三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

突然の弁論終結にさいして

2011年09月30日 | 紀州鉱山
 これはある意味で予想されていたことのようにも思えます。
 第1回の裁判の最後に、裁判長は、三重県と熊野市に土地評価額の算定基準を提出するように、と言って退廷しました、
 これを聴いたとき、ぼくはこの裁判長は公共性や歴史認識の問題に法廷で踏み込んで判断する勇気のある裁判長ではない、と言うことを強く感じました。
 法廷で公共性や行政の歴史的責任を議論していけば、裁判長はそれについて何らかの自分の判断を下さなければなりません。この裁判長はその審議に踏み込んで判断を下す以前に、そのような問題をはじめから回避する姿勢を取ろうとしている、ということをその時に強く感じました。
 地方税の課税問題を公共性と言う判断基準にしたがって妥当なのかどうかを争うのが裁判の本筋であるのに、その争点をはじめから回避する。その意味では、熊野市や三重県と裁判長の姿勢はまったく変わりありません。
 この問題が裁判の問題ではなく、社会闘争の問題だと言うことは、わたしたちははじめからわかっていたと思います。
 わたしたちは、追悼碑の土地に地方税を課すると言う行為が国家と行政の歴史的に責任にふたをして、侵略戦争の犠牲者を冒涜するものであるという感覚から、ほとんど条件反射的に提訴に踏み切りました。
 裁判の見通しがどうのうこうのではなく、そうすることが当然だという共通感覚の下に提訴に踏み切ったのだと思います。
 このわたしたちに共有されている歴史感覚と歴史的責任意識が、日本の社会や裁判所のそれといかに隔絶したものであるかということをきのうの裁判は物語っていると思います。
 それでも、わたしたちは裁判で、公共性や歴史認識を説得的に、粘り強く提言していけば、裁判所は必ず理解するはずだという期待があったのだと思います。
 公共性や歴史認識は社会がつくりあげていくものであり、わたしたちは裁判所と言う場を利用して、そのようなわたしたちの公共性と歴史認識を社会に訴えていくチャンスにしようと思ったのだと思います。
 しかし、裁判所はそのようなわたしたちの期待をはじめからシャットアウトする対応に出ました。
 公共性や歴史認識は社会のなかでつくりあげられていくものであり、社会の中で共有されてはじめて力になるものだと思います。
 その社会に共有された歴史認識が初めて裁判で行政や裁判長を突き動かす力になる。
 わたしたちは、ある意味でそれを承知の上で、裁判所でわたしたちの公共性を社会のものにしていこうとしたのですが、裁判長には、この問題をうけとめる力がなく、突然の弁論終結という裁判官にとっては最も安易な方法で根本問題を回避しました。
 でも、そのことは今回の提訴が無意味だったということを意味するのではありません。
 裁判の記録は残りますし、わたしたちが共有する公共性の理念と歴史認識は文言として裁判記録に残ります。われわれがこの世からいなくなった後になって、この記録を掘り起こす人たちが現れるかもしれません。
                                          斉藤日出治
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突然、裁判終結

2011年09月29日 | 紀州鉱山
 きょう(9月29日)、熊野市を被告とする2回目の裁判(口頭弁論)が午前11時から、三重県を被告とする2回目の裁判(口頭弁論)が午前11時半から開かれました。
 熊野市を被告とする口頭弁論開始9分後、裁判長が、「この時点で裁判所の法的な判断をします。弁論を集結し、判決を12月1日午前11時に言いわたします」と言って退廷しました。
 三重県を被告とする口頭弁論のときにも、同様のことを言い、傍聴席からの、「でたらめな裁判だ。まじめにやれ」という怒りの声に背をむけ、逃げるように退廷していきました。
                                   佐藤正人
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「国家総動員法」と「国民徴用令」 2

