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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 25

2013年07月31日 | 海南島史研究
(一二)、二〇〇六年一二月~二〇〇七年一月 9
■万寧市万城鎮月塘村で
 蔡徳佳・林国齋「日本占領万寧始末――制造“四大惨案”紀実」(万寧県政協文史弁公室編『万寧文史第5輯 鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』1一九九五年七月)には、一九三九年一〇月一四日の龍滾狗匙石洞虐殺、一九三九年一〇月一九日の和楽西戴村虐殺、一九四〇年一一月二八日の東澳豊丁村虐殺、一九四五年五月二日(農歴三月二一日)の万城月塘村虐殺が、万寧における日本軍の四大虐殺だと書かれている。
 二〇〇五年九月に、万寧市内で、蔡徳佳さんに紹介されて、朱進春さんに話を聞かせていただいた。朱進春さんは、日本軍が月塘村を襲撃したとき、日本刀で八か所傷つけられながら生き残ることができた人だった。このとき、「月塘村惨案」の日本政府の責任を追及する訴訟を起こしたいと、朱進春さんは言った。
 その一年四月後、二〇〇七年一月一七日に、月塘村と豊丁村を訪ねた。月塘村で生まれ育ち、いまは万寧市内に住む朱深潤さん(一九三三年生)が案内してくれた。
 月塘村は、万寧市中心部から南に四キロほどのところにある。前の日に朱深潤さんが連絡しておいてくれたので、農作業にでかける時間を遅らせて家にいてくれた朱学平さん(一九三三年生)から、話を聞かせてもらうことができた。朱学平さんは、かたい表情をくずすことがなく、こう語った。
   “わたしは、一二歳だった。朝はやく、日本兵がとつぜん家に入ってきて、なにも言わ
   ないで、殺しはじめた。一〇人家族のうち、わたしだけが生き残った。 
    父、母、兄二人、姉、叔母二人、いとこ二人、そして六歳だった妹の朱彩蓮が殺され
   た。
    わたしは、柱のかげに倒れるようにして隠れて助かった。妹は腹を切られて腸がとび
   だしていたが、まだ生きていた。こわかった。血だらけの妹を抱いて逃げた。途中なん
   ども妹が息をしているかどうか確かめた。激しい雨が降った。村はずれに隠れた。妹は
   瀕死だったが、三日ほど生きていた。
    半月ほどたって家に戻ってみたら家は焼かれ、遺体も火にあっていた。骨になりきっ
   ておらず、くさっていた。まもなく、偽軍や漢奸が来て、遺体を近くに運んで埋めた。
   父朱開陵は五二歳、母呉洋尾は五〇歳だった。
    日本軍が負けていなくなってから、その場所を掘って遺骨を探した。なんども探した
   が見つからなかった。焼けた骨は土のなかで砕けてしまったのだと思う”。

 朱学平さんは、むかしの家に案内するといって立ち上がった。月塘村の集会場の前を通り過ぎると、まもなく大きな池が見えてきた。むかしは、月塘村の中心は、月のかたちをしているその池のそばにあったという。
 日本軍が襲撃した朱学平さんの家の跡には、土台石が残っているだけだった。その一隅を指さしながら、ここが家の門だった、と朱学平さんが言った。その向かいの家では七人家族全員が殺されたという。そこも、土台石が残っているだけだった。
 
 日本軍が襲撃してきたとき三歳五か月だった朱学基さん(一九四一年一二月生)は、こう話した。
   “あのときのことはほとんど覚えていないが、叔父からなんどもなんども聞いた。日本
   兵が家に来たとき、母がおじぎをしたら、いったん日本兵はいなくなったそうだ。その
   すきに母はわたしをつれて森に逃げた。わたしを草のしげみに隠して、母は家に戻っ
   た。わたしは、長い間まったが母が来ないので、一人で歩いて家に戻った。みんな殺さ
   れていた。叔父一人だけが生きていた”。
 李金治さん(一九三八年生)は、当時七歳だったが、日本軍に右腕と背中を切りつけられた。その腕を見せてもらったが、大きな傷跡だった。

■万寧市東澳鎮豊丁村で
 一月一七日午後、月塘村からいったん万寧市内に三輪車で戻り、バスで豊丁村に行った。ひきつづいて、朱淨潤さんに案内していただいた。豊丁村は、万寧市内から一二キロほど南の東澳鎮の中心部にある。深い入り江になっている東澳湾のいちばん奥の村だ。
 農地が少なく、むかしは貧しい村で、人びとは塩をつくったり木をきったりして生活を支えていたという。
 村のまんなかに大きな樹があった。樹齢三〇〇年というその樹の前の小さな広場を、日本軍は「処刑場」にしていたという。
 その樹の近くに住んでいる文学山さん(一九三〇年生)、文開吉さん(一九二三年生)、陳世華さん(一九三一年生)の三人に話を聞かせてもらった。三人の話す海南語を朱淨潤さんに「普通語」に通訳してもらった。
 文学山さんは父親を日本軍に殺され、文開吉さんは一三歳のとき母親を日本軍に殺され、陳世華さんは父親と祖母と伯母を日本軍に殺されたという。
 三人は、日本軍侵入時のことを、つぎのように話した。
   “日本軍がこの村に来たのは、一九四〇年のはじめころだった。
    村人を働かせて炮楼や道路をつくった。炮楼のそばに宿舎もつくった。ヤスダという
   隊長とカワノという兵士の名を覚えている。ふたりとも悪い人間だった。若い女性を道
   路工事だといってムリにつれだし、乱暴した。ヤスダとカワノは二年くらいでいなくな
   った。悪いのはあの二人だけではなかった。日本軍は村の入り口の樹に日本国旗をかか
   げさせたが、村人はそれに従わないときもあった。
    一九四〇年一一月二八日(農歴一〇月二九日)に、ここに駐屯していたのとは違う日
   本軍が万寧からきて村を襲った。明け方、西と東から、村を囲むようにしてやって来
   た。逃げおくれた村人四二人が殺された。日本軍は一〇〇人以上いたように思う。目を
   覚ましていて早めに気づいた人は助かった。朝早くから山に木をきりにいっていた人も
   助かった。林楊鴻のところでは一家六人がみんな殺されてしまった。
    一九四四年春にはほとんど雨がふらず、害虫が大発生した。秋には、大きな台風が三
   度も来た。一九四五年春には、食べるものがなくなった。日本軍が、食料や鶏などを盗
   っていったので、村では一九四四年春ころから餓死する人がふえてきた。豊丁村だけで
   なく、この付近の村ではどこでもそうだった。餓死するまえに腹がふくらみ、そのとき
   なにか食べさせると、吐いて死ぬ。一九四四年秋から一九四五年にかけて、ねずみが増
   え、ノミやシラミが増え、皮膚病や疱瘡やコレラで苦しむ人が多くなった。
    日本軍は、自分たちの食べるコメや牛を日本から運んできてはいなかった。海南島で
   は、一年に三回コメがとれるのだから、日本軍が来て海南島のコメや牛や鶏や魚を食べ
   なかったら、あんなにたくさんの人が餓死することはなかっただろう”。
                                        佐藤正人
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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 24

