三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

海南島近現代史のなかの侵略と抵抗の世界史 2

2010年12月31日 | 海南島史研究
■日本軍の海南島侵略と反日抗日闘争
 一九三九年一月一七日に、天皇ヒロヒト、総理大臣、海軍大臣、陸軍大臣らは、海南島を軍事侵略することを最終決定し、ヒロヒトは、日本軍の海南島侵入を「裁可」した。同じ日、大本営陸軍部と大本営海軍部は、二月中旬ころ海南島北部に共同で侵入し占領するという「北部海南島作戦陸海軍中央協定」を結んだ。
 一九三九年二月一〇日未明、国民国家日本がアイヌモシリを植民地としてから七〇年後、天皇ヒロヒトと日本政府は、海南島に日本軍を奇襲上陸させ、宣戦布告なしの海南島侵略戦争を開始した。
 日本政府が二月一〇日に日本軍を海南島に奇襲上陸させたのは、「紀元節」である二月一一日に海南島の首都、海口を占領しようとしていたからであった。その五〇年前の一八八九年二月一一日に日本政府は、日本国民をすべて天皇の「臣民」とする「大日本帝国憲法」を公布していた。
 一九三九年二月一一日、日本のマスメディアは、海南島奇襲上陸の「成功」と「紀元節」を大きく報道した。日本国民(「臣民」)のほとんどは、侵略地域の拡大を喜び、支持した。
 民衆が平和に暮らしていた海南島に、「ヒノマル」を掲げて突然侵入してきた日本軍は、人を殺し、村を焼き、コメ・水牛・鶏・椰子……を奪って食べた。
 日本軍は、海南島占領目的を「建設新中国復興大東亜」、「建設反共親日之楽土」などと宣伝した。当時、日本民衆のほとんどが侵略地域の拡大を支持した。
 日本の海南島占領目的は、「南方」侵略のための基地建設と資源略奪であった。
 日本が海南島侵略戦争を開始してから七か月後、一九三九年九月に、ポーランドに、ドイツ軍が西方から、ソ連軍が東方から侵入して分割占領した。
 一九四〇年六月一四日に、ドイツ軍がパリを占領し、六月一六日に、フランスはドイツに降伏した。その約一〇〇日後、九月二三日に、日本軍が、フランスが植民地としていたベトナム北部に侵入した。
 一九四一年七月二八日に、日本陸軍第二五軍約四万人が海南島三亜港からベトナム・カンボジア・ラオスへの侵入を開始した。日本の海南島侵略とベトナム・カンボジア・ラオス侵略とは直結していた。
 一九四一年一一月一五日に、日本政府・大本営陸軍部は、上海に侵入していた第五師団の部隊を、海南島三亜に向かわせ、一一月二六日に、大本営海軍部は、「ハワイ作戦機動部隊」をエトロフ島ヒトカップ湾からパールハーバーに出港させた。一二月一日、ヒロヒトらは、アメリカ合州国、イギリス、オランダと戦争することを最終決定した。その三日後、一二月四日、日本陸軍第五師団と第一八師団の将兵をのせた船団が、海南島三亜港からイギリスの植民地マラヤのコタバルに出港した。
 一九四一年一二月八日午前〇時過ぎ、日本陸軍が、マラヤのコタバルを奇襲し、上陸作戦を開始した。その二時間後、日本海軍が、USAの植民地ハワイのオアフ島パールハーバーを爆撃した。
 海南島を「南方」侵略基地とし、さらには全島を台湾同様の植民地とするため、日本政府と日本軍は、日本企業を海南島に呼び入れ、飛行場、港湾、道路、鉄道などを整備・新設し、鉱山開発、電源開発などをおこなった。その資金を作るために、日本政府・軍は、「軍票」を乱発し、さらには、アヘン生産をも試みた。
 日本軍と日本企業は、海南島の住民(先住民族黎族・苗族、および漢族の人たち)だけでなく、中国大陸や香港や台湾や朝鮮の民衆、マラヤやシンガポールなどで「捕虜」としたオーストラリア軍兵士やイギリス軍兵士(当時イギリスの植民地とされていたインドの民衆がおおかった)なども、強制労働させた。
 また、日本政府・軍は、海南島民衆の土地を奪って、日本人を海南島に「移民」させる策動も進めた。
 日本軍政機関は、「治安維持会」を使って住民を相互監視させ、「良民証」をもたせて管理し、「ヒノマル」・「キミガヨ」をおしつけた。
 日本軍は、抗日軍の兵站を破壊しようとして、海南島内各地の村落を襲撃し、住民虐殺と略奪をくりかえした。しかし、日本軍は、海南島全域を占領することはできなかった。
 侵略軍に抗して、海南島の民衆は持久的に戦った。
 日本の海南島侵略の時代は,海南島民衆の反日抗日闘争の時代であった。
                                   佐藤正人
コメント

