三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

2011年3月2日 3

2011年03月31日 | 海南島
 「横鎮四特戦闘詳報第五号」には、龍衛新村を襲撃した横須賀鎮守府第4特別陸戦隊第2大隊第2警備中隊第7小隊の「戦闘経過」がつぎのように書かれています。

 「1030 各組一挙ニ部落内ニ突入ス
       東側ヨリ突入セル第一組ハ路傍ニ腰ヲ下シ婦女子ト談笑中ノ共匪七名ヲ
      発見隠密裡ニ接敵二〇米ニ至ルヤ敵ハ皇軍タルコトヲ察知密集セル家屋ノ
      間ヲ逃走セリ組長(通天分遣隊長)ハ直ニ部下一名ヲ附近屋上ニ見張セシ
      ムルト共ニ部下二名ヲ率ヒ追跡スルモ遂ニ及バズ逃走セル敵ハ部落西北方
      城壁脇ノ家屋ニ遁入セルヲ目撃セシ見張員ノ報告ニ依リ第一組長以下五名
      ハ該家屋ヲ包囲セントスルヤ同家屋内ヨリ二名脱出セリ依テ直ニ追撃セル
      モ遂ニ逸ス
       第二組ノ来援ヲ待チツツ家屋ヲ厳重監視ス
  1040 南入口ヨリ突入セル第二組ハ第一組ノ発砲ニヨリ急遽同方面ニ進出部落
      外ニ逃走セントスル二名ヲ認メ追撃セシモ部落外西方密林中ニ逸ス
  1055 第一第二組ハ合同家屋内ニ突入綿密ナル屋内検索中西側隅約一米四方
      ノ板ヲ取除クヤ入口約八〇糎深サ約二米ノ稍傾斜セル煉瓦積ニ依ル地下
      室ヲ発見内部ニ人ノ気配アルヲ認ム
  1100 附近ヨリ茅ヲ蒐集シ内部ニ向ケ煙攻ヲ開始ス
  1105 城壁裏雑草中ニ三条ノ煙上リタリ依テ換気口ナルヲ発見ス
  1125 燃エ終ルヤ突如内部ヨリ煙ニ咽ビ乍ラ一名飛出セルヲ逮捕シ訊問ノ結果
      未ダ地下室内ニ四名(拳銃一手榴弾三ヲ所持)潜在シ居ルヲ自白セリ
  1140 再ビ煙攻ヲ開始スルト共ニ部落民ヲシテ上部ノ土ヲ除去シ天井板ヲ露出セ
      シム
  1155 内部ニ爆発音アリ天井板ヲ剥ギタルニ爆死体四ヲ認メ拳銃一同弾六軍票
      五〇〇円書類多数ヲ鹵獲ス
  1300 徒歩警戒行軍ニテ帰途ニ着ク」
                                  佐藤正人
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2011年3月2日 2

2011年03月30日 | 海南島
 「横鎮四特戦闘詳報第五号」の「戦場ノ状況」と題する個所に、つぎのように書かれています。

 「海岸線ヨリ東方1粁ニ位置スル部落ニシテ戸数約80戸人口約300ヲ有シ農業ヲ主トスル一寒村ナリ
 周囲ハ高サ1乃至2米巾約2米・潅木ニヨル二重垣ヲ以テ防壁トナシ東西南ノ三方ニ出入門ヲ有シ部落西北ノ一部ニ高サ約2米ノ石造城壁アリ」

 横須賀鎮守府第4特別陸戦隊第2大隊第2警備中隊は、住民300人ほどの村を「戦場」と規定して、襲撃しました。「横鎮四特戦闘詳報第五号」には、「任務」として、つぎのように書かれています。

 「龍衛新村ニ潜入シ赤化宣傳工作ニ暗躍シツツアル共匪特務工作員ヲ捕捉殲滅シ以テ治安確立ヲ期スルニ在リ」

 「横鎮四特戦闘詳報第五号」によれば、第2大隊第2警備中隊第7小隊の11人が2組に分かれて村を襲撃したのは、3月2日午前10時30分でした。
                                     佐藤正人
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2011年3月2日 1