2013年07月30日 | 海南島史研究
(一二)、二〇〇六年一二月~二〇〇七年一月 8
■万寧市龍滾鎮で
 一月一五日朝、瓊中黎族苗族自治県吊羅山を出発し、陵水黎族自治県を通過し、万寧市南橋で聞きとりをし、夕方万寧市内に着いた。すぐに、二〇〇二年春いらいの友人である蔡徳佳さんを訪ねた。蔡徳佳さんは、数年前まで万寧市政治協商会議文史資料研究委員をしており、万寧地域の近現代史を長年研究してきた人だ。
 蔡徳佳さんの紹介で、その故郷、龍滾に住む幼なじみの梁瑞居さん(一九三二年生)に、一六日朝九時半から夕刻まで龍滾地域を案内していただいた。
 龍滾は、万寧市内から瓊海市内行きのバスで一時間ほどのところだ。龍滾も万寧も、日本軍占領期には、瓊海に総司令部を置く日本海軍佐世保鎮守府第八特別陸戦隊が軍事支配しようとしていた地域であった。
 海南島中部東海岸の龍滾から西の六連嶺にいたる地域は、抗日武装部隊の活動が活発な地域であった。
 日本軍(佐世保鎮守府第八特別陸戦隊)は、抗日武装部隊の兵站を破壊しようとして、この地域で住民虐殺、村落破壊をくりかえした。
 瓊海と万寧の中間に位置する龍滾に佐世保鎮守府第八特別陸戦隊は「要塞兵舎」と炮楼を建設し、「要塞兵舎」の近くで抗日軍兵士と想定した人たちや支援者と想定した人たちを「処刑」した。梁瑞居さんは、その「処刑」を小学生のとき何度も目撃したという。
 龍滾地域を案内してもらう前に、梁瑞居さんに一時間あまり、話を聞かせていただいた。小学生のとき日本語学習を強制された梁瑞居さんは、いくつかの日本語の単語をつぶやきながら、日本語を話すのは、日本軍がいなくなって以来だと言った。梁瑞居さんは、つぎのように話した。
   “小学校は、いまの龍滾鎮中心小学の場所にあった。日本軍が来てから、校庭の旗が国
   民党の旗から日本の旗に変わった。毎週月曜日にそのまえに生徒全員が立たされて礼を
   させられた。
    校長は林(ハヤシ)と言っていたが、林時光という台湾人だった。日本語を教えてい
   た。校長のほかに日本人教師が六人ほどいた。その中には軍人もいたようだ。生徒は六
   〇〇人ほど。日本語、日本の歌、軍隊式体育を教えられた。「修身」も教えられた。大東
   亜共栄圏……という内容だった。
    小学校を卒業してから瓊海の農業中学に通った。日本軍司令部の近くだった。その傍
   に白石楼という名の「妓院」があった。中国人の女性が多かったように思うが、台湾人や
   日本人もいた。
    瓊海では、日本の三井公司が百貨や布、安部幸公司が食品やや水産物を扱い、畜産公
   司が牛や豚や鶏を処理し加工していた。わたしが中学に入った年に日本が敗北した。
    龍滾小学校から一キロほど万寧のほうに行き橋を渡ったところに日本軍の兵舎があっ
   た。その近くで日本軍は何人もの人を殺した。そのあとガソリンをかけて燃やしたこと
   もあった。何回も見た。日本軍は、家族が遺体を運び出すことを禁止した。殺されると
   き、中国共産党万歳と叫んだ人がいた。殺された人は、ほとんどが農民のようだった。
   女の人もいた。
    その場所は、山欽嶺という名だったが、解放後に光栄嶺と名づけられた。その一部分
   は、一〇年ほどまえから、パイナップルや胡椒の畑にされてしまった。いまの若い人
   は、むかしのことを知らないわけではないと思うが、そんなことをする者もでてきた。
   日本軍がいなくなってからそこに墓をつくった遺族もいた。その墓はいまも残っている
   かもしれない”。
 
 話を聞かせてもらったあと、梁瑞居さんに案内されて龍滾地域を回った。龍滾鎮中心小学の横に、硬いレンガ状の石で舗装された日本軍侵略当時の旧道が残っていた。その石は、良質の建築用材で、人家を破壊してその石を敷き詰めたという。その近くには、漢奸の家と一個中隊、一〇〇人ほどの漢奸軍隊の宿所と二階建ての望楼があったちう。
 日本軍龍滾守備隊駐屯地跡の周辺には、日本軍がつくらせた道路と橋げたの土台が残っていた。日本軍は、「要塞兵舎」を中心とし六連嶺方面に行く軍用道路を地域の人たちにつくらせ、仕事に出なかった人をみせしめに殺したという。
 光栄嶺の一部分はパイナップルや胡椒の畑になっていたが、高台の南面は草地のままになっていた。梁瑞居さんは、ここにはまだ犠牲者が埋められたままになっている、と言った。
 そのあと、梁瑞居さんは、そこから五キロほど六連嶺の方に入った三品涌村の高台に連れていってくれた。西側の六連嶺を含め、三六〇度がよく見えるその高台の広場には、日本軍の「要塞兵舎」があったという。その周辺には深さ一メートルあまりの濠の一部が残っていた。この兵舎の近くでも日本軍は捕らえた村人を「処刑」したといいう。その「場」には、ちいさな青い花が一面に咲いていました。
 六連嶺山麓のおおくの村が、日本軍によって無人化された。
                                        佐藤正人
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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 23