海南島近現代史のなかの侵略と抵抗の世界史 1

2010年12月30日 | 海南島史研究
■国民国家日本の近現代史
 一八五五年二月、「日魯和親通好条約」によって、日本政府とロシア政府は、北方諸民族が生活し労働してきた「千島列島」を分割してそれぞれの国家の領土とするとともに、「樺太島」を共有地とした。
 一八六九年九月、日本新政府(「維新政府」)は、それまで和人が「蝦夷島」と呼んでいた北方の島(アイヌモシリの一部)を日本の領土とし、「北海道」と名付け、植民地とした。
 一八七二年一〇月、日本政府は、九州南方の琉球王国を「琉球藩」として日本の領土に組み入れた。
 その二か月後の一八七二年一二月、日本政府は、架空の「神武天皇」の即位年をBC六六〇年に設定し、それを「紀元」一年とする「皇紀」の使用を開始し、天皇制の歴史と国家の歴史を一致させようとした。
 一八七四年五月に、日本政府は、日本陸海軍三千数百人を、台湾に侵入させた(「台湾蕃地処分」)。
 その翌年一八七五年九月に、日本政府は、軍艦を、江華島海域に侵入させた。一九七四年の「台湾蕃地処分」と一九七五年の「江華島事件」は、連続していた。
 一八七五年五月、日本政府とロシア政府は、「樺太千島交換条約」に調印した。これは、日本が「クナシリ島」からカムチャツカ半島南端沖の「シュムシュ島」までの「千島列島」全域を植民地とし、ロシアが「樺太島」全域を植民地とすることを、相互に承認しあう侵略国間の条約であった。
 一八七九年四月、日本政府は、「琉球藩」を沖縄県とした(「琉球処分」)。
 「日清戦争」に勝利した日本は、清国との「媾和条約」(一八九五年五月批准書交換)で、台湾・澎湖列島を日本領とした。このころ、日本は、宮古・八重山地域を、曖昧な形で日本領とし、沖縄県に組み入れ、この地域にすむ人びとを日本国の「臣民」とした。それまでこの地域は、天皇(制)と無縁の地域であった。この地域西端の与那国島が現在、日本の最西端とされている。一五二二年に、侵入してきた琉球王国軍にウニトラ(鬼虎)らが敗北するまで、与那国島は、ひとつの国であった。
 一八九五年八月、日本政府は、台湾・フィリピン間中央の緯度線を「日本国及西班牙国版図の境界線」とする条約をスペイン政府と締結した。
 一八九八年七月に、日本は、「硫黄列島」東方の無人島を「南鳥島」と名付け、東京府告示で領土にした。それ以来、現在まで、この島が日本領土の最東端となっている。
 一九〇〇年に、日本・イギリス・アメリカ合州国・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリア八か国の軍隊が連合して清国に侵入した(義和団戦争)。それ以後、一九四五年秋まで日本軍が中国から撤退することはなかった。
 「日露戦争」のさなか、ロシアの大規模艦隊が日本に向かっていた一九〇五年一月末に、日本政府は、独島を自国の領土とすることを閣議で決定し、二月はじめに、島根県に「編入」した。大韓帝国政府が日本の独島占領を知ったのは、一九〇六年三月末であった。
