三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「「汚染水放出やめろ」ソウル日本大使館前で市民団体が会見」

2023年10月06日 | 国民国家日本の侵略犯罪
2023-10-06 08:06
■[フォト]「汚染水放出やめろ」ソウル日本大使館前で市民団体が会見
 
【写真】「日本の放射性汚染水海洋投棄阻止共同行動」の会員たちが5日午前、ソウル鍾路区の日本大使館前で記者会見を行い、福島第一原発の汚染水の2回目の投棄を糾弾し、陸上保管を求めている。東京電力はこの日、福島第一原発の汚染水の2度目の放出を開始した=シン・ソヨン記者//ハンギョレ新聞社

 東京電力が福島第一原発の汚染水の2回目の海洋放出を開始した5日、市民社会団体の会員たちが再び日本大使館の前に集まった。「日本の放射性汚染水海洋投棄阻止共同行動」の会員たちはこの日午前、ソウル鍾路区(チョンノグ)の日本大使館前で記者会見を行い、2回目の海洋投棄を糾弾するとともに、汚染水の陸上での保管を求めた。
 東京電力は2回目の放出期間と定めたこの日から今月23日までに、1回目とほぼ同量の約7800トンの汚染水を放出する計画だ。東京電力は8月24日から9月11日までに、1回目の放出分として7788トンの汚染水を放出した。日本政府と東京電力は来年3月までに、計4回にわたって3万1200トンの汚染水を放出する計画だ。福島第一原発には先月28日現在で133万8000トンあまりの汚染水が保管されている。

【写真】記者会見の参加者たちが、日本による福島第一原発の汚染水の2度目の海洋投棄を糾弾しつつ、陸上保管を求めている。東京電力は2度目の汚染水放出を開始した=シン・ソヨン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】参加者たちが日本による福島第一原発の汚染水の2度目の海洋投棄を糾弾しつつ、陸上保管を求めるスローガンを叫んでいる=シン・ソヨン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】参加者たちが汚染水の陸上保管を求める内容などが記されたプラカードを掲げている=シン・ソヨン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】参加者たちが日本大使館に向かって福島第一原発の汚染水の陸上保管を求めて声をあげている=シン・ソヨン記者//ハンギョレ新聞社

シン・ソヨン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2023-10-05 14:59
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世界遺産委員会、「日本は軍艦島関係国と対話を」決議の見通し

2023年10月03日 | 国民国家日本の侵略犯罪
「東亞日報」 September. 11, 2023 08:38,
■世界遺産委員会、「日本は軍艦島関係国と対話を」決議の見通し
 国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会が、世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」と関連し、日本に対して韓国など関係国と対話するよう勧告する決議を近く採択する見通しだ。「明治日本の産業革命遺産」には、日本植民地期の朝鮮人強制労働の現場である長崎県の軍艦島(端島)炭鉱が含まれている。
 10日、世界遺産委員会のホームページによると、このような内容を盛り込んだ決議が、今月10~25日にサウジアラビアのリヤドで開かれる第45回世界遺産委員会会議に上程される予定だ。
 ホームページに公開された決議文草案は、日本に「(当該遺産に関する)追加の研究、資料収集・検証を行うだけでなく、関係当事国との対話を継続することを奨励する」と明記した。また、関連国との持続的な対話や追加措置について、来年12月1日までに世界遺産委員会の事務局を務めるユネスコ世界遺産センターとその諮問機関に提出し、検討を受けるようにした。決定文草案が言及した「関係当時国」は事実上、韓国である。
 「明治日本の産業革命遺産」と関連し、日本が強制労働に遭った朝鮮人などの歴史を正しく伝えているかどうかをめぐって世界遺産委員会が決議文を採択するのは約2年ぶり。
 これに先立ち、日本は2015年、当該遺産がユネスコ世界遺産に登録された際、朝鮮人強制労働を含む「歴史全体(full history)」を伝えていくと約束した。しかし、これをきちんと守らず、国際社会から批判を受けてきた。犠牲者を称える情報センターの設置を約束し、それを遺産の現場ではなく東京に作ったうえ、朝鮮人の人権侵害などに焦点をあてなかった。これにより、2021年7月、世界遺産委員会は朝鮮人強制労働者に対する説明不足などを指摘し、日本に異例の「強い遺憾の意」を表明する決議文を出した。
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故国の地を踏めなかった浮島丸8000人の鎮魂…釜山港「歴史公園」が候補に