2011年09月28日 | 紀州鉱山
 「国家総動員法」の第1条は、
    「本法ニ於テ国家総動員トハ戦時(戦争ニ準ズベキ事変ノ場合ヲ含ム以下之ニ同ジ)ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ」
というものであり、第4条は、
    「政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ帝国臣民ヲ徴用シテ総動員業務ニ従事セシムルコトヲ得但シ兵役法ノ適用ヲ妨ゲズ」
でというものでした。
 「国家総動員法」では、戦時に「帝国臣民ヲ徴用」するとされていました。
 被告熊野市は、「強制連行」を「「徴用」と同義で用いられるものと理解」するなら、まず朝鮮で1944年9月に「実施」された「国民徴用令」ではなく、1938年5月5日に朝鮮で施行された「国家総動員法」を問題にしなければなりませんでした。
                                        佐藤正人
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「国家総動員法」と「国民徴用令」 1

2011年09月27日 | 紀州鉱山
 原告の訴状にたいする被告熊野市の「答弁書」は、全体として、事実から離れたことを述べているものですが、そのなかで被告熊野市は、
    「原告らが用いる「強制連行」という用語の定義は不明である。
     それで,「徴用」と同義で用いられるものと理解して,以下では,その前提で論述する」
と述べています。こうして被告熊野市は、恣意的な根拠のない「理解」を「前提」として、「徴用」というコトバがついている「国民徴用令」を新聞記事で探し出し、
    「国民徴用令は「内地」にいた日本国民には既に1939年(原文元号)7月に実施されていたが、朝鮮への適用はさしひかえようやく1944年(原文元号)9月に実施されたもので,朝鮮人に対する徴用が導入されたのは翌年3月の下関~釜山間の運航が止るまでのわずか7ヶ月間であったことは,1947年(原文元号)7月13日付け朝日新聞(乙1)の報道の通りであった」
と述べています。
 日本への朝鮮人強制連行は、「国民徴用令」によって「実施」されたものではなく、「国家総動員法」を前提として日本政府・朝鮮総督府によって実行されたものです。「国家総動員法」の朝鮮への「施行」は、1938年の「国家総動員法ヲ朝鮮、台湾及樺ニ施行スルノ件(勅令316号)」によって開始されました(朝鮮総督府企画室編纂『朝鮮時局関係法規 全』〈台本1938年10月~追録15号1944年9月〉参照)。
                                       佐藤正人
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歴史的事実を「不知」とする被告三重県にたいする批判

2011年09月26日 | 紀州鉱山
 9月29日(木曜日)に、熊野市を被告とする2回目の裁判が午前11時から、三重県を被告とする2回目の裁判が午前11時半から開かれます。使用法廷は津地方裁判所302号法廷です。傍聴に来てください。当日、対熊野市裁判の傍聴券が10時25分に、対三重県裁判の傍聴券が10時40分に、津地方裁判所B館1階交通事件控室で抽選・配布されます。

 こんどの2回目の裁判での紀州鉱山の真実を明らかにする会の主張の概要は、このブログに9月7日から10回連載した「課税に抗議する第2回裁判」、および9月20日から9回連載した「紀州鉱山への朝鮮人強制連行」をみてください。
 「紀州鉱山への朝鮮人強制連行」は、第2回裁判の当日(9月29日)に裁判所にだす「準備書面3」(9月16日に裁判所にだした「準備書面2」につづく被告熊野市の「答弁」にたいする全面的反論)の要旨です。
 9月29日に裁判所にだす被告三重県にたいする「準備書面3」(9月16日に裁判所にだした「準備書面2」につづく被告三重県の「答弁」にたいする反論)の要旨はつぎのとおりです。
                                       佐藤正人


 事件番号  2011年(行ウ)第4号
 不動産取得税賦課処分等取消請求事件
 原  告   金 靜 美 (キム チョンミ)
   同    竹  本  昇  他 3 名
 被  告  三    重    県

 本件(不動産取得税賦課処分等取消請求事件)を提訴した原告は、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する土地への三重県の課税が不当であり不法であるから取消すことを求めている。
その基本的論点は、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する土地の公共性、および紀州鉱山への朝鮮人強制連行・強制労働にかかわる三重県の歴史的責任である。
 被告三重県の「答弁書」は、この2つの基本的論点について、ほとんど答弁していない。
原告は、「準備書面2」において、公共性の問題についてはいささか詳述したので、本「準備書面3」では、紀州鉱山への朝鮮人強制連行という歴史的事実をできるだけ明らかにし、認識しようとしていない被告三重県の「答弁書」を分析し批判する。
 本「準備書面3」は、紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんして被告三重県が行政責任を免れることができないことを証明し、被告三重県が紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する土地に課税することの歴史的不当性を明確にするものである。