2011年03月29日 | 海南島
 日本軍は、陸軍も海軍も日本国内に「功績調査部」を設置していました。日本軍にとっては、他地域・他国に侵入し、そこで住民虐殺、略奪、村落破壊……をおこなうこともまた「功績」でした。
 アジア太平洋の各地で侵略犯罪をおこなった日本軍の各部隊は、その侵略犯罪の内容を、「功績」にふさわしいように脚色して、功績調査部に報告しました。
 海南島で侵略犯罪をくりかえしていた日本軍の諸部隊の「功績」の報告書の一部分が、防衛研究所図書館で公開されています。
 そのなかの海軍功績調査部『大東亜戦争功績調査資料綴』に「横鎮四特戦闘詳報第五号」、「横鎮四特戦闘詳報第六号」、「横鎮四特戦闘詳報第七号」、「横鎮四特戦闘詳報第八号」などが含まれています。
 これらは、海南島侵略日本海軍の横須賀鎮守府第4特別陸戦隊司令部が海軍省功績調査部長に提出したものです。
 「横鎮四特戦闘詳報第五号」は、「1945年3月2日龍衛新村ノ戦闘」(原題は、「元号」使用)と副題がつけられ、軍極秘文書(「横四特陸機密第二六号ノ五」)として、1945年4月15日に送付されています。
 この文書は、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊第2大隊第2警備中隊が作製したもので、1945年3月2日に、海南島感恩県龍衛新村を襲撃したときの「戦闘詳報」です。
 そこには、「敵情」として、つぎのように書かれています。

 「共匪独立総隊第2支隊長符振中ハ約300名(装備軽機小銃拳銃手榴弾多数)ヲ率ヒ長坡村(通天90度、約7粁)方面ニ蟠踞シ「我等ノ盟邦米英軍ノ本島上陸近シ」ノ傳單ヲ附近一帯部落ニ撒布スルト共ニ各地ニ特務工作員ヲ派シ凡有虚構宣傳ヲ以テ抗日思想ノ普及和平地区民心ノ攪乱ヲ策シ漸次之ガ活溌化ノ徴アリ」

 この文書によると、この村を襲撃したのは、第2大隊第2警備中隊第7小隊長猪瀬正信(日本海軍1等機関兵曹)ら11人で、全員が「便衣」を着ていました。
                                    佐藤正人
 
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沙土の欽帝村で 6

2011年03月28日 | 海南島
 3月6日に欽帝村で王世杰さんは、
    「あの日、双子のあかんぼうを抱いて女性が逃げたが、殺されてしまった。あか
   んぼうは、生まれて1か月くらいだった。
     父親も殺されており、乳を飲ませる人もおらず、生きていけないので、村人が、
   母親といっしょに埋葬した」
と話しました。
                                 佐藤正人
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沙土の欽帝村で 5

2011年03月27日 | 海南島
 2003年8月20日に新華網が「目睹大屠殺 八旬老人痛訴日軍在瓊犯下罪行」を配信してから2年後の2005年8月15日に、聖眼村の近くの墓地に「史証碑」が建てられました。
 その碑文の全文は、つぎのとおりです。

  槍声遠去笑声欣、時尚新潮世尚仁。
  血鋳沙土千古恨、碑留史証告来人。
  一九四一年夏、国軍臨高県遊撃大隊長黄坤新率部、于沙土海域截取了日僞軍西路総指揮林桂深営運的貨船、並殺死押運人林桂深之仔林明成。林便誣沙土人民所為、逐勾結日軍,同年閏六月十二日払暁時分、日軍二百多人、従那大、新盈、包岸等地分乗十部汽車、長駆直入沙土峒、旋即包囲了昌堂、美梅、那南、北山、昌表、上帝、聖眼、文旭、福留、欽帝等村庄。以検査「良民証」為名、強聚群衆、行槍射、刀砍、剣戮、奸殺、生埋之凶。僅両個時辰、就殺了男女老幼一千一百一十九人。后又両次来犯、再殺無辜両二百余人、焼毀民房五十八間、漁船一百多条、掠搶耕牛六百多頭。這就是瓊島史上惨絶人寰的「沙土惨案」。如此的腥風血雨、鉄証着侵瓊日寇的罪悪、銘刻着沙土人民的冤怨。特立此碑、永志不忘。
  橋頭鎮人民政府   公元二〇〇五年八月一五日

