三年八月に傀儡国家がつくられた。同年一〇月に、フィリピンでも、傀儡国家がつくられた。
 軍政地域で日本軍は軍票を大量に使用して、資源・農産物・労働力を奪った。日本軍の敗北後、軍票は、紙くずとなった。
 当時ポルトガルの植民地であったチモール島東部では、日本軍は中立国ポルトガルの「主権」を形式的に維持した。日本軍は、チモール島東部で軍票は使用したが、住民に日本語強制はできなかった。
                                          佐藤正人
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海南島近現代史における侵略と抵抗の世界史 6

2013年06月26日 | 海南島史研究
五、一九三九年二月一〇日ののち
 日本陸海軍が海南島に奇襲上陸してから五〇日後、一九三九年三月三〇日付で、日本政府は、「新南群島」を台湾総督府令によって高雄市の管轄とした(「台湾総督府告示第一二二号」、『官報』一九三九年四月一八日)。海南島占領と「新南群島」の領土化は結びついていた【註一一】。
  【註一一】一九三九年六月一日に、台湾総督府の「新南群島調査団」が、「新南群島」の「長
      島」に、「高雄市新南群島」という標柱を建てたという(牧山鶴彦「新南群島紀行 領
      土編入後の初調査日誌抄」、『台湾時報』一九三九年九月号、一三四頁)。現在、
      中国は、海南島から遥かに離れたこの群島を海南省に組み込み、その中の最大の
      島を「太平島」と名づけ「実効支配」している。海域をいれると、海南島は中国最
      大の省である。
 一九三九年七月一五日に、日本政府・日本軍は、海南島に傀儡「海南島臨時政府(瓊崖臨時政府)」を設立した。
 その一か月半後、一九三九年九月一日に、日本政府は、張家口に傀儡政府「蒙古聯合自治政府」をつくって、モンゴル南部・河北地域を植民地とした。「蒙古聯合自治政府」の「政府旗」は、モンゴル族、漢族、回族、日本族を示す青、黄、白、赤の四色七条で、中心の色は日本族を示す赤であった。
 「満洲国」においても「蒙古聯合自治政府」の支配地区においても、実権は日本政府・日本軍が把握し、日本族が支配民族として他民族を抑圧した。
 日本が海南島侵略戦争を開始してから七か月後、一九三九年九月に、ポーランドに、ドイツ軍が西方から、ソ連軍が東方から侵入して分割占領した。
 日本政府・日本軍は、一九四〇年三月三〇日に中国の占領地域の傀儡政府を統合して傀儡「中華民国中央政府」をつくった。
 一九四〇年六月一四日に、ドイツ軍がパリを占領し、六月二二日に、フランス・ドイツの「休戦協定」が調印された。
 七月二六日に、日本政府は閣議で、日本を中心として「大東亜の新秩序」を建設することを国家の基本方針とするという「基本国策要綱」を決定した。
 続いて、九月四日に、日本政府の首相、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣が、合同会議で、「日満支を根幹とし旧独領委任統治諸島、仏領印度及同太平洋島嶼、泰国、英領馬来、英領・ボルネオ・、蘭領東印度、・ビルマ・、濠洲、新西蘭竝に印度等」を日本の「大東亜新秩序建設ノ為ノ生存圏」とする方針を出し、九月一九日にヒロヒトらを含む会議で決定した。
 その四日後、フランスがドイツに降伏してから約一〇〇日後の九月二三日に、日本軍は、海南島対岸のフランスの植民地「仏領印度」北部(ベトナム北部)への侵入を開始した。
 一九四一年二月三日に、大本営政府連絡会議は、「対独伊‘ソ’交渉案要綱」を決定し、そこで、世界を「大東亜圏、欧州圏(「アフリカ」を含む)、米州圏、‘ソ’聯圏(印度‘イラン’を含む)の四大圏」に分割し、日本は「大東亜共栄圏地帯に対し政治的指導者の地位を占め秩序維持の責任を負う」とした。
