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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

文字と映像による記録・事実の伝達

2024年02月27日 | 海南島史研究
■文字と映像による記録・事実の伝達   海南島近現代史認識の過程で■

                              佐藤正人
■聞きとりの意味と方法
 日本政府・日本軍・日本企業は、アジア太平洋地域における国家犯罪・侵略犯罪を隠しつづけている。
 日本人は、侵略犯罪者・戦犯ヒロヒトを、アジア太平洋戦争後も、天皇としつづけた。植民地機関の職員、日本軍の兵士、侵略企業の職員として、アジア太平洋の各地で、多くの民衆を殺傷した日本民衆は、日本敗戦後に帰国して、過去の犯罪を隠しつづけた。
 日本政府・日本軍・日本企業の国家犯罪・侵略犯罪にかかわる証拠文書は多くは焼却・廃棄されたか隠されたままである。したがって、その歴史的事実を解明するためには、犠牲者、加害者、目撃者からの聞きとりが重要である。
 聞きとった証言を歴史的事実確認の証拠とするためには、史料批判(信憑性の検証)が必要であるのは、文書史料と同じである。
 聞きとりは、歴史的事実を解明するうえで重要な作業だが、証言=事実、とすることができないのは当然である。聞きとりの内容の真実性をたしかめるために、他の証言や文献資料や実物資料、状況資料(当時の社会・経済関係、当時の地形・自然環境、当時の生活状態)との照合も可能なかぎり、おこなわなければならない。
聞きとりは、証言者と聞きとり者との共同作業である。一回だけの聞きとりは限界がある。
 わたしたちは、二〇〇八年八月までに、文昌市重興鎮排田村・白石嶺村・昌文村・賜第村、文昌市羅豆郷秀田村、文昌市抱羅鎮石馬村、文昌市南陽鎮老王村・托盤坑村、定安県黄竹鎮大河村、瓊海市九曲江郷波鰲村、瓊海市北岸郷北岸村・大洋村、瓊海市九曲江郷坡村・長仙村・南橋村・佳文村・鳳嶺村・官園村・戴桃村、瓊海市陽江鎮覃村、瓊海市烟塘鎮大溝村・書田村、瓊海市潭門鎮潭門村九所村、瓊海市新市鎮南城園村、瓊海市参古郷上坡村・外路村、瓊海市大路鎮川教村、万寧市石城鎮月塘村、万寧市東澳鎮豊丁村、万寧市南橋鎮田公村、万寧市龍滾鎮、万寧市和楽、万寧市烏場、万寧市北大鎮中興、儋州市中和鎮東坡村、儋州市長坡鎮呉村、陵水黎族自治県后石村・三十笠村、陵水黎族自治県陵城鎮南門嶺、瓊中黎族苗族自治県湾嶺鎮烏石、瓊中黎族苗族自治県黎母山鎮黎母山村・榕木村、瓊中黎族苗族自治県吊羅山郷、五指山市水満郷、楽東黎族自治県仏羅鎮仏羅村、東方市感城鎮長坡村、三亜市羊欗鎮妙山村、海口市永興鎮、海口市咸来鎮美村・美桐村・昌洽村・美良村・丹村、海口市三江鎮上雲村・古橋村・東寨村・演州村・福内湖村、海口市長流鎮儒顕村、海口市東山鎮儒万村、三亜市田独鎮「朝鮮村」……など海南島の各地を訪ね、住民虐殺の目撃者や幸存者から話しを聞かせてもらい、それを文字と映像で記録してきた。
 わたしたちは、同じ地域をくりかえし訪問し、同じ人びとにくりかえし話を聞かせていただくようにしてきた。そして、そのたびに新しい事実を知り、あいまいであった点を明確にすることができた。
 証言を聞き記録することは、侵略と抵抗の史実を探求するとともに、その史実の史料を創出することでもあった。
 日本では、加害者が証言を拒否しているが、証言拒否もまた、ひとつの証言の方法である。

■動画による記録
 わたしたちは、二〇〇三年春から、記録映画の制作をはじめ、二〇〇三年七月に、『海南島で日本人はなにをやったか! 日本軍の海南島侵略と抗日闘争① “田独鉱山・「朝鮮村」”』(二三分)を試作し、二〇〇三年一〇月に『日本は海南島でなにをやったか』(三分)を試作したあと、二〇〇四年春に、最初のドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 六〇年前は昨日のこと』(六五分)を完成させた。
 いちれんのドキュメンタリー制作の過程で、わたしたちは、聞きとりのありかたを検証するとともに、動画による記録の意味を分析しつつその方法を模索してきた。
 文字や絵による記録と静止画(写真)や動画という映像による記録とは、相互に補いあうものであるが、もちろんそれぞれが独自の役割をもっている。
 海南島で証言を聞かせてもらうときにビデオカメラを使いはじめた二〇〇一年一月からの数年間は、そのことの意味の大きさを明確に自覚しておらず、それまでの文字と写真による記録との質の違いをあまり重視していなかった。
 撮影しつつ発問し、発問しつつ撮影するという作業の意味を論理化しなければならないと気づいたのは、二〇〇三年春以後であった。

■写真による記録
 日本軍が海南島に奇襲上陸してから六八年後の二〇〇七年二月一〇日に発行した写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』は、終わっていない全世界的規模の民衆闘争の時代を、海南島という地域に限定して写真と証言(ことば)で記録し伝達しようとするものであった。
 ことばと写真は、記録する手段であるとともに、伝達する手段である。
写真と証言(ことば)は、相互に補いあって、事実を伝達してくれる。
写真は、ことば(文字)で表現できないことを伝達してくれる。
 写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』制作の過程で、わたしたちは、歴史認識と歴史叙述の手段として、写真の役割が大きいことを再確認した。
証言者は、ことばだけでなく、その姿と表情で証言する。
 写真を撮影し、選択し、編集していく作業は、写真によって歴史を叙述していく作業である。
 証言(ことば)を聞きとり文字で記録するとともに、映像で記録し、ことばと映像で史実を明らかにし、それを伝達していくことがたいせつである。

■文字と映像
 二〇〇四年四月に最初のドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 六〇年まえは昨日のこと』の日本語版を、七月に朝鮮語版を、一二月に漢語版を完成させたあと、わたしたちは、二〇〇五年秋にドキュメンタリー『「朝鮮報国隊」』の制作をはじめた。 最初のシナリオ草案の最終部分は、つぎのようであった。

 「南方」の島に強制連行された朝鮮人  グアム島、マキン島、タラワ島、ペルリュー島……の朝鮮人。
 地図 現在のアジア太平洋地図アジア太平洋戦争期のアジア太平洋地図 。
地図 アジア太平洋戦争期のアジア太平洋地図→グアム島、トラック島、ウォッチェ島、テニヤン島、ペルリュー島、マキン島、タラワ島、ペルリュー島、硫黄島……。 
 映像 朝鮮人徴兵。
 ナレーション 朝鮮人は、日本軍基地造成のために、海南島よりさらに「南方」のトラック島、ウォッチェ島、テニヤン島、マキン島、タラワ島などに強制連行されました。
 その地で、日本軍敗退時に多くの朝鮮人が、餓死、「戦死」させられました。 
獄中者を「南方」の島に送って強制労働させる策動は、一九三九年秋から、日本で始められていました。
 一九四三年まで朝鮮人獄中者の「南方派遣」が強行されなかったのは、日本政府・日本軍が朝鮮人の反抗を恐れたためだと思われます。
 軍隊内反乱を恐れていた日本政府が、朝鮮人に対する徴兵制を公布したのも「南方派遣報国隊」策動がはじめられたのと同じ一九四三年春でした。
 映像 ペルリュー島の朝鮮人犠牲者追悼碑(写真)。
 映像 グアム島、マキン島、タラワ島、ペルリュー島……の当時の状況(写真)。 
 ナレーション 日本軍基地造成のために、トラック島、ウォッチェ島、テニヤン島、マキン島、タラワ島などに朝鮮人が強制連行され、日本軍敗退時に多くの朝鮮人が、餓死、「戦死」させられました。
 映像 窪田精『トラック島日誌』。窪田精『流人島にて』 。
 ナレーション 「治安維持法」違反で横浜刑務所に入れられていた窪田精さんは、一九四二年三月に、「第五次トラック島図南報国隊」として、五〇〇人余りの受刑者と六〇人あまりの看守と共に、トラック島に向かう船に乗せられました。同じ船に、七〇〇~八〇〇人の「朝鮮人軍夫」も乗せられており、受刑者のなかにも朝鮮人がいたといいます。
 映像 トラック島。北川幸一『墓標なき島 ある受刑者の“戦争”』 。
 ナレーション トラック島に送られた受刑者や朝鮮人は、日本海軍の飛行場作りをさせられ、厳しい労働やアメリカ合州国軍の爆撃により殺されました。
三重県安芸郡美里村の村議Aさんは、当時トラック島に行った刑務官の一人でした。
 映像‥ウォッチェ島。
 ナレーション 「ウオヂェ赤誠隊」がウォッチェ島で海軍の飛行場基地を完成させたあと、一九四二年七月に、朝鮮人が軍属としてウォッチェ島に送りこまれ、道路建設などをさせられました。
 映像 「陸海軍要員としての朝鮮人労務者」。 
「現在迄に直接戦闘に起因して死歿せる者約 七三〇〇名(「タラワ」「マキン」両島に於ける玉砕者約一二〇〇名を含む)と推定せられ其の外行方不明七三五名を出せり」。
 テロップ 『第八六回帝国議会説明資料』一九四四年一二月、朝鮮総督府鉱工局勤労動員課、一六八葉)。
 ナレーション 一九四三年一一月に、マキン島とタラワ島の日本軍が、アメリカ合州国軍の攻撃によって壊滅しました。このとき、日本軍に使われていた朝鮮人労働者のうち、一二〇〇人が死んだといいます。  
 これは、そのことを当時の日本の議会に報告する朝鮮総督府の文書です。
 映像 テニヤン島。
 テロップ 一九四五年七月二四日、USA軍上陸時、朝鮮人二七〇〇人、日本人一万三〇〇〇人がいた。

 一九四三年九月三〇日に、天皇ヒロヒト・日本政府・日本軍の中枢は、「千島、小笠原、内南洋(中、西部)及西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む区域」を「絶対国防圏」(「帝国戦争遂行上、太平洋及印度洋方面に於て絶対確保すべき要域」)として設定した。しかし、一九四四年一二月に、「絶対国防圏」東端のマキン島とタラワ島の日本軍が、アメリカ合州国軍の攻撃によって壊滅した。一九四四年一二月末の朝鮮総督府文書『第八六回帝国議会説明資料』には、
 「陸海軍要員としての朝鮮人労務者」のうち「現在迄に直接戦闘に起因して死歿せる者約 七三〇〇名(「タラワ」「マキン」両島に於ける玉砕者約一二〇〇名を含む)と推定せられ其の外行方不明七三五名を出せり」
と書かれている。
 このことを、ドキュメンタリー『「朝鮮報国隊」』で示そうとして、前記のようなシナリオを書いたが、このような説明的なことは、映像で伝達する必要がないと判断し、すべてを削除した。

