三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

熊野市を被告とするあらたな裁判が7月4日に始まります

2013年04月30日 | 紀州鉱山
 3月22日に、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の敷地に課税する熊野市を被告とする新たな訴状を津地方裁判所にだしました(このブログの3月22日の「朝鮮人を追悼する場への課税に抗議するあらたな裁判闘争を開始しました」をみてください)。
 4月17日に、その裁判(口頭弁論)の最初の期日が、7月4日、午後2時からと決まりました。場所は、津地方裁判所302号法廷です。件名は、「2012年度固定資産税賦課処分及び減免不承認処分取消請求事件」です。
 きょう(4月30日)、裁判官の名が判明しました。戸田彰子裁判長、浅川啓(ひらく)裁判官、秋山沙織裁判官の3人で、裁判長は前回と同じです。
                                 紀州鉱山の真実を明らかにする会
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中国新聞社の2013年03月30日配信記事

2013年04月22日 | 海南島史研究
 紀州鉱山の真実を明らかにする会として23回目、海南島近現代史研究会の10回目の海南島「現地調査」のはじめの5日間の「調査」が終わった3月29日午後8時から10時まで、中国新聞社(中国の国家通信社)の張茜翼記者から取材をうけました。
 以下は、その翌日配信された記事です。

■日本学者捐30万日元建日侵琼罹难同胞纪念碑
  2013年03月30日 19:14 来源:中国新闻网
  http://www.chinanews.com/sh/2013/03-30/4690884.shtml
   
  中新网海口3月30日电 (记者 张茜翼)71岁的日本海南岛近代史研究会创始人佐藤正人一行日前第23次到海南岛调查日本侵琼史,向海南东方市旦场村捐赠30万日元修建日侵琼时期罹难同胞纪念碑。
  上世纪九十年代,日本国朝鲜史研究所学者佐藤正人参加日本民间组织“查明纪州矿山事实真相的自治会”,偶然得知日本侵略海南岛掠夺铁矿的情况。为追查真相,1998年6月,他和自治会会员、在日本工作的韩国学者金静美女士首次到海南。
  佐藤正人说,1998年他第一次到海南田独镇。在田独镇铁矿,他知道了万人坑的相关历史。在那之前,他都不了解日本侵琼的这段过去。“我发现了一些线索之后,回到日本进行了调查,陆续不断发现一些不明之处,所以又来到海南。”
  2007年,佐藤正人创办成立了海南岛近现代史研究会,该研究会以查明海南岛被日本占领时期(1939年2月—1945年8月)的侵略犯罪史实为研究重点。
  今年3月25日起,佐藤正人、金静美、日本大阪产业大学经济学部教授齐藤日出治再次到海南,已实地走访了东方市、昌江县10余个村庄。
  “1939年11月3日,农历9月23日,日本侵略者杀死村里93位乡亲,烧毁30多间民房,强奸4名村姑,连几个月的婴儿也不放过。” 佐藤正人回忆起去年11月到旦场村采访的情形,“5名80多岁的老阿公在村里的大榕树下,跟我们讲述当年日军侵略旦场村的暴行。”
  为了记住这段历史,旦场村一位老阿公用方言悲愤地唱出了一首长达300多行的民歌《日军惨杀旦场同胞——哀叹长恨歌》。“血血血,中国人流的血;火火火,日本人放的火……”“日本他来欺负我,打我死千又死万。人我他用机关扫,房我他用炸变塘……”
  佐藤说,15年来,他走过海南200多个村庄,采访过300多个人,但是这一次却是最难忘的。“虽然听不懂他们在唱什么,但是哀怨愤恨的曲调,听起来让人痛心,日军侵略犯罪不可饶恕。”
  听闻旦场村正在筹备建立日侵琼时期罹难同胞纪念碑,佐藤回到日本之后在研究会开展了募捐活动。“这次,旦场村的退休干部知道我来了,特意召集了村里几十位老人到东方市,再次唱起了长恨歌,诉说了当时日本人侵略旦场村的情形。老人们唱着就流泪了。”
  他拿出东方市旦场村委会、党支部3月25日写的一张收据,上书“今收到海南岛近代史研究会捐赠修建旦场罹难同胞纪念碑30万日元。”
  佐藤随身携带着《铁蹄下的腥风血雨》、《昌江文史》、《昌江革命史》、《海南文史》、《日本法西斯“三光”政策罪行录》、《东方文史》等十余本书和一张地图。在佐藤包装好的文件袋中,有两本发黄的信纸,其中一本是他走访昌江县光田村时,78岁的退休赤脚医生钟经论写的《光田村血泪史歌》。
  每次来琼调查,佐藤正人都会停留两个星期到1个月的时间,“搭乘拖拉机、摩的、三轮车在乡间来回颠簸”。10多年期间,佐藤正人和同伴们已实地调查三亚田独万人坑、石碌万人坑、“朝鲜村”、羊角岭水晶矿、日本侵琼三亚航空基地司令部、慰安所等日军侵琼遗址,走访当地乡村幸存老者。
  “为了把海南岛作为侵略东南亚,太平洋的军事基地,日军和日本企业在岛上修建机场、港口、铁路,开发矿山、电力,掠夺资源。为了压制民众反抗,日军反复进行‘Y’作战方案,火烧村子,残杀当民民众。”
  佐藤正人说,他记录收集到的资料,都发表在日本海南岛近代史研究会的会刊上,并制作成光碟,包括《海南岛月塘村虐杀》、《日本占领下的海南岛60年前如昨昔》等。“杂志不定期出刊,每次印刷2000本,在日本对外发行。”
  记者看到,杂志中刊发了《2012年秋·海南到实地调查》、《朝鲜村朝鲜人的遗骨现状》文章。“我们希望通过努力把历史交代清楚,寻找历史的真相,帮助受害的中国人民取得日本政府的道歉,并获得战争赔偿。” 佐藤正人遗憾地说,“近年海南发展很快,我每次来海南,都会发现上次看到过的历史遗址被破坏了,很多历史见证者已经陆续去世了。”
  他们将在接下来的10多天里,走访海南澄迈县、万宁市、琼海市、定安县,并到临高看望慰安妇老人。(完)
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大風村で