 こうして、国民国家日本の領土拡大は、「大東亜共栄圏」にいきついた。それ以後、日本政府・軍は、ヒロヒトを中心とし、「八紘一宇」をスローガンとし、「大東亜共栄圏」の各地に、日本軍を侵入させた。
 一九四一年六月六日に、大本営陸海軍部は、「対南方施策要綱」を決定した。そこでは、「対南方施策の目的」(すなわち「南方」侵略の目的)は、日本の「総合国防力」を拡大することであるとされていた。
 この目的達成のために、この年七月二四日までに海南島の三亜に集結した日本陸軍第二五軍の将兵が、七月二八日から「仏領印度」南部(ベトナム南部・カンボジア)への侵入を開始した。七月二日に、ヒロヒトらは、「南方進出」にあたっては「対英米戦を辞せず」と決定していた(「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」)。
 九月六日に、天皇ヒロヒト、総理大臣近衛文麿、枢密院議長、参謀総長、軍令部総長、宮内大臣らは、合同会議で「帝国は自存自衛を全うする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」とする「帝国国策遂行要領」を決定した。
 一一月五日に、天皇ヒロヒト、総理大臣兼陸軍大臣東条英機、外務大臣東郷茂徳、海軍大臣嶋田繁太郎、大蔵大臣賀屋興宣、枢密院議長、参謀総長、軍令部総長、宮内大臣らは、合同会議で「帝国国策遂行要領」を「再決定」し、開戦時を一二月上旬に設定した。軍令部総長永野修身は同日付けの「大海令」(ヒロヒトの命令を伝達する文書)第一号で、山本聯合艦隊司令長官山本五十六に、「帝国ハ自存自衛ノ為十二月上旬米国、英国及蘭国ニ対シ開戦ヲ予期シ諸般ノ作戦準備ヲ完整スルニ決ス 聯合艦隊司令長官ハ所要ノ作戦準備ヲ実施スべシ」と伝達した。
 一一月一五日に、日本政府・大本営陸軍部は、上海に侵入していた第五師団の部隊を、海南島三亜に向かわせた。
 その五日後の一一月二〇日に、大本営政府連絡会議は、「南方占領地行政実施要領」を決定した。そこでは、第二次アジア太平洋戦争開戦を前提として、「治安の恢復、重要国防資源の急速獲得及作戦軍の自活確保」を目的として、占領地に軍政を実施することとされており、
   「占領軍ハ重要国防資源ノ獲得及開発ヲ促進スヘキ措置ヲ講スルモノトス」、
   「占領地ニ於テ開発又ハ取得シタル重要国防資源ハ之ヲ中央ノ物動計画ニ織リ込ムモノ
   トシ作戦軍ノ現地自活ニ必要ナルモノハ右配分計画ニ基キ之ヲ現地ニ充当スルヲ原則ト
   ス」、
   「軍政施行ノ当初ヨリ貿易及為替管理ヲ実施シ特ニ石油、護謨、錫、タングステン、キナ
   等ノ特殊重要資源ノ対敵流出ヲ防止シ経済戦ノ遂行ヲ容易ナラシム」
とされていた。
 国内および領土化した地域に、近代戦遂行に不可欠な石油資源や鉄鋼資源やアルミニウム資源などをわずかしかもっていない日本が、大量の資源をもつアメリカ合州国との戦争に「勝利」するためには、その資源をさらなる侵略戦争によって確保しなければならなかった。
 一一月二五日に、大本営陸軍部は、軍政実施の具体方針を決め、フィリピン、マラヤ、「蘭領印度」、ボルネオから掠奪する「重要資源」の地域別リストを作成した。その翌日、一一月二六日に日本陸軍と日本海軍は、「軍政実施の担当区分」を決定し、同じ一一月二六日に、大本営海軍部は、「ハワイ作戦機動部隊」をエトロフ島ヒトカップ湾から出港させた。
 一九四一年一二月一日に、ヒロヒトと日本政府・日本軍の「指導者」らは、一一月五日の「帝国国策遂行要領」に基づいて、アメリカ合州国、イギリス、オランダと戦争することを最終決定した。
                                            佐藤正人
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海南島近現代史における侵略と抵抗の世界史 5