 この碑文に示されていることは、1995年ころ発表された温家明・温明光口述「血海深仇 永不忘懐(侵瓊日軍制造“沙土惨案”実況)」の記述の内容と同じです。
 「血海深仇 永不忘懐」には、欽帝村でのこととして、つぎのように書かれています。

  欽帝村幼儿王徳林(現県農業局幹部)母親生了一対双胎的弟弟、父母被殺后村人用箩筐将其吊在母親的墓傍、祈求路過的行人収留撫養、但外人哪敢行進鬼門関? 結果这対嬰儿活活餓死在箩筐里。

 3月6日に欽帝村で王徳林さんに会ったとき、わたしは、この記述に触れませんでした。王徳林さんも話しませんでした。
                                    佐藤正人
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3月18日の提訴を伝える新聞記事

2011年03月26日 | 紀州鉱山
 3月18日に紀州鉱山の真実を明らかにする会が三重県と熊野市を被告として提訴したことを伝える新聞記事(3月19日朝刊)です。

■追悼碑土地へ課税不当 取り消し求め県市提訴 熊野市の市民団体
                                     『伊勢新聞』
 熊野市紀和町の旧紀州鉱山で戦時中に死去した朝鮮人労働者を悼む追悼碑をめぐり、建設地の不動産取得税と固定資産税が課せられたのは不当として、土地所有者の市民団体「紀州鉱山の真実を明らかにする会」(金靜美事務局長)の五人は一八日、県と熊野市を相手取り、課税の取り消しを求める訴訟を津地裁に起こした。
 訴状によると、同会は二〇〇九年七月、同町板屋の二百十四平方㍍の土地を会員五人の名義で取得し、碑を建立。県から同年十一月に不動産取得税二万六千三百円、同市から昨年五月に固定資産税一万六千二百円を課税され、碑の「公共性」を各税の減免を求めたが、いずれも拒否されたとしている。
 原告の五人は十八日に津市内で記者会見し、竹本昇さん(六一)は「追悼碑には大いに公共性がある。明らかな民族差別で、社会正義の欠ける不当な課税だ」と話した。
 県は「個人の取得かつ県の減免規定に該当しないため、課税は正当」とし、同市は「訴状の内容を見ていないのでコメントできない」としている。
  【写真】会見する原告ら=津市で

■紀州鉱山の追悼碑  民有地課税減免を 県など市民団体提訴
                             『中日新聞』三重版
 熊野市紀和町の紀州鉱山で太平洋戦争中、強制労働に従事して亡くなった朝鮮人の追悼碑を建てるために、購入した民有地への不動産取得税と固定資産税の減免分など約四万四千円が認められなかったのは不当だとして、市民団体のメンバーらが県と熊野市に課税賦課処分の取り消しなどを求める行政訴訟を十八日、津地裁に起こした。
 提訴したのは、歴史研究家らでつくる「紀州鉱山の真実を明らかにする会」。二〇〇九年七月に民間の土地を購入し、慰霊碑を建てた。県と市の納税通知に「強制労働は行政が加担した行為。犠牲者を追悼し、謝罪することは公共性がある」として不動産取得税などの非課税や減免を主張して審査請求したが、県は一〇年十月、市は同九月に棄却した。

■課税取り消しを求め提訴
     『朝日新聞』三重版
 熊野市紀和町の旧紀州鉱山跡地近くの朝鮮人追悼碑が立つ土地について、紀州鉱山の真実を明らかにする会(金静美事務局長)の原告5人が18日、県などに土地の不動産取得税取り消しと強制徴収された税金2万8千円の返還を求め、津地裁に訴訟を起こした。
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沙土の欽帝村で 4