2013年07月29日 | 海南島史研究
(一二)、二〇〇六年一二月~二〇〇七年一月 7
■万寧市南橋で
 一月一六日に、苗族の人たちが故郷の吊羅山脈地帯の村から強制連行され強制労働させられたという南橋を訪ねた。
 海南島は行政区画がなんども変わり、いまは、万寧市に属しています。五年ほどまえの地図には、南橋黎族郷と書かれているが、最近の地図では南橋郷となっている。
 吊羅山郷から南橋に行くにはいったん陵水に行き、バスを万寧行きに乗りかえなければならない。吊羅山郷から一日に二本しかないバスで陵水に向かった。舗装されていない道を二時間ほど行くと、保亭から陵水に通じる広い道にでる。この道を右に二キロほど行くと「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告の陳亜扁さんが住んでいる祖関だ。バスは左に曲がって陵水方向へ。
 南橋鎮田公村で黄南楠さん(一九二五年生)は、つぎのように話した。
   “明け方、わたしは炊事のしたくをしていた。鶏の鳴き声がおかしかった。
    まもなく、日本兵が村にはいってきた。わたしの家にもやってきて、母(高門)と妹(黄
   公妹)を刀で殺した。母は四五歳、妹は一二歳だった。
    わたしも日本刀で切りつけられたが、家の門の柱(木の柱)の陰に避けた。命はたすか
   ったが、首の左側を切られた。くびから噴き出してくる血を手でおさえながら逃げた。
    いまは無くなったが村の名は、貢挙坡だった。小さな村だった。
    逃げ遅れた村人九人が殺された。五人が女、四人が男だった。一九四四年六月だっ
   た。日本兵は四〇人くらい来たと思う。こわかったので数ははっきりわからない。日本
   軍が村を襲ったのは、村人が日本軍の命令するように働かないからだということのよう
   だった。
    このあたりにはわたしたち黎族がむかしから住んでいたが、日本の武田公社と早川公
   社が農場をつくってわたしたちを働かせた。
    仕事に行かなかったり、遅れていったりすると殴られた。軍服を着た日本兵が監督し
   ていた。公社の日本人はほとんど見かけなかった。農場では、パイナップルや砂糖キビ
   を植えていた”。
 黄南楠さんは、家の入り口の柱のかげに行き、このようにして避けたのだと説明してくれた。黄南楠さんの首には、いまもおおきな傷跡が残っていた。命にかかわる重傷だったと思う。黄南楠さんの家の近くに住む林邊楠さん(一九一九年生)は、
   “武田農場で働いていたのは、一〇〇〇人くらいだった。この周辺の人がおおかった。
    わたしも働かされ、塩をもらった。金はくれなかった。高龍村に日本軍の望楼があっ
   た。黄南楠さんと同じ村に住んでいたが、日本軍が来たとき家族はみんなすぐ逃げてた
   すかった。武田公社の農場では、ほかのところから来た人は見なかった。みんなこの近
   くの人だった。農場は広かったから、遠くからつれてこられた人は、別のところにいた
   かもしれない”
と話した。
 ふたりの女性は、ときにお互いに記憶を確かめ合いながら、ほんとうに静かに話してくれた。近所に住む林鴻改さん(一九五二年生)が、海南語を普通語に通訳してくれた。聞きとりするとき、このように助けてもらうのだが、そのとき通訳してくれる人は、どこの村でも、老人たちの証言を熱心に解析してくれる。
 吊羅山でも聞いた武田公社の名を、ここでも聞いた。海南島侵略日本企業にかんする日本外務省資料のなかに武田薬品工業株式会社の名がある。
 異なる地域で話を聞かせてもらうと、日本政府・日本軍・日本企業の侵略犯罪が、海南島各地で、同じ「かたち」で行なわれていたことがわかる。
 日本軍は、軍用道路、飛行場、要塞兵舎などをつくらせるためだけでなく、住民の土地を奪ってつくった日本企業の農場で働かさせるために、村の住民を強制労働させ、それに従おうとしない村民をときに殺した。
 その事実を、これまで海南島の一〇〇か所あまりの村で、おおくの人から証言を聞くことによって確認した。このような侵略犯罪は、日本政府・日本軍・日本企業の文書にはほとんど記録されていない。
                                         佐藤正人
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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 22

2013年07月28日 | 海南島史研究
(一二)、二〇〇六年一二月~二〇〇七年一月 6
■瓊中黎族苗族自治県吊羅山郷で 2
 吊羅山郷で一泊し、翌朝、椰林行きのバスに乗る前にすこしでも聞きとりしようと、前日訪問した村とは反対の方向の道をすこし歩いていると、「海南省国営太平農場」と書かれた額がかかっている高さ八メートルほどの大きな門の前にでた。このとき、バスの切符の行き先が、吊羅山ではなく太平となっている理由がわかった。
 その門をくぐると、左側に太平農場本部、右側に太平農場警察と招待所(宿泊所)があり、その奥が農場関係者の居住区になっていた。
 早朝だったが、太平農場副場長であり太平農場党委員会副書記である黄錫大さん(一九四八年生)から話を聞くことができた。一九七一年に太平農場が創立されたとき広東省汕頭から一四〇人の青年とともに来たという黄錫大さんが、わたしたちの質問に答えて、説明してくれた太平農場の歴史はつぎのようなことであった。
   “太平農場は、一九七一年に、中国人民解放軍広州軍区生産建設兵団第6師が、荒地を
   開拓してつくったものだ。一九七四年に、「広東省国営太平農場」になった。整地をすす
   め灌漑施設をつくっていった。もともと無人の荒地だったが、ひろい農場のなかにもと
   から住んでいた黎族や苗族にも農場で働いてもらった。
    一九八八年に広東省から海南島が分離し、海南省となったときから、海南省農墾総局
   の管理下にはいった。一九九一年六月には台風でおおきな被害を受けたが、みんな奮闘
   して回復した。この年一〇月に、大門を建設した。
    太平農場の主要生産物は、コメ、いも、大豆、落花生、ゴムだ。そのほかに茶、さと
   うきび、薬草、果物(荔枝、マンゴー、ざくろ、ゆずなど)、生姜、胡椒をつくってい
   る。豚、牛、羊、家禽も飼育しており、草魚、鯉、福寿魚などの養殖もおこなってい
   る。
    太平農場の人口は、一八八〇年には、一八九二人で、そのうち漢族が一八一二人、黎
   族一三人、苗族七人、壮族四二人、その他の民族一八人だった。二〇〇五年の人口は二
   六〇一人で、漢族二〇六七人、黎族二二三人、苗族八九人、壮族一四五人、その他の民
   族七七人だ”。

 海南島の人口は、一九二〇年代は二〇〇万人余、日本侵略期は不明、一九六〇年代は四〇〇万人余、二〇〇二年は七〇〇万人余であり、二〇〇六年に八〇〇万人を越えた。漢族などの「移民」が急増している。黄錫大さんは、太平農場となっている地域は、荒地だったと言っていますが、もとは、黎族や苗族が生活と労働の場であったのではないか。
 黎族や苗族の生活・労働領域に、漢族が大量にはいってきて、その領域を占拠し、その領域で黎族や苗族を働かせるという関係をつくっていったのではないか。
 吊羅山脈の北側一帯を占める太平農場の中心部に吊羅山郷人民政府の建物があり、そのちかくに黎族の村と苗族の村がある。その村は解放後につくられた村だ。日本侵略期に吊羅山脈地帯に住んでいた黎族や苗族の人たちは、日本軍によって村をこわされ、村人は故郷を追われ日本軍の軍用道路建設をやらされたり、武田公司などの農場で働かされたりした。
 日本軍が敗退したあと、海南島は、一九五〇年五月まで国民党政府(中華民国政府)が支配し、その後中華人民共和国政府が支配した。
 日本軍と日本企業によって故郷を追われていた吊羅山脈地帯の黎族や苗族の人たちは、日本敗退後も、日本侵入以前の生活を回復できなかった。
 瓊中黎族苗族自治県南部の吊羅山地域の黎族民衆と苗族民衆の近現代史をいくらかでも理解するためには、民族と国家の問題を熟考しなければならない。 
                                         佐藤正人
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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 21