2013年06月25日 | 海南島史研究
四、一九三九年二月一〇日(日本陸海軍海南島奇襲上陸)
 一九三九年二月一〇日未明、日本がアイヌモシリを植民地としてから七〇年後、天皇ヒロヒトと日本政府・日本軍は、海南島に日本陸海軍の将兵を奇襲上陸させ、宣戦布告なしの海南島侵略戦争を開始した。日本陸海軍合同の海南島奇襲攻撃は、ヒロヒトの「裁可」を前提にして計画的に実行された。
 一九三九年一月一七日に、天皇ヒロヒト、総理大臣平沼騏一郎、海軍大臣米内光政、陸軍大臣らは、海南島侵略を最終決定し、ヒロヒトは、日本軍の海南島侵入を「裁可」した。同じ日に、大本営陸軍部と海軍部は、「二月上中旬ノ頃」海南島北部を共同で占領するという「北部海南島作戦陸海軍中央協定」を結んでいた。
 ヒロヒト、日本政府、日本軍が、海南島奇襲上陸を、二月一〇日に設定したのは、二月一一日に、海南島の首都海口を占領するためであった。二月一一日は、一八七二年に設定された「紀元節」の日であった。一八八九年二月一一日に日本政府は、日本国民をすべて天皇の「臣民」とする「大日本帝国憲法」を公布していた。
 天尾海岸に奇襲上陸した日本陸軍の将兵は、三路に分かれて首都海口に侵入した。これとは別に海軍陸戦隊の将兵が、海口東部を河口とする大河、南渡江をさかのぼって海口に侵入した。
 国民国家日本の他地域・他国侵略史において、二・一〇(海南島奇襲上陸開始)は、九・一八(「柳条湖事件」=中国東北部・モンゴル東南部侵略開始)、および七・七(「盧溝橋事件」=中国全土軍事侵略開始)と同質であった。一九三九年二月一〇日に日本軍は海南島に奇襲上陸して、アジア太平洋全域への軍事侵略を開始した。
 その二日後、二月一二日に、蒋介石中国国民党総裁は重慶で、
   「海南島攻略は一九三一年九月一八日の奉天攻略と対をなすものと考へられる、換言す
   れば日本は海南島を攻撃することによつて太平洋に第二の奉天をつくり出したのだ。奉
   天は満洲事変の発端であつた、海南島は太平洋事変の発端であらう」
と発言していたという(『大阪朝日新聞』一九三九年二月一三日)。
 海南島奇襲以前に、日本軍は海南島周辺の詳細な水路偵察をおこなっていた【註九】。
   【註九】他地域・他国の地図(水路図を含む)は、侵略国が、他地域・他国を侵略するた
      めの基礎的な道具である。
       日本陸海軍が海南島に奇襲上陸する二か月前の一九三八年一二月に海南島水域
      に侵入した軍艦多摩の報告書(『海南島及附近水路資料』支那沿岸水路資料第二
      〇号)を、日本海軍水路部は、「部内限」・「用済後償却」の但し書きをつけて
      一九三九年一月に出版していた。この水路資料の大型の附図には、一九三八年二
      月~三月に海南島周辺海域に侵入した日本軍艦多摩、一八三八年九月に海南島周
      辺海域に侵入した日本軍艦加賀、一九三八年一一月に海南島周辺海域に侵入した
      日本軍艦那珂と由良の航路線が書きこまれていた。
       日本が台湾を植民地とする一年半前、一八九三年一〇月一一日付けで日本海軍
      水路部は、水路図「支那海 東京海湾 海南島」を発行し、その七年後、一九〇
      〇年七月三一日付けで水路図「支那海南島南岸諸港湾」を発行している。この水
      路図は、日本海軍が独自に海南島周辺を測量して作成したものでなく、大英帝国
      海軍が作成したものの復刻に近いものであった。日本の陸地測量部が一九一〇年
      一二月一〇日付けで発行した清国広東省の「清華」と「萬州」の地図で海南島が
      示されている(この地図の左側欄外には、「一八九八年製図一九〇二年製版一九
      一〇年鉄道補入」と書かれている(佐藤正人「サロモン岬・「サルモン岬」」
      『海南島近現代史研究』第二号・第三号、海南島近現代史研究会、二〇一一年二
      月。参照)。
 中華民国政府軍(国民党軍)がほとんど反撃しなかったので、日本軍は天尾海岸に上陸した二月一〇日に、予定より一日早く、海口に侵入した。
 日本のマスメディアは、海南島奇襲上陸・軍事占領の「成功」と「紀元節」を大きく報道した【註一〇】。
   【註一〇】一九三九年二月一〇日午後に撒かれた『大阪毎日新聞』号外には、
          「直ちに猛進撃を開始/宛ら無人の野を征く/陸海の精鋭、緊密協同/
          敵の砲台を血祭り/戦史に輝く無血上陸/未開発の無限宝庫/常夏、大
          密林の海南島/奇しくも日露宣戦布告記念日」
       と書かれており、二月一一日の『大阪朝日新聞』朝刊一面には、「けふ輝く紀元
       節」、「海口へ一番乗り 全市街忽ち日の丸の波 皇軍砂丘を縫ひ堂々入城」、
       「海口、瓊山完全占領」などという見出しで、
          「大本営海軍報道部公表(十日午後九時)……わが陸上部隊は正午ごろ
          本島の最大の都市海口に侵入……、海軍船艇の一部は……午後一時三十
         分ごろ海口に到達」
       という記事が掲載されていた。その後、日本の新聞は、連日、日本軍が海南島
       占領地域を拡大していく状況を煽動的に報道している。
 日本軍は、海南島を占領した目的を「建設新中国復興大東亜」、「建設反共親日之楽土」などと宣伝した。日本国民(「臣民」)のほとんどは、侵略地域の拡大を喜び、海南島侵略を支持した。その一年二か月前、一九三七年一二月一三日の日本軍の「南京占領」を、ほとんどの日本国民(「臣民」)は、喜び支持していた。
 日本の海南島占領目的は、「南方」侵略のための基地建設と資源略奪であった。
 民衆が平和に暮らしていた海南島に、「ヒノマル」を掲げて突然侵入してきた日本軍は、人を殺し、村を焼き、コメ・水牛・豚・鶏・椰子……を奪った。海南島民衆の生活は、激変した。それまでの平穏だった日々が、日本の軍事的・政治的・経済的・文化的攻撃と直面しなければならない緊張した日々に変わった。
                                         佐藤正人
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海南島近現代史における侵略と抵抗の世界史 4