■ドキュメンタリーのみが伝達する内容
 主として動画を編集して制作するドキュメンタリーと文字史料(聞きとりの文字記録をふくむ)・文献を分析して書く論文とは、それぞれの伝達内容が異なる。
両者が単独では伝達できない内容を、写真集ではいくらかは伝達できるが、その質は異なる。
 わたしたちは、ドキュメンタリーのみが伝達しうる内容を表現する方法を、ドキュメンタリーを制作していく過程ですこしづつ学習していった。
 わたしたちが留意したのは、できるだけ映像そのもので表現することであった。説明的になることを避けるために、ナレーションやテロップを簡潔にし、観る人が記録された映像の断片ひとつひとつに表現されている事実を認識しその歴史的意味を考える「動機」をもつことを期待してドキュメンタリーの編集をすすめた。
 わたしたちは、映像の選択・時間設定(テンポのとりかた)に多くの時間を使った。
 ドキュメンタリーという報告物を制作するために、わたしたちは、それまで撮影した映像を前提としておおまかな構成を決め、シナリオ草案を書きあげ、シナリオの各パートごとに三秒間から数分間のクリップを一〇〇個ほどつくり、それを編集していった。
 そのさい、わたしたちは、ひとつの場面のクリップを三秒にするのか五秒にするのかを決定するのに数時間討論したこともあった。
 一日に数十個のクリップを編集していけば、計算上は一か月ほどで一時間のドキュメンタリーを制作できるが、実際にはその一〇倍ほどの時間が必要であった。
 また、できるだけ文書を画面にださないように工夫したが、たとえば、金慶俊さんの戸籍簿の
 「一九四三年十一月一日午後十一時三十分南支那海南島白沙県石碌朝鮮報国隊隊員病舎ニ於テ死亡京城刑務所長朝鮮総督府典獄渡辺豊届出同年十二月二十四日受附」(原文は、「元号」使用)
という部分は、とりこんだ。
 この文書は、「朝鮮報国隊」ということばが記されている数少ない公文書のひとつである。
 わたしたちは、この文書の画像に、「金慶俊さん(一九一五年一〇月一六日生)の戸籍簿」というテロップをつけ、石碌地域の映像とソウルで話を聞かせてもらうことができた金忠孝さん(金慶俊さんの甥)の証言映像とを合わせて三二秒ほどのクリップをつくり、
 「金忠孝さんの叔父金慶俊さんは、「朝鮮報国隊」に入れられ、海南島に強制連行され、石碌で亡くなりました。二八才の誕生日の一か月後でした。妻の裵鳳業さんとのあいだの金忠萬さんは生後七か月でした」
というナレーションを入れた。
 
■映像による証言内容の伝達
 ナレーションをいれず、証言者の声以外の現地音を絞りきって、映像のみによって証言内容を伝達することを、わたしたちは試みた。
 それは、映像が伝達しうる内容を表現する究極の方法なのだが、そのためには、その原映像が、そのような試みに耐えうる質をもつものでなければならない。
 そのような映像を記録することは、撮影技術とは無関係のことであって、それが可能な「場」に撮影者(記録者)がいることが決定的な条件である。同時にそのような「場」は、撮影者が撮影を中止すべき「場」でもある。

■対象と自己の関係
 ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』で、わたしたちは、一九四五年五月二日に日本兵によって命を奪われた月塘村の人びとの生と死の軌跡をたどろうとした。六〇年を越す歳月のかなたで、ある日突然いのちを奪われた、いまは不在の人たちの生と死を、どのように映像で表現するのか、どうしたら、映像で表現できるのかを考えつづけながら。
 殺害現場、墓地の映像では、殺された人たちのそれまでの生を表現できない。あの時まで、人びとが呼吸していた月塘村の大気や、浴びていた光を撮影する方法を、わたしたちは模索した。殺された人びとのそれまでの生を表現できなければ、その死の重さを、意味を表現できないと思いつつ。
 その模索の過程で、わたしたちは、ドキュメンタリーで表現できるのは、表現しなければならないのは、対象そのものではなく、対象と自己の関係ではないかと考えはじめた。
 おそらく、対象と向き合う者のありかたによって、映像としての対象が規定されるのだろう。
 死者の生と死の軌跡を映像化しようとするとき、対象は直接的な映像としては実在せず、ただ関係においてのみ「実在」するのではないか。

■月塘村へ
 わたしたちは、一九九八年夏に、海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』上(一九九五年八月)によって、月塘村虐殺のことを知った。
 二〇〇二年春にはじめて万寧市万寧鎮に行き、地域の日本軍犯罪史と抗日反日闘争史を研究している蔡徳佳さんに会った。
 蔡徳佳さんは、
 「万寧市北部の六連嶺地域は、抗日武装部隊の根拠地だった。侵略と抵抗の歴史を統一的に具体的に追及しなければならない」、
と言った。わたしたちは、これから、共同作業が実践的にも思想的にも可能となる道を求めていきたいと話しあった。
 蔡徳佳さんは、万寧県政協文史辧公室編『鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』(『万寧文史』第五輯、一九九五年七月)を寄贈してくれた。
 そこには、月塘村虐殺にかんして、蔡徳佳さんが林国齋さんと共同執筆した「日軍占領万寧始末❘❘製造“四大屠殺惨案”紀実」と、楊宏炳・陳業秀・陳亮儒・劉運錦「月塘村“三・二一”惨案」が掲載されていた。
 二〇〇五年秋、わたしたちは、蔡徳佳さんに紹介されて、万寧市内で、朱進春さんから話を聞かせてもらった。当時八歳だった朱進春さんは月塘村に侵入してきた日本兵に銃剣で八か所刺されながらも生き残ったが、その後、村人に「パァタオ(八刀)」と呼ばれたという。
 わたしたちが、はじめて月塘村を訪れたのは、二〇〇七年一月一七日であった。この日朝、わたしたちは、月塘村に生まれ万寧市内に住んでいる朱深潤さんに月塘村につれて行ってもらった。この日、わたしたちは、自宅で朱学平さんから、あの日のことを聞かせていただいた。
 その四か月後、五月に、わたしたちは、再び月塘村を訪ねた。
 わたしたちが、朱学平さんから、瀕死の妹の朱彩蓮さんを抱えて「坡」まで逃げたことを聞いたのは、朱学平さんにはじめて会った日だった。その後、五月に再会し、一〇月はじめから一一月上旬にかけて月塘村に毎日のように行って、なんども朱学平さんに会った。
 二〇〇七年一月には、わたしたちには月塘村虐殺にかんするドキュメンタリーを制作するという発想はなかった。
 五月に、月塘村で朱進春さんや朱振華さんなどと話し合っているとき、いっしょにドキュメンタリーを制作しようということになった。数日後、わたしたちは、その準備作業として、月塘村の風景の撮影を始めた。
 月塘のそばの太陽河ぞいの三叉路にカメラを固定し、遠景を撮影していると、遠くから鍬をかついだ人が歩いてきた。その人が近づいてくるのを撮影しつづけた。その人は、朱学平さんだった。畑から帰る途中だということだった。
 その後も、このような偶然の出会いが何度となくあった。
 何度会っても、朱学平さんは、笑うことがなかった。
 その朱学平さんを見ているとき、しばしば、わたしたちは、一九二六年一月に、四歳のとき、日本の三重県木本町(現、熊野市)で父裵相度さんを虐殺された裵敬洪さんのことを思った。
 裵敬洪さんは、
 「父が殺されてから、わたしは心の底から笑ったことは一度もない」
と言っていた(金靜美「白いトックがふみにじられていた 裵敬洪さんの記憶より」、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会編刊『紀伊半島・海南島の朝鮮人――木本トンネル・紀州鉱山・「朝鮮村」――』二〇〇二年一一月)。

■ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
 わたしたちは、朱学平さんが自宅や虐殺現場で証言する映像に、つぎのようなナレーションをいれた。

 朱学平(チュシュエピン)さんは、
 「わたしは、一二歳だった。朝はやく、日本兵がとつぜん家に入ってきて、なにも言わないで、殺しはじめた。わたしだけが生き残った。母、兄の朱学温(チュシュエウェン)と朱学敬(チュシュエジン)、姉の朱彩和(チュツァイホ)、叔母二人、いとこ二人、そして六歳だった妹の朱彩蓮(チュツァイリェン)が殺された。
わたしは、柱のかげに倒れるようにして隠れて助かった。妹は腹を切られて腸がとびだしていたが、まだ生きていた。
 血だらけの妹を抱いて逃げた。途中なんども妹が息をしているかどうか確かめた。激しい雨が降った。      
 村はずれに隠れた。
 半月ほどたって戻ってみたら家は焼かれていた。遺体も火にあっていたが、骨になりきっておらず、く さっていた。
 まもなく、日本軍の手先になっていた者たちが万寧(ワンニン)から来て、遺体を近くに運んで埋めた。
 その五年前の一九四〇年一一月二八日に、父の朱開廉(チュカイリェン)が、近くの東澳(トンアオ)村に魚を買いに行き、日本軍に銃で撃たれて殺されていた」
と話した。

【写真】朱学平さん

■朱彩蓮さん
 わたしは、朱学平さんの妹、朱彩蓮さんを、映像で表現したいと考えた。もちろん、朱学平さんの記憶のなかの朱彩蓮さんを撮影することはできない。しかし、朱彩蓮さんを記憶している朱学平さんを撮影することはできる。
 わたしは、思い切って、朱学平さんに、あの日朱学平さんが朱彩蓮さんを抱いて逃げた「坡」まで行きたいと言った。
 朱学平さんは、「坡はすっかり変わってしまった」とだけ答えた。
 その数日後、わたしは、朱学平さんと、「坡」に向かった。その道は、以前にも歩いたことのある道だったが、朱学平さんといっしょに歩いていると、見知らぬ違う道のように感じた。
 以前行った地点を通り越して、道がなくなったところをさらに一〇〇メートルほど行ったところで朱学平さんは立ち止まった。すぐそばを太陽河が流れていた。
そこで、朱学平さんは、つぎのように話した。

 「あのとき、わたしは、妹を抱いて、前を走っていく人について、逃げた。
妹が痛いというと、いったん下におろし、また抱えて走るようにして逃げた。 
雨が降りそうになったので急いだ。ここまで逃げてきて隠れた。ここには一〇〇人あまりが隠れた。
 あの日、午後三時ころだったと思うが、大雨が降った。夜には止んだ。
ここにはすぐには食べるものがなかったが、まもなくさつまいもを探して掘って煮て食べた。鍋は、‘坡’に住んでいた人に借りた。水は太陽河から汲んできた。 
 妹は、三日後に死んだ。
 妹は、なにも食べようとしないで、水だけ飲んで死んでしまった。妹は、ただ、痛い、痛いと言って、水だけを欲しがった。
妹のからだは、年寄りに助けてもらって近くに埋めた。いまでは、どこなのかはっきりしない。
 叔父(朱洪昆)が日本兵に一〇か所あまり刺された。からだに虫がわいて、何日もしないうちに死んだ」。