第1 被告三重県には、「事実関係」を調査する義務がある
 被告三重県は、原告の訴状にたいする「答弁書」で、三重県知事が過去に加担した紀州鉱山への朝鮮人強制連行・強制労働という歴史的事実にかかわることにかんして、「事実関係の記述については、いずれも不知」としている(被告三重県の「答弁書」5頁14行、および同頁20行)。
 三重県知事が過去に加担した歴史的事実にかんして被告三重県は、「不知」とし続けていることは許されない。
 原告は、被告三重県が、「不知」を撤回し、紀州鉱山への朝鮮人強制連行という客観的歴史事実を認識する努力を真剣におこない、原告の提訴に応えることを求める。
 被告三重県は、日本が朝鮮を植民地としていた時代における日本への朝鮮人強制連行の歴史を認識する努力を回避し、朝鮮人強制連行・強制労働にかかわる三重県をふくむ国民国家日本の行政府の歴史的責任をとろうとしていない。
 強制連行とは、本人やその家族の意思に基づかず、他からの強制によって連行することである。国民国家日本は、植民地としていた朝鮮から多くの人たちを強制連行した。

第2 日本政府による朝鮮人強制連行

第3 紀州鉱山に強制連行された人たち、紀州鉱山の「監督」だった人の証言
         
第4 被告三重県は、ただちに課税を取り消さなければならない
 原告の訴状にたいする被告三重県の「答弁書」は、6人の被告訴訟代理人(降籏道男弁護士ら)と11人の被告指定代理人(すべて三重県職員)の名でだされているが、「答弁書」での発言の基本責任は、これらの被告訴訟代理や被告指定代理人にではなく、三重県知事ら、三重県の行政担当中心者にある。
 被告三重県は、植民地朝鮮から朝鮮人がなぜどのように紀州鉱山に来たのか、紀州鉱山でどのような条件で生活し労働していたのかを、できるだけ客観的に正確に把握し、ただちに課税を取り消さなければならない。
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紀州鉱山への朝鮮人強制連行 6

2011年09月25日 | 紀州鉱山
■紀州鉱山への朝鮮人強制連行
 第6 本件の基本的論点

 本件(固定資産税賦課処分及び減免不承認処分等取消請求事件)を提訴した原告は、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する土地への熊野市の課税が不当であり不法であるから取消すことを求めている。
 その基本的論点は、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する土地の公共性、および紀州鉱山への朝鮮人強制連行・強制労働にかかわる熊野市の行政の歴史的責任である。
 被告熊野市の「答弁書」は、この2つの基本的論点について、答弁にならない「答弁」をしている。
 原告は、「準備書面2」において、公共性の問題についてはいささか詳述したので、本「準備書面3」では、紀州鉱山への朝鮮人強制連行という歴史的事実を捻じ曲げている被告熊野市の「答弁書」を分析し批判した。この批判は、紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんして被告熊野市が行政責任を免れることができないことを証明するものであり、被告熊野市が紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する土地に課税することの歴史的不当性を明確にするものである。
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紀州鉱山への朝鮮人強制連行 5