2013年06月24日 | 海南島史研究
三、第一次アジア太平洋戦争開始後 2
 一九三七年七月七日の「盧溝橋事件」を「契機」にして、日本政府・日本軍は、中国全土への大規模な軍事攻撃を開始した。
 その二か月後、九月に、日本海軍軍艦が、海南島の首都海口を砲撃した【註三】。
   【註三】『朝日新聞』一九三七年九月一九日夕刊に、「海南島を猛爆 兵営・無電台に大損
     害」という見出しで「海南島唯一の港海口は十六日午後五時半頃我が駆逐艦○隻の
     猛爆により初めて砲火の洗礼を受け海南島警備司令部、兵営、無電台等に多大の損
     害を蒙つた模様である」という記事が、九月二四日朝刊に、「海南島砲撃」という見出
     しで「〔香港二十三日発同盟〕二十三日広東に達した情報によると去る廿一日海南島
     海口は我軍艦により再度砲撃され軍事拠点は破壊され多大の損害を受けた」という記
     事が、九月二七日夕刊に、「〔香港特電二十五日発〕海南島海口より達した至急報によ
     ればわが巡洋艦は○○機と立体的に策応し二十五日午前九時過ぎ海口の砲台中軍
     司令部兵舎等に極めて精確な砲撃を加へ同地は目下大混乱に陥つて居ると」という
     記事が掲載されている。
 日本政府・日本軍は、一九三七年一二月一四日に華北に傀儡「臨時政府」を、一九三八年三月二八日に華中に傀儡「維新政府」をつくった。
 一九三七年一二月、日本陸軍将兵が南京に侵入していたころ、日本海軍将兵が、香港に近い三灶島(三竈島)に侵入した。
 一九三八年一月に日本海軍将兵が海南島南部の楡林に上陸しようとしたが中国国民党軍が反撃し撤退させた。一月十二日に日本海軍が海南島海口と瓊州を爆撃した【註四】。
   【註四】『朝日新聞』一九三八年一月一四日朝刊に、「海南島爆撃」という見出しで
      「〔海口(海南島北部)特電十三日発〕(ルーター特約)昨十二日朝、日本海軍
      飛行機○台海口上空に現れ一旦海南島奥地に飛翔の後再び沿岸に引返し海口並
      に瓊州を爆撃した」という記事が掲載されている。
 一九三八年四月から日本海軍陸戦隊6000人が三灶島(三竈島)に侵入し、おおくの住民を虐殺し飛行場建設をはじめた。日本政府・日本軍は、沖縄人を三灶島に植民させた【註五】。
   【註五】浦島悦子「「鍬の戦士」たちの胸の内 沖縄からの三竈島移民・断章」、蒲豊
      彦「日中戦争期沖縄の中国華南開拓移民団」『海南島近現代史研究』第二号・第
      三号〈二〇一一年二月、海南島近現代史研究会〉、参照。
       三灶島の万人墳には、大理石でつくられた高さ一〇メートルほどの「三灶島
      三・一三死難同胞紀念碑」が建てられており、碑文に、日本軍は占領期に「同胞
      二千八百九十一人」を殺害した、と刻まれている。
 一九三八年九月九日に、日本軍は、海南島の瓊州を爆撃した【註六】。
   【註六】『朝日新聞』一九三九年九月一一日夕刊に、「〔香港十日同盟〕海口(海南
       島)来電によれば九日午後我が空軍は同島第一の県城瓊州を爆撃した」という
       記事が掲載されている。
