三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

沖縄で 8

2012年06月30日 | 個人史・地域史・世界史

 宜野座村誌編集委員会編『宜野座村誌 第二巻 資料編Ⅰ 移民・開墾、戦争体験』(1987年3月発行)に、宜野座村字宜野座の嘉手納良清さん(1917年生)の証言「海南島出稼ぎと中国大陸での戦争体験」が掲載されています。そこには、つぎのように書かれています(原文は「元号」使用)。
    「1941年になって金武村役場から海南島への出稼ぎ労務者の募集の連絡があっ
   たので、私は同じ大久保の幸喜徳昌と共に応募しました。仕事の内容は海南島で
   軍事施設を造るための土木作業で、身分は軍属ということでした。宜野座から海南
   島へ出稼ぎに行ったのは、私たちが一番最初だったと思います」、
    「1941年の夏、私たちは日本軍の駆逐艦に乗船して那覇港を出港しました。海南
   島に出稼ぎに行く人は全部で七、八〇名は乗っており、大宜味村や恩納出身の人
   が多かったです」、
    「私は三亜の第十三基地で働くことになりました。海南島には三亜の他、海口にも
   軍事基地がありました。私たち出稼ぎ労働者は工員と呼ばれていて、私たちの基地
   だけで約三八〇〇名の工員が全国から集まって来ていました。工員は各班二〇名
   ずつに分けられて、宿舎や飛行場建設などの作業をしました。私は輸送班に配属さ
   れ、ガソリンなどの燃料や木材などの建築資材をトヨタの四トントラックに積んで運ぶ
   仕事をしました。材木は現地調達して賄っていましたが、その他の資材は日本から
   貨物船で運ばれて来ました」、
    「朝は七時頃起床して、八時には毎朝、朝礼がありました」、
    「宿舎の周囲はばら線で囲まれていて、常時、兵隊が警備していて、勝手に外出
   はできませんでした」、
    「宿舎は木造トタン葺きの建物で、一棟に十二班二四〇名の工員が住んでいまし
   た。班の成員二〇名は、みんな一緒の部屋で寝泊りしていました」、
    「宿所の近くに慰安所があり、慰安婦は全部で十四、五名いて、その中には朝鮮
   人や沖縄出身の人も何名か交じっていました。そこは毎日人がいっぱいで、列を作
   って並んでおり、慰安婦は多い時は一名で一日に四〇名ぐらいを相手にしていたそ
   うです」、
    「慰安所に行く時は、その前に軍の警務室に行って、「上陸します」と言って札をも
   らい、その札を持って行き、慰安婦に渡さなければなりませんでした。慰安婦の宿
   舎は別の場所にあり、慰安婦たちは週に一回、近くの海軍病院で検査を受けてい
   ました」、
    「現地人の人夫はクリーと呼ばれていて、私たちの基地でも四、五〇名働いてい
   ました。彼らは主に便所汲みや掃除などの下働きをしていましたが、給料は与えら
   れていませんでした。食事も日本人の残飯を食べていて、待遇はひどいものでし
   た」、
    「1943年の初め頃、三亜の第九基地の飛行場に、B二九が四機編隊で飛んで
  来て空襲を行いました。その時に宿舎に爆弾が落ちて、三〇名ほどの工員が死に
  ました」、
    「1943年の八月頃、海南島を引き揚げて沖縄に帰ることになりました」、
    「三亜港から軍の貨物船で直接、沖縄に帰って来たのですが、その時はもう南方
   では戦闘が激しくなっていたので中国大陸沿いをあちこちの湾に隠れながら進み
   ました。沖縄の人は四〇名ぐらい乗っていて、一緒に行った幸喜徳昌も同じ船でし
   た。日数は二〇日ぐらいかかったと思います」。

 ここには、「私は三亜の第十三基地で働くことになりました」と書かれていますが、海南島三亜の日本海軍飛行場は「第九基地」でした。嘉手納良清さんの証言の細部はいくらか記憶違いがあるようですが、全体としては信用できます。
 台湾から1943年2月に「第1回南方派遣海軍工員」として海南島にきて、日本敗戦まで嘉手納良清さんが働かされていたのと同じ第九基地で働かされていた高延陵さんの証言は、このブログの2011年2月5日の「海南島の台湾人兵士 3」をみてください。
 嘉手納良清さんが「三亜の第九基地の飛行場」の建設をしていたとき、1943年4月から、朝鮮から獄中者が、「朝鮮報国隊」の隊員として海南島に連行されはじめており、三亜飛行場でも働かされていました(ドキュメンタリー『「朝鮮報国隊」』(紀州鉱山の真実を明らかにする会企画、2001年~2007年制作)、このブログの2009年10月13日~10月27日の「パランオッ・藍色衣服・青い服」1~ 14、2010年7月6日~7月13日の「海南島に連行された朝鮮人」1~6、2010年8月14日の「「朝鮮報国隊」に入れられ海南島で死亡した人たち」、2011年6月22日~6月27日の「海南島への朝鮮人強制連行」1~6などをみてください)。