2011年09月24日 | 紀州鉱山
■紀州鉱山への朝鮮人強制連行
 第5 被告熊野市の歴史意識

 原告は、被告を熊野市および代表者兼処分行政庁熊野市長としている。
 原告の訴状にたいする被告熊野市の「答弁書」は、被告訴訟代理人倉田嚴圓弁護士と5人の被告指定代理人の名でだされているが、「答弁書」での発言の基本責任は、被告訴訟代理人倉田嚴圓弁護士および5人の被告指定代理人にではなく、熊野市長ら、熊野市の行政担当中心者にある。
 熊野市は、人格をもたないが、ここでは、被告熊野市は人格をもつ熊野市長らであるとして、被告熊野市の「答弁書」に示されている被告熊野市の歴史意識を、訴訟趣旨の根本にかかわって分析し、被告熊野市が、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する土地に課税するという過ちを犯した思想的原因を明らかにする。
 被告熊野市が、過ちを自覚できるなら、ただちに課税を取り消さなければならない。
 1926年1月に、熊野市(当時、木本町)の県道の木本トンネルを開鑿するために働きにきていた朝鮮人を、在郷軍人らを先頭とする地域住民が襲撃し、李基允さんと相度さんを惨殺し、襲撃をのがれた朝鮮人とその家族を住民が徹夜で山狩りした。「事件」を『熊野市史』中巻(1983年、熊野市発行)では「木本トンネル騒動」あるいは「木本隧道工事のさいの朝鮮人騒動」といい、熊野市民が朝鮮人を襲撃・虐殺したことを、「木本町民としては誠に素朴な、愛町心の発露」であったとしている(1032頁)。
 原告らは、1989年いらい、これまで、熊野市と熊野市教育委員会に『熊野市史』の書きかえと謝罪を要求しつづけているが、熊野市はいまだにこの記述をきちんと取り消しておらず、朝鮮人を虐殺したことを「誠に素朴な愛町心の発露」としつづけている。
 被告熊野市が紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する土地に課税し、それを取り消していない問題と『熊野市史』における差別発言を取り消していない問題の根はつながっている。
 被告熊野市は、“「強制連行」は「徴用」と同義”という誤った前提のもとに、「強制連行」は「国民徴用令」による連行だけであったという詭弁をのべ、そのさい、つぎのように付言している。
     「なお、「徴用令書」の対象となって「徴用」された232名の朝鮮人の場合には、これに応じないと罰則を課せられるという意味で「強制」の契機はあったものの、日本人でも「徴用令書」の対象となった場合に拒否をすればやはり罰則を課せられたのであって、その点では、何ら日本人と異なるところはなかったのである」。

 被告熊野市の「答弁書」中のこの発言に、被告熊野市の歴史意識の悪質さ、誤った歴史認識が凝縮して示されている。
 被告熊野市は、朝鮮人になぜ国民国家日本の「国民徴用令」が「適用」されたのか、その歴史的原因をまともに考えたことがないのであろう。もし、その原因を真剣に考えることができれば、朝鮮人が国民国家日本の「国民」とされたことを当然であるかのように叙述することはできなかっただろう。
 被告熊野市は、「「強制」の契機はあったものの」とわけのわからないことを前提としつつ、「何ら日本人と異なるところはなかったのである」と言っているが、国民国家日本の植民地朝鮮に生まれ生活していた朝鮮人は、国民国家日本の「国民徴用令」を「適用」され、父母姉妹兄弟妻子と切り離され日本に強制連行され強制労働させられたのである。
 朝鮮人は、「皇国臣民」となることを強制された。紀州鉱山に強制連行された朝鮮人も例外ではなかった。日本鉱業協会が1940年12月に会員だけの「密扱」文書として発行した『半島人労務者ニ関スル調査報告』の紀州鉱山に関する部分には、
     「訓練期間中凡ゆる指導期間を通じ、折に触れ日本臣民にして産業戦士として来山せし旨を鼓吹し、又皇国臣民の誓詞の奉誦に努めしむ」、
     「半島人は如何なる作業に適するやに就きての感想。例外的には機械操作即鑿岩機取扱に長ずる者もあれど、一般的には運搬夫の如き簡単なる作業の力仕事を請負にて為さしむるときは、殊にその特長を発揮する様に思はる」
などと書かれている(141頁、143頁)。
 紀州鉱山が、このような報告を日本鉱業協会におこなったのは、1940年12月以前であり、1942年2月に「官斡旋」方式での朝鮮人の日本への強制連行が開始される以前であった。
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紀州鉱山への朝鮮人強制連行 4