2023年10月03日 | 国民国家日本の侵略犯罪

「/中央日報日本語版」 2023.09.29 13:52
故国の地を踏めなかった浮島丸8000人の鎮魂…釜山港「歴史公園」が候補に

【写真】釜山(プサン)施設公団が運営する釜山(プサン)永楽(ヨンラク)公園地下にある無縁故者室。ここには浮島丸沈没事件犠牲者のうち12人の遺骸が安置されている。[写真 釜山永楽公園]

 25日、釜山(プサン)永楽(ヨンラク)公園第2永楽院。釜山施設公団が運営する公設墓地である永楽公園の地下には「無縁故者室」が用意されている。死亡したものの身元が明らかでなかったり、家族・知人などが分からない人々が安置される場所だ。「浮島丸沈没事件」の犠牲者12人の遺骸もここに眠っている。強制徴用被害者を乗せた日本海軍輸送船が1945年に沈没した事件だ。永楽公園側によると、1970年代に日本から引き渡された人々の犠牲者の遺骸は当時遺族と連絡がつかないなどの事情で40年以上にわたってここに安置されている事実が最近新たに明らかになった。

◇沈没した船には徴用被害者8000人が乗っていた
 日本の海軍輸送船である浮島丸は1945年8月22日、青森県大湊港を出港した。この船には徴用によって労役に就いていた朝鮮人数千名が乗っていた。だが、2日後の8月24日に浮島丸は京都府舞鶴湾で爆発し、海に沈んだ。
 日本が公式死亡者として発表した数字だけで549人に達する。3735人が乗船して沈没によって徴用された韓国人524人、日本海軍25人が亡くなったという説明だ。だが、犠牲者の子孫などは当時「朝鮮行きの最後の船便」と知らされた浮島丸におよそ1万人が乗っていて、最大8000人余りが亡くなったと主張している。浮島丸沈没原因を巡っても日本は「米軍の機雷による事故」と明らかにしたが、遺族などは隠された原因があるのではないかと疑っている。
 このような疑いは2016年8月浮島丸に爆発物が載っていたという内容が入った日本政府記録物が公開されて力を得た。1945年8月22日、日本海軍運輸本部長が浮島丸船長に下した「航行禁止および爆発物処理」文書だ。同年8月24日午後6時を基点に航行中だった船舶に対して、爆発物を海上に投機して停泊している船舶は陸地の安全なところに爆発物を格納するように命じられる内容がこの文書に記録されている。浮島丸爆沈韓国人犠牲者追慕協会のキム・ムンギル顧問が真相究明セミナーで公開したこの文書を通じて日本側の責任論がさらに大きくなった。

◇日本訴訟、韓国憲法訴訟…法廷争いが続いた
 法廷争いもあった。浮島丸生存者や犠牲者遺族80人は1992年日本政府を相手取って28億円規模の損害賠償訴訟を起こした。京都地裁は訴訟が提起されて10年近く経った2001年浮島丸乗船と被害が確認された原告15人だけに300万円を支給するように判決を下した。2003年大阪高裁は「(日本)政府は被害者に民法上不法行為責任を負わない」として1審判決を覆した。翌年東京最高裁が上告を棄却して遺族は敗訴した。2020年には市民団体が沈没の真相究明が必要だとして憲法訴訟を出したが、これもまた棄却された。

