■1、日本軍の海南島侵略と朝鮮人 3
日本敗戦まで、日本政府・軍は、海南島を5分割し、第15警備隊(司令部所在地、海口)、第16警備隊(司令部所在地、三亜)、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊(司令部所在地、嘉積〈現、瓊海〉)、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊(司令部所在地、北黎〈現、東方市八所鎮新街〉)、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊(司令部所在地、那大〈現、儋州〉)に軍事を担当させていた。
この海南島侵略日本軍のなかに、朝鮮人兵士と台湾人兵士が「編入」されていた。その実数ははっきりしない。1939年2月から1945年8月までの6年半の日本占領期に、その人数は変動したと思われるが、日本軍文書では、日本敗戦時に「海南島地区」にいた台湾人兵士は1万5千68人、朝鮮人兵士は7百33人であり、全員を「中国側ニ移管」したとしている(12)。
日本海軍の兵士として、日本敗戦のころ第16警備隊に所属し、三亜近郊の砲台を守備していた朴泰愚氏(1925年生)は、2001年4月に、ソウル市の自宅で、
「わたしは、日本海軍特別志願兵第1期兵だった。海南島では、海南警備府第16警備隊
の櫻砲台高射砲部隊の射撃手だった。櫻砲台は三亜市の飛行場の近くにあった。第16警備
隊に朝鮮人兵士は2人いた」
と話している。
1944年11月から日本の敗戦時まで海南警備府司令長官であった伍賀啓次郎が、帰国後、1946年4月10日付けで、日本政府に提出した「帰還報告書」には、日本敗戦時、第16警備隊に所属していた朝鮮人は、軍人21人、軍属4人であったと書かれている(13)。
註12 「華南地区第二十三軍隷下部隊(海軍部隊及居留民ヲ含ム)人員一覧表」、第二十三軍
司令部『状況報告(1946年5月)』(日本防衛研究所図書館所蔵)。
註13 伍賀啓次郎「帰還報告書」、『海南地区終戦処理概要及現状報告』(日本防衛研究所図
書館所蔵)。
日本敗戦まで、日本政府・軍は、海南島を5分割し、第15警備隊(司令部所在地、海口)、第16警備隊(司令部所在地、三亜)、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊(司令部所在地、嘉積〈現、瓊海〉)、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊(司令部所在地、北黎〈現、東方市八所鎮新街〉)、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊(司令部所在地、那大〈現、儋州〉)に軍事を担当させていた。
この海南島侵略日本軍のなかに、朝鮮人兵士と台湾人兵士が「編入」されていた。その実数ははっきりしない。1939年2月から1945年8月までの6年半の日本占領期に、その人数は変動したと思われるが、日本軍文書では、日本敗戦時に「海南島地区」にいた台湾人兵士は1万5千68人、朝鮮人兵士は7百33人であり、全員を「中国側ニ移管」したとしている(12)。
日本海軍の兵士として、日本敗戦のころ第16警備隊に所属し、三亜近郊の砲台を守備していた朴泰愚氏(1925年生)は、2001年4月に、ソウル市の自宅で、
「わたしは、日本海軍特別志願兵第1期兵だった。海南島では、海南警備府第16警備隊
の櫻砲台高射砲部隊の射撃手だった。櫻砲台は三亜市の飛行場の近くにあった。第16警備
隊に朝鮮人兵士は2人いた」
と話している。
1944年11月から日本の敗戦時まで海南警備府司令長官であった伍賀啓次郎が、帰国後、1946年4月10日付けで、日本政府に提出した「帰還報告書」には、日本敗戦時、第16警備隊に所属していた朝鮮人は、軍人21人、軍属4人であったと書かれている(13)。
註12 「華南地区第二十三軍隷下部隊(海軍部隊及居留民ヲ含ム)人員一覧表」、第二十三軍
司令部『状況報告(1946年5月)』(日本防衛研究所図書館所蔵)。
註13 伍賀啓次郎「帰還報告書」、『海南地区終戦処理概要及現状報告』(日本防衛研究所図
書館所蔵)。