2011年09月23日 | 紀州鉱山
■紀州鉱山への朝鮮人強制連行
 第4 紀州鉱山に強制連行された人たち、紀州鉱山の「監督」だった人の証言
  
 原告らは、長い間、紀和町と熊野市に、紀州鉱山における朝鮮人についての歴史的調査をすること、紀州鉱山における朝鮮人にかんする文書の開示などを求めてきた。
 しかし、熊野市は、その歴史的調査をしてこなかった。そして、突然、紀州鉱山の朝鮮人にかんして、「答弁書」で「論述」をおこなった。
 その「論述」は、きわめて非論理的非実証的なものであった。
 植民地朝鮮から朝鮮人がなぜどのように紀州鉱山に来たのか、紀州鉱山でどのような条件で生活し労働していたのかを、熊野市はできるだけ客観的に正確に把握しなければならない。
 熊野市は、そのための努力をやることなく、原告の甲1号証の2を誤読・誤解・曲解し、日本外務省のいつわりの言説を報道した新聞記事を誤用して、紀州鉱山の朝鮮人の歴史を偽造し、行政責任を回避しようとしている(「原告準備書面」(2)、参照)。

 原告らは、1997年5月に韓国の江原道麟蹄郡で、金興龍さん、丁榮さん、孫玉鉉さん、金石煥さんらから、1997年8月に江原道平昌郡で、尹東顕さん、崔東圭さん、金烔儀さん、金烔燮さんから、忠清北道堤川市で秋教華さんから、1998年8月に慶尚北道軍威郡で、南正埰さん、張大烈さん、張斗龍さん、朴貴連さんから、慶尚北道安東市で、林聖熙さんから、紀州鉱山に強制連行された当時の話を聞かせていただいた。
 金興龍さん(1914年生)はつぎのように証言した。
    「鉱山に行くとは知らないでつれていかれた。
     徴用の年齢がすぎていたので、行かなくてもよかったのに、里長がむりに行かせた」、
    「春川をとおってソウルにいき、そこで神社遥拝させられた」。
 金石煥さん(1923年生)はつぎのように証言した。
    「一〇〇人行くことになっていたが、2人欠けた。行かされる人間は区長が選んだ。令状はなく、ただ行けと連絡だけしてきた」。
    「紀州鉱山にいっしょに行ったひとのなかに、結婚して3日目に連れてこられた人がいた。原州の人だった。そのとき、21歳。紀州鉱山で気がおかしくなって死んだ」。
 林聖熙さん(1922年生)は、つぎのように証言した。
    「ある夜寝ているとき、とつぜん面の役人がつかまえにきた。昼来ると、逃げられるから、夜に来るんだ。以前は令状があったが、令状を送って逃げられたことがあって、わたしらのときは、なにもなかった。
     面庁でひと晩ねて、出発した。日本人が面庁に来て見張っていた。行ったら生きて戻れると思わなかった。
     紀州鉱山では人間としての扱いは受けなかった。逃亡する人がでたときには、それをみていて止めなかった人も殴られた。
     解放になって、帰ってこれただけでありがたかった」。