◇「追慕公園の造成、遺骸の返還必ず実現を」
 韓国市民団体や遺族は追慕公園を作って浮島丸沈没を悼み、遺骸もまた返還されるべきだと声を高める。北東アジア平和・浮島丸犠牲者追慕協会は7日、釜山市議会で記者会見を行って釜山港に釜山近代歴史平和公園を作るよう求めた。キム・ヨンジュ会長(76)は中央日報の電話取材に対して「釜山港は日本強占期の時に強制動員された先祖がここから出発し、そして帰ってきた港だ。浮島丸事件を含めて日帝強制動員の歴史を光を当てる近代遺跡になることができる場所」と説明した。
 浮島丸遺族会会長を務めるハン・ヨンヨンさん(81・犠牲者ハン・ソクヒさん息子)は父親の遺骸を見つけたいとの一心でスキューバダイバーなどと一緒に2012年自ら沈没現場である舞鶴湾の海底を探査した。ハン会長は「船が引き揚げられてから67年が経過して行われた海底探査だったが、潜水したダイバーを通じて海底に遺骸と船体の一部を覆っているとみられる砂が大量にあった事実を確認した」と話した。ハン会長は「政府が本格的な探査に出て遺骸のDNAなどを確認すれば今でも返還を受けることができる。(私が)亡くなる前に父の遺体を必ず故国の地に迎えたい」と話した。
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「日本の近代化産業遺産、『強制動員の削除』は許されない」

2023年10月02日 | 国民国家日本の侵略犯罪
「The Hankyoreh」 2023-10-02 07:14
■「日本の近代化産業遺産、『強制動員の削除』は許されない」
 2015年に「8県23カ所施設」を登録 
 ユネスコ、全体の歴史が分かるよう勧告 
 日本政府、約束しても守らず 
 登録申請中の佐渡鉱山も注視 
 日本の近代化産業遺産特別展「世界遺産で記憶しなければならない強制動員の歴史」

【写真】民族問題研究所植民地歴史博物館のキム・スンウン学芸室長が14日、恩平区碌磻洞のノナドゥリセンターで開催されている強制動員および日本の近代化産業遺産の展示会特別展「世界遺産で記憶しなければならない強制動員の歴史」で説明している//ハンギョレ新聞社

 「日本の近代化産業遺産の現場は歪曲され、歴史は消えました」。
 民族問題研究所が恩平区碌磻洞(ウンピョング・ノクボンドン)にあるノナドゥリセンターの企画展示室で、強制動員および日本の近代化産業遺産の展示会特別展「世界遺産で記憶しなければならない強制動員の歴史」(9月5~24日)を開催した。14日、展示現場で取材した民族問題研究所・植民地歴史博物館のキム・スンウン学芸室長は、「日本が産業遺産のなかから産業発展の明るい面だけを伝え、戦争のために強制動員を行なった事実を無視したり削除してはならない」とし、「だからこそ私たちは、強制動員の歴史を証言する被害者の声によりいっそう耳を傾けなければならない」と語った。
 今回の展示は、2015年に世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」の現場を紹介し、日本政府が意図的に排除した侵略戦争、植民地支配、強制動員の歴史を伝えている。「明治日本の産業革命遺産」は、1850年代から1910年までの鉄鋼・造船・石炭産業を中心に構成されている。合計すると8県11都市に分散する23施設だ。日本政府は遺産の価値を「産業のアイデア、ノウハウ、設備機器のたぐい希な東西文化の交流」による「世界史上類例のない、日本の達成」と説明する。
 しかし、肝心の強制労働の歴史は抜け落ちている。朝鮮人と中国人、連合軍捕虜を強制労働させた現場は、福岡県北九州市にある八幡製鉄所、大牟田市の三井三池炭鉱、長崎県長崎市の三菱長崎造船所、高島炭坑、端島炭坑(軍艦島)の5カ所だ。民族問題研究所などの努力によって、ユネスコの世界遺産委員会は登録の際、各施設の全体の歴史が分かるように解説を用意するよう勧告した。佐藤地(さとうくに)ユネスコ日本大使は、朝鮮人や他国の国民が自らの意思に反して強制的に労役した事実を理解できる措置を取ると約束した。キム学芸室長は「日本の公式の外交代表が国際舞台で強制労働を認めた最初かつ唯一の発言」だと紹介した。
 しかし、日本政府はその約束を守らなかった。「2021年6月、一般に公開された東京の産業遺産情報センターでは、むしろ朝鮮人の強制労働の事実を否定する内容の証言と資料だけが展示されており、強い批判を受けました」。世界遺産の専門家で構成された国際記念物遺跡会議(ICOMOS)の共同調査団は、各施設の全体の歴史の記述は不十分だとする結論を出した。2021年、ユネスコの世界遺産委員会は、日本が後続措置を履行していないことに強い遺憾を表明し、忠実な履行を求める決議を採択した。
 日本は1868年の明治維新を通じて、殖産興業と富国強兵を掲げ近代化を推進した。外では琉球、台湾、朝鮮を侵略し、日清戦争と日露戦争などの帝国主義戦争を挑発した。八幡製鉄所は朝鮮半島を戦場とした日清戦争の賠償金で作られた。当時、清が支払った賠償金2億両は、日本の国家予算4年分に相当するほど巨額だった。キム学芸室長は「八幡製鉄所は、日本の『産業革命』が周辺国への侵略に成功した結果として得たものだという事実を如実に示している」とし、「アジアに向かった侵略の暗い歴史が始まったことを示す遺産」だと述べた。