2013年04月21日 | 海南島史研究
 3月26日は、昌江黎族自治県十月田鎮保平村と羌園村を訪ねたあと、烏烈鎮をとおって昌化鎮大風村に行きました。
 日本軍はこの村に保塁と昌化江の対岸にわたる木橋をつくりました。このことについての何十里「大風日本保塁和木橋述略」(政協海南省昌江黎族自治県委員会文史資料組編『昌江文史』 第5輯、1993年5月)の記述については、このブログの3月17日の「紀州鉱山の真実を明らかにする会第23回海南島「現地調査」5」をみてください。
 大風村は、昌化江右岸の羌園村から10キロあまり西に下ったところにあります。昌化江に沿った道がないので、わたしたちは、いったん羌園村から北に向かい、それから西方の烏烈鎮に行き、そこから南に進んで大風村に着きました。
 大風小学校の校門前に広場があり、大きな樹が木陰をつくっていました。そこに、おおぜいの人たちが休んでいました。広場をはさんで小学校の向かいに大風村委員会の事務所がありました。
 大風村委員会副主任の鍾文強さんに、日本軍の保塁跡と木橋跡に案内してもらいました。
 大風村から西隣の耐村に向って省道311号線を数100メートル進み、大風村と耐村の境界点を左折して南の昌化江の方向に数10メートル行ったところの右側に、まばらに樹や潅木がはえている空き地がありました。その前に立って、鍾文強さんは、
   “ここに日本軍の保塁と望楼があった。望楼もあったと聞いている。わたしはいま40歳
   を過ぎたばかりだが、子どものときには、ここには何もなかった。
    大風村や耐村の村民が、石碌鉱山に働きに行かされ、伝送病にかかると生きたま
   ま焼き殺されたと聞いたことがある。わたしの祖父(母の父)も石録鉱山で焼き殺され
   た。
と話しました。
 保塁跡の空き地から昌化江の河原までは南に100メートルほどでした。
 その河原からすこし上流の地点から対岸に木橋がかけられていたそうです。対岸は、東方市三家鎮です。わたしたちは、昨年11月2日に三家鎮の玉雄村を訪問していました(このブログの2012年10月13日の「ことし秋の海南島「現地調査」5」、11月2日の「2012年秋の海南島「現地調査」4」をみてください)。

 その後、大風村の広場にもどって、そこにいた郭仁愛さん(81歳)に話を聞かせてもらいました。郭仁愛さんはつぎのように話しました。
   “最初に日本軍が侵入してきた時は山に逃げて、2年間ほど田んぼにあばら家を作
   って住んだ。
    それから、日本軍の命令で帰順して村に戻った。戻った後は良民証を渡された。
    日本軍が壊した家の跡に粗末な家を作ってそこに住んだ。それから日本軍に道路
   工事などの仕事をさせられた。村から叉河までの道路を造る工事だった。この工事
   をしているとき、仕事をしないといって村人が7~8人殺された。
    保塁をつくったのもここの村人だった。つくった後は保塁に近寄ることはできなか
   った。
    保塁をつくる時、日本兵は20数名いた。
    木橋をつくったのはよそからの人で、200人くらいの民工が働いていた。日本兵
   の土木部隊もいた。
    民家の柱を使って木橋を造った。
    できあがった橋を渡ったことがある。橋はトラックが通ることができた。村の人も
   この橋を渡ったが、牛車は渡ることができなかった。
    日本兵の見張りが立っている前を通る時は「シンシャントゥリ」と言ってお辞儀を
   しなければならなかった。「シンシャン」は先生を、「トゥリ」は敬礼を意味することば
   だ。
    見張りは村の中ではなく、保塁と橋の脇に立っていた。
    若い女性が日本兵によってたびたび乱暴された”。

                          キム チョンミ、斉藤日出治、佐藤正人
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羌園村で

2013年04月20日 | 海南島史研究
 3月26日午前10時半すぎに、わたしたちは保平村から羌園村に向かいました。保平村から省道311号線を西に2キロほど行くと、左側に姜園村と書かれた大きな門が見えました。その門をくぐって村道を南に5キロほど行くと羌園村の中心部に着きました。羌園村は、いまは、姜園村と書かれることがおおくなったそうです。
 わたしたちが、羌園村を訪ねたのは、鐘春「日寇侵占羌園村始末」(政協海南省昌江黎族自治県委員会文史資料組編『昌江文史』 第5輯、1993年5月)を読み、この村で日本軍がおこなった事実を村人に聞かせてもらおうと考えたからです。
 羌園小学校の近くで出会った柏良紅さんに、「日本軍が村に侵入した時のことを知っている人がいませんか」と尋ねると、「近くに100歳近い人がいる」、と言って、柏良茂さんの家まで案内してくれました。歩きながら、柏良紅さん(1937年生)は、「わたしの父の柏卓要は日本軍に殺された。そのとき父は24歳か25歳だった」と話しました。
 柏良茂さんは留守でしたが、柏良紅さんが探しに行ってくれました。
 戻ってきた柏良茂さんは、つぎのように話しました。
   “日本軍がきたときは24歳くらいだった。
    この村には遊撃隊がいて日本軍と闘ったが撤退せざるをえなくなった。そのとき、わ
   たしは4人の仲間と遊撃隊に協力して銃を穴に隠した。
    5人が日本軍につかまり、武器をどこに隠したか聞かれたが、だれも答えなかった。電
   気拷問をかけられた。5人は一人ひとり別々に尋問された。それぞれの言っていることが
   くい違うと言って、木の棒で何回も殴られた。
    5人のうちのひとりが、村のはずれにあった大きな樹につるされ、なんども上にあげた
   り下にさげられたりして殺された。殺されたのは、ここにいる良紅の父親の卓要だ。わ
   たしのひとつ年上だった。朝つかまってつぎの日に、わたしを含む4人は釈放された。日
   本軍は、わたしたちが隠した武器を見つけることができなかった。
    村で殺された者は、そのほか10人ほどいた。殺された人は、日本軍に襲われた時逃げ
   遅れた年寄りが多かった。殺された人の名前は憶えていない。
    その後、日本軍の仕事をさせられた。
    日本軍は村人に望楼を作る仕事をさせた。望楼ができるまで、はじめ日本軍は昌化江
   の川辺に駐屯していたが、まもなく村の中に入ってきて、民家を何軒も占領して、そこに
   住みついた。家を日本軍に占領され追い出された人たちは、別の家に住まなくてはならな
   くなった。
    村人は、河から日本軍が住む民家まで水運びをさせられた。わたしも運ばされた。日本
   兵は馬にのって監督していて、水を運んでいる人が歩くのが遅いといって、とげのある
   木でなぐった。
    望楼は1か月ほどでできあがった。望楼ができると、日本軍は望楼で暮らすようになっ
   た。だがこの期間はわずかで終わった。望楼は円形の建物で、3階建てだった。望楼は、
   日本軍がいなくなったあとすぐに小学校を建てるときに壊した”。
                                    キム チョンミ、斉藤日出治、佐藤正人
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保平村で 2

