加古川市が制作した「わがまち加古川60」に日岡山にある常楽寺はない。「かこがわ100選」に含めておきたい。
(注)no5の話題も常楽寺(東神吉町)であるが、今日no6の常楽寺は、加古川町大野にある。
常楽寺 *加古川市加古川町大野
正嘉二年(1258)八月、後深草天皇のとき、暴風雨のため同宇は破壊され、一宇だけ残る。
その後、小野文勧僧正によって復興され、堂宇は古(いにしえ)のように造営された。
寺領は三百石であったという。
小野文観(おののもんかん)
上記の記述は、かならずしも正確ではないのかもしれないが、その昔、常楽寺はかなりの規模を誇った寺であったようである。
もう一つ、注目してほしいかヵ所がある。
「小野文勧」である。
その前にもう少し、常楽寺について紹介しておきたい。もとは天台宗であったが真言宗に転派している。
境内には花崗岩の石造物が多く残っている。
これらは、この寺が、もと西大寺系の真言律宗の寺であったことを物語っている。
常楽寺の山門のすぐ西に荒木家の墓所があるが、そこにある宝塔(県指定文化財)は『播磨鑑(はりま)』によれば、「小野文勧が慈母をここに葬った」と記している。
そうであるのかもしれない。
(*真言律宗と石造物については、長くなるので説明を省かせていただきたい)
小野文勧に話をもどす。「文勧」は、「文観」のことであろう。
詳細は分からないが、「小野文観(おののもんかん)」が、この寺で修業したことは、広く、歴史学会でも認められている。
ただ、その後、どんな経過をたどり後醍醐天皇のブレーンになったのかについては、どの歴史書にも詳細な記述はない。
分からないのである。本人は、語りたがらなかったのかもしれないし、記録を残していない。
南北朝時代、南朝の後醍醐天皇とともに日本の歴史を動かした人物である。
文観の名前を分析しておきたい。「文」は文殊菩薩の文であり、「観」は観音の観からその名前としている。
また、彼は「殊音」とも呼ばれた。文殊と観音の後ろの文字からつけた名前である。
どちらにしても、すごい名前である。これだけをみても、文観は自己主張の強い人であることを知ることができる。
常楽寺は焼かれる
さらに常楽寺の歴史を知りたいが、記録が無い。
というのは、このあたりの寺がそうであるように、常楽時も戦国時代・三木別所氏に味方し、信長方の焼き打ちにあう。
そのために、寺の歴史を語る記録類が残っていない。
でも、なんとかして文観を追いかけてみたい・・・・
*写真:常楽寺(加古川市加古川町大野)