2013年07月27日 | 海南島史研究
(一二)、二〇〇六年一二月~二〇〇七年一月 5
■五指山地域で
 一月一三日から一七日まで、海南島中央部の五指山地域から東海岸の龍滾まで、バスと三輪オートバイなどで回った。
 五指山北方の瓊中黎族苗族自治県毛陽から西に二キロほどのところに、「瓊崖縦隊司令部旧址」があった。
 そこには瓊崖縦隊司令部の建物群があり、馮白駒司令官の宿所跡とされている建物の前に「馮白駒読書石」が置かれていた。これらは二〇〇〇年ころに新設されたもので、瓊崖縦隊司令部はこの場所には実在していなかったようである。附近に住む七〇歳代の人に話を聞かせてもらったが、抗日遊撃隊の司令部については語られなかった。

■瓊中黎族苗族自治県吊羅山郷で 1
 五指山東方に吊羅山脈がある。日本軍はこの山地の一部に侵入し、住民のそれまでの生活を破壊した。いま、吊羅山郷人民政府(郷役所)がおかれている吊羅山郷の中心部には、黎族と苗族がそれぞれ別個に生活している。
 一月一三日午後七時ころ瓊中黎族苗族自治県の県都營根に着き、一泊し、翌朝八時発椰林行きのバスで吊羅山郷に向かった。營根から陵水黎族自治県の県都椰林(前、陵城)までは、一〇〇キロあまりで、バスは一日一本だけだ。營根のバスターミナルで、吊羅山郷行きの切符を欲しいと言ったら、太平行きの切符を渡された。舗装されていない山道を通って、バスは九時五〇分に吊羅山郷に着いた。そこは、苗族の村だった。
 村の入り口に、キリスト教会があって、女性たちが賛美歌を歌っていた。この日は日曜日だった。
 この村で、たくさんの人に話を聞かせてもらった。苗語を、中学三年生の盧暁琴さんと麗晶さんに漢語に訳してもらった。学校では苗語は教えないが、この村では、ふだん苗語をつかっているとのことだった。
 陳志忠さん(一九三三年生)は、つぎのように話した。
   “むかしは、ここから二〇キロほど離れた吊羅山村に住んでいた。日本兵がたくさん村
   に入ってきて、村人一〇〇人あまりをむりやり南橋につれていった。男も女も子ども
   も。
    つかまってから南橋まで二日間、歩かされた。家族ぐるみで。
    日本の武田公司で働かされた。日本兵につかまって日本の会社で働かされたのだ。毎
   月一〇元ほどもらった。軍事手票だった。日本軍がいなくなったら、なんの価値もなく
   なった。
    南橋で、日本兵が、共産党だといって男の人の首を切って殺すのを見た。その人は三
   〇歳くらいで、ボロボロの服を着ていた。
    酒に酔った日本兵が女性に乱暴した。吊羅山村の女性がふたり南橋から陵水につれて
   いかれた。一人は日本兵の子どもを妊娠したが、腹を日本兵にふみつけられて死産した。
   そのあと南橋にもどされてきた。その人の名は、陳○○。いま、陵水の○○村で暮らし
   ている。わたしの親戚だ”。
 曾治启さん(一九三四年生)は、
   “南茂に住んでいたが、日本軍が来たので山の中に逃げた。食べ物がなかった。しばら
   くして、ときどき山を降り、食べ物をもらって食べることもあった。
    昔のことをあまり聞かないでほしい。つらかったことを思い出さなければならないか
   ら”
と言った。そばにいた、陳芙香さんは、
   “日本軍が来たので、山の中に逃げた。子どもだったので、ときどき山をおりて、きゅ
   うりなどをもって一日あるいて陵水まで行き、道端で売って、帰りに塩を買って戻っ
   た。陵水には日本兵がたくさんいた。恐ろしかった”
と話した。姉ふたりが日本兵に殺されたという陳金花さん(一九三五年生)は、“子どもだったので、殺された理由はわからない”、と言った。
 李玉金さん(一九二七年生)は、
   “陵水につれていかれて働かされた。
    日本兵が人を殺すところを見た。
    わらを切って日本軍の馬の餌にする仕事もやらされたことがある。鼻の下に髭をはや
   した日本兵がおおかった。怖がらせるためか、軍刀を抜いて見せる日本兵もいた。仕事
   をしないといって叩いた。竹の棒で”
と話した。陳秀深さん(一九三三年生)は、
   “子どものとき、逃げようとして日本兵に銃で撃たれた。二発撃たれた。あごと右肩。
    二発とも弾が突き抜けた。口と肩から血がふきだした。いまも傷跡が残っている(傷跡
   を見せてもらった)。それからずっといまも口を大きくあけられないので、うまくしゃべ
   れない”
と話した。陳秀深さんの連れ合いの姉の小柄な桂春さん(一九三四年生)は
   “子どもだったけれど、日本兵に殴られたことがある。九歳のとき、四人の子どもを残
   して、両親が働かされすぎて死んだ。兄は一二歳、妹は七歳、弟は六歳だった。日本軍
   がこなければ、家族がいっしょに安心してくらしていけたのに……”
と話した。
 陳桂瓊さん(一九五〇生)に案内されてその母の春英(一九二一年生)さんの家に行った。陳桂瓊さんは、子どものころ両親から日本軍が来たころの話をよく聞いたという。陳金花さんは穏やかな表情で座っていたが、自分からはあまり話そうとしなかった。陳桂瓊さんが陳金花さんの話をおぎなって、日本軍が来てからの陳金花さんの家族のことを次のように話した。
   “家族全員が、日本軍に陵水に連れて行かされ働かされた。父は病気がちになり、働か
   ないといって殴られて殺された。母もまもなく病死し、弟も七歳の時に餓死した。わた
   しは、父の弟に面倒をみてもらった”。
                                         佐藤正人
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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 20

2013年07月26日 | 海南島史研究
(一二)、二〇〇六年一二月~二〇〇七年一月 4
■三亜で 2
 一月一一日、覃学金さん(一九二九年生)は、三亜の自宅で、次のように話した。