【写真】太陽河・牛

 こう話したあと、朱学平さんは、樹と草の茂みに入って行った。そして、とつぜん泣き出した。
 そのあと、朱学平さんは、仕事があると言って、一人で家に帰って行った。
 岩場の多い太陽河が、光って流れていた。太陽河沿いの細い道を下流に進んでいくと、銀白色のススキが風に大きく揺れていた。すぐに道が川辺をはずれ、ビンロウジュの畑にでた。
 夕方、帽子を返しに、朱学平さんの家に行ったが、朱学平さんはいなかった。連れ合いさんが、
   「午後、坡から戻ってから、夫はずっと泣いていた」、
と話した。

■歴史叙述・記録・映像
 ドキュメンタリーは、記録であるとともに、歴史叙述である。
 ドキュメンタリーのシナリオは、ことばによる記録と歴史叙述だが、文章形式のことばだけによる記録・歴史叙述とは違い、影像による表現を前提としている。
 ドキュメンタリーシナリオという形式での記録・歴史叙述は、撮影してきた映像および撮影しようとする映像に規定されるが、同時に、撮影できない映像をも前提としなければ、書きあげることができない。
 ドキュメンタリーのシナリオは、証言を文字で記録しているという意味では記録であるが、映像を前提とし数百個のクリップを編集しているという意味では歴史叙述である。
 わたしたちにとって、『海南島月塘村虐殺』のシナリオを書くということは、歴史を認識すると同時に歴史を叙述するということだった。
 ナレーションという形式の歴史叙述を書くためには、依拠する文献史料の史料批判を厳密におこなわなければならないのは当然である。
 ナレーションは、現在の証言映像に示されている過去の歴史的事実、現在の廃墟の映像に示されている過去の歴史的事実をことばによって「解説」するものであり、文献史料と影像史料を結びつける役割を果たすものである。

■史料としての映像記録
 ドキュメンタリー『「朝鮮報国隊」』は、二〇〇一年一月以後に撮影した一〇〇時間近い原映像を編集したものである。その構成を決定し、シナリオを書く作業は、文字による歴史叙述の場合と方法的には同じ作業であった。
 撮影を開始したときには、自覚していなかったが、「朝鮮報国隊」について語る証言者や「朝鮮報国隊」にかかわる現場を撮影することは、「朝鮮報国隊」にかんする史料を創出することであった。
 ドキュメンタリー『「朝鮮報国隊」』のシナリオを、わたしたちは、海南島と韓国で撮影した原映像と日本内閣文書・朝鮮総督府文書・日本軍文書などを史料として執筆した。
これまで、わたしたちは、「朝鮮報国隊」に入れられ、生き残って故郷にもどることができた人たちから、韓国で話を聞かせてもらうことができた。そのうち、証言している映像の公開を承諾してくれた人は、高福男さん、柳濟敬さん、呂且鳳さんであった。わたしたちは、高福男さん、柳濟敬さん、呂且鳳さんを何回も訪ねた。
 その証言を記録した映像は数十時間だが、そのうち、ドキュメンタリー『「朝鮮報国隊」』で紹介できたのは、五分ほどであった。したがって、高福男さん、柳濟敬さん、呂且鳳さんの証言の史料としてのドキュメンタリー『「朝鮮報国隊」』の役割はきわめて限定的である。
 「朝鮮報国隊」にかんする文書史料は、ほとんど公開されていない。
わたしたちが撮影した映像史料を検討することなしに、これからは、「朝鮮報国隊」にかかわる日本の侵略犯罪事実を明らかにしていく作業はほとんど進展しないだろう。
 「朝鮮報国隊」にかんする史実探求においてだけでなく、国民国家日本の海南島侵略犯罪にかんする史実探求においても、わたしたちが撮影してきた証言映像・現場映像は、その史実にかかわる史料となっている。

【写真】「朝鮮村」
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「海南歷史」

2021年10月12日 | 海南島史研究
https://zh.wikipedia.org/zh-hans/%E6%B5%B7%E5%8D%97%E6%AD%B7%E5%8F%B2
「维基百科,自由的百科全书」本页面最后修订于2021年1月9日08:09。
■海南歷史
 海南一般指海南岛,古称琼州,现海南省于1988年建省,是中国第5个经济特区,第23个省份以及第31个省级行政区。
  • 海南的历史可追溯到旧石器时代早期。最早的人类活动遗址为三亚市落笔洞古人类文化遗址、石贡遗址、东方市的付龙园遗址和文昌市凤鸣村遗址等。在以上遗址发现了大量的石器和陶器残片,为研究海南岛石器时代提供了宝贵的资料。

先秦时代

  • 海南岛的原始居民在距今3000年前(相当于历史上的商周时期),因自然条件的变化,陆续迁移到平原、台地、河岸和海湾地带生活,从事原始农业、手工业、狩猎、捕鱼和采集活动,开创了海南岛的文明。秦末汉初原始社会开始瓦解,先从岛的北部开始,逐渐向东部、南部沿海及内地山区推移,延续时间很长。五指山少数民族地区在清末民初还保留着原始社会的残余。

秦汉时代

  • 秦朝,海南为象郡属地。
  • 西汉元封元年(公元前110年),路博德攻下海南岛,设置珠崖郡(治今海南琼山)、儋耳郡。西汉末年,罢弃珠崖、儋耳二郡,对海南实行遥领统治。
  • 中国人在汉代便发现了南沙群岛,此在东汉杨孚《异物志》、三国时万震的《南国异物志》、东吴将领康泰的《扶南传》等书中均有记载。越南方面一直指異物誌等書曾記載美人魚的光怪陸離之事,其可靠性成疑。

魏晋南北朝

  • 三国时期,吴赤乌年间(238年~251年)设珠崖郡(治今广东徐闻)。
  • 晋武帝太康元年(280年),省珠崖郡,并入合浦郡。
  • 南朝宋文帝元嘉八年(431年)复立珠崖郡,治徐闻,不久又废。
  • 南朝梁武帝大同(535年~546年)中,在废儋耳郡的地方设置崖州,统于广州。
  • 南越族首领冼夫人引海南岛各族归附梁朝。
侯景之乱时,冼夫人率兵击破高州刺史李迁仕,并与都督陈霸先联合,平定广东叛乱。冼夫人保境安民,被嶺南人尊为「圣母」。陈朝建立后,冼夫人即率众归附陈朝。

隋唐五代

  • 隋初,岭南数郡共奉高凉(今广东阳江西)冼夫人为主,保境拒守。隋派使臣安抚岭南,杨广亦命陈叔宝致书冼夫人,劝其归隋。冼夫人以其孙率众迎接隋使,岭南诸州(包括海南岛)悉为隋地。至此,结束了永嘉之乱以来280余年南北分裂的局面,完成了隋文帝统一南北的大业。
  • 唐贞观五年(631年)增设琼州,海南简称“琼”即源于此。
  • 西沙群岛上有一处唐时期遗址 石碑,表明中国人自唐以來就开始在西沙群岛生活
  • 唐末諸藩崛起,南漢國在嶺南立國。而今海南省直轄於南漢朝廷。宋太祖開寶四年平南漢廢其建制。

宋元

  • 宋朝,海南岛与今广西壮族自治区的大部分一起属于广南西路。唐宋八大家之一的蘇軾曾被貶官至此。
  • 元朝,岭南地区和海南岛没有单独设置一级行政区划,而是将原宋朝广南东路辖区归江西行省管辖;原广南西路划归湖广行省管辖,今海南省和广东省雷州半岛,都归湖广行省管辖。
  • 宋以來,中沙群島被稱為千里長沙。1279年,著名天文学家郭守敬进行“四海测验”时在南海的测量点就是今海南省南海中的黄岩岛。
  • 《元史》地理志和《元代疆域图叙》记载元代疆域包括了南沙群岛。《元史》还记载了元朝海军巡辖了南沙群岛。

明清

  • 明朝初期,两广与江西、湖南分开。由于广西壮、黎、瑶三个民族反明起义猛烈,明朝皇帝朱元璋采用分而治之的办法,把黎族聚居的海南及广西门户钦、廉州划归广东。
  • 从明朝开始,琼州府隶属于广东省,治所在琼山县(治今海口市琼山区府城镇),管辖全岛。西沙、南沙群岛正式划归琼州府管辖。
  • 清朝基本沿袭明制,至清末,海南岛上有1府2州11县。府即琼州府,领儋州和琼山、澄迈、定安、文昌、会同(今琼海)、乐会(今琼海)、临高7县。崖州于光绪三十一年(1905年)升为直隶州,领感恩(今东方)、昌化(今昌江)、陵水、万县(今万宁)4县。
  • 明代《海南卫指挥佥事柴公墓志铬》中的记载表明南沙群岛属于明代版图,明代海南卫巡辖了西沙、中沙和南沙群岛。在清代,中国政府将南沙群岛标绘在权威性地图上,对南沙群岛行使行政管辖。1724年的《清直省分图》之《天下总舆图》、1755年《皇清各直省分图》之《天下总舆图》、1767年《大清万年一统天下全图》、1810年《大清万年一统地量全图》和1817年《大清一统天下全图》等许多地图均将南沙群岛列入中国版图。

民國

  • 1916年10月,龍濟光被滇桂护国军和广东民军擊敗,退守海南島,管治直至1918年。
  • 桂系軍閥沈鴻英(1919-1920年)和滇系部將李根源(1920年)先後統治海南島。
  • 1921年1月,邓本殷率部隊打敗旧桂系的琼崖驻军团长何福昌,進佔海南島,直至1926年1月被國民革命軍張發奎部和陳濟棠部聯合打敗,撤出海南島,結束對海南島近5年的管治。
  • 海南在明清时期一直歸广东省管轄,至國民黨执政的中華民國南京国民政府時期,方获升格為省之機會。先是胡漢民、孫科提議設立瓊崖特別區,並於民國20年(1931年)12月7日,國民政府國務會議決議:劃廣東省環崖全屬爲特別行政區,直隸國民政府,設行政長官,並任命伍朝樞爲行政長官[1]。伍朝樞於民國21年(1932年)3月1日就任瓊崖特別區行政長官;4月16日,在海口設立瓊崖特別區長官公署臨時辦事處,以瓊崖原有13縣及西沙群島爲管轄範圍[2],5月27日,西南政務委員会修正公布的《修正琼崖特别区政府组织条例》,惟後因陳濟棠暗中阻撓,改建事宜未能實施。
  • 1939年2月10日,日军占领海南,随即成立了第四基地队作为最高统治机关,11月改名为海南岛基地队。1941年4月10日改名为海南警备府。1939年5月亦成立了傀儡机构治安维持会(后更名琼崖自治委员会),赵士桓任委员长,1942年更名为琼崖临时政府,直到1945年8月15日日军投降。[3]
  • 抗戰勝利後,民國36年(1947年)8月,行政院院務會議通過以瓊崖改爲海南特別行政區,隸屬行政院,民國37年(1948年)行政院命令公佈,民國38年(1949年)4月正式成立行政長官公署,派陳濟棠爲行政長官。5月20日,《海南特區行政長官公署組織條例》制定10條;5月24日,《海南建省籌備委員會組織條例》制定11條。同年6月6日公布這兩份法律,並准在海口成立建省籌備委員會,以籌謀進行改省事宜。(中華民國61年)1972年3月7日,立法院通過停止適用這兩份法律,同年3月18日公布。民國92年(2003年)5月13日廢止這兩份法律,同年5月28日公布。

