宜野座村誌編集委員会編『宜野座村誌 第二巻 資料編Ⅰ 移民・開墾、戦争体験』(1987年3月発行)に、宜野座村字宜野座の嘉手納良清さん(1917年生)の証言「海南島出稼ぎと中国大陸での戦争体験」が掲載されています。そこには、つぎのように書かれています(原文は「元号」使用)。
「1941年になって金武村役場から海南島への出稼ぎ労務者の募集の連絡があっ
たので、私は同じ大久保の幸喜徳昌と共に応募しました。仕事の内容は海南島で
軍事施設を造るための土木作業で、身分は軍属ということでした。宜野座から海南
島へ出稼ぎに行ったのは、私たちが一番最初だったと思います」、
「1941年の夏、私たちは日本軍の駆逐艦に乗船して那覇港を出港しました。海南
島に出稼ぎに行く人は全部で七、八〇名は乗っており、大宜味村や恩納出身の人
が多かったです」、
「私は三亜の第十三基地で働くことになりました。海南島には三亜の他、海口にも
軍事基地がありました。私たち出稼ぎ労働者は工員と呼ばれていて、私たちの基地
だけで約三八〇〇名の工員が全国から集まって来ていました。工員は各班二〇名
ずつに分けられて、宿舎や飛行場建設などの作業をしました。私は輸送班に配属さ
れ、ガソリンなどの燃料や木材などの建築資材をトヨタの四トントラックに積んで運ぶ
仕事をしました。材木は現地調達して賄っていましたが、その他の資材は日本から
貨物船で運ばれて来ました」、
「朝は七時頃起床して、八時には毎朝、朝礼がありました」、
「宿舎の周囲はばら線で囲まれていて、常時、兵隊が警備していて、勝手に外出
はできませんでした」、
「宿舎は木造トタン葺きの建物で、一棟に十二班二四〇名の工員が住んでいまし
た。班の成員二〇名は、みんな一緒の部屋で寝泊りしていました」、
「宿所の近くに慰安所があり、慰安婦は全部で十四、五名いて、その中には朝鮮
人や沖縄出身の人も何名か交じっていました。そこは毎日人がいっぱいで、列を作
って並んでおり、慰安婦は多い時は一名で一日に四〇名ぐらいを相手にしていたそ
うです」、
「慰安所に行く時は、その前に軍の警務室に行って、「上陸します」と言って札をも
らい、その札を持って行き、慰安婦に渡さなければなりませんでした。慰安婦の宿
舎は別の場所にあり、慰安婦たちは週に一回、近くの海軍病院で検査を受けてい
ました」、
「現地人の人夫はクリーと呼ばれていて、私たちの基地でも四、五〇名働いてい
ました。彼らは主に便所汲みや掃除などの下働きをしていましたが、給料は与えら
れていませんでした。食事も日本人の残飯を食べていて、待遇はひどいものでし
た」、
「1943年の初め頃、三亜の第九基地の飛行場に、B二九が四機編隊で飛んで
来て空襲を行いました。その時に宿舎に爆弾が落ちて、三〇名ほどの工員が死に
ました」、
「1943年の八月頃、海南島を引き揚げて沖縄に帰ることになりました」、
「三亜港から軍の貨物船で直接、沖縄に帰って来たのですが、その時はもう南方
では戦闘が激しくなっていたので中国大陸沿いをあちこちの湾に隠れながら進み
ました。沖縄の人は四〇名ぐらい乗っていて、一緒に行った幸喜徳昌も同じ船でし
た。日数は二〇日ぐらいかかったと思います」。
ここには、「私は三亜の第十三基地で働くことになりました」と書かれていますが、海南島三亜の日本海軍飛行場は「第九基地」でした。嘉手納良清さんの証言の細部はいくらか記憶違いがあるようですが、全体としては信用できます。
台湾から1943年2月に「第1回南方派遣海軍工員」として海南島にきて、日本敗戦まで嘉手納良清さんが働かされていたのと同じ第九基地で働かされていた高延陵さんの証言は、このブログの2011年2月5日の「海南島の台湾人兵士 3」をみてください。
嘉手納良清さんが「三亜の第九基地の飛行場」の建設をしていたとき、1943年4月から、朝鮮から獄中者が、「朝鮮報国隊」の隊員として海南島に連行されはじめており、三亜飛行場でも働かされていました(ドキュメンタリー『「朝鮮報国隊」』(紀州鉱山の真実を明らかにする会企画、2001年~2007年制作)、このブログの2009年10月13日~10月27日の「パランオッ・藍色衣服・青い服」1~ 14、2010年7月6日~7月13日の「海南島に連行された朝鮮人」1~6、2010年8月14日の「「朝鮮報国隊」に入れられ海南島で死亡した人たち」、2011年6月22日~6月27日の「海南島への朝鮮人強制連行」1~6などをみてください)。
1941年6月 大本営陸海軍部「対南方施策要綱」決定。
1941年6月 日本海軍、海南島楽会県北岸郷で住民虐殺。
1941年7月 日本陸軍第25軍約4万人、海南島三亜港からベトナム南部・カンボジアに
侵入・占領。
1941年8月 日本海軍、海南島で「Y四作戦」(定安県黄竹鎮、澄邁県沙土などで住民
虐殺)。
1941年11月~42年1月 日本海軍、海南島で「Y五作戦」。
1941年11月15日 日本陸軍第五師団先頭部隊、上海から海南島三亜に出発。
1941年11月26日 日本海軍、「ハワイ作戦機動部隊」、エトロフ島ヒトカップ湾からハワイ
沖に出発。
1941年12月4日 日本陸軍、海南島三亜港からマレー半島に出港。
1941年12月8日 午前1時半、日本陸軍、コタバル奇襲、アジア太平洋戦争開始。
午前3時、日本海軍パールハーバー奇襲。
1942年3月 日本海軍、海南島文昌抱羅鎮石馬村で住民虐殺。
1942年5月 日本陸軍、中国雲南省徳広・保山地域で住民虐殺開始。
1942年6月 日本海軍、海南島で「Y六作戦」。
1942年6月 日本海軍、海南島楽会県烟塘鎮大石溝村で住民虐殺。
1942年秋 海南島で抗日軍のたたかい活発化(日本軍基地、軍用車両など攻撃)。
1942年11月~43年4月 日本海軍、海南島で「Y七作戦 1期」(海南島東北部住民
虐殺)。
1943年3月 「朝鮮総督府受刑者海南島出役に伴う監督職員等増員に関する件」日本
政府閣議決定。
1943年3月30日 第1次「朝鮮報国隊」、ソウルから海南島に出発。
1943年4月~5月 日本海軍、海南島で「Y七作戦 2期」(海南島東部住民虐殺)。
1943年5月 USA軍、海南島三亜・楡林地域爆撃。住民死傷。
1943年6月 USA軍、海南島海口地域爆撃。住民死傷。
1943年6月 日本海軍、海南島で「Y七作戦 3期」(海南島西北部住民虐殺)。
1943年8月 海南海軍特務部、「海南島人労務者管理規定」制定。
佐藤正人