三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島からの朝鮮人帰還について 4

2007年04月30日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■1、日本軍の海南島侵略と朝鮮人 3
 日本敗戦まで、日本政府・軍は、海南島を5分割し、第15警備隊(司令部所在地、海口)、第16警備隊(司令部所在地、三亜)、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊(司令部所在地、嘉積〈現、瓊海〉)、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊(司令部所在地、北黎〈現、東方市八所鎮新街〉)、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊(司令部所在地、那大〈現、儋州〉)に軍事を担当させていた。

 この海南島侵略日本軍のなかに、朝鮮人兵士と台湾人兵士が「編入」されていた。その実数ははっきりしない。1939年2月から1945年8月までの6年半の日本占領期に、その人数は変動したと思われるが、日本軍文書では、日本敗戦時に「海南島地区」にいた台湾人兵士は1万5千68人、朝鮮人兵士は7百33人であり、全員を「中国側ニ移管」したとしている(12)。
 日本海軍の兵士として、日本敗戦のころ第16警備隊に所属し、三亜近郊の砲台を守備していた朴泰愚氏(1925年生)は、2001年4月に、ソウル市の自宅で、
   「わたしは、日本海軍特別志願兵第1期兵だった。海南島では、海南警備府第16警備隊
  の櫻砲台高射砲部隊の射撃手だった。櫻砲台は三亜市の飛行場の近くにあった。第16警備
  隊に朝鮮人兵士は2人いた」
と話している。
 1944年11月から日本の敗戦時まで海南警備府司令長官であった伍賀啓次郎が、帰国後、1946年4月10日付けで、日本政府に提出した「帰還報告書」には、日本敗戦時、第16警備隊に所属していた朝鮮人は、軍人21人、軍属4人であったと書かれている(13)。

註12 「華南地区第二十三軍隷下部隊(海軍部隊及居留民ヲ含ム)人員一覧表」、第二十三軍
   司令部『状況報告(1946年5月)』(日本防衛研究所図書館所蔵)。
註13 伍賀啓次郎「帰還報告書」、『海南地区終戦処理概要及現状報告』(日本防衛研究所図
  書館所蔵)。

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海南島からの朝鮮人帰還について 3

2007年04月29日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■1、日本軍の海南島侵略と朝鮮人 2
 日本軍は、海南島全域を占領するために、抗日軍の兵站を破壊しようとして、海南島内各地の村落を襲撃し、住民虐殺をくりかえした。
1939年7月に、日本政府と日本軍は、海口に、傀儡政権「瓊崖臨時政府」(委員長、趙士桓)をつくり、続いて、県市自治政府、地方治安維持会をつくった。
 日本海軍第5艦隊情報部は、1939年11月15日に規模が拡大され、海南島海軍特務部と改称された。
 1941年4月1日に海南警備府が設置された。海南警備府は、司令部、第15防備隊、第16防備隊、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊、海南海軍特務部、経理部、軍需部、航空廠、建築部、通信隊、臨時軍法会議などで形成された。海南島の軍政を警備府司令長官が指揮し、特務部が軍政事務を担当した(9)。
 1941年7月28日、日本軍兵士約4万人が海南島の三亜から「仏領印度」南部(ベトナム南部・カンボジア)に侵入した。その3週間前、7月2日に、ヒロヒトらは、「南方進出」のさいに「対英米戦を辞せず」という方針を決定していた(10)。
 同年7月31日に海南防備隊は、海南警備隊と改称された。
 この年12月1日、ヒロヒトらは、アメリカ合州国、イギリス、オランダと戦争することを最終決定し、12月8日午前0時すぎ、日本軍艦が、イギリスの植民地とされていたマラヤのコタバル砲撃を開始した。アジア太平洋戦争はこのとき開始された。日本海軍爆撃機がパールハーバーを爆撃したのはその3時間後であった。コタバルに上陸した日本軍兵士を乗せた輸送船団は、12月4日に海南島三亜から出港していた(11)。