2013年04月19日 | 海南島史研究
 符鍾春さんは、つぎのように話しました。
   “保平の日本軍守備隊には、望楼、日本兵の宿舎、司令官の住居、地下倉庫、妓院、監
   獄、病院、井戸などがあった。発電所もあったらしく、電気があった。
    望楼のレンガは保平のレンガより大きかった。日本軍がどこからか持ってきた。望楼
   の東側に日本兵の宿舎があった。地下倉庫には肉や魚が入れてあった。
    インド人もいた。インド人は勝手に動くことができないようだった。色が黒く背が高
   かった。
    わたしの家は父がおらず、母と3人の兄弟と1人の姉がいた。3人の兄弟はみんな日本軍
   のために仕事をさせられた。
    わたしがさせられた仕事は水を運ぶことと、家から鍬をもてきて土をとって叉河まで
   の道路を盛り上げることだった。回りは密林のようだったので樹をきったり草刈りもさ
   せられた。
    子どもだったが、家に父がおらず母だけだったので、保長と甲長に指示されて、わた
   したち兄弟が大人の代わりに毎日仕事をさせられた。仕事の監督をしたのは日本人で、
   村の中では銃を持っていなかったが、村の外では銃を持っていた。
    賃金はもらわなかった。たまに塩が少し支給されただけだ。食事も与えられなかっ
   た。家が近かったので昼に家に戻って食べた。
    わたしは直接乱暴されたことはないが、兄が見張りの前を通った時「シンシャントゥリ」
   という挨拶をしなかったと言ってひどく殴られ、その後体に電流を流され、気絶すると
   水をかけられてまた乱暴された。そのとき兄は結婚していた。
    日本軍に捕まえられた峨港村の人(20~30代)が裸にされ、長椅子にあおむけに体を縛
   り付けられて、剣で腹をえぐられて殺された。その人が殺されるところを見せられた。
    わたしの知らない人だった。国民党か共産党の人ではなかったか。あのとき日本兵
   は、村人を集めて見せた。日本兵は殺すまえに、その人の服を全部脱がせて裸にした。
    この人は殺されるとき声を出さなかった。子どもや女性もふくめ1000人以上の人が見
   ていた。日本兵は8-10人くらい見ていた。その後怖くてみんな逃げたので、遺体はどう
   なったかはわからない。この人が殺されたのは、望楼から東に100メートルほど離れたと
   ころだ。
    村の女性が日本兵に辱めを受ける事件もたびたびあった。これは聞いた話だが、昨年
   亡くなった女性は、当時日本兵に乱暴され、乱暴されたとき黒い染料を日本兵の服にな
   すりつけた。軍服が汚れているのを見つかった日本兵は、処刑された。それは強姦した
   ためというよりも、軍服を汚したことをとがめられて処刑されたのではないか。
    日本軍守備隊の敷地の周囲には濠が掘られ、鉄条網で囲われていた。出入り口は1か
   所で、昼も夜の日本兵が監視していた。
    わたしは、石碌で働いたことがある。この村から石碌に働きに行かされた人はたくさ
   んいたが、みんな死んでしまった。
    村から石碌までは、叉河までは歩いて行き、そこから石碌まで汽車に乗った。
    石碌では、マラリアでたくさんの人が死んだ。日本兵は、流行をおそれてマラリアに
   かったと思う人を生きたまま火で焼き殺した。保平の村人で焼き殺されようとしたとき
   に逃げて村まで戻った人もいた。
    保平の日本軍守備隊の妓院の女性はあまり外に出なかった。女性が10人~20人くらい
   いたと思うが、人数ははっきり覚えていない。海南島の女性が多かった。那大や保平の
   女性もいた。あまり外にでなかった。もようがきれいな服を着ていた。 
    妓院の近くに日本軍がつくった小さな病院があったが、そこの日本人の医者のためい
   村の女性が何人かつれていかれたことがあった。わたしは、妓院の女性と話をしたこと
   はない。日本軍のために水を運んでいるときに見ただけだ。
    保平には、日本語学校があった。わたしの3番目の兄はこの学校に通っていた。日本人
   と地元の中国人が教師となって、主に日本語と漢語を教えていた。この兄はいま病気で
   声がだせない。
    日本軍は悪いことばかりをした。病院を作っても、それは日本兵のための病院で村人
   のためではなかった。
    日本軍が敗けて出ていったのは、夜中だった。こっそり出て行った。武器をトラック
   に積んで村から出て行った。
    もうこれ以上、日本軍のために仕事をさせられずに済むと思い、うれしかった。
    わたしはそのあと結婚し、20歳になってようやく小学校に行くことができた。
    占領時に日本軍の会社の倉庫があったところが小学校になった。そこの小学校に4年間
   行き、その後海尾の中学校に3年間行った。そして小学校の教師になり、国語や数学を教
   えた。そのあと白山馬村の小学校の校長になり、退職してからここに住んでいる”。

 符鍾春さんに話を聞かせてもらったあと、峨港村の人が殺されるところを見せられたという場所に案内してもらいました。
 はじめに符鍾春さんは、保平小学校の東門まで連れていってくれ、門の内側の地面を指して、
   “ここに日本軍の監獄があった、監獄は10人~20人ほどが入る細長い部屋で、監禁され
   ていた人は、木の足かせをはめられてい”
と言いました。監獄の北にインド人の宿舎があったそうです。
 東門をでて東に20メートル行き、最初の角を左(北側)に曲がって30メートルほど行ったところが、峨港村の人が殺された現場でした。その場所から道沿いにすこし離れたところが当時の保平村の中心だったそうです。
                                     キム チョンミ、斉藤日出治、佐藤正人
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保平村で 1