1941年6月 大本営陸海軍部「対南方施策要綱」決定。
1941年6月 日本海軍、海南島楽会県北岸郷で住民虐殺。
1941年7月 日本陸軍第25軍約4万人、海南島三亜港からベトナム南部・カンボジアに
       侵入・占領。
1941年8月 日本海軍、海南島で「Y四作戦」(定安県黄竹鎮、澄邁県沙土などで住民
       虐殺)。
1941年11月~42年1月 日本海軍、海南島で「Y五作戦」。
1941年11月15日 日本陸軍第五師団先頭部隊、上海から海南島三亜に出発。
1941年11月26日 日本海軍、「ハワイ作戦機動部隊」、エトロフ島ヒトカップ湾からハワイ
            沖に出発。
1941年12月4日 日本陸軍、海南島三亜港からマレー半島に出港。
1941年12月8日 午前1時半、日本陸軍、コタバル奇襲、アジア太平洋戦争開始。
           午前3時、日本海軍パールハーバー奇襲。
1942年3月 日本海軍、海南島文昌抱羅鎮石馬村で住民虐殺。
1942年5月 日本陸軍、中国雲南省徳広・保山地域で住民虐殺開始。
1942年6月 日本海軍、海南島で「Y六作戦」。
1942年6月 日本海軍、海南島楽会県烟塘鎮大石溝村で住民虐殺。
1942年秋 海南島で抗日軍のたたかい活発化(日本軍基地、軍用車両など攻撃)。
1942年11月~43年4月 日本海軍、海南島で「Y七作戦 1期」(海南島東北部住民
               虐殺)。
1943年3月 「朝鮮総督府受刑者海南島出役に伴う監督職員等増員に関する件」日本
       政府閣議決定。
1943年3月30日 第1次「朝鮮報国隊」、ソウルから海南島に出発。
1943年4月~5月 日本海軍、海南島で「Y七作戦 2期」(海南島東部住民虐殺)。
1943年5月 USA軍、海南島三亜・楡林地域爆撃。住民死傷。
1943年6月 USA軍、海南島海口地域爆撃。住民死傷。
1943年6月 日本海軍、海南島で「Y七作戦 3期」(海南島西北部住民虐殺)。
1943年8月 海南海軍特務部、「海南島人労務者管理規定」制定。

                                             佐藤正人

コメント

沖縄で 7

2012年06月29日 | 個人史・地域史・世界史

 『琉球新報』1939年9月28日号に、「南支行の移民・勇躍出発す」という見出しの、つぎのような記事が掲載されています。
     「南支那第一○○島並に第二○○島行きの農業移民と土木作業夫は、待遇と
    条件が良いため各村より希望者が殺到し、募集人員も五百名を遥かに突破した
    が、開洋洋会館で連日訓練をうけた一行は、きのふ家族や親戚に送られて那覇 
    港を出発、勇躍壮途に就いた」。
 「南支那第一○○島並に第二○○島行きの農業移民と土木作業夫」とは、三灶島(三竈島)に行く「農業移民」と海南島にいく「土木作業員」のことです。
 沖縄から三灶島(三竈島)への植民にかんしては、海南島近現代史研究会の会誌『海南島近現代史研究』第2号・第3号(2011年2月)に掲載されている浦島悦子さんの「「鍬の戦士」たちの胸の内 沖縄からの三竈島移民・断章」、蒲豊彦さんの「日中戦争期沖縄の中国華南開拓移民団」、およびこのブログの2010年2月16日の「海南島近現代史研究会第5回定例研究会」、2010年6月6日~6月11日の「三竈島」1~4などをみてください。
 両親に連れられて三灶島(三竈島)に行った普天間文子さん(1934年生)と城間正弘さん(1937年生)の証言が、与那原町史編纂委員会編『与那原町史 資料編1 移民』(2006年3月、与那原町教育員会発行)に掲載されています。
 南風原町史編集委員会編『南風原町史 第8巻 移民・出稼ぎ編 ふるさとを離れて』(2006年7月)に、南風原村宮平から三竈島に行った人の名簿(7人)と南風原村津嘉山と本部から海南島に行った人の名簿(8人)が掲載されています。
 名護市史編さん委員会編『名護市史本編5 出稼ぎと移民 別冊 資料編』(2010年11月、名護市役所発行)に、名護地域から海南島に行って戻ってきた人の名簿(14人)が掲載されています
 具志川市史編さん委員会編『具志川市史 第四巻 移民・出稼ぎ 資料編』(2002年3月、具志川市教育委員会発行)に、具志川地域から海南島に行って戻ってきた人の名簿(18人)が掲載されています(そのうち、日本海軍佐世保鎮守府の設営隊の軍属として海南島に行ったと思われる人は12人ほどです)。
                                              佐藤正人