 「日露戦争」の「講和条約」(一九〇五年九月調印)で、ロシア政府は、日本がロシアに代って遼東半島南部(「関東州」)と「満鉄附属地」を植民地(「租借地」)とすることを承認した。また、この「講和条約」で、日本は「樺太島」の南半分を植民地とした。この侵略国間の条約によって「国境線」とされた北緯五〇度線によって、先住民族の生活圏・労働圏が分断された。
 「日露講和条約」を批准した翌月一九〇五年一一月に、日本は大韓帝国を「保護国」とし、一九一〇年八月に「併合」した。
 国民国家日本は、のアイヌモシリ植民地化、琉球王国植民地化を契機にして形成された。アイヌモシリ、ウルマネシア、台湾、朝鮮侵略の過程で、日本の政治権力者たちは、天皇制を強化し、民衆支配と侵略の政治的・経済的・社会的・文化的構造をつくっていった。
 第一次世界戦争開始後まもなく、一九一四年八月二三日に、日本はドイツに宣戦布告した。同年一〇月に、日本海軍は、ドイツが植民地としていたミクロネシア地域(「マーシャル諸島」、「パラオ諸島」、「マリアナ諸島」、「カロリン諸島」)を占領し、「南洋群島」と名付け、一二月に軍政をしいた(日本軍守備分隊長が軍政庁長を兼任)。同じころ、日本陸軍はドイツが植民地としていた中国山東省の青島を攻撃し、一一月に占領し、青島守備隊司令部が軍政をしいた。
 一九二二年四月に、日本政府は「南洋群島」の行政機関として「南洋庁」を設置した。「南洋庁」は、アイヌモシリ植民地機関である「北海道庁」と同じく内務省が管轄した。「南洋群島」の先住民族カナカ人やチャモロ人を、日本政府は公文書で「島民」と表現し、おおくの日本人は「(南洋の)土人」と呼んだ。
 一九一四年の「南洋群島」植民地化から一九三一年までの一七年間、日本は領土・植民地を拡大しなかった(できなかった)が、一九三一年七月六日に、北回帰線の南に位置する「沖ノ鳥島」を、内務省告示で小笠原支庁の管轄区域に加えて、日本の領土とした。その約七〇日後の九月一八日、日本は、中国東北部・モンゴル東部の軍事侵略(「満洲事変」)を開始した。
 一九三二年三月一日、日本は、中国東北部とモンゴル東部を植民地として、「満洲国」と名付けた。
 一九三九年九月一日、日本政府は、張家口に傀儡政府「蒙古連合自治政府」をつくって、モンゴル南部・河北地域を植民地とした。「満洲国」においても「蒙古連合自治政府」の支配地域においても、実権は日本政府・日本軍が把握し、日本族が支配民族として他民族を抑圧した。
 一九三三年一月一日に、日本軍は、長城を越えて中国河北省への軍事侵略を開始し、一九三五年一二月二五日に、「冀東防共自治政府」をつくった。一九三七年七月七日の「盧溝橋事件」後、日本政府・日本軍は、一九三七年一二月一四日に華北に傀儡「臨時政府」を、一九三八年三月二八日に華中に傀儡「維新政府」をつくり、一九四〇年三月三〇日に中国の占領地域の傀儡政府を統合して傀儡「中華民国中央政府」をつくった。
 一九三八年一二月二三日、日本政府は、海南島のはるか南方の、ベトナム東南方・ボルネオ島北方・フィリピンのパラワン島西方にある「新南群島」を日本領土に編入すると、閣議で決定し、天皇ヒロヒトは、一二月二八日にそれを承認した。
                                   佐藤正人
コメント