2013年04月18日 | 海南島史研究
 3月26日早朝、わたしたちは、東方市内を発って、昌化江北岸(右岸)の下流域の村むらを訪ねました。昌化江河口の最大の中洲全域が旦場村です。旦場村を含むこの地域における日本軍・日本企業の侵略犯罪の実態をすこしでも詳しく「調査」するのが主目的でした。
 はじめに、昌江黎族自治県十月田鎮保平村を訪ねました。                       
 中国人民政治協商会議海南省昌江県委員会文史資料組織編『昌江文史』第五輯(1993年5月)に、陳国文「日寇侵保平村的情況簡介」が掲載されています。
 わたしたちが、はじめて保平村を訪ねたのは、2年前の2010年5月27日でした(このブログの2010年6月2日の「海尾村 保平村」、6月18日~20日の「保平村」1~3をみてください)。
 保平村は、石碌鉱山と日本海軍横須賀鎮守府第4特別陸戦隊司令本部が設置されていた北黎を結ぶ日本侵略期の幹線道路の中間に位置しており、1943年3月の時点では、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の最大規模の守備隊本部が置かれていました。『海南警備府戦時日誌』に含まれている「陸上部隊兵力配備要図」(1943年3月1日現在)には、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の守備隊本部は28個で、兵員数は、保平82、儋県80、黄流70、楽安34、白馬井32、感恩31と書かれています。
 3月26日に十月田鎮を通過して、わたしたちが保平村に着いたのは午前11時ころでした。
保平村委員会を訪問し、梁世文副主任に日本軍保平守備隊跡に案内してもらいました。
 保平守備隊があった場所は、いまの保平村の中心部にある保平村委員会から1キロほど南の保平小学校の敷地になっていました。
 校長の陳秀平さん(1966年生)から話を聞くことができました。
 小学校の本校舎の後ろの位置に、日本軍の2階建ての望楼と地下倉庫があり、その後ろに兵営があり、兵営の左に隊長の住む建物があったそうです。兵営の右には、病院があり、兵営の後ろには「妓院」があり、その後ろに倉庫があったとのことでした。
 現在は、日本軍守備隊本部の建物の痕跡は残っていませんが、本校舎の前の椰子の木を指して、陳秀平さんは、
   “これは日本兵がうえた木だと、父から聞いたことがある。この木は、この地域の椰子
   とは違う種類の木だ”
と言いました。陳秀平さんの父の陳聖才さん(1928年生)も保平小学校の校長をしていたそうです。陳聖才さんが書いた「保平小学校基本情況簡介」には、
   “保平小学校は、1939年につくられた。海南島に侵入してきた日本軍がつくった「奴化
   教育学校」だった。保平村の西側約100メートルのところにつくられ、規模は1-3年級
   だった。
    1945年の日本投降後、私塾学校となり、1946年に保平中心学校となった。この時校舎
   は保平村の南に移された。1958年にさらに保平村の西南に移された。このときの教師の
   宿舎は1940年代に日本軍がつくった望楼だった。教室は村人が力と金をだしてつくった3
   軒の平屋と3軒の草葺の家で、6学年で、学生数が数十人の「完整的完全小学」だった”。
と書かれていました。

 梁世文さんに案内されて、保平小学校の敷地内のかつて日本軍の兵営があったところに建てられている家に住んでいる符鍾春さん(81歳)に話を聞かせてもらうことができました。
                                   キム チョンミ、斉藤日出治、佐藤正人
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旦場村の追悼碑 4

2013年04月17日 | 海南島史研究
 謝良昌さん、李永賢さん、文益夫さんらが、3月25日午後3時半から、「日寇惨殺旦場同胞 (哀嘆長恨歌)」を聞かせていただく機会をつくってくれました。
 会場に着くと、東方市内に住む旦場村出身のひとびとが100名以上集まっていました。
 旦場村委員会書記の文益夫さんのあいさつのあと、文昌強(70歳)さんが歌いはじめました。聞いている村の人たちの中には、涙ぐんでいる人もいました。
 続いて、日本軍による虐殺を語るもうひとつの民歌「火、火、火、日本軍に焼かれた火、血、血、血、日本軍によって流された血」を当時18歳だった許瑞勤さん(92歳)が歌いました。
 会場に来ていた王永效さん(1943年生)から話を聞くことができました。李杰斌・李英挺編『故郷 旦場』(2012年)に掲載されている「日寇惨殺旦場同胞 (哀嘆長恨歌)」は、王永效さんが「整理」したものでした。王永效さんは、つぎのように話しました。
   “わたしは小学生のときに、この歌を聞いた。
    この歌をつくったのは、文天性さんだ。文天性さんは、目が見えず字も知らなかった
   が、この歌をつくり、歌った。文天性さんがこの歌をつくったのは、1947年だったという。
    わたしは、文天性さんが語り、歌う歌を、文字にした。文天性さんは、1983年に83歳
   で亡くなった。
    その後、わたしは、文天性さんの長男の文秉献さんと謝良明さんらの助けをかりて、
   この歌の歌詞を整理しなおし、2011年6月に完成させた。
    2007年の夏に海南日報の記者が旦場村を訪ねて来て、この歌のことを記事にしたこと
   がある”。
                                    キム チョンミ、斉藤日出治、佐藤正人


 以下は、3月25日に王永效さんが話していた2007年7月2日の『海南日報』の記事全文です。この記事を書いた陈耿記者は、昨年10月30日に海口博物館に取材に来て、「日韓学者来瓊調査日軍侵瓊史」(『海南日報』10月31日号に掲載)を書いた記者です(このブログの2012年11月21日の「日韓学者来瓊調査日軍侵瓊史」をみてください)。

http://news.folkw.com/www/qqfs/095354210.html
http://news.folkw.com/www/qqfs/095354210_2.html
http://news.folkw.com/www/qqfs/095354210_3.html
http://news.folkw.com/www/qqfs/095354210_4.html
「福客民俗网」 添加日期:2007-7-2 9:48:00 作者:陈耿 卞王玉珏 新闻来源:海南日报
■海南昌化江下游---“村人”讲“村话”唱“村歌”
  昌化江下游两岸,生活着这样一个群体,他们对外自称为“村人”,讲着一种独特的方言——“村话”,他们还有独特的文艺形式——口头传唱的“村歌”。
     【相片】东方三家镇玉雄村80岁的孙兆纯老人,收集、整理和创作了大量的村歌文本
  在海南岛,有用海南方言演唱的琼剧、歌曲,用黎语和苗语歌唱的民歌,用儋州话演绎的调声,用临高话抒情的哩哩美,还有用军话吟咏的军歌,但很少有人知道和关注村歌。作为一种世代传唱的民歌,至今还没有人对村歌做过专门的研究和调查,这不能不说是遗憾。
  “东岸流水过西岸,南山风吹有山云;不唱三皇并五帝,且唱英台好姑娘……”田间地头,只要有心情,有感觉,村人总会不经意地用母语村话,哼起流传在他们当中的民歌。
  然而,村歌源于何时,传唱了多少年,村人们自己说不清楚,目前也无据可考。
     【相片】村人重视教育,再穷再苦,他们也要送孩子上学 图片由本报记者陈耿摄
★得闲就把村歌唱
  6月17日下午,东方市三家镇玉雄村小学放学后,村里几名歌手来到校园里,向校长李立炬借了音响设备,摆出阵势唱起村歌。一开始,观众还只是小学生,后来歌声吸引了很多村民,最后,从地里回来的人们也闻讯到,把小小的玉雄小学挤得水泄不通。
  没有配乐,只是清唱,但歌手们唱得投入,观众们听得专注。悲伤的歌曲叫人动容,诙谐的曲目让人捧腹,尤其是那些嬉闹笑骂的男女情歌对唱,更引起笑声阵阵。
  2个多小时过去了,天色慢慢变,歌手们也要各回自家,但观众们还恋恋不舍,还想多听几首呢!
  这次对歌的带头人是一位60岁的农妇吴坤荣。吴坤荣现随女儿住在八所,为了对歌,几天前她便回村发动另外2名歌手蒲国英和赵香月,还邀请了她的老搭档——附近长山村的男歌手文国风。
  “像这样的歌会多久有一次呢?”记者问。
  “不定的,有时间就唱,一般在农闲时,农忙时谁还顾得上唱歌呀?”吴坤荣说。 吴坤荣原名吴云初,但乡亲们更喜欢叫她的小名“白提”。吴坤荣21岁丧夫,独自抚养2个女儿成人。尽管身世坎坷,但她性情爽朗,每有歌会必见她的身影。