2011年03月25日 | 海南島
 王徳林さんは、祖父と両親が殺されたところに連れていってくれました。
 村はずれの小道をたどって樹木がまばらに生えているところにきて、王徳林さんは、立ち止まり、ここだ、といいました。そして、祖父が倒れていた地点、母の遺体を見つけた地点を示しました。そのあたりには、10人ほどの人が倒れており、銃で撃たれて殺された人も、銃剣で刺されて殺された人もいたそうです。
 その近くに石でつくられた家がありました。その家は、当時もあったとのことでした。石組みのしっかりした家で、人は住んでいませんでした。その家の前から、虐殺現場が見えました。
 そのあと、王徳林さんたちが、逃げて隠れた地点に案内してもらいました。
伺堂の前の道を右にそれ、大きな樹木の間をぬけたところに細い竹が密集している竹林があり、数百メートルかなたに海(沙土湾)が見えました。その竹林の奥に隠れたそうです。当時は、いまより竹林の地面が低く、水があふれていたそうです。
 王徳林さんと別れて村に入っていくと、日本兵が機関銃で村人を殺害した現場から近い自宅そばの豚小屋の前で、王徳信さん(1954年生)は、「兄が日本兵に腹を切られてまもなく死んだ、腹から腸が流れ出していたと、父から聞いた。父は銃剣で3回刺されたが生き残った。母はそのとき村にいなかったので助かった。姉は日本兵に強姦されて殺された」と話しました。

 日本政府は、海南島沙土での日本政府と日本軍の犯罪記録を公開していません。当時、沙土地域を占領していたのは、日本海軍舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の部隊でした。
 海南島においても沙土虐殺にかんする記録・報告は、わずかです。いちばんくわしいのは、澄邁県政協文史資料委員会が1995年ころ編集発行した『澄邁文史』第十期(『日軍侵澄暴行実録』)に掲載されている、温家明・温明光口述(曾憲富、呉可義、雷登華整理)「血海深仇 永不忘懐(侵瓊日軍制造“沙土惨案”実況)」です。
 2003年8月20日に新華網は、沙土虐殺にかんする「目睹大屠殺 八旬老人痛訴日軍在瓊犯下罪行」と題する記事を配信しました。そこには、つぎのように書かれていました。
                                     佐藤正人