【写真】展示会の入口//ハンギョレ新聞社

 「日本政府は、明治日本の産業革命遺産を1910年までに限定することで、強制動員という暗い歴史を意図的に排除しました」。日帝は、1939年から1945年まで朝鮮人を強制動員して労働させ、中国人や連合軍捕虜も強制動員した。朝鮮人は、八幡製鉄所に約4000人、三菱長崎造船所に約6000人、高島炭鉱と端島炭鉱に約4000人、三池炭鉱に約9264人などが動員された。明治日本の産業革命遺産に登録された5カ所だけで約2万3264人にもなる。中国人と連合軍捕虜も強制労働をさせられた。キム学芸室長は「日本政府は産業遺産をアジア侵略戦争や植民地支配の歴史と関連させたくなかったのでしょう。私たちは、そうした内容を強調し、事実を話さなないことで発生する歴史歪曲を批判します」と述べた。
 「軍艦島として知られる端島炭鉱で1910年以前に作られたのは、海岸の防波堤の一部だけです。エレベーターがある高層アパートは1916年以降に作られました。しかし、ウェブサイトをみると、端島全体が世界遺産であるかのように出ています」。キム学芸室長は「海岸の防波堤の一部だけが世界遺産として登録されていますが、あたかも端島の施設全体が世界文化遺産になってしまったかのよう」だと批判した。
 「長崎には、日本の市民団体が作った強制動員労働者のための追悼歴史館があります」。キム学芸室長は「犠牲者を悼む施設は1カ所も世界遺産に含まれなかった」とし、「代わりに、アジア侵略の『産室』である吉田松陰の松下村塾は、23カ所のうちの1カ所に含まれている」と批判した。
 「そうした形の様々な歪曲、隠蔽、意図的な削除が各所にあります」。キム学芸室長は「日本が自分が強調したいことだけを説明するのはいいが、明らかに戦争に寄与した否定的な歴史の背景と犠牲者が存在するからには、歴史をあわせて説明しなければならない」と述べた。
 「佐渡鉱山も同じ問題が発生しています」。日本政府は2023年1月、朝鮮人の強制労働を否定したまま、新潟県佐渡にある「佐渡島の金山」に対してユネスコ世界文化遺産の登録申込書を提出した。世界遺産の対象時期は江戸時代に限定されている。2022年に発刊された韓日市民共同調査報告書『佐渡鉱山・朝鮮人強制労働』には、朝鮮人が強制動員され、厳格な監視と民族差別のもとで重労働をした事実がよく表われている。キム学芸室長は「佐渡金山は植民地の朝鮮人を強制労働させた辛い歴史を持つ場所。1942年2月以降、忠清南道扶余などから1500人を超える朝鮮人が強制動員された」と述べた。
 「私たちが望むのは、世界遺産の登録取り消しではなく、これらの施設が戦争にどのように寄与したのかを知らしめ、世界の人たちと共有してほしいということです」。キム学芸室長は「最終的には、植民地を経験した国がどのように人権と過去の歴史を回復するのかに対する観点から、世界遺産を再解釈する必要がある」と強調した。