   “わたしは、三亜のこの近くで生まれ、育った。日本軍がある日、突然やってきた。こ
   のあたりは日本軍だけが住む所にされ、それまでいた住民は紅沙に強制的に移住させら
   れた。田独鉱山と三亜市内の中間の草地だった。
    紅沙で学校に通った。日本の教師が一人いた。その教師の日本語は、日本人の日本語
   とすこし違っていたから、台湾人か朝鮮人だったと思う。校庭に立っている日本の旗
   に、毎朝おじぎさせられた。生徒の数は五〇人ほどだった。
    あるとき、同級生がおならをした。そうしたら、日本の教師が、その生徒の背中と頭
   を大きな軍用ナイフの背でたたいた。頭から血が流れた。その同級生は三年ほどまえに
   死んだ。
    日本軍が来てまもなく、いま三亜市委員会とその北側の第一中学校敷地になっている
   ところで(あのころは、なんにもない荒地だった)、日本軍が男の人を三人殺すのを見
   た。穴をみっつ掘って、三人をそのまえに座らせ、白い布で目隠し、首を切った。そし
   て首と身体を足でけって、その穴にいれた。その人たちが殺された理由はわからない。
   四〇歳から五〇歳くらいの男の人たちだった。
    それから三か月か四か月たってからだったが、日本軍は、十字架に五〇歳くらいの男
   の人をつるし、両手をひろげさせて手のひらに釘をうち、手首をひもで縛って、遠くか
   ら銃でうって殺した。わたしは、こわかったけれど、離れたところから見ていた。
    父は日本軍がくるまえに病死し、母が三人のきょうだいを育ててくれた。せなかに飴
   などをいれた籠を背負って行商をしていたが、日本軍が来てからは、自由に動けなくな
   ったので母は苦労していた。
    わたしは、日本軍の食堂に行って、バケツにはいっている残飯を拾った。兵隊たちが
   食べないので魚の頭が残っていた。
    紅沙に近いところ、いまの中国海軍三号門の向かい側に、三越デパートがあった。大
   きな柱があった。入ってみたかったが、こわくて入れなかった。
    紅沙に「妓院」があった。日本軍の飛行場の近くにも二軒あった。子どもだったが、
   そこがどんなところか知っていた。紅沙の「妓院」には近づかなかったが、飛行場の
   「妓院」には行ったことがある。コンドームを拾って洗って膨らませて遊んだ。「妓
   院」にいた女性は、日本のキモノは着ていなかった。
    日本軍は来てからはじめの三年くらいは、道路建設や飛行場建設に、三亜近くの人を
   働かせていたが、そのあとは遠いところからつれて来た人を働かせた。
    日本軍がいるあいだ、わたしもみんなも、いつもおびえていた。日本兵はよく人をつ
   かまえ、よく殴った。会ったときにおじぎをしないと、かならず殴った。若い女性に乱
   暴した。日本兵はこわかった。
    日本軍がくるまえは、自由だった。安心して暮らしていた。
    日本からうけた「傷」は、癒されることはないだろう。子どもだったが、自分が自分
   でなくさせられたように感じていた。日本兵がいなくなって、もちろんうれしかった
   が、かれらが海南島でやったひどいことを誰が罰するのか、と思った”。

 別れ際に、覃学金さんは、日本軍がいなくなってから日本人と話をするのははじめてだ、と言った。
                                         佐藤正人
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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 19

2013年07月25日 | 海南島史研究
(一二)、二〇〇六年一二月~二〇〇七年一月 3
■「朝鮮村」で
 一月四日に「朝鮮村」を訪ねた。二〇〇六年五月はじめ以来八か月ぶりでだった。
 バスを降り、朝鮮人が埋められている場所に近づきながら、この見慣れた風景を、このつぎも見ることができる保証はない、と考えていた。
 「朝鮮村」は、三亜市内から東北二〇キロたらずのところにある。「朝鮮村」から西に二〇キロたらずのところに妙山村や六郷村がある。日本軍が侵入してきたころは、「朝鮮村」(当時は南丁村)の周辺も妙山村の周辺も樹木が多かっというが、いまは、人家がおおくなっている。
 はじめて訪れたのは一九九八年六月だったが、それから八年半の間に、「朝鮮村」周辺はおおきく変わった。
 すこし前までは、三亜市内から荔枝溝までバスで行って、三輪車かオートバイにのりかえて行ったが、二〇〇六年からは、バスが「朝鮮村」を通過するようになっていた。二〇〇五年にいったときには、二〇〇四年までは畑だったところに「朝鮮村」を横断するかたちで広い道路がつくられつつあり、その終点の山中に、三亜学院という大学の校舎の建設が進められていた。二〇〇五年春には、三亜学院が開校し、そこまで三亜市内からバスが通うようになった。日本軍に虐殺された朝鮮人が埋められている場所は、「朝鮮村」中央部に新設されたバス停から三〇〇メートルほどのところにある。そこは台地になっており、大型建造物などの用地として適している。この場所が、「開発」される時期が迫っている。
 2007年一月四日、遺骨が埋められている場所に行くとき、「朝鮮村」のなかを通らせてもらった。ほとんど人影がなく、いぜん「子どものころ、牛追いをしながら、朝鮮人が道路をつくったり洞窟を掘ったりするのを見た。日本兵は、朝鮮人を、有刺鉄線で胸をしばって、木にぶらさげ、“バカヤロウ”と言いながら殴った。腹が減ってしごとができない人を、そうして殴って殺した」と話してくれた林瑞章さん(一九三四年生)の家をのぞいたら、隣り人が、いま牛追いにいってるよ、と教えてくれた。
 朝鮮人の遺骨が埋められている広場には、風が吹き、牛がたくさんいた。
 「遺骨館」に近づくと、朝鮮人虐殺を目撃したと話してくれたことのある林吉亜さん(一九二四年生)と董亜花さん(一九三四年生)が牛を見守っていた。
 「朝鮮村」にもどると、符亜輪さん(一九一六年生)が家のまえで椅子にすわっていた。近づいて挨拶すると、自分はもう目がほとんど見えなくなって足も弱くなった。あんたの姿もよく見えないが声でわかるよ、と言ってくれました。一年前の二〇〇六年三月と五月に会ったときにはお元気だったのだが。
 これまで、「朝鮮村」には、五〇回あまり通った。おおくの村人と知り合うことができ、なんども話を聞かせてもらった。「朝鮮村」は、急速に変わろうとしている。  

■三亜で 1
 一月五日午前、三亜市内の自宅で、陳人忠さん(一九三五年生)に話を聞かせてもらった。陳人忠さんは、つぎのように話した。
   ”わたしが幼かったころ、日本軍が来た。そのころの三亜は、小さな港町だった。
    日本軍が来てまもなく父がマラリアで死んだので、母の故郷の黄流に移ったが、そこ
   でも暮らせなくなったので、また三亜に戻って南邊海に住んだ。
    だが、一九四二年に、その家を日本軍に接収されて、紅沙に強制的に移された。そこ
   で小学校に入った。学校の門にも中庭にも“日章旗”がいつもあがっており、そばを通
   るときにかならずお辞儀させられた。街をあるいている時でも、日本人に会ったらお辞
   儀しないと殴られた。
    三亜の日本軍の司令部は、いまの建港路の入り口にあった。その近くに処刑場があ
   り、そこで日本軍が抗日する人を殺していた。
    三亜の回新村に、日本軍は飛行場をつくったが、その前の三亜海岸には、海上軍用飛
   行場をつくった。いまも三亜海岸の海鳥ホテルまえの海に、その跡がクイのように立っ
   て残っている。
    日本が降伏して、三亜に国民党の軍隊がきたときのことはよく覚えている。うれしか
   った。潮見橋と大東海のあいだにある“嶺路門”は当時は草のはえた荒地だったが、そ
   こに日本兵が集められた。
    その日本兵たちに、朝鮮や台湾からつれてこられた“労工”が石をなげつけるのを見
   たことがある。わたしは、あわてて逃げる日本兵が落とした万年筆を拾って、これは戦
   利品だと、そのときは思った。
    そのころ、朝鮮の“労工”、台湾の“労工”、三亜居民がいっしょに、楡林に、“抗
   戦勝利”を祝う塔をつくり、祝賀会を開いた”。
 一月九日朝、干潮時に三亜海岸を歩き、陳人忠さんが残っていると言っていた旧日本軍の海上軍用飛行場用のものと思われるコンクリートの塊を見つけた。そこは、旧日本軍の三亜飛行場前の海岸から一.五キロほど南の地点だった。午後の満潮時には、ほとんど海中に沈んでいた。