註 9 海南警備府司令長官「現状申告書(1941年11月15日)」(『海南警備府関係綴』。日本
  防衛研究所図書館所蔵)、2頁。
註10 「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」、日本外務省編『日本外交年表竝主要文書』下、
  日本国際連合協会、1969年、文書531~532頁。
註11 防衛庁防衛研修所戦史室編『マレー侵攻作戦』朝雲新聞社、1966年、15~17、145頁。 
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海南島からの朝鮮人帰還について 2

2007年04月28日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■1、日本軍の海南島侵略と朝鮮人 1
 1939年1月17日、日本天皇ヒロヒとは、海南島軍事侵略を許可した(2)。
 その3週間後、2月10日、日本政府・軍は、海南島侵略を開始した。短期間に海南島の主要部を占領した日本政府・軍は、海南島の軍政を、日本海軍省、日本陸軍省、日本外務省の「三省連絡会議」の合議決定を前提として、日本海軍第5艦隊情報部に行なわせた(3)。
 日本政府は、日本軍海南島奇襲上陸の4日前、2月6日に、広東領事館の領事松平ら4人を「在海口総領事館竝ニ同警察署創設準備先発要員」として広東を出発させ、5月10日付けで、在海口日本総領事館と領事館警察署を開設した(4)。
 日本軍は、侵略目的を「建設新中国復興大東亜」、「建設反共親日之楽土」などと宣伝した(5)。当時、日本のマスメディアは、奇襲上陸にはじまる日本軍の海南島侵略を称賛し、日本民衆のほとんどが侵略地域の拡大を支持した(6)。上陸直後から、日本軍は、「海南島派遣陸海軍司令官」の名で「軍票」使用にかんする「布告」(7)をだし、「軍票」を使って海南島民衆から物資や労働力を奪った(8)。

註2 防衛庁防衛研修所戦史室『中国方面海軍作戦〈2〉――1938年4月以降――』朝雲新聞社、
  1975年、91~92頁。
註3 海南警備府「海南島政務処理ノ現状(1943年1月)」(日本防衛研究所図書館所蔵)、
  および、前掲『中国方面海軍作戦〈2〉』494頁、参照。
註4 『外務省警察史 支那ノ部 在海口総領事館』(日本外務省外交資料館蔵)。
   日本外務省外交資料館が公開している在海口総領事館関係文書は、これのみであり、
  記述は1940年末で終っている。
註 5 火野葦平『海南島記』改造社、1939年5月、50~51頁。
註 6 アジア太平洋戦争敗戦後も海南島侵略を肯定する日本人が少なくない。
   海南島侵略に関する日本人の論文は多くないが、そのほとんどがフラフラした視点で日
  本の海南島侵略をなかば肯定している。長岡新次郎は、「日中戦争における海南島の占領」
  (『南方文化』5、天理南方文化研究会、1978年)で、「太平洋戦争の勃発に際しての同島
  の役割は十分に評価されてよい」などと言っており(61頁)、太田弘毅は長岡のこの発言
  を「至言である」と肯定している(太田弘毅「海軍の海南島統治について」、『史滴』
  4、早稲田大学東洋史研究室、1983年、51頁)。吉田昭彦は、海南島奇襲占領について
  「この作戦計画は全く完璧なものであったといい得る」と言っている(吉田昭彦「海南島
  攻略作戦と海軍の南進意図」、軍事史学会編『軍事史学』錦正社、1992年3月、27頁)。
  ただし、相沢淳は、長岡、太田、吉田らのようには日本の海南島侵略を肯定していない
  (相沢淳「海軍良識派と南進 海南島進出問題を中心にして」、『軍事史学』、
  1990年3月。同「太平洋上の「満州事変」?――日本海軍による海南島占領・統治」、
  『防衛研究所紀要』1999年6月)。
註 7 前掲『海南島記』59、111頁。
註8 「軍報道員」として海南島に上陸した火野葦平は、翌日海口市内に侵入し、そのときか
  ら直ちに市場や食堂などで「軍票」を使っている(前掲『海南島記』25~26頁)。同じこ
  ろ海南島に侵入した宮地嘉六も、「二月二十二日に海口市では早くも治安維持会発会式が
  挙行されるといふ」、「日本人が軍票を使って支払いをしている」と報告している(宮地
  嘉六「海南島の印象」、『海』92号、大阪商船、1939年5月、24頁)。
   日本の敗戦後、日本軍が占領した各地で使った大量の「軍票」はすべて紙クズになった。
  日本政府は、いまなお、その賠償をまったくしていない。
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海南島からの朝鮮人帰還について 1