 原告らは、1996年11月および1997年5月に、名古屋で許圭さん(1915年生)から話を聞かせていただいた。許圭さんは、1940年秋から1946年春まで紀州鉱山で朝鮮人労働者の「監督」をしていた。当時の名は「中山圭」であった。
 許圭さんはつぎのように証言した。
    「紀州鉱山で働いていた朝鮮人が逃げて、熊野川で流されて死んだことがあった。矯風会と警察から、いって調査してこいといわれて、いってきて、報告書をだした。
その後、会社から、朝鮮人のことを、責任もってやってくれといわれて、朝鮮人を徴用、管理するために、労務担当社員として入社した。日本人は、応召で労働者はすくないので、労働者を朝鮮からつのろうということだった。
     労働者を徴用するため、江華島、三陟、陽平、永川などに行った。連れてくる労働者の人数をきめるのは会社。今回は100人、とすると、大阪の鉱山局に申請する。どこそこの道、どこそこの郡から、何人、という許可証をもらって、それをもって、朝鮮に行く。朝鮮では、朝鮮総督府、道庁、警察などにあいさつにいって、金をわたした。釜山水上警察には、石原から100円、三井、三菱などからは300円がわたされていた。鐘路警察署長だけ朝鮮人だったが、あとはみな日本人だった。
一人で朝鮮にいったのではない。助手として、日本人の労務課員と朝鮮人を連れていった。その朝鮮人は、前に連れてきた人だった。医者も連れていった。
     郡警察で、石原産業への徴用者をひきわたされた。郡から、指定列車で釜山へいき、釜山で船にのり下関へ。下関から列車にのり、大阪を経由して阿田和まで行き、そこからトラックで紀州鉱山へつれてきた。わたしは引率の責任者だった。郡の警察から、朝鮮人の名前、住所、年齢の書かれた名簿をもらった。
     シンガポールにいた支店長大藪は、紀州鉱山に捕虜を連れてくる計画をもって、捕虜の管理責任者、労務課長として転勤してきた。会社から、朝鮮同胞は許さんに権限をあたえる、といわれた。
     わたしのしごとは、徴用朝鮮人の監督だった。鉱山の労務係は15、6人いたが、うち、朝鮮人はわたしたち兄弟2人だけだった。
     朝鮮人を収容するための八紘寮が完成したのは、わたしが徴用に出かけているときだった。寮長に大阪本社の警備隊長がなった。かれは反感をもたれて殴られけんかになった。殴った朝鮮人が警察に引っ張られる事件になった。わたしは朝鮮から帰ると、この寮長をやめさせた。
     戦争がおわるすこしまえのことだと思うが、
        「朝鮮民族は日本民族たるを喜ばず。将来の朝鮮民族の発展を見よ」
と坑道の入口にカンテラの火で焼きつけた文字があった。
     この落書きが問題になり、憲兵がきてしごとが中止になった。朝鮮人を並べて、「だれが書いたのか」と調べた。落書きをみて、「ようやった」、「まったく、そのとおりだ」と思った。1、2日で、この落書きは消された」。

 以上の金興龍さん、金石煥さん、許圭さんの証言は、紀州鉱山の真実を明らかにする会が、在日朝鮮人運動史研究会編『在日朝鮮人史研究』第27号(アジア問題研究所発行、1997年9月)に発表した「紀州鉱山への朝鮮人強制連行―なぜ事実を解明するか、事実を解明してどうするのか―」からの抜粋であり、林聖熙さんの証言は、『パトローネ』35号(写真の会パトローネ発行、1998年10月)に発表した「紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の故郷安東・軍威と紀和町で」からの抜粋である。
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紀州鉱山への朝鮮人強制連行 3