コメント

沖縄で 6

2012年06月28日 | 個人史・地域史・世界史

 沖縄での海南島への「労務者」の募集は、1939年9月に始められたようです。沖縄県教育委員会編刊『沖縄県史 第7巻 各論編6 移民』(1974年3月発行)に、西原文雄氏が、
     「国策としての拓殖移住」の中に「海南島には、三九年九月に六〇〇名の労務
   者が道路開設等のため送出されていて、その後もひきつづき募集が……」
と書いています。この記述は、『琉球新報』1939年9月8日号、9月12日号『沖縄日報』1939年9月9日号、9月10日号の広告欄に掲載されている1939年9月8日付けの「南支○○島行労務者大募集」という案内に依拠していると思われます。
 そこには、つぎのように書かれていました(原文は「元号」使用)。
     「南支○○島行労務者募集
      左記ニ依リ南支○○島行労務者ヲ募集ス
                        一九三九年九月八日
        沖縄県
        国営 那覇 名護 宮古 職業紹介所
             記
       一、応募者就業所 南支○○島
       一、募集人員   五〇〇名
       一、就業々務  土木工事(希望ニ依リ将来定住ノ見込ミモアリ)
       一、応募資格 (イ)満二十二才以上五十才迄ノ男子
                 (ロ)身体健全意志強固ナル者
                 (ハ)可成兵役関係薄キモノ
       一、提出書類 (イ)応募者ハ身元証明書一通持参
                 (ロ)採用決定ノ上ハ戸籍謄本一通提出
       一、支度金  三十円給与ス
       一、旅費   実費支給ス
       一、雇傭期間 工事終了迄(凡一ヶ年ノ見込)
       一、賃金   (イ)日収二円八十銭前後
                (ロ)根拠地集合ノ日ヨリ現地到着迄船中手当て一日
                 一円二十銭ヲ支給ス
       一、宿舎   官給ス
       一、食事   官給ス
       一、選衡検査 身体検査及口頭試験ヲ左ノ通リ施行スルニ付応募
               締切ハ検査前日マデ
                九月十八日 島尻郡、那覇市、首里市応募者
                九月十九日 中頭、宮古、八重山三郡応募者
                         以上  開洋会館ニ於テ
                九月二十日  國頭郡応募者名護職業紹介所ニ於テ
        一、申込所  県社会課 最寄職業紹介所 市役所 町村役場」。

 このあと、1940年4月に2回目の「南支○○島行労務者募集」がおこなわれ(このブログの6月25日の「沖縄で 3」をみてください)、1940年10月(募集締切は11月)に3回目の募集がおこなわれました(『琉球新報』1940年10月20日号、10月22日号、10月23日号)。
 1940年4月以後の「応募資格」には、「思想善良」が加筆されています。

 海南島への「労務者募集」がおこなわれたのは、沖縄だけではありませんでした。
 浦添市史編集委員会編『浦添市史 第五巻 資料編4』(1984年3月、浦添市教育委員会発行)に、大阪の職業紹介所の「紹介」で「海軍軍属」として海南島に行った平良英太郎さん(1910年生)の証言が、「軍属で海南島へ」という題で掲載されています(新垣安子さんの聞きとり)。
 そこには、つぎのように書かれています(原文は「元号」使用)。
     「英太郎さんはそこで、船の切符が買えるまでは大阪で働こうと考え、職業紹介
   所を訪ねた」、
     「紹介所で、海外に行かないかとすすめられたので、大阪にいるよりいいと思っ
   て申し込みました」、
     「わたしは採用されて、大阪から佐世保に行って一週間くらい訓練を受けた。
      そのあと行ったところが海南島です」、
     「海南島に行ったのは一九四二年の三月だと覚えているが、このとき一〇〇〇
   人くらい行っています。向こうでの私らの仕事は、軍の施設を造るための土方作業
   ばかりだった。
     一年たって、一九四三年の五月だったですかね、海南島も空襲を受けるようにな
   った。だいぶひどくやられて、私らはデースコーという山に逃げたんですよ。サイパン
   玉砕とか、硫黄島、沖縄の玉砕のニュースもどこから入ってくるか知らないが聞こえ
   てきた。サイパン玉砕の頃から海南島の空襲はとくにひどくなった。米軍の上陸はな
   かったが、戦争に負けたあとは蒋介石軍がきて、私らは捕虜になりました」、
    「日本に引揚げたのは一九四六年三月、和歌山の田辺港に上陸したです」。
 
 沖縄で「南支○○島行労務者募集」が開始されたのと同じ1939年9月に、朝鮮人の「募集」(「日本への朝鮮人集団移入」)が「労働者募集取締規則」を根拠として朝鮮で開始されていました(「労務動員実施計画」の閣議決定は、1939年7月4日)。これは、「募集」という形式の朝鮮人強制連行でした。
                                              佐藤正人

