(一二)、二〇〇六年一二月~二〇〇七年一月 9
■万寧市万城鎮月塘村で
蔡徳佳・林国齋「日本占領万寧始末――制造“四大惨案”紀実」(万寧県政協文史弁公室編『万寧文史第5輯 鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』1一九九五年七月)には、一九三九年一〇月一四日の龍滾狗匙石洞虐殺、一九三九年一〇月一九日の和楽西戴村虐殺、一九四〇年一一月二八日の東澳豊丁村虐殺、一九四五年五月二日(農歴三月二一日)の万城月塘村虐殺が、万寧における日本軍の四大虐殺だと書かれている。
二〇〇五年九月に、万寧市内で、蔡徳佳さんに紹介されて、朱進春さんに話を聞かせていただいた。朱進春さんは、日本軍が月塘村を襲撃したとき、日本刀で八か所傷つけられながら生き残ることができた人だった。このとき、「月塘村惨案」の日本政府の責任を追及する訴訟を起こしたいと、朱進春さんは言った。
その一年四月後、二〇〇七年一月一七日に、月塘村と豊丁村を訪ねた。月塘村で生まれ育ち、いまは万寧市内に住む朱深潤さん(一九三三年生)が案内してくれた。
月塘村は、万寧市中心部から南に四キロほどのところにある。前の日に朱深潤さんが連絡しておいてくれたので、農作業にでかける時間を遅らせて家にいてくれた朱学平さん(一九三三年生)から、話を聞かせてもらうことができた。朱学平さんは、かたい表情をくずすことがなく、こう語った。
“わたしは、一二歳だった。朝はやく、日本兵がとつぜん家に入ってきて、なにも言わ
ないで、殺しはじめた。一〇人家族のうち、わたしだけが生き残った。
父、母、兄二人、姉、叔母二人、いとこ二人、そして六歳だった妹の朱彩蓮が殺され
た。
わたしは、柱のかげに倒れるようにして隠れて助かった。妹は腹を切られて腸がとび
だしていたが、まだ生きていた。こわかった。血だらけの妹を抱いて逃げた。途中なん
ども妹が息をしているかどうか確かめた。激しい雨が降った。村はずれに隠れた。妹は
瀕死だったが、三日ほど生きていた。
半月ほどたって家に戻ってみたら家は焼かれ、遺体も火にあっていた。骨になりきっ
ておらず、くさっていた。まもなく、偽軍や漢奸が来て、遺体を近くに運んで埋めた。
父朱開陵は五二歳、母呉洋尾は五〇歳だった。
日本軍が負けていなくなってから、その場所を掘って遺骨を探した。なんども探した
が見つからなかった。焼けた骨は土のなかで砕けてしまったのだと思う”。
朱学平さんは、むかしの家に案内するといって立ち上がった。月塘村の集会場の前を通り過ぎると、まもなく大きな池が見えてきた。むかしは、月塘村の中心は、月のかたちをしているその池のそばにあったという。
日本軍が襲撃した朱学平さんの家の跡には、土台石が残っているだけだった。その一隅を指さしながら、ここが家の門だった、と朱学平さんが言った。その向かいの家では七人家族全員が殺されたという。そこも、土台石が残っているだけだった。
日本軍が襲撃してきたとき三歳五か月だった朱学基さん(一九四一年一二月生)は、こう話した。
“あのときのことはほとんど覚えていないが、叔父からなんどもなんども聞いた。日本
兵が家に来たとき、母がおじぎをしたら、いったん日本兵はいなくなったそうだ。その
すきに母はわたしをつれて森に逃げた。わたしを草のしげみに隠して、母は家に戻っ
た。わたしは、長い間まったが母が来ないので、一人で歩いて家に戻った。みんな殺さ
れていた。叔父一人だけが生きていた”。
李金治さん(一九三八年生)は、当時七歳だったが、日本軍に右腕と背中を切りつけられた。その腕を見せてもらったが、大きな傷跡だった。
■万寧市東澳鎮豊丁村で
一月一七日午後、月塘村からいったん万寧市内に三輪車で戻り、バスで豊丁村に行った。ひきつづいて、朱淨潤さんに案内していただいた。豊丁村は、万寧市内から一二キロほど南の東澳鎮の中心部にある。深い入り江になっている東澳湾のいちばん奥の村だ。
農地が少なく、むかしは貧しい村で、人びとは塩をつくったり木をきったりして生活を支えていたという。
村のまんなかに大きな樹があった。樹齢三〇〇年というその樹の前の小さな広場を、日本軍は「処刑場」にしていたという。