2007年04月27日 | 海南島からの朝鮮人帰還
            ■2003年11月28日に韓国国民大学校で開催された研究集会「解放後
            中国地域からの朝鮮人帰還問題研究」での報告文「海南島からの朝
            鮮人帰還について  植民地国家からの出国、国民国家への帰還」
            の日本語訳を連載します。   キム チョンミ


はじめに: 故郷への帰還、国家への帰還
1、日本軍の海南島侵略と朝鮮人
2、海南島の資源略奪、軍事施設建設と朝鮮人
   Ⅰ、海南島植民地化 
   Ⅱ、海南島で働かされた朝鮮人
3、海南島からの朝鮮人帰還
Ⅰ、「南方派遣朝鮮報国隊」の帰還
Ⅱ、朝鮮人「居留民」、「軍人」・「軍属」の帰還
Ⅲ、日本軍隊性奴隷とされた朝鮮人女性の帰還
おわりに:課題
  付記:聞きとりの意味と方法について


■はじめに:故郷への帰還、国家への帰還
 朝鮮が日本の植民地支配から解放されてから、日本、サハリン、アイヌモシリ、ウルマネシア(オキナワ)、台湾、中国東北部、シベリア、カザフスタン、中国本土、海南島、シンガポール、サイパン島などから故郷に帰還した朝鮮人は少なくなかった。だが、帰還しなかった人、帰還できなかった人も多かった。
 故郷から日本、サハリン、アイヌモシリなどに強制的に連行され、鉱山などで強制労働させられ、いのちを失わされた人は、帰還できなかった。
 日本軍の軍人・軍属・軍夫、あるいは性奴隷として、アジア太平洋の各地に連行され、いのちを失わされた人は、帰還できなかった。
 日本植民地支配下の朝鮮の故郷から離されて、いのちを失わされて、帰還できなかった人は何人なのだろうか。その名前は!
 
 アジア太平洋の各地で、住民虐殺・暴行・略奪を行なっていた日本兵士、日本侵略企業社員たちのほとんどは、侵略責任をとることなく、日本に帰っていった。
 日帝時代、朝鮮に多くの日本人が、官僚、商人、軍人、農民、会社員、教師、漁民……として侵入して、独立運動を弾圧し、朝鮮人の土地を奪い、漁場を奪い、日本語を強要し、コメ・牛・資源をうばっていた。かれらは、日本敗戦後、植民地支配責任をとることなく、日本に帰っていった。
 その日本本土では、最悪の戦犯である天皇ヒロヒトが、植民地支配責任・侵略責任をとることなく、天皇であり続けていた。
 帰還した日本人兵士たちは、侵略地での犯罪を隠し続けて、日本で平和に暮らした。だが、その日本には、1923年の「関東大地震」のとき殺された多くの朝鮮人、炭鉱などで殺された多くの朝鮮人が、故郷に帰還できないまま、いまも埋められているのだ。
 植民地国家朝鮮から、解放後の国民国家への帰還。その歴史の総体を明らかにしなければならない。植民地国家の故郷であろうと、国民国家の故郷であろうと、故郷は故郷である。故郷は国家ではない(1)。故郷への帰還は、ナショナリズムを超える地点への帰還である。
 「南方派遣朝鮮報国隊」として海南島に連行された朝鮮人の多くは、国家にも故郷にも帰還できなかった。
 「南方派遣朝鮮報国隊」として海南島に連行された朝鮮人の多くは、帰還できなかった。
 本稿では、故郷と国家の歴史的意味を考察しつつ、海南島からの朝鮮人帰還の歴史を追求したい。

