ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

かこがわ100選(25):光念寺

2013-02-28 07:29:11 |  ・加古川100選

   光念寺(こうねんじ)     *加古川町寺家町

012光念寺は『わがまち加古川60選』に選ばれ、江戸時代の俳人・松岡世蘿(まつおかせいら)等を紹介している。

それらの説明は他に譲り、ここでは、光念寺に眠る「鳥尾小弥太」を紹介したい。

     コレラ大流行 

鳥尾小弥太については『ひょうご維新列伝(一坂太郎著)』(神戸新聞総合出版センター)を引用させていただいた。

・・・・・

安政五年(1858)、幕府は日米修好通称条約をむすんだ。

調印から一年後、横浜、長崎、箱館港が開かれて貿易が始まったが、物価高騰等さまさまざまな問題がおきた。

世の尊王撲夷論者たちは、激しく幕府を非難した。

しかも、安政五年夏には、外国船が持ち込んだコレラが発生し、七月に江戸へ入って猛威をふるった。

コレラは、激しい下痢と高熱をともなう急性伝染病で、インドで起こり、ヨーロッパに広がり、日本には文政五(1822)年、長崎から人ってきたとされている。

死亡する確率が高いことから「コロリ」と呼ばれ、恐れられた。

江戸でのコレラの死者数は、安政五年だけで、二万八千余人とも、十二万三千人ともいわれ、正確な数字はよく分からない。

そしてコレラは、なんといっても西洋から入った病気だったため、攘夷熱に油を注ぐことになったのである。

    小弥太、奇兵隊で活躍

017 (本名は中村鳳輔であるが、幕末、鳥尾小弥太の名で活躍する)

安政六年(1859)六月、長州藩主世子(若殿)は、江戸から萩へ帰国する途、これに従っていた藩士中村宇一右衛門は、道中でコレラにかかり、加古川の旅館で数日療養したが、亡くなった。      .

宇一右衛門は「江戸に子どもを残している。そのほかは何も気にかかることはない」と言い残して亡くなり光念寺に葬られた。

江戸に十三才になる長男の鳳輔(ほうすけ)を残していた。

成長した鳳輔は、高杉晋作の結成した奇兵隊に参加し、鳳輔は小弥太の名で外国艦隊相手に奮戦した。        .

維新後、小弥太は陸軍中将、貴族院議員などを務め、子爵に列せられた。

ある日、小弥太は父の面影を偲ぶため、東京から加古川を訪れる。

そして、父の最期を看取った旅館の女房という老婦人に会った。彼女は、父について感慨深げに語ったという。

話を聞いた小弥太は涙を流がし、自分も没したら加古川光念寺の父の墓に葬るよう遺言した。

明治三十八年(1905)年四月十三日、58才で没した小弥太の墓は、希望どおり光念寺に葬られた。

小弥太父子の墓は、「南無阿弥陀仏」と刻まれた高さ二㍍程の塚がそれである。

ところが、昭和40年代に塚は壊され、現在墓碑は無縁仏の中にある。

無縁仏のいちばん高い所にある「南無阿弥陀仏」とあるのが小弥太父子の墓碑である。

光念寺には小弥太の位牌や肖像画等が残されている。

*写真上:光念寺

 写真下:無縁仏にある小弥太父子の墓碑(一番上の「南無阿弥陀仏」と刻まれた墓碑)

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