2011年09月22日 | 紀州鉱山
■紀州鉱山への朝鮮人強制連行
 第3 「官斡旋」は強制連行の手段

 1938年5月の「国家総動員法ヲ朝鮮、台湾及樺ニ施行スルノ件(勅令316号)」によって、「国家総動員法」が朝鮮で「施行」された(朝鮮総督府企画室編纂『朝鮮時局関係法規 全』〈台本1938年10月~追録15号1944年9月〉参照)。
 この「国家総動員法」を前提にして、1939年7月4日に日本政府は1939年度の「労務動員実施計画綱領」を閣議決定した。そこでは、
    「朝鮮人の労力移入を図り適切なる方策の下に特に其の労力を必要とする事業に従事せしむるものとす」(第13条)
とされていた。朝鮮人の日本への連行(「労力移入」)は、閣議決定により国民国家日本の政策として実施された。それは、「従事せしむるもの」という強制的なものであった。
 1939年7月28日に、「朝鮮人労務者内地移住に関する方針」、「朝鮮人労務者募集要綱」(内務・厚生両次官名義の依命通牒)がだされ、「募集」方式での朝鮮人の日本への労働者としての連行が開始された。
 アジア太平洋戦争開始2か月後、1942年2月に日本政府は「朝鮮人労務者活用に関する方策」を閣議決定し、「官斡旋」方式での朝鮮人の日本への労働者としての連行が開始された。
 厚生省が提出した1943年の第84回帝国議会参考資料文書によれば、朝鮮人の日本への連行実施にあたり、厚生省、拓務省、朝鮮総督府が協議し「具体的移入要綱」を決定し、「朝鮮人労務者募集要綱」を地方長官に通牒している。「特に其の労力を必要とする事業」(軍需指定事業)の事業主は、「移入許可申請」を職業指導所に提出し、日本政府の許可のもとで朝鮮人を日本に連行している。
 1944年9月に日本政府は「半島人労務者ノ移入ニ関スル件」を閣議決定し、「徴用」方式での朝鮮人の日本への労働者としての連行が開始された。
 「募集」方式での朝鮮人の日本への労働者としての連行、「官斡旋」方式での朝鮮人の日本への労働者としての連行、「徴用」方式での朝鮮人の日本への労働者としての連行のいずれも、朝鮮人の自由意志にもとづくものではなく、強制力の強度の違いはあったが、いずれも強制的な連行であった。
 日本政府は、現在にいたるまで、朝鮮人強制連行にかんする具体的な調査をほとんどおこなっておらず、関係文書も十分には公開しておらず、特に重要な基本文書は隠蔽しており、強制連行した朝鮮人やその遺族に謝罪も賠償もしていない。
 そのような状況のなかで、昨年(2010年)3月10日、衆議院外務委員会で自民党議員の1人が、1959年7月11日の外務省文書「在日朝鮮人の渡来および引揚げに関する経緯、とくに、戦時中の徴用労務者について」をとりあげ、
    「もし、この記載が正しければ、いわゆる強制連行と呼ばれる事実がなく、同じ日本国民としての戦時徴用と呼ぶべきであるということ、それから、1960年(原文元号)時点で戦時中に徴用労務者として日本内地に来られた方が二百四十五人にすぎず、原口大臣がおっしゃった強制連行論というのは、四十六万九千四百十五人も現在おられる永住韓国人への参政権付与の根拠とはなり得ないこと、そしてまた、日本政府として、特にこの戦時徴用者を優先して、韓国に帰還したい方々の帰還支援を行っていたということが示されたと言えると思います」
と発言している。この発言は、翌日の『産経新聞』で報道され、その直後から、朝鮮人強制連行という事実はなかったといういつわりの歴史を主張する日本人によって、1959年7月13日の『朝日新聞』東京版朝刊記事「大半、自由意志で居住 外務省、在日朝鮮人で発表 戦時徴用は245人」とともにネット上などで流布された。
 たとえば、
   http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/23.html
   http://www.asyura2.com/09/senkyo70/msg/958.html
   http://makizushi33.ninja-web.net/SEIKATUHOGO.htm
   http://brain.exblog.jp/3865449/
   http://blogs.yahoo.co.jp/mirokuninoti/38565781.html
   http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-3775.html
など。
 その後、日本政府は2010年7月1日の閣議で、「245人にすぎない」とした1959年7月の外務省発表について「詳細について確認することができないため、お答えすることは困難である」とする答弁書を決定した。
 その1年後2011年7月に被告熊野市が「答弁書」の唯一の証拠文書としてだした乙第1号証は、2010年3月ころ出回っていたこの新聞記事であった。こうして被告熊野市は、みずからいくらかでも実証的に朝鮮人強制連行・強制労働にかんする歴史的事実を追究しようとしないで、歴史を偽造しようとする日本人の言説を利用し、歴史の偽造に加担しているのである。
 日本政府は朝鮮人強制連行の歴史的事実を調査せず、事実を隠蔽し、謝罪も賠償もしてないが、韓国政府は、強制連行された朝鮮人とその遺族に日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会などの調査にもとづいて、補助金を払っている。
 日本政府が事実調査を回避し続け、基本資料を隠蔽していることもあって、「募集」方式、「官斡旋」方式、「徴用」方式での朝鮮人連行の実態を明らかにするためには、被害者やその遺族などからの証言を聞かせてもらうことが重要である。また、加害者から事実を話してもらうことも重要である。
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紀州鉱山への朝鮮人強制連行 2