中华人民共和国时期

  • 1949年10月1日,由于中华人民共和国之主权在实际上仍未及于海南島及其他廣大邊疆地区,北京的广播电台宣称:“中国人民解放军一定要解放包括西藏、内蒙、海南、臺灣在内的中国领土。”1950年3月至5月間發生了海南島戰役。4月23日,中國人民解放軍佔領海口。随后,解放军的后续部队陆续渡海与先遣部队会合,向国军余部猛攻,相继占领了榆林、三亚等主要地区。5月1日,海南岛全境落入解放軍手中,解放軍攻佔海南島,海南遂恢復併入廣東省,地位下降。其后在长达38年的时间里,将海南作为国防前线要地不列入计划发展地区,至此導致了海南長達30多年的時間得不到發展,經濟基礎薄弱。
  • 1955年,廣東省人民政府海南行政公署改稱廣東省海南行政公署。此外建立了海南黎族苗族自治州,州府駐保亭縣沖山鎮。
  • 1959年3月24日,中國中央政府設立了西沙群島、南沙群島、中沙群島辦事處(簡稱西、南、中沙群島辦事處、西沙辦事處或西沙辦),負責行使西沙群島、南沙群島和中沙群島及其周边海域的主權與管轄權。1983年,中華人民共和國地名委員會公佈包括南沙群島在內的南海諸島標準地名。
  • 1984年5月31日,第六届全国人民代表大会第二次会议审议了国务院关于成立海南行政区人民政府的议案,决定设立海南行政区。1984年10月1日,撤销海南行政区公署,海南行政区人民政府正式成立。
  • 1988年4月13日,第七届全国人民代表大会第一次会议通过《关于设立海南省的决定》和《关于建立海南经济特区的决议》,批准海南岛为海南经济特区,实行更加灵活开放的经济政策。1988年4月26日,中国共产党海南省委员会、海南省人民政府正式挂牌,定海口为省会。海南建省後經濟得以快速發展。
  • 2012年6月21日,国务院撤销西沙群島、南沙群島、中沙群島辦事處,在西南中沙办事处的基础上设立地级市三沙市,市政府驻地在西沙的永兴岛。
  • 2015年2月19日,國務院同意撤銷縣級儋州市,設立地級儋州市,以原縣級儋州市的行政區域為地級儋州市的行政區域,市政府駐那大鎮中興大街中1號,為海南第四個地級市。
参考文献
1. 國民政府第461號訓令,刊於民國21年1月10日,廣東省政府公報第176期
2.廣東省政府公報民國21年4月10日第183期,暨同年4月20日第185期
3.海南史志网 第二编 琼崖国民政府 >> 附: 琼崖日伪政权. [2014-08-02]
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「从保国农场“日本桥”钩沉“抱逸线”」

2021年06月25日 | 海南島史研究
http://bbs.tianya.cn/post-202-569315-1.shtml
「天涯 社区 多港峒客」 2021-06-24 18:44:27
■从保国农场“日本桥”钩沉“抱逸线”
  日军侵琼出于抢掠镇压目的,曾修筑了一些公路桥。最著名的是海口南渡江铁桥,1984年濒危停用,2009年被定为省级文物。其次是三亚市崖城区的水泥“万代桥”,据称仅通车一两年桥头即被冲毁,后来陆续残塌,1990年被列为市文保单位,近年重修改造,与旧貌相去已远。
  日据期间,三亚河上还建有“潮见桥”“汐见桥”,解放后称为三亚大桥,先后三次扩建,原貌荡然无存,与文保无关了。
  不过,海南还有座不大的公路桥,地图居然就叫“日本桥”,位于乐东县保国农场闻名遐迩的毛公山瞻仰点以西3公里处,至今未见被人提起。
  我是在追寻古崖州“入黎”通道过程中,在电子地图上发现这座桥的,它位于古通道与现代S314省道大桥之间,各相距一两百米。
  “日本桥”,地名必录自民间,亦必有原因。实地发现这座老桥还能行车,连通着附近一个冷僻居民点:保国农场砖厂。
  
【相片】保国“日本桥”现状

  这是一座低水位的板式水泥桥,桥面狭窄不能会车,桥身厚实,由水泥砌石的五个流线型桥墩支撑,洪水可以漫顶而过。桥头未发现任何字迹,桥边水泥栏杆粗厚,是以预制件榫卯“组装”的,或许屡经碰撞已多半残落。此外,全桥完好,整个设计施工风格都是近代的,桥墩甚至看不出多少沧桑感。
  真是日据时代,尚具功能的原状公路桥遗存吗?恐怕不是。
  2002年版《乐东县志》载:解放前,县境内有番阳、白沙、望楼、千家等四座简易木桥,解放时均已失修毁坏。又载:日据时修筑了从乐东到崖县的简易公路“抱逸线”,总长70公里,乐东境内20公里。
  白沙桥位于今佛罗镇白沙河,望楼桥位于望楼河,都在海榆西线公路,该路民初就被列为省道干线。日据时代连它们都只是木桥,简易公路“抱逸线”这道桥当然也只能是木桥,不可能是耗材甚多的钢筋水泥桥。
  
【图】1937年地形图《多港峒》图幅局部,引者判读及加标了两道桥位置,橙色虚线为清代崖城至乐东通道,蓝线为相关水系。

  笔者考据,“日本桥”正是日据时代“抱逸线”工程之一。“抱”指抱由,“逸”疑为“崖城”的误译,或崖城以东某地,但从乐东至宁远河干流西岸这一段,是明确的。民国后期有个缩略版中英文地图,以红白相间的路线清晰标注这条乐东至崖城公路,就是“抱逸线”,正通过此桥所在地。
  这个区域接近宁远河支流南文河(又名雅边方河)的发源地,呈掌状的四条小山溪汇流处。据光绪《崖州志》所载崖城至乐东古道,本段从晨勉村(今明善村、鸡头村)北上,“复行岭路十里,至抱虽村(村名今已佚)。又过山冈,冈有小石,难行。复行岭路十里,出止强(止强峒南端一村,今志强村南),平坡。”
  在1938年版五万分之一地形图《多港峒》图幅中,清晰标示了这条古通道。它跨越最左一条山溪,以便尽浅涉水,再穿行崎岖山地北上止强。而其东南百余米的日本桥,建于左侧两山溪汇合后之处,线路东移减少了崎岖,洪水也仍有限。
  
【图】民国后期缩略地图,取志强峒至大龙村一段,图上可见只强、晨勉、大龙等村,引者加标了日本桥与当代桥位置。按图例,这条红白相间线是“松路面晴雨路,二车或三车道”公路,当为“抱逸线”。

  桥南再两百米,就是S314省道大桥。这道高水位桥以一个深深的倒U形线路,选地形跨越四条山溪的汇合部,再以九十度直角抛离老线东行,把南文河源头的起伏地势整个抛在脑后,到了保国农场场部才重新北上,汇合老路,获取更平坦的路况。
  这处看似不起眼的节点,三条逐级东移的交通线,充分表达了古代、近代、现代材料与工程技术在解决“涉水”课题上的巨大差异,也为我们揭开了日本桥“被废”之谜。抗战胜利后,这条缺乏维护的简易公路就无法通车,陆续湮废了。
  1982年《广东农垦国营农场地图集》载:保国农场前身是立才农场属下的立新农场,1960年新开公路由乐东通志仲后,才独立组建。可见此前的保国,主要交通方向并非乐东县,而是崖县。
  
【图】现代地图。大:1982年的保国农场图幅,虚线示原“抱逸线”;小:《天地图》网页截图。

  从该图集的“保国农场”图幅可以看到:虽然多色套印版略有偏差,但当代S314省道线和桥的位置已经明确,日本桥已无标示,而民国旧公路的走向依然可辨(笔者加虚线标示)。
  保国农场图幅并未显示“日本桥”,说明该桥即使在本地也已不重要,这种小工程当然也不会是改革开放后因日本捐建而得名。最可能是20世纪七八十年代,农场为解决砖厂交通而投资重修此桥,桥名则是民间口口相传的旧路遗存。
  解放后不少地名已经更改,这座不乏“敏感”的小桥土名,在大比例尺地图上偶见,实因太荒僻无人理会,也就不屑更改。这纯属侥幸,若非有地名孑遗,我就算在旁边行走十次,也不会特别追溯的。
  我曾托人转询当地资深人士,仍有记得侵琼日军曾修筑一条土路,从志仲、志强村到三亚雅亮,不过九十年代新修公路,该桥就被拆了。后面那句应是误传,这段主要通道其实早就改线提级了。
  
【相片】从“日本桥”上眺望两百米外的现代南文桥。

  《乐东县志》载:1960年公路已修到保国农场,(乐东境内)从西线至保国农场全长共22.2公里,属省级公路。又载:1994年11月,投资2000万元的乐东至天涯三级国防公路通车,全长64.5公里。这就是目前的S314省道,在这个路段,取线与1982年保国农场地图基本相同,当代大桥名叫南文桥,全长103.44米。当时如果有拆桥,应该也是这条线上1960年以后、不知具体年份修筑的旧桥。
  这个误传,进一步说明日本桥的无人知晓,民国旧路线段亦继续破碎,更加无人知晓。所以,这道桥两头依着山脚的弯曲狭窄便道,正是史上“抱逸线”的真实遗存。由于农场场部设在东面,干线公路亦因此改变,老土路也早已边缘化。
  尽管“日本桥”已非原物,但却仍在原地,是抱由至崖城第一条公路的唯一现存地名。追溯海南抗战史、交通史,这个桥名及这段线路依然有其独特价值。
  
【相片】从东面天新线西向俯瞰南文桥,远处山谷下就是“日本桥”位置。
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「探秘陵水内角遗址」

2021年01月18日 | 海南島史研究
『南国都市报』 2021年01月07日 
■探秘陵水内角遗址
  发掘出磨制石器 精美陶器……
  出土大量贝壳 证明以前这的气候非常好
  距今约5000至3000年

【相片】发现的磨制石器、陶器、贝壳、兽骨。 
【相片】工作人员在分类器物。 

  新海南客户端、南海网、南国都市报1月6日讯(记者 胡丽齐 文/图)铲土、刮面、筛土、分类收集登记器物……1月5日下午,在陵水内角遗址发掘现场,各环节配合默契形成流水线。来自中国社会科学院考古研究所的几位学者,正带领数十余名工人小心翼翼地对遗址进行发掘,探秘海南历史文明、海南文化元素。

  陵水内角遗址
  距今约5000-3000年

  陵水内角遗址位于陵水黎族自治县黎安镇岭仔村南部,北距陵水县城约11公里,南部相距美丽的陵水角约4.5公里,东部是黎安港,西临新村港。这是一处史前贝丘遗址,面积约3万平方米。通过对出土器物的初步分析,推测该遗址距今约5000-3000年。记者在发掘现场看到,此次发掘共布置4个探方,每个探方均为100平方米,工作人员正紧锣密鼓地推进发掘工作。
  中国社会科学院考古研究所黄超博士是陵水内角遗址发掘的现场负责人。他告诉记者,“陵水内角遗址新发现了与莲子湾文化相似却不尽相同的文化遗存,这是以往没有发现过的。”