 イ・チュンシン先任記者、写真:チョン・ヨンイル先任記者、編集:ソウル生活案内「ソウル&」取材チーム (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2023-09-21 15:50
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韓国軍が戻ってくるかと思って」急いでひとまとめに埋めた…ビンホア村の虐殺

2023年10月01日 | 国家・社会
「The Hankyoreh」 2023-09-22 11:07
■「韓国軍が戻ってくるかと思って」急いでひとまとめに埋めた…ビンホア村の虐殺
 [ベトナム戦争派兵、60年の記憶] ビンホア村の憎悪碑

【写真】ベトナムのクアンガイ省ビンホアジョンヌン慰霊碑の後方の虐殺犠牲者の墓碑に「南朝鮮軍(Nam Trieu Tinh)」と記されている。8月3日撮影=クァク・チンサン記者//ハンギョレ新聞社

 「別の場所に(遺体を)埋葬する時間はない。韓国軍が戻ってくる可能性もあるので、村の人たちが早く埋葬した方がいいと言った」。
 1966年12月にビンホア・アンフオック村のジョンヌン(森に入る前にある峠)であった「ビンホア虐殺」で祖母、母、姉、兄を失ったグエン・ティ・バンさん(58)は、亡くなった家族を今も虐殺現場に埋めたままにしている。村の人たちは韓国軍がすぐに戻ってくることを恐れたため遺体をきちんと収拾できず、その場に埋めた。そして60年近い時間が流れた。

【写真】8月5日、ビンホア虐殺の生存者グエン・ティ・バンさんがハンギョレのインタビューに応じている=クァク・チンサン記者//ハンギョレ新聞社

 何家族かは墓を移した。しかし、ほとんどはひとまとめに遺体が埋められたため、その遺体が自分の家族なのかどうか識別が難しく、移葬は不可能だった。グエン・ティ・バンさんも同じ理由で移葬できていない。
 ビンホアジョンヌンだけで61人の村人が殺された。虐殺当時2歳だったグエン・ティ・バンさんは足を銃で撃たれたが、家族で唯一生き残った。ジョンヌンには犠牲者の魂を追悼する慰霊碑が建てられた。その慰霊碑の後方にはグエン・ティ・バンさんの家族をはじめ、犠牲になった村人たちの墓がある。ビンホアの7つの慰霊碑のうち、共同墓地がある慰霊碑はこれが唯一だ。先月3日にハンギョレが訪ねたジョンヌンの慰霊碑の現場には数十基の墓が並んでいた。丘の上にあるこの共同墓地の周辺は、草が大人の腰ほどにまで伸びていた。風が草を揺らす音が聞こえた。