 一九三八年九月に、台湾総督府は、海南島を中心として、そのはるか南方の、ベトナム東南方・ボルネオ島北方・フィリピンのパラワン島西方にある「新南群島」などに対し「強力なる支配権を確立」し、台湾・「南洋群島」を統合し、「帝国南方政策の前進拠点」とするという「海南島処理方針」を作成した【註七】。
   【註七】台湾総督府は、20世紀はじめから、海南島侵略を計画していた。
       台湾総督府専売局は一九一九年一月に『海南島事情』(『海南島事情 第一』
      に相当)を出し、続いて台湾総督官房調査課が一九二一年九月に彭程萬(台湾総
      督官房調査課訳)『海南島事情 第二』(南支那及南洋調査第五一輯)を、一九
      二一年一二月ころ『海南島事情 第三』(南支那及南洋調査第六六輯)を出して
      いた。
       『海南島事情 第三』は、台湾総督府専売局嘱託村上勝太が「調査復命」した
      ものであった。一九一九年七月に台湾総督府専売局に海南島の「視察」を命じら
      れた村上勝太は、その後一九二一年三月までに三回、計約二年間海南島に「滞
      在」していた。村上は『海南島事情 第三』とは別個に、一九二三年に『海南島
      調査経過摘要』(謄写刷)を出している。
 「海南島処理方針」で、台湾総督府は、海南島軍事占領を前提とし、
   「住民に対する方策は皇民化を以て本旨とす」、
   「大体十年を以て現在の台湾と同程度の統治成績を収むるを以て目標とす」、
   「住民の日本国籍取得は申請に依る許可制度とす」、
   「徹底せる国語普及政策を行ふ」、
   「黎人に対しては台湾に於ける「アミ」族に対する理蕃方針に準じて之を撫育し山地資
   源の開発を促進す」
などとしていた。
 同じ一九三八年九月に、台湾総督府は、「南方外地統治組織拡充強化方策」をだし、そこで「海南島に海南庁を置き東沙島西沙島及新南群島を附属せしむ」としていた【註八】。
   【註八】このころ臺灣總督府臨時情報部は、海南島の大型地図「海南島明細圖(三縣加
      設以前)」をだした(中華民国政府は、一九三五年に海南島に白沙県、楽東県、
      保亭県を新設し全一六県とした。「三縣加設以前」は一九三五年以前である。
       「海南島明細圖(三縣加設以前)」には発行年が記載されていないが、王會均
      『日文海南資料綜録』(文史哲出版社〈台北〉、一九九三年)では、この地図の
      発行年は一九三八年とされている)。
 一九三八年一二月二三日に、日本政府は、「新南群島」を日本領土に編入すると、閣議で決定し、天皇ヒロヒトは、一二月二八日にそれを承認した。
 一九三九年一月一七日に、天皇ヒロヒト、総理大臣、海軍大臣、陸軍大臣らは、海南島侵略を最終決定し、ヒロヒトは、日本軍の海南島侵入を「裁可」した。同じ日に、大本営陸軍部と海軍部は、「二月上中旬ノ頃」海南島北部を共同で占領するという「北部海南島作戦陸海軍中央協定」を結んだ。
                                        佐藤正人
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海南島近現代史における侵略と抵抗の世界史 3