2011年09月21日 | 紀州鉱山
■紀州鉱山への朝鮮人強制連行
 第2 乙第1号証の証拠能力

 被告熊野市は、1959年7月13日の『朝日新聞』東京版朝刊の記事に手書きで1947年(原文元号)7月13日書き込んだものを乙第1号証として「答弁書」に添付した。だが、この記事は1947年の『朝日新聞』のどこにも掲載されていない。
 それにもかかわらず、本年(2011年)8月4日の第1回口頭弁論の法廷で、被告熊野市の倉田嚴圓代理人弁護士が、原告 キム チョンミの「まちがいないか」という確認にたいして「まちがいない。自分がこれを見た資料では、こうなっていた」と答えていたことは、「準備書面2」でも原告が指摘しているとおりである。
 問題は、被告熊野市の倉田嚴圓代理人弁護士が法廷で「まちがいない」と強弁したことだけにあるのではない。
 1959年7月13日の『朝日新聞』の東京版朝刊と大阪版朝刊には、同文の記事が掲載されている。大阪版朝刊に、東京版朝刊と本文は同一だが、見出しが異なり「北朝鮮帰還をめぐって 残留たった二四五人 戦時徴用で来日の朝鮮人 外務省、韓国の中傷に反論」となっている記事が掲載されている。
 そして、この1959年7月13日の『朝日新聞』朝刊の記事の報道内容である「1959年7月12日の日本外務省の「在日朝鮮人の渡来および引揚げに関する経緯、とくに、戦時中の徴用労務者について」にたいして、ただちに在日本朝鮮人総聯合会中央常任委員会が反論し、そのことが、1959年7月14日の『朝日新聞』東京版夕刊に、「外務省発表はデタラメ 徴用者の数 朝鮮聯連が反論」という見出しの記事 (甲第8号証の2) が続報されている。
 「外務省発表はデタラメ 徴用者の数 朝鮮聯連が反論」という記事の冒頭には、
    「十二日外務省が出した在日朝鮮人についての発表に対し、朝鮮総連では「全く事実に反した帰国遅延策である」とする声明を同年七月十四日の記者会見で発表し、とくに外務省発表の数字について反論している」
と報道されている。
 ここで報道されている在日本朝鮮人総聯合会中央常任委員会の1959年7月14日の記者会見のくわしい内容(7月12日の日本外務省の発表にたいする長文の批判)は、7月18日の『朝鮮民報』で朝鮮語で、7月20日の在日本朝鮮人総聯合会中央委員会機関紙『朝鮮総聯』の「日文版」 で日本語で報道されている。
 被告熊野市は、1959年7月13日の『朝日新聞』朝刊の記事を証拠文書として提出するなら、その直接的な関連文書である1959年7月14日の『朝日新聞』東京版夕刊の記事、および同夕刊の記事内容の根拠である在日本朝鮮人総聯合会中央常任委員会の1959年7月14日の反論を無視すべきではなかった。
 在日本朝鮮人総聯合会中央常任委員会は、外務省と同じ日本の国家機関である大蔵省の文書に言及している。
 その文書(大蔵省管理局『日本人の海外活動に関する歴史的調査』通巻第10冊朝鮮篇第9分冊の第21章。1947年12月ころまでに作成。発行年不明)には、
    「支那事変を契機として労働力の需要は、内外を通じて頓に増大して朝鮮の人的資源は、独り朝鮮のみならず遍く日本全体の労務給源として、戦争遂行上極めて重要なる地位を占めるに至つた。殊に日本内地に於ては、軍動員の関係もあり、労務員不足の現象が特に深刻であつて、朝鮮に期待するところが漸く多きを加へて来た。総督府としては之に応ずるため1939年(原文元号)以来二十数種に近い労務統制法令を制定実施して其の態勢を整備したのである」、
    「国家自身の手に依り直接之が募集、詮衡、送出に当ることゝし1942年(原文元号)以降所謂官斡旋集団送出の方法を実施したのである」
と書かれており、文中の「朝鮮人労務者対日本動員数調」と題する表では、1939年度~1945年度の総数は、72万4787人と書かれている(甲第8号証の5)。
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