三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

海南島の朝鮮人兵士 13

2010年10月23日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■金永振さんの証言
 2010年10月5日に、ソウルで、金永振さんと李西根さんから聞かせていただいた話の概要は、同じに日このブログで報告しましたが、以下に、そのときの金永振さん(1924年11月15日生)の証言内容をよりくわしく報告します。

 18歳のとき海軍特別志願兵に志願した。19歳になったら陸軍に連れていかれる。陸軍はきつい。だったら海軍に行ったほうがましだと考えていた。試験に合格して、鎮海にあった日本海軍の海兵団の1期生になった。  
 6か月の「訓練」のあと卒業し、卒業のときに「所属」が決められ、日本海軍佐世保鎮守府第8陸戦隊に「配属」された。
 1943年夏に、鎮海から海南島に向かったが、船がバシー海峡で沈没した。生き残って、マニラからサイゴンに行った。
 サイゴンからジャンクで海南島に行った。ジャンクは、4~5人乗りの小さな船だった。
 三亜に上陸し、三亜からトラックで日本海軍海南警備府佐世保鎮守府第8陸戦隊の司令部のある嘉積に行った。
 いっしょに行ったのは16人で、全員韓国人だった。
 それからずっと嘉積にいた。警備班にいた。
 嘉積の軍人は、毎日「討伐」に行った。討伐に行くときは、日本軍人だけ行った。
 わたしは行かなかった。討伐は、毎日行く。卒兵だから、経験がないから連れて行かないのだろうと思っていた。
 日曜日は外出して、酒を飲んだりした。酒は焼酎に似たもの。食べ物は、ビーフン、魚、牛肉など。パイナップルもあった。ことばが通じないから、じぶんたちで、食べるだけだ。お金は軍票で払った。
 物価は、サイゴンが少し高かった。
 嘉積には兵隊は200人くらいいた。朝鮮人は16人。みな鎮海の1期生だった。
 海南島から故郷に給料を送った。受けとったのかは知らない。
 1年くらいたって、日本が降伏したと聞いた。上官から正式に聞いたのではなく、うわさのように伝わってきた。
 翌年の4月に帰国した。家族は、わたしは死んだと思っていた。
 韓国軍に、はいった。そこで、李西根に再会した。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 海南島の朝鮮人兵士 12 | トップ | 海南島の朝鮮人兵士 14 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

海南島からの朝鮮人帰還」カテゴリの最新記事