コメント

沖縄で 5

2012年06月27日 | 個人史・地域史・世界史

■上里さんの証言 3
 6月20日に、上里さんは、名護市内の自宅でつぎのように話しました。

    「海南島には2年いた。1年契約だったが、延長して、2年いた。1940年4月末に
   那覇を出て、戻ったのは1942年4月だった。
    福岡の炭鉱に行くという話しもあったが海南島に行くほうがいいと思った。
    いくら働いてもダメなので、これではいけないと思って海南島に行くことにしたの
   だ。
    給料は海南島に行く前に沖縄で契約していた。1日3円。残業すると1時間が30
   銭。
    海南島では毎日2時間残業して3円60銭もらった。
    あの時代の世の中はたいへんだった。このへんでは、いくら働いても1日30銭しか
   もらえなかった。こっちでは1回しかゴハンがあたらない。海南島では3食ゴハンを食
   べた。おかずは魚など。
    海南島に行くまえに結婚していて、1939年生まれの長女がいた。海南島に行って
   いるとき1941年に次女が生まれたという手紙が来た。
    海南島に行ってから1年ほどたって、秀英から南のほうに行った。
    そこで、108メートルある河の橋を造った。佐世保海軍陸戦隊が“敗残兵”を追っ払
   っていた。
    夜は、近くの佐世保海軍陸戦隊の陣地に住んだ。まわりに壕があった。ヤグラも
   あった。河の名も地名も覚えていない。
    遠くで“敗残兵”の銃の音が聞こえた。日本軍に抑えられて逃げ回って反抗して銃
   を撃っていた。
    ぼくらはまるきりシロウトだったから、なにも知らないので怖くはなかった。
    “敗残兵”は島民だけど農民ではない。当時、“敗残兵”というコトバをみんな使っ
   ていた。戦時中はハヤリのコトバだった。
    陸戦隊は、木の焼き板を村人に持たせていた。どこの部落の人間かを定めるため
   だった。木札をもっていない人間は指導した。こわがって逃げる人間は日本兵が殺
   した。ムチャナことだった。
    3か月ほどかかって橋が完成し、明日は帰ろうと思っていたら、夜に橋が焼かれて
   いた。“敗残兵”に。道路はさんで向こう側に隠れていた。
    それで、それで午前中は様子をみながら作業して、午後は犯人さがしをした。
    橋を焼いたと思う人を6人つかまえて、兵隊が殺した。みんな女だった。作業する
   フリをしてこっちの様子を見にきていた。男はこない。長い服を着ていた。見た感じ
   は“敗残兵”でなく農民だった。
    日本兵が6人を穴のまわりに正座させて、ひとりずつ首を切った。首を切ったのは
   佐世保海軍陸戦隊の軍人。
    殺すところを村の人がみることはなかった。
    海軍の兵隊が、ぼくらにやりたかったら殺せと言ったが、だれもそうしなかった。
    5人が殺されてから、残った1人は自分で穴のなかに入って殺された。
    殺された人はみんな若かった。当時のわたしよりすこし年上くらい、みんな20歳代
   だった。
    向こうは、でたらめだよ。
    橋の近くの村は大きかった。村を陸戦隊が焼いた。
    日本人は戦争に行ったら悪くなる。
    陸戦隊の兵隊がぼくらをつれて村に徴発に行ったことがある。
    娘だったか孫だったか、わしらの前でオジイに性行為をヤレと言ってやらないもの
   だから熊手で頭を突き刺した。ヤルまねをしたんだけど。
    ほんとうに最悪だ。
    毛布やら靴やら酒やら、めずらしいものはみんな運んだよ。
    徴発は、陸戦隊は何回もやっていたが、わたしらは橋を完成させるまでに1回だけ
   やった。

    1942年4月に、秀英から軍の大きい船に乗って佐世保に着いて、そこで解散した。
    海南島から戻ってから、1か月徴用で読谷の飛行場つくりにも行かされた。
    1944年に徴兵され、伊江島に行った。1945年4月にアメリカ軍が来た時、仲間4人
   と筏に乗って本島に向かって逃げた。本部の浜に着いて助かった。
    そのあと、1960年ころまで、近くの山で「タンガマー」(炭焼き)をして暮らした。
    数え年で94歳になったが、いまもミカン(タンカン)を栽培している。
    海南島の秀英にいるとき、海口というところに土曜日曜は遊びに行った。
    もう一回、海口に行ってみたい」。
                                               佐藤正人