「サルモン岬」 14

2010年12月29日 | 海南島史研究
 イングランド軍の海図や文書で Cape Salomon と書かれ、1939年までの旧日本海軍の水路図や文書で、サロモン岬、あるいは Cape Salomon と書かれていた岬は、現在の海南島地図では、鹿回頭角と書かれています。
 1940年に日本海軍水路部が「水路部秘第1001号」として刊行した地図「海南島至バンコック」(15万分の1)には、三亜港と楡林港の間の岬の名として、はじめて、鹿廻頭角と書かれています。
 日本敗戦後、水路作成機関は、海軍水路部から海上保安庁水路部に変わりましたが、海上保安庁水路部の文書では、1960年代まで、鹿廻頭角=Cape Saloman とされていました。
 1970年代に、海上保安庁水路部は、鹿廻頭角=Cape Saloman とするのを止め、鹿廻頭角=Luhuitou Jiao としはじめたようです。
 1990年代から、海上保安庁水路部は、水路関係文書から、鹿廻頭角という漢字を消去し、Lu-hui-t’ou Chao あるいは Luhuitou Jiao とのみ書き、最近、漢字表記を復活し、鹿回頭角=Luhuitou Jiao とするようになりました。
 「Salomon」、「鹿廻頭(鹿回頭)」の語源は、はっきりしていません。
                                   佐藤正人
コメント

「サルモン岬」 13

2010年12月28日 | 海南島史研究
 1997年2月に海上保安庁が出した海上保安庁水路部編『中国・台湾沿岸水路誌』には、
     「Sanya Gang 三亜港は、Chiao Ling とその南東約9.5Mにある
    Luhuitou Jiaoとの間に湾入している。
      Luhuitou Jiao は半島の南端であり、その北方約1kmにある
    Luhuitou Ling(高さ276m)の方へ隆起している。
      Sanya JiaoはLuhuitou Jiaoの北北西方約1.5Mにあり、同半島の西
    端を成す」、
     「Yulin Gang 楡林港はLuhuitou Jiaoとその東南東方約5.5Mにある
    Jinmu Jiaoとの間に湾入している」、
     「船舶は、Luhuitou Jiaoを回るとき、諸潮流を考慮しなければならず、東流
    は非常に強い」、
     「Yulin JiaoはLuhuitou Jiaoの東北東方約3.5Mにある小半島の南
    端……」、
     「Yulin Gang の西側、Luhuitou Jiao とYulin Jiaoとの間に湾があり、
    Tung-hai Jiaoによって中央付近で分けられる。  
      干出0.6mの岩がLuhuitou Jiaoの東北東方約0.7M、距岸400mの
    所にある」
と書かれています。

 2003年3月に海上保安庁が出した海上保安庁海洋情報部編『中国・台湾沿岸水路誌』の地名は、すべてアルファベットのみで表記されています。
同書の「Sanya Gang」の項には、
     「外方錨地 待機、検疫錨地は港界の南、Luhuitou Jiao(Lu-hui-t’ou
    Chao)の西方3Mにあり、水深27~30mで底質は軟泥である」、
     「潮流  Luhuitou Jiaoを回る時は、東流が非常に強いので潮流に注意し
    なければならない」、
      「目標  Luhuitou Ling 高さ275m、顕著である」
と書かれています。

 ことし(2010年)3月に海上保安庁が出した海上保安庁海洋情報部編『中国・台湾沿岸水路誌』の地名は、アルファベットで表記されており、部分的にそれに対応する漢字が付記されています。
 同書の「Sanya Gang 三亜港」の項には、
     「目標  Luhuitou Ling 鹿回頭嶺(高さ275m)は顕著である」、
     「潮流  Luhuitou Jiao 鹿回頭角を回る東流は非常に強いので、潮流に
    注意しなければならない」、
と書かれています。
                                 佐藤正人
コメント

「サルモン岬」 12

2010年12月27日 | 海南島史研究
 1969年2月に海上保安庁が出した海上保安庁水路部編『南支那海水路誌』第2巻(トンキン海湾北浜~香港島付近 海南島 西江 珠江)の「楡林湾」の項には、
     「鹿廻頭角 Lu-hui-tou Chao(Cape Saloman)は半島の南端で、高さ
    276mの鹿廻頭嶺 Lu-hui-tou Ling がある。
      三亜角 San-ya Ling はこの半島の西端で……」
と書かれています。同書でも、1954年版と同じく、鹿廻頭角=Cape Saloman と書かれていますが、1954年版にはなかった、鹿廻頭角の漢語音がアルファベットで付記されています。