  “正月海水喜洋洋,二月燕子站高堂,
  三月桃花开半朵,四月正式桃花庄。
  五月轮船跑大海,六月摇扇扇风凉,
  七月秋风渐渐凉,八月秋整合衣裳。
  九月又逢重阳节,十月日短夜间长;
  十一月来又到冬,人人有双妹房空。
  十二月来又到年,神龛蜡烛亮厅堂;
  家家都喝新年酒,我夫做客不团圆。
  脚踩火灰都见冷,难为我夫走海旁。
  问妹贵姓谁家女,缘何流泪在河边?
  当初嫁夫十八天,夫离我去十八年。
  难耐公婆相打骂,原是邻舍有虚言。”
  
  这是一首传唱多年的 《四季歌》,也叫《啼哭歌》。唱的是一位丈夫长年跑海运的少妇,独守空房之余又受到公婆误会打骂,跑到河边伤心啼哭的境遇,颇有点 《孔雀东南飞》的韵味。吴坤荣孀居已近40年,每每唱起这首 《四季歌》,总能感同身受,泪流满面。 吴坤荣嗓音甜美,音域很宽,尽管已是花甲之年,如果只闻其声,不见其人,你会以为是年轻女子在唱歌。虽说文化程度不高,但她记性极好,一首上千字甚至几千字的长歌(一般写村史或家族史),她能记得一字不差。
  采访时,让她随便唱几句,不想她脱口而出:“记者陈耿到咱村,调查村人和村歌……”竟把记者唱进了歌里!
     【相片】摄于北岸昌江昌化镇旧县村

★村歌的“三根顶梁柱”
  在昌化江下游的村话村落中,有3位村歌“明星”,那就是吴坤荣和文国风,还有玉雄村一位80岁的退休教师孙兆纯,有人把他们称作传唱村歌的“三根顶梁柱”。  
  吴坤荣和文国风经常被其他村落请去唱歌,有时一唱便唱到深夜,方才曲终人散。今年“五一”,四更镇下荣村办了一台文艺晚会,就请了他们去唱村歌,内容都是该村的历史、人物和特产等。  
  文国风今年50岁,皮肤黝发亮,骨架清瘦但很结实。与快人快语的吴坤荣不同,文国风沉默寡言,采访时半天挤不出一句话。可一唱起歌,他便手舞足蹈,声情并茂,而且善于即兴创作,语言幽默,很能调动场面气氛。  
  吴坤荣和文国风有一个共同的特点,那就是他们平时注意收集各村的最新信息资料,所以到每个村唱歌,都能把该村的方方面面提及、唱透,令人叹服。
  年老的孙兆纯已经唱不了歌,但当地一些革命家庭和孤寡老人,还常请他编写家族史和身世史,有时外村举行歌会,人们也会请孙兆纯到现场指导或即兴作词。10年前,他还完成了一首 《海南历史歌》,洋洋几千言,写到了海南的历史、文化、名人、地理和风物,可惜至今还没人唱过。
     【相片】吴坤荣(左)和文国风事30多年的村歌搭档

★低沉平实的村歌
  “正月初一立秋千,唱一首歌贺新年;  
  秋千好打歌好唱,唱过十五皆团圆。”
  这是每逢春节村人常唱的《秋千歌》。对于村歌这一民间艺术形式,从未有人进行过专门和深入的研究,倒是东方三家镇人符昌忠在《海南村话》一书中有过简单介绍。
  书中提到,村歌主要有秋千调、对唱调和吟唱调等,除了世代传唱的优秀山歌,有许多歌谣是在农闲时举行的对歌中即兴创作的。村歌一般以七言四句居多,也常有其它句式出现,有的讲究韵律,但很多只讲平仄;节奏较为自由,多用“比”和“兴”的表现手法。
  通过实地调查录音和文本收集,记者从内容方面对村歌进行了初步的归类,主要有感怀身世、记述历史和生产生活三大类。
  感怀身世和记述历史的村歌篇幅一般都很长,往往一吟唱就是数小时,身世坎坷的老人比较喜欢听这样的村歌,常见的歌名为《泣叹苦难歌》和《自叹血泪歌》。虽然不算悦耳,但这些长歌颇有史料价值。有一首《哀叹长恨歌——日军惨杀旦场同胞》,唱的是1939年农历九月廿三,日寇在旦场村屠杀该村老少93人的历史事件,这就是海南革命史上有名的“旦场惨案”。歌里还提到了很多细节,弥补了志书中的空白。
  而让人喜闻乐见,能够琅琅上口的,还是那些反映生产生活的村歌。“耍耍又是一年过,人无两次耍风流;月过十五光明散,人过中年万事休。”这是一首劝说人们珍惜时间的村歌,已经在昌化江下游两岸流传了许久,如今还常常有人唱起。像这样长唱不衰的村歌,还有《四季歌》、《十月怀胎》、《冬天难熬》、《七月烧衣节歌》和《梁山伯与祝英台》等。而那些充满生活情趣的村话民歌更是数不胜数,光吴坤荣一人就收集、整理了400多首,其中绝大多数为男女对唱的情歌。
  和很多民歌不一样,村歌腔调大多平实和低沉,甚至可说是凄婉,哪怕是诙谐的部分,如不是参照演唱者的表情、动作,或听懂它的内容,你根本笑不起来。
     【相片】每一次的歌会,总是人山人海