  挖掘出大量贝壳
  说明以前气候非常好

  根据内角遗址的分布位置来看,在它的西北方向约5.6公里的地方就是桥山史前遗址,两者是否有联系?对此,黄超透露,在发掘中,他们发现内角遗址存在与桥山遗址相似的大面积陶片密集分布现象,将为探索这一现象的成因提供新的线索。
  “你看,这件算珠形器物,可能是纺线织布用的纺轮,也可能是渔网上的网坠。”中国社会科学院考古研究所考古工作人员蒋新荣告诉记者,在发掘中,发现的遗物多为磨制石器、精美的陶器以及大量的贝壳和兽骨等,还发现有柱洞等遗迹。
  蒋新荣说,从这些大量的贝壳来看,以前这个地域的气候非常好,适宜贝类生长。同时也可以大概推测出,当时的人们主要依靠捕捉近海的贝类、鱼类为生。
  这些发现,将为研究海南岛东南部沿海地区史前人类的生活方式提供重要实物证据。这个遗址的性质及当时的生活、生产方式,将随着发掘的进行,逐步解密。
  与此同时,内角遗址也为进一步细化和完善海南东南沿海地区已建立的“英墩文化遗存—莲子湾文化遗存—桥山文化遗存”这一文化序列提供了新的材料。“随着考古资料的不断累积,有希望在莲子湾文化遗存至桥山文化遗存之间再命名内角文化遗存,这将极大丰富我们对海南史前文化的认识。”黄超如是说。
  据了解,陵水内角遗址于2017年调查发现。经国家文物局批准,中国社会考古院考古研究所联合海南省博物馆(海南省文物考古研究所)和陵水博物馆自2018年起对内角遗址进行持续发掘。目前,陵水内角遗址的考古工作仍在紧张而有序地进行着。
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「3000年前的“海南人”就爱美咯」

2021年01月18日 | 海南島史研究
http://ngdsb.hinews.cn/html/2020-12/05/content_58869_12720833.htm
『南国都市报』 2020年12月05日 
■3000年前的“海南人”就爱美咯
  挖出的山药泥土带陶片 万宁湾仔头史前遗址因此被发现
  发掘的陶器碎片花纹讲究 造型圆润 或有制陶作坊
  考古发现遗址存在断代 居民消失了一千年 他们去哪了?

【相片】考古队工作人员在坑口发掘
【相片】陶器上的刻画纹 
【相片】渔网坠 
【相片】遗址出土的磨制石器 

  “生产力有先进与落后之分,但文化没有。落后的生产力,在某个特定的时代,依然可以创造出灿烂的文化。”12月2日,近80岁高龄的海南省博物馆原副馆长、海南省文物考古研究所原所长郝思德在万宁神州半岛湾仔头史前遗址的考古发掘现场向记者介绍道。
  据介绍,湾仔头史前遗址距今已有3000多年的历史,是2018年海南省博物馆(海南省文物考古研究所)在对神州半岛进行全面考古调查时发现的一个新的史前遗址。
  □新海南客户端、南海网、南国都市报记者 徐培培 文/图

  挖出山药泥土带陶片 史前遗址因此被发现
  据此次项目的具体负责人、海南省博物馆(海南省文物考古研究所)文物考古工作队主任,副研究员王明忠介绍,万宁神州半岛的湾仔头村,刚好处于一个风平浪静的湾区,这里土地肥沃,适合靠采摘、捕鱼为生的史前人类居住。
  2018年,王明忠率队在神州半岛进行全面考察。“确认这里是个全新的史前遗址也有些偶然的因素。”王明忠说,考古队在村里走访时,无意间看见有村民在地里挖山药,被带出来的泥土中,有一些陶片。这些陶片引起了考古队的兴趣,王明忠兴奋地说:“现在我们的脚下就是遗址!”
  2019年,考古队对这里进行考古调查、勘探工作,初步确定了遗址的具体地点和面积:湾仔头遗址位于神州半岛正中北部,北依老爷海,勘探范围位于遗址东北部区域,面积为12000平方米,确认文物埋藏区域面积约为9723.8平方米。
  目前,考古队正对多个坑口作进一步发掘,省博物馆、省文物考古研究所,中国社会科学院考古研究所以及从各地陆续前来支援的考古专家、学者,都在这里紧张地忙碌着,期待有更多的发现。

  陶器碎片花纹讲究
  3000多年前的海南人就爱美
  12月2日,海南省博物馆召集省内外媒体单位组成小型的“考古工地探访团”来到了万宁神州半岛湾仔头史前遗址。在今年11月,为配合当地的基建工程,考古队对该遗址边缘展开抢救性发掘工作,发掘的位置位于调查、勘探区域的东南部和西南部两块位置,发掘面积约200平方米,出土遗物与此前考古调查、勘探出土的遗物基本一致。
  记者在现场看到了考古队新发掘出土的一些石器、陶器碎片。郝思德向记者逐一介绍了这些“宝贝”,他先拿起一个荔枝核大小的中空石球,“这是石头磨制的一个‘纺轮’,可以简单地缝制衣物。当然,那时的衣物可能只是兽皮制成。”随后,他又拿起一个椭圆形,两面带凹槽的中空土疙瘩,“这是一个渔网坠子,陶土烧制而成。”说着,郝思德用两根手指夹住这个网坠,“你看,凹槽刚好和手指宽度吻合,这是古人捏成的形状。”
  郝思德向记者介绍了一些磨制石器,指出这都是3000多年前新石器时代的产物,他找到两个陶器碎片作了重点讲解。“这个陶片外面花纹是用绳子勒成,叫‘绳纹’,主要是起到防滑的作用;另一个陶片却显示为菱形的纹路,是刻画而成的‘刻画纹’。”郝思德说,这就说明,那时的海南人温饱问题得到了一定的满足,才有了对审美的需求。

  制陶技术不赖
  附近或有古陶器作坊
  湾仔头村常住人口并不多,现有村民也即将搬迁,村里人迹烟火也是越来越少。走在村路上,两边几乎随处可见零散的陶片,或许是司空见惯的缘故,村民对此不怎么感兴趣,但最近驻扎在这里的考古队员们却心疼不已。
  “初步分析,这些古陶片多来自生火煮东西的‘炊器’,和存放淡水、食物的储存器。”来自中国社会科学院考古研究所蒋新荣如数家珍般,向记者介绍说,“炊器”含沙量较高外表粗糙,里面光滑;存储器里外都相对比较光滑,陶胎较厚,更便于存储食物。
  截至目前,出土的陶片有些已可以拼出完整的罐底,光滑平整度较高,圆形也比较规则。“那么,这些原始人已经掌握了简单的制陶技术?”记者问。“不能把他们称之为‘原始人’。”郝思德纠正了记者的错误,“当时人们的智慧和现在的人差不多,只是受先天条件的限制,哪怕是把一个现代人放在那个时代,能做出来的东西也不过如此。”
  蒋新荣说,这些陶器造型圆润,说明在3000年至5000年前,海南新石器时代的原住民已经掌握了“慢转轮”的制陶技术,从现在出土以及未出土的陶片数量来看,这个群居地很有可能有一个“制陶作坊”。当然,下一步的发掘工作还是要寻找“制陶作坊”所在地,如果能发现它,将是一个不得了的考古发现。

  遗址居民消失一千年?
  谜团待解
  很多读者会关心,为什么考古发掘都要挖出一个个正方形的坑口,而不是长方形、圆形或者其他形状?蒋新荣告诉记者,这是便于考古工作人员定制坐标,登记出土文物等。此外,按照惯例,考古坑口还会根据土质形状、颜色、所含杂质情况,在剖面划线分层,便于逐一研究。据介绍,本次考古遗址地层共分六层,其中第一、二、三层为现代村民活动形成,四层为宋代地层,在这一层出土了一些宋代瓷器。
  令人不解的是,出土陶片的遗址第六层和出土瓷器的宋代底层之间,又宽又厚的第五层却没有人类活动的痕迹。“我们把这一层称之为‘间歇层’。”王明忠说,这就说明从新石器时代的原住民,到宋朝之间存在一个“断代”。按照公元960年赵匡胤建立宋朝计算,这个断代长达一千年左右。
  那么,这一千年之间,这些已经基本实现果腹,有了审美需求的海南人去哪了?地质变化迁徙?还是遭遇了瘟疫灾荒?一千年之后,又是什么人,通过怎样的方式回到这里,再次建立人类文明?谜团待解。

  意义深远
  一万年前已有人
  居住在海南岛上
  据王明忠介绍,湾仔头史前遗址距今约有3000多年的历史,对研究海南以及“海上丝绸之路”的历史有很大的价值。本次勘探出土的遗物经比对,与此前踏头遗址出土的遗物类型较为相似,可判断它们应归属为同一时期。这对构建和完善海南东南沿海地区史前考古学文化发展序列有着重要的意义,同时为南岛语族的研究提供了重要资料。
  “在外界看来,海南文化很贫瘠,其实海南的文化底蕴是很丰富的,只不过鲜有史料记载。目前考古工作队正在对遗址进行抢救性发掘。”王明忠表示,海南此前先后发掘了陵水桥山、莲子湾以及三亚英墩、落笔洞等遗址,近年来多处遗址的发掘证明,一万年以前就有人在海南岛上居住。
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「财政部 海关总署 税务总局关于海南自由贸易港原辅料“零关税”政策的通知财关税」

2020年12月06日 | 海南島史研究
http://www.chinatax.gov.cn/chinatax/n810341/n810825/c101434/c5158524/content.html
■财政部 海关总署 税务总局关于海南自由贸易港原辅料“零关税”政策的通知财关税
  〔2020〕42号   成文日期:2020-11-11
  
 海南省财政厅、海口海关、国家税务总局海南省税务局:
 为贯彻落实《海南自由贸易港建设总体方案》,经国务院同意,现将海南自由贸易港原辅料“零关税”政策通知如下:

 一、在全岛封关运作前,对在海南自由贸易港注册登记并具有独立法人资格的企业,进口用于生产自用、以“两头在外”模式进行生产加工活动或以“两头在外”模式进行服务贸易过程中所消耗的原辅料,免征进口关税、进口环节增值税和消费税。
 二、“零关税”原辅料实行正面清单管理,具体范围见附件。清单内容由财政部会同有关部门根据海南实际需要和监管条件进行动态调整。
 三、附件所列零部件,适用原辅料“零关税”政策,应当用于航空器、船舶的维修(含相关零部件维修),满足下列条件之一的,免征进口关税、进口环节增值税和消费税:
 (一)用于维修从境外进入境内并复运出境的航空器、船舶(含相关零部件);
 (二)用于维修以海南为主营运基地的航空企业所运营的航空器(含相关零部件);
 (三)用于维修在海南注册登记具有独立法人资格的船运公司所运营的以海南省内港口为船籍港的船舶(含相关零部件)。
 四、“零关税”原辅料仅限海南自由贸易港内企业生产使用,接受海关监管,不得在岛内转让或出岛。因企业破产等原因,确需转让或出岛的,应经批准及办理补缴税款等手续。以“零关税”原辅料加工制造的货物,在岛内销售或销往内地的,需补缴其对应原辅料的进口关税、进口环节增值税和消费税,照章征收国内环节增值税、消费税。“零关税”原辅料加工制造的货物出口,按现行出口货物有关税收政策执行。
 五、企业进口正面清单所列原辅料,自愿缴纳进口环节增值税和消费税的,可在报关时提出申请。
 六、相关部门应通过信息化等手段加强监管,防控可能的风险、及时查处违规行为,确保原辅料“零关税”政策平稳运行。海南省相关部门应加强信息互联互通,共享航空器、船舶等监管信息。
 七、本通知自2020年12月1日起执行。
 附件:海南自由贸易港“零关税”原辅料清单