              上里さんの姓を公表することは、ご本人の了解を得てあります。

コメント

沖縄で 4

2012年06月26日 | 個人史・地域史・世界史

■上里さんの証言 2
 6月20日に、上里さんは、名護市内の自宅でつぎのように話しました。

    「1940年4月に、佐世保海軍設営隊の軍属として海南島に行った。役場で募集し
   ていた。あの時は非常時だったから役場に軍の人間がいた。
     はじめは、うちの部落の者が10人ほど、オレもいくオレも行くといっていたが、実
   際に行ったのは2人だけだった。わたしは、海南島に行けば徴兵されないと思って
   行った。
    海南島に行くことは、わかっていたが、海南島がどんなところかは、よく知らなかっ
   た。
    1940年4月に那覇を発った。高雄についてアモイなどに回って材木・セメントなど
   を荷揚げした。一晩で全部下ろさないと出港できなかったのできびしかった。セメント
   を頭からかぶってしまったこともあった。明け方まで働かされたこともあった。
    海南島に着いたのは5月6日だった。秀英というところに着いた。
    船に乗っている間、船のなかで訓練があった。船のなかでの日当は1円50銭だっ
   た。
    船には女の人は乗っていなかった。
    海南島に着いてから、なにが得意かと聞かれたので、土木と言ったら土木の仕事
   をさせられた。
    わたしは、37班に入れられた。21人いた。みんな沖縄の人だった。他の班にも沖
   縄の人がたくさんいたが、ヤマトの別の県の人もいた。
    班の数は、はっきり覚えていないが、39班まであったことは覚えている。それ以上
   あったかもしれない。ほとんどがオキナワの人だった。
    37班は、はじめ、秀英から海口までの道路をつくった。
    途中に墓があっても、その墓を壊して道をつくった。墓を壊された老人が泣いてい
   るのを見たことがある。清明節のときみんな墓に集まっていた。
    秀英に慰安所があった。木札をもらって、慰安婦の順番を待った。
    女の人は、朝鮮、オキナワ、台湾、支那の人、いろいろな人がいた。女の人の名
   前はなく、番号だけだった。オキナワ、朝鮮の人は、すこし太っていた。台湾の人と
   支那の人はコトバが違った。
    慰安所の敷地は狭かった。建物の真ん中に廊下があってその両脇に部屋があっ
   た。  
    部屋に番号がついていた。部屋の数は全部で16くらいだったと思う」。

 具志川市史編さん委員会編『具志川市史 第四巻 移民・出稼ぎ 証言編』(2002年3月、具志川市教育委員会発行)に、上里さんと同じかたちで海南島に行った諸見里安次郎さん(1917年生)と横田時男さん(1917年生)の証言が掲載されています。
 そこで、諸見里安次郎さんは、
    「海南島に行った。行ったのは〔1939年〕八月ごろだったと思う。沖縄にいると召集
   を受けるかもしれないので、軍属として飛行場の設営に行った。軍の設営隊だから
   召集は受けない。佐世保の海軍設営隊から占領地に行って飛行場を造る募集が沖
   縄にもあって、具志川からも二、三〇名ぐらい一緒に行っている。我々が第一次で、
   向こうで稼いでお金を送った」、
    「海南島では苦力使役班に所属していた。中国語で労働者のことを苦力という。海
   南島の島民である。そこには民族が二種類あって……」、
    「使役班に所属して毎朝トラックに乗って部落に行って、部落に責任者をおいて、
   責任者と相談して労働力をかき集めて、現場に連れていくというのが仕事だった」、
    「一緒に行った連中で海軍関係を除隊してきた人は、すぐ警部員になれた。警部
   は棒を持ってずるけた奴を取り締まる役。海軍は優先された。私は陸軍であったけ
   ど、一番若いほうだったから苦力使役にまわされたんだと思う。……土工の仕事は
   現地人も一緒。同じ仕事をやるんだけど、日本人はレールを敷いてトロッコを使い、
   現地人らには担がせてきつい仕事をさせた」。
と証言しており、横田時男さんは、
    「海南島に行ったのは二十四、五歳のとき、結婚して子どもも二人いたが、妻と子
   どもは実家において、兄と二人で行った。船は那覇港から出たと思うが、戦争が激
   しくなっているから出港日時など秘密であった」、
    「海南島では、兄さんは道を造ったりあちこちに電線を引く仕事をやって、わたしは
   沖仲仕の仕事に組まれた。……荷は食料品がおもだった。たまに大砲の弾があっ
   た」
と証言しています。
                                               佐藤正人