★村歌会失传吗
  在海南岛,有用海南话演唱的琼剧和歌曲,用黎语和苗语歌唱的民歌,用儋州话演绎的调声,用临高话抒情的哩哩美,用军话吟咏的军歌等,但很少有人知道和关注用村话吟唱的民歌——村歌,连省非物质文化遗产保护中心的工作人员,也只是听说过村歌,并未对其做过调查或评价。
  在流行文化大行其道的今天,村歌这一民间艺术形式还有多大的生存空间?它今后的命运又将如何?
  现在,喜欢村歌的都是些中老年人,只有极个别的年轻人爱听和会唱,这不能不引起一些老人的担忧,生怕村歌有朝一日突然消失。因此,像玉雄村的孙兆纯、吴坤荣,红草村的赵功文和旦场村的王永显等老人,便专门用文字把歌词记录下来,而此前人们吟唱村歌根本不需要文本,全靠记忆烂熟于心。
  其实,在说村话的55个村庄中,经常用村歌来自娱自乐的村落,如今只剩东方三家镇的玉雄、三家、酸梅,四更镇的长山、居多、下荣、土地和旦场,以及昌江海尾镇的进董,昌化镇的旧县、大风、浪炳和光田。但在昌江,已经很难找到会唱村歌的人了,因此,北岸的人要想听歌,还得邀请南岸的歌手去表演。
  村歌传承青黄不接的现状,不能不让人担心有一天它真的会失传!  
  (鸣谢:东方市委办秘书长陈小航、史志办副主任黄文、琼西中学符应勇老师和广东技术师范学院民族学院副研究员符昌忠)
  流传在昌化江下游的村话,又称“哥隆话”。上世纪五十年代起,这种有着特殊语法结构和构词方式的方言,引起了专家的关注

★村话:一种奇特的“混合语”
  从前,当地说其它方言的居民跟村人交往时,发现他们有2个发音——“哥隆”(“隆”发第一声)的使用率很高,因此把他们的方言称作“哥隆话”,讲村话的人则被称为“哥隆人”。而“哥隆”,在村话中意为“大哥”。
  采访中记者注意到,村话中倒装句很多,比如把“大哥”叫“哥隆”,“符老师”称为“师老符”,“桌底狗”(指那些好吃懒做的人)读作“狗底桌”。
  在村话中,类似这样语法结构的语言现象还很多。由于发音迥异,村话对于一个外来者来说,听起来就像是一门外语。

★掺杂多种方言词语
  中国社会科学院民族研究所欧阳觉亚先生通过比较研究,发现村话里的确掺有很多方言词语,有些是汉语方言词语,有些是粤方言的,还有些是客家话或海南话的,说明他们曾经与说这些方言的人接触过。比如,村话的数量词,从1至6是自己原来的词,从7至10以及百、千、万都是汉词。
  海南方言研究者、海口政协文史委主任陈波认为,这是语言和方言中的“借词”现象,由于村人现在的生活区域,原先通行的可能是黎语,后来受其它方言,如临高话和海南话的影响,才逐渐形成现在听到的村话,是黎汉长期杂居的结果。

★属壮侗语族黎语支
  对村话的研究始于上个世纪五十年代。1957年,中国社会科学院民族研究所研究员梁敏在《海南“村话”和“临高话”调查简报》中,曾简略介绍过村话。
   1983年,原东方县黎族干部符镇南与欧阳觉亚,在深入调查和研究之后,指出村话不是汉语的方言土语,也不是黎语,而是与黎语很接近的一种语言。5年后,符与欧阳联合发表《海南岛村话系属问题》,认为村话属于汉藏语系壮侗语族黎语支。
   符昌忠,现年44岁,广东技术师范学院民族学院副研究员,东方市三家镇红草村(村话村落)人,研究自己的母语已有20年。1986年,符昌忠发表了《海南岛“村话”构词特点初探》;10年后出版《海南村话》一书,列举了3000多条村话常用词,还与其它亲属语言作了比较,被学界认为是“第一次向人们介绍了村话的详细情况”。
  在符昌忠看来,村话属于汉藏语系壮侗语族黎语支已成定论,从语言的实际情况来看,也可以说它是一种“混合语”,既有与黎语同源的成分,也有汉语成分,还有不少村话独有的成分,但它的“底子”还是古百越语,因为其语法结构和构词方式,与古代百越族语言极其相似。

★一门独立的语言
  有关村话的研究成果不断。1998年,欧阳觉亚又出版了《村语研究》一书,在提法上一改以往的“村话”,开始将这一方言称作“村语”。“村语”和“村话”有什么区别?
  6月8日,记者电话联系了远在北京的欧阳觉亚先生。他解释道,经过进一步的系统研究,语言专家们发现村话有自己独立的语言体系,它与黎语比较接近,也有汉语的特点,但独有的成分居多,属黎语支里一种独立的语言,而不仅仅是一种方言;按国际学术惯例,在提法上“村语”要比“村话”规范,也更能体现它在语言大家庭里的地位。 而符昌忠从2007年起用“哥隆语”来作为村话的学术称谓,目的是为了避免指称不清,因为海南岛方言中,光在西部被称作“村话”的就有临高话、儋州话、村话等。
  说村话的村人主要分布在昌化江北岸昌江的昌化、海尾和十月田,以及南岸东方的三家、四更和八所等乡镇,人口约10万

★谜一样的村人
  大约在唐宋时期,由于战争的原因,一批汉族军士漂流到海南岛昌化江入口处一带定居,自称为“村人”,他们与当地人通婚后,放弃了原来的语言,逐渐形成了一种独特的非汉语方言,随着时间的推移,这种语言逐渐发展成为今天的村话。
  这是中国社会科学院民族研究所研究员欧阳觉亚,对村人来源和村话成因的一种假想和推论。但假想毕竟只是假想,村人到底是怎样一个群体?