註 1 キム チョンミ『故郷の世界史』現代企画室、1996年。キム チョンミ「侵略の共同体と抵
  抗の共同体――故郷と他郷のかなたに――」、『在日朝鮮人「ふるさと」考』(『ほるも
  ん文化』8)、新幹社、1998年12月。参照。
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日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究 24

2007年04月26日 | 海南島史研究
■海南島侵略に直接加担した日本の「文学者」の思想・感性・行動・発言 5

 1939年2月10日未明、海南島北部海岸に奇襲上陸した日本軍は、その日の真昼に、首都海口に侵入した。
 この日本軍に、火野葦平(1907年~1960年)は、「軍報道員」として加わった。火野は、「今度の海南島攻略は、銃火を以ってする戦闘とともに、重大なる文化の闘いであるとの意気込みを持った」と書いている(『海南島記』改造社、1939年)。
 火野は、中野実(日本の「文学者」)とともに、日本軍の宣伝ポスターやチラシを張ったり、紙に赤鉛筆で「ヒノマル」を書いて「部落の主だったところに貼るように指示」して、「重大なる文化の闘い」をおなった。
 火野は、2月10日夕方、市場に行き、日本軍票をつかって豚肉や野菜や豆腐を買った。
 そのときのことを、火野は、
   「私達は市場に入りこんで買い物をしたが、その物価の低廉なのに先ず驚き、私達がど
  うであろうかと思って出した軍票を、支那商人が平気な顔ですぐに取ったのに更に意外の
  感を抱いたのである」
と書いている。
 このとき、市場の人は、突然侵入してきた日本軍の兵士がつきだしてくる、見たことのない紙切れを、紙幣として受けとらざるを得なかったのではないか。
 その後も、火野は、軍票を使っている。あるレストランの店主は、火野や中野らが集団で飲み食いしたあと、軍票で支払おうとしたとき、「なんぼでもよい、どうでもいいようにしてえ下さい」と言ったという。
 軍の暴力なしには、金額が印刷された紙切れである軍票を紙幣として流通させることはできない。
 火野葦平がこのとき海南島にもちこんで使用した日本軍票は、日本軍が、1937年11月から使い始めた「甲号軍用手票」であった。1937年7月7日の「盧溝橋事件」の後、日本軍は8月に上海に大規模に侵入した。つづいて、さらに11月5日に杭州湾北岸の金山衛に大量の日本軍が奇襲上陸した。その2週間前の10月22日に日本政府は、軍票発行を閣議決定していた。
 11月5日に金山衛に上陸し南京に向かった日本軍が使用した「甲号軍用手票」の裏面には、漢語で「此票一到即換正面所開日本通貨」と印刷されていた。だが、それは、偽りであった。10月22日閣議で決定された「軍用手票発行要領」では、「軍票と日本通貨との引換えは当分の間行なわないものとする」とされていた(『図録 日本の貨幣 10』東洋経済新報社、1974年)。
 火野葦平は、1937年11月5日に奇襲上陸して中国に侵入した日本兵の一人であった。
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日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究 23

2007年04月25日 | 海南島史研究
 日本大蔵省在外財産調査会が1947年ころ作成し、日本大蔵省管理局が、極秘文書として、1950年ころ配布した『日本人の海外活動に関する歴史的調査 海南島篇』の「序説」に、
   「諸会社団体は軍の援助の下に一九三九年より終戦の一九四五年に至る七年間に亘り、
  文字通り熱帯の暑熱と戦ひ……、更に奥地に蟠居する蕃族や共産匪賊と戦ひ、遂に二千
  年来中国政府及び島民が夢想だにしなかつた程急速度に各種の近代的技術と資材に依る
  産業開発を実行した」、
   「近々七年間に生れ変つた海南島が建設されたのである」
と書かれている。