 1981年1月に海上保安庁が出した海上保安庁水路部編『南支那海水路誌』では、地名はアルファベットで表記され、その漢字表記が付記されています。同書には、
     「Luhuitou Jiao鹿廻頭角は、Jinmu Jiao錦母角燈台の西北西方約5・7
    Mにあり、険しい海岸のある半島の南端で、その後方に峰(高さ275mがある。
      Dongmao Zhou東瑁州(東洲)はLuhuitou Jiao鹿廻頭角の西北西方約
    4Mにあり……
      Ximao Zhou西瑁州(西洲)はLuhuitou Jiao鹿廻頭角の西北西方約7M
    にあり……」
と書かれています。

 1991年3月に海上保安庁が出した海上保安庁水路部編『中国・台湾沿岸水路誌』には、
     「San-ya Chiangは、Chiao Lingとその南東方約9.5MにあるLu-hui
    -t’ou Chaoとの間に湾入している。
      Lu-hui-t’ou Chaoは半島の南端であり、その北方約1kmにあるLu-
    hui-t’ou Chao(高さ276m)の方へ隆起している。
      San-ya chiaoはLu-hui-t’ou Chaoの北北西方約1.5Mにあり、同
    半島の西端を成す」
と書かれています。
                                佐藤正人

コメント

「サルモン岬」 11

2010年12月26日 | 海南島史研究
 1929年9月に水路部が出した『南支那海水路誌』第2巻第1改版(海南島附近至香港島附近、西江、珠江)には、「Cape Salomon  楡林港〔Yu lin kan Bay〕ト三亜湾〔Sama Bay〕トヲ界スル長サ約3浬ノ半島ノ盡端ニシテ、高サ853呎(260.0米)ニ達シ、之ト本陸トハ低キ地峡ニ依リテ相連ナル」と書かれています。
 1954年4月に海上保安庁が出した『南支那海水路誌』第2巻(トンキン海湾北浜―香港島付近 海南島 西江 珠江)には、「楡林港Yulin Chiang は、高さ41mの斬頸角Chanching Chiao〔Tomb Point〕と、その西北西方約8.3kmの鹿廻頭角〔Cape Saloman〕との間の湾である、後者の角は高さ260m、たいへんによい目標である」と書かれています。Salomanは、Salomonの誤植だと思われます。
 このブログの11月8日の「サルモン岬」3に書いたように、中華民国政府が1936年に作成し日本陸軍参謀本部陸地測量部が1940年12月に複製した5万分の1の地図「楡林港」には、「サロモン岬」は記載されておらず、その近くに「鹿廻頭嶺」という地名が書かれています。
                                    佐藤正人
コメント

海南島の朝鮮人兵士 20

2010年12月25日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 日本海軍の兵士として海南島に送りこまれた朝鮮青年は、すべて鎮海の海兵団に入団していました。
 鎮海の海兵団にかんする日本海軍文書は、ほとんど公開されていませんが、現在、防衛研究所図書館で一部が公開されている鎮海警備府司令部『鎮海警備府戦時日誌』のなかには、つぎのような記述があります。

■『鎮海警備府戦時日誌』(1944年6月)の「海兵団新兵教育」の項
 4月1日鎮海海兵団入団ノ第一期特別志願兵ハ本月末日修業ス
 皇国海軍軍人トシテ有為ノ人材ヲ養成スルヲ以テ第一義トシ……
 我ガ天壌無窮ノ国家観、八紘一宇ノ皇道精神ヲ注入シ以テ不抜ノ軍人精神ヲ心中ニ樹立セシメンコトヲ期シ……
■『鎮海警備府戦時日誌』(1944年8月)の「海兵団新兵教育」の項
 朝鮮総督府海軍兵志願者訓練所ハ7月末ヲ以テ廃止セラレ自今訓練所教育ヲ経ズシテ直ニ入団セシムルコトトナリ第二期訓練生ヨリ採用ノモノヲ第二期特別志願兵(1717名)一般志願者ヨリ採用ノモノヲ第三期特別志願兵(1750名)トシ何レモ8月1日入団教育を開始ス。