コメント

沖縄で 3

2012年06月25日 | 個人史・地域史・世界史

■上里さんの証言 1
 6月20日に、浦島悦子さんに案内されて、キム チョンミさんとともに、名護市に住む上里さんの自宅を訪ね、話を聞かせてもらうことができました。浦島さんは、2008年3月に名護市役所からだされた名護市史編さん委員会編『名護市史本編5 出稼ぎと移民Ⅰ』に「久志村からの〈出稼ぎ・移民〉」を、『名護市史本編5 出稼ぎと移民Ⅲ』に「三灶島(中国)」を書いており、海南島近現代史研究会の会誌『海南島近現代史研究』第2号・第3号(2011年2月)に「「鍬の戦士」たちの胸の内 沖縄からの三竈島移民・断章」を寄稿してもらっています。
 上里さんは、1919年生まれで、93歳の誕生日を迎えたばかりとのことでした。
 しっかりした口調で、昔のことをくわしく話してくれました。
 わたしたちは、上里さんが海南島に行ったころのことを中心にして、話を聞かせてもらいました。
 上里さんは、1940年4月に、日本海軍佐世保鎮守府設営隊の軍属として海南島に行ったとのことでした。
 『琉球新報』1940年4月10日号の広告欄に、つぎのような案内が掲載されています(原文「元号」使用)。
  「南支○○島行労務者大募集
   左記ニ依リ南支○○島行労務者ヲ募集ス
          一九四〇年四月十日
             沖縄県
             国営 那覇 名護 宮古 職業紹介所
      記
  一、就業地 南支○○島
  一、業務  土木工事
  一、勤務期間 工事終了迄トス
  一、応募資格 (イ)満二十二歳以上五十歳迄ノ男子
           (ロ)身体強健、意志鞏固、思想善良ナル者
           (ハ)可成兵役関係薄キ者又ハ応召解除者
           (ニ)尋卒程度ノ学歴アル者
   一、賃金  日収三円前後
   一、支度金  三十円支給ス
   一、宿舎   官給ス
   一、食事   官給ス
   一、渡航旅費 不要
   一、提出書類 (イ)応募者ハ身元証明書一通持参ノコト
            (ロ)採用決定ノ上ハ戸籍謄本一通提出スベシ
   一、募集締切期日並身体検査日時及検査場
     都市別   募集締切期日  身体検査日時         身体検査場
    國頭郡    四月十九日   四月二十日午前九時ヨリ  名護職業紹介所
    首里市島尻郡中頭郡 四月二十日 四月廿一日午前九時ヨリ 那覇市開洋会館
    那覇市      四月二十一日   四月二十二日午前九時ヨリ 右同
    宮古市      四月二十日      右同              右同
   一、申込所   最寄職業紹介所  町村役場」。

 上里さんは、この「南支○○島行労務者大募集」に応募したのではないかと思います。
 具志川市史編さん委員会編『具志川市史 第四巻 移民・出稼ぎ 論考編』(2002年3月、具志川市教育委員会発行)巻末年表の1940年4月の項に、「佐世保海南建築部が南支那方面行きの軍需労務員若干名を名護と那覇で募集〔琉新〕」と書かれています。
                                             佐藤正人

コメント

沖縄で 2

2012年06月24日 | 個人史・地域史・世界史

 6月22日朝、沖縄読谷村と嘉手納町の間を流れる比謝川の河口北岸(読谷村渡具知)に残っている日本海軍の震洋(「特攻艇」)の基地跡に行きました。
 沖縄県立埋蔵文化財センター編『沖縄県戦争遺跡詳細分布調査. Ⅱ(中部編)』 (2002年3月)には、「当時この場所は立入禁止となっていたため特攻艇が何隻収納されていたかは不明。また、実際に秘匿艇壕が使用されたのかも定かではない」と書かれています。同書には、「比謝川河口に面して4ヶ所確認できる」と書かれていますが、わたしが見ることができた洞窟は3本でした。
 当時から渡具知に住んでいた松田菊成さん(1936年生)は、
     「わたしの家の倉庫には、20人ほどの朝鮮人が寝泊りしていた。あの人たちは、
    毎日どこかに働きに行かされていた。どんな仕事をさせられていたかは、わから
    なかった。家の前で炊事をしていた。玄米の“おじや”みたいなものを食べていた。
    他の家の納屋にも朝鮮人がたくさん住んでいた。日本軍の命令で納屋をあけわ
    たしたのだ。アメリカ軍に空襲されたとき、わたしといっしょに防空壕に入った朝
    鮮人が“アイゴー チュッケッタ”と言ったのを覚えている。外にいるとき、アリラン
    を歌うのを聞いたこともある。当時、わたしは小学生だったが、学校の校舎には
    日本兵が住んでいたので、授業は木の下でうけた。アメリカ軍が上陸して来るま
    えにわたしは家族と国頭のほうに逃げた。戻ってきたときには朝鮮人はいなか
    った」
と話しました。読谷村(当時は、読谷山村〈ゆんたんざむら〉)や嘉手納町(当時は、北谷村の北部)に強制連行されていた朝鮮人が、どのような労働をさせられていたかは、ほとんど明らかにされていません。