 これ以後、日本政府機関は、日本の海南島侵略にかんする総括文書をだしていない。日本大蔵省(財務省)は、海南島の先住民族や抗日戦士を敵視し、侵略を肯定するこの妄言をとりけしていない。
 日本人は、海南島に侵入し、民衆を殺害し、家を焼き、ものを奪った。日本人は、海南島で、既耕地をふくむ土地を奪った。日本人は、海南島で資源(鉱山資源、水産資源、森林資源)を奪った。日本人は、海南島で、民衆に、労働を強制した。日本人は、海南島の自然を破壊した。「ヒノマル」・「キミガヨ」を海南島民衆に強制した。日本人は、海南島民衆を性奴隷とした。日本人は軍票を乱用し、海南島民衆の経済生活に大きな被害をあたえた。日本人は、海南島でアヘン栽培をおこなった。
 「日本人の海外活動」の実態を覆い隠そうとする日本政府機関の策動は、1945年以前も以後も、かわりなく続けられている。
 しかし、この策動は、無効となるだろう。 
 「奥地に蟠居する蕃族や共産匪賊と戦ひ……」というたぐいの妄言を、ただちに否定する論理と倫理を日本人が確立するならば。
 他地域・他国侵略を悪だとする、あたりまえの倫理をおおくの日本人がもつならば。
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日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究 22

2007年04月24日 | 海南島史研究
■海南島侵略に直接加担した日本の「文学者」の思想・感性・行動・発言 4

 1939年2月、日本軍が奇襲上陸し、国民国家日本は、海南島占領を開始した。
 このとき、それを行動や発言で反対した日本国民(「臣民」)はいなかった。
 具体的に行動や発言で反対できないとしても、もし、数十パーセントの日本国民が、思想的・感性的・倫理的に反対していれば、日本政府・日本軍は、海南島侵略を継続できなかっただろう。
 1937年7月、「盧溝橋事件」後、日本政府は、大量の正規軍を中国に侵入させた。
 このとき、それを行動や発言で反対した日本国民(「臣民」)は、ほとんどいなかった。
 具体的に行動や発言で反対できないとしても、もし、数十パーセントの日本国民が、思想的・感性的・倫理的に反対していれば、日本政府・日本軍は、中国侵略を継続できず、上海・南京……で数多くの住民が虐殺されることはなかっただろう。

 円地文子がいう「奥地の山岳地帯に蟠踞している匪賊」とは、日本の侵略を阻止しようとして戦う抗日反日戦士たちのことであった。
 じぶんたちの大地と海を占領しようとする侵略者と戦うのは当然のことである。
 円地文子は、その人たちを「匪賊」とよび、侵略者の「流した血と汗」を語り、海南島民衆殺戮を肯定・煽動した。
 円地文子は、日本軍が、他地域・他国に侵入することをどうして肯定できたのだろうか。

 海南島への侵入を命令された日本兵が、海南島侵略を行動や発言で反対することは難しかっただろう。しかし、そのうちの数十パーセントが、思想的・感性的・倫理的に反対していれば、日本政府・日本軍は、海南島侵略を継続できなかっただろう。
 日本政府・日本軍が海南島侵略を開始する以前に、日本国民のほとんどが、他地域・他国侵略に反対する思想・感性・倫理を喪失していた。

 1941年12月8日、日本政府・日本軍は、アジア太平洋戦争を開始した。この日、ヒロヒトは、
   「皇祖皇宗ノ神霊上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ
  芟除シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス」
という文書をだした。
 この時点では、戦争目的を「東亜永遠ノ平和」の「確立」だとするヒロヒトの妄言を、行動や発言で批判できないとしても、思想的・感性的・倫理的に反対する「臣民」はほとんどいなくなっていた。
 その2年半後、敗北が近づいた時点で、円地文子は、「サイパン落つの悲報いたる。…………言葉なくつつしみて英霊を弔いまつる。しかしこうした日のあることは開戦の大詔を拝した時から覚悟していたことである」と述べた。
 その2年半の間においても、日本軍は、海南島をふくむアジア太平洋の各地で多くの民衆を虐殺していた。
                                           佐藤正人
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日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究 21

