■日本軍の海南島侵略と反日抗日闘争
一九三九年一月一七日に、天皇ヒロヒト、総理大臣、海軍大臣、陸軍大臣らは、海南島を軍事侵略することを最終決定し、ヒロヒトは、日本軍の海南島侵入を「裁可」した。同じ日、大本営陸軍部と大本営海軍部は、二月中旬ころ海南島北部に共同で侵入し占領するという「北部海南島作戦陸海軍中央協定」を結んだ。
一九三九年二月一〇日未明、国民国家日本がアイヌモシリを植民地としてから七〇年後、天皇ヒロヒトと日本政府は、海南島に日本軍を奇襲上陸させ、宣戦布告なしの海南島侵略戦争を開始した。
日本政府が二月一〇日に日本軍を海南島に奇襲上陸させたのは、「紀元節」である二月一一日に海南島の首都、海口を占領しようとしていたからであった。その五〇年前の一八八九年二月一一日に日本政府は、日本国民をすべて天皇の「臣民」とする「大日本帝国憲法」を公布していた。
一九三九年二月一一日、日本のマスメディアは、海南島奇襲上陸の「成功」と「紀元節」を大きく報道した。日本国民(「臣民」)のほとんどは、侵略地域の拡大を喜び、支持した。
民衆が平和に暮らしていた海南島に、「ヒノマル」を掲げて突然侵入してきた日本軍は、人を殺し、村を焼き、コメ・水牛・鶏・椰子……を奪って食べた。
日本軍は、海南島占領目的を「建設新中国復興大東亜」、「建設反共親日之楽土」などと宣伝した。当時、日本民衆のほとんどが侵略地域の拡大を支持した。
日本の海南島占領目的は、「南方」侵略のための基地建設と資源略奪であった。
日本が海南島侵略戦争を開始してから七か月後、一九三九年九月に、ポーランドに、ドイツ軍が西方から、ソ連軍が東方から侵入して分割占領した。
一九四〇年六月一四日に、ドイツ軍がパリを占領し、六月一六日に、フランスはドイツに降伏した。その約一〇〇日後、九月二三日に、日本軍が、フランスが植民地としていたベトナム北部に侵入した。
一九四一年七月二八日に、日本陸軍第二五軍約四万人が海南島三亜港からベトナム・カンボジア・ラオスへの侵入を開始した。日本の海南島侵略とベトナム・カンボジア・ラオス侵略とは直結していた。
一九四一年一一月一五日に、日本政府・大本営陸軍部は、上海に侵入していた第五師団の部隊を、海南島三亜に向かわせ、一一月二六日に、大本営海軍部は、「ハワイ作戦機動部隊」をエトロフ島ヒトカップ湾からパールハーバーに出港させた。一二月一日、ヒロヒトらは、アメリカ合州国、イギリス、オランダと戦争することを最終決定した。その三日後、一二月四日、日本陸軍第五師団と第一八師団の将兵をのせた船団が、海南島三亜港からイギリスの植民地マラヤのコタバルに出港した。
一九四一年一二月八日午前〇時過ぎ、日本陸軍が、マラヤのコタバルを奇襲し、上陸作戦を開始した。その二時間後、日本海軍が、USAの植民地ハワイのオアフ島パールハーバーを爆撃した。
海南島を「南方」侵略基地とし、さらには全島を台湾同様の植民地とするため、日本政府と日本軍は、日本企業を海南島に呼び入れ、飛行場、港湾、道路、鉄道などを整備・新設し、鉱山開発、電源開発などをおこなった。その資金を作るために、日本政府・軍は、「軍票」を乱発し、さらには、アヘン生産をも試みた。
日本軍と日本企業は、海南島の住民(先住民族黎族・苗族、および漢族の人たち)だけでなく、中国大陸や香港や台湾や朝鮮の民衆、マラヤやシンガポールなどで「捕虜」としたオーストラリア軍兵士やイギリス軍兵士(当時イギリスの植民地とされていたインドの民衆がおおかった)なども、強制労働させた。
また、日本政府・軍は、海南島民衆の土地を奪って、日本人を海南島に「移民」させる策動も進めた。
日本軍政機関は、「治安維持会」を使って住民を相互監視させ、「良民証」をもたせて管理し、「ヒノマル」・「キミガヨ」をおしつけた。
日本軍は、抗日軍の兵站を破壊しようとして、海南島内各地の村落を襲撃し、住民虐殺と略奪をくりかえした。しかし、日本軍は、海南島全域を占領することはできなかった。
侵略軍に抗して、海南島の民衆は持久的に戦った。
日本の海南島侵略の時代は,海南島民衆の反日抗日闘争の時代であった。