  1941年6月,海南澄邁縣橋頭鎮沙土村一帶的10個村莊中1116人喪生在日偽軍的屠刀下。聖眼村現年84歲的溫明光老師被砍了17刀後死裡逃生。為了記下日本鬼子在海南犯下的滔天罪行,當年的溫明光老師將鬼子所欠下的債一筆一劃地記了下來,並一直保留在身邊。近日,為教育後代勿忘國恥,溫老翻開了那塵封了62年的記載著日本鬼子所欠中國人民血債的本子,流淚向記者講述了當年他所目睹的大屠殺經過,希望媒體將之公諸於世。
■禍起偽軍百姓遭殃
  溫老對記者說,日本鬼子侵略中國,海南島淪陷時期,臨高縣新盈港有個大漢奸叫林桂深,是全島偽軍的總司令。1941年春節前,林桂深為了發財,經常用一艘大帆船載滿本地特產經海口出售,再從海口市辦貨回新盈。這樣來來往往終被當地的國民黨軍察覺,便派幾艘快帆船滿載兵丁,將林桂深大船上的貨物搶劫後並將大船沉到了大海裡而後返回聖眼灣(今名太陽灣)。
  溫老回憶說,當時,洗劫大船的兵丁中有一個臨高人,因為分贓不平,便私自逃回臨高,投入林桂深部下,當起了偽軍排長。為了立功,就把搶劫大船的經過全部告訴了林桂深。林桂深為了報自己的大船被劫之仇,即向新盈日本司令報告,稱搶劫大船的盜賊全駐在澄邁沙土一帶,要求日本司令派兵剿滅。這下日本鬼子找到了掃蕩的借口,遂立即出兵,進行清剿。
■奸殺婦女刀砍青年
  1941年農歷閏六月十二日上午,鬼子偽軍約600人從海陸兩路把沙土沿海一帶十個村莊包圍起來,隨即展開了一場大屠殺,“那場面真慘啊”,幾十年過去了,溫老想起那血腥的場面,仍腿腳發顫。
  溫老激動地說,鬼子殺人的方式多種多樣,並且在各個村莊裡實施的屠殺方式都不同。鬼子偽軍到一些村莊時,先把村裡的人民群眾集中起來,選擇青年婦女進行強奸,然後用刺刀刺進婦女的陰道,慢慢地弄,直到弄死為止。弄死了婦女後,再對全村的群眾進行殺戳,直到殺死為止。在有一些村莊則是把全村的人集中起來,先把體強力壯的青年用繩子縛實,強迫跪下,再由鬼子隊長拿大刀一個一個地斬頭,斬一個,鬼子就鼓一次掌。
■假言開會集中掃射
  溫老接著說,日本鬼子當時把有些村莊的男女老少集中起來,分到幾個庭院,強迫這些人全部面向土牆跪著,每人後面站著一個端著刺刀的鬼子,鬼子首長一聲令下,鬼子手中的刺刀就一直刺向每個村民的背心,一直刺到沒人顫動為止。有時都把全村的人關入房內,前後門口都站著幾個拿槍的鬼子,再由鬼子隊長和通日官拿戶口冊點名,兩人一次地驗證。鬼子隊長騙人說是交出良民證放回家,其實,這些村民一走出房門,即有另外4個鬼子接過去拖到別處刺死,這樣兩人一次地殺死,全村的人死完了也不知道。
  說到這裡,溫老已經老淚縱。他說,更讓人心顫的事,日本鬼子在有的村莊把全村人集中起來,到庭院坐好,假言開會,人到齊後即用機關槍掃射,直到人死完為止。
■孩子當靶子老人當球踢
  溫老痛哭道,當時日本鬼子進村時,遇到小孩,竟用刺刀穿起來向天空旋轉,然後用力拋出去,一聲聲慘叫震驚村莊。更讓人痛心的是,日本鬼子竟把老人當球踢,你一腳踢來,我一腳踢去,如同踢足球一般,一直到老人斷氣為止。
  當日本鬼子把10個村莊的人殺光後,便到田野外面和海邊進行搜尋,把抓到的人押到漁船上集中,然後拿起機槍掃射,再鑿穿船底,把船沉到海裡。
■一日內殺死1116人
  當記者問這次大屠殺中,這10個村莊的死亡人數時,溫老顫抖著手從箱中拿出了一個記事本,那上面有溫老對這次大屠殺的死亡人數記錄,記者現把溫老記載的死亡人數公布如下:昌堂村147人,美梅村45人,那南村52人,昌表村62人,北山村158人,上帝村2人,聖眼村256人,文旭村62人,福留村265人,欽帝村67人。
  不到一天的時間,日本鬼子就在沙土這一帶的村莊殺害了1116人,傷者不知其數。其中的聖眼村中有45戶被滅絕,真是慘無人道。日本鬼子殺戮完後,在外逃命的村民還久久不敢回家;沙土一帶臭氣衝天,鬼哭狼嚎。
■身砍17刀死裡逃生
  據溫老回憶,大屠殺的那一天,他正在聖眼村的學堂中教書,當時學校裡面有60個小學生。突然,一批日本鬼子從外面湧進來,將學生關在一間房內,然後將老師用馬刀猛砍,他身中17刀後倒在血泊之中,鬼子踢了他幾腳,以為他死了,就離開了。然後將關在房中的60名小學生全部用馬刀殺死,鮮血染紅了整個學校。
  過了一天後他堂哥從外面回來,看到他還在動,就把他抱到山上,用酒洗傷口,找草藥治療,慢慢他竟奇跡般地活了下來。他傷還未好,就到各個村莊找幸存者了解這次大屠殺的情況,用心記錄了這段泣血的歷史。
■四個月後再次掃蕩
  10個村莊1116人死去還不到4個月,鬼子又再次將沙土一帶的13個村莊包圍,好在村民跑得快,死傷不多,但損失卻慘重。
  溫老說,同年農歷10月中旬的一天夜晚,花場偽會長漢奸王希智引金江的鬼子和偽軍,纔芳村、馬村的鬼子一同把沙土13個村包圍得水洩不通,這次來的鬼子見人就殺,見物就搶,把沙土各村的牛、羊、豬、雞、鴨、鵝、金銀衣服布匹等一律搶光,屋內的缸、鍋、碗、盤通通打碎,然後放火燒屋。小美良村燒得最慘,一片瓦片都沒留下,木春村和富裡村也燒去70%以上。所存下的房子都是鬼子走後,村民回來從大火中搶過來的。
  這次鬼子在富裡村打死6人,在聖眼村打死8人。
■重溫歷史勿忘國恥
  講完62年前這慘烈的一幕,年邁的溫老已是老淚縱,他說,為了讓後代了解當年恥辱,他從前經常到澄邁的各學校講述這段歷史。
  現在自己老了,而當時見證這段歷史的人活在世界上也已經不多,為了讓後代“勿忘國恥”,作為歷史的見證人首先想到的是將這段歷史形成文字,教育子孫後代,銘記於人們心裡。
  