 6月22日夕刻から、沖縄恨(ハン)之碑の会が主催する読谷村で開かれた沖縄戦で犠牲となった朝鮮人を追悼する集まりに参加しました。
 はじめ、瀬名波の「恨之碑」の前で、参加者全員が黙祷し、献花し、2004年初めから読谷村に住んでいる兪渶子さんが読経し、下関から来た李陽雨さんが歌をささげました。李陽雨さんは、昨年11月26日の李基允さんと相度さんを追悼するつどいのときと、11月27日の紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼するつどいのときに、追悼の歌を歌ってくれていました(このブログの2011年11月26日の「李基允さんと相度さんを追悼するつどい」、11月27日の「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼するつどい」、12月7日の「第4回紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集会の報告」、12月10日の「李基允さんと相度さんを追悼する18回目のつどい」を見てください)。
 「恨之碑」の前での追悼のつどいのあと、座喜味の読谷村文化センターで、李陽雨さんのコンサートと交流会が開かれました。
 1999年8月に韓国慶尚北道英陽郡に沖縄に強制連行された朝鮮人を追悼する「한의 비석〈恨の碑〉」(태평양전쟁.・오키나와전 피진발자 한의 비석〈太平洋戦争・沖縄戦被徴発者恨の碑〉)が、2006年5月に読谷村に沖縄に強制連行された朝鮮人を追悼する「恨之碑」(太平洋戦争・沖縄戦被徴発朝鮮半島出身者恨之碑)が建立されました。
 いまなお、日本軍の「軍夫」・兵士として沖縄に強制連行された朝鮮人の人数も、沖縄で命を失わされた朝鮮人の名も明らかにされていません。
                                              佐藤正人

コメント

沖縄で 1

2012年06月23日 | 個人史・地域史・世界史

 6月19日に、那覇市歴史博物館で、沖縄戦と「慰安婦」展実行委員会主催(那覇市共催)の展示会「沖縄戦と日本軍“慰安婦”」(6月15日~27日)を見ました。会場で出会った、沖縄戦と「慰安婦」展実行委員会の浦崎成子さんは、“このような展示会を開くまでに、1992年に沖縄の「慰安所マップ」をつくってから20年かかった”、と話しました。20年間の持続的な「調査」に基づく充実した展示でした。
 「沖縄戦と日本軍“慰安婦”」と同時に開催されている企画展「あれから40年 OKINAWAから沖縄へ」には、1972年5月15日の日本政府主催の「沖縄復帰記念式典」の日に、祖国」復帰協議会が5・15県民総決起大会のあとおこなったデモの写真が展示されていました。それは、「ベトナム侵略戦争反対  5・15を屈辱の日として斗おう」と書かれた横断幕を掲げて行進するデモ隊の写真でした。
 きょう(6月23日)、沖縄県平和祈念資料館に行きましたが、そこにも5・15県民総決起大会後の写真が「復帰当日雨をついて行われた「5・15県民大会」は、そのままデモ行進へとなだれ込んだ」という説明かつけられて展示されていました。その写真の前面には、「沖縄処分抗議・佐藤内閣打倒5.15県民大会」、「自衛隊配備反対 軍用地契約拒否 基地撤去 安保破棄」と書かれた横断幕が写っていました。当時、沖縄県祖国復帰協議会は、「祖国復帰」を、新たな「沖縄処分」だと判断して抗議していました。
                                         佐藤正人

 

コメント

上告までの経過 2

2012年06月22日 | 紀州鉱山

2012年1月30日 控訴理由書を、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員5人
        の原告が、名古屋高裁にだす。
2012年2月2日付 熊野市、名古屋高裁に「答弁書」をだす。
2012年2月28日付 熊野市、名古屋高裁に「準備書面1」をだす。
2012年4月2日 韓国慶尚北道議会議員団が、議会の決議を経て、公式に来日。
2012年4月3日 慶尚北道議会議員団が熊野市を訪れ、熊野市議会議長に追悼碑敷地
       の課税撤回と紀州鉱山で亡くなった韓国人にかんする真実糾明を求める。
2012年4月4日 慶尚北道議会議員団が三重県を訪れ、三重県議会議長に追悼碑敷地
       の課税撤回と紀州鉱山で亡くなった韓国人に対する真実糾明を求める。
2012年4月4日付 三重県、名古屋高裁に「控訴答弁書」をだす。
2012年4月10日 熊野市を被控訴人とする第1回控訴審(口頭弁論)。担当裁判
        官:名古屋高裁民事3部長門栄吉裁判長、内田計一裁判官、山崎
        秀尚裁判官。短時間の後、裁判長(名古屋高裁民事3部)、「これで
        弁論終結」という。控訴人、ただちに裁判官全員を忌避。
2012年4月12日 紀州鉱山の真実を明らかにする会の控訴人、名古屋高裁民事
        3部の担当3裁判官を忌避するつぎのような申立理由書をだす。
            長門栄吉裁判長、内田計一裁判官、山崎秀尚裁判官は、控
           訴人からの証人申請を却下し、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を
           追悼する碑の建立地の現場検証の要請も拒否し、熊野市の「準
           備書面1」にたいする原告の反論の機会をまったく奪い、ほとん
           ど実質審理をしないで、1回の口頭弁論だけで審理終結を図ろう
           とした。
            このことは、控訴人の弁論の機会を奪って、朝鮮人を強制連行
           して過酷な労働を強制し多くの命を奪った歴史的事実を明らかに
          することを妨げ、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の建立
          地の公共性を否定する被控訴人の不正義を明白にする機会を奪う
          ものである。また、紀州鉱山で亡くなった16人の英国人捕虜が埋め
          られていた英国人墓地には、文化財指定するほどの公共性を認め
          て、同じ紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する土地に対しては公
          性がないとする重大問題を審理することなく、審理を終えようとした。
            このような裁判官は裁判の公正を妨げ、社会正義の実現を阻む
          ものであるので、裁判官忌避の理由に該当する。よって、裁判官忌
          避を申立てるものである。
2012年4月17日付 名古屋高裁民事部の3部の裁判官(長門栄吉、内田計一、山崎
          秀尚)にたいする原告の忌避申立を、名古屋高裁民事部の4部の裁
          判官(渡辺修明、榊原信次、末吉幹和)が「却下」。
2012年4月18日 三重県を被控訴人とする第1回控訴審(口頭弁論)。担当裁判官:名
         古屋高裁民事4部渡辺修明裁判長、嶋末和秀裁判官、末吉幹和裁判
         官。短時間の後、裁判長、「これで弁論終結」という。控訴人、ただち
         に裁判官全員を忌避。
2012年4月23日付 紀州鉱山の真実を明らかにする会の控訴人、名古屋高裁民事4
         部の担当3裁判官を忌避する申立理由書をだす。
2012年4月23日付 名古屋高裁民事部の3部の裁判官忌避却下にたいし、最高裁に
        特別抗告状、名古屋高裁に抗告許可申立書をだす。
2012年5月9日 河上敢二熊野市長から、5月7日付けの2012年度固定資産税納税通
        知書が、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の敷地の土地登記
        名義人である紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員5人に送られてくる。
2012年5月24日 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の敷地の登記人である5人
        の会員の名で、熊野市長に、2012年度固定資産税免除を文書で要求。
2012年5月30日付 熊野市長、2012年度固定資産税の「減免不承認通知」(熊税第
        495号)をだす。「減免不承認の理由」は「申請のあった固定資産に、公
        共性が認められないため」というもの。
2012年6月7日 
    午前11時 紀州鉱山の真実を明らかにする会、名古屋高裁の判決に抗議して
         出廷・傍聴しないと声明。
    午後4時 名古屋高裁長門栄吉裁判長、対熊野市控訴審判決(津地裁判決を
         持し、控訴を棄却)。
2012年6月18日 紀州鉱山の真実を明らかにする会、対熊野市控訴審判決について
        最高裁に上告。