その樹の近くに住んでいる文学山さん(一九三〇年生)、文開吉さん(一九二三年生)、陳世華さん(一九三一年生)の三人に話を聞かせてもらった。三人の話す海南語を朱淨潤さんに「普通語」に通訳してもらった。
文学山さんは父親を日本軍に殺され、文開吉さんは一三歳のとき母親を日本軍に殺され、陳世華さんは父親と祖母と伯母を日本軍に殺されたという。
三人は、日本軍侵入時のことを、つぎのように話した。
“日本軍がこの村に来たのは、一九四〇年のはじめころだった。
村人を働かせて炮楼や道路をつくった。炮楼のそばに宿舎もつくった。ヤスダという
隊長とカワノという兵士の名を覚えている。ふたりとも悪い人間だった。若い女性を道
路工事だといってムリにつれだし、乱暴した。ヤスダとカワノは二年くらいでいなくな
った。悪いのはあの二人だけではなかった。日本軍は村の入り口の樹に日本国旗をかか
げさせたが、村人はそれに従わないときもあった。
一九四〇年一一月二八日(農歴一〇月二九日)に、ここに駐屯していたのとは違う日
本軍が万寧からきて村を襲った。明け方、西と東から、村を囲むようにしてやって来
た。逃げおくれた村人四二人が殺された。日本軍は一〇〇人以上いたように思う。目を
覚ましていて早めに気づいた人は助かった。朝早くから山に木をきりにいっていた人も
助かった。林楊鴻のところでは一家六人がみんな殺されてしまった。
一九四四年春にはほとんど雨がふらず、害虫が大発生した。秋には、大きな台風が三
度も来た。一九四五年春には、食べるものがなくなった。日本軍が、食料や鶏などを盗
っていったので、村では一九四四年春ころから餓死する人がふえてきた。豊丁村だけで
なく、この付近の村ではどこでもそうだった。餓死するまえに腹がふくらみ、そのとき
なにか食べさせると、吐いて死ぬ。一九四四年秋から一九四五年にかけて、ねずみが増
え、ノミやシラミが増え、皮膚病や疱瘡やコレラで苦しむ人が多くなった。
日本軍は、自分たちの食べるコメや牛を日本から運んできてはいなかった。海南島で
は、一年に三回コメがとれるのだから、日本軍が来て海南島のコメや牛や鶏や魚を食べ
なかったら、あんなにたくさんの人が餓死することはなかっただろう”。
佐藤正人
■万寧市万城鎮月塘村で
蔡徳佳・林国齋「日本占領万寧始末――制造“四大惨案”紀実」(万寧県政協文史弁公室編『万寧文史第5輯 鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』1一九九五年七月)には、一九三九年一〇月一四日の龍滾狗匙石洞虐殺、一九三九年一〇月一九日の和楽西戴村虐殺、一九四〇年一一月二八日の東澳豊丁村虐殺、一九四五年五月二日(農歴三月二一日)の万城月塘村虐殺が、万寧における日本軍の四大虐殺だと書かれている。
二〇〇五年九月に、万寧市内で、蔡徳佳さんに紹介されて、朱進春さんに話を聞かせていただいた。朱進春さんは、日本軍が月塘村を襲撃したとき、日本刀で八か所傷つけられながら生き残ることができた人だった。このとき、「月塘村惨案」の日本政府の責任を追及する訴訟を起こしたいと、朱進春さんは言った。
その一年四月後、二〇〇七年一月一七日に、月塘村と豊丁村を訪ねた。月塘村で生まれ育ち、いまは万寧市内に住む朱深潤さん(一九三三年生)が案内してくれた。
月塘村は、万寧市中心部から南に四キロほどのところにある。前の日に朱深潤さんが連絡しておいてくれたので、農作業にでかける時間を遅らせて家にいてくれた朱学平さん(一九三三年生)から、話を聞かせてもらうことができた。朱学平さんは、かたい表情をくずすことがなく、こう語った。
“わたしは、一二歳だった。朝はやく、日本兵がとつぜん家に入ってきて、なにも言わ
ないで、殺しはじめた。一〇人家族のうち、わたしだけが生き残った。
父、母、兄二人、姉、叔母二人、いとこ二人、そして六歳だった妹の朱彩蓮が殺され
た。
わたしは、柱のかげに倒れるようにして隠れて助かった。妹は腹を切られて腸がとび
だしていたが、まだ生きていた。こわかった。血だらけの妹を抱いて逃げた。途中なん
ども妹が息をしているかどうか確かめた。激しい雨が降った。村はずれに隠れた。妹は
瀕死だったが、三日ほど生きていた。
半月ほどたって家に戻ってみたら家は焼かれ、遺体も火にあっていた。骨になりきっ