  【写真】溫明光老人給記者翻看記錄著日軍血債
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沙土の欽帝村で 3

2011年03月24日 | 海南島
■王徳林さん(1931年生)の証言
 3月6日朝10時過ぎから1時間ほど王世杰さんに話を聞かせてもらったあと、王世杰さんが機関銃を向けられた現場に案内してもらいました。
 そこは、村の中心から200メートルほど離れた伺堂の前でした。石造の伺堂とその周りの囲いの石の壁は、ほぼ当時のままだとのことでした。この日はちょうど村の土神の祭日で、供え物が置かれ、ろうそくの火がともされていました。王世杰さんから当時のことを話してもらっているとき、爆竹が鳴らされました。
 そのとき、とつぜん、王徳林さんが来て、当時日本兵が機関銃を置いたあたりに走って行き、わたしたちに日本兵がどのように年寄りや子どもたちを殺そうとしていたかを、身体で示してくれました。
 王徳林さんは、つぎのように話しました。
                                      佐藤正人
 
 ここに、日本兵は、年寄りと女の人と子どもを3列に並ばせた。前列は年寄り、2列目は女の人、3列目は子ども。
 日本兵は腹ばいになって機関銃を撃った。そのそばで小銃を持った日本兵は立って撃った。撃たれた後も生きていた年寄りを銃剣で刺して殺した。
 わたしは、王世杰さんたちといっしょに逃げた。妹も逃げたが、小銃で撃たれて殺されてしまった。
 竹やぶの間に隠れた。しばらくたってから、イ、ウォ、サン、シと言いながら、日本兵は去って行った。午後3時ころだったと思う。
 まもなく、遠くの村のほうから銃の音が聞こえた。
 日本兵がいなくなってから、家族をさがした。
 父(王世桐)の遺体を見つけた。背中から撃たれて殺されていた。祖父(王元享)は父から20メートルほど離れたところで殺されていた。母(王氏)の遺体はそこからすこし離れたところにあった。
 わたしの家では、祖父、父、母、妹2人、伯父(父の兄)、伯父の妻、叔父(父の弟)2人、ぜんぶで9人が殺された。
 その後も、日本兵はなんども村に来た。井戸端で洗濯している女性を強姦してから殺したこともあった。その井戸はいまも残っている。
 両親が殺されてから、生きていくのに苦労した。牛の糞を拾って乾かして売ったりして暮らした。
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沙土の欽帝村で 2