★村人根在何方
  村人主要分布在昌化江北岸昌江的昌化、海尾和十月田,以及南岸东方的三家、四更和八所等乡镇,人口约在10万左右,他们居住的区域南北相距约30公里,东西距离20余公里。
  村人的姓氏有任、裴、董、杜、谢、袁、汤等26个,其中符、文、赵、吉是大姓,他们自称祖先来自福建、河南和江西等地,在族谱和墓碑上都有记载。 在村人的历史源流问题上,广东技术师范学院民族学院副研究员符昌忠(三家镇红草村人)也坦言,由于过去没有人做过系统的调查研究,历代志书也未见专门记载,因此至今难以查考。
  树有根,水有源。关于村人的祖先是何时从何地迁移到昌化江下游两岸的,目前还只能说是一个谜。

★爱读书的村人
  对村人的性格,东方市琼西中学的符应勇老师(三家镇红草村人)的概括也许比较客观:村人吃苦耐劳,这从他们每天朝出夕归,辛勤耕作的干劲看得出来;另外,他们有一股不服输的“倔劲”,读书,干革命,都是如此。 村人重视文教,这在东方、昌江是出了名的。他们再穷再苦,砸锅卖铁也要送孩子上学。对村人来说,一个家族最风光的事不是有钱,而是读书人多。
  在讲村话的村落中,因读书人多而出名的有东方市四更镇的长山村、三家镇的红草村,以及昌江昌化镇的浪炳村。红草村人、原中国人民公安大学教授赵永琛,浪炳村人、留美博士李朝弟,在当地无人不晓。
  说到村人闹革命,东方市史志办副主任黄文如数家珍:“在抗日战争和解放战争时期,以老干部赵光炬(四更镇英显村人)为代表,村人中涌现出了一批优秀的革命先驱,有足智多谋、英勇善战的琼崖纵队六团军事指挥员赵履科(三家镇三家村人,1949年牺牲时仅31岁),有铁骨铮铮、宁死不屈的原崖县区委书记陶世民(英显村人,1945年被日寇杀害时仅30岁)…….” 黄文潜心研究海南西部革命史多年,先后在《中国史志与档案》、《海南革命史研究》等杂志和报刊,发表了40多位西部革命人物的事迹,其中村人就有15人。
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旦場村の追悼碑 3

2013年04月16日 | 海南島史研究
 中共海南省委党史研究室編『海南英烈譜』〈海南出版社、2000年12月〉に抗日戦争時期にたおれた英烈の7981人の名前と略歴が記されていますが、同時期に、日本軍によって殺害された海南島民衆の名は、海南島の公的機関によっては、ほとんど明らかにされていません。
 謝良昌さんによると、旦場村の追悼碑を建立する運動が本格的に始められたのは7年ほど前からで、犠牲者の名前、年齢、「親縁関係」などの調査を始めたのは、2011年からだとのことでした。犠牲者の名簿(「旦場9・23惨案殉難同胞登記表」)の作成が、1939年から70年あまり経過してようやく行なわれることになったことについて、謝良昌さんは、
   “村ではむかしから犠牲者の名を調べてきていたが、中心になる人が多忙だったことも
   あり、定年になってようやく本格的な活動ができるようになったからだ”
と話しました。
 日本敗戦の3か月半前、1945年農暦3月21日(普通暦5月2日)に、海南島万寧市万城鎮月塘村で、日本軍(日本海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊万寧守備隊)によって殺害された190人の村民すべての名を刻んだ追悼碑を、その63年後、2008年農暦3月21日(4月26日)に、月塘村の人びとが追悼碑を建立しました。
 この190人の「受害者」の名は、月塘村の朱振華さんや朱学基さんが1990年代から調査してきていました。
 月塘村の追悼碑については、このブログの2007年6月4日~12月5日の「月塘村で」1~13、2007年8月10日の「月塘村の追悼碑建立に参加を!」、2007年9月2日~9月29日の「月塘村虐殺 ソンミ村虐殺」1~8、2007年10月15日の「籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑公告」、2008年2月11日の「月塘村の追悼碑・紀州鉱山の追悼碑」、2008年4月26日の「2008年農暦3月21日」、2008年6月13日の「海南島月塘村の追悼碑 虐殺63年後に建立」、2008年8月4日~8月7日の「月塘村全村民の「致日本国政府要求書」」1~2、2011年3月17日の「【第19次来海南調査日軍侵瓊罪行】2 万寧月塘村」、2011年7月4日の「木本町・月塘村・紀州鉱山」、およびドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』(海南島近現代史研究会制作、2007年。新版2008年)をみてください。

 犠牲者全員の名を刻んだ旦場村の追悼碑は、村民が大虐殺されてから74年後に建立されようとしていますが、村人の積年の思いを感じました。
 海南島では、人民政府によって英烈の名が刻まれた紀念碑・追悼碑は建立されていますが、日本軍・日本企業によって殺害された人たち一人ひとりの名が刻まれた追悼碑は建立されていません。
 旦場村の犠牲者一人ひとりの名を刻んだ追悼碑は、人民政府によってではなく、旦場村の人たちによって建立されようとしています。
 犠牲者すべての名が刻まれた海南島の追悼碑については、このブログの2013年2月2日の「旦場村で 3」をみてください。

                                    キム チョンミ、斉藤日出治、佐藤正人
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旦場村の追悼碑 2

2013年04月15日 | 海南島史研究
 旦場村のみなさんが、ことし3月に作成した碑文案(初稿)は、つぎのとおりです。

  遇難同胞鮮血和生命凝鋳的歴史永世銘記
  這是鮮血和生命凝鋳的歴史。随着“九・一八”的硝烟、我祖国大好河山被日寇鉄蹄蹂躪。数千万同胞被殺戮。一九三九年二月、日軍侵占海南后、我旦場村民為捍衛民族尊厳、不甘当亡国奴、拒領“順民証”、憤怒的撕破焼毀日本国旗。
  由此、日軍対我村進行滅絶人性的野蛮報復、当年十一月四日深夜(農暦九月二十三日)、全副武装的日軍従水路上岸包囲我村庄、殺害九十三同胞、其中孕婦五人、強奸村姑四人、焼毀民房三十多間、槍劫財物無数……制造旦場九・廿三大惨案。
  歴史決不能忘却、惨劇更不容重演! 為報国難、家仇和民族恨、旦場先烈們在抗日戦争中可歌可泣的事跡永載史冊、他們寧死不屈的革命精神永遠激励着后人、奮発図強、振興中華、反対侵略戦争、維擁世界和平。
  為永恒的紀念、旦場村民立碑銘記。
                    公元二〇一三年三月