      财政部 海关总署 税务总局  2020年11月11日


https://www.afpbb.com/articles/-/3306937
「People's Daily/AFPBB News」 2020年9月29日 14:02 発信地:中国
■進む海南省の自由貿易港計画 貿易、観光、市民生活にメリット

【写真】海口市の美蘭国際空港の拡張工事と総合交通プロジェクトが進んでいる(2020年7月6日撮影)。(c)People’s Daily/石中華

【9月29日 People’s Daily】中国政府は6月に発表した「海南省(Hainan)自由貿易港建設総合計画」で、海南省での貿易・投資の自由化を進め、高水準の自由貿易港の実現を目指す方針を打ち出した。さまざまな施策が推進されており、海南島全島の自由貿易港体制の構築に向けて実践を続けている。
 8月30日、積載量15万トンを誇る貨物船「運東海号」に、海南省洋浦経済開発区にある「中国洋浦港」の船籍国籍証書が発行された。これで運東海号は国際船舶の扱いになり、さまざまな恩恵が受けられる。運東海号を運航する中遠海運特殊運輸社の董宇航(Dong Yuhang)副社長は「洋浦港を中継港として輸送すると保税燃料油の給油が認められている。例えば、5400個のコンテナを載せた貨物船が遼寧省(Liaoning)から洋浦港まで向かうと、553トンの保税燃料油を注入でき、60万元(約920万円)の節約となる。これは非常に大きい恩恵だ」とそのメリットを説明する。
 海南自由貿易港工作委員会はこれまでに、規制緩和や人材育成、国際取引などの分野で85項目の新しい施策を導入している。工作委員会の周軍平(Zhou Junping)書記は「中国洋浦港の船籍を持つ貨物船が3か月で3隻誕生し、国内外の貿易航路は22ルートから31ルートに拡大し、コンテナの処理能力は初めて1か月で10万個を突破した」と話す。
 自由貿易港総合計画は、環境保護にも力を入れている。計画発表から1か月の間に、海南省は島内の環境を調査する10チームを編成。河川や池の汚染を調査・改善し、不適切な養殖施設や定置網漁を撤去するなど、約22平方キロの海域の環境を改善した。
 自由貿易港建設には市民のニーズを取り込むことが重要だ。海南島の美蘭国際空港近くの民宿街は今年に入り、新型コロナウイルス感染症の影響で閑古鳥が鳴いていた。その時、海南省政府から「プレゼント」が贈られた。経営を助けるため減税措置を取り、さらにスタッフは無料で政府主催のオンライン研修に参加した。自由貿易港を推進する中で誕生した「旺工淡学(繁忙期に働き、閑散期に学ぶ)」施策だ。観光業スタッフ向けの無料研修は2019年から始まり、今年の研修は3000人から5000人に拡大した。新型コロナが収束したこの夏、民宿街は観光客でいっぱいとなった。自由貿易港総合計画の施策の一つで高額の免税商品が購入できるようになった効果も大きい。
 総合計画に基づき、光ケーブル、水道、電気、道路、天然ガスの全島整備も猛烈な勢いで進んでいる。水利施設の普及により、海南省で長く続く日照りの時期も対応できた。
 海南省では教育、医療の水準も向上している。省内全域で学校は102か所、病院は400か所以上に増え、高度な教育や治療を受けるため島を出ざるを得ないというこれまでの状況が大きく改善した。総合計画は、海南島の経済を振興し、市民の生活を大きく向上させている。
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「吃饱肚子打日寇」

2020年10月03日 | 海南島史研究
http://hnrb.hinews.cn/html/2020-09/28/content_58483_12440261.htm
『海南日报』 2020年09月28日  文:本刊特约撰稿 陈立超 
■吃饱肚子打日寇
 抗战时期,中共琼崖组织想尽办法解决伙食难题

【相片】独立总队战士用过的锅。
【相片】独立总队战士用过的椰壳碗和竹筷子。
【相片】独立总队战士自制的竹口杯。   (本版照片均为资料图片)

  琼崖抗战时期,残酷的战争环境极大影响了人民的生活。日军在占领区经常进行大规模武装抢劫,对货币、金银、林木、食盐、文物、牲畜、粮食等大肆搜刮,造成物资普遍匮乏。中共琼崖特委建立的抗日根据地大多身处敌后,直接面对日伪军事力量的摧残,影响尤为巨大。民以食为天,抗日战士吃不饱,自然无法拿枪抗日,日军不断加强对抗日根据地的摧残和封锁,企图把抗日战士困死、饿死。为了解决吃饭问题,坚持长期抗战,中共琼崖组织想尽各种办法解决伙食难题。

◆冯白驹“请客”吃猪肉
 官兵生活标准一致
  1940年,“符韦血案”发生后,琼崖华侨回乡服务总团处境异常困难,服务团总团长符思之派张奋到美合根据地会见琼崖抗日独立总队队长兼政委冯白驹,商量下一步的工作。张奋日夜兼程,经过三天三夜的艰苦跋涉,终于到了琼山、澄迈、白沙交界的美合山区。
  会谈结束后,冯白驹请张奋吃饭。这顿“宴请”只有4个饭团、3块猪肉、一盘番薯叶和一碗竹笋汤。当时独立总队生活标准官兵一致,上至总队长,下至炊事员,每人每日两角生活费。为了招待张奋,冯白驹特地加了菜,增加了当时很难吃到的猪肉。冯白驹把两个饭团递给张奋,还向张奋椰壳碗中夹了两块猪肉,他自己只吃一块。这次简陋的晚饭,展现了冯白驹平易近人的作风和艰苦朴素的生活习惯,给张奋留下了十分深刻的印象。
  在抗战的艰苦岁月,冯白驹始终重视战士的吃饭问题。1940年,为了解决抗日战争财政和物资的需要,琼崖特委决定成立经济班。冯白驹特别关注粮食供应问题,每当部队到达一个地方,他总是亲自找来当地党政人员和群众,详细了解情况,分析敌情,帮助经济班的同志做好后勤供给的先行工作。由于游击战的特点,部队流动性大,有时粮食接济不上,有时有粮但运输困难。为了解决部队的粮食问题,冯白驹经过考虑,从实际情况出发,要求后勤部给每个战士缝制一个布米袋,每人袋中装有三四斤大米,行军时随身携带,这样既解决了战时吃饭问题,又减轻了运输队伍的负担,保证战斗的胜利。小小米袋在抗日战争中做出了很大的贡献。

◆抗战学校学员们的伙食
 艰难时一天只吃半碗稀饭
  抗战时期,各级抗战学校的学员,由于不在一线战斗,享受的待遇稍微好一些。1940年7月,琼崖特委在澄迈县的美合创办琼崖抗日公学,特委通知各县县委和独立总队,保送县、区、乡中思想进步的青年干部和部队中的优秀战士入学。学员们抱着抗日救亡、保家卫国的共同志愿,翻山越岭,从四面八方汇集到琼崖抗日公学这所革命大熔炉里,接受锻炼,争取做救国救民的先锋。学员先后入学,总计有300多人。
  由于日本侵略者的疯狂掠夺与封锁,根据地又处于初建阶段,物资的供应十分困难,学校纸张和油墨都很缺乏,但最缺乏的还是粮食。大批学员集中在一起,后勤保障成了大问题。师生们的生活十分艰苦,主副食品的来源一靠向群众征集,二靠自己劳动生产。环境差的时候每人每餐只吃一二勺盐水稀饭,有时还要掺进一半“革命菜”(一种野菜),虽然大家吃不饱,但从来没有人吐露过半句怨言。
  1941年秋,琼崖东北区抗日民主政府在琼山县咸来乡举办民众武装干部训练班,训练班全体学员60多人,也经常遭受饿肚子的艰难境况。前线队伍打胜仗时,学校环境稍好,早餐有时吃盐粥,有时吃番薯,中餐、晚餐都吃米饭,有时还有一小块肥猪肉和一些菜汤。环境恶劣的时候,训练班就撤到山里。学员有时只能吃一两个由米和番薯混捏成的饭团,有时一天只吃一碗或半碗稀粥,有时甚至整天都没有吃的。在这样危险、艰苦、困难的环境下,学员们还是咬紧牙,坚持发奋学习。

◆坚持斗争在“无人区”
 部队夜间筹粮和开伙
  后方的吃饭问题尚且如此困难,在前线坚持对日武装斗争的战士更是直接面临饥饿的威胁。1942年,日军为了强化治安,维持其血腥统治,在琼文抗日根据地大肆修建据点,对抗日民主地区反复扫荡,对群众实行“三光”(烧光、抢光、杀光)政策,企图断绝群众与我军的联系,使我军失去粮食供给,从而消灭我军。
  1943年2月后,琼文边界树德、南阳的全部和大昌、中税的部分村庄,这块纵横四五十里的地方,变成了“无人区”,不仅没有群众,连禽畜也荡然无存。一时间,村无炊烟、路断行人,田园荒芜、杂草丛生,焦梁残墙、满目疮痍,惨不忍睹。面对日益恶化的形势,中共琼崖特委吸取了血的教训,提出“坚持内线,挺出外线”的正确方针,采取避实击虚的对策,以适应残酷的斗争。
  琼崖抗日独立总队二支队第二大队的200多名战士就在“无人区”这样残酷的环境里坚持反“蚕食”的斗争。“无人区”里没有群众,部队没有群众,就成了“无源之水,无本之木”。部队要在此生存下来,首先要解决吃饭问题。部队白天不能公开行动,就昼伏夜行,夜间出发去筹粮。每个中队派出四五十人,分头警戒,去沦陷区和国统区收集粮食,每夜都得往返三四十里甚至五六十里,而且必须在天亮前返回营地,否则就会遇到危险。在兵荒马乱的日子里,生产停滞,群众粮食不多,一个中等村庄只能供给一个中队两三天的粮食,多了群众支持不了。群众自己要吃饭,又受敌人剥夺、控制,大多数群众支持抗日部队,把粮食留给部队。部队没有钱,便写下公购粮的收据,买猪同样也打欠账白条作为日后归还的凭据。
  为了避免日军偷袭,部队都是夜间开伙,上半夜一顿,下半夜一顿,两头见黑,白天不能生火冒烟,要坚持静默,防止暴露。战士不能吃饱,只能大家匀着粮食吃,每人一顿两个小饭团,一小块咸菜,不用碗筷,拿在手里就吃。偶尔分得一块一二指大小的猪肉,战士们都非常高兴,有的馋极了,一口吞了下去;有的一点一点地咬,像品尝山珍海味。菠萝密、荔枝、龙眼、芭蕉等成熟后,部队也采集来补充粮食的不足。有时情况严重,不能出发筹粮,果子也没有了,就只好采集一些野菜煮熟来吃。在这样恶劣的环境下,全队非战斗减员大大超过了战斗减员,但为了牵制日军主力,第二大队的战士在“无人区”坚持了8个多月的斗争,一直到1943年11月胜利完成任务。