2013年06月23日 | 海南島史研究
三、第一次アジア太平洋戦争開始後 1
 第一次世界戦争開始後まもなく、一九一四年八月二三日に、日本はドイツに宣戦布告した。
その約五〇日後の一〇月一四日に、日本海軍は、ドイツが植民地としていたミクロネシア地域(「マーシャル諸島」、「パラオ諸島」、「マリアナ諸島」、「カロリン諸島」)を占領し、「南洋群島」と名づけ、一二月に軍政をしいた(日本軍守備分隊長が軍政庁長を兼任)。同じころ、日本陸軍はドイツが植民地としていた中国山東省の青島を攻撃し、一一月に占領し、青島守備隊司令部が軍政をしいた。第一次世界戦争は、日本にとっては第一次アジア太平洋戦争であった。
 一九一九年に、国際連盟は、日本に、「南洋群島」の「統治」を「委任」した。日本の南方の支配地域はいっきに拡大した。
 一九二二年四月に、日本政府は「南洋群島」の行政機関として「南洋庁」を設置した。「南洋庁」は、アイヌモシリ植民地機関である「北海道庁」と同じく内務省が管轄した。「南洋群島」の先住民族カナカ人やチャモロ人を、日本政府は公文書で、日本国民(「臣民」)ではなく、「島民」と規定し、おおくの日本人は「(南洋の)土人」と呼んだ。
 一九一四年の「南洋群島」植民地化から一九三一年までの一七年間、日本は領土・植民地を拡大しなかった(できなかった)。
 日本は、一九三一年七月六日に、北回帰線の南に位置する「沖ノ鳥島」を、内務省告示で小笠原支庁の管轄区域に加えて、日本の領土とした。その約七〇日後の九月一八日、日本は、中国東北部・モンゴル東部の軍事侵略(「満洲事変」)を開始した。
 一九三二年三月一日、日本は、中国東北部とモンゴル東部を「満洲国」と名づけ、植民地とした。「満洲国」の「国旗」は、漢族、モンゴル族、満族、朝鮮族、日本族の「五族協和」を表わす黄色を地色とする青・赤・白・黒の五色旗とされた。
 その後、日本は、さらに「満州国」の南方を政治的・軍事的・経済的に支配しようとした。
一九三三年一月一日に、日本軍は、長城を越えて中国河北省への軍事侵略を開始し、一九三五年一二月二五日に、河北省東部に「満洲国政府」と同じ性格の傀儡政府「冀東防共自治政府」をつくった。
 一九三六年九月三日に、海南島の対岸の広東省北海で薬屋を経営していた中野順三が殺された。この「北海事件」のとき、日本政府・日本海軍は、軍艦を海南島の海口に侵入させた【註二】。
   【註二】日本政府・日本軍は、一九三六年八月の「成都事件」、一九三六年九月の「北
     海事件」、一九三六年一一月~一二月の「綏遠事件」のさいなどに、それらの「事
     件」を「契機」にして中国全土への軍事攻撃を開始しようとした。
      一九三六年九月一一日に日本海軍砲艦「嵯峨」が海南島の海口に侵入した。続い
     て、九月一三日に日本海軍第一三駆逐   隊の二等駆逐艦「若竹」が、九月一五
     日に日本海軍軽巡洋艦「球磨」と日本海軍第一六駆逐隊の「朝顔」、「芙蓉」、「刈
     萱」が、九月一六日に日本海軍軽巡洋艦「夕張」が、九月一七日に日本海軍第四駆
     逐隊の駆逐艦「太刀風」が海口に侵入した。
      一九三六年九月一六日の『大阪毎日新聞』には、つぎのような記事が掲載されて
     いる。
