尾上神社
「尾上神社と高砂神社」の話をしたい。
物語の事なので、あまり目くじらを立てる必要もないが書いておきたい。高砂神社からクレームがあるのではないかと心配している。
中世(鎌倉・室町時代)の高砂は尾上
『近世の高砂』(高砂市教育委員会)に次のような記述がある。(一部書き改める)
「・・・中世の高砂は、播磨五泊の一つに数えられ、内海の寄港地としての地位を固めていた。
ところが、この中世の高砂の泊(港)は現在の高砂の地ではなく、「播磨名所巡覧図絵」でも「今津の浦口」とあるように、加古川左岸の池田(加古川市尾上町)付近をさしていた・・・」
つまり、中世の今津(現:池田)は、「今津千軒」とよばれ、内海の寄港地として大いに賑わっていた。
その後、今津は加古川の堆積作用により、港は徐々に浅くなり、今津は停泊地としての機能を弱めた。
高砂は、古くは高砂御厨庄(朝廷へ鮮魚を奉納する村)として広く知られていた。しかし、中世の高砂は小さな漁村であった。
「高砂神社」は尾上神社か?
記録は、江戸時代以前、高砂より東岸の今津(尾上)の方が賑わっていたことを語っている。
高砂が猛烈に栄えるのは、姫路城主・池田輝正が高砂の町の建設にあたった江戸時代以降である。
中世の現在の高砂神社のあたりは、陸化が尾上地区より少し遅れ、居住地として若干遅れる。
中世以前は『近政の高砂』が書くように、むしろ加古川の東岸の尾上の方に賑わいがあった。
謡曲「高砂」の話になるが、謡曲「高砂」は、相生の松によせて、夫婦の長寿を愛で、人生の言祝ぐ(ことほぐ)めでたい能である。
作者・世阿弥は、謡曲「高砂」の時代設定を延喜年間(901~923・平安時代)としている。
ここでは、話の内容は省くが、謡曲の時代設定は平安時代である。中世をさらに若干さかのぼる。
とすると、高砂神社付近は、住むことすら怪しくなる。
「高砂神社」を考える時、謡曲・高砂に登場する「高砂神社」は「尾上神社」に軍パイがあがる。
再度、お断りしておきたいが、これは物語である。
*写真:尾上神社