 一月五日午後、回新村を訪ねた。
 日本軍が三亜飛行場をつくった回新村を、これまで二〇回あまり訪れ、村人に話を聞かせてもらってきていた。二〇〇五年九月に、村委員会の協力をえて、ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 六〇年まえは昨日のこと』の屋外上映会をしたこともあった。
 村に入るとすぐに、海経杰さん(1一九三三年生)と宋周生さん(一九二八年生)に出会った。おふたりには、旧日本軍三亜航空隊司令部跡や「慰安所」跡に案内していただいたことがあった。おふたりが互いに話し合っていることばが、まったく聞き取れないので、訊ねると、回族のことばだとのことであった。いまでも家庭でこのことばを使って生活しており、学校では教えないが、子どもたちもこのことばを使えるという。
 モスクの近くで、はじめて出合った高振武さん(一九三六年生)に話を聞かせてもらった。三亜飛行場建設のとき朝鮮人が働いているのを見たことがある、と言うので、着ていた服の色を確かめると、即座に「青色だった」という答えがかえってきた。
 「朝鮮報国隊」の制服の色は青色でしたから、高振武さんのこの証言は、回新村で「朝鮮報国隊」が働かされていたという事実を示すものである。
 とつぜん、高振武さんは、フセイン死刑についてどう思うか、と聞いた。高振武さんは、イスラム教徒としてアメリカのやり方は許せないと言った。わたしは、フセインはクルド人虐殺など反民衆的な犯罪をくり返したけれども、ブッシュらの反民衆的な犯罪は、フセインの犯罪とくらべることができないほど巨大だ、と答えた。
 高振武さんと別れたあと、哈秉堯さん(一九三〇年生)の自宅を訪ね、じっくり証言を聞かせてもらうことができた。哈秉堯さんは、「朝鮮報国隊」ということばを、当時から知っており、二〇〇三年春に、「朝鮮報国隊」の宿所跡に案内してくれた人だ。
                                          佐藤正人
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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 18

2013年07月24日 | 海南島史研究
(一二)、二〇〇六年一二月~二〇〇七年一月 2
■黄流で
 三亜の西方一一〇キロほどのところに黄流がある。日本軍はここに飛行場を建設した。その滑走路の一部、管制塔、司令部の建物、水塔などが、いまも残されています。二〇〇一年一月いらい、これまで一〇回近く訪ねてきたが、ここも訪れるたびに新しく「調査」しなければならないことが増えるところである。
 三亜からの高速道路をおりて黄流市街地にはいる途中に、おおきなダムがある。
 一月六日に黄流を訪ねると、そのダムが干上がっており、いつもは水中に隠れている旧日本軍が黄流飛行場から引いた軽便鉄道跡が現れていた。
 ダムの壁をおりてその跡を、1キロほど歩いてみた。ほとんどが直線の軽便鉄道跡には砂利石がのこっており、途中、鉄橋の跡が二箇所ありました。三亜から同行してくれた黄流生まれの陳運策さん(一九六〇年生)は、“子どものころここで遊んだ、大きいほうは、‘日本人橋’と呼んでいた”、と話した。
 黄流中心部に黄流中学校がある。そこに、かつて日本海軍横須賀鎮守府第四特別陸戦隊黄流派遣隊司令部があった。
 黄流中学校の隣りに二〇〇二年ころに邵逸夫中学校が建てられたが、そこはいぜんは墓地であり、抗日戦士たちが処刑された場所であった。
 一月六日に訪ねたときに校庭に抗日闘争記念碑が建設途中だったが、その地下に犠牲者の遺骨が埋められているとのことであった。
 旧日本軍黄流飛行場跡に隣接している新栄村(木頭園)で、黎慶さん(一九二一年生)は、“日本軍に住んでる家を壊された。飛行場をつくるとき働いた。日本軍がきてから腹いっぱい食べたことがなかった……”と、遠い記憶を確かめるようにして話した。
 同じ村で、九二歳のAさんは、“日本軍は、人をたくさん殺した。家も壊した”と話した。Aさんは、名前を聞いても、忘れたと言って、教えてくれなかった。
 そのあと、おなじ村の孫其勇さん(一九三四年生)に案内されて旧日本軍黄流飛行場跡を回った。これまで、この飛行場跡を六回訪れているが、村人に案内してもらうのは初めてだった。孫其勇さんは、極めてくわしく説明してくれた。これまで見逃していたことがたくさんあった。トーチカだと思っていた一〇〇個以上のコンクリートの小山のなかには、兵舎の土台や食堂の土台だったものがあった。
 孫其勇さんの説明によって、かつて司令部の建物、格納庫、航空隊員兵舎、工兵兵舎、倉庫、「慰安所」……が建っていた日本侵略軍の飛行場の全体像をつかむことができた。
 孫其勇さんに言われて、格納庫まえの飛行機通過路があったという場所の土を10センチほど掘ってみると、コンクリートが敷きつめられていた。一九六〇年代に、コンクリートを土でおおって作物ができるようにしたという。  
 司令部の建物や航空隊員兵舎があった場所から七〇メートルほど離れた場所に、「慰安所」の建物の土台が残っていた。すぐ近くの赤龍村から来て農作業をしていた人によると、一〇年ほど前に、「慰安所」の建物をこわしたそうです。
 赤龍村で、張照茂さん(一九二六年生)とそのつれあいの黎花妻さん(一九二七年生)に、自宅で話を聞かせてもらった。
 張照茂さんは、
   “日本軍に赤龍村の家が全部こわされた。北側の線路の向こうに移った。日本軍に水田
   も畑も奪われた。その奪われた村の水田や畑を飛行場にするしごとをやらされた。土を
   運んだ。もらったのは、一日一角半。当時コメ一斤(500グラム)が二角だった」
と話し、黎花妻さんは、
   “わたしも飛行場で働いた。やはり、一日一角半だった。日本軍は、村の女性に乱暴し
   た。病気で寝ていた四〇歳の女性が、六人の日本兵に続けて乱暴され、死んだ。
    日本軍がいなくなったときには、ほんどうにうれしかった”
と話した。近所に住む孫家譲さん(一九二六年生)は、
   “張照茂といっしょに飛行場で働いた。畑がないからしかたがなかった”
と話した。                         