       「(上海本社特電一五日発)北海事件に関し支那側は中央も広東当局も現在に
       至るまでなんら誠意を示さず、地方的小問題として糊塗し去らんとしているの
       で、日本側、殊に支那沿岸警備の任にある海軍当局はもはや一刻も躊躇逡巡す
       べきにあらずとして、南方派遣部隊を海南島附近に集中し支那側の態度を厳重
       監視することとなり、一方南京にある川越大使よりは国民政府に対し十九路軍
       の即時北海撤退を要求することとなった」。
      一九三六年九月一五日に、日本海軍軍令部は、「北海事件処理方針」をだした。
     そこには、「北海方面ニオケル兵力行使終了セバ、所要ノ兵力ヲ海口方面ニ駐メ、
     爾余ノ兵力ハ所要ノ方面ニ集結ス」、「情況ニヨリ海南島モシクハ青島ノ保障占領
     ヲ行ナウ」と書かれていた。このときの、軍令部総長は、伏見宮博恭王(1875年~
     1946年)であった。
      「北海事件」のあと、中華民国政府の張群外交部長(一八八九年~一九九〇年)
     と日本政府の川越茂駐華大使(一八八一年~一九六九年)の間で、九月一五日に南
     京で一回目の会談がおこなわれ、一六日に二回目の会談がおこなわれた。このと
     き、川越茂大使は、日本海軍軍令部の「情況ニヨリ海南島モシクハ青島ノ保障占領
     ヲ行ナウ」という方針を、日本政府の方針として張群外交部長に伝えたようであ
     る。のちに、張群は、つぎのように述べている。
        「翌一六日、第二次会談が行われた。このとき川越は、北海事件の調査という
        口実で「日本海軍は海南島と青島を保障占領することを考慮している」と、脅迫
        がましい口調で言ったものである。
         北海事件は広東省欽州で起きた事件であり、海南島や青島とは見当違いも甚
        だしい。日本の大使ともあろうものが、このような言いがかりをつけて脅迫する
        というのは、まさに、横暴、無理難題であって、まことに憤慨に耐えないものとい
        わなくてはならない」(張群『日華・風雲の七十年』サンケイ出版、一九八〇年
        八月、六六~六七頁)。
      『陸軍省密大日記』の一九三六年第四冊に含まれている一九三六年九月一七日づ
     けで荻洲立平台湾軍参謀長が、梅津美治郎陸軍次官にだした「北海事件ニ関連スル
     軍ノ行動ニ関スル件」(臺参密第一六九號)には、つぎのように書かれている。
        「北海事件交渉ノ推移如何ニ依リテハ軍ハ臨時派兵ヲ命セラルルコトアルヘキ
        ヲ予期シ万般ノ派兵準備ニ遺憾ナキヲ期スルト共ニ対支交渉ヲ有利ニ進展セシ
        ムル為台湾ノ特殊事情ヲ利用スル宣伝ニ依リ軍ノ決意ヲ対岸ニ反映セシムル工
       作ヲ実施シアリ……」。
                                          佐藤正人
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海南島近現代史研究会第7回総会・第12回定例研究会