【写真】ビンホア虐殺の生存者グエン・ティ・バンさんの足に、事件で負った傷の跡が残っている。8月5日撮影=クァク・チンサン記者//ハンギョレ新聞社

 近寄らなければ共同墓地なのかどうかもほとんど見分けがつかなかった。ある墓碑には家族の名が刻まれていたが、墓碑さえない墓も多かった。茂みをかき分けると、韓国軍の虐殺を証明するかのように「南朝鮮軍(Nam Trieu Tinh)」とはっきり記されている墓碑が見えた。
 ジョンヌン虐殺は「住民証」を所持している人々が標的となったという点で、他の虐殺とは異なる。当時、韓国軍は民間人と革命軍(ベトコン)が混ざっている可能性があると考え、村の住民にベトコンではないことを立証させた後、住民証を発給した。そして住民証を所持している人のみを村に居住させたが、ジョンヌン虐殺はこのような住民に対して行われた。韓国軍は「住民証を持っている人だけが集まれ」と言い、彼らに銃撃を加えた。ベトコンではないと識別しておきながら殺したわけだ。韓国軍がなぜそのような選択をしたのか、村人たちは知らない。

【写真】ベトナムのクアンガイ省ビンホアジョンヌンの慰霊碑の後方にある虐殺犠牲者の墓碑。8月3日撮影=クァク・チンサン記者//ハンギョレ新聞社

 グエン・ティ・バンさんの叔母は住民証を所持していなかったため村に入れず、そのおかげで生き残った。グエン・ティ・バンさんは死んだ母親の乳をくわえているところを発見された。叔母はグエン・ティ・バンさんに治療を受けさせるために別の韓国軍部隊の駐屯地に移動した。怖くて「ジョンヌン」から来たとは言えなかった。簡単な治療を受け、グエン・ティ・バンさんは米軍の駐屯地に移された。
 治療を終えてビンホアに戻り、そして村を離れた。家も家族もなかったからだ。「幼い頃からずっと私は病弱だった。叔母はそんな私を養うために何でもした。ベトナムが解放されるまでそうだった」。グエン・ティ・バンさんは後になって叔母から虐殺当時の話を聞いた。グエン・ティ・バンさんは今も足を貫いた弾丸の痛みに苦しんでいる。
 ビンホア(クアンガイ省)/クァク・チンサン、コ・ギョンテ記者、通訳グエン・グオク・トゥエン(ダナン大学韓国語科教授) (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2023-09-21 10:00


「The Hankyoreh」 2023-09-22 11:05
■ビンホア村「憎悪碑」、韓国軍に430人殺されたその日の記録
 [ベトナム戦争派兵、60年の記憶] ビンホア村の「憎悪碑」

【写真】先月3日に訪問したベトナム・クアンガイ省ビンホア村の虐殺「憎悪碑」(BIA CAM THU)に黄色い菊が添えられている=クァク・チンサン記者//ハンギョレ新聞社

 「凶悪で血に飢えた本性を持った彼らは、この小さな土地に足を踏み入れるやいなや銃撃を加え、数千の良民を虐殺して…」(憎悪碑の文面の一部)。
先月3日、ハンギョレがクアンガイ省ビンソン県ビンホア村の入り口で発見した「憎悪碑」(BIA CAM THU)は、大きな本を広げた形をしていた。 2010年に塗りなおされた後は管理されていないようで、あちこちに濃い黒い汚れがついていた。 縦形に長く伸びた汚れは、あたかも誰かが流した涙のようにもみえた。
憎悪碑に近づくと、ぎっしりと書かれた理解できない他国の言葉の間に、はっきりと刻まれた「430」という数字が見えた。 憎悪碑が沈黙しながらも証言する話は次のとおりだ。
「1966年12月、1つの村の住民430人が殺された。3日から6日にかけて、たった4日間で全員が死んだ。 死亡した268人は、銃も刀も持っていなかった女性だった。 そのなかには妊婦が7人いて、2人は強姦された後、殺害された。 子どもも108人が死んだ。 家族が全員抹殺されることもあった。 銃を向けたのは、1965年10月にベトナムに上陸した韓国軍人だった」。