■三亜鹿回頭角で                 
 コタバルとパールハーバーをほぼ同時に奇襲攻撃してアジア太平洋戦争を開始してから2年後には、日本政府と日本軍は戦争勝利の展望を失っていました。  天皇ヒロヒトと日本政府と日本軍の中枢は、戦争目的を「国体(天皇制)護持」に変え、「本土決戦」の準備を始めた。
 南方から進攻してくるアメリカ合州国軍の「本土上陸」を遅らせるために、天皇ヒロヒトらは、南方の島々に大量の軍隊をおくりこみ、「国体(天皇制)護持」のために、勝利の可能性のないことが明白な戦闘をおこなわせ、おおくの現地民衆だけでなく、日本兵やアメリカ合州国軍兵らのいのちを失わせた。 海南島においても日本軍は、アメリカ合州国軍上陸を予想し、「特攻艇」を配備した。海南島には、三亜と陵水の新村にその基地をおき、「特攻艇」格納トンネルをつくった。
 これまで陵水の新村の「特攻艇」基地には七回行き、当時のことを知っている趙向盈さん(一九一八年生、二〇〇五年没)さんなどから話を聞かせてもらってきたが、二〇〇七年一月七日に、はじめて三亜の「特攻艇」基地跡に行った。
 三亜港と楡林港のあいだに鹿回頭角(岬)が張り出しているが、その突端に「特攻艇震洋」の格納トンネルが残されていた。奥行き二五メートルほどの行き止まりになっているトンネルが二本、八〇メートルほどの海側から反対の海側に突き抜けているトンネルが一本、ぜんぶで三本だった。
 八〇メートルほどのトンネルは、途中にわき道があり、べつの出口につながっていた。また、中には四箇所、ひろい空間があった。弾薬庫ではないかと思われるる。この構造は、新村にのこされている「特攻艇震洋」格納トンネルの構造と似ている。
 ほかにもう一本、出口がふたつあってなかでつながっているUの字型のトンネルがあったが、これは旧日本軍のものか中国海軍のものか、はっきりしなかった。
                                         佐藤正人
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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 17

2013年07月23日 | 海南島史研究
(一二)、二〇〇六年一二月~二〇〇七年一月 1
■三亜市鳳凰鎮妙山村で
 一二月三一日から一月三日までの四日間、妙山村を訪ねた。
 妙山村は、二〇〇五年四月と五月に訪ねた六郷村の隣り村である。妙山村も六郷村も三亜市河東区妙林郷に属しており、六郷村は黎族の村、妙山村は漢族の村である。六郷村の名は、海南島に侵入した日本人の「移民村」として、防衛図書館にある海南島侵略日本軍関係文書などにでている。
 妙山村の入り口から七〇メートルほど南に、この地でたたかった抗日戦士の追悼碑が建っていた(一九八四年建立)。
 三一日に、黎金龍さん(一九二二年生)に日本占領期のことを聞かせてもらった。八四歳の黎金龍さんは、しっかりした口調で話してくれ、複雑な内容を聞きあぐねていると、勢いのある文字を書いて示してくれた。
 黎金龍さんの家は、村の入り口にある樹齢三〇〇年ほどの酸豆樹のそばにあり、そこから二〇〇メートル離れたところに、むかし井戸があったという。
 三亜からきた日本軍が、そこで、村の青年二四人の首を竹で締めつけ動けないようにして、日本刀で殺すのを、黎金龍さんは見たという。当時、村人は四〇〇人ほどであったが、日本軍は、村人をむりやりその殺害現場に集めた、見ることを強要したという。
 日本兵は、ひとり殺すと井戸に投げ込み、またひとり殺すと井戸に投げ込み、虐殺を繰りかえした。遺骸は、のちに遺族がひそかに井戸を掘り返して、それぞれの墓地に埋葬したという。
 二四人の青年は、日本軍に反抗したという理由で虐殺されたが、それが具体的にどのようなことであったのかは、黎金龍さんにはわからなかったという。

 一日に、その井戸のあったところに、黎金龍さんに案内してもらった。まわりに家が建っているが、当時は林だったという。その井戸を使えなくしてしまったので、新しく日本軍が村人に掘らせた井戸が近くにあって、いまも使われてた。
 殺された青年のなかには、結婚して子どもがいた人もいたという。
 黎金龍さん自身も、日本軍と出会うのを嫌って、何人かの村人といっしょに山の中に逃げたが、つかまり、頭を銃でなぐられ血を流したことがあったという。
 一九九五年八月に発行された中国人民政治協商会議三亜市委員会編『日軍侵崖暴行実録』(紀念中国人民抗日戦争勝利五〇周年『三亜文史』五)に、陳錫礼さんが書いた「妙山村大実録」が掲載されている。

 二日に、妙山村で張球華さん(一九三二年生)から話を聞かせてもらうことができた。
 日本軍が三亜飛行場をつくるとき、少年だったにもかかわらず働かされた張球華さんは、つぎのように話した。
   “労働者に水をくばってまわる仕事などをさせられた。報酬はなく、わずかな食べ物だ
   けをもらった。日本軍に協力する者がいて、飛行場で働く村人を集めた。
    労働者のなかに朝鮮人がいた。その人たちは囚人だと、おとなから聞いたことがあ
   る。
    蒋介石軍かアメリカ軍の飛行機がきて、飛行場に爆弾を落とし、自分は助かったが、
   いっしょに働かされていた子どもが何人も死んだ。
    日本兵は、わたしの仕事が遅いといって足を棒でなぐった”。

 張球華さんの両足のももには、その傷跡が、まだ残っていた。張球華さんが見たという朝鮮人は、「朝鮮報国隊」の人たちだと思われる。
 日本軍が二四人の青年の首を日本刀で切り落とし、首と身体を井戸になげこんだのを、張球華さんも目撃したが、怖かったので近づけなかったという。子どもだったので理由はよくわからなかったが、見せしめだ、と思ったという。
 村のなかで話を聞かせてもらっていると、子どもたちがまわりにたくさん集まってきて、熱心に聞いている。ときどき、質問をする子どももいる。このようにして、村の歴史が伝えられていくのだ、と思った。