 「海軍特別志願兵令」(「勅令」第608号)が8月1日に施行され、朝鮮では、10月に最初(第一期)の「志願者」1000人が鎮海の「朝鮮総督府海軍志願兵訓練所」に入所し,6か月の「訓練」のあと、「海兵団」に入団しました。
 しかし、その後、日本政府・日本軍は、長期間「訓練」する余裕がなくなり、「朝鮮総督府海軍志願兵訓練所」を廃止し、「訓練」ぬきで、ただちに「志願者」を「海兵団」に入団させました。
                                    佐藤正人
コメント

2010年初夏 海南島と三竈島で

2010年12月24日 | 海南島
 5月下旬から6月にかけて、紀州鉱山の真実を明らかにする会としては18回目、海南島近現代史研究会としては5回目の海南島「現地調査」をおこないました。

■定安県雷鳴鎮梅種村で
 5月23日に、符如来さんと海南島近現代史研究会の邢越さんに案内されて、海口市の南の梅種村に行きました。村の入り口に、許如梅さん(1918年~1943年)の墓があります。その墓には、頭の骨はありません。1943年10月に、許如梅さんは日本軍に殺され、首を切られたといいます。
 符如来さんは、許如梅さんの娘さんですが、1941年に、生まれてから1か月ときに、母の許如梅さんは、符如来さんを、澄邁県花場の知人に託して、抗日武装組織の隊列に戻ったそうです。許如梅さんを殺害したのは、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊に所属する日本兵でした。
 この日、梅種村で、王広瑞さん(80歳)と王開権さん(88歳)から、当時のことを聞かせてもらうことができました。日本兵は、許如梅さんを殺害するところを、村人に見ることを強制したそうです。
 話を聞き終わったあと、王広瑞さんと王開権さんに、許如梅さんが隠れた場所と殺害され首を切られた場所に案内してもらいました。符如来さんは、ここに来たのは初めてだ、と言いました。

■澄邁県大豊鎮美桃村で
 5月25日に、邢越さん、青龍剣さん、成有子さんと4人で美桃村に行きました。青龍剣さんと成有子さんは、海南民間抗戦研究会準備会の会員です。美桃村では李世勝さんが案内してくれました。
 村から2キロほど離れた崖下に、洞窟が10個ありました。大きなものは、高さ1メートルほどで、内部の広さは15平方メートルほどでした。
 これとは別に、近くの崖に2個の洞窟、さらにその近くの別の崖に4個の洞窟が残っていました。あたりは、丘陵地帯で、当時は密林だったとのことです。美桃村に戻って、李世勝さんに案内されて、李守芳さん(100歳)を訪ねました。李守芳さんは、
     「日本兵はしばしば村に来て、豚や鶏などを奪い、村人に乱暴した。わたしたち
    は、山に逃げた。1940年ころから、山のなかに洞窟を掘ってそこで暮らすように
    なった。洞窟は、尖った鉄の棒などを使って手で掘った。岩は硬く、兄の李守蕃
    と二人で掘ってひと月あまりかかった。何十個もの洞窟があった。近くにきれい
    な水が流れている川があったので水には困らなかった。山の中で芋などを掘っ
    て食べたが、ときどきは村に戻って食料を運んだ」
と話しました。
 美桃村には、3階建ての旧日本軍の望楼が残っており、それぞれの階の4方に銃口が作られていました。

■昌江黎族自治県海尾村で
 5月27日に、邢越さんと瀋志成さんと3人で、海尾村に行きました。
 海尾村で生まれ育った桂永昌さん(82歳)は、
     「日本軍は、望楼と兵舎をつくった。わたしは、日本兵の兵舎で食事を作らされ
    ていた。望楼には機関銃が大きいのと小さいのと、2台あった。海尾の日本兵で
    はない日本兵が、村を襲ったことが何度もある。村人が2人、十字架のような木
    に縛りつけられているのを見たことがある。その一人は、麦元堂だった。日本兵
    は、2人を市場の入り口の道路に寝かせ、通る村人にむりやり足で踏ませた。村
    人が2人を強く踏むことはなかった。日本兵は、最後に馬で2人を踏み潰して殺
    した」
と話し、羊允国さん(83歳)は、「わたしの父は漁師だった。10歳になったころから、父といっしょに船にのった。日本軍の飛行機が漁船に爆弾を落としたことがある。日本軍のつくった学校で‘キミガヨ’を歌わされた」と話しました。