 ここには、「旦場九・廿三惨案」について、つぎのように書かれています。
   “1939年2月に日本軍が海南島に侵入し占領してから、旦場村の村民は民族の尊厳をまも
   り、亡国奴となることに甘んじることなく、「順民証」の受け取りを拒否し、日本の国
   旗を引き裂いて焼却した。
    このため、わたしたちの村にたいして、日本軍は人間性をまったく失った野蛮な報復
   をおこなった。この年11月4日の深夜(農暦9月23日)、完全武装した日本軍が水路をつ
   たって上陸し、わたしたちの村を包囲し、93人の同胞を殺害した。その中には妊娠して
   いた女性が5人いた。日本兵は4人の女性を強姦し、30軒以上の民家を焼き、無数の財物
   を奪いつくした”。

 日本では、1939年11月の日本海軍陸戦隊による旦場村虐殺にかんする日本政府・日本軍の文書は公開されていません。
 防衛研究所戦史研究センター史料室(旧、日本防衛研究所図書館)で、海南島に侵入した日本軍にかかわる文書の一部が公開されており、そのなかに、『海南警備府戦時日誌』と『海南警備府戦闘詳報』(計30冊)があります。しかし、『戦時日誌』は1941年12月~1943年11月、1944年3月~7月の分のみであり、『戦闘詳報』も1941年11月から1943年6月までの分が断続的に5日~6月24日)のみです。『海南警備府戦時日誌』・『海南警備府戦闘詳報』以外に防衛研究所戦史研究センター史料室や外務省外交資料館などで公開されている文書のなかにも旦場村虐殺にかんするものはありません。
 海南島で、これまで発表されている旦場村虐殺にかんするものは、「日寇惨殺旦場同胞 (哀嘆長恨歌)」のほかは、わたしたちが知るかぎり、つぎのとおりです。
 ■呉昌雄・符克勤「東方県旦場村惨案」(中国人民政治協商会議海南省東方黎族自治県委員会文史組編『東方文史』第8輯、1993年3月。海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』下〈『海南文史資料』第11輯、1995年8月〉に再録)。
 ■戴澤運「日軍在昌感若干暴行記述」(中国人民政治協商会議海南省東方黎族自治県文史委員会編『東方文史』第10輯〈1995年3月〉。海南省政協文史資料委員会編 『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』続(『海南文史資料』第13輯〈1996年8月〉に再録)。
 ■謝良昌「旦場村今昔」(李杰斌・李英挺編『故郷 旦場』〈2012年〉)。

 中共昌江県委党史研究室著『昌江革命史』(海南出版社、1994年7月)には、
   「(一九三九年)九月十八日那天、董賊在払暁前帯領日軍包囲殺死旦場村逃居野外的群
   衆三百多人」
と書かれていますが(82頁)、これは事実ではないと、旦場村の人たちは話していました。同書巻末の詳細な年表には、旦場村虐殺にかんする記述がありません。
 張一平・程暁華『海南抗日戦争史稿』(南方出版社・海南出版社、2008年4月)の本文には旦場村虐殺についての記述はありませんが、巻末の「海南抗日戦争大事記」には、
   「(1939年)9月23日 日軍以“抗令拒申”為名大兵圧境、包囲昌感(現東方県)旦場院村、
   因該村民衆拒良民証而殺害93人、焼毀民房38間」
と書かれています。
                                    キム チョンミ、斉藤日出治、佐藤正人
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旦場村の追悼碑 1

2013年04月14日 | 海南島史研究
 わたしたちがはじめて東方市北方の四更鎮旦場村を訪ねたのは、昨年11月2日(2012年農暦9月19日)の午後3時ころでした(このブログの2013年1月31日~2月7日の「旦場村で」1~8をみてください)。
 このとき、旦場村の人たちが、日本軍に殺された村人の名を刻んだ追悼碑を建立する準備をすすめていることを知りました。
 この日の午後8時過ぎに、旦場村から東方市内に着いたわたしたちは、旦場村の追悼碑建立の準備を中心になって進めている謝良昌さんと李永賢さんからくわしく話を聞かせてもらうことができました。
 それから5か月後の、こんどの海南島「現地調査」の最初の日、3月25日にわたしたちは再び旦場村を訪問しようと考えていましたが、出発10日前に、謝良昌さんから、“旦場村の人たちが多く東方市にいるので、旦場村にではなく、東方市にこないか”という連絡があったので、東方市を訪問することにしました。
 わたしたちは、1989年にはじめて海南島を訪問しましたが、そのとき東方市にも行きました。東方市は、日本が海南島を侵略した時期には、八所という小さな村でした。石碌鉱山の鉄鉱石を奪って日本に運び出すために、日本軍・西松組・日本窒素は、山中の鉱山から海岸まで約50キロの鉄道と積出港(八所港)を急造しました。この工事で多くの人命が奪われました。八所港の「万人坑」には、1964年に「日軍侵瓊八所死難労工紀念碑」が建てられました(このブログの2006年5月21日の「海南島1998年夏 田独万人坑・石碌万人坑・八所万人坑・朝鮮村」、2008年5月28日~5月31日の 「八所村で」1~4をみてください)。
 東方市は、その北東の昌江黎族自治県、白沙黎族自治県、南の楽東黎族自治県と同じく黎族の人たちが多く住む地域で、1990年代なかごろまでは、東方黎族自治県とされていました。清国時代から1940年代までは、昌江県と感恩県の一部とされており、東方黎族自治県とされたのは、1950年代のようです。

 3月25日午前11時に東方市内の待ち合わせ場所に着くと、謝良昌さん、李永賢さんとともに、旦場村委員会書記の文益夫さん、旦場村委員会主任のまだ20歳代の張恩朝さん、東方中学校の校長をしている謝華さん(謝良昌さんの弟)、東方市の二軽局の局長を退職した文培徳さんが迎えてくれました。
 その席で、追悼碑の建立について、李永賢さんはつぎのように話しました。
   “追悼碑は、昌化江に向かって南向きに建てる。場所は、みんなで決定した。
    碑の正面に、「旦場抗日遇難同胞紀念碑」と刻み、その下に碑文を刻む。
    石の裏面に殺された人の名前を刻む。碑の周囲は樹木や花で囲みたい。
    あなたたちが来た昨年11月には、93名の犠牲者のうち、85人の名しかわからなかった
   が、その後、これまでに90人の名を知ることができた。
    旦場村の交通の便は、いまは悪いが、これからは道路や橋が建設されると思う。
    この碑を外から訪れる人、とくに若い人たちに事件を伝える教育基地としていきたい。
    ことし、74年前に93人が日本兵によって殺害された農歴9月23日(普通暦では、10月27
   日)に除幕式を開催したい”。
                                   キム チョンミ、斉藤日出治、佐藤正人
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