ておらず、くさっていた。まもなく、偽軍や漢奸が来て、遺体を近くに運んで埋めた。
父朱開陵は五二歳、母呉洋尾は五〇歳だった。
日本軍が負けていなくなってから、その場所を掘って遺骨を探した。なんども探した
が見つからなかった。焼けた骨は土のなかで砕けてしまったのだと思う”。
朱学平さんは、むかしの家に案内するといって立ち上がった。月塘村の集会場の前を通り過ぎると、まもなく大きな池が見えてきた。むかしは、月塘村の中心は、月のかたちをしているその池のそばにあったという。
日本軍が襲撃した朱学平さんの家の跡には、土台石が残っているだけだった。その一隅を指さしながら、ここが家の門だった、と朱学平さんが言った。その向かいの家では七人家族全員が殺されたという。そこも、土台石が残っているだけだった。
日本軍が襲撃してきたとき三歳五か月だった朱学基さん(一九四一年一二月生)は、こう話した。
“あのときのことはほとんど覚えていないが、叔父からなんどもなんども聞いた。日本
兵が家に来たとき、母がおじぎをしたら、いったん日本兵はいなくなったそうだ。その
すきに母はわたしをつれて森に逃げた。わたしを草のしげみに隠して、母は家に戻っ
た。わたしは、長い間まったが母が来ないので、一人で歩いて家に戻った。みんな殺さ
れていた。叔父一人だけが生きていた”。
李金治さん(一九三八年生)は、当時七歳だったが、日本軍に右腕と背中を切りつけられた。その腕を見せてもらったが、大きな傷跡だった。
■万寧市東澳鎮豊丁村で
一月一七日午後、月塘村からいったん万寧市内に三輪車で戻り、バスで豊丁村に行った。ひきつづいて、朱淨潤さんに案内していただいた。豊丁村は、万寧市内から一二キロほど南の東澳鎮の中心部にある。深い入り江になっている東澳湾のいちばん奥の村だ。
農地が少なく、むかしは貧しい村で、人びとは塩をつくったり木をきったりして生活を支えていたという。
村のまんなかに大きな樹があった。樹齢三〇〇年というその樹の前の小さな広場を、日本軍は「処刑場」にしていたという。
その樹の近くに住んでいる文学山さん(一九三〇年生)、文開吉さん(一九二三年生)、陳世華さん(一九三一年生)の三人に話を聞かせてもらった。三人の話す海南語を朱淨潤さんに「普通語」に通訳してもらった。
文学山さんは父親を日本軍に殺され、文開吉さんは一三歳のとき母親を日本軍に殺され、陳世華さんは父親と祖母と伯母を日本軍に殺されたという。
三人は、日本軍侵入時のことを、つぎのように話した。
“日本軍がこの村に来たのは、一九四〇年のはじめころだった。
村人を働かせて炮楼や道路をつくった。炮楼のそばに宿舎もつくった。ヤスダという
隊長とカワノという兵士の名を覚えている。ふたりとも悪い人間だった。若い女性を道
路工事だといってムリにつれだし、乱暴した。ヤスダとカワノは二年くらいでいなくな
った。悪いのはあの二人だけではなかった。日本軍は村の入り口の樹に日本国旗をかか
げさせたが、村人はそれに従わないときもあった。
一九四〇年一一月二八日(農歴一〇月二九日)に、ここに駐屯していたのとは違う日
本軍が万寧からきて村を襲った。明け方、西と東から、村を囲むようにしてやって来
た。逃げおくれた村人四二人が殺された。日本軍は一〇〇人以上いたように思う。目を
覚ましていて早めに気づいた人は助かった。朝早くから山に木をきりにいっていた人も
助かった。林楊鴻のところでは一家六人がみんな殺されてしまった。
一九四四年春にはほとんど雨がふらず、害虫が大発生した。秋には、大きな台風が三
度も来た。一九四五年春には、食べるものがなくなった。日本軍が、食料や鶏などを盗
っていったので、村では一九四四年春ころから餓死する人がふえてきた。豊丁村だけで
なく、この付近の村ではどこでもそうだった。餓死するまえに腹がふくらみ、そのとき
なにか食べさせると、吐いて死ぬ。一九四四年秋から一九四五年にかけて、ねずみが増
え、ノミやシラミが増え、皮膚病や疱瘡やコレラで苦しむ人が多くなった。
日本軍は、自分たちの食べるコメや牛を日本から運んできてはいなかった。海南島で
は、一年に三回コメがとれるのだから、日本軍が来て海南島のコメや牛や鶏や魚を食べ
なかったら、あんなにたくさんの人が餓死することはなかっただろう”。
佐藤正人