2011年03月23日 | 海南島
■王世杰さん(1932年生)の証言
 日本兵が来たとき村人は出迎えてあいさつをした。はじめ日本兵は子どもたちには優しくした。逃げた村人は少なかった。村に来た日本兵は50ほどだったと思うが、はっきりはわからない。暑い日の昼間だった。
 この村に住んでいたのは130人ほどだった。そのうち、76人が殺された。わたしの家族は、あのとき、みんな家にいた。
 日本兵は、子どもや年寄り以外の村人を集め、3人をどこかに連れて行き、戻ってはまた3人を連れていった。そのようにして、日本兵は3人ずつ村人を殺していった。そうしないと、村人が抵抗すると考えたのだろう。音がする銃ではなく、銃剣で刺し殺された。刺されても生き残った人もいた。逃げた人もいた。
 わたしの父(王元興)は30歳あまりで、母(呉氏。橋頭の人)は30歳になっていなかった。父と母も連れていかれて殺された。母は妊娠していた。
 わたしと7歳の妹(王不昌)と5歳の妹王不恒)の3人は、村はずれの伺堂の前の小さな広場に連れていかれた。村の子どもや年寄りは、みんな、そこに集められた。
 年寄りが前列に並ばされ、後ろに子どもたちが2列に並ばされた。
 伺堂の横の大きな樹のそばの地面に機関銃が置かれ、そのそばに小銃を持った日本兵が立った。
 機関銃の後ろに腹ばいになった日本兵が発射し、前列の年寄りたちが撃たれて殺された。2列目の人たちが撃たれはじめたとき、機関銃の弾丸がなくなった。日本兵が弾丸をこめているすきに、わたしはみんなに逃げようと声をかけて、逃げた。6~7人が逃げた。逃げた1人が頭を撃たれて何日かたってから死んだが、あとは助かった。小道を走りぬけて竹やぶの奥を通って田んぼの水草の陰に隠れた。ヒルに血を吸われたが、じっとしていた。 
 日本兵は、狭い竹やぶの間を通りぬけることができなかった。
 妹2人も逃げて助かった。しかし、上の妹は、次の年に海でおぼれて死んだ。
 日本兵がいなくなってから、父と母を捜した。遺体を見つけた。わたしは子どもだったので、生き残った村の人たちが埋葬してくれた。
 父も母も殺されたので、食べていくことができなかった。海岸沿いに歩いて臨高まで行って、物乞いしながら生きた。4年くらいたってから村に戻った。
 殺された76人の名前は、記録されていない。これからわたしがひとりずつ確かめて記録する。
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沙土の欽帝村で 1

2011年03月22日 | 海南島
 紀州鉱山の真実を明らかにする会として19回目、海南島近現代史研究会として6回目の海南島「現地調査」のとき、 3月4日と6日に、澄邁県沙土の欽帝村に行きました。
 わたしたちは、2008年10月と2009年6月に沙土をなんども訪ねました。こんどは、1年8か月ぶりの訪問でした。
 このブログに連載した2008年10月19日、12月4日~7日の「“沙土惨案”」1~5と2009年6月26日~28日の「海南島 2009年6月」の「沙土で」1~3を見てください。
 沙土には、13の村(昌堂、美梅、那南、北山、昌表、聖眼、福留、欽帝、上帝、文旭、小美良、木春、扶里)があります。
 1941年7月6日(農暦6月12日)に日本軍は、沙土の村々を襲撃しました。
 聖眼村の近くの墓地に建てられている高さ12メートルほどの「史証碑」の碑文には、1941年閏6月12日に沙土の昌堂、美梅、那南、北山、昌表、聖眼、福留、欽帝、上帝、文旭で村人1119人が殺され、さらにその後200人あまりが殺されたと書かれています。
 わたしたちは、2008年10月と2009年6月に昌堂村、美梅村、那南村、北山村、昌表村、聖眼村、福留村を訪ねましたが、今回は、福留村と聖眼村を再訪し、欽帝村をはじめて訪ねました。
 欽帝村では、侵入してきた日本兵に機関銃で射殺される寸前に逃げて生き残ることができた王世杰さんと王徳林さんに話を聞かせてもらうことができました。
                                     佐藤正人
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