◆自力更生解决温饱
 外运贸易换取物资
  1942年后,为解决根据地军民吃饭穿衣问题,琼崖特委和抗日民主政府响应毛泽东关于“自己动手、丰衣足食”的号召,开展生产自救。在根据地里,冯白驹等领导同志亲自带领干部战士开荒种稻、种菜、养猪,组织农民发展农副业生产,帮助群众调剂种子,解决耕牛和农具不足的困难。农忙季节,部队和机关人员,一面保卫生产,一面帮助农民抢收、抢种,各级抗日民主政府组织农民互耕协作,进行生产互助。琼山县的大坡、树德、咸来、道崇、苏寻三、云龙等乡普遍开展了互耕协作和代耕,村里的田地统一犁耙、插秧、收割,分户收藏,劳力交换,劳力少者则付报酬。对军烈属家庭的田地则由村里包种包收给予优待。当日军蓄意破坏生产时,地方党组织与琼总(纵)部队组织武装帮耕帮收,使敌人的阴谋无法得逞。这样基本保证抗日军民的吃饭问题,使根据地得以巩固和有力地支持部队的抗日斗争。
  由于坚持自力更生的正确道路,琼崖抗日根据地的物资供给逐渐好转,甚至能够外运出一些换取紧急物资。1944年,琼崖特委还专门成立了贸易科,组织人员经常往返湛江、澳门等地,购买急需物资。贸易科成员先是在文昌各地收购椰子、椰油、猪油等货物,而后用船运到湛江、澳门出售,再从湛江、澳门购回药品、布匹、纸张等供应我党政军机关使用,进一步缓解了抗日根据地的物资供给困难。

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「“白皮红心”,势破敌封锁」

2020年09月20日 | 海南島史研究
http://hnrb.hinews.cn/html/2020-08/31/content_58480_12306231.htm
『海南日报』 2020年08月31日
■“白皮红心”,势破敌封锁  文:本刊特约撰稿 陈立超

『相片』一九四二年,琼崖伪警备队。

  从1942年5月起,侵琼日军出动主力对抗日根据地进行规模空前的“蚕食”和“扫荡”,企图在“三个月内消灭海南岛上的抗日力量”。在沦陷区,敌人以“清乡”为主,强化法西斯的保甲制度,用圈村的办法,实行大编乡,企图肃清占领区内的抗日分子,加紧对人民的搜刮和镇压。对游击区,敌人以“蚕食”为主,恐怖政策和怀柔政策并用,修筑封锁沟、封锁墙和碉堡,并平毁村庄,残酷地制造无人区。对抗日根据地,以“扫荡”为主,实行野蛮的“三光政策”“梳篦清剿”等。
  在日军“蚕食”“扫荡”期间,国民党顽固派坚持“消极抗日,积极反共”的方针。针对日、伪、顽的三面夹攻,琼崖特委针锋相对地发出《粉碎敌顽“蚕食”政策的决议》《反“蚕食”斗争的再三指示》,提出为保存抗日力量,保护群众利益,应做退一步进两步的工作,有计划地开展“白皮红心”的斗争,以应付敌人。

◆多面政权 两面应付
  中共领导的琼崖抗日武装在沦陷区站住脚后,积极开展活动,对敌占区的敌伪政权,采取政治争取和武力打击相结合的政策。部队配合地方县区工作人员,到沦陷区做敌伪政权人员的工作,启发教育他们要有中国人起码的人格尊严和民族意识,要有基本的爱国心、责任感;教育他们起码不能帮助日本人做损害本国人民的事情,不然就会成为被人民永远唾骂的汉奸、卖国贼;同时向他们指明方向,做“白皮红心”“身在曹营心在汉”。我党安排一些政治可靠的人当日伪辖区的保长、甲长,采取打进去和拉出来的办法,在敌人内部开展“白皮红心”活动,分化瓦解日伪顽的力量。因为斗争环境的特定需要,党组织设置的区乡长,多数兼任日伪方面的保甲长或国民党政府的保甲长,一身三职,以我为主,两面应付。
  在开展“白皮红心”的斗争中,出现了许多具体生动的事例。在临高县日军征粮时,我当地党政人员通过村长预先做好布置,把收集到的粮食先行挑走,然后叫群众夜间伪装被抢现场,把一些大米撒在路上,周围踏上杂乱脚印,又在离敌据点不远的地方燃放鞭炮。第二天一早便让村长到据点去,报告粮食已被共产党游击队“抢走”,并责怪“皇军”不出兵保护。这样既蒙蔽了日军,又借机接济我党我军。
  1943年下半年,驻文昌日军为砍掉文教至东郊沿海各地的红树林,以摧毁抗日军民隐蔽的屏障,强迫群众服劳役,并派伪军监工,妄图在1个月内把所有红树林砍光。中共文昌县组织领导各级“白皮红心”政权拖延应付,在劳工数量上故意不足额或者以老人、小孩凑数,许多被抽到的群众事先得到“白皮红心”人员的通知,早早躲避到山区;在工地上尽量做假工,用刀背故意砍出声音,手上却不出力,工地只听刀响,不见树倒,唯有日伪监工过来巡查时才勉强砍一阵;“白皮红心”人员还以“慰劳”“感谢”为名义,反复请监工喝酒,拖住他们,使他们不能经常去工地监督。如此做法,被当地群众形象地称为“做日本仔工”,而抗日人员趁群众和“白皮红心”人员拖延的时间,迅速转移或另挖地洞藏身,继续打击日军,迫使日军不得不放弃摧毁红树林的“扫荡”计划。

◆通风报信 掌握主动
  “白皮红心”斗争形式上是一种妥协,但妥协是为以后的斗争做准备,本质是退一步进两步的斗争方法。被安排当伪保甲长的人坚持抗战到底的红心不变,他们探听敌情,当日军出动逞凶时,便通知抗日军民,做好充分准备,敌弱则鸣鼓而攻之,敌强则躲避起来,牢牢掌握对日军作战的主动权。
  1942年下半年,琼东县的日军在山溪桥设了一个反共青年团哨点,驻有25名团员,企图掐断抗日武装的交通线。中共东定县第三区委书记符昌文带队到这个据点附近,向当地“白皮红心”的保长、甲长调查,掌握了这个据点的基本情况,认为绝大部分青年是被迫参加的。区委深入做这些人的家庭工作,讲明共产党的抗日政策,晓之以民族大义。经过反复工作,这个据点的反共青年团员终于觉悟过来,把日伪军的岗哨暗中易帜为支持抗战的岗哨。日伪军的重要动态,他们都及时向抗日民主政府报告;而抗日军民的行动,他们都巧妙地掩盖过去。这样,南北抗日根据地的交通线又畅通了。
  1943年冬,中共乐万县委派共产党员周济安向日军假自首,取得日军的信任。一天,琼崖抗日独立总队副司令庄田带领琼崖抗日独立总队第三支队事先在青田岭上埋伏,再由周济安向日军提供情报,说是发现乐万县委人员正在青田岭开会。日军端熙炮楼的青藤队长信以为真,调集日伪军倾巢出动,结果被第三支队歼灭48人,青藤仅带领10多名日军逃回炮楼。青藤回炮楼后,迁怒于汉奸,对周围汉奸人员进行大清洗,使得汉奸们人人自危,离心离德,更加不敢为日军卖命。

◆“合法”斗争 保存实力
  经过坚决的斗争和深入的工作,沦陷区的伪政权很多逐渐变成我党掌握的“两面政权”。我们利用“两面政权”,进行公开合法的斗争,打破了日军在沦陷区“一统天下”的局面。由于日军和伪政权存在矛盾和相互利用的特殊关系,“白皮红心”人员带领群众进行“合法”斗争有时候也能取得奇效。
  1944年,日军将后海村一带的渔船全部封锁并驱赶回藤桥港,禁止出海捕鱼,害怕渔船分散在海上捕鱼为共产党运送人员和供应物资。面对敌人的恶毒阴谋,中共陵崖保乐边区办事处主任张开泰亲自深入龙楼、后海等敌占区开展“白皮红心”工作。他在后海找到为人正直、有民族正义感的渔业主杨秀山,向他宣传抗日形势,授命他担任“白皮红心”保长。杨秀山欣然接受任务,并表示“白皮红心”不变。杨秀山接受任务后,便以“保长”的身份采取各种巧妙的手段获取日军的信任,他带领渔民多次向日军进言,指出渔民失业没有活路,反而容易投靠共产党,同时日军也捞不到什么油水,最终说服日军放回了被扣的渔船,并允许渔民出海作业。这样,后海村的渔民又能继续支持共产党工作,使陵崖保乐边区与六连岭抗日根据地的联系也恢复正常。
  在崖县的梅山地区,“白皮红心”的保长也起了很大作用。1945年2月,日本翻译官到梅西村找伪保长摊派生猪过年,遇上长山村民吴光轩,查无“良民证”,要将他捆送敌据点,在场的共产党员和革命群众孙才干、王荣桂、赵光通、孙光林、黄德达等当即将这个翻译官打死,用牛车运往村前沙滩埋掉。不料此事被奸细发现报告日军。日军派兵并携带警犬进行搜索,因找不到蛛丝马迹,他们便杀气腾腾地包围梅西村,任意捆绑群众,殴打、施行酷刑,继而又抓该村“白皮红心”保长到据点隔离审讯,并严刑逼供。为此,梅山乡抗日民主政府指示派另一位“白皮红心”保长前往崖城维持总会申诉受屈,并鼓动其他伪保长提出集体辞职,向敌人施加压力,日军找不到证据,无奈之下,只好将被押的保长释放了事。

※本版参考书目
  《中共文昌历史(第一卷)》《中共三亚历史(第一卷)》《中共琼海历史(第一卷)》


http://hnrb.hinews.cn/html/2020-08/31/content_58480_12306232.htm 
『海南日报』 2020年08月31日  
■忍辱负重策反日警  文:本刊特约撰稿 陈立超

【相片】1941年,日军在伪琼崖中学推行奴化教育。

  许多在“两面政权”中工作的人员为了民族大义,忍辱负重,为抗战事业作出了贡献。1943年下半年,中共文昌县委发动各区委、乡总支有计划地布置忠实可靠的党员,打进敌人的据点长期潜伏,放长线钓大鱼,专门进行策动日、伪军反战起义工作。
  翁田乡党总支书记张德明选派党员、青抗会骨干林诚,以读书为名义,潜入日军翁田据点。在日军淫威下复办的翁田小学,入学的人寥寥无几,林诚所在的高年级班(五、六年级)只有20多人,学生的年龄由11岁到18岁,差别很大,林诚是班里年纪较大的一个。奴化教育的一切令林诚感到十分厌恶、愤懑,但为工作需要他只得强忍着内心的怒火。他伪装成俯首帖耳、逆来顺受的样子,加上他的生活经验丰富,平常对小同学关心爱护,所以在第一学期就赢得全体同学和老师的爱戴。尤其是和同学张学保建立起特别深厚的友谊。张学保和台籍日本警察郑顺祺(日本名手岛)是结拜兄弟,通过这层关系,党组织顺利联系上郑顺祺,通过长期教育,郑表示愿意带队反正。
  1945年4月6日晚,郑顺祺和另外4名台籍日警携带九六重机枪一挺、盘式轻机枪1挺、掷弹筒1门、步枪5支,连夜撤出翁田据点,顺利反正。林诚作为“白皮红心”人员,受党组织派遣打入翁田据点,策动敌军反正,经过1年多的艰苦努力,最终大功告成。