■昌江黎族自治県十月田鎮保平村で
 5月27日午後、保平村に行きました。保平村は、石碌鉱山と日本海軍横須賀鎮守府第4陸戦隊司令本部のある北黎を結ぶ日本侵略期の幹線道路の中間に位置していおり、かつて82人の日本兵が常駐していました。
 保平村委員会の建物の前で、王雲臣さん(81歳)は、
     「日本軍の望楼と宿所がこの近くにあった。日本軍は学校もつくった。わたしも
    通った。日本軍は、保平にたくさん人をつれてきて道路や橋を作らせていた。香
    港などから連れてこられた人が多かった。マラリヤなどでたくさん死んだ。日本
    軍は病気が広がるのを怖がって、病人をまだ生きているのに焼いた。日本兵
    は、外地人に病気の外地人を火の中に入れさせた。仲間にそのようなことをし
    ないという人は、その人も火の中に入れられた」
と話しました。邢康さん(60歳代)は、
     「わたしが幼いころ、父がいなくなった。父は戻らなかった。わたしは、父の顔を
    はっきり覚えていない。父といっしょに石碌の鉄鉱山に連れて行かれて戻った人
    から、父は火葬されて埋められと聞いた。父が埋められている場所はわからな
    い」
と話しました。
 横須賀鎮守府第4特別陸戦隊保平分遣隊の望楼と宿所は、日本敗戦後まもなく国民党軍が破壊したそうです。

■海口市雲龍鎮玉仙村、海口市内南渡河望楼跡、海口市長流鎮傳桂村で
 5月29日に、玉仙村、南渡河望楼跡に行きそこに住んでいる人から話しを聞かせてもらった後、傳桂村を訪ねました。傳桂村で、呉金用さん(77歳)は、「日本人は、ここで栽培をやっていた」と証言しました。このブログのカテゴリーに掲載した「海南島でのアヘン生産」を参照してください。

■広東省珠海市の三灶島(三竈島)で
 5月30日と31日に三灶島(三竈島)に行きました。三灶島には万人墳と千人墳があります。万人墳には、大理石でつくられた高さ10メートルほどの「三灶島三・一三死難同胞紀念碑が建てられていました。碑文に、日本軍は、占領期に、「同胞二千八百九十一人」を殺害したと刻まれていました。

 証言を聞かせてもらい、記録しているとき、これまでより、話をしてくれている人の人生や、語られる犠牲者の人生を、自分の人生と重ね合わせることが多くなりました。
                                    佐藤正人
コメント

韓国調査報告2010年4月・10月

2010年12月23日 | 紀州鉱山
■2010年4月
 4月23日~26日に韓国でキムさん、佐藤さんと聞き取りの活動をしてきました。
23日の夜にソウルで韓光洙さんと李熙子さんにはじめて会い、韓光洙さんが父親を「朝鮮報国隊」として海南島に奪われ、陵水で死亡した経緯について、アボジの生い立ちや別れの話しを聞くことができました。
 翌24日に、わたしとしては初めて江原道旌善郡を訪れ、佳水里という村を訪問しました。 この村のどかな光景はいまでも目に焼きついています。そこで紀州鉱山で亡くなり本名が正確にわからなかった「玉川光相」さんの幼馴染の全文鐸さんに会うことができ、「玉川」さんの本名が劉太相だということが判明しました。