【写真】先月3日に訪れたベトナム・クアンガイ省ビンホア村の虐殺「憎悪碑」(BIA CAM THU)=クァク・チンサン記者//ハンギョレ新聞社

 1964年9月11日から9年間、韓国軍の青龍・猛虎・白馬部隊など34万6393人の兵士がベトナム戦争に派兵された。 ベトナム共和国(南ベトナム)を助け、ベトナム民主共和国(北ベトナム)と南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)と戦うことが彼らの任務だった。 「敵」が明らかな戦いだった。 だが、しばしば韓国軍の銃口は民間人に向けられた。 クアンガイ省全体をみると、韓国軍による民間人虐殺犠牲者は1700人あまり。 ビンソン県ビンホア村だけで430人が殺された。 一つの現場で最も多い民間人の虐殺がなされたところだ。 虐殺の生存者は、彼らの片方の腕に「青色の龍」(青龍部隊・海兵第2旅団)のワッペンがついていたと話す。
ビンホアをはじめ、韓国軍の蛮行を告発する「憎悪碑」(慰霊碑を除く)が確認される場所は、ベトナム全域で3カ所ある。 ベトナムが1975年に解放された後、派兵軍人の虐殺を記録しようとする動きが続き、1980年に入ると村の記録を集め、碑石が少しずつ建てられた。 そうして、犠牲者の名簿を簡単に記録した慰霊碑が60基ほど建てられた。 惨状を文字で記録した憎悪碑は、困難な時期に粗雑に建てられ、ほとんどが消失したため、わずか3基ほどしか確認できない。

【写真】先月3日に訪問したベトナム・クアンガイ省ビンホア村の虐殺「憎悪碑」(BIA CAM THU)には全死亡者数として「430」が記されている=クァク・チンサン記者//ハンギョレ新聞社

 憎悪碑は、犠牲者を記憶して韓国政府から謝罪を受けるために建てれられたが、その実状は韓国とベトナム政府の外交関係のため、ほとんど明らかにされることはなかった。 憎悪碑ではないが、ベトナムのハミ村虐殺の慰霊碑の文面がレンゲの絵で覆われたのが代表的だ。 韓国人が多く訪れる観光地のダナンから車で20分の距離にあるハミ村には、2001年にベトナム参戦戦友福祉会が支援して竣工した犠牲者慰霊碑がある。 もともとの碑文には、その日の惨状を記した詩があった。 だが、韓国軍を虐殺者と表現しているというなどの理由で対立が生じ、結局、碑文はレンゲ模様の絵で覆われた。 フーイエン省ドンホア県のブンタウ・トロム虐殺の憎悪碑も、現在は「憎悪碑」という文字だけが残り、他の文面は風化して消えた。 憎悪碑を改善補修し、公式名称も慰霊碑に変わった。
 そうしたなか、ビンホアの憎悪碑は1990年代初頭(推定)に現在の形で村の入口に再び建てられた。通常の慰霊碑が事故現場に建てられるのとは違い、ビンホアの憎悪碑は村の人たちに知らせようと、村の入口に展示される形で設けられた。何より、死亡者の統計と惨状を具体的に示しているのはビンホアの憎悪碑だけだ。ビンホアの憎悪碑は事実上、韓国軍の民間人虐殺の最後の記録だ。
 いまやベトナムでも生存者は多くない。韓国が民間人虐殺から目を背けている間、ビンホアなどの一部の村は、憎悪碑を建てようとする試みを続けている。傷を負ったまま生き残った人たちは、今も「生存の戦い」を続けている。これらの人たちが望んでいるのは、心からの謝罪だ。「もう韓国を恨んでいない。反省して誤りを再び犯さないという謝罪さえあればいい」。わずか8歳で家族全員を失い1人だけ生き残ったグエン・タイン・トゥオンさん(65)はそう語った。

 ビンホア(クアンガイ省)/クァク・チンサン記者、コ・ギョンテ記者、通訳:グエン・ゴック・トゥエン(ダナン大学韓国語科教授) (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/1109441.html
韓国語原文入力:2023-09-21 10:14
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