2013年06月22日 | 海南島近現代史研究会
 2007年8月5日に創立された海南島近現代史研究会は、毎年夏に総会と定例研究会を、毎年冬に定例研究会を続けてきました。
 今年夏の総会・研究会では、日本の海南島侵略とオキナワ侵略(現在と過去の琉球処分)について知花昌一さんとともに考えたいと思います。
 みなさんの参加をお待ちしています。

と き:2013年8月25日(日)13時~17時(開場12時)
ところ:大阪産業大学梅田サテライト・レクチャーA室(大阪駅前第三ビル19階)
参加費:500円(会員は無料です)

■主題:海南島とオキナワ■
■オキナワ読谷村(ヨミタンソン)における日本軍の住民虐殺  知花昌一      
    1945年4月1日にアメリカ合州国軍が読谷村西海岸から上陸しました。翌日、チビチリ
   ガマへ避難していた住民約140人のうち83人が「集団自決」しました。1983年からチビチ
   リガマでの「集団自決」の事実と意味を追求してきた知花昌一さんに話を聞かせてもら
   います。
■海南島における日本軍の朝鮮人虐殺             キム チョンミ
    日本政府・朝鮮総督府・日本海軍は、日本支配下の朝鮮の刑務所から獄中者を海南島
   に連行して、働かせ、1945年8月に虐殺しました。また、日本政府は、オキナワ人や台湾
   人を海軍軍属などとして海南島で働かせました。日本支配下の民衆の海南島での軌跡を
   たどります。
■海南島における日本軍の住民虐殺              斉藤 日出治
    日本軍は、海南島の各地で住民を虐殺しました。これまで、わたしたちが知りえた海
   南島における日本軍の犯罪の諸事実を報告します。
■海南島と琉球王国・宮古八重山地域             佐藤正人
    日本は、1872年に琉球王国を領土とし、1895年に宮古・八重山地域を領土としまし
   た。国民国家日本のウルマネシア侵略と海南島侵略の歴史的脈略を解明したいと思いま
   す。
■討論 日本国家のアジア太平洋侵略犯罪の責任者はだれか
■報告 海南島旦場村の追悼碑建立について
■報告 2013年春の海南島「現地調査」
       昌江黎族自治県十月田鎮保平村・羌園村、昌化鎮大風村・耐村・昌城村・光田
      村・浪炳村、海尾鎮白沙村・鶏籠坡、澄邁県加楽鎮常樹村、臨高県臨高角、定安
      県雷鳴鎮南曲村………。
■報告 海口市博物館、海南省図書館、《瓊崖縦隊》摂制組との共同作業について
■報告 次回の海南島「現地調査」の主目的と日程(2013年10月下旬~11月初旬)

      海南島近現代史研究会 http://www.hainanshi.org/
      【事務局】 大阪産業大学経済学部 斉藤日出治研究室 
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海南島旦場村の追悼碑建立に協力をお願いします

2013年06月21日 | 海南島近現代史研究会
 海南島近現代史研究会からの海南島旦場村の追悼碑建立への協力のお願いです。
 このブログの2013年1月31日~2月7日の「旦場村で」1~8、および4月14日~17日の「旦場村の追悼碑」1~4をみてくうださい。
     
   ――――――――☆―――――☆――――☆――――☆――――☆―――――――

■海南島の追悼碑
 日本軍と日本企業がアジア太平洋の各地でおこなった侵略犯罪の一つひとつは、具体的にはほんど明らかにされていません。海南島でも、日本軍は、多くの村落を襲撃し、住民虐殺、放火、略奪、性的暴行などの犯罪をくりかえしました。海南島の村むらで、日本軍が殺害した村人の名前も人数も、あまり明らかにされていません。
 1945年農暦3月21日(5月2日)に、万寧の月塘村(ユエタン村)を、日本海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊万寧守備隊の日本兵が襲い、村人190人を虐殺しました。2008年農暦3月21日(4月26日)に、月塘村村民は犠牲者すべての名を刻んだ「月塘三・廿一惨案紀念碑」を建立しました。この追悼碑の建立に、海南島近現代史研究会は協力しました。

■旦場村の追悼碑
 1939年農歴9月23日に、海南島西南部の旦場村(タンチャン村)を日本海軍横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の日本兵が襲撃し、村人93人を殺害しました。その後に殺された人をあわせると、旦場村では、110人あまりが殺されました。4人の女性が強姦され、家が焼かれました。当時の旦場村の人口は1000人あまりだったようです。旦場村では、村が襲われたときの情景をつづった「日寇惨殺旦場同胞哀嘆長恨歌」が歌い継がれています。1947年、民歌の唄い手で目が見えなかった文天性さんがつくりました。
 わたしたちがはじめて旦場村を訪ねたのは、昨年11月2日でした。このとき、旦場村の人たちが、日本軍に殺された村人すべての名を刻んだ追悼碑を建立する準備をすすめていることを知りました。
 海南島近現代史研究会は、ことし2月10日の第11回定例研究会のときに、旦場村の追悼碑建立に協力させてもらうことを決定し、3月25日に30万円を寄金しました。
 建立基金はまだ十分ではありません。
 さらに、旦場村追悼碑建設基金募金への協力をお願いします。一口2000円としたいと思います。

  募金期間 2007年6月~9月      目標金額 30万円(150口)

  ことしの農暦農歴9月23日(2013年10月27日)に旦場村の追悼碑が除幕される予定です。

        2013年6月  海南島近現代史研究会
                 連 絡 先:大東市中垣内3-1
                 大阪産業大学経済学部 斉藤日出治研究室
                 郵便振替:海南島近現代史研究会 00960-5-280485
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