2007年04月23日 | 海南島史研究
■海南島侵略に直接加担した日本の「文学者」の思想・感性・行動・発言 3

 円地文子が、「この討伐に尊い汗を――否、血を流した国民が、或いはその子孫が今から何年かの後、…………沿道に日本人の施設した文化が美しく華咲くのを見たなら、どのような感慨にうたれるであろう」という文章を公表してから4年半後、日本はアジア太平洋戦争に敗北した。日本の海南島占領は終わった。
 そのときから死ぬときまでの間に、円地文子は、じぶんの海南島における言行、日本における海南島民衆にかんする発言について考えることがあったのだろうか。
 日本軍が海南島の民衆の生活を破壊し、海南島民衆からおおくのものを奪い、「討伐」と称して、民衆虐殺をくりかえしているさなかに、円地文子は海南島に侵入した。日本軍に護衛されて「海南島の討伐道路」を通り、「私達の同胞の流した血と汗」や「匪賊の討伐に従事する将士の労苦」を語った。
 そして、日本の敗戦後、円地文子は、日本軍の「討伐」を全的に肯定・支持した過去を自伝から消し去った。
 円地文子は、海南島民衆にたいする「従順な、しかし極めて民度の低い民」というたぐいの発言を、死ぬときまで取り消すことがなかった。
 1940年に「ナチスの宣伝映画『最後の一兵まで』に見る文化的水準の高さ」を語っていた円地文子は、1979年に日本の文化功労者となった。  

 円地文子のような人物は、日本ではめずらしくない。国民国家日本の他地域・他国侵略を肯定し、日本民衆を侵略戦争に煽動した日本の「文学者」で、じぶんの過去を自己批判した者はほとんどいない。
 最悪の侵略犯罪者ヒロヒトを処罰できず、「日本国の象徴」とし、いまも天皇制を維持している日本の「文化」の本質を、円地文子は、いくらかわかりやすく示している。
                                                佐藤正人
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日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究 20

2007年04月22日 | 海南島史研究
■海南島侵略に直接加担した日本の「文学者」の思想・感性・行動・発言 2

 「海南島の記」の末部に、円地文子は、
   「私は現在、海南島の開拓に心身を砕いて従事していられる人々のすべてにも本当の意味
  の美しい文学を捧げられたらどんなにか大きい歓びであろうと思わずにはいられない」
と書いている。
 ここで円地文子のいう「本当の意味の美しい文学」の「文化的水準」とは?
 1940年8月に、『日本学芸新聞』の「新体制と文学」というアンケートのなかで、円地文子は、「ナチスの宣伝映画『最後の一兵まで』に見る文化的水準の高さを新体制と文学という課題の参考に供したいと思います」と語っていた。
 
 アジア太平洋戦争開始1年9か月後、1943年8月に東京で開かれた「大東亜文学者決戦会議」で円地文子は次のような発言をしていた。
   「今日大東亜のこの決戦下に於いて日本の将兵が大君のため、御国のために生死を超越し
  た見事な働きを戦線でなして居りますのも、過去三千年の輝かしい伝統を通して、平和の時
  には我々のうちに眠っているように見えます純潔な大和民族の血潮がこういう非常時の秋に
  蘇り、逞しく流れていると思われるのでございます」。

 アジア太平洋戦争での日本の敗北は、1944年7月に、USA軍がサイパン島に上陸したときに決定的となった。日本「本土」へのUSA軍の大量空爆・上陸の時期がせまってきたので、ヒロヒト・日本政府・日本軍は、戦争目的を、「国体護持」(天皇制維持)に変更した。
 この時期に、円地文子は、さらに、日本人を戦争継続に煽動する、次のような文書を発表していた(『文学報国』1944年7月20日)。
   「サイパン落つの悲報いたる。…………しかしこうした日のあることは開戦の大詔を拝し
  た時から覚悟していたことである」、
   「逝った人々は生きつぐものに己が生命、己が誠を譲って神となりました。その英霊を
  まさしく負うている限り、私達はどのような苦難の日にも、よき日本人として生死を越え
  うるであろう」。