佐藤正人
一九三九年一月一七日に、天皇ヒロヒト、総理大臣、海軍大臣、陸軍大臣らは、海南島を軍事侵略することを最終決定し、ヒロヒトは、日本軍の海南島侵入を「裁可」した。同じ日、大本営陸軍部と大本営海軍部は、二月中旬ころ海南島北部に共同で侵入し占領するという「北部海南島作戦陸海軍中央協定」を結んだ。
一九三九年二月一〇日未明、国民国家日本がアイヌモシリを植民地としてから七〇年後、天皇ヒロヒトと日本政府は、海南島に日本軍を奇襲上陸させ、宣戦布告なしの海南島侵略戦争を開始した。
日本政府が二月一〇日に日本軍を海南島に奇襲上陸させたのは、「紀元節」である二月一一日に海南島の首都、海口を占領しようとしていたからであった。その五〇年前の一八八九年二月一一日に日本政府は、日本国民をすべて天皇の「臣民」とする「大日本帝国憲法」を公布していた。
一九三九年二月一一日、日本のマスメディアは、海南島奇襲上陸の「成功」と「紀元節」を大きく報道した。日本国民(「臣民」)のほとんどは、侵略地域の拡大を喜び、支持した。
民衆が平和に暮らしていた海南島に、「ヒノマル」を掲げて突然侵入してきた日本軍は、人を殺し、村を焼き、コメ・水牛・鶏・椰子……を奪って食べた。
日本軍は、海南島占領目的を「建設新中国復興大東亜」、「建設反共親日之楽土」などと宣伝した。当時、日本民衆のほとんどが侵略地域の拡大を支持した。
日本の海南島占領目的は、「南方」侵略のための基地建設と資源略奪であった。
日本が海南島侵略戦争を開始してから七か月後、一九三九年九月に、ポーランドに、ドイツ軍が西方から、ソ連軍が東方から侵入して分割占領した。
一九四〇年六月一四日に、ドイツ軍がパリを占領し、六月一六日に、フランスはドイツに降伏した。その約一〇〇日後、九月二三日に、日本軍が、フランスが植民地としていたベトナム北部に侵入した。
一九四一年七月二八日に、日本陸軍第二五軍約四万人が海南島三亜港からベトナム・カンボジア・ラオスへの侵入を開始した。日本の海南島侵略とベトナム・カンボジア・ラオス侵略とは直結していた。
一九四一年一一月一五日に、日本政府・大本営陸軍部は、上海に侵入していた第五師団の部隊を、海南島三亜に向かわせ、一一月二六日に、大本営海軍部は、「ハワイ作戦機動部隊」をエトロフ島ヒトカップ湾からパールハーバーに出港させた。一二月一日、ヒロヒトらは、アメリカ合州国、イギリス、オランダと戦争することを最終決定した。その三日後、一二月四日、日本陸軍第五師団と第一八師団の将兵をのせた船団が、海南島三亜港からイギリスの植民地マラヤのコタバルに出港した。
一九四一年一二月八日午前〇時過ぎ、日本陸軍が、マラヤのコタバルを奇襲し、上陸作戦を開始した。その二時間後、日本海軍が、USAの植民地ハワイのオアフ島パールハーバーを爆撃した。
海南島を「南方」侵略基地とし、さらには全島を台湾同様の植民地とするため、日本政府と日本軍は、日本企業を海南島に呼び入れ、飛行場、港湾、道路、鉄道などを整備・新設し、鉱山開発、電源開発などをおこなった。その資金を作るために、日本政府・軍は、「軍票」を乱発し、さらには、アヘン生産をも試みた。
日本軍と日本企業は、海南島の住民(先住民族黎族・苗族、および漢族の人たち)だけでなく、中国大陸や香港や台湾や朝鮮の民衆、マラヤやシンガポールなどで「捕虜」としたオーストラリア軍兵士やイギリス軍兵士(当時イギリスの植民地とされていたインドの民衆がおおかった)なども、強制労働させた。
また、日本政府・軍は、海南島民衆の土地を奪って、日本人を海南島に「移民」させる策動も進めた。
日本軍政機関は、「治安維持会」を使って住民を相互監視させ、「良民証」をもたせて管理し、「ヒノマル」・「キミガヨ」をおしつけた。
日本軍は、抗日軍の兵站を破壊しようとして、海南島内各地の村落を襲撃し、住民虐殺と略奪をくりかえした。しかし、日本軍は、海南島全域を占領することはできなかった。
侵略軍に抗して、海南島の民衆は持久的に戦った。
日本の海南島侵略の時代は,海南島民衆の反日抗日闘争の時代であった。
佐藤正人