 三日に、張球華さんに案内されて、劉土清さん(一九二二年生)に会うことができた。劉土清さんは、自宅の庭で、友人の劉貴聯さん(1920一九二〇年生)とくつろいでいるところだった。
 八四歳の劉土清さんは、ささやくような小さな声で、しかし、しっかりとした口調で話してくれた。終始静かな表情で、わたしを見つめながら、劉土清さんが話したのは、つぎのようなことであった。
   “わたしは、六人きょうだいだ。兄が二人、姉が三人、わたしは末娘だ。母は、わたし
   が一二歳のときに亡くなった。日本軍が来る前は、食べるものもたくさんあったし、こ
   の辺は農作物がよくできるので、季節ごとの村のまつりはとても楽しかった。
    日本軍が来てから、いっきに変わってしまった。日本軍のあとに、日本人の農民もや
   ってきて、土地を奪った。
    ある日、突然、日本軍がわたしの家に来て、火をつけた。そのとき、逃げようとした
   父が、銃で撃たれて死んだ。父の名は劉慶堂。六〇歳をすこし過ぎていた。父が撃たれ
   て倒れる姿がいまも見える。
    父の遺体を埋めて、みんな山に逃げた。そのとき、きょうだいがみんな、ばらばらに
   なってしまった。燃やされたのはわたしの家だけでない。日本軍は、あのとき二〇軒ほ
   どの家を燃やし、コメも麦粉も燃やし、着る物も燃やした。日本軍がなぜなにもかも燃
   やしたのか、いまもわからない。
    山では、黎族の人たちに助けてもらい、そこで働いた。みんないっしょで同じものを
   食べた。山の中にいたのは、一年半くらいだったと思う。
    日本軍がいなくなってから、山から戻った。だが、きょうだいはひとりも戻らなかっ
   た。日本軍に父を殺されて逃げてから六〇年あまりになるが、あのときから、きょうだ
   いに会っていない。
    村に戻ってから、父を埋めた場所を探したが、わからなくなっていた。あたりのよう
   すがすっかり変わっていた。日本人がかってに畑地を、日本人の好きな種類のコメをつ
   くる水田にしてしまっていた。
    日本軍がいなくなっても、もとのたのしい生活はかえってこない。
    日本軍がくるまえは、自分たちの田畑で安心して生きていた。家族そろって食事し
   て……。
    日本軍が来てからは、ひもじい思いをするようになった。楽しいことがなくなった。
    日本軍は家族をめちゃくちゃにした。
    日本兵に乱暴され、その後の人生を変えられてしまった女性が、この村にも何人もい   た”。
 劉土清さんが話すのをそばで聞いていた劉貴聯さんは、妙山村の近くの村の人だった。劉貴聯さんは、
   “日本軍の三亜飛行場建設のとき土運びをさせられ、走るようにして働かないと、‘バ
   カヤロ’といわれて殴られた。小さな子どもも働かされた。日本軍がきてからそれまで
   穏やかだった毎日の生活が不安定になった。若い女性は、みんな逃げた。家族がばらば
   らになった」
と話した。

 妙山村でも、当時のことを知っている年齢の人は少なくなっている。
 虐殺現場の井戸のあった場所に立っていると、林亜女さんが近づいてきて、祖母の林金玉さん(一九三〇年生)からここでの虐殺の話を聞いたことがあるが、いま祖母は耳がまったく聞こえなくなったので、もう誰にも当時のことを話せなくなってしまった、と言った。
                                         佐藤正人
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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 16

2013年07月22日 | 海南島史研究
(一一)、二〇〇六年四月~五月
 日本海軍の陵水飛行場があった陵水黎族自治県三才鎭后石村から北東五キロほどのところに、いま県庁がある。その近くの南門嶺山麓に陵水南関小学校がある。そこの地は、日本侵略期に、おおくの犠牲者が焼かれ埋められた所であった。
 一九五〇年に小学校が建てられるとき、そこに埋められていたり散らばっていた遺骨が集められ、学校の裏に集められた。
 五月はじめに近くに住む朱厚雲さん(一九三二年生)が、学校裏の斜面の土をすこし掘ると白骨がでてきた。それを示しながら朱厚雲さんさんは、
   “病気になった人、体力がなくなって仕事ができなくなった人は、ここに連れてこられ
   て焼かれた。
    朝鮮人もここで焼かれた。
    死んでいる人もいたが、まだ生きているのに焼かれた人もいた”
と話した。
 南関小学校のすぐ隣りに三昧寺という寺がある。そこで、陳関養さん(一九三七年生)は、
   “子どもの時、いま海軍の飛行場がある近くに日本軍の飛行場があった。
    インドの人、朝鮮の人、中国の人を集めて労働させた。
    一番仕事を一生懸命やるのは朝鮮の人。土を台車で運んでいた。
    走るようにして働いていた。少しゆっくり走ると叩かれた。たくさんいた。
    土を運びながら突然倒れた人もいた。
    病気になった人、からだが弱った人は、いま小学校のあるところに連れて来られて焼
   かれた。
    自分の目で見た。インド人は背が高く髭があった。
    朝鮮人は、私たちと顔が似ているので区別はできないが、大人たちが朝鮮人だと言
   っていた。
    朝鮮人の死体をここに運んで焼いた。死んでいる人もいたが、まだ生きている人もい
   た”
と話した。三昧寺には、近所の翁連栄さん(一九二八年生)も来てくれて、
   “日本人は朝鮮人にひどいことをした。
    この近くに日本軍が飛行場を作るとき、わたしも二か月くらい働かされた。
    朝鮮人も働かされていた。話す言葉はわからなかったが、自分は朝鮮人だと書き、報
   国隊だと書いた。
    飛行場のしごとは、自分たちと朝鮮人は、分かれていた。
    飛行場で朝鮮人を殺すのを見た。鉄棒で叩いたり、水をかけたりするのを見た。
    朝鮮人は、半ズボンをはき、上着を着ていた。上着の色も半ズボンの色も青かった。
   麦わら帽子をかぶっていた。
    背中に番号がついていた。仕事を始める時間には、ラッパがなった”
と話した。三昧寺で話しを聞かせてもらったあと、朱厚雲さんに旧日本軍がつくった洞窟跡に案内してもらった。その途中、朱厚雲さんは、
   “朝鮮人は日本軍人にいつも殴られていた。朝鮮人は、日本軍と戦う気持ちがある。朝
   鮮人は強いから屈服しない。だから、殴られていた。抵抗すると、よけい強く殴られる
   のだ」
と言った。南門嶺山頂には展望台がつくられており、そこから西南方向に陵水飛行場が、東南方向に太平洋が見える。展望台のそばに、幅三メートル、高さ一メートル半ほどの「一九三九年四月二一日 陵水占領 井上部隊」(原文は「元号」使用)と刻まれた石が残されていた。
 「井上部隊」とは、井上左馬二を司令官とする日本海軍佐世保第八特別陸戦隊のことである。佐世保第八特別陸戦隊は、一九三九年二月に三亜港から海南島に侵入して、海南島東部各地で継続的に住民虐殺などの犯罪をくりかえした。井上左馬二は、一九三九年一一月に日本に戻って横須賀の海軍航空隊に移り、一九四五年三月に、硫黄島で海軍警備隊の司令官として硫黄島に行き、まもなくアメリカ合州国領軍に約一〇〇〇人の兵士を「突撃」させ、「部下」約八〇〇人とともに死んだ。
                                        佐藤正人
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