 USA軍のサイパン島上陸後、ヒロヒト・日本政府・日本軍は、USA軍の「本土」上陸をすこしでも遅らせるために、サイパン島から「本土」にいたる島じま、とくに硫黄島とウルマネシアに大量の軍隊をおくりこんだ。
 硫黄島に送りこまれた日本軍兵士・軍属(そのなかには、おおくの朝鮮人もいた)2万数千人のほとんどが死んだ。ウルマネシアでは、10万人の住民が日本軍やUSA軍に殺され、9万人の日本軍兵士・軍属・軍夫(朝鮮人)が死んだ。
 九州の知覧から「特攻機」に乗ってウルマネシア海域のUSA軍に向かった青年たちがいた。「よき日本人として生死を越えうるであろう」などと空言を公表していた円地文子は、その青年たちの死にも、道義的責任があるだろう。                    佐藤正人

      註:『日本学芸新聞』、「大東亜文学者決戦会議」、『文学報国』での円地の発言は、
        櫻本富雄『日本文学報国会 大東亜戦争下の文学者たち』(青木書店、1995年)か
        らの重引である。
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日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究 19

2007年04月21日 | 海南島史研究
■海南島侵略に直接加担した日本の「文学者」の思想・感性・行動・発言 1

   「この討伐に尊い汗を――否、血を流した国民が、或いはその子孫が今から何年かの後、こ
  の道路が見事にとりひろげられ、沿道に日本人の施設した文化が美しく華咲くのを見たなら、
  どのような感慨にうたれるであろう」、
   「私は何度も海南島の討伐道路を自動車で走りながら、軽井沢の高原を思い、伊豆の海岸
  を思い起した」、
   「こうした従順な、しかし極めて民度の低い民をいかに取扱ったものかについてもこの地
  で沢山の課題を授けられたように思う、しかし、私は今特に黎人の幼稚な生活について大し
  て書く興味をもたない」。

 これは、円地文子(1905年~1986年)という日本人が、『婦人公論』1941年4月号に発表した「海南島の記」のなかの文章である。
 1941年1月から2月にかけて、円地文子は、長谷川時雨や尾崎一雄や宮尾重男ら10人の団体(団長古田中博日本海軍大佐)に入って、「海軍省派遣の文芸慰問の旅行」をしていた。 1月19日に海口に着いた円地らは、海南島侵略日本海軍特務部に1週間宿泊し、周辺の日本軍部隊を「慰問」したあと、軍用車で三亜に行き、さらに軍用車で、「分遣隊」を「慰問」するために保亭に行った。その時のことを円地は、次のように書いている。
   「奥地の山岳地帯に蟠踞している匪賊の討伐に従事する将士の労苦は想像の外と思わ
  ねばならぬ」、
   「海軍の設営隊の手で敷設された討伐道路がある。…………沿道の一木、一草、一塊の
  土にも石にも私達の同胞の流した血と汗が凝っているのを感じないではいられない」。

 円地文子は、1984年に『うそ・まこと七十余年』と題した自伝を出しているが、そこには、1940年から「新体制運動」に積極的に参加していたこと、1941年1月に「海軍省派遣の文芸慰問の旅行」をしたこと、「日本文学報国会」の女流文学者委員会の委員だったこと、1943年10月に「日本文学報国会」の「視察団」の一員として朝鮮に行ったことは書かれていない。
 「日本文学報国会」は、1942年5月にされた「文学者」の翼賛組織である。
 その定款第3条には、
   「本会は全日本文学者ノ総力ヲ結集シテ、皇国ノ伝統ト理想トヲ顕現スル日本文学ヲ確
  立シ、皇道文化ノ宣揚ニ翼賛スルヲ以テ目的トス」
と書かれており、第4条には、「本会は前条ノ目的ヲ達成スル為左ノ事業ヲ行フ」として、「皇国文学者トシテノ世界観ノ確立」、「文学ニ依ル国民精神ノ昂揚」、「文学ヲ通ジテ為ス国策宣伝」などが列挙されていた。
                                      佐藤正人
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