■2010年10月
 秋になって、10月2日から6日まで、キムさん、佐藤さんと韓国を再度訪問しました。 
 このときは、ソウル近辺で海南島の「朝鮮報国隊」で連行された人の遺族、および日本軍の軍人・軍属として海南島に行った方からの聴き取りをおこないました。
 8日にソウルの恩平区で会った金永振さんは日本軍の軍人として海南島に送られた朝鮮人ですが、解放後韓国にもどってからはおそらく当時の体験などを人前で話す機会はなかったと思うので、今回の聞き取りは貴重な機会になりました。解放後の韓国ではおそらく肩身の狭い思いをして生きてこられたのだと思います。
 海南島の朝鮮人兵士については、佐藤さんがブログで調べた成果を書いてくれていますので、そのような日本軍の召集の状況と付き合わせながら、全体のうごきのなかで体験談を聞くことが大切だと思いました。
 一方、「朝鮮報国隊」に入れられ海南島に連行され命を奪われた人の遺族のみなさんは、身内の死亡について解放後ほとんど情報を与えられておらず、死亡したこと自体を数十年も経て初めて知った人が多いことを今回の聞き取りで、あらためて感じました。
 遺族の多くの方は、海南島がどこにあるのかも知りませんでした。
 日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会の活動によって、わずかなりとも、侵略戦争の犠牲となった朝鮮人の消息が遺族に伝えられるきっかけになったと思います。

 それから、4~6日の3日間、ソウルの真相究明委員会を訪れ、主として紀州鉱山、四日市に徴用された人の名簿についての情報収集にあたりました。
 紀州鉱山と四日市の項目を検索して、被害申請をしている人の名前や住所を書き取りましたが、四日市にもかなりの就労者がいることが判明し、聞き取りを通して当時の状況を知る手がかりが得られそうです。
 真相究明委員会は被害者の申請処理が終らない状態で、期限切れを迎えており、あわただしい雰囲気が感じられました。
 真相究明員会の活動にいろいろな問題があるにしても、中国では政府レベルでこのような動きがないのと比べて、やはり大きな違いを感じました(もちろん日本政府と日本の社会がこの問題に責任を取ろうとしないということが根本的な問題であるわけですが)。
                                   斉藤日出治
コメント

2010年 韓国で 5

2010年12月22日 | 紀州鉱山
■11月下旬
 11月22日に、ソウルで開かれた「第7回民族宗教協議会国際学術大会」で報告しました(このブログの11月22日の「世界史における1910年」を見てください)。
 11月23日午前中、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会で三重県に強制連行された人たちの記録を閲覧し、午後、金永振さんに再会し、海南警備府佐世保鎮守府第8特別陸戦隊で見たことをさらにくわしく話してもらいました(前回会ったのは10月5日でした)。夜、韓国挺身隊問題研究所の李聖順さん、太平洋戦争被害者補償推進協議会の李煕子さんと話し合いました。
 11月24日、慶尚北道亀尾市北部の自宅で金相律さんに話を聞かせてもらいました。 日本海軍の兵士として海南島にいっていた金相律さんは、
     “鉱山で労務者を監視しているとき、韓国語で話している労働者がいた。聞い
    てみると、朝鮮報国隊だと言った。みんなわたしより年上だった。重労働をして
    いた。宿所はわたしの兵舎からすこし離れていた。その鉱山ではインド人も見た
    ことがある”
と話しました。
 11月25日午前、全羅南道谷城郡梧谷面の自宅で金成文さんに話を聞かせてもらいました。金成文さんは、
     “鎮海で日本海軍の特別志願兵として6か月訓練をうけて海南島に行った。海
    南島に行く途中、船が沈没した。そのときけがをして3か月フィリピンで入院し
    た。海南島では、ナダイ(那大)にいた。蒋介石の軍隊と戦った”
と話しました。
 11月25日夕刻、全羅北道南原の「万人義塚」を訪ねました。「万人義塚」は、1597年に日本軍によって殺された1万人あまりの人びとを追悼する場です。
 11月26日、南原の旧城跡、甲午農民戦争の史跡などを訪ねました。
 11月27日、ソウルで李西根さんに再会し、くわしく話を聞かせてもらいました(このブログの11月27日~29日の「李西根さんの証言」1~3を見てください)。
                                   佐藤正人
コメント