コメント

上告までの経過 1

2012年06月21日 | 紀州鉱山

2009年7月10日 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑建立のために、熊野市紀和町
         の鉱山資料館(旧、石原産業紀州鉱業所本社跡)のななめ前の土地
         214.24㎡を購入。
2010年3月28日 追悼碑序幕集会。
2010年5月6日 熊野市、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の敷地に固定資産
         税を課税。
2010年6月2日 紀州鉱山の真実を明らかにする会の減免申請を、熊野市は「公共性な
         し」として「減免不承認の決定」。
2010年11月2日 三重県、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の敷地に不動産取
         得税を課税。
2011年3月18日 紀州鉱山の真実を明らかにする会、熊野市を被告とし、不当課税と減
         免不承認にたいして津地裁に訴訟提起。
       論点。
          ①追悼碑建立の土地は公共性がある。
          ②「英国人墓地」には「文化財指定」をして公共性を認め、朝鮮人を追悼
          する碑の土地には公共性がないとすることは、民族差別である。
          ③朝鮮人を紀州鉱山に強制連行し強制労働させた歴史に加担した自
          治体である熊野市が、追悼碑の土地に固定資産税を課すことは、その
          歴史的責任を取ろうとしていないことである。
2010年3月18日 紀州鉱山の真実を明らかにする会、三重県を被告とし、不当課税と減
          免不承認にたいして津地裁に訴訟提起。
       論点。
         ①朝鮮人を追悼する碑の土地には公共性がある。
         ②紀州鉱山への朝鮮人強制連行に三重県知事が加担していたことは           
         1945年4月の「三重県知事引継書」が示している。三重県知事がその歴
         史責任を自覚し、追悼の場の公共性を認め、減免措置を講ずるのが当
         然。
         ③三重県は「三重県税務規則」に定められた業務をおこなわなかった。
2011年8月4日 熊野市を被告とする地裁訴訟の第1回口頭弁論。
2011年8月4日 三重県を被告とする地裁訴訟の第1回口頭弁論。
2011年9月29日 熊野市を被告とする地裁訴訟の第2回口頭弁論。裁判長、とつぜん
         「弁論終結」と言う。
2011年9月29日 三重県を被告とする地裁訴訟の第2回口頭弁論。裁判長、とつぜん
         「弁論終結」と言う。
2011年12月1日 熊野市を被告とする訴訟で原告の請求を棄却するという判決(課税
         処分は適法とし、減免不承認処分については、紀州鉱山で亡くなった
         朝鮮人を追悼する土地に「公益」は、認められないとした)。
2011年12月1日 三重県を被告とする訴訟で原告の請求棄却の判決。
2011年12月12日 紀州鉱山の真実を明らかにする会、名古屋高裁に控訴。

コメント