※本版图片均由陈立超翻拍
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「黑眉岭军民三次反“扫荡”」

2020年09月19日 | 海南島史研究
http://hnrb.hinews.cn/html/2020-08/31/content_58478_12306213.htm
『海南日报』 2020年08月31日 
■黑眉岭军民三次反“扫荡”  文:本刊特约撰稿 陈立超
  位于乐东县黑眉岭下的黑眉村,三面环山,一面临海,村前仅有一路可通,地势十分险要。1941年初,中共组织派张睦群来村上发动群众,组织了一支拥有50多人的民兵武装中队和30多人的常备队,黑眉地区成为中共组织在琼西的抗日根据地之一。在艰苦卓绝的抗日战争中,黑眉地区的民兵抗日中队,不仅为抗日部队出色地完成运送物资、救护伤员、站岗放哨、监视敌人、汇报敌情等战勤任务,而且还拿起武器,配合抗日部队,采用破袭战等战术打击敌人。仅1941年、1942年两年间,黑眉村民兵就对日作战50多次,搅得黄流、九所一带的日军不得安宁。
  1943年至1944年间,日军对黑眉村进行了三次大规模的“扫荡”,妄图拔掉这把插在琼西交通线上的利刃。1943年初,日军调动黄流、佛罗和岭头3个分遣队大约300多人,开向黑眉村进行大“扫荡”。民兵武装中队配合常备队,分兵把守各路隘口,埋地雷、布竹签、装冷箭、擦粉枪。这天,当日军开到离村子约有半里地时,村前的大石上,讯号旗一升,牛角号频频吹响。山山岭岭,枪鸣箭飞,烟雾缭绕,弄得日军晕头转向,数不清村里到底有多少兵马。敌军唯恐陷进重围,不敢贸然而进,被迫收兵回营。
  1943年底,日军再次调动4个分遣队对黑眉村进行大“扫荡”。民兵和常备队兵分三路埋伏,各路人马约定:日军从何方来,小队长就从那里鸣枪报讯,各路兵马闻枪声后务必迂回接应。果然,日军从岭头倾巢而出,老远就耀武扬威,放炮鸣枪。日军踏进埋伏圈后,哨兵鸣枪报讯,其余二路人马便包抄过来接应。民兵们沿岭奔袭,打一阵,换个地方,神出鬼没。日军处处受阻,寸步难进,在村外的旷野里胡冲乱窜。从早晨打到黄昏,日军感到形势于他们不利,于是丢下一具具尸体,仓皇撤退。黑眉村岿然不动,一点也没损失。
  1944年初春,日军出动5个分遣队共500多人,准备趁着黎明前的黑暗,从牛上岭包抄过来,妄图一举踏平黑眉村。岭头情报站及时把这紧急情报送来了。民兵们经过充分的酝酿和热烈的讨论,制定了分兵合击,集歼来犯之敌的行动策略。天刚蒙蒙亮,漫山遍野的日军拱腰曲背,偷偷摸摸包抄过来。民兵们粉枪齐放,只见火光闪处,日军纷纷倒下。日军企图用他们的火力优势硬打硬进,机枪排炮沿着粉枪亮处横扫过来。但黑眉村的民兵已有充分的对敌作战经验,粉枪放后人便走。这一仗从早上打到中午,双方都在山林里回旋。然而,我方在暗处,敌人在明处,日军尽挨粉枪冷箭,有时踩上竹签,痛得他们倒地打滚。日军见打来打去,总是吃亏,占不到便宜,便往田头村撤退。据《中共乐东党史(第一卷)》记载:这一战打死日军13人,包括1个分遣队长,黑眉村兵民大获全胜。
  黑眉抗日根据地的军民采取机动的战术,靠着手中有限的近乎原始的武器,战胜了武装到了牙齿的日本侵略者,使他们闻风丧胆,保卫了黑眉抗日根据地的安全,成为全琼民兵坚持抗日的典范。
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「挖耳目,敌后锄奸建奇功」

2020年09月19日 | 海南島史研究
http://hnrb.hinews.cn/html/2020-08/31/content_58479_12306222.htm
『海南日报』 2020年08月31日
■挖耳目,敌后锄奸建奇功   文:本刊特约撰稿 陈立超

【相片】1939年2月22日,“海口市治安维持会”成立,维持会是琼崖伪临时政府前身。
【相片】张开泰
【相片】赵光炬
  
  日军侵略琼崖后,在海南岛的一线作战兵力大约在1万人左右,加上日军机构以及辅助兵力,总兵力也不过2万人左右。这样的兵力要控制全岛、和国共两党领导的抗日武装作战,显然是不足的,同时日军在异国作战,人生地不熟,为了巩固在海南岛的统治,侵琼日军一直拼凑各级伪政权,为自己的侵略行径服务。不少汉奸败类为日军所拉拢,甘心认贼作父,他们为日军通风报信、筹粮筹款,有的还直接残杀抗日军民。中共琼崖特委领导的抗战军民坚持敌后抗战,主动出击,惩办汉奸,推动抗日形势走向高涨。

◆连续三任会长被瓦解
 溪南伪维持会无奈撤销
  1939年7月,日军为了加强镇压沦陷区人民的反抗,扶植昌江县的董必安充当昌江县溪南伪维持会会长。董必安上台后,为获得日军信任,拉拢收买了盗首、赌棍、流氓头子充当他的走狗,成立伪军小分队,为非作歹。董必安亲自带领日军扫荡英显、旦场两村,烧光民房,杀死群众数十人。昌感人民对罪大恶极的汉奸董必安恨之入骨,纷纷要求共产党为民除害。1940年1月,经过反复讨论研究,决定由琼崖抗日独立总队第四大队队长兼政委张开泰组织领导一支精锐小分队,挺进敌占区进行奇袭,同时决定中共昌感县委委员赵光炬、中共昌感诗北区委书记赵郑农随队行动,负责做好情报和后勤工作。
  1940年1月23日上午10时许,按原定计划行动,内线人物先掩护奇袭队员史柏龄、史振和潜入伪维持会内部作里应外合准备。后由大队长张开泰和赵光炬指挥,驳壳班由赵郑农率队,化装成村民从正面哨门进攻。战斗开始时,第一枪没有击中敌方哨兵,哨兵便逃命关上大门,致使正面进攻队员冲不进去。等到史柏龄和史振和开枪打死董必安等汉奸7人后,听到外面的枪声时,日军援兵已赶到,驳壳班又已撤退,史柏龄和史振和只有奋勇抗击直到弹尽而壮烈牺牲。
  大汉奸董必安被杀后,其妹夫庄春年上台充当溪南伪维持会第二任会长。因前车之鉴,他不敢效仿董必安行凶作恶。中共琼崖西南临时工委指示四更党支部派遣和庄春年有亲密社会关系的人前往庄家,向他分析抗日必胜的形势,以试探其态度。经过反复交谈,庄春年逐步提高觉悟,消除顾虑,终于在1940年春率领10多名伪军向琼崖抗日独立总队第四大队投诚,大大挫伤了伪军军威。
  但日军不甘心,又指派四更村的一个大恶霸王沛熙充当第三任伪维持会会长。王沛熙一上台就效仿董必安,不但任意屠杀掠夺,而且经常向日军送情报,亲自带领日军到处“扫荡”,实行“三光”政策。群众怨声载道,迫切要求共产党铲除汉奸王沛熙。可是作恶多端的王沛熙一到晚上就紧紧关闭岗楼大门,派兵站岗放哨,严加防范,让共产党一时无从下手。
  中共昌感县委书记陈克文决定采取放饵钓鱼的方法,引诱王沛熙走出岗楼。当地一名女青年长期受王沛熙的骚扰,党组织说服那位女青年假装应承王沛熙,诱其上钩,以便将他处决。那位女青年同意依计行事。1940年8月10日夜间,王沛熙喜气洋洋地带上几个伪兵朝着女青年家走去。陈克文带领驳壳班战士埋伏在路口,王沛熙一伙刚踏进伏击圈,就被驳壳班一举消灭了。王沛熙被击毙后,伪维持会的官兵四处逃散。在短短的8个月间,溪南伪维持会三任会长都被瓦解,从此谁也不敢再当溪南伪维持会会长了。日军无奈,下令撤销昌江县溪南伪维持会。

◆斗智斗勇锄汉奸
 挖掉日军隐藏“耳目”
  在敌后打击汉奸,既要有勇气,更要有智慧。由于被中共琼崖特委领导的抗日武装反复打击,许多汉奸明面上不敢对抗抗日军民,但暗地里经常和日军往来,偷传情报,给抗日武装造成损失。1941年12月下旬,中共定安县振西区委书记兼岭腰乡抗日民主政府乡长张良接应琼崖抗日独立总队第一支队第二大队。第二天清早部队到达边城村和山武村。中午,部队准备开饭。这时,岭口的日军突然兵分两路出击进攻边城村,幸好哨兵发现及时,独立总队抢占了制高点,日军被迫退去。
  第二大队刚进入岭口地区就遭到敌人袭击,张良深感痛心和气愤,他反复思索,越想越觉得事情不是巧合。如果日军是偶然和我军遭遇,怎么会兵分两路,并且来得这么快,这明显是有备而来,肯定有隐藏的汉奸告密。于是,张良回区委后立即发动群众查找奸细。
  群众经过几天观察,确定告密者是伪甲长王中进。王中进表面上老老实实,但是晚上经常去岭口日军据点送信,他长期不从事生产劳动,却总有闲钱潇洒。确定汉奸后,张良便向县民主政府汇报,并带回县驳壳班准备收拾这个汉奸。1941年的大年三十晚,张良带领驳壳枪班的战士趁敌不备,突袭汉奸王中进家。王中进听到敲门声,心知不妙,急忙钻进伙房的柴草堆里,慌慌张张地扒开早已准备好的地洞。但他没有想到张良早已派人了解地形,布置一名战士把守地洞。王中进刚刚从地洞里爬出,“砰!砰!”身挨两枪,但个子高大的王中进仍跳过石篱,拼命地往园里跑,张良随后命令战士一起射击,除掉了这名隐藏的汉奸。
  据《中共定安党史(第一卷)》记载,仅1942年夏,中共定安县各级党组织在全县先后惩办为虎作伥的汉奸30多名,挖掉了日军安下的“耳目”,有力地打击了敌人的嚣张气焰,把全县的抗日斗争推向新的高潮。

※本版参考书目
  《中共东方历史(第一卷)》《中共定安历史(第一卷)》《中共海口历史(第一卷)》《海南文史 第2辑》
※本